第121話 ヘレニズム諸国の盛衰とローマの東方進出

<年表>

BC306年~BC305年 ディアドコイ(後継者)たちはそれぞれが「王」を名乗り、3つの大国が成立。エジプトのプトレマイオス朝、アジアのセレウコス朝、マケドニア本国のアンティゴノス朝

BC274年~BC271年 第1次シリア戦争。セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトによる東地中海沿岸地域の支配をめぐる争い。結果は現状維持で終わった。

BC263年 小アジア東部のペルガモン王国の2代目、エウメネス1世(在位:BC263年~BC241年)が、セレウコス軍をリュディアのサルディスで破り、セレウコス朝から独立

BC261年~BC253年 第2次シリア戦争。プトレマイオス朝は小アジア沿岸部からアナトリア中南部のキリキアに到る拠点群を失い、プトレマイオス2世は和平のため娘をセレウコス朝のアンティオコス2世に嫁がせた。

BC246年~BC241年 第3次シリア戦争。セレウコス朝王家の内紛にプトレマイオス3世が便乗した戦争。プトレマイオス朝は第2次シリア戦争で失ったエーゲ海周辺地域やシリア南部の拠点群を奪還した。

BC238年~BC227年 ペルガモンのアッタロス1世、小アジアの支配権を求めてセレウコス朝と戦う。

BC225年 アフガニスタン地方のバクトリアもセレウコス朝から独立し、ギリシャ人王国が誕生

BC219年~BC217年 第4次シリア戦争。セレウコス朝のアンティオコス3世はプトレマイオス朝に奪われていたシリアのアンティオキアの港、セレウケイア・プスリアを襲って奪還し、さらにエジプトに攻め入ったが、エジプト側の必死の抵抗に遭い、最後は和平条約を結び撤退した。

BC215年~BC168年 アンティゴノス朝マケドニアは、BC215年から3度にわたりローマと戦うが、最後の第3次マケドニア戦争でローマに敗退し、ヘレニズムの3つの大国の先頭を切って、BC168年にアンティゴノス朝マケドニアは消滅し、その領土はローマ支配下の4つの自治領に分割された。

BC202年~BC200年 第5次シリア戦争。BC200年、セレウコス朝はヨルダン川の水源近くのパネイオンの勝利によってエジプトとの国境にまで至る地域全体を手に入れ、セレウコス朝の行政組織に組み入れた。

BC188年 アパメイアの和約。ギリシャ内部の対立に端を発したセレウコス朝対ローマの戦争。セレウコス朝はローマに敗れ、ギリシャと小アジアに持っていた領土の大半を失った。東地中海に姿を現わしてから10年にもならないローマが新しい覇者となった。

BC170年~BC168年 第6次シリア戦争。セレウコス朝はエジプトに攻め込み、アレクサンドリアまで包囲したが、ローマによる威嚇によりセレウコス軍は引き揚げざるを得なかった。

BC133年 ペルガモン王国のアッタロス3世(在位:BC138年~BC133年)は遺言で国をローマに寄贈。ペルガモン領であった小アジアのフリュギア、ミュシア、カリア、リュディアなどはローマのアシア属州となった。

BC125年 セレウコス朝シリアの滅亡。アンティオコス4世の後は、王位争いが続き、在位期間の短い王が9名立ったが、BC150年ごろ中央アジアからイランに侵入し、さらにメソポタミアにまで勢力を拡大したパルティア人たちの脅威もあり、国内の秩序は乱れ、セレウコス朝シリアは事実上消滅した。


 ***


 ヘレネス(ギリシャ人)の文明と言語によって統一性を与えられた時代、すなわちヘレニズム時代は、BC323年のアレクサンドロス大王の死に始まり、BC30年のローマによるプトレマイオス朝エジプトの征服で幕を閉じたとされる。この間にギリシャ文化はアレクサンドロスの死後建設されたヘレニズム緒王国を通じてアジアに広まり、ギリシャ以外の地に初めてその中心を移すことになった。

 BC3世紀、アレクサンドロスの帝国は瓦解したものの、マケドニア人の王朝はギリシャ半島の西のイオニア海からインダス川に到る地域でまだ力を保っていた。広大な領土を持つ新興王国は、プトレマイオス朝がエジプトとエーゲ海の一部を擁し、セレウコス朝はアジアの大半を、アンティゴノス朝はマケドニアを支配していた。この3つの大国だけでなく、その周りにはこれらの大国と結びつき、ときには互いに敵対する、中小の国々があり、長さはさまざまだがある一定期間の繁栄を見せる。例えば、リビアのキュレネのマガス朝、小アジアのペルガモンのアッタロス朝、シチリア島のヒエロン朝、あるいは黒海に面したアナトリアのビテュニア、カッパドキア、パラゴニアなどの緒王国である。また、大小さまざまのギリシャ諸都市が時に連合してその軍事力と政治的影響力を見せていた。その中でもアテナイやスパルタのように輝かしい過去を夢みたり、デロス島やロードス島のように政治的・経済的結合から自分たちの利益を引き出したりしていた。

 ここで重要なのは、約40年におよぶ激しい後継者戦争の後、BC280年ごろから約60年間、アレクサンドロス大王の帝国を分割して生まれた3つのヘレニズム王国が勢力をほぼ均衡状態に保ったことである。こうした平和的な状況があったからギリシャ文化は大きく広がって行くことができたのだ。ヘレニズム諸国が注目に値するのは、文明の拡散と発展に貢献した点にあるのであって、入り組んだ政治状況やディアドコイ(後継者)たちが実りのない戦争を繰り返したところにはない。



(プトレマイオス朝エジプト)BC305年~BC30年


 アレクサンドロス大王の部下の中でもひときわ有能だったプトレマイオスは、大王が死亡するとすぐにエジプトで権力を握り、アレクサンドロス大王の遺体を確保してエジプトに運んだ。プトレマイオスはアレクサンドロス大王の幼なじみで、共にアリストテレスから教育を受けた教養人だった。BC305年、プトレマイオスは自ら王位に就き、プトレマイオス1世(在位:BC305年~BC283年)となり、救済者を意味する「ソテル」を名乗った。彼は知的な合理主義者で、資源豊かなナイルの国に自分の王朝を恒久的に定着させるために、当初から確実で慎重な政策を描いていたようだ。彼がエジプトに樹立したプトレマイオス朝はこの後300年近くにわたってエジプトを支配することになる。BC30年にクレオパトラ7世が死ぬまで存続し、アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)たちが建てた国の中では最も長命で、最も繁栄した国となった。


 *「プトレマイオス朝エジプト」については次のエピソードで詳しく述べる。



(セレウコス朝シリア)BC305年~BC125年


 また、西アジアにもBC305年には巨大な王国、セレウコス朝シリアが出現した。この王国の領土は、インドとアフガニスタンの一部は軍事援助の見返りとしてインドの支配者に割譲されたとはいえ、アフガニスタンからシリアに及び、面積240万平方キロ、推定人口は3000万にのぼり、首都は地中海に近いシリアのアンティオキアに置かれた。アレクサンドロス大王のアジアにおける遺産の大部分にあたるこの広大な領土を引き継いだのは、やはりアレクサンドロス大王の下で騎兵軍の指揮官だった有能な将軍セレウコスで、この王朝の創始者となった。彼は節度と大胆さを交えた巧みなやり方でアジアの地方権力者たちに対処しながら、この広大な領地を手中に収めていった。この成功で、彼の子孫はBC125年までこの地を治めることになる。この王朝で何世紀にもわたって用いられた「セレウコス暦」はこの地域の共通の歴法とされた。それはセレウコス朝が西アジアにおけるギリシャ文明の歴史にとっていかに重要性を持ったかということであり、アレクサンドロスの遺産をこの広大で多様な地域に伝承させたのはセレウコスであったといえる。

 セレウコス1世(在位:BC305年~BC280年)のペルシャ人妻アパマとの間に生まれたアンティオコスは、BC294年ごろから王の称号とともにセレウコス朝王国諸州の統治を委ねられると、セレウコス1世によってバビロンの北のティグリス河畔に創建された首都セレウケイアを引き継ぎ、シリアのアンティオキアとともに、王国の主要な核とした。この父子はアレクサンドロスによって始められた政策を受け継いで、国内の主要道路沿いに次々と町を建設したり、旧来からあった町を新しい名のもとに再建した。こうして多くのセレウケイア、アンティオキア、アパメイア(ペルシャ人妻アパマに因んだ名)、さらに下っては、多くのラオディケイア(アンティオコス2世の妻ラオディケに因んだ名)が建設された。遠隔地の州は、軍隊の居留地を設けることで強化された。しかし、BC280年にアンティオコス1世(在位:BC280年~BC261年)が正式に即位して以降は、アナトリアとシリアの経営が優先的課題になり、東部諸州は軽視せざるを得ないようになっていった。これは父セレウコス1世の死後、アンティオコス1世に突きつけられた、シリアで起きた反乱と、アナトリア南岸地域に対するプトレマイオス朝による工作、その他小アジアやアナトリア北部における深刻な難題の数々であったことと関連している。特に、小アジアやアナトリア北部の難題は、アレクサンドロス大王時代に淵源を持っていた。大王は、さらに東方を目指すことに夢中で、アナトリア北部地帯に自らの支配権限をしっかり打ち立てる時間がなかった。そこには古くから繁栄したギリシャ人植民地と、その周辺にギリシャ化された土着民の首長たちがいて、彼らはいずれも外から押し付けられる権威に服従する気はなかった。

 ボスポラス海峡の東岸、アナトリア側の黒海沿岸に沿って、伝統的に好戦的なトラキア人たちの住むビテュニアがあった。その首長ジポイテスはBC3世紀初めに王を名乗り、それをBC280年に引き継いだ息子のニコメデスが、当時トラキア、マケドニア、ギリシャ北部に東ヨーロッパから侵入していたガラタイ人の一団を呼び寄せた。彼らは略奪を行いながらアナトリア西部に広がり、BC275年ごろアンティオコス1世に打ち負かされて、アナトリア西部のフリュギアに定住させられたが、その後も周辺の地域に脅威を与え続けた。同じ頃、ギリシャ化されたペルシャ人の貴族ミトリダテスがアナトリア東部の黒海沿岸にポントス王国を樹立、これがその後200年ほど続くことになる。ポントス王国とビテュニアの間には、蛮族の地パフラゴニアが広がっていた。ここではセレウコスとアンティオコス父子の権威は通じなかった。それとは対照的に、小アジア沿岸地域のギリシャ緒都市は、アンティオコス1世やその後継者たちと友好関係を維持していた。しかしセレウコス朝は、エーゲ海においてプトレマイオス朝の艦隊と対抗できるだけの海軍力を組織することはできなかった。

 BC263年、小アジア東部のペルガモン王国はセレウコス朝のアンティオコス軍をリュディアのサルディスで破り、セレウコス朝から公式に独立した。その後、アンティオコス1世はエジプトのプトレマイオス2世を相手に第1次シリア戦争(BC274年~BC271年)を戦う中で王権に参画させていた長男が自分に対して陰謀を企んだために処刑し、BC261年、次男にアンティオコス2世(在位:BC261年~BC246年)の名で王位を継がせて亡くなっている。この新しい王の治世はBC246年まで15年間続いたが、父親と同じくいくつかの試練にぶつかった。その一つは第2次シリア戦争(BC261年~BC253年)で、これはBC253年まで続いた。また、BC255年にはアナトリア中央部でカッパドキアが独立王国となり、これを治めるペルシャ人君主たちが王を名乗った。この海から遠い山岳地のカッパドキアは、その後150年にわたってペルシャ人君主の支配下に置かれたが、それでも旅人や商人たちを通じてヘレニズム文化が浸透していった。

 アンティオコス2世の息子のセレウコス2世(在位:BC246年~BC225年)は父親から後継者として指名されたものの、義母のベレニケが自分の息子の権利を主張し、その出身国プトレマイオス朝がそれを支援してシリアに軍を投入してきたので、これを排除するためにエジプトのプトレマイオス3世と第3次シリア戦争を戦わなければならなかった。セレウコス2世に敗れて、プトレマイオス3世がメソポタミアにおける征服地をやむなく放棄したとき、セレウコス2世はシリア北部とその首都アンティオキアを奪還した。さらに彼は、2人の娘をポントス王のミトリダテスとカッパドキア王のアリアラテスに嫁がせることによって両国との関係を深めた。ところが、第3次シリア戦争の間、セレウコス2世はアナトリアにおけるセレウコス朝の領土の統治を弟のアンティオコス・ヒエラクスに委ねたが、戦争が終わると、このヒエラクスがセレウコス2世に従属することを拒絶し、兄弟間に争いが起きた。事態はセレウコス2世に不利に展開し、アンキュラ(現在のアンカラ)付近で敗北を喫し、アナトリアの領土を弟のヒエラクスに譲渡せざるを得なかった。ところが、その後ヒエラクスはペルガモン王国を侵略しようとして失敗し、さらにセレウコス2世がイラン地方に手を取られている間にメソポタミアを占領しようとしたが、またも敗北し、最後は亡命先のトラキアで暗殺された。

 セレウコス2世はアナトリアを弟に取られただけでなく、王国各地の属州でも深刻な事態に直面した。BC248年ごろにバクトリアの西のパルテュエネに王国が築かれたが、さらにBC225年には中央アジアのバクトリアも独立国となった。これらの国々の興隆を前に、巻き返しを試みたセレウコス2世は、BC230年ごろにイラン地方に遠征してパルテュエネに迫り、一時はパルテュエネのパルタイ人をアラル海周辺に追い返したものの、バクトリアにまで足を伸ばすことなく、シリアに戻ってきた。ここで、叔母のストラトニケによる陰謀に遭遇し、叔母を処罰するものの、自身もBC225年に事故に遭って死ぬ。その息子セレウコス3世(在位:BC225年~BC223年)の治世は3年しかもたなかった。アナトリア奪還のためにペルガモンのアッタロス1世討伐を企てたが、BC223年に部下の一人によって暗殺された。

 こうして、セレウコス朝は東でも西でも深刻な領土の切り取りにあったが、セレウコス3世の弟、アンティオコス3世(在位:BC223年~BC187年)が18歳の若さで即位し、その活力によって一時的ながらセレウコス朝に力と偉大さを取り戻させることとなる。BC219年、セレウコス軍はプトレマイオス朝に奪われていたシリアのアンティオキアの港、セレウケイア・プスリアを襲って奪還し、さらにエジプトのプトレマイオス4世(在位:BC222年~BC204年)のためにシリア南部を守っていた傭兵隊長の裏切りに便乗してフェニキアのテュロスの港を手に入れ、やすやすとエジプト国境に到達した。エジプトは、ナイルデルタ地帯防衛のために古くから使われてきたナイルの堤防を壊して洪水を起こす手法を活用した。この戦術によってエジプト側は冬を持ちこたえ、翌年はパレスティナでの戦いを長引かせることができた。この間に、エジプトは、エジプト原住の農民2万人を軍に編入するという大胆な改革によって軍を増強した。こうして強化された軍隊をもってBC217年、パレスティナの南の境界ラフィアで、プトレマイオス4世はアンティオコス3世と対戦し、鮮やかな勝利を収めた。アンティオコス軍が後退したので、プトレマイオス朝はエジプトの防衛線であるシリア南部を取り返して和平を結んだ。これが第4次シリア戦争である。

 エジプトを侵略から救った「ラフィアの勝利」はプトレマイオス朝で特別な喜びをもって祝われたが、この戦争で重要な役割を演じたエジプトの農民たちは、税の負担が強まったことで、各地で反乱を始めた。さらに上エジプトがヌビア系の王を戴いて分離した。この状態はBC207年からBC186年まで続いた。このようにエジプトが国内問題に手を取られている間に、アンティオコス3世は、小アジアでアッタロス朝ペルガモンと同盟を結ぶことによってアナトリアのタウロス山脈の先のセレウコス王家の領土を、従兄弟のアカイオスから奪還する計画に着手した。4年間にわたる作戦行動の後、首都サルディスに閉じ込められたアカイオスは、BC213年に捕らえられ処刑された。アナトリアを確保したアンティオコス3世は、次に父のセレウコス2世が実現できなかった東部諸州の平定のために東方に目を向け、長い遠征がBC212年に開始された。アンティオコス3世は、まずセレウコス朝の属国であるアルメニア征伐から始め、長年滞納してきた年貢を清算させた。次はイラン高原のメディアに向かい、エクバタナに兵力を結集すると、軍勢を維持するためにこの地方の聖域から容赦なく財宝を奪い取った。BC209年にはカスピ海に沿った町々を通ってパルティアに歩を進め、ここでアルサケス2世を支配下に編入、さらに東へ前進してバクトリアの再征服に取り組んだ。バクトリアではセレウコス朝によって太守に任命されたディオドトス1世の子であるディオドトス2世に取って代わってエウテュデモスが新しい王朝を興し、勢力を南へ広げていた。この若い国家はすでにしっかりした体制を構築していたことが、彼の肖像を刻んだ美しい銀貨が残されていることでわかる。土着民とマケドニア人やギリシャ人入植者との共存も、他のどこよりも良好に行われていたようで、例えば、エウテュデモスの軍隊は1万を超える騎馬隊を擁していたが、その乗り手の大多数は土着民だった。しかし、アリオス川の畔で行われたアンティオコス軍との対決で敗れたエウテュデモスはバクトリア方面へ後退し、首都に閉じこもった。アンティオコス3世は2年間という長期の包囲によっても降伏させることができなかったため、バクトリア国家とエウテュデモスが王を名乗ることを認めて同盟条約を結んだ。次いで、アンティオコス3世はヒンドゥークシュ山脈を越えて、かつてのアレクサンドロス大王の帝国の東の果てへ向かった。ここを統治していたインド人王は、アンティオコス3世を友好的に迎え、500頭の象とかなりの額の銀貨を提供した。これに満足したアンティオコス3世は帰路についた。インダス川下流域に向かい、船に乗りペルシャ湾に出て、メソポタミアに戻り、バビロンの北のティグリス河畔の首都セレウケイアに帰還した。こうして7年間に及んだ長い遠征がBC205年に終わった。このアジア奥深くへの遠征を成功させ、権威を復活させたことにより、アンティオコス3世は、これ以後「大王」と呼ばれることになる。


<第5次シリア戦争(BC202年~BC200年)とローマの干渉>

 シリアではBC205年にアンティオコス3世が長いアジア遠征の栄光に包まれて帰還し、同じくBC205年にマケドニアではフィリッポス5世がローマと和平条約を締結して第1次マケドニア戦争から解放され、いずれも拡大気運に乗っている時に、エジプトのプトレマイオス朝は、エジプトを侵略から救ったBC217年の「ラフィアの勝利」以後、衰運を辿り、特にBC204年のプトレマイオス4世(在位:BC222年~BC204年)の早過ぎる死のため、有力氏族たち間で権力抗争が生じ、重大な危機に陥っていた。この混乱状態をシリアのアンティオコス3世と、マケドニアのフィリッポス5世が黙って見ているはずがなかった。BC203年からBC202年にかけ、彼らはエジプトのプトレマイオス朝のエジプト本土以外の領土を分け合う協定を結んだ。すなわち、アンティオコス3世はフェニキア・パレスティナとキプロス島を取り、フィリッポス5世はキクラデス諸島、イオニア、サモス島、小アジア南端のカリア、リビアのキュレネを取るというものである。アンティオコス3世はBC202年に第5次シリア戦争を始め、BC200年にはヨルダン川の水源近くのパネイオンの勝利によってエジプトとの国境にまで至る地域全体を手に入れ、一人の将軍に管轄させてセレウコス朝の行政組織の中に組み入れた。この結果、エジプトは西アジアの全ての領土を失い、わずか6歳で即位したプトレマイオス5世はアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世との政略結婚を強いられ、セレウコス朝との和平条約が結ばれた。


 BC194年、ローマの将軍フラミニヌスがギリシャを去ったとき、アンティオコス3世は、レヴァント地方を征服して背後の心配がなくなると、先祖のセレウコス1世の王国の再現だけでなく、アナトリアやトラキアにまで領土を拡大することを企てた。この計画を実現するためには、ペルガモン王国やロードス人たち、さらには、エーゲ海域やプロポンティス海(現在のマルマラ海)沿岸のギリシャ人の独立都市群とも戦わなければならなかった。彼の艦隊はすでにBC197年から小アジア南岸ではプトレマイオス朝の拠点を併合し、小アジア沿岸ではエフェソスなどを同盟に加えながらへレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)まで北上していた。このためへレスポントスのアジア側の沿岸ではアビュドスがセレウコス朝の支配下に入った。しかし、その北のランプサコスは同じくフォッカイアを起源とする姉妹都市、ガリアのプロヴァンス地方のマッサリアの仲介でローマに助けを求めた。この要請に応えてローマは、アンティオコス3世に対して軍隊を率いてヨーロッパの地を踏んではならないとし、また小アジアの諸都市の自由を尊重するよう厳しく命じた。しかし、アンティオコス3世は意に介せず、しかもカルタゴから亡命して来ていたハンニバルを受け入れて相談役にしていた。この状況下においてペルガモンのエウメネス2世(在位:BC197年~BC159年)はローマにアンティオコス3世への警戒心を喚起していた。


<アパメイアの和約>

 BC191年10月、ギリシャ北部のアイトリア人たちの要請に基づきアンティオコス3世は1万の兵と6頭の象を引き連れてギリシャに上陸した。ローマ側にはペロポネソス半島北部のアカイア同盟とマケドニアのフィリッポス5世が加わったのに対し、アンティオコス3世側に付いたのはペロポネソス半島北西部のエリス人とアテナイの北に位置するボイオティア人たちだけだった。アンティオコス3世はテッサリアとギリシャ本土の境界にあるテルモピュライに追い詰められ、僅かな兵と共に船に乗ってエウボイア島のカルキスに逃れた。取り残されたアイトリア人たちは和平を請わねばならなくなった。他方、アカイア人たちはこの機に乗じてペロポネソス半島全域を併合し、フィリッポス5世はテッサリアとの境界地帯の多くの要衝を取り戻した。こうして、ギリシャ本土での抗争は止んだが、エーゲ海での戦いが再燃した。ここでもローマ軍はロードスとペルガモンの艦隊の協力を得て、セレウコス艦隊を一掃した。アンティオコス3世はトラキアを明け渡して交渉の道を探ったが、ローマ側の要求が厳しいため交渉は決裂し、最後の決戦がアナトリアで行われた。この時ローマ軍を指揮したのが執政官ルキウス・コルネリウス・スキピオであり、しかも彼にはハンニバルを破って「アフリカヌス」と呼ばれていた兄の「大スキピオ」が補佐として付いていた。決戦はBC190年からBC189年にかけての冬に行われた。ローマ軍には、ペルガモンのエウメネス2世も合流していた。アンティオコス軍はローマ軍の2倍の兵力を揃え、セレウコス伝統の騎馬隊や象隊も動員して戦ったが、エウメネス軍に支えられたローマ軍はビクともしなかった。戦いの展開は一方的となり、ローマ側の死者が400に留まったのに対し、アンティオコス側は5万を数えたというが、これは誇張された数字と思われる。アンティオコス3世は和平を求め、BC188年にシリアのアパメイアで条約が締結された。その結果、セレウコス朝はギリシャと小アジアに持っていた領土の大半を失った。

 またギリシャでは、BC189年にアイトリア同盟に厳しい結果となる条約が締結された。その中で、アイトリア同盟はデルフォイの聖域を共同で維持管理するための隣保同盟を解放すること、ギリシャ西海岸とアドリア海の入口を監視する艦隊の基地になっていたイオニア諸島をローマに譲渡することが命じられた。このアパメイア条約によって、小アジアにおける勢力分布は大きく変わった。ローマの勝利で最大の利益を受けたのはペルガモンのエウメネス2世で、アナトリアのタウロス山脈以北のセレウコス王国領、トラキア南部のケルソネス、プロポンティス海周辺の地が彼の手に帰した。ロードスは小アジア南西部のリュキアとカリアを取得した。ペルガモン王国の直轄であるエフェソスを除く、小アジアのギリシャ人都市のほとんどは自由都市になった。アンティオコス3世は象も艦隊も手放し。キリキアより西に足を踏み入れることを禁じられ、自分の王国の西側ではいかなる同盟も結ばないこと、ローマに敵対した人間を引き渡すこと、1万5000タラントという莫大な賠償金を支払うことを義務付けされた。結局、セレウコス朝から取り上げられた領土の運命に関する決定権はローマが握ったことになる。


 東地中海に姿を現わしてから10年にもならないローマが新しい覇者となった。アパメイア条約以降、ヘレニズム世界の歴史は、本質的にはヘレニズム諸国家とローマの関係史、西アジアやエジプトにおけるローマによる征服の漸進的拡大の歴史となる。アンティオコス3世はアパメイア条約の翌年のBC187年に悲劇的な死を遂げた。彼は戦争に敗れ、その賠償金を支払うために金の有りそうな所ならどこへでも出かけた。そしてメソポタミア下流域の聖域の財宝に手を付けようとし、怒った人びとによって虐殺された。


 第3次マケドニア戦争(BC171年~BC168年)の間、セレウコス朝の王、アンティオコス4世(在位:BC175年~BC164年)はマケドニアとの姻戚関係にもかかわらず、この戦争には巻き込まれないようにしてきた。彼は人質としてローマに滞在していた経歴もあり、ローマとは良好な関係を維持してきた。アパメイア条約で縮小されたとはいえ、セレウコス朝シリアは広大で多様な王国の結集力を維持する必要性を彼は自覚していた。彼が対応しなければならなかった課題は3つあった。一つはエジプトに対する第6次シリア戦争、第2はユダヤ問題、第3はイラン地方の動乱である。


<第6次シリア戦争(BC170年~BC168年)>

 第6次シリア戦争はエジプトでプトレマイオス5世(在位:BC205年~BC180年)がBC180年に死去したことによる難局が引き金になって起きた。プトレマイオス5世が死んだとき息子のプトレマイオス6世(在位:BC180年~BC145年)はまだ幼く、母親であるセレウコス朝アンティオコス3世の娘のクレオパトラ1世が摂政になった。そのおかげでセレウコス朝との友好関係は維持されたが、彼女がBC176年に亡くなり、大臣たちが政治を欲しいままにするようになると、レヴァント地方征服の計画が再燃してBC170年には戦いが始まる。大臣たちによって、王権強化のためにプトレマイオス6世と、その妻で姉のクレオパトラ2世、そして弟の小プトレマイオス(後のプトレマイオス8世)の共同統治体制が採用された。しかし、戦いはBC168年まで長引き、力を回復したアンティオコス4世によってキプロス島そしてナイルデルタの入口であるペルシオンが奪われ、さらにアレクサンドリアまで包囲された。プトレマイオス王家から支援を求められたローマは元執政官のポピリウス・ラエナスを使節として送った。ポピリウスはアレクサンドリア郊外でアンティオコス4世に会い、エジプトからの退去を要求するローマ元老院と執政官の文書を突きつけた。アンティオコス4世が評議会に諮りたいと言ったところ、ポピリウスは自らの指揮棒で王の周りに円を書き、答えが得られるまではここから出さないと宣言、結局、アンティオコス4世が折れて、軍をエジプトとキプロスから撤退させた。この「ポピリウスのサークル」は、BC168年のマケドニアにおけるピュドナの勝利以後、ローマがアジアの君主たちに如何に恐れられていたかを象徴するエピソードとして後世に伝えられた。


 アンティオコス4世は、エジプト征服を諦めてシリアに帰還する途中、ユダヤ人の反乱を鎮めなければならなかった。エルサレムのユダヤ人たちは何年も前から基本的に二派に分かれていた。一方は先祖伝来の信仰は捨てないまでも、ヘレニズム文化を象徴するギリシャ的慣習に染まった人びとであり、他方はユダヤの伝統にこだわり、新しい風習を不信仰と決めつけ、自分たちをハシディム(敬虔な人びと)と呼んだ人びとである。アンティオコス4世はハシディムの人びとを鎮圧したうえ、ヤハウェを信仰する人びとと並んで、例えば、ギリシャ人のためにゼウス・オリンピア、非ユダヤ人のためにバァール神の祭壇を設けるなど、さまざまな信仰の人びとも収容できるように神殿を改修させた。しかしイスラエルではその後も正統派ユダヤ人たちの抵抗運動は続いた。また、アンティオコス4世は軍隊を整備し、かつて父親が再建した秩序が乱れていること理由にBC166年から東部諸州を巡回した。さらにBC165年、彼はアルメニアを目指し、メソポタミアを経由して向かう途中で病気に罹ってBC164年に亡くなった。アンティオコス4世の後は、王位争いが続き、在位期間の短い王が9名立ったが、BC150年ごろ中央アジアからイランに侵入し、さらにメソポタミアにまで勢力を拡大したパルティア人たちの脅威もあり、国内の秩序は乱れ、最後は姻戚関係にあったプトレマイオス朝エジプトからも見放され、セレウコス朝シリアは首都アンティオキア周辺の僅かな領域のみを残して、BC125年に事実上消滅した。



(ペルガモン王国アッタロス朝)BC283年~BC133年


 小アジアのギリシャ都市の中で、ペルガモンがセレウコス朝から独立することになる。トラキアの領主リュシマコスは、BC301年のイプソスの戦いでマケドニアのアンティゴノスを破って、ヨーロッパとアジアにまたがる支配を実現しそうになったとき、小アジア中部、カイコス川の北岸のペルガモンの砦に財宝を移し、マケドニア人将官フィレタイオスにこれを守らせた。しかしフィレタイオスはリュシマコスを裏切ってセレウコス側についた。BC281年、リュシマコスは小アジア中部のコルペディオンの戦いでセレウコスに敗れ、彼の野望も終わりを告げた。この戦いでリュシマコスを破ったセレウコスはアジア全域を支配することになり、さらにマケドニアを統合しようとしたが、その数ヶ月後、自分の親族の一人の裏切りによって小アジアで暗殺された。フィレタイオスはセレウコスの遺骸を買い取って、息子のアンティオコス1世に引き渡して歓心を買った。これにより事実上の独立を獲得すると、フィレタイオスは勢力を拡大し、ガラタイ人の侵入や略奪に対抗するための兵力を整え、最終的にはガラタイ人に勝利した。彼の死後にデロス島に建てられた顕彰碑は、短詩形式で彼の勝利を称えている。

“幸多きかな、フィレタイオス! 汝の人柄は、神々に愛でられし詩人たちや技能優れた彫刻家たちに主題を提供した。汝は、軍神アレスを呼び覚まして、荒々しいガラタイの戦士たちを、領地の境界から遥か遠方へ追い払った。この故に、ソシクラテスは、波打ち寄せるデロス島に、末永く人びとにその素晴らしさを讃えられるにふさわしい像を奉げた。ニケラトスのこれらの像を見るなら、ヘファイストスといえども、手直しののみを取ることはできないであろう”

 *ニケラトスはBC3世紀の彫刻家。ヘファイストスは火と鍛冶の神。


 フィレタイオス(在位:BC283年~BC263年)は生前多くの都市や聖域に聖堂を献じた。このような威信誇示の政策は、それなりの効果をもたらした。BC263年に甥のエウメネス1世(在位:BC263年~BC241年)が彼の跡を継いだとき、ペルガモン王国はアンティオコス1世のセレウコス朝に対抗できるほどになっていて、アンティオコス軍をリュディアのサルディスで破った。貨幣もセレウコスの像を打ち出したものに替わって、フィレタイオス自身の顔を刻んだ通貨が造られている。これは新しい王朝の誕生を雄弁に物語っている。


 セレウコス朝では、兄のセレウコス2世を破りアナトリアを手に入れた弟のヒエラクスは、戦いに協力してくれたガラタイ人傭兵隊をペルガモンに差し向けた。ペルガモンではBC241年以来、フィレタイオスの甥の息子であるアッタロスが養父のエウメネス1世から統治権を引き継いでいた。アッタロス1世(在位:BC241年~BC197年)はガラタイ人傭兵隊を破っただけでなく、連戦連勝を重ね、アナトリアにおけるセレウコス朝の領土のほとんどを掌中に収めた。アッタロスはソテル(救済者)の称号で称えられ、ペルガモン王国は、ヘレニズム世界でも重要な君主国の一つとなった。彼がペルガモンのアテナ神殿とアテナイのアクロポリスに奉げた豪華な献上品は、彼の戦果を際立たせている。そのためもあって、ペルガモン王国はアッタロス朝と呼ばれる。

 BC180年ごろ、ペルガモン王国は繁栄の絶頂期を迎える。BC188年のアパメイアの和約によって、最大の利益を受けたペルガモンのエウメネス2世(在位:BC197年~BC159年)は、その近年の征服事業とローマとの友好のおかげで、アナトリアの君主という観を呈する。彼はこの広大な領土から吸い上げた莫大な富で首都ペルガモンを美化した。ガラタイ人たちに対する勝利を記念して建設された有名なゼウスの祭壇は、ちょうどペリクレス時代のパルテノンの建設がアテナイの偉大さを示しているように、ペルガモン王国の繁栄を象徴している。

 ヘレニズム文化の中心は、ペルガモンのような新しいギリシャ人の入植地や都市だった。このような植民市で活発な文化活動が展開され、科学や芸術の分野で大きな進歩がみられた。ギリシャ文化そのものと、とりわけ政治・芸術・宗教の面でアジアからさまざまな影響を受けて豊かさを増していった。小アジア沿岸地方に位置するペルガモン王国は、BC263年にセレウコス朝から独立し、BC2世紀にはその首都が小アジア最大の都市としてヘレニズム文化の一大中心地となった。アレクサンドリアに次ぐ規模の大図書館や大祭壇が有名で、現在ベルリンにペルガモン博物館がある。険しい山腹にあったペルガモンでは、建造物や広場は階段や歩廊で結ばれていた。


 ペルガモン王国は、アパメイアの和約後はローマの支配下に置かれながらも、エウメネス2世(在位:BC197年~BC159年)がセレウコス朝のアナトリアの領土を獲得し、国を強化することに成功したことによりアナトリア西部の覇者にまでなる。しかしBC168年、ローマがマケドニアに勝利したピュドナの戦いの後は、ペルガモンがローマの軍事要請に十分応えなかったことからエウメネス2世とローマの関係は冷え込む。エウメネス2世はBC159年に亡くなり、弟のアッタロス2世(在位:BC159年~BC138年)に引き継がれた。彼は60歳を越えていたにもかかわらず、その後20年間統治し、ローマとも良好な関係を維持し、BC154年にボスポラス海峡に近い小国ビテュニアと対立した時も、ローマの支持を取り付けて勝利した。その後、トラキアとの戦いでも勝利し、海峡のヨーロッパ側に領地を広げ、ペルガモンを小アジアで最も豊かな国にした後、兄のエウメネス2世の息子アッタロス3世(在位:BC138年~BC133年)に後を託してBC138年に亡くなった。ところが、ヘレニズム世界で唯一堅固さを誇ったこの国を、アッタロス3世がローマに寄贈したしたのである。この決定は、即位から5年後の彼の早過ぎる死の直前の遺言によるものだった。この彼の驚くべき行動によって、ローマは初めてアジアの地に恒常的な足場を確保することになった。ペルガモン王国の首都ペルガモンはローマ領内のギリシャ本土のアテナイ、スパルタ、テッサリア、アイトリアなどの都市と同様な資格を得て自由都市となった。その後、アッタロス3世の異母兄弟のアリストニコスの反乱はあったが、ローマはこれを難なく鎮圧し、トラキアはマケドニア属州に併合され、その他のペルガモン領であったフリュギア、ミュシア、カリア、リュディアなどはアシア属州となり、ローマの支配がボスポラス海峡のヨーロッパ側でもアジア側でもしっかりと確立された。ローマの属州支配は巧みだった。これらの属州や自由都市での経済・行政・文化的生活は維持され、宗教的、市民的祭典もローマの力に守られて続行され、奴隷反乱などの騒乱が起きた時にはローマが鎮圧した。したがって、人びとはローマの力に感謝し、その寛大さを讃え、ローマ人行政官たちに敬意を表した。古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは次のように述べている。“ローマは他の国の過ちを利用して支配を拡大し、確固たるものにするのであって、そのやり方が余りにも巧みなので、これらの国々の人びとには恩人のように見え、彼らから感謝までされるのである”



(アンティゴノス朝マケドニア)BC306年~BC168年


 ヘレニズム世界第3の王国は、マケドニア王家を断絶させたカッサンドロスの後、マケドニア本国においてマケドニア王家の遺産を回復し維持した王朝である。この王朝はディアドコイの一人で隻眼のアンティゴノス1世(在位:BC306年~BC301年)に始まる家系である。小アジアとアナトリア西部を領有したアンティゴノス1世はBC301年にイプソスの戦いで、アレクサンドロス帝国再建の望みを絶たれるまでは、息子でギリシャ本土を服従させたデメトリオス1世(在位:BC301年~BC285年)と共に事を成就できそうな勢いだった。デメトリオスは父亡き後、その軍事的才能で「国取り名人」と呼ばれたが、ギリシャ本土とマケドニアで成功と失敗を繰り返したあげく、BC285年に死去した。その後、空白の2年間の後、最終的に一人の有能でエネルギッシュな若い王子の手に委ねられた。デメトリオス1世の息子アンティゴノス2世(在位:BC283年~BC239年)である。この名前は祖父である隻眼のアンティゴノスを引き継いだもので、歴史書では「アンティゴノス・ゴナタス」として知られる。

 彼は、父親たちの冒険に加わることで戦術と政治の要諦は習得していたが、父親たちを滅ぼした権力や遊蕩への貪欲さとは縁を切り、アテナイで洗練された教育を受け、詩人や哲学者たちと親交を結んだ。とりわけストア学派の創始者、キプロスのキティオン出身のゼノンに師事し、その教えを守り天性の道徳的資質を失わなかった。BC283年からBC239年にまでわたったその治世の間、彼は多くの難問にぶつかったが、平常心と洞察力、節度を持ってそれらを乗り越えることができた。彼こそアンティゴノス朝マケドニアの真の創始者であり、この王朝がアンティゴノス朝と呼ばれる所以ゆえんである。アンティゴノス2世は、エーゲ海ではプトレマイオス朝の艦隊と、小アジアではセレウコス朝とにらみ合いながら、ギリシャの支配権を保持しようと奮闘する。こうした状況の中で、BC265年にはアテナイが再度独立を試みるが失敗に終わっている。この結果、ギリシャ本土に対するマケドニアの覇権はアンティゴノス2世の明敏で確固たる政策によってますます堅固になった。マケドニア王政の伝統に忠実なアンティゴノス2世は、決して自分を礼拝させようとはしなかった。彼は息子にも、「王であるとは名誉ある奴隷であるということだ」と語っていた。アンティゴノス2世は息子のデメトリオス2世にも早くから権力に参画させた。

 デメトリオス2世(在位:BC239年~BC229年)はマケドニアの利益を守るために父親のやり方に倣ったが、一つ本質的な点で父親の政策を変更した。ギリシャ北部のアイトリア同盟との通商協定を放棄したのだ。これはアイトリア人たちが、東方ではエーゲ海で盛んに海賊行為を繰り返し、西方でもその北のエぺイロスを侵略してマケドニアに脅威を及ぼしていたためであった。古代ギリシャでは、沿岸と外洋を問わず海賊行為は儲けになる活動だった。「イーリアス」と「オデュッセイア」にも、ギリシャの英雄たちが外国の地に対して宣戦布告しての正式な戦争ではなく、突然の襲撃を盛んに行ったことが述べられている。また、マケドニアの西方では、寡婦となった王妃が摂政として治めていたエぺイロスがマケドニアに庇護を求めてきたのに対し、デメトリオス2世はエぺイロスの王女を娶って関係を強めて庇護した。

 BC239年以降は、ペロポネソス半島北部のアカイア同盟が、それまで争っていたアイトリア同盟と和解したため、マケドニアはこの両者と戦わねばならなくなった。この戦争では、デメトリオス2世はボイオティアをアイトリア同盟のくびきから解放し、アカイア同盟からはメガラを奪い取ったが、ペロポネソス半島ではメガロポリスを失った。そうした状況の中で、BC236年以降、彼を悩ませるのが、ダルダノス人と呼ばれるバルカン半島の山地の蛮族である。この蛮族との戦いの中で、BC229年にデメトリオス2世は、まだ10歳にもならない息子フィリッポスを残して亡くなった。この状況を救ったのがデメトリオス2世の従兄弟のアンティゴノス・ドソンである。彼はアンティゴノス3世(在位:BC229年~BC221年)として即位すると、若いフィリッポスを邪魔せず、王国を維持し、再生させて王位を譲り渡した。アンティゴノス3世はアカイア同盟諸国を打ち破り勝利したが、BC221年に病気で亡くなった。フィリッポスは17歳となっており、マケドニアの王位を継いでフィリッポス5世(在位:BC221年~BC179年)として即位した。しかし、まもなく新しい脅威が西方から姿を現わす。新興国ローマがイタリア半島とシチリア島の主要なギリシャ人都市を服従させた後、アドリア海の東海岸に介入し始めていた。アドリア海におけるローマの勢力拡大の動きには、フィリッポス5世も無関係ではいられず、BC215年にカルタゴのハンニバルと条約を結んでいる。


<第1次マケドニア戦争(BC215年~BC205年)>

 フィリッポス5世はアドリア海の東海岸のイリュリア地方にあるギリシャ人植民都市、アポロニア、エピダムノス、ファロス、コンキュラなどに軍事介入する前に、まずファロスのデメトリオスをスパルタの西隣のメッセニアに送った。しかしデメトリオスが殺されてしまうと、フィリッポス5世はアドリア海で戦いを繰り広げ、陸上では勝ち進んだが、アポロニア前の海でローマ艦隊に敗北を喫した。この時ローマはアイトリア同盟およびスパルタ、エリス、ペルガモンと提携を強めている。この第1次マケドニア戦争は10年続き、その間ローマ軍とローマ艦隊が略奪を繰り広げたため、ギリシャ諸都市にとって重い負担となった。フィリッポス5世は外交でも軍事でも精力的に活動した。BC209年にはアイトリア同盟のストラテゴス(指揮官)になったペルガモンのアッタロス1世を攻め、フィリッポス5世自身もアイトリアに侵入して同盟の首都のテルモスまで進撃した。このためアイトリア人たちは、BC206年にアンティゴノス朝と和平条約を締結し、支配領域のうちテッサリアの西部とその南のフォキスを手放すことを受け入れた。ローマはカルタゴとの戦争のためBC207年以降部隊を呼び戻していたが、そのためにアイトリア同盟の離脱を招いたことから、ローマもBC205年にアンティゴノス朝マケドニアと和平条約を結んだ。イリュリアの紛争地はアンティゴノス朝とローマの間で分割され、ここにローマとの第1次マケドニア戦争は終結した。


<ローマの干渉>

 BC202年ごろ、フィリッポス5世はヘレスポントス海峡とボスポラス海峡の間にあるプロポンティス海と二つの海峡に面した地域のギリシャ緒都市に攻撃を加え、この方面で活動していたロードス島の商人たちを脅かし、ペルガモン王国のアッタロス1世を不安がらせる。BC201年、フィリッポス5世は強力な艦隊を建造してキクラデス諸島の島々を占領し、プトレマイオス朝の庇護を受けていたサモス島を攻撃した。ロードス人たちは救援のために艦隊を送ったが、ミレトスに近いラデ島で撃破され、プトレマイオス朝の属領だったミレトスもフィリッポス5世に占領された。そこで、ロードス島とボスポラス海峡に面したビュザンティオン、キオス島の諸都市とアッタロス1世は、対フィリッポス5世同盟を結んで対抗するとともに、ローマに支援を要請した。フィリッポス5世はペルガモンの領土に侵入し攻略したが、町を手に入れることはできず、キオス島の前での海戦で敗れ、小アジア南部のカリアに移動し、BC201年末、ここで冬営した。

 共和国ローマは、第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)が勝利のうちに終わったので、その軍勢を別の地域に振り向ける余裕があった。また、フィリッポス5世がBC215年にハンニバルと協定を結んでローマに対抗したこともローマ元老院は忘れていなかった。プトレマイオス朝エジプトもプトレマイオス4世(在位:BC222年~BC204年)の死後、ローマに使節を送っていた。ローマ元老院は、その返礼と東方における事態の状況を確かめるため、BC200年に3人の使節をこの地域に派遣した。この時アテナイは、カリアから引き揚げて矛先を転じたフィリッポス5世との戦争に巻き込まれていた。ローマではすでに対マケドニア戦争を決議し、2つの軍団がイリュリアのアポロニアに上陸していた。


<第2次マケドニア戦争(BC200年~BC197年)>

 フィリッポス5世は、セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:BC223年~BC187年)の支援もなく、ほとんど孤立無援となる。ギリシャ同盟は崩壊し、アカイア人たちはしばらく様子見をした後、雪崩を打って敵方に付いた。こうして、ローマに協力したロードス人たちとアッタロス朝ペルガモンの艦隊がエーゲ海の制海権を握り、陸上ではアイトリア人たちはローマとの協力に余り乗り気ではなかったが、イリュリアやバルカン半島の蛮族たちがこの機に乗じてマケドニアを攻撃した。しかし、フィリッポス5世はこの雑多な連合を相手に頑強に抵抗を続けたので、ローマの将軍たちもテッサリアの西に位置するピンドス山脈の防衛線を越えることができなかった。

 すべてが変わったのは、BC198年に弱冠30歳のフラミニヌスがローマ執政官(コンスル)に選ばれ、イリュリアにやって来てからである。野心的で知的、行動的で、ギリシャとその文化に真摯な共感を持っていた彼は、フィリッポス5世に対する厳しい要求を元老院から託されていた。それは、マケドニアはギリシャ都市に駐留させているすべての軍隊を撤退させること、150年来マケドニアの一部になっていたテッサリアを放棄することを求めていた。これはギリシャ人の独立への情熱に火をつけ、マケドニアに対する敵意を再燃させるものなので、フィリッポス5世は受け入れることはできなかった。フラミニヌスは北西からテッサリアに侵入し、中央ギリシャを南下し、弟のルキウスが指揮する艦隊と合流し、コリントスの港に達した。翌年、スパルタやボイオティアなど最後まで残っていたフィリッポス5世の同盟者たちを引き離すことに成功し、次いで北に向かいテッサリアに攻撃を仕掛けた。こうしてBC197年6月、ローマ軍団とマケドニアの密集歩兵軍の初めての対決が行われ、ローマ軍が勝った。同じ頃、アカイア人たちがコリントスを占領し、ロードス人たちは小アジアのカリアでフィリッポス5世によって奪われていた土地を奪還した。この一連の敗北のためフィリッポス5世は和平を求めざるを得なくなった。セレウコス朝のアンティオコス3世の小アジアでの動きに懸念を抱いていたフラミニヌスは、交渉に応じることを決意した。和平の条件は厳しかったが、フィリッポス5世は受け入れざるを得なかった。ギリシャにおけるすべての領土とテッサリアやその他いくつかの要衝、小アジアの領土を明け渡すこと、1000タラントの賠償金、戦艦を譲渡することなどである。但し、マケドニア国家の存続と、北方蛮族の襲撃を防ぐための軍隊の保有は認められた。最後に、マケドニア王国の対外交渉権もローマに渡すことが決められた。BC196年、全ギリシャ人が集まって行われたイストミア競技祭で、フラミニヌスは聴衆に向かって、ギリシャ都市の自由の権利とマケドニアからの開放を宣言した。ローマ軍はギリシャにさらに2年間駐留し、BC194年の夏にイタリアへ引き揚げた。フラミニヌスのローマでの凱旋式では、戦利品として持ち帰った絵画や彫像、宝物をお披露目する行列が組まれた。そうした略奪品のショーは、その後何百年も頻繁に繰り広げられ、ローマは町全体がギリシャの遺品で満たされた。これは古代における戦争の習いで興隆する国には各地から芸術品や豪華な家具が集まってきたのだった。


 マケドニア王国ではBC179年にフィリッポス5世が亡くなったとき、跡を継いだ息子のペルセウス(在位:BC179年~BC168年)は32歳であった。彼はセレウコス4世の姉妹であるラオディケを妻とし、自分の妹をビテュニアのプルシアス2世と結婚させることによって王朝間の絆を強化し、ロードス人たちとの接近も図った。このようにペルセウスはマケドニアの再生のため他の緒王国やギリシャ諸都市との政治的関係を作ることに努力を重ねた。マケドニアのライバルであるペルガモンのエウメネス2世はトラキアや海峡地域の自分の領土への心配と、ギリシャ本土でペルセウスが人望を集めていることへの羨望も手伝って、BC172年に自身でローマの元老院へ出向き、「マケドニアの軍事力再建の奥にあるのはイタリア侵攻の意図である」と述べて、元老院の反響を呼び起こした。しかもエウメネス2世がデルフォイ経由でペルガモンに帰国したとき、危うく暗殺されそうになるという事件が起きた。ローマにとって東方における最も忠実な友人が命を狙われたこの事件には、マケドニアが関与していたに違いないと見られ、マケドニアに対する新たな戦争が決議された。何度かの交渉の後、BC171年春、第3次マケドニア戦争が始まった。


<第3次マケドニア戦争(BC171年~BC168年)>

 ローマの将軍たちは2年間にわたるテッサリアでの戦いにもかかわらず、これといった成果を挙げられなかった。BC169年、執政官マルキウス・フィリップスがオリュンポス経由でマケドニアに攻め入ったが、背後をイリュリア人によって脅かされたので、まずイリュリア人たちを従えることにした。この戦争で通商を妨げられたロードス人たちの調停にもかかわらず、BC168年にローマは新しい執政官パウルス・アエミリウスに戦いの指揮を委ねた。彼は兵士たちの訓練をし直して自信を取り戻させ、対戦直前に月食が起きたときも、これはマケドニア王国の終焉を予告しているのだと兵士たちに説明した。戦場では、マケドニア軍陣地を巧みに迂回することによって、マケドニア軍に後退を余儀なくさせた。ピュドナの町の南で1頭の馬が逃げ出すという偶発事をめぐって起きた小競り合いから始まった戦いは、たちまちマケドニア軍にとって災厄に転じた。マケドニア軍は死者2万人以上を出して壊滅した。他方ローマ軍の死者は100人足らずだった。この見事な勝利を記念して、ギリシャ文明の愛好者であったパウルス・アエミリウスは後日、戦いの場面をレリーフで描いた記念柱をデルフォイの神域に建てさせている。ペルセウスはパウルス・アエミリウスに降伏し、息子ともどもローマに連行されて、勝者の凱旋行列に身を晒した後、牢獄で屈辱的な死を遂げた。こうしてヘレニズムの偉大な君主たちの先頭を切ってアンティゴノス朝マケドニアが消滅し、マケドニアは4つの自治共和国に分割され、マケドニアの外に所有していた領土や拠点は旧来の君主の下に帰されたり、独立を宣せられた。最も過酷な扱いを受けたのはマケドニアの西隣でアドリア海に面したエぺイロスである。エぺイロスはBC170年にペルセウスの陣営に加わったことから、70の町や集落がローマ軍によって襲撃され略奪され、15万の住民たちが奴隷として売られた。それとは逆に、アテナイはかつて入植し所有していた北部エーゲ海の島々を返却されたばかりか、約150年前に失っていたボイオティアの一部とキクラデス諸島のデロス島も返還された。デロス島は自由港となり、エーゲ海交易の要になった。一方、それまで東地中海の商業物資の主要な集散地だったロードス島は苦境に追い込まれ、さらに小アジア南西部のカリアとリュキアの領土も剥奪された。ロードス人が冷遇されたのは、ピュドナの戦いでどちらに味方するかの決断が遅れたからだった。

 アレクサンドロス大王が征服したものを、アンティゴノス家は大王の父祖伝来の地マケドニアに身を置き、フィリッポス2世の政策から受け継いだ支配権をギリシャ本土の人びとの上に行使することによって、それを維持することに専念した。このため、アンティゴノス朝の歴史は、BC283年のアンティゴノス2世の治世の始まりから、BC168年の「ピュドナの戦い」でのその子孫たち滅亡までの間、解きほぐせないほどギリシャ緒都市と結びついていた。このため、ギリシャ諸都市の自治は、アンティゴノス朝マケドニア王国の滅亡とともに実質的に消滅したといえる。



(ヘレニズム諸国の凋落とローマの東方進出)


 第2次および第3次マケドニア戦争に到る、BC200年からBC168年の約30年間で、東地中海の様相は根底から変わった。アレクサンドロス大王の後継争いを演じてきた3つの王国の中に、別の世界に属していた非ギリシャ国家であるローマがいきなり割り込んできて、その軍事力の優位によって最も誇り高いアンティゴノス朝マケドニアを破壊してしまったのである。BC168年の「ピュドナの戦い」に続く50年ほどの間に、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトという2つの王朝も内部争いのために急速に凋落していったのに対し、成り上がり者ローマはヘレニズム世界においてその影響力をますます強め、マケドニア、ギリシャ、ペルガモン王国を属州として直接管理するまでになる。この変化の区切りはBC116年とすることができる。なぜなら、この年に残る2つの王朝の中で統治者としての資質を持っていた最後の王、プトレマイオス8世(在位:BC145年~BC116年)が没し、プトレマイオス朝は瀕死状態に陥り、最終段階を辿るからである。

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