第119話 アレクサンドロス大王の東方遠征とペルシャ帝国の滅亡

 アレクサンドロス大王と愛馬ブケファラスが永遠に戦い続けるブロンズ像は生前の姿そのものだ。巻き毛をなびかせた美しい大王は、剣のように鋭く強烈なカリスマ性を発揮し、自軍を鼓舞し威圧した。常に騎兵隊の先頭に立ち、恐れを知らず、無謀とも言えた大王は部下にこう誇らしげに語った。

“私の体には・・・傷跡のない場所などない・・・すべてお前たちのため、お前たちの栄光と利益のためなのだ”

 ギリシャの英雄や神々の子孫を自称したマケドニア王国のこの若き王は、BC4世紀に次々と他国を征服し、己の栄光を求めた末に、世界史上に名を残す広大な帝国を打ち立てたが、それは短命に終わった。その愛馬ブケファラスは、三大陸に及んだ遠征でアレクサンドロスの足となった。記録によると、インドのパンジャブ地方で負傷して30歳で死んだブケファラスには、王族並みの葬儀が行われたという。


 アレクサンドロスの母親のオリュンピアスの系譜を辿っていくと、先祖はギリシャ神話の英雄アキレウスまで遡る。そして彼女の父方の系譜はトロイアのヘレネにつながると言われる。したがって、アレクサンドロスはギリシャの英雄ヘラクレスとアキレウスの血を引くと自称し、BC334年、5万人に近い軍勢を率いてへレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)からペルシャへ侵入した。アレクサンドロスはへレスポントス海峡を渡った先にあるグラニコス川や、アナトリアとシリアの境界付近にあるイッソス湾でペルシャ軍を破り、さらにフェニキア海岸を南下し、頑固に抵抗するテュロスを壊滅させ、エジプトも征服して東地中海を勢力下に置いた。BC331年にはペルシャ王ダレイオス3世をティグリス川上流域のガウガメラの戦いで撃破し、さらにペルシャの中心都市スーサを経て王宮のあるペルセポリスに侵攻し、150年前にペルシャがアテナイのアクロポリスを焼いた報復の意味もあって、ペルセポリスの宮殿に火を放った。「アジアの王」と公言したアレクサンドロスは砂漠や山脈、インドのモンスーンをものともせず、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドの北西部まで軍勢を進めた。だが、インダス川の支流ヒュパシス河畔(現在のビーアス川)で、進軍に疲れた兵たちが反逆し西方へ引き返した。そしてBC323年、アレクサンドロスはバビロンで熱病に罹って32歳で死去した。死後、アレクサンドロスの帝国はいくつかの王国に分裂し、エジプトをプトレマイオス朝が、東方の西アジアをセレウコス朝が、本国のマケドニア・ギリシャはアンティゴノス朝が支配した。これらの王国はヘレニズム文化を受け継ぎ、ギリシャの遺産を後世に伝えた。


 たった一人で古代世界をこれほど変えた支配者は、後に大王と呼ばれるアレクサンドロス3世(在位:BC336年~BC323年)をおいて他にない。わずか13年の短い在位期間にアケメネス朝ペルシャの周縁部に位置する小国マケドニアはかつて例のない大国に成長した。我々がヘレニズムと呼ぶ新しい時代が幕を開け、ギリシャの言語、文化、習慣が中東から中央アジアを席巻した。ところがアレクサンドロスが死ぬと、彼の帝国は瞬く間に分裂する。それから1世代を経たのち、ヘレニズム世界は3つの大国と一握りの小国に分かれ、アレクサンドロスの遺産である世界的権力をめぐって競い合った。アレクサンドロスがあれほどの征服を成し遂げられたのも、父フィリッポス2世(在位:BC359年~BC336年)が布石を固めていたからだった。



(アレクサンドロスの東方遠征)


 BC334年春、マケドニアとギリシャの連合軍の歩兵3万人、騎兵5000人、それに経験豊かなマケドニアの騎兵を中心とした親衛隊1万2000人がヘレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えて小アジアに渡った。そして、アレクサンドロスは子供時代からの憧れの地、トロイアへ向かった。彼は「イーリアス」を戦術の手引書と考えた。アリストテレスが注釈をつけた本を遠征に携え、それをいつも短剣と一緒に枕の下に入れていたとローマ時代のギリシャ人歴史家プルタルコスは記している。当初アレクサンドロスは、小アジアで長く続いてきたギリシャ緒都市を「解放する」ことしか考えていなかったようだった。いくら経験を積んでいるとはいえ、この程度の兵力ではそれ以上の規模の遠征を行うことは難しいと思われた。一方、ペルシャ帝国の都から見ると、マケドニア人とギリシャ人の小規模軍は辺境のサトラップ(太守)領を脅かす程度でしかなく、あえて主力部隊が介入するほどの問題ではなく、サトラップ(太守)に任せておいて大丈夫だと考えた。


 アレクサンドロスの遠征初の本格的な会戦は、BC334年5月に小アジア北部ミュシア地方のグラニコス川で行われた。ここでペルシャ軍は戦闘に備え、前線に1万5000の騎兵と、後方にはギリシャ人傭兵が3分の1を占める1万6000の歩兵を配した。父フィリッポスの参謀だったパルメニオンが制止するのも聞かず、アレクサンドロスは性急に半ば干し上がっていた川へ突進し、ペルシャ軍が待ち構える対岸の土手を登った。白兵戦を交えながらアレクサンドロスの軍隊は敵の隊列を破り、この大事な初戦に勝利した。アレクサンドロスは戦術の天才であり、優れた指導力を持ち合わせていた。自尊心が高く、自分が何でも一番でなければ満足しなかった。グラニコス川の戦いでは、白い羽飾りの付いた目立つ兜をかぶり、自ら騎兵隊を指揮して突撃した。自軍兵士への思いやりは、特にマケドニア戦士の規範として欠かすことができないものだった。「彼は戦傷者に対して手厚い心遣いを見せた。アレクサンドロスは傷兵をみな見舞い、傷の様子を見てやり、どんな風に手傷を受けたかを聞き、その時の様子を物語らせて手柄自慢もさせた」と紀元後2世紀のギリシャの歴史家アリアノスは「アレクサンドロス東征記」に記している。

 グラニコス川の戦いでペルシャ軍は彼の実力に気づいた。ペルシャ軍が内陸へ逃げ帰ると、アレクサンドロスは沿岸部を進軍し、小アジアのギリシャ緒都市は望むと望まざるとにかかわらず「解放」され、マケドニアの支配下に入った。それまで50年の間、小アジアの諸都市は平和条約によってペルシャ王への従属を余儀なくされていた。「危機に直面した時の私の迅速さ・・・」、グラニコスの勝利に続く数週間で示したアレクサンドロスの行動を最もよく表わしているのは、後に彼が口にしたと歴史家たちが記しているこのモットーだろう。それはペルシャ軍が立ち直りを見せる前に、とにかく自軍を常に優勢な状況に持って行くこと、そして海岸線に点在する強力な敵の本拠地にいち早く乗り込むことだった。距離が彼の行動に足止めをかけることは決してなかった。


 アレクサンドロスはその後、海岸沿いからアナトリア内陸のゴルディオンへと進路を変え、さらに地中海東岸へと直進し、シリア国境への道を切り開いた。伝承によると、アレクサンドロスはアナトリア中央部に位置するフリュギアの古都ゴルディオンでは、「ゴルディオンの結び目」を切断したとされる。ゴルディオンはペルシャ帝国の幹線道路である「王の道」の途上にあった。BC333年春、そこでマケドニアからの増援部隊を待っていた。5月の末になってやっと増援部隊が到着した。3000人余のマケドニア人、1000余のギリシャ人と同盟国人、それに冬の間、故国に一時帰国していたマケドニア人も一緒である。ゴルディオンを出発する前日、アレクサンドロスはアクロポリスに向かった。それはある伝説に挑戦するためだった。そこに置かれていた二輪戦車はミズキの樹皮でできたひもによってながえにしっかりと結びつけられていた。ながえとは、先端にくびきをつけて馬に牽かせる長い棒のことである。その結び目を解かないことには二輪戦車を動かすことはできないが、誰もこの結び目を解くことができない。伝説によると、それを解く者はアジアの支配者になるという。その複雑な結び目をアレクサンドロスは剣で一刀両断にした。このことにより、その後の東方遠征は効果的に進められたと伝えられているので、おそらく政治的宣伝効果を狙ったものだったのだろう。


 ペルシャ王ダレイオス3世が大軍を従えて迎え撃ったのは、アレクサンドロスがアナトリア中南部キリキア地方のタウルス山脈を越えてからだった。場所はアナトリアとシリアが接するイッソス湾で、BC333年秋、マケドニア軍は2日間の行軍で消耗し、数の上でも7万のペルシャ軍に対してマケドニア軍は5万と劣勢だったが、アレクサンドロスは兵を奮い立たせ、右翼に陣取り、自ら先陣を切ってペルシャの陣営へ突っ込んだ。アレクサンドロス軍はダレイオス軍の騎兵部隊と勇敢に戦い、完全な勝利を収めた。敵の弓兵と軽装歩兵、それに重装騎兵は最初の衝撃で敗退した。その後、アレクサンドロス軍の騎兵は手綱を引き、馬の頭を左へ向けるとペルシャ軍の中央めがけて突進した。そこにはペルシャの習慣だろうか、ダレイオスが自分の二輪戦車を置いていた。左翼ではパルメニオンの大隊がペルシャ軍の投槍兵や重装騎兵部隊をものともせずに戦っていた。中央ではマケドニア軍の密集歩兵部隊が川の土手につまづきながら進んでいた。列が崩れ、密集歩兵部隊が二つに割れた。その割れ目に向かってダレイオスのギリシャ人傭兵たちがなだれ込んできた。もしこのとき、アレクサンドロス軍の騎兵たちがギリシャ人傭兵たちを背後から切り崩していなかったら、歩兵部隊の損失は甚大なものになっていただろう。日が暮れはじめたころ、両翼の騎兵部隊が闘いながらダレイオスに向かってくると、ダレイオスは身の危険を感じて、二輪戦車で逃げ出すことに決め、弟のオクサトレスを戦場に残した。オクサトレスは進軍してくるマケドニアの騎兵たちに立ち向かい勇敢に戦った。弟のオクサトレスやペルシャ貴族たちはマケドニアの軍門に降り、ペルシャは敗退した。ダレイオスは数名の兵士のみを伴ってユーフラテス川を渡ったものの、野営地とそこにいた家族はアレクサンドロスの手に落ちた。ダレイオスは難を逃れたが、このイッソスの戦いによって、アレクサンドロスはペルシャ帝国を脅かす存在となることがはっきりした。それまで彼が成し遂げたことといえば、ギリシャの都市国家や小部族を平定した程度だった。ペルシャ人はグラニコス川の勝利などまぐれだと考えていた。しかし、わずか23歳のマケドニアの若者は、ペルシャの偉大なる王と1対1で対決して敗走させたのである。その上ダレイオスは身の回りの品々と家族を野営地に置き去りにせざるを得なかった。マケドニア軍は豪華な戦利品を手に入れて喜んだが、アレクサンドロスの命令でペルシャ王の妻と娘たちに危害は加えられなかった。シリアのダマスカスではアレクサンドロスの右腕だったパルメニオンがダレイオス3世の運資金を奪うことに成功し、マケドニアの弱みだった財政問題も解決した。アレクサンドロスはユーフラテス川を越えたペルシャ王を追跡する代わりに、南へ進路を取り、レヴァント地方のフェニキアとパレスティナを経由して、豊富な穀物と金を産出するエジプトを目指した。


 イッソス湾から地中海沿いに南下したアレクサンドロスに対してペルシャと同盟を結んでいたフェニニアの諸都市は相次いで降伏した。だがフェニキアの中心都市で海軍国家でもあるテュロスは激しく抵抗した。テュロスはカルタゴの母都市である、テュロスの中心部は防備堅固な島にあり、その島は幅600メートルの海水によって陸側の市の部分から隔てられていた。新バビロニアのネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)はエルサレムのような強力な城塞を占領することができたのに、この巨大な堀の岸で比較的小さい商人の巣を手中に収められないことを思い知らされていた。しかし、BC332年にアレクサンドロスは7ヶ月もかけて堤を築き、テュロスを攻め滅ぼした。住民には厳しい制裁が下された。アレクサンドロスは島の岸に沿って十字架を立て、2000人の男子をはりつけにして、3000人の婦女子と老人は奴隷として売られた。それは復讐の行為であるとともに、また効果を計算した上でのことでもあった。海の王者であるフェニキア人が、陸の王者である自分に敗れたということを世界に知らせようとするためだった。

 ここに到って、ペルシャ王もようやく帝国と王位に迫る脅威に気づき、アレクサンドロスに有利な条件で和平を申し出た。ローマ帝国時代の紀元後2世紀の歴史家アリアノスは、パルメニオンはその申し出を受けるようアレクサンドロスに進言したが、アレクサンドロスは聞き入れず、ダレイオス3世の財産と帝国はすべて自分のものだと主張したと記している。つまり自らがペルシャ王に即位することをもくろんでいたのである。アレクサンドロスのこの野望は、後にマケドニアのエリート層が離反する大きな要因となる。しかし今はまだ、遠征での連戦連勝が威力を発揮している。ペルシャのフェニキア・キプロス連合艦隊ももはや恐れるに足りない。したがってアレクサンドロスは概ね大きな反抗もなくエジプトに軍を進めることができた。


 エジプトに入ったアレクサンドロスは熱烈な歓迎を受けた。かつて強大な勢力を誇っていたエジプトだが、当時は200年近くにわたって断続的にペルシャの属国に甘んじていた。エジプトの首都メンフィスでアレクサンドロスは豊かで古い文化を誇るこの国の正統的な支配者、ファラオとして認められた。彼にとってさらに重要なのは、エジプトの伝統でファラオは最高神アメン・ラーの息子という点だ。アレクサンドロスは、メンフィスではギリシャ式の競技会を開催し、エジプトの聖牛アピスに供物を奉げた。ギリシャと中東の伝統を融合させたがっていたアレクサンドロスの最初の試みである。メンフィスを出たアレクサンドロスはナイル川デルタ地帯の一番西に行き、その沿岸に自分の名を冠した都市を建設した。それがアレクサンドリアである。「アレクサンドロスは自分でこの新しい町の大体の配置を決め、市場の位置や神殿の数・・・それに町を囲む周壁をどこに築いたらよいかも指示した」とアリアノスは述べている。

 BC331年初め、アレクサンドリアから西方400キロのリビア砂漠の真ん中、シーワというオアシス町では、エジプトのアメン・ラー神殿に参拝してゼウスの息子であるという太陽神アメンの神託を得た。シーワでのこの体験がアレクサンドロスのその後の治世を決定することになる。これ以降、公式的な君主のイメージには神の子という要素が必ず加わるようになる。ゼウス・アメンの息子であるアレクサンドロスは、マケドニアの貴族たちとの間に壁を作った。もはやアレクサンドロスは、軍の支持を受けて選ばれ、マケドニアの伝統に縛られる指導者ではない。その統治は中東で何千年も前から続いてきた神権政治の伝統を受け継ぐものだった。ギリシャ神話を子守代わりに聞いて育った者が、シーワでの出来事をきっかけに、ホメロスの英雄たちの世界にいざなわれるのも当然といえる。自分もアキレウスのように神の血を引いている。いや、むしろ自分の方が上だとアレクサンドロスは思ったことだろう。トロイアのヘクトルを倒したアキレウスはネーレウスという海神を祖父に持つだけだが、自分はあのゼウスが父なのだから。アレクサンドロスが英雄としての使命を本気で信じていたことをうかがわせる証拠として、プトレマイオス朝時代にカルナックで見つかったファラオの装束をまとった巨大なアレクサンドロス像がある。またエジプトのルクソールの神殿の壁画にアレクサンドロスの物語が象形文字で刻まれている。ペルシャの征服者に破壊されたこの建物を修復したのがアレクサンドロスだった。エジプトの神々を崇拝した彼にエジプト人は追従した。25歳でファラオになったアレクサンドロスは、地中海沿いにアレクサンドリアの町を建設、古代の絵画に船を頭に載せた女性として描かれたこの町は、地理的に重要な港だった。そこはアレクサンドロスの死後300年近くに及ぶヘレニズム時代に、文化の中心都市として発展した。


 マケドニア王にして、コリントス同盟の指導者であり、エジプトのファラオでもあるアレクサンドロスは、春を待ってペルシャ王ダレイオス3世を倒すためのペルシャ遠征を再開する。イッソスの戦いの後、和平を提案したが拒絶されたダレイオス3世は本格的な戦いに備え、広大な帝国の莫大な人的資源を結集し、兵力や装備を増強した。BC331年10月1日、両軍はユーフラテス川とティグリス川を渡った先、現在のバクダッドの北方、ガウガメラの平原で交戦した。ここを戦いの舞台に選んだのは、やはりダレイオスだった。強力な騎兵隊と、車軸に鎌を装着した二輪戦車を持つペルシャ軍にとって広大な平原は理想的な場所で、彼は隊列を横長に配置した。アレクサンドロスは高台から自軍をはるかに上回る大軍を見つめていた。各地から集まったペルシャ騎兵隊は3万4000と推定され、自軍の騎兵隊の5倍だった。目の前の大軍を前に、彼はすぐに攻撃しようとする衝動を抑えた。地形を詳細に調べた後、指揮官たちを集めてげきを飛ばし、兵士たちに休息と食事をとるように命じると、自分は眠りについた。生涯で最も重要な決戦を前にした朝の様子を、プルタルコスはこう記録している。「指揮官たちは朝早くやって来て、アレクサンドロスがまだ眠っているのを見て驚いた」

 アレクサンドロスが眠っている間に、ダレイオスの軍勢はすでに平原に布陣を整え、甲冑に身を固めた兵たちは神経を張りつめながら夜を徹して待機した。アレクサンドロスは約4万の歩兵と約7000の騎兵を方形に配置し、ペルシャ軍の真ん中で親衛隊に囲まれているダレイオスのペルシャ軍に対して斜めに向き合った。10月1日、アレクサンドロスは兵士を結集して鼓舞激励、精鋭の騎兵隊を率いて右翼についたアレクサンドロスは自軍を右方向に移動させ、整地されていない場所へダレイオス軍を導いた。それにつられたペルシャ軍の精鋭バクトリア騎兵隊はアレクサンドロス軍の右翼と交戦、ダレイオスは強力な鎌付き二輪戦車隊に攻撃を命じたが、アレクサンドロス軍は横に少し動いてかわすと、弓と槍を持った兵が敵二輪戦車の御者を殺した。左翼のほとんどを敵に取り囲まれたマケドニアの将軍パルメニオンは、必死の防戦で自陣を守った。アレクサンドロスが右翼を増強し、ペルシャ軍中央の騎兵隊がそこへ引き寄せられると、中央の守りが手薄になった。アレクサンドロスはこの機を逃さず、V字型に組んだ攻撃隊の先頭に立ってその裂け目に突進し、ダレイオスを狙った。その後は大混戦だった。槍で武装し密集隊形をとるアレクサンドロス軍の重装歩兵隊が突進すると、ペルシャ軍の戦列は崩壊した。敗北が明らかになったダレイオスは逃走した。アレクサンドロスは後を追うがすぐに引き返し、戦闘を続けた。

 アレクサンドロス軍はダレイオス軍を打ち破り、ペルシャに対して決定的な勝利を手にした。その戦いぶりに、兵士たちはアレクサンドロスを「アジアの王」と呼んだ。この決戦の詳細は史料によってさまざまだが、戦死者が数千に上ったのは明らかだ。この戦いでアレクサンドロスは天賦の軍事的才能をいかんなく発揮した。兵力の差をものともせず、ダレイオス3世率いるペルシャ軍を敗走させた戦いぶりは、今も戦略を学ぶ者の教材になっている。この勝利によってアレクサンドロスはペルシャ帝国の中心部を意気揚々と行進できた。


 次にアレクサンドロスはペルシャの都に狙いを定めた。アレクサンドロスはペルシャ帝国の拠点であるメソポタミアのバビロンと、メソポタミア南部に近いイラン高原南のエラム地方のスーサに入り、目も眩むほどの財宝を手に入れた。そしてBC330年1月にはついにイラン南部のペルセポリスに入城する。ペルセポリスはBC5世紀にギリシャに侵攻したダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)が建設した神聖な町で、ここにはペルシャ王の最も重要な宮殿があり、歴代のペルシャ王はここで属国から貢ぎ物を受け取った。ここでアレクサンドロス軍の兵士たちは、情け容赦なく美術品を略奪し、成人男性を殺害した。その後、アレクサンドロスは王宮に火を放った。その直後、コリントス同盟から招集されたギリシャ軍が解放されている。ペルセポリスへの放火は、BC480年にアテナイのアクロポリスが破壊されたことの復讐だったとも考えられる。敗者であるペルシャのダレイオス3世に宛てた手紙には、そのことがはっきりと書かれている。

“あなたの祖先はマケドニアとそれ以外のギリシャを侵略して、多大な損害を与えた。・・・私はギリシャの指導者に任命され、過去のペルシャの攻撃に復讐したいと考えてアジアを侵略した。・・・私は戦いでまずあなたの将軍と太守たちを、そして今あなたとあなたの兵を征服した。・・・戦場で死なず、私の下に逃げてきたすべての兵は私が責任を持つ。彼らは自らの意志で私の下にやって来て、自発的に私の軍に加わった。あなたは私を全アジアの君主として認め、私の下に降るべきだ”


 復讐のための遠征は終わり、莫大な財宝と黄金を手に入れたアレクサンドロスは名実ともにアジアの王となったものの、ダレイオス3世はまだ生きている。ダレイオスはイラン高原の中央に位置するかつてのメディア王国の旧都エクバタナに潜んでいるようだった。アレクサンドロスがエクバタナまで追うと、彼はすでに去った後だった。さらに、ペルシャ帝国の東、ヒンドゥークシュの山中に逃げ込んだダレイオスを追う。ところが、ダレイオスは臣下の1人で、バクトリア・ソグディアナ太守のベッソスに殺される。それを知るや否や、アレクサンドロスはダレイオス3世の正式な後継者は自分だと主張して、ベッソスを討伐するためにソグディアナに攻め込んだ。BC329年夏、ベッソスは恐怖に駆られた味方に捕らえられ、アレクサンドロスに引き渡された。ベッソスは裸で道端の柱に括り付けられ、通り過ぎる兵士たちの嘲笑を浴び、最後に手足を切断された。アレクサンドロスはこの厳しい処刑によって、自分こそアジアの正当な王であることを見せつけようとした。こうしてアレクサンドロスは、マケドニア王にして、コリントス同盟の指導者であり、エジプトのファラオ、さらにペルシャ王にもなった。


 ところが、ベッソスの死でアレクサンドロスの中央アジア遠征が終わったわけではなかった。予想外の強敵としてバクトリア貴族のスピタメネスという男が出現した。彼は北方の騎馬民族とともに、アレクサンドロス軍に神出鬼没の攻撃を仕掛けては草原地帯に逃げ込むという作戦を展開した。抵抗力の衰えていた兵たちにはこたえる攻撃だった。父王フィリッポス時代からの古参兵とテッサリア出身の志願兵は、ここまでの苦難の行軍に疲れ果て、故郷に帰してくれるようアレクサンドロスに嘆願した。深刻な兵員不足に見舞われた彼は、征服したばかりの地元のバクトリア兵を補充するするしかなかった。アレクサンドロスは敵軍だった兵で自軍を補充し続けていた。それが成功した事実は指導力の素晴らしさを示している。出身地が多様だったにもかかわらず、彼の軍勢は非常に厚い忠誠心を持ち続けていた。

 BC327年初め、アレクサンドロスに追い詰められたスピタメネスは味方に暗殺され、首は和平の印として彼に捧げられた。その年の春、ソグディアナの住民が籠る山地の要塞を陥落させたアレクサンドロスは、捕まえた首長の娘ロクサネを妻にした。いくつかの史書は、アレクサンドロスが当時12歳ともいわれる少女の美貌に魅了されたと記しているが、この結婚もまた実利的な手段であり、厄介な敵と強力な同盟を結ぶ融和策の一環だった。その後まもなく、アレクサンドロスは2年に及ぶ中央アジア行軍を終結させた。


 征服地での足場を固めるために、アレクサンドロスは自分の名前の都市を建設し、ギリシャ・マケドニアの兵を駐屯させる軍事植民地も建設した。歴代ペルシャ王の後継者として、古くから続くペルシャのエリート層との和解にも心を砕き、自らの帝国に巧みに吸収していった。王に近づくときは犬のように平伏して進むプロスキュネシスという慣行も採用している。ペルシャ宮廷のやり方だったが、マケドニアの貴族には不評で、アレクサンドロスの王政がいったいどこに向かうのかという不安が高まっていく。アレクサンドロスが娶った妻ロクサネは、アフガニスタン北部の山岳地帯を拠点とするソグディアナの首長の娘だったが、その婚礼もイラン風に行われた。この結婚で生まれる後継者は、西洋と東洋を一手に統治する存在になるはずだった。だが、ペルシャ帝国の絶対王政と、マケドニア伝統の軍人君主政治が相容れるはずもなく、歴代ペルシャ王のように振る舞おうとするアレクサンドロスと側近たちの間に距離ができ始める。アレクサンドロスは彼らを無視して高官にペルシャ人を起用することが増えてきた。それまで安泰だと思っていたマケドニア人エリートたちに嫉妬が芽生える。ペルシャへの復讐で始まった遠征なのに、それを率いる人間がペルシャの伝統や流儀に傾倒しつつあった。しかし、そんなアレクサンドロスを正面切って批判するマケドニア人は長く生きられなかった。アレクサンドロスが自らの手で殺すか、誰かに殺害させたからだ。

 BC327年、マケドニアの貴族の若者7名が打倒アレクサンドロスの陰謀を企てた。その一人ヘルモラウスは反逆罪に問われたとき、マケドニアの人びとの前でこう主張したという、「確かに自分は王の命を狙った。自由民にとって王の傲慢な圧政はもはや耐え難いからだ」。マケドニア軍の将軍パルメニオンの息子フィロタスも潔く処刑された。そしてアレクサンドロスとともに東方遠征を戦い抜いてきた老将パルメニオンも陰謀を企てた罪で殺害された。パルメニオン父子の死はアレクサンドロス軍を一時非常に動揺させた。アレクサンドロスの新しい帝国はもはやマケドニアの国ではなかった。


 ペルシャ帝国の辺境の弱小王国に生まれた男が25歳にして世界を変えた。しかし、ペルシャ帝国の領土を征服しただけでは収まらない。アレクサンドロスには世界の限界を押し広げたいという「内なる衝動」があったからだ。アレクサンドロスは東へとさらに進んだ。どんな権力をもってしても彼を止めることは不可能に思われた。彼はアキレウスとヘラクレスを超えられると信じていたのだろう。BC327年春、ディオニュソス神の足跡を辿るようにアレクサンドロスは7万5000ほどの大軍を率いてカイバル峠を越えてインドの地に入る。マケドニアの将兵はわずか1万5000人に減っていた。インドにまで達したというディオニュソスの壮大な旅物語は、ギリシャ神話の白眉だ。ゼウス・アメンの息子であるアレクサンドロスはインダス川を越えた。それはドナウ川と同様、越えられないと思われていた別世界との境界だった。当時の知識では、インドは大地の東の果てで、その向こうは大洋だとされていた。翌年6月には、インダス川の支流ヒュダスペス川の河原に達し、難敵ポロスとの対決に備えた。ポロスは伸長が2メートル近い大男で、パンジャブ地方の広大な領土を治めていた。彼は川の対岸に総勢5万の歩兵と騎兵、そしてマケドニア騎兵の馬が特に恐れた200頭もの象を配置し、アレクサンドロスを待ち構えた。敵の監視を混乱させるため、アレクサンドロスはあたかも戦闘準備をしているかのように兵たちを川岸に移動させ、あちこちに野営の火を灯した。インドの警備兵の目には進軍がいつ始まってもおかしくないように映った。やがてポロスはこの陽動作戦に疲れて夜警をあまり出さなくなったが、アレクサンドロスはその機を見逃さなかった。27キロ上流に絶好の渡河地点があるという報告が偵察隊から伝えられていた。木の生い茂った中島が目隠しなっている場所だった。アレクサンドロスは軍を3隊に分けると、激しい雷雨と夜陰にまぎれて先頭に立って川を渡り、明け方にポロスの前に姿を現わした。たやすく勝てそうな所にポロスは軍を投入するだろうと考えたアレクサンドロスは、騎兵の一部を隠したまま残りを率いて攻撃を仕掛けた。ポロスが罠にかかると、隠れていた騎兵が現れ、別の分隊も戦いに加わった。ぬかるみと降りしきる雨、象の叫び声の中で、負傷しながら象に乗ってのろのろと退却していたポロスを、マケドニア兵は取り囲んで捕えた。アレクサンドロスの前でどのような処遇を望むかと聞かれたポロスは、ただこう答えた。「王として扱われよ」、この言葉を理解したアレクサンドロスは、自分に忠誠であり続けるという条件付きで、ポロスを元の王の地位に戻した。この戦いの直後に愛馬ブケファラスが負傷し死んだ。アレクサンドロスは愛馬に捧げる町ブケファラを建設した。


 さらに東へ進み、ついにインダス川の東の支流ヒュパシス川にまで到達した。現在のパキスタンとインドの国境である。アレクサンドロスはさらに進み、当時世界の果てと考えられていた東の海に出たいと考えていた。ところが斥候の報告では、ヒュパシス川から東は不毛の平原が広がるばかりで、その先には高い山々があり、その向こうには5000頭もの象を持つ大軍がガンジス川流域で待ち受けているという。兵士たちの疲労も限界で、このままでは蜂起になりかねなかった。アリアノスの遠征史によると、アレクサンドロスはこれまでに征服した土地を並べあげ、兵士たちにこう語りかけた、

「ここにもう一つ加われば、インダス川は我らの領土を流れることになる。ヒュダスペス川、アケシネス川、ヒュドラオテス川も同様だ。ヒュパシス川とその先の国々をマケドニアの帝国に加えることを、なぜお前たちは尻込みするのか? 蛮族に行く手を阻まれることを恐れているのか?」

 だが、説得も空しく、兵士たちはバビロン帰還を主張して譲らなかった。アレクサンドロスもその勢いに負けて、かつてドナウ川でやったように、ヒュパシス川をエクメーネ、すなわち人が居住する文明世界との境界と定めた。その先はもう征服に値しないということだ。アレクサンドロスはヒュパシス川から退却する前に壮大な記念碑を建てたという言い伝えがあるが、その跡は見つかっていない。ギリシャと東方の神々を祀る12の祭壇と、ただ「アレクサンドロスこの地を訪れる」と記した真鍮しんちゅうのオベリスクが建てられていたという。


 バビロンに戻るにあたって、アレクサンドロスは現在のカラチの北で軍を分け、一方は少年時代からの戦友ネアルコスが指揮を執って船でインド洋を進み、ペルシャ湾へと向かった。アレクサンドロスは残りの兵を率いてイラン南部のゲドロシア砂漠を越えた。水のない灼熱の砂漠で命を落とした兵士の数は、アレクサンドロスが指揮したどの戦いの死者よりも多かった。荷馬車隊を含めて砂漠に入ったのは8万5000人とも推定されるが、無事通り抜けたのはわずか2万5000人だった。ゲドロシア砂漠を越えたアレクサンドロスはBC324年3月にスーサに戻った。その後まもなく、彼の命令でギリシャ語とマケドニアの戦法を教育されていたペルシャ貴族の若者3万人をスーサに迎え入れた。年老いてきたマケドニア人の側近たちに替わり得る人材と考え、アレクサンドロスは彼らを「後継者」と呼んだ。

 同じ頃、大々的な集団婚礼が行われる。それはギリシャ人・マケドニア人とペルシャ人のエリートを融合させるのが狙いで、有力な部下80人、それに兵士1万人がペルシャの女性と結婚させられた。この時、アレクサンドロス自身はペルシャの2人の王女を娶ったが、その内の1人はダレイオスの娘だった。しかしこの集団婚礼は伝統を重んじるギリシャ人やマケドニア人たちの心をさらに遠ざけた。追い打ちをかけたのが、ギリシャ各都市に対して、共同体から追放した者を再び受け入れるようにという布告が出たことだ。これは明らかにギリシャの都市が昔から守ってきた自治の伝統を踏みにじるものだ。アレクサンドロスが「ギリシャ人の自由」を尊重するのは、あくまで自分の利益になるときだけらしい。マケドニア人もアレクサンドロスを神のように崇拝せよという要求には難色を示した。しかし、アレクサンドロスの野望は衰えることなく、BC323年初めにはアラビア遠征に備えるためバビロンに向け出発した。


 アレクサンドロスがバビロン北方のオピスで退役軍人を帰還させ、代わりにペルシャ人を充てようとしたときは、退役軍人が不満を爆発させて騒ぎを起こしている。これはかつての敵と肩を並べて戦うのかという反発もさることながら、マケドニア式戦闘術をペルシャ人に教えたくないという感情が大きかった。アレクサンドロスの帝国で、マケドニア人が他の臣民と一線を画し、特権的な立場を維持できているのは、ひとえにマケドニア兵士が優れた戦闘能力を誇るからだ。それをペルシャ人に明かしたりしたら、マケドニア人の軍事的な優位性が失われてしまう。アリアノスの遠征史によれば、アレクサンドロスはこの騒ぎを円満に解決しようと公式の晩餐会を開いた。大王を囲むようにマケドニア人が着席し、その隣にペルシャ人が座った。ギリシャ人預言者とペルシャ人司祭が儀式の始まりを告げ、アレクサンドロスとその周囲の人びとは同じ酒を注ぎ、同じ杯から飲んだ。アレクサンドロスは数々の祈りを捧げたが、特に強く祈ったのは、マケドニア人とペルシャ人が和合して国を運営していくことだった。


 バビロンに都を置くアレクサンドロスの帝国は、3つの完全に異なる体制を内包していた。マケドニアの王国、中東の帝国、それにギリシャ諸都市との同盟である。マケドニア兵にとってアレクサンドロスは兵士仲間のトップというだけで、法的に特別な立場にあるわけではない。ところが旧ペルシャ帝国の臣民から見ると、アレクサンドロスはほぼ無制限の権力を有する王である。一方、ギリシャ人の間では、仕方なく選んだ同盟主導者という扱いだった。ペルシャ帝国の広大な領土を統治するにあたって、アレクサンドロスはそれまでの行政区分には手を着けず、太守にはマケドニア人を据えるものの、その下で働く役人たちは元のままだった。ところが、BC331年10月ガウガメラでダレイオス3世軍を破ったのを機に、アレクサンドロスは方針を変更する。太守を含む重要な職に地方のエリートを任命するようになったのだ。アレクサンドロスの帝国構想のなかでは、支配階級の出身民族や文化などはほとんど意味を成していなかったようだ。リビア砂漠のシーワというオアシス町でゼウスの息子であるという宣言を受けるという神権政治的な手法も、ペルシャ人に学んだ独裁的な統治も、マケドニア・ギリシャ世界と中東のさまざまな要素を統合し、帝国という枠の中に配置するための手段に過ぎなかった。しかし直属ともいえるマケドニア軍、それもあらゆる階層から反感が強まってきて、しかもそれに対してアレクサンドロスが容赦なく対応したことを考えると、彼が目指した世界統一君主がまともに機能したかどうかは疑わしい。マケドニアと中東の指導者観は両立しないどころか、本質的に相互を排除しようとする。アレクサンドロスは現実逃避のように神性にすがったが、オピスでマケドニア密集軍が反乱を起こすずっと前からギリシャ人とマケドニア人の間では、そんな指導者を認めようという心情は薄れていた。


 BC323年5月29日、宴会に出席していたアレクサンドロスは腹痛に襲われて自分の営舎に引き揚げた。続く2週間というもの高熱にうなされ、神に生贄いけにえを奉げたり、ときどき職務を行いはしたが、病床から離れることはできなかった。6月10日、アレクサンドロスはついに息を引き取った。マケドニアを出発してからわずか11年後のことだった。現代科学は飲酒、マラリア、潰瘍かいようなどさまざまな死因を想定してきたが、最近では、腸チフスの珍しい症例である上行性麻痺が死因ではないかとも言われている。アレクサンドロスの遺体は数日経っても腐敗しなかったという昔の記述もこれで説明がつく。33歳の誕生日を迎える直前の死だった。アレクサンドロスはバビロンで早すぎる死を迎えたが、そのころすでに求心力は失われていた。死の床で後継者について尋ねられた大王は、「最も強い者」と答えたという。帝国の分裂はここから始まった。



(アレクサンドロス大王の業績)


 アレクサンドロス3世は33歳の誕生日直前で世を去るまでの短い生涯で大きな偉業を成し遂げ、それ以降アレクサンドロス大王と呼ばれるようになった。アレクサンドロスが侵略した西アジアには何千年も昔からウルクやバビロンなどいくつもの都市が点在していた。アレクサンドロスが征服したそれらの古代都市の通りを歩いたらときには畏敬の念に打たれたに違いない。街のあちこちには、巨大な宮殿、特別な水路で水が引かれた広大な庭園、そしてグリュプス(グリフィン:上半身はワシで下半身はライオン)や牡牛の彫刻が先端にあしらわれた柱を擁する壮大な石造りの建物があった。複雑な社会は活気に溢れていて、衰退の片鱗さえなかった。それでも彼らの文化はギリシャ語を話す世界に比べて合理性に欠けるところがあった。そのギリシャ世界の象徴である若き指導者アレクサンドロスは、ほかならぬアリストテレスから教育を受けていた。アレクサンドロスがメソポタミアを征服したことで西アジアではギリシャ語や思想、芸術の人気が高まった。バビロニアの司祭ベロッソス、フェニキア人のサンキュニアトン、ユダヤ人のフラウィウス・ヨセフスがそれぞれ自らの民族の歴史書を書いたのは、自分たちがギリシャの思想と相容れることを示すためだった。税務までもギリシャ風になって、粘土板に楔形文字で記すのでなく、比較的新しいギリシャ語のアルファベットでパピルスに記録するようになった。しかし、アレクサンドロス3世が持ち込んだギリシャ文化の最も偉大な側面は、芸術や行政ではなく、アリストテレスから直接学んだこの世界を知るための合理的方法である。これが人類の思想史における大きな転換点となる。そのアリストテレス自身も、宇宙に関する古い真理に異議を唱え始めた何世代もの前の科学者や哲学者の思想に頼っていた。


 アレクサンドロスの東征と征服地の統治はまさに天才的だった。このような規模での偉業は、単に幸運だったとか、歴史的な条件が有利に働いたなどといった理由では片づけられない。アレクサンドロスは創造的な精神の持ち主だったが、自己陶酔的で、栄光を求めることに固執する夢想家の一面も持っていた。知性と無謀ともいえるほどの勇気を兼ね備えていたアレクサンドロスは、母方の祖先がホメロスの「イーリアス」に登場するアキレウスであることを信じ、この英雄を見習おうと奮闘した。また、ペルシャに対するギリシャの聖戦という考えは、アリストテレスの教えを受け、ギリシャ文化に敬意を抱いていたアレクサンドロスにとって現実味のあるものだったに違いない。アレクサンドロスの統治政策だったコスモポリタニズム(世界市民主義)もあくまで冷静な現実認識に基づいたものだった。アレクサンドロスが築いた巨大な帝国を統治するには、マケドニア人やギリシャ人だけでは数が足りず、ペルシャ人も必要だったからだ。手本を示すために、アレクサンドロス自身、最初にアフガニスタン北部のソグディアナ人の妻ロクサネを娶り、次にペルシャのダレイオス3世の王女と結婚している。さらに1万人の将兵とペルシャ人女性との集団結婚式を行った。これが有名な「東西の結婚」である。これもまた、理想主義に基づく行動というよりは、必要にせまられての行動だったと思われる。新しい帝国が生き残るためには他民族を取り込んで基礎を固める必要があった。

 アレクサンドロスはまた、無謀で衝動的な面も持つ人物だった。インダス川に到達した後、さらにガンジス川を目指そうとした彼が帰路につく決心をしたのは、兵士たちの抵抗があったからだった。また生涯を戦闘に費やし、継承者もないまま自分が戦死した場合に、帝国がどうなるかを考えることもなかったようだ。酔った挙句に喧嘩をして、友人を殺害したこともあったと言われる。アレクサンドロスの生涯は余りにも短く、巨大な帝国の基礎を固めることはできなかった。しかしその短い生涯の間にアレクサンドロスが残した足跡は、疑いの余地がないほど巨大なものだった。例えば、彼はその生涯において25の都市を建設している。その中には単に防衛拠点を整備しただけのものもあったが、いずれにせよこの25の都市はすべてその後、アジアの重要な陸路の拠点となっていった。彼が目指した「東西融合」という大事業は、非常に困難な試みだったにもかかわらず、10年という年月にしては大きな成果が上がったといえる。逆に言えば、それ以外に方法がなかったのだ。巨大な帝国を征服し統治するには、ギリシャ人やマケドニア人だけでは数が足りなかった。最初からアレクサンドロスは、征服した土地をペルシャ人の官僚を通じて統治する体制を取っており、死の直前には軍の再編に着手して、マケドニア人とペルシャ人からなる混成部隊も組織している。

 アレクサンドロス自身にもアジアの風習を好む傾向があった。彼はペルシャの衣服を採用し、ペルシャの宮廷で行われていたプロスキュネシス、拝跪礼はいきれいをマケドニア人やギリシャ人にまでさせようとしたため、臣下の反感を買い、その結果、反乱まで起きている。アレクサンドロスの帝国が文化の融合ではなく、文化の相互作用にどれだけの役割を果たしたかについては評価が難しい。確かにギリシャ人は新しい地域に広く分散していったが、その結果としてヘレニズム世界の文化が出現してくるのは、アレクサンドロスの死後、彼の帝国が崩壊してから後のことだからだ。


[ギリシャ都市の建設]

 アレクサンドロスは征服地を安定させるための戦略として、また将来的に新王国を文化的に統一するために、遠征の途上でギリシャ都市をいくつも建設し、自らの名を冠してアレクサンドリアと呼んだ。アレクサンドロス自身が新しく建設した都市の正確な数については、古代の文献では70数都市だが、実際は25都市と思われる。その大半は戦略上の理由から帝国の東の辺境に位置している。しかし、最初のアレクサンドリアは、ヨーロッパでもアジアでもなく、アフリカの大河ナイル川が地中海に注ぐカノポス河口に建設されている。エジプトのアレクサンドリアはアレクサンドロスが建設した同名の都市すべての中で飛び抜けて重要な都市だった。BC331年、アレクサンドロス自ら新都市の設計図の作成を監督している。その際、新都市を現存するエジプト人居住地に建設することを避けた。当初から独自の個性を持ち、最初に入植したマケドニア人とギリシャ人が都市への出入りを極めて厳格に管理していたアレクサンドリアは、それだけ例外的で異質な移植都市と見られていたのである。アレクサンドロスの存命中と没後しばらくは、新都市アレクサンドリアは帝国の一属州の新しい首都だった。この属州はペルシャ人がBC525年~BC404年と、BC343年~BC332年の間支配していたエジプト属州をそのまま引き継いだもので、ペルシャ支配時代の首都はかつての王都メンフィスだった。強大な権力を持つエジプトの神官たちは、アケメネス朝ペルシャのくびきにつながれた状態に甘んじることができず、たびたび反乱を起こしていた。そしてBC343年にペルシャのアルタクセルクセス3世が再征服に成功したのもつかの間、そのわずか10年後には、アレクサンドロスにこの地を奪われることになる。 


[アレクサンドロス大王の硬貨]

 支配者が自分の権威を被支配民の心に刻み付ける方法としては、一般的に言葉よりもイメージの方が効果はある。そしてあらゆるイメージの中で最も効果的なのはコインである。そのため、野心的な支配者は通貨を作る。メッセージは硬貨に刻まれており、そのメッセージは支配者が世を去った後も長く残る。BC323年に死去したアレクサンドロス大王の肖像が刻まれた直径3センチほどの硬貨は、大王の死後40年を経て、その後継者の1人で、トラキアを支配したリュシマコスの指示によって鋳造された。それは指導者の肖像が刻まれた最古のコインの一つである。アレクサンドロスはこの時代において最も美化された軍事支配者だった。肖像には頭髪だけでなく、牡羊の角もついている。この角はギリシャとエジプトの主神であるゼウスとアメンを合体させた神を連想させる。つまり、その硬貨はアレクサンドロス大王の領土がギリシャとエジプトの双方にまたがることを主張するとともに、ある意味で、彼は人でもあり、神でもあることを示唆している。アレクサンドロスは、最初にエジプト遠征したとき、彼は正統なファラオであるだけでなく、神であるという神託を神殿から受け、「ゼウス・アメンの息子」という称号を得ている。アレクサンドロスは征服したさまざまな民族から現人神のように迎えられたが、彼自身もゼウスの息子だと言われて育ったと思われる。

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