第120話 アレクサンドロス大王のディアドコイ(後継者)たち
<年表>
BC323年~BC322年 ギリシャ諸都市によるマケドニアへの反乱とその失敗
BC322年 反マケドニアのアテナイの政治家デモステネス自害、アリストテレス死去、アテナイ民主政の終焉
BC323年~BC316年 2王の擁立。建前上は統一帝国という形が守られ、フィリッポス3世を名のったアレクサンドロスの異母兄で精神障害者だったと伝えられるアリダエオスと、アレクサンドロスの幼い息子アレクサンドロス4世という2人の王が擁立された。
BC321年 トリパラディソスの協定の成立。ディアドコイたちの間で会合が行われ、ディアドコイたちの太守としての支配領域が定められた
BC309年 マケドニア王家の断絶。カッサンドロスによってアレクサンドロス大王の妻ロクサネとその息子アレクサンドロス4世が毒殺された
BC306年~BC305年 ディアドコイたちはそれぞれが「王」を名乗り、アレクサンドロス大王の帝国はついに崩壊した。
BC301年 イプソスの戦い。アンティゴノス父子に対するリュシマコスとセレウコス連合の戦いの中で、アナトリア西部とギリシャを支配していたアンティゴノス朝の始祖アンティゴノス死去
BC283年 エジプトのプトレマイオス朝の始祖でありアレクサンドリアにムセイオンと図書館を建設したプトレマイオス1世死去
BC281年 アナトリアからシリア、アフガニスタンまで支配していたセレウコス朝の始祖、セレウコス1世が暗殺された
BC280年ごろ ヘレニズム世界はついに一つの持続的な形をとる。最終的に残ったのは3つの王朝、エジプトのプトレマイオス朝、アジアのセレウコス朝、マケドニア本国のアンティゴノス朝である
***
(ディアドコイたち)
アレクサンドロスが大きな影響を及ぼしたのは、もっぱら東方の世界だけだった。彼の治世は余りに短く、BC4世紀後半の地中海世界で最大の関心事だったギリシャ人とカルタゴとの争いに関与する時間的余裕はなかった。ペルシャの王位継承権を主張したアレクサンドロスに対してペルシャ属州の統治者たちも忠誠を誓っていた。けれどもアレクサンドロス帝国の基礎はもろく、後継者を残さないまま大王が死亡すると、有力な将軍たちが権力を求めて戦いを繰り広げることになった。
BC323年5月29日にアレクサンドロスを襲った病は急激で、その2週間後には命を奪ったので、後継者問題を処置する暇もなかった。最後の4日間、もはや死が避けられないことが予感された時には、彼は話をすることもできなくなっていた。取り巻きのマケドニア人たちは、当然王家の伝統に固執した。マケドニアの伝統では、王位継承はマケドニア人民集会で承認の歓呼を受けて成立した。ただ、このように外国の地にいるような状況にあっては、軍隊の承認によることも可能だった。アレクサンドロスはまだ直接の跡継ぎを持っていなかった。妻の一人でソグディアナの首長の娘ロクサネは子供を身籠っていたが、生まれてくる子は女児かもしれない。アレクサンドロス4世と呼ばれることになる男児を産むのは2ヶ月後の8月になってからである。この王子が生まれるまでの間、マケドニア王家の血筋を引いていたのは、アレクサンドロスの異母兄アリダエオスだけだった。しかし彼は精神障害者だったと伝えられる。マケドニアの将軍たちは、とりあえず、このアリダエオスと8月に生まれたばかりの幼児の2王を並立させる形を採り、各自の権利を保留しながら国家を運営することにした。アレクサンドロスの下で騎馬隊を指揮していた「ペルディッカス」は、太守領分配で中心的な役割を果たして非公式ながら摂政的な国家統帥を務める一方で、アレクサンドロスの下で何度も軍事上の最高命令権を担った「クラテロス」に2王を代理する役目が託された。アレクサンドロスが立場を尊重していた太守職は形ばかりのものとなり、世界統一君主という理想は放棄された。スーサで行われた集団婚礼もほとんど解消された。
老いた「アンティパトロス」は、すでに11年来やってきたように太守としてマケドニア本国を守り、その北に広がるトラキアは。その状況の難しさと、ヘレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)の番人としての役目の重要性から「リュシマコス(アンティパトロスの娘婿)」の権限下に置かれた。アジアは将軍たちが分割して統治することになった。エジプトはギリシャ人の町ナウクラティスのクレオメネスがアレクサンドロスから管理を託されていたが、彼は排除され、「プトレマイオス」が統治することとなった。小アジアとアナトリア西部の大部分は、征服戦の初期から責任を託されてきた隻眼の「アンティゴノス」が引き続き支配することになった。アレクサンドロスの書記官として最も身近に仕えたギリシャ人の「エウメネス」は、アナトリア中央部のパフラゴニアとカッパドキアを獲得した。エウメネスはペルディッカスの助けを借りて、アレクサンドロスが関わらないで通過したカッパドキアを服従させたのだった。そして「セレウコス」は、領地を支配するのではなく、騎兵軍の指揮権を確保した。これらの将軍たちがアレクサンドロスの後継候補たちで、ディアドコイ(Diadoques)と呼ばれている。以後、彼らとその息子たちが、約40年にわたり帝国の統一性復活を目指して血みどろでぶつかり合うことになるのだが、一人また一人と挫折していく中で、ヘレニズム王国群として新しい一つの均衡が生まれていく。
[ギリシャ本土における反乱]
アレクサンドロス死去の報が伝わった時、長年隷従に慣れていたアジアの人びとに混乱は生じなかったが、古くからの自主独立の理想を棄てていなかったギリシャ人たちはたちまち蜂起した。中央アジアのバクトリアとソグディアナの太守領に入植させられていたギリシャ人たちは、ギリシャ人太守の下に1つの戦力を形成してバクトリアにギリシャ人国家を誕生させた。BC225年には独立王国となって、当時では際立った繁栄を謳歌することになる。
一方、ギリシャ本国でも、反マケドニアの気運が高まり、アテナイを中心としたギリシャ諸都市が反乱を起こした。アテナイのレオステネスがこのギリシャ同盟軍を指揮して、ギリシャ本土の北の境界線にあたるテルモピュライを占拠し、マケドニアの太守アンティパトロス指揮下のマケドニア軍をラミアに封じ込めた。ギリシャ諸都市のマケドニアに対する最後のこの決起は「ラミア戦争」と呼ばれる。ラミア包囲は、冬を挟んでBC323年からBC322年まで続いたが、レオステネスが要塞前での小競り合いで死んだため同盟軍の結束は崩壊し始めた。アンティパトロスは平地戦で敗北した後、マケドニアまで後退し、クラテロスがアジアの地から増援軍を率いて来るのを待った。アテナイ艦隊はこの増援軍を阻止しようとして、キクラデス諸島の南のアモルコス島近くでアンティパトロ側の艦隊と会戦したが、惨敗を喫した。またBC322年9月、アテナイ同盟軍もマケドニアの南のテッサリアでアンティパトロスとクラテロスの軍によって粉砕された。アテナイは同盟都市から見捨てられ、アンティパトロスが課した厳しい条件、重い戦争賠償金、民主政から寡頭政への変更などに従わなければならず、アテナイの民主政は終焉を迎えることになった。このとき反マケドニアの主張を続けていたデモステネスは、アテナイ沖にあるカウラリア島のポセイドン神殿に逃れようとしたが、結局は服毒自殺した。こうしてアテナイが政治の舞台から姿を消した。以後、ペロポネソス半島はマケドニアの地方長官によって統治されることになった。
(2人の王の擁立)
BC323年からBC316年までは、建前上は統一帝国という形が守られ、フィリッポス3世を名のったアレクサンドロスの異母兄アリダエオスと、アレクサンドロスの息子アレクサンドロス4世という2人の王が擁立された。次いで繰り広げられた冷酷な政治的戦いの中でマケドニア王家の血統が消滅すると、ディアドコイたちはすべてを取り仕切るようになり、帝国の再建を目指して離合集散を繰り返した。
アレクサンドロスの死後、生まれ故郷のエペイロスに引っ込んでいたアレクサンドロスの母オリュンピアスが、再び政治的野心に取りつかれて、未亡人になっていた娘のクレオパトラ(アレクサンドロスの実の妹)を、国家統帥を務めることになったペルディッカスに
ペルディッカスは小アジアの自分の本領を自分に忠実なエウメネスに託して、自ら軍勢を率いてエジプトに向かい、メンフィスの直前まで侵入したが、ナイル川を渡ろうとして不手際のため多くの死者を出した、そのため将軍たち(その中にはセレウコスもいた)が反乱を起し、ペルディッカスを暗殺し、かねて有能で知られていたプトレマイオスに国家統帥になってくれるよう要請した。この時プトレマイオスがこの要請を受けなかったのは、他のディアドコイたちと違って、彼にはアレクサンドロス帝国の王になる気はなく、肥沃なエジプトを誰からも邪魔されることなく領有することがより確実な道であると考えたからだった。この時、ペルディッカスがいなくなったのを知って、アンティパトロスとクラテロスの軍勢がアナトリアに侵入し、エウメネスの部隊に襲いかかった。この戦いでクラテロスは死んだ。こうしてわずか数週間でペルディッカスとクラテロスという後継者争いの2人が姿を消した。ディアドコイたちが少しずついなくなるとともに、混沌とした時代も終焉し、新しい秩序が生まれてくる。
[トリパラディソスの協定]
BC321年、シリア北部の城塞トリパラディソスで、ディアドコイたちの間で会合が行われた。ここでアリダエオス(フィリッポス3世)と幼児アレクサンドロス4世の「2王の摂政」としてマケドニアの老いたアンティパトロスが、その年齢からもこれまでの忠誠ぶりからもふさわしいとして選ばれ、ディアドコイたちの太守としての支配領域が定められた。プトレマイオスは必然的にエジプトを引き続き領有した。彼のペルディッカスに対する勝利は「槍による征服」と考えられたからである。セレウコスはバビロニアを核とする旧ペルシャ帝国の中心部を手に入れた。アンティゴノスはフリュギアとリュキアを領有して小アジア太守に任命される一方で、クラテロスを倒したことで有罪となったエウメネスを討伐することになった。アンティパトロスの娘でクラテロスの未亡人フィラは、アンティゴノスの15歳の息子デメトリオスの妻となり、この二人の間に生まれた息子アンティゴノス・ゴナタスは未来のマケドニア王となる。インドのポロスなど、その他のアジアの太守たちもその地位を定められ承認された。これがアレクサンドロス大王の帝国に不安定ながら一体性を保たせようとした最後の取り決めとなった。
この後、アンティパトロスは2王を伴ってマケドニアに向かった。これはアレクサンドロス大王の世界王朝の再現を諦めるということでもあった。なぜなら、そうした世界王朝は、アジアの帝国の中心部にしかそのあるべき場所を見出すことはできなかったからである。この意味で、「トリパラディソスの協定」はアレクサンドロス大王の夢がその最も血縁の近い人びとによって放棄されたという歴史的転換を表わしている。
小アジア太守のアンティゴノスは、他の太守たちによって追放されたエウメネス追討に向かい、それに乗じてアナトリアに勢力を拡大してエウメネスをカッパドキアの一つの要塞に包囲した。そうした時期のBC319年夏、マケドニア太守の老いたアンティパトロスが死ぬ。アンティパトロスには野心的な息子カッサンドロスがいたが、まだ若すぎたので、「2王の摂政」という責務を、フィリッポス2世やアレクサンドロス大王と共に戦ったマケドニア人の老将軍ポリュペルコンに託していた。マケドニアの軍隊はこの選定を承認したが、他のディアドコイたちは激しく反発し、反対同盟が結ばれた。これにはトラキア太守のリュシマコス(アンティパトロスの娘婿)、小アジア太守のアンティゴノス、そしてアンティパトロス自身の息子カッサンドロス、エジプトのプトレマイオスが加わった。ポリュペルコンはこうした敵に対抗するため、とりわけカッサンドロスの野望を挫くためにギリシャ諸都市を味方につけようと、政治的・社会的な自由を与える「アリダエオス(フィリッポス3世)の勅令」を出した。しかし、ポリュペルコンの試みは功を奏さず、度重なる軍事的失敗のため、勅令の適用も一時的でしかなかった。この間さまざまな事件が相次いだ。
ポリュペルコンが幼いアレクサンドロス4世を守ってペロポネソス半島で戦っている間に、もう一人の王アリダエオス(フィリッポス3世)は妻のエウリディケの策略に乗せられてカッサンドロスと結びついた。この企みを挫くために、ポリュペルコンはアレクサンドロス大王の老母オリュンピアスのマケドニアへの帰還を推進した。オリュンピアスは生まれ故郷のエぺイロスに流されていたが、権力への夢は失っていなかった。エぺイロス人部隊に守られて到着した彼女を迎えたポリュペルコンは、幼いアレクサンドロス4世をこの祖母に引き合わせた。マケドニア人たちはアリダエオス(フィリッポス3世)と彼の妻エウリディケをオリュンピアスに引き渡した。オリュンピアスは二人を独房に閉じ込め、アリダエオス(フィリッポス3世)を死刑にした後、エウリディケを自殺させた。こうして2王のうちの一人が姿を消し、後には祖母のオリュンピアスと6歳の孫アレクサンドロス4世が残された。この老いたオリュンピアスは積年の恨みのあるマケドニア王族たちを殺していったため、人びとの憎しみを募らせ孤立していった。これに乗じてカッサンドロスは、彼女をピュドナの町に追い込み包囲した。飢えに耐えかねて降伏してきたオリュンピアスは死刑に処された。カッサンドロスは、ポリュペルコンが支持者たちからも見捨てられ、もはや自分にとって邪魔者がいなくなったので、アレクサンドロス4世とその母ロクサネを庇護下に置き、アリダエオス(フィリッポス3世)とその妻エウリディケのために盛大な葬儀を執り行い、マケドニア王家の墓所に埋葬、次いで自身はフィリッポス2世の庶出の娘テッサロニケと結婚し、マケドニア王権の継承を要求できる立場を手に入れた。BC316年には、かつてアレクサンドロス大王が破壊し尽したテーバイの町を他のギリシャ諸都市の支援によって再興することを宣言した。これは明らかに大きな歴史の流れが変わったことを示したのだった。
同様の事態の進行はアジア側でも見られる。一時はカッパドキアに封じ込まれたエウメネスだったが、ポリュペルコンはアジアにおけるライバルたちの同盟に対抗するためにエウメネスに支援を求め、2王の名によって、かつてアンティパトロスが小アジア太守のアンティゴノスに与えた称号、「アジア軍司令官」に彼を任命した。エウメネスはこの信頼を活かし、マケドニア古参兵のエリート部隊の協力を得て、2年間でアナトリアからメソポタミアまでの大部分を掌中に収めた。また王室財産の管理も委ねられたことによって、軍事と財政両方を駆使して勢力を拡大した。そして、いよいよ宿敵、小アジア太守のアンティゴノスと対決することになった。BC316年初め、アンティゴノス軍との戦いの中で失策を犯した彼は、マケドニア古参兵のエリート部隊の信頼を失い、彼らによってアンティゴノスに引き渡された末に殺された。そして今度は、アンティゴノスがエウメネスから手に入れた軍と財宝によって力を倍加し、マケドニアにおけるカッサンドロスに対抗する東方アジアの覇者となった。
(マケドニア王家の断絶)
新たに一つの同盟が形成された。これにはカッサンドロスの他に、トラキアのリュシマコス、エジプトのプトレマイオスも、エウメネスによってバビロニアを追われてエジプトに逃れていたセレウコスを伴って加わった。彼らは、BC315年からBC314年にかけての冬、アンティゴノスに突きつけた最終的要求を拒絶されると、直ちに相呼応して軍事行動を開始した。すでにアンティゴノスは、シリアとフェニキアの沿岸地帯を服属させ、自分に欠けていた艦隊を建造させていたが、その一方で、アレクサンドロス4世の親衛隊として集められた若いマケドニア人兵士たちにより王として歓呼を受けるとともに、アレクサンドロス4世の身柄を確保しているカッサンドロスに「反逆者」の烙印を押した。
アンティゴノスは自分の領域を取り巻く敵との戦いの中で、シリアとパレスティナといった南の前線の守備は息子のデメトリオスに任せ、自らはアナトリアに軍勢を集結し、リュシマコスとカッサンドロスを攻めることに専念した。同時に彼は艦隊を派遣して、キプロス島、小アジア南部のカリア、キクラデス諸島でプトレマイオスの艦隊を攻めさせた。しかし、この海上戦は成功しなかった。BC312年、リビアのキュレネの反乱鎮圧に成功したプトレマイオスが、海上のキプロスでも陸上のパレスティナでも反転攻勢に出てきたからである。その後、プトレマイオスはエジプトへ帰ることになるが、ただ帰国するのではなく、連れて来ていたセレウコスに1000人足らずの小部隊を預けて、驚くべき計画を実行させた。セレウコスは幸運にも恵まれ、途中の住民たちを糾合しつつメソポタミアに進撃し、ついにはかつてアンティゴノスによって追われたバビロンを奪還して支配権を確立することに成功した。セレウコス王朝はこのBC311年春のバビロン帰還をもって治世の始まりとし、この王朝で用いられる「セレウコス暦」はその後何世紀にもわたって、この地域の共通の歴法とされていく。このセレウコスの成功は、隻眼のアンティゴノスにとって大きな痛手となった。そこで、アンティゴノスはこれまで対立してきたカッサンドロス、リュシマコス、プトレマイオスと和解することを決意し、BC311年にそれぞれが占めている領域を確認し合う協定を結んだ。この現状追認は、ほとんど形式だけだったが、ギリシャ諸都市の自立と、アレクサンドロス4世の権威を原則として留保していた。カッサンドロスにしてみると、自分のマケドニアとギリシャでの責務は、この時12歳だったアレクサンドロス4世が成人するまで太守として治めることだった。しかしBC309年、彼はやがてその権利を剥奪される事態を阻止するために、アレクサンドロス4世とその母ロクサネを毒殺した。こうしてカッサンドロスによって、マケドニア王家の血は途絶えた。
(ディアドコイたちの時代)
BC311年の合意は長続きするものではなかった。合意に加わっていなかったセレウコスはイラン東部への勢力拡大にますます力を注いだが、イランの東方地域は、インドにマウリヤ朝(BC321年~BC185年)を創始したチャンドラ・グプタがインダスの谷だけでなく、その西の山岳地帯まで勢力下に収めようとしたことから、セレウコスは、北はガンダーラからその南にインダス川流域全域をチャンドラ・グプタに譲り、これと引き替えに戦争用の象を獲得した。アンティゴノスはメソポタミアとイランでセレウコスに譲歩することで東方状勢を安定化させた後、ライバルたちが触手を伸ばしてきた西方に向かった。なかでもプトレマイオスはキプロス島に堅固な足場を築き、豊かなロードス島の支援を受けて怒涛の勢いで西方へ進出していた。
この間ギリシャでは、カッサンドロスが数年にわたる戦いの後、ポリュペルコンと妥協するなど状況に変化が生じた。プトレマイオスはカッサンドロに対抗するため、アンティゴノスとの争いを中止してペロポネソス半島へ遠征軍を送った。アンティゴノスもアテナイをカッサンドロスの手から解放させるべく息子のデメトリオスを派遣するなどしてギリシャ本土に介入した。プトレマイオスの遠征軍は短期間で引き揚げたが、デメトリオスはBC307年にアテナイの港湾都市ペイライエウスに上陸して、カッサンドロス軍が駐屯していた要塞を攻撃してアテナイの実権を奪い取り、アテナイの民主政治を回復させた。デメトリオスはアテナイの西にあるメガラも服従させようとしていたが、父親のアンティゴノスに呼び戻されて、プトレマイオス支配下にあるキプロスへ遠征することになった。BC306年、彼は陸海のわたって完璧な勝利を収めた。エジプトから艦隊を率いて救援にやって来たプトレマイオスも空しくエジプトへの退却を余儀なくされ、その後10年間はキプロス島全体がアンティゴノスのものになった。
キプロスの戦いでプトレマイオスに勝利したアンティゴノスは配下の兵士たちから王と宣言された。新たに獲得した王権の印として彼は戴冠式を行う。ほどなくして、アジアのセレウコス、トラキアのリュシマコス、それにマケドニアを支配していたカッサンドロスも王を名のった。このBC306年あるいはBC305年は「王たちの年」と呼ばれており、ここでアレクサンドロス大王の帝国が継続されるというフィクションがついに崩壊した。
(イプソスの戦い)
アンティゴノスがアナトリアで進めている戦争準備とその息子デメトリオスのギリシャでの動きに対して、他のディアドコイたちは当然のことながら反発した。マケドニアのカッサンドロスもトラキアのリュシマコスも、南はデメトリオスによって、東はアンティゴノスによって挟み撃ちにされる形になっていた。そこで彼らは、同じようにアンティゴノス父子の進出に不安を抱いていたセレウコスとプトレマイオスの支援を得て、先手を打って大胆な戦いを実行することを決意した。
BC302年春、デメトリオスが大軍を率いてギリシャとマケドニアの中間に位置するテッサリアに侵入してきた。この脅威にカッサンドロスが立ち向かう間に、リュシマコスは一部カッサンドロスから提供された軍勢を率いて小アジアに上陸した。同時にセレウコスは、インドのチャンドラ・グプタから入手した象500頭を含む強力な軍勢を率いてバビロンから西進した。アンティゴノスの要請でデメトリオスはギリシャ本土からアジアに渡りイオニアに向かった。他方、リュシマコスは小アジアのボスポラス海峡に近い小国ビテュニアとその南のフリュギアとでアンティゴノス軍と対決したが、決着はつかなかった。
BC301年春、冬の休戦が終わりアナトリアの真ん中のイプソスで決戦が行われた。これは、一方はリュシマコスとセレウコス、もう一方はアンティゴノス父子が、それぞれ総力を尽くしてのまさに「諸王たちの戦い」であった。戦力はほぼ互角の約8万だったが、セレウコス軍が象の数で優勢だった。父親のアンティゴノスは劣勢の中で死に、息子のデメトリオスは騎馬隊の華々しい突撃をもってしても流れを変えることはできず、小アジア西端のエフェソスに逃れ、エーゲ海の制海権を握っていた艦隊と合流し、辛うじて小アジア沿岸都市を守るのが精いっぱいだった。このイプソスの戦いは、アンティゴノスという80歳を越えていた一人のディアドコイの壮絶な死によって、一つの時代が終わったことを示しただけでなく、アレクサンドロス大王の夢を引き継いだ王国をエーゲ海の両岸にまたがる政治的統一体に再構築する最後の試みが挫折したということでもあった。アンティゴノスの死後、ディアドコイたちの間で結ばれた協定は、アレクサンドロスの帝国の分割を決定的に確認しただけで、仮に統一神話がまだ彼らの何人かの野心を駆りたてることになったとしても、もはや目に見える結果を生み出すことはできなかった。
(ディアドコイたちのその後)
小アジアとアナトリア西部を領有したアンティゴノスはBC301年にイプソスの戦いで、帝国再建の望みを絶たれるまでは、息子のデメトリオスと共に事を成就できそうな勢いだった。デメトリオスは父亡き後、その軍事的才能で「国取り名人」と呼ばれたが、政治的展望力に欠け、成功と失敗を繰り返したあげく、BC285年に挫折した。マケドニア王家を断絶させ、その本拠地を領有していたカッサンドロスは、マケドニアを継がせるには若すぎる息子たちしか残さないままBC298年かBC297年に亡くなっている。トラキアの領主リュシマコスは、目標を限定した慎重な政策によってヘレスポントス海峡地域に本拠を置き、イプソスの戦いでアンティゴノスを破って、ヨーロッパとアジアにまたがる支配を実現しそうになったが、彼の野望もBC281年、セレウコスと闘った小アジア中部のコルペディオンの戦いで終わりを告げる。この戦いでリュシマコスを破ったセレウコスはアジア全域を支配することになり、さらにマケドニアを統合しようとしたが、その数ヶ月後、自分の親族の一人の裏切りによって暗殺された。エジプトのプトレマイオスはBC283年に84歳で世を去った。アレクサンドロスのディアドコイのうちで天寿を全うしたのは彼1人である。
こうして野心と情熱を持ったディアドコイたちの40数年に及ぶ歴史は、予想できない新展開と驚くような方向転換の数々に彩られたが、BC280年ごろに到ってヘレニズム世界はついに一つの持続的な形をとる。最終的に残ったのは3つの王朝、エジプトのプトレマイオス朝、アジアにおける遺産の大部分を引き継いだセレウコス朝、そしてマケドニア本国のアンティゴノス朝である。いずれも世襲制の君主国で、建国したのはディアドコイ(後継者)と呼ばれる有力な将軍たちだった。旧アレクサンドロス帝国から最大の領土を持っていたのがセレウコスだ。小アジア内陸部からインドとの境界まで旧ペルシャ帝国の大半を占めていた。しかしこの3つの大国も決して安泰ではなかった。セレウコス朝とプトレマイオス朝は、シリアをめぐって6度も対決したし、小アジアの弱小王国はセレウコス朝を相手に消耗戦を続けていた。王が臣民の信頼を裏切ったとなると、どの王朝もたちまち不穏になった。プトレマイオス朝やセレウコス朝は莫大な富を持っていたにもかかわらず根本的に不安定であり、自国の資源を頼みにし過ぎて、いつ終わるとも知れない戦争で疲弊していた。
***
(東方のヘレニズム化)
最初に建設されたエジプトのアレクサンドリアをお手本として、アレクサンドロスとその後継者、ディアドコイたちは新しい植民都市をいくつも建設した。ユーフラテス川の東方、インドのパンジャブ地方へ至る間には18のアレクサンドリアがアレクサンドロス大王の遠征の初期に建設されている。人間は故郷から遠くへ離れれば離れるほどますます故郷のことを思う。中央アジアのバクトリアやソグディアナなどのアレクサンドリアでも、自分たちの神殿やギムナシオン(体育場)、レスリング場などを、マケドニアやギリシャ本土の都市にあるものと全く同じように作って楽しんでいた。ソグディアナの遺跡からはギリシャのデルフォイの教訓を刻んだ碑文が発見されている。「子供ときには上品に、若いときには自己を抑制して、中年になれば公正を心がけ、老年に到れば賢明な助言ができるように、そして死を迎えるときには苦痛の無いように」、それは同じ都市で発見された大理石の彫刻のようにまったく真正なギリシャ風といってよいもの、つまり純粋なギリシャ語で書かれていた。
ヘレニズム時代の君主は、ソテル(救済者)、エウエルゲテス(恩恵を与える者)、ニカトル(勝利者)といった輝かしい添え名をつけることが多かったが、現実はもっと地味だった。人びとが移動すると、概念もまた動く、ギリシャ人の観念や生活様式、そして技術は、シリア、メソポタミア、エジプトに新たな
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