第122話 プトレマイオス朝エジプトとヘレニズム文化

<年表>

BC332年 アレクサンドロス3世(後の大王)がエジプトを征服。彼はペルシャからの解放者として歓迎された。

BC332年~BC305年 マケドニア王朝エジプトの時代

BC305年 アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)たちの中の一人、プトレマイオスは公式にエジプトのファラオとして即位

BC305年~BC30年 プトレマイオス朝エジプトの時代


 ***


 BC333年、アナトリアとシリアが接するイッソス湾での戦いで勝利を収めたアレクサンドロスは、敗走するペルシャのダレイオス3世の後を追う代わりに、まず自分の支配領域の地固めに力を入れることにした。それには、食糧の余剰生産が可能なエジプトの併合が不可欠だった。フェニキアを服従させた後、BC332年にエジプトに入ったアレクサンドロスは解放者として熱烈な歓迎を受けた。アレクサンドロスはエジプト人ではなかったが、200年近くにわたり断続的に続いたペルシャの苛酷な支配からエジプトを救ったのであり、それはアレクサンドロスを合法的なファラオとして認めるに足る理由となった。そしてリビア砂漠の真ん中にあるシーワ・オアシスのアメン・ラー神殿で、「王は太陽神アメンの息子である。よってエジプトの正当な支配者である」という神託を受け入れた。

 アレクサンドロスはエジプトをマケドニア帝国の州として編入し、エジプトの行政組織の再編成を行い、エジプトに2人の知事を残した。ドロアスピスはダレイオス3世に使えたことのある人物、もう一人はエジプト人ぺテイスィスであったが、彼は行政をドロアスピスに任せると、すぐに辞任してしまった。軍事は2人のマケドニア人のストラテゴス(指揮官)に委ねられた。アレクサンドロス大王に征服されたことで、エジプトでは公用語がギリシャ語となる時代が約1000年にわたって続くことになる。プトレマイオス朝に先立つこの時代はエジプトではマケドニア王朝(BC332年~BC305年)と呼ばれる。


 ローマ世界に吸収されるまでの続く300年間、エジプトはギリシャ語を話すエリートの支配下に置かれたが、それは土着の人びとによっておおむね合法的なものとして認められていた。これはエジプトを新たな進路に乗せた人物の努力と性格によるところが大きかった。その人物こそプトレマイオスである。プトレマイオス朝の下で、エジプトはヌビアに関心を抱く北アフリカの国から、地中海を指向した国家、すなわちその命運が地中海地域の他の列強と分かち難く結びついている国家へと変貌を遂げた。アレクサンドロスの死後数世紀が経つと、地中海世界における権力のバトンは、ギリシャからローマへと渡る。エジプトはその伝説的な富とともに、野心あふれたローマの支配者たちにとって心をそそられる獲物となっていた。エジプトに居住した最後の統治者クレオパトラ7世がローマの将軍マルクス・アントニウスと幸先の良くない同盟を結ぶよりずっと前に、エジプトの命運は定まっていたのである。



(プトレマイオス1世)


「ラゴスの息子」プトレマイオスはBC367年ごろマケドニア王国に生まれた。母親のアルシノエはマケドニア王家と血縁関係があったかもしれない。プトレマイオスは少年のころ、フィリッポス2世の宮廷に奉仕する小姓たちの一団に編入された。そのため彼はフィリッポス2世の息子であり、後継者のアレクサンドロスと出会い、彼ら2人は親しい幼なじみとなった。成人したプトレマイオスは戦場で抜群の働きを示し、アレクサンドロスが王として、エーゲ海の沿岸からインドの密林に到る既知の世界の大部分を征服したとき、その傍らで戦った。卓越した将軍だったプトレマイオスはアレクサンドロスの7人の護衛のうちの1人で、アレクサンドロスの最も信頼する仲間から成る側近の1人に選ばれている。

 BC323年6月、アレクサンドロス大王がバビロンで突然に世を去ったことは、アレクサンドロス大王の帝国とその高官たちを大混乱に陥れた。続く18年間、アレクサンドロスのディアドコイ(後継者)たちが大王の広大な領土の分割をめぐって相争う中、マケドニア政治の複雑な世界にプトレマイオスは巻き込まれていた。アレクサンドロス大王の死の5ヶ月後、プトレマイオスはサトラップ(太守)としてエジプトに着任した。プトレマイオスはアレクサンドロスの異母兄弟で王位継承者のアリダエオス(フィリッポス3世)によってこの地位に任命された。プトレマイオスは44歳くらいだった。プトレマイオスの最大の競争相手はペルディッカスだった。この人物はアレクサンドロスの印章付き指輪を相続していたので、摂政的な国家統帥として帝国を支配するため設置された国策会議を事実上支配していた。ペルディッカスはバビロンを奪うことで自分の立場を強化し、さらにBC322年末ごろにはリビア沿岸のギリシャ人植民都市キュレネの併合に着手する。これはプトレマイオスに対する真っ向からの挑戦だった。キュレネはエジプト本土攻撃のための前進基地となり得たからである。事実、この攻撃は1年後に行われたが、プトレマイオスは迎え撃つ準備ができており、ペルディッカスはメンフィスの直前まで侵入したが、彼の不手際もあり、仲間の将軍たちにより暗殺された。その結果、プトレマイオスはエジプトとキュレネの支配者として認められた。プトレマイオスはまた、バビロンからマケドニアへ運ばれる途中のアレクサンドロスの遺体を強奪し、自分のエジプト支配を正当化するため、エジプトに持ち帰っている。

 しかし、将軍プトレマイオスはなおも戦場における栄光を追い求めていた。続く16年間にわたって彼は遠征に次ぐ遠征を行い、終わりのないかのような戦いの連続のなかで、領土を勝ち取ってはまた失った。フェニキア、パレスティナ、キプロス、そしてキクラデス諸島まで、すべてが勝ち取られ、すべてが失われた。BC306年までには、プトレマイオスは自らの支配を強固にしてエジプトとキュレネで満足することに決めていたように思われる。これらの領土は守り易く豊かであり、その名声については言うまでもなかった。しかし、アレクサンドロスの異母兄弟で王位継承者のアリダエオス(フィリッポス3世)とその継承者アレクサンドロス4世(アレクサンドロス大王の死後に妻ロクサネが生んだその息子)の下では、プトレマイオスはエジプトのサトラップ(太守)にすぎなかった。アレクサンドロスのディアドコイ(後継者)たちのなかにも、王の称号を要求するところまで行った者はまだいなかった。

 君主でありながら中央の王に服従するというサトラップ(太守)の立場は、どちらを代表するのかという問題を引き起こす。それがよくわかるのが、エジプトの神官たちが建てた「太守の石柱」だ。エジプトの指導者となったプトレマイオスがブトの神殿に土地を与えた事実が、記念碑にヒエログリフで記録されている。記念碑の上部にはブトの神々に生贄いけにえを奉げるエジプトのファラオが描かれている。これは神殿に土地を寄付したことを表わしている。カルトゥーシュ(ヒエログリフで刻んだファラオの名前を楕円形の王名枠で囲んだもの)の中が空白になっているが、文章からそこに入るのはアレクサンドロス4世だということがわかる。プトレマイオスはただの太守だ。しかし文章の内容は太守の業績を絶賛するもので、ハババシュというエジプトの王に倣って、ブトの神官たちに土地を与えたのは太守だと書かれている。ファラオの役割を完全に太守が担っているのだ。こうしてプトレマイオスは、自分の後に「プトレマイオス家」の王朝が続く手はずを整えた。プトレマイオス家はエジプトの臣民にとってファラオであり、ギリシャやマケドニアからすると、ヘレニズムの王だった。そこには二面性がある。


 BC309年、アレクサンドロス4世が殺害されてマケドニアの王統が途絶えたそのときに、プトレマイオスは決心したようだ。BC305年11月、プトレマイオスは思い切った行動に出た。彼はまずマケドニアの伝統的なパシレウス(王の称号)を採用し、それから完全なファラオの称号を採用した。王位に就くと、プトレマイオスはナイルの両岸にエジプトとギリシャ混成の力強い文明を創造する仕事に取り掛かった。まず、彼はアレクサンドリアを、古都メンフィスをはるかに凌ぐほどの文化と政治、宗教の一大拠点として発展させ、プトレマイオス朝の支配が地中海方面を指向していることを確かなものとした。彼は自らを神格化さえしたが、完全なエジプト化からは距離を取っていた。ロードス島の人びとが彼に聖域プトレマエウムを捧げ、称号としてソテル(救済者)を献じた。

 プトレマイオスはエジプトという難攻不落の地の中心部の外側に、よく計算された緊張関係、有効な同盟、思慮深く選ばれた拠点を配置した。その後、ナイルデルタの聖域が脅威にさらされるたびに、その阻止に必要な手段を如何に彼が講じていたかがわかる。BC321年にはペルディッカスが、BC306年にはマケドニアのアンティゴノスとその息子デメトリオスが侵入を試みたが、いずれも挫折している。一方、エジプトの外では、プトレマイオスは他のディアドコイ(後継者)たちと違って、際限のない野心による無謀な抗争に引き回されることはなかった。レヴァント地方についても、彼の意図は、これらを服従させることで満足した。ここがエジプトを脅かす可能性のある侵入者が通る唯一の通路だったからである。これはエジプト新王国時代からの伝統的な政策だった。それに加えて、レヴァント地方は、エジプトでは入手できない建築・造船用の木材をエジプトにもたらす地域でもあった。セレウコスは自分の王国に近いレヴァント北部を何度も占領したが、プトレマイオスとその息子プトレマイオス2世も譲ろうとはしなかった。そこにこの2つの王国の絶え間ない紛争の火種があり、6次にわたるシリア戦争の原因があった。プトレマイオス朝がキプロスについて採った政策も同様である。この大きな島はいくつもの小都市国家に分かれていて、プトレマイオスはエジプトに本拠を置いて以来、ここを不可欠の前哨基地と考え、そこの都市国家のいくつかと同盟関係を結んでいた。だからこそ、BC306年にマケドニアのデメトリオスによって奪取されたことはプトレマイオスにとって手痛い敗北であり、彼がこれを奪還するのに10年もかかった。それ以降プトレマイオス朝はローマによって征服されるまでキプロスを守り続けた。

 リビアの古いギリシャ人入植地で、ナイルデルタから西へ1000キロほど砂漠で隔てられ、船も近づきがたいキュレナイカ地方との関係は、さらに難しいものがあった。この地で古くから繁栄し、アレクサンドロスが接触したときは敬意を表明したギリシャ人都市国家群であったが、BC322年にプトレマイオスに服従させられてからも、自主独立の精神を失ったわけではなく、プトレマイオス朝の支配に対してBC312年、BC306年~BC305年と反抗を繰り返した。このキュレナイカをプトレマイオス朝に結びつけるには、軍事遠征を伴った王族間の婚姻が必要だった。こうして成立したプトレマイオス朝との結合は、ローマによって併合されるまで続いたが、その間もいくつかの波乱がなかったわけではなかった。リビアのギリシャ人たちはヘレニズム時代を通じて、政治的自治を保ちながら独自の生き方を続けた。


 プトレマイオス王家は、このようにレヴァント地方、キプロス、キュレナイカをエジプト外における勢力基盤としつつ、その目線をエーゲ海やギリシャ本土、さらにはトラキア(現在のギリシャ北東部とブルガリア南部)にまで向けた。しかし、その場合も彼らが重視したのは、恒久的な支配体制を樹立することではなく、艦隊の補給基地や、軍事と通商を目的とした拠点を確保することだった。それは海上通商と結びついていた王室財政の充実と、プトレマイオス朝エジプトの安全を確保するためであり、東地中海における大国間の力の均衡を維持することであった。この王朝の初めの3代の君主、プトレマイオス1世(在位:BC305年~BC283年)、プトレマイオス2世(在位:BC283年~BC246年)、プトレマイオス3世(在位:BC246年~BC222年)は、こうした柔軟で節度のある政策を追求した。

 初代プトレマイオスは、王を名乗る前のBC322年から死去するBC283年までの実質40年間に、エジプトという肥沃な地から生み出される大量の穀物を基に、外政では威信、内政では安定性を追求する統治の仕組み、そしてこれらの内外の成果を内容あるものにした。プトレマイオスはギリシャ人が居住する地域を中心に土木建築活動を行った。アレクサンドリアの港がBC287年のファロスの灯台の建設によって発展を遂げたのは、彼の治世においてである。またギリシャ本土をはじめ各地から学者や文化人を呼び寄せ、ヘレニズム世界における科学・数学・哲学などの中心都市としてのアレクサンドリアの名声を確立した。繊細な精神と明晰な知性、寛大な性格が、彼をこの王朝の真の創建者たらしめたのだ。プトレマイオス1世はBC283年に84歳で世を去った。アレクサンドロスの後継者たち(ディアドコイ)のうちで天寿を全うしたのは彼1人である。ギリシャ世界の歴史家たちにとって、プトレマイオスの最も偉大な業績は、アレクサンドロス大王の戦争に関して彼が残した権威ある記述だった。この著作は失われたが、それに基づくアリアノスの著作「アレクサンドロス大王東征記」が紀元後2世紀に書かれ残されている。プトレマイオスはエジプト文明の最後の繁栄期となる新時代をもたらした人物だった。



(プトレマイオス朝の黄金時代)プトレマイオス2世と3世


 BC3世紀に王位は父から息子へ順に受け継がれ、各代のプトレマイオスたちは首都アレクサンドリアをギリシャ語圏で最も輝く国際都市に変えていった。プトレマイオス2世(在位:BC283年~BC246年)はBC306年生まれで、父が亡くなったとき23歳だった。彼は父から知的活動への関心や、統治原理を引き継ぎ、国の組織化を達成し、その勢力を小アジアやエーゲ海諸島にまで広げた。第1次シリア戦争(BC274年~BC271年)と第2次シリア戦争(BC261年~BC253年)をセレウコス朝と繰り広げたのは、プトレマイオス2世である。プトレマイオス王家がエーゲ海の支配権にこだわったのは、王朝にとって重要な財源であるギリシャ諸都市向け穀物の輸送路を確保するためであるとともに、エジプトを海から脅かす恐れのあるあらゆる艦隊の進出を阻むためだった。プトレマイオス1世によって樹立されたこの国が、息子の2世の下でさらに発展した様は、パピルス文書によって明らかである。アレクサンドリアの壮麗な宮殿、大規模な港湾施設、整った都市景観、学術研究機関ムセイオンと付属する大図書館、そしてカルナックなどに建てた壮大な神殿などがその発展した様相を表わしている。アレクサンドリア沖のファロス島の大灯台はプトレマイオス2世が完成させ、世界の七不思議の一つとなった。完成時の高さは134メートルあった。また彼は、父親の意思を継いで、地中海世界の有能な学者、芸術家、文人をアレクサンドリアのムセイオンと大図書館に招き、学問と文化の黄金時代を築いた。この時代に文学や学問が花開いた実例の一つが、エジプト人マネトが編纂したファラオの年代記「エジプト誌」である。

 またプトレマイオス2世は、エジプト王朝時代に行われていた支配者崇拝を新たな形式にして採用した。まず姉のアルシノエ2世と結婚して妻を神格化した。この措置はこの後、プトレマイオス朝のすべての王に引き継がれ、しかもギリシャ人からもエジプト人からも支持された。その証拠に、プトレマイオス朝時代は王妃であるアルシノエ、ベレニケ、クレオパトラの3人と同じ名前の人が多かった。さらにプトレマイオス2世は、プトレマイオス1世がメンフィスに埋葬したアレクサンドロス大王の遺体をアレクサンドリアに移し、自分の父母の霊廟に合祀した。以後、王を祀る国家の葬祭殿には、プトレマイオス朝が滅亡するまで歴代の王とその妻が埋葬された。もう一つこの王朝で新たに始まったのが神官による勅令だ。これは神官が王に代わって出す神殿に関する勅令で、その初期の例として、プトレマイオス3世の時代のBC239年~BC238年に出されたカノポスの勅令がある。その内容は、王妃ベレニケをすべての神殿で女神として神格化することと、改暦を行うことの2つで、特に改暦では、結局実現には至らなかったものの、早くも閏年うるうどしを作ろうとしている。この勅令はステラ(石柱の記念碑)に3種類の文字で刻まれて発布された。行政用語であるギリシャ語、日常用のデモティック(民衆文字・省略化文字)、そしてヒエログリフ(神聖文字)の3つである。


 さらにプトレマイオス3世(在位:BC246年~BC222年)の治世には、それまでに獲得したヌビアやエーゲ海周辺地域だけでなく、リビアやシリアをも含む最大規模にまで膨らんだ。プトレマイオス3世はBC246年に父の後を継ぐと、直ちに2つの難問を解決しなければならなかった。リビアのキュレナイカ地方を統合することと、セレウコス朝との間に生じた新たな危機の解決である。キュレナイカの統合はその地の王女と結婚することと、キュレナイカの一部の反対勢力を鎮圧することで解決した。これと並行して第3次シリア戦争(BC246年~BC241年)が起きた。これはセレウコス朝のアンティオコス2世の第2王妃となっていた妹のベレニケが、第1王妃のラオディケに夫のアンティオコス2世と共に毒殺されたため、復讐のためプトレマイオス3世自ら出陣してメソポタミアに侵入、ユーフラテス川を渡ってバビロンにまで達した。ところが、エジプト内で起きた反乱のため急いで帰国せざるを得なかった。しかし、エーゲ海周辺地域やシリア南部は確保することができたため、この時代エジプトはリビアのキュレナイカ地方からフェニキア、キプロス、小アジアの一部を包含する大きな領域を支配した。このように王位は3代にわたり父から息子へ順に受け継がれ、その首都アレクサンドリアをギリシャ語圏で最も輝く国際都市に変えていった。プトレマイオス朝エジプトは土着のエジプト文化に、外来のギリシャ文化やマケドニア文化が融合するという他に例のない国だった。



(プトレマイオス朝の黄昏)


 プトレマイオス朝最後の200年間は内紛の時代だった。ヘレニズム諸国を巻き込み、ローマがアンティゴノス朝マケドニアを破ったBC168年の「ピュドナの戦い」から半世紀の間、プトレマイオス朝エジプトもまた、そのシリア南部の防衛線とエーゲ海に有していた足場を失うことになったが、エジプト本土とその比類なき豊かな資源とともに、王朝の創設者プトレマイオス1世がエジプトの安全の基盤として設けたリビアのキュレナイカ地方とキプロス島という2つの国外領土を維持していた。確かにプトレマイオス4世(在位:BC222年~BC204年)以後、エジプトは経済的苦難とともに、土着のエジプト人たちがその民族的自覚に目覚め始めたことから来る一連の反乱に苦しみ、初代から3代目までの輝きは徐々に失われていた。マケドニア人とギリシャ人の共同体とエジプト人との共生はますます容易でなくなり、その行動手段は縮小し、いくつかの他国での紛争への介入を控えた。それでもプトレマイオス朝エジプトがヘレニズム世界で最も裕福であることに変わりはなかった。アレクサンドリアの宮廷生活や、そこで行われる祭儀の豪奢ぶりは、BC1世紀のギリシャの歴史家ディオドロスが書いているように訪問者たちを驚かせ、ときに眉をひそませるほどだった。なかでも、BC146年にカルタゴを滅亡させたスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)の随員たちは、この繰り広げられる豪奢さの中に「物心両面にわたる腐敗」を見ている。これほどの資力を有し、東地中海で最も豊かで人口も多い国の頂点に立っていたプトレマイオス朝の王が、恐れられることはないまでも尊敬されたのは当然だった。ローマでさえそうした感情を持っていた。しかし、この強国が国際的舞台で1つの役割を演じるのを止めたのは、排除すべき外部的脅威がなくなったからではなく、単にこの国の指導者層の不和と弱体化の結果である。プトレマイオス朝がおかしくなったのは、プトレマイオス5世(在位:BC205年~BC180年)がBC180年に妻のクレオパトラ1世に毒殺されてからである。摂政となったクレオパトラ1世がBC176年に亡くなった後、2人の息子、プトレマイオス6世(在位:BC180年~BC145年)とプトレマイオス8世(在位:BC145年~BC116年)が激しい権力争いを繰り広げ、とりわけ8世は甥のプトレマイオス7世(在位:BC145年~BC144年)を即位1年足らずで殺害している。この間、大臣たちが政治を欲しいままにするようになり、王族同士の争いや王朝間の敵対、同じ王の親から生まれた子供たち同士の流血の憎しみ合いが、国家の運命の上に重くのしかかっていった。BC116年、プトレマイオス8世(在位:BC145年~BC116年)がその治世を終えた時、後に残されたのは生気を失ったエジプトの国と、土台からぐらついている王権であり、それはローマによる征服まで再び立て直されることはなかった。それでも、プトレマイオス王朝はBC30年のローマによる征服まで続き、アレクサンドロス大王死去後に分割され生まれた諸国のうち、最も繁栄し、最も長命な国となった。


 *プトレマイオス朝エジプトの最後の王となったクレオパトラ7世の物語については、後のエピソードで述べる。


[セマタウイテフナクト]アレクサンドロス大王によるエジプト征服の目撃者

 エジプトでの第2次ペルシャ支配(BC343年~BC332年)の時期はエジプトにとってありがたいことに短命に終わったが、次はアレクサンドロス大王という、さらに強大な征服者が現れ、続く300年間にわたって、ギリシャ語を話すマケドニア人がエジプトを支配する。地中海に面した新たな首都アレクサンドリアが建設され、読み書きのできるエジプト人たちは、新たな支配者とエジプト人に深く根差した伝統の両方に影響された混血のギリシャ・エジプト文化を受け入れた。この文化混合の影響は、当時の神官の墓や、マネトの「エジプト誌」によって示されるように、当時の美術や以前よりも広汎な世界観に見てとれる。

 古代エジプトの歴史から眺めれば、ペルシャによるBC343年の侵攻は大変革をもたらした出来事のように思える。それはほぼ3000年にわたって古代エジプトに君臨してきたファラオによる統治バターンを、突然終わらせたからである。しかしBC4世紀半ばのこうした出来事は、その中を生きのびた人びとにとって、トラウマになるようなものには思われなかったかもしれない。それは、ペルシャの侵略とその結果を生き延びただけでなく、それに続く体制の下で明らかに成功を収めたセマタウイテフナクトという一人の人物から受ける印象である。

 セマタウイテフナクトは中部エジプトのヘラクレオポリス出身だった。ヘラクレオポリスの主要な地方神は牡羊神ヘリシュフであり、この神に対する帰依はセマタウイテフナクトの生涯に途切れることのない糸のように通されている。彼はその経歴を第30王朝のネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)の治世に始め、ペルシャ軍の侵攻を直に目の当たりにした、後にはこの出来事を災難と記しているものの、その当時の彼はペルシャの支配者アルタクセルクセス3世(在位:BC359年~BC338年)と和解し迎合することに何のためらいも示さなかった。事実、セマタウイテフナクトはセクメト女神の主任神官に任命されている。これは事実上、王の主治医だ。この資格によって彼はアルタクセルクセス3世の宮廷の中枢に位置を占め、ペルシャに戻る主君に随行した。ところが、アルタクセルクセス3世はBC338年に毒殺され、その次に王位に就いたアルタクセルクセス4世(在位:BC338年~BC336年)も2年後に暗殺され、その後をダレイオス3世(在位:BC336年~BC330年)が継承し、BC336年に即位した。セマタウイテフナクトはその数年後のBC333年には、この宮廷人としての有利な立場から、ダレイオス3世がイッソスの戦いでのマケドニアのアレクサンドロス3世の軍に敗れるのを目の当たりにすることになる。彼は再び重大事件の渦中に巻き込まれ、そしてまたもや無傷で逃れることができた。彼はこの幸運を自分が信仰する神であるヘリシュフの慈悲深い加護によるものとしている。

“あなた様はギリシャ人たちの戦いの中で私を守ってくださいました。あなた様がペルシャの者どもを追い払われたその時に、彼らは私の傍らで100万人を殺害し、そして私に対しては誰一人として手を上げることはしなかったのです”

 幸運に加えて政治的な抜け目のなさも役に立ったことは疑いない。セマタウイテフナクトがペルシャの敗北について大喜びで述べていることは、彼自身がペルシャ支配下で昇進を遂げていることと、そぐわないように思える。しかし、彼は常に権力の座についている者たちの忠実な召使いだったのだ。それにマケドニアの支配下では、ペルシャ人の追憶に対して深い敵意以外のどんな感情でも表すのは、極めて無分別なことだったのだろう。ペルシャ支配の下で欠乏や蛮行に苦しんできた多くのエジプト人に、アレクサンドロスは解放者と受け取られ歓迎された。セマタウイテフナクトも風向きを見極めて、エジプトに戻ることを決める。彼は故郷の町につつがなく帰着し、頭から「毛が抜けることもなかった」経歴を終えるまでに、目がくらむほど数多くの栄誉や官職を集めていた。王の主治医だっただけでなく、彼は「河岸の管理者」でもあり、オリックス州の神々の神官、「ヘブヌの主であるホルス」の神官、そして彼の名がそれに因んでつけられた神、セマタウイの神官であった。それ故、彼自身の言葉によれば、セマタウイテフナクトは「自らの主に祝福され、自らの州では敬われて」生涯を終えたのである。とりわけセマタウイテフナクトは「生き残り」だった。歴史は彼を裏切り者と呼ぶかもしれない。しかし、彼は自らの幸運を自分が帰依する神のおかげとすることで満足していた。

“私の始まりがあなた様のおかげで良きものだったように、私の終わりをあなた様は完全なものにしてくださいました。あなた様は私に、喜びのうちに長く続いた生涯を授けてくださったのです”


[エジプトのアレクサンドリア]

 マケドニア系の支配者たちは、エジプトの行政や宮廷生活にギリシャ文字とギリシャ語を持込んだ。それだけでなく、キプロス島とエーゲ海一帯を支配下に収め、そしてなにより、地中海にのぞむ新都アレクサンドリアを建設したことで、アレクサンドロス大王と、その後継であるプトレマイオス朝(BC305年~BC30年)は、エジプトに全く新たな進路を与えることになった。2つの文化が交流し融合した例は当時の文学に見られる。アレクサンドロス大王もプトレマイオス朝の王たちも、エジプト語は全く話せなかったが、過去のエジプト王朝時代のファラオが持っていた強烈なイメージを多く取り入れている。

 アレクサンドロスの少年時代からの側近で、マケドニア人の将軍の中でも屈指の活躍を見せ、エジプトのサトラップ(太守)に任命されたプトレマイオスが、BC305年にエジプトの王を名乗り、アレクサンドリアを首都に定めた。その後3世紀近くにわたってアレクサンドリアは一つのヘレニズム的な後継王国の首都であり続けた。ヘレニズム的とは、文化と行政はギリシャ風だが、地元のエジプト文化にもかなり大きな影響を受け、両者の間にある種の融合が見られる状態を表わす。BC3世紀には、プトレマイオスが設計した新しい学術研究機関ムセイオン(芸術と学問の女神である9人のムーサたちの社の意)と膨大な蔵書を持つ図書館のおかげで、アレクサンドリアはギリシャ世界全体の文化の中心地になった。因みにムセイオンは現在のミュージアムの語源となった。そこで、幾何学の父エウクレイデス(英語名ユークリッド:BC330年~BC275年ごろ)はギリシャ数学を集大成した「原論」を完成させ、エラトステネス(BC276年~BC194年)は地球の円周を計測するなど数多くの業績を残した。また、シチリアのシュラクサイにいたアルキメデス(BC287年~BC212年)もムセイオンに留学している。また、BC3世紀の中ごろ、アレクサンドリアで旧約聖書がギリシャ語に翻訳されている。完成したのはBC2世紀になってからのようだが、後にパウロをはじめとする初期キリスト教の指導者たちはこの旧約聖書を典拠とすることになる。その他、個々に名前を列挙しきれないほど大勢の知識人がこの都市に光彩を与えていた。 

 アレクサンドリアは最初のヘレニズム的なポリスだった。失われずに残った文献がこの都市の学問分野での業績について多くを伝えている一方、この都市が誇った驚嘆すべき数々のヘレニズム時代の建築物の多く、例えば、世界の七不思議の一つである高さ134メートル、周囲150メートルとされるファロス島の大灯台などは、その後の歴史の変転や地震が重なって地上から消滅し、その一部は水中に沈んでいる。大灯台は石材で造られていた。その意匠について確実にわかっていることは、四角い基礎部分の上に、中層部の八角柱、さらに鏡と炎のある上層部は円柱形であった。ローマ時代の硬貨によると、灯台の基礎部分の四つ角には、人魚の形をした海の神トリトンの彫像が置かれ、灯台の頂点にはトリトンの父親であるポセイドンの彫像が建っていた。この大灯台は紀元後1303年とその20年後に起こった2度にわたる地震によりその壮麗な姿を失った。また、改葬するためにバビロンからマケドニアに運ばれる途中だったアレクサンドロスの遺骸をプトレマイオスが奪取し、メンフィスのネクロポリスであるサッカラに移したが、その後、その息子プトレマイオス2世がさらにアレクサンドリアに移送し、セマという墓所に埋葬した。3世紀後にはその墓所を初代ローマ皇帝アウグストゥスが訪れて丁重に敬意を表したとされるが、その墓所もアレクサンドロスの遺骸も、今も発見されていない。



(ヘレニズム文化)


〈ヘレニズム都市〉

 ヘレニズム時代にはギリシャ語が西アジアとエジプト全域で公用語となっていたが、注目すべきことは、新しく建設されたヘレニズム都市ではギリシャ語が日常語となったということだ。このようにアレクサンドロス大王が熱望していたと思われるギリシャ文明と、西アジア・エジプト文明との融合はセレウコス朝とプトレマイオス朝のもとで実現しようとしていた。

 とりわけ、セレウコス朝はマケドニアを含むギリシャ全域からの入植者を促し積極的に新しい都市を建設していった。そこにはセレウコス朝の支配を強化することと、土着の住民のギリシャ化を進めるという目的があった。しかし、セレウコス朝の統治体制は従来のペルシャ流のサトラップ(太守)に依存するもので、その他にもペルシャから君主制の原理と徴税法を継承していた。もっとも、このような統治体制が実際にどのように機能していたかはよくわかっていない。少なくともアナトリアとメソポタミアより東のイランや中央アジアでは、さほど厳しい統治が行われた形跡はない。実際のヘレニズム化が最も進んでいたのはアナトリアとメソポタミアで、セレウコス朝シリアの首都機能もこの地域に置かれていた。

 ヘレニズム都市の規模はそれまでのギリシャの植民市をはるかに凌ぎ、エジプトのアレクサンドリア、シリアのアンティオキア、そしてメソポタミアのバビロンの近くに建設されたセレウケイアの人口は瞬く間に10万人、20万人という規模に達した。ヘレニズム時代にはペルシャ帝国時代に蓄積された莫大な富、そのほとんどは金塊だったが、そのおかげもあり経済は成長し、豊かな文明を築くことができた。ヘレニズム都市すべてにギリシャ型の都市生活に必要な劇場やギムナシオン(体育場)が建設され、競技や祭典が行われていた。西アジアとエジプトの世界は全体として都市を通じてヘレニズム化されていき、その影響は紀元後7世紀にイスラム教が到来するまで残った。しかし、マケドニア人は都市国家の生活をしたことがなかったこともあり、ヘレニズム世界は官僚中心の社会となり、民主政の伝統はあっけなく衰退していった。


〈政治体制の変化〉

 政治思想が際立った変化を遂げた原因としては、政治形態が都市国家から、巨大な専制君主政国家へと移行したことがあげられる。かつてアレクサンドロスの家庭教師を務めたアリストテレスは、都市国家が再び勢いを取り戻すことを望んでいた。政治が良識ある国民の手に委ねられるなら、都市国家という政治形態は、人びとに最も幸福な生活を与えることができるとアリストテレスは考えていた。しかし、そのような願いは、ペロポネソス戦争後の都市国家の混乱や、巨大で人間味に欠けた専制君主制の台頭によって失われていった。ヘレニズム時代の新しい君主たちは東方の世界で行われていた支配者への個人崇拝を取り入れることで、自らの権威を高めていった。また大げさな称号なども採用されるようになった。例えばプトレマイオス1世は「ソテル」と呼ばれたが、これは人類の「救済者」を意味する称号である。セレウコス朝の王たちも臣民からの個人崇拝を受け入れていたが、エジプトのプトレマイオス朝の場合は、さらにその上を行って、神にも似たファラオの特権的な地位までも継承していた。しかし、ヘレニズム諸国を支えた本当の基盤は、官僚組織であり、ギリシャ人とマケドニア人の傭兵からなる軍隊だった。同じ民族の傭兵軍を編成することで、支配下に置いた異民族の兵士たちに依存せずに済むようになった。こうした官僚組織や傭兵軍は、強力で威厳に満ちた存在だったかもしれないが、市民たちの愛国心や忠誠心を引き出せるような存在ではなかった。

 また、自治の伝統がかすかに残っていたギリシャ本土の諸都市は、過去の苦難から立ち直ることができなかっただけでなく、ヘレニズム世界では経済の衰退と人口の減少を経験する唯一の地域となってしまった。しかし、政治的な勢いはなくなったものの、都市文化は依然としてギリシャの思想を広めるのに大きな役割を果たしていた。アレクサンドリアとペルガモンには、多額の資金が投じられて古代社会最大の図書館が建設されている。エジプトのプトレマイオス1世はムセイオンという高等学問の研究所を設立し、ペルガモンでは国王自らが教師の資格を授けていた。アテナイではアカデミアとリュケイオンが存続しており、こうした図書館や研究所、学園を通じて、ギリシャの知的世界の伝統はあらゆる場所で新たな活力を得ていった。こうして学問の伝統はしっかりと各地に根をおろし、紀元後の世界へと継承されていった。しかし残念なことに、その後、その内容のほとんどは失われてしまい、現在まで残されたプラトンやアリストテレスの教えは、ヘレニズム時代の学者を経て、後のイスラム世界に保存されていたものなのだ。


〈ヘレニズム時代の科学と哲学〉

 ヘレニズム文化がギリシャの伝統を受け継いだ学術的な分野は、何と言っても科学だった。ヘレニズム都市の中でも最大の都市だったアレクサンドリアでは、特にその傾向が顕著だった。この町でエウクレイデス(英語名ユークリッド)によって体系化された幾何学は、その後、紀元後19世紀まで受け継がれていくことになる。偉大なギリシャの数学者アルキメデスはエウクレイデスの生徒だった。彼はシチリア島のシラクサで生まれ、アレクサンドリアで学んだ。彼は有名なアルキメデスの原理を発見しただけでなく、さまざまな城壁攻撃兵器も考案した。幾何学にも多大な貢献をし、円周率のおおよその直や、円柱、球体の堆積を求める方法も公式化している。ヘレニズム時代のギリシャの数学は、円錐曲線論や楕円論、三角法などの確立によって、その頂点に達した。

 その他にアレクサンドリアで活躍した科学者としては、地球の全周を始めて測定したエラトステネス、蒸気の力を利用すれば物体を動かせることを発見したヘロン(BC2世紀後半~BC1世紀前半ごろ)がいる。しかし当時の冶金技術の水準からすると、この蒸気の力の発見を実用化することは不可能だったようだ。古代社会の知的活動の成果は往々にして技術的な限界に阻まれそれ以上先に進むことができなかった。サモス島のアリスタルコスは地球の他動説を唱えるところまでいったが、この説は天動説を主張したアリストテレスの物理学に反していたため、当時の人びとには受け入れられなかった。学説の真偽が実験や観測によって検証される時代はまだ訪れていなかった。


〈ヘレニズムの宗教と哲学〉

 ヘレニズム世界は、ピタゴラスの創設した神秘主義教団や、哲学者を祀る祭壇の建立などを見てわかるように、あらゆる秘儀や狂信に満ちた世界だった。その中で、神話の神々に対する畏敬の念、都市の守護神への信仰、国家祭儀としての秘儀(穀物の女神デメテルの秘儀など)などの伝統的なギリシャの宗教はついに勢いを取り戻すことはなかった。デルフォイの神託所はBC3世紀ごろから寂れていったが、そうした傾向に歯止めがかかることはなかった。信仰心が薄れた理由は戦争だけではなかった。BC4世紀に盛んになったギリシャ哲学の合理主義も大きな影響を与えた。伝統的な宗教に基づく価値体系が崩壊したことで、哲学にも変化があった。人びとは自分の力ではどうにもならない社会から離れて、もっぱら個人に関心を向け、苛酷な運命と厳しい日常生活からの救いを求めるようになった。こうした考えが唱えられたこと自体は非常に重要な意味を持っている。ギリシャ人の関心が国家や政治から、個人の生活に移ったことを示しているからだ。

 エピクロス(BC341年~BC270年)は個人的な「快楽」を最高の善とする「快楽主義」の思想を唱えた。彼のいう快楽とは、単なる欲望の開放ではなく、精神的に満たされた、身体的に苦痛のない状態のことを意味する。一方、キュニコス派と呼ばれる学派は、慣習を軽蔑し、物質界への依存から脱却することを目指していた。キュニコス派の哲学者で、キプロス出身のゼノン(BC335年~BC263年)はアテナイに住み、アゴラ(公共広場)に面した列柱廊(ストア)で学園を開いた。ゼノンの学派がストア派と呼ばれる由来である。ストア派はその後、極めて有力な哲学の学派となっていった。クリュシッポス(BC3世紀の哲学者)はゼノンの弟子で、ストア派の創始者の一人とされる。その思想とは、人間は宇宙に存在する理性的な秩序、コスモスを理解し、それに従って生きなけければならないというものだった。世界は巨大な都市国家であり、人間はそこに住む世界市民(コスモポリテス)としてそれぞれの役割を果たさなければならないというのがストア派の教えで、差別のない人間愛を説き、実際、奴隷制を批判している。自らを律し、良識に従って生活するというストア派の倫理観は、この後まもなくローマで大きな実を結ぶことになる。

 こうしてヘレニズム世界の哲学は、「折衷主義」と「世界主義」の色合いを帯びていった。最終的に折衷主義と世界主義は、ストア派の教義から、ギリシャの神々に取って代わった東方の祭儀に到るまで、ありとあらゆる所で見られるようになる。アレクサンドリア図書館の館長を務めた科学者エラトステネスは、「善良な人間はすべて同胞である」と語っているが、これこそまさに成熟したヘレニズムの新しい精神を表わす言葉だったといるだろう。

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