第118話 マケドニア王国の台頭とアレクサンドロス

<年表>

BC338年 マケドニアのフィリッポス2世(在位:BC359年~BC336年)はカイロネイアの戦いで、アテナイ・テーバイ連合軍を破り、ギリシャでの覇権を確立

BC337年 フィリッポス2世の招集によってギリシャ諸国によるコリントス同盟が結成(スパルタは不参加)されたが、ギリシャ連合軍の指揮者はフィリッポス2世となった

BC336年 フィリッポス2世の暗殺、アレクサンドロス3世(在位:BC336年~BC323年)の即位

BC334年 アレクサンドロス3世、ペルシャ帝国に侵攻

BC333年 イッソスの戦いでアレクサンドロスがダレイオス3世に勝利し、事実上アケメネス朝ペルシャの運命を決した

BC331年 エジプトにアレクサンドリア建設。ガウガメラの戦いで再度ダレイオス3世を破リ、ペルシャに対して決定的な勝利を手にした

BC330年 ダレイオス3世が暗殺され、アケメネス朝ペルシャ帝国滅亡、ペルセポリスの陥落

BC323年 アレクサンドロス3世(後に大王と呼ばれる)、バビロンにて急逝


 ***


 ギリシャ古典期の輝けるBC5世紀が過ぎると、ギリシャ本土の歴史は急速に面白みを失い、その重要性も薄れてきた。しかし、ギリシャ文明の歴史は依然として世界史の主役であり続けた。この偉大なる文明の伝統を引き継いだのは、皮肉なことにギリシャ北部の後進国マケドニア王国だった。マケドニア人がドーリア系のギリシャ人だったことはほぼ間違いないが、マケドニア人は長らく北部の山岳地帯に暮らしていたため先進的な地中海文明からはかなり遅れを取っており、当時は彼らをギリシャ人と認めない人びとも多かったようだ。しかし、マケドニアの王たちは自らをギリシャの名家出身と主張していた。ところが、BC4世紀後半に、マケドニアはペルシャの領土とギリシャ世界を併合して、史上空前の大帝国を築き上げた。この巨大帝国の勢力下にあった広大な地域はその後分割されるが、そこで展開された文明はBC1世紀後半にローマが台頭してくるまで、約3世紀にわたって世界史の主役となった。この時代をヘレニズム時代と呼ぶのは、それがヘレネス(ギリシャ人)の文明と言語によって統一性を与えられた時代だったからである。


 ヘレニズム時代の物語は、まずペルシャの没落が発端となって始まる。ペルシャはスパルタと手を結ぶことによって小アジアのエーゲ海沿岸地域での勢力回復を果たしたが、その裏側では深刻な国力の衰えが進行していた。ソクラテスの弟子で名文家としても有名なクセノフォンの著書「アナバシス」から、そのようなペルシャの内情をうかがうことができる。BC405年にダレイオス2世が死去し、その第2子でペロポネソス戦争の末期に重要な役割を演じた小キュロスが、アルタクセルクセス2世(在位:BC405年~BC359年)となった兄に対して反乱を起したのである。アナトリア西部のリュディアと小フリュギアのサトラップ(太守)だった小キュロスは小アジア沿岸地域で多くのギリシャ人を傭兵に採用して軍隊を強化し、バビロンへ向けて進軍した。クセノフォンも友人とともにその戦いに参加していた。ところが、小キュロスはBC401年にメソポタミアのクナクサでのペルシャ王アルタクセルクセス2世の軍との戦いの中で戦死してしまった。クセノフォンは残された傭兵隊の隊長となって厳しい苦難を乗り越え何とか脱出に成功した。その全容を記記したのが「アナバシス」である。ペルシャはこの反乱をかろうじて鎮圧したが、長い時間と大きな代償を払う結果となった。また、エジプトはダレイオス2世がBC405年に没するとすぐに反乱を起してペルシャ人ファラオの第27王朝を倒し、同年中にエジプト人による第28王朝を樹立した。こうした内乱や反乱の物語はペルシャ帝国衰退の1例にすぎないが、BC4世紀に入ると属州が次々にペルシャの支配下から離れていった。 



(マケドニア王国)


 ペルシャの没落を勢力拡大のチャンスと見た一人にマケドニアのフィリッポス2世がいた。マケドニアはそれまでほとんど誰も注目することのなかったギリシャ北方の後進国で、貴族階級出身の戦士たちが権力を握るギリシャ人から見れば粗野で遅れた社会だった。マケドニアの支配者たちは、ホメロスの叙事詩の登場人物のように、制度ではなく個人の統率力によって兵士たちを指揮していた。ギリシャ人の中には、そうした後進国のマケドニア人をバルバロイ(異民族)と呼ぶ者もいた。混迷していたギリシャ北方の王国から頭角を現したフィリッポスは、ギリシャ本土に影響力を拡大した。優れた戦略家だったフィリッポスは、敵に巧みに虚勢を張って混乱させたあげく、戦闘で圧倒する手法が得意だった。

 フィリッポスはBC359年に23歳の若さで王位に就いた後、軍備の強化に取り掛かった。マケドニア軍は伝統的に貴族階級出身の重装備の騎兵を主戦力としていた。しかし、フィリッポスは少年時代に人質としてテーバイに滞在した時期に学んだ重装歩兵による歩兵戦術を改良し、槍兵を16列に並べた密集隊戦術(ファランクス)の基本形を編み出した。槍兵たちはサリッサと呼ばれるマケドニア独特の長さが従来の槍の2倍、約5.5メートルの槍を持ち、最前列だけでなく2列目以降の兵士たちも相手に向けて槍を突出すことができた。この戦術により攻撃に繰り出す槍の数が数倍に増え、マケドニア軍の攻撃力は飛躍的に増大した。サリッサは方陣の中ほど深い所では垂直に立てて持たれていたようだ。これは敵方から飛んでくる槍を止めるためだった。密集歩兵隊は縦隊で行進することもできたし、後方の列が回れ右をして槍を水平に持ち、密集した矩形くけいを作ることもできた。さらに楔形で進むこともできた。前線を広げ、後部を6列に細くしたり、全体を16列、32列、あるいは危機の際には120列にまで増やして詰め込み、圧縮させることもできた。さらに足踏みすることで急に向きを変えたり、直角に曲がることもできた。敵の突撃に対しては槍を地面に突き立て、互いの間隔が90センチくらいになるまで密集した。そのため革ひもで首から吊るし左肩を守っていた小さな盾が、隣の楯と触れ合うほどになった。これらさまざまな隊形の変更は、列のリーダーたちが発する命令によって実行されるので、訓練は完璧を期して行われたに違いない。マケドニア軍が優れていたもう一つの点は、投石器や城壁を破るためのつち、車輪付きの城壁攻撃用の塔、といった新しい攻城兵器を持っていたことである。マケドニア以前にこうした武器を持っていたのはアッシリアとその伝統を引く西アジアの陸戦隊だけだった。

 さらにフィリッポスが王位に就いたころのマケドニアは財政的にも豊かな国だった。就任後、北方のバルカン半島西部に居住するイリュリア人を平定した後、南方と東方に勢力を伸ばそうとした。しかし、この地域で領土を拡大することは、いずれアテナイと衝突することを意味していた。フィリッポスがまず目指したのは、海への自由な出口を確保することだった。BC355年、アテナイ海上同盟の弱体化に乗じて、マケドニアにあるいくつかのギリシャ人植民港湾都市を奪取した。また、東方に向かってはタソス島のギリシャ植民地やトラキアのパンゲイオン山の金鉱山を奪取した。これ以降、パンゲイオンの黄金を使ったフィリッポス2世の金貨はギリシャ世界にあってペルシャの黄金が果たしてきた役割を演じていくこととなる。

 一方、アテナイはBC377年にアテナイを中心とする第二次海上同盟(約60ヶ国)を第一次のデロス同盟からちょうど1世紀後に成立させていた。しかし、またもや参加国への支配を強めようとしたことから、BC357年には同盟市戦争(BC357年~BC355年)と呼ばれる戦いが起こった。フィリッポスのギリシャ進出が明らかになると、ロードス島、コス島、キオス島、ビザンティオン(後のビザンティウム)などの同盟国は次々とアテナイから離反してマケドニアの庇護の下へ入っていった。アテナイの雄弁家で政治家のデモステネスは、こうしたマケドニアの動きに脅威を感じ、有名な「フィリッポス攻撃弁論」をはじめとする多数の弁論を発表している。デルフォイの聖域の管理をめぐる周辺国の長い争い、いわゆる第三次神聖戦争(BC356年~BC346年)が終わったとき、フィリッポスはマケドニアの南のテッサリアを獲得していただけでなく、ギリシャ中央部一帯に足場を築き、ギリシャ中心部への入口にあたるテルモピュライをも支配下に収めていた。



(コリントス同盟)


 フィリッポス2世はマケドニアの東北にあり、ボスポラス海峡につながるトラキアへの遠征を優位に進めていた。もともとペルシャと支配を争ってきたこの地への進出は、ギリシャ人に再びペルシャ攻撃への野心を呼び起こすことになった。アテナイでは依然としてフィリッポスを攻撃するデモステネスたちの勢力と、マケドニアの下に結集してギリシャの共通の敵ペルシャを討つべきだとするイソクラテスのような勢力が対立を続けていたが、結局アテナイはマケドニアに宣戦布告し、テーバイと共に戦いを挑んだ。

 マケドニアの勢力範囲をギリシャとバルカン諸国にまで広げたフィリッポスは、安定した帝国を残すだけでなく、息子に使命も与えた。BC338年夏、フィリッポスは軍を率いてアテナイのあるアッティカ地方の北に位置するボイオティア地方のカイロネイアに進軍した、この戦闘でマケドニア軍の左翼を指揮し、ボイオティアの重装歩兵を撃破したのがフィリッポスの息子の若きアレクサンドロスだった。テーバイとアテナイの連合軍は、このカイロネイアの戦いで惨敗し、翌年にはフィリッポスの招集によってギリシャ諸国によるコリントス同盟が結成された。都市国家の住民であるギリシャ人と、王の領民であるマケドニア人は互いに強い反感を抱いていた。ギリシャ人から見たマケドニア人は基本的に野蛮人だった。但し、マケドニア王家は例外的にギリシャの祝祭に参加することが許されていた。カイロネイアでの勝利後、フィリッポスはギリシャの都市国家を征服して自らの王国に組み入れるのではなく、コリントス同盟という傘の下で束ねる方法を選び、同盟の代表におさまり、その連合軍の指揮者はフィリッポスとなった。このときスパルタだけはマケドニアへの恭順を拒み参加しなかった。


 こうしてコリントス同盟の第1回目の会議が開かれ、マケドニア・ギリシャ連合軍のペルシャ遠征が決定され、フィリッポスをペルシャ帝国遠征の最高司令官に指名した。この遠征の大義名分は、BC480年からBC479年にかけてペルシャ軍が行ったギリシャの神域や神殿の破壊という冒瀆行為への報復、そして小アジアのギリシャ諸都市を異民族の隷属から解放することだった。BC336年、パルメニオン、アッタロス両将軍が率いるマケドニアの軍勢はギリシャとアジアを隔てるヘレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を渡った。攻めるなら今しかなかった。ペルシャではアルタクセルクセス3世とその後継者アルタクセルクセス4世が、それぞれBC338年とBC336年に暗殺されたとあって、アケメネス朝は内紛で混乱状態だったのだ。BC336年にはダレイオス3世が新たな王になったものの、年齢はすでに45歳、帝国の地固めを目指すのがやっとだった。

 BC336年の春、ギリシャ人の自由のための最初のペルシャ遠征軍が派遣された。ところが、同年の夏にフィリッポスは若いマケドニア貴族のパウサニアスによって暗殺されてしまった。そのため遠征の時期を遅らせざるを得なくなった。後を継いで第3代マケドニア王になったのが20歳のアレクサンドロスだった。アレクサンドロスは、コリントス同盟のギリシャ諸国が各地で起こした反乱に対処するとともに、はるか北方のドナウ川まで後背地の安全を図る必要があった。フィリッポスの死後、アテナイは再び独立を求めて蜂起するが、その試みは空しく潰えた。後継者となったアレクサンドロスが、マケドニア王国北部で起こった反乱も、アテナイをはじめとするギリシャ諸国の反乱もすばやく鎮圧したからである。なかでもテーバイは見せしめのために徹底的に破壊され、住民たちは奴隷の身分に落されてしまった。マケドニアによるテーバイの徹底的な破壊によって、古代ギリシャの輝かしい歴史に正式に幕が下ろされることになった。これ以降、ギリシャにはマケドニアのサトラペス(地方長官)が派遣され、マケドニア軍が駐留することになる。これは都市国家ポリスを基本とするギリシャにとっては致命的な出来事だった。このときからギリシャ本土は政治的に沈滞した地域となった。


 アレクサンドロスには父親から受け継いだ軍資金があった。フィリッポスがすでにトラキア(今日のギリシャ北部、ブルガリア、トルコのヨーロッパ側の国境にまたがる地域)の豊かな金銀の鉱山を征服していた。そこで産出された金銀は初期の軍事行動の資金になった。ギリシャ内部の問題を片付けたアレクサンドロスは再びペルシャへと関心を向け、BC334年に大軍を率いて東方への遠征に出発する。このときの軍勢はマケドニア軍にギリシャ諸国の軍勢を加えたものだったが、ギリシャ兵の数は総数の4分の1程度だったと伝えられている。アレクサンドロスの東方への遠征には現実的な理由があった。父親のフィリッポスから受け継いだ軍資金があったとはいえ、彼が残した精鋭部隊に俸給を払い続けるためには、他国を征服するしかなかった。当時22歳だったアレクサンドロスは、その後約10年の間に輝かしい戦歴に彩られた短い生涯を駆け抜け、運資金はペルシャで略奪した莫大な富によってさらに膨れ上がった。アレクサンドロスの世界帝国は500万キログラム(5000トン)近いペルシャの金によって賄われていたのだ。圧倒的な武力と莫大な富、それに途方もないカリスマ性を備えていたアレクサンドロス、その名は伝説となり、アレクサンドロス大王として後世まで語り継がれていくことになった。アレクサンドロスが行った東征はギリシャ文化がこれまでにない広大な地域へと伝わっていく原因となり、各地にギリシャ型の都市国家を生みだしていくきっかけとなった。



(アレクサンドロス3世)


 アレクサンドロス3世はその業績により、後に「大王」と呼ばれるようになった。アレクサンドロス大王については、彼と同時代の人々が20人以上書物の形で書き記している。しかし、その内の一つとして現在まで伝え残されたものはない。後代の作者の引用によってかろうじて知られているだけだ。したがって、以下の内容は探求の域を出ない。


 フィリッポス2世の息子にして後継者であり、後に「大王」と呼ばれることになるアレクサンドロス3世は、極めてうさん臭い状況の下でマケドニアの王位に就いた。BC336年にフィリッポスが暗殺されたとき、アレクサンドロスの母オリュンピアスは第1王妃から格下げされたばかりだった。一方、フィリッポスの最も新しい7人目の王妃エウリュディケは息子を生んだばかりだった。エウリュディケはマケドニアの貴族の娘であり、その息子は純粋のマケドニア人である。フィリッポス自身はまだ壮健な46歳、アレクサンドロスが後継者候補から外される危険は大きかった。凶行は、フィリッポスがオリュンピアスとの間にもうけた娘と、マケドニアの西方に位置するエぺイロスの若い王で、オリュンピアスの実弟との婚礼の祝宴の席上、衆人環視の中で行われた。婚礼の宴に先立つ2年前のBC338年、フィリッポスはカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、外国の王として初めてギリシャ本土の都市国家を統治することになった。傘下に入った諸都市はマケドニアの同盟国となり、共に平和を分かち、フィリッポスを同盟軍総司令官とすることを誓った。オリュンピアスは、フィリッポスのただ一人の後継者アレクサンドロス王子の母として、さらには隣国エぺイロスの王女として、彼女は20年の間、自分こそ正妻の資格を持つ者だと自負し続けてきた。フィリッポスが結婚によって隣国エぺイロスとのつながりを持つことは、政略上から必要なことだった。この要望にオリュンピアスは20年間ずっと応えてきた。しかし、彼女の弟がフィリッポスとオリュンピアスとの間の娘と結婚し、フィリッポス家の一員となれば、彼女はもはやフィリッポスにとって、政略上でもプライベートでも全く必要のない存在になってしまう。

 婚礼の招待客たちがやって来たのはマケドニアの最も古い宮殿のある旧都アイガイである。フィリッポスを暗殺したのは7人の護衛官の一人でフィリッポスに征服された王国の貴族出身のパウサニアスだった。暗殺の黒幕が誰だったにしろ、それによって最も得をしたのは疑問の余地なくアレクサンドロスとその母オリュンピアスだった。アレクサンドロスにとってエウリュディケの息子はまだ生後数週間で、直接我が身を脅かすものではなかったが、アレクサンドロスはエウリュディケとその赤子をオリュンピアスに預けた。そして赤子は殺され、エウリュディケは自殺したとされる。さらにエウリュディケの叔父で、後ろ盾でもあるマケドニアの将軍アッタロスも裏切り者として暗殺された。そのときアッタロスは東方遠征軍の先発隊を率いて小アジア北西部に遠征中だった。アレクサンドロスはライバルを押しのけてマケドニアの王となり、母親が以前持っていた影響力を再びその手に取り戻させた。さらに公的には、パウサニアスの暴挙はもっぱらアッタロスの虐待が引き起こしたものとして処理されている。


 アレクサンドロスは、北西ギリシャに位置するエペイロスの王女だった母親のオリュンピアスと、家庭教師だった哲学者アリストテレスの強い影響を受けて育った。アレクサンドロスはホメロスの叙事詩を愛読し、「イーリアス」をいつも枕の下に忍ばせていたという。マケドニアの若き王子はホメロスが描いた英雄たちに自分を重ねあわせ、我こそアキレウスたらんと理想を描いていた。円滑な王位継承を後押ししたのは、父王に仕えていた将軍たちだった。特に、父の主要な友人の一人、アンティパトロスの助言と支援によって、反対する者もなく王位を確実にした。その後、マケドニア人民集会で承認されると、アレクサンドロスは兵士を集め、自分こそ正当な王の後継者であると表明した。そこで彼は、「マケドニア王国は王の名が変わった。しかし、前王の行った政治はそのまま自分が引き継いでいく。但し課税はしばらくの間取り止める」と語った。異義を挟む者たちは一掃された。国元で安全を確保したアレクサンドロスは、フィリッポスの葬儀を執り行い、フィリッポスにゆかりのある人びとを喜ばせた。遺体はマケドニアの旧都アイガイに立つ古い宮殿の近くの霊廟に安置された。青銅の鋲が打ち込まれた扉と、柱廊のあるファサード(正面の入口)の後ろでフィリッポスは永遠の眠りについた。父親の葬儀を終えると、アレクサンドロスは即座に、ペルシャ帝国に対抗するギリシャ文化の擁護者という父親の役割を引き継いだ。


 王位継承後、アレクサンドロスは、国内のライバルや敵を倒して地位の安定を図り、また、フィリッポス2世暗殺と、王位継承をめぐる内紛が引き金となって起こった北部と西部の情勢不安も見事に解決した。国境を越えて侵入を狙ったイリュリアやトラキアをドナウ川越えの遠征で叩きつぶしたのだ。ギリシャ人にとってドナウ川はエクメーネ、すなわち人が居住する文明世界との境界だった。フィリッポス2世の死を知ったギリシャの有力都市国家だったテーバイはコリントス同盟を離れ、マケドニア駐留軍を追い払った。アテナイもそれに同調する動きを見せている。フィリッポス2世が押しつけた新しい秩序はギリシャ人には歓迎されていなかったのだ。彼らが求めていたのは、異国の王に保障される平和ではなく自由だった。同じ頃、ペルシャ王もマケドニアの覇権に揺さぶりをかけるべく、ギリシャの主だった政治家たちに多額の現金を贈っている。ところが、BC335年にアレクサンドロスがテーバイを制圧したとき、ギリシャの他の都市国家は全く手出しをしなかった。コリントス同盟国はテーバイが破壊されるのを黙認した。テーバイ破壊の翌年にはペルシャへの攻撃を開始するが、それはこの新興のマケドニアとギリシャ諸都市との連合国が、アレクサンドロス個人に如何に頼り切っているかを露呈する結果になった。


 ギリシャ世界を支配した都市国家は数々あれど、その影響が境界を越えて広くおよぶことは稀だった。BC4世紀のイソクラテスは、ペルシャ帝国と戦うためにギリシャをまとめあげる人物を切望していた。その意味で、ギリシャに介入してきたマケドニアのフィリッポス2世とその息子アレクサンドロス3世はイソクラテスの願いを実現したと言える。但し、その規模は予想をはるかに超えていた。

 そして遠征が始まると、アレクサンドロスは最初から最後まで論争に付きまとわれながらも、BC334年からBC323年にかけて10年以上にわたって驚異的な統率力と支配力を発揮し続けた。フィリッポスの当初の目標が具体的にどのようなものだったにしろ、アレクサンドロスの事績は間違いなくそれを大きく凌駕している。アレクサンドロスはマケドニアの領土をはるか東のインドの西部まで広げ、その過程でペルシャ帝国を滅ぼしただけでなく、支配者個人のカリスマ性を支えとする新しい君主制領域国家の基礎を築き始めた。それは半ばギリシャ的で半ば東方的な君主として統治する「アジア」の王国であり、西アジアの新しい領民の多くは自発的に彼を生き神として崇拝するというものだった。アレクサンドロスはエジプトから西アジア、さらに現在のアフガニスタンに到る広い地域を征服したが、征服された地域はもちろんのこと、ギリシャとマケドニアも彼の出現によって変容した。BC323年に早すぎる死を迎えた時、アレクサンドロスは旧ペルシャ帝国支配の足場固めに取り掛かったばかりだった。マケドニアには権力と富に飢えた者が大勢いたが、アレクサンドロスの後継者にふさわしい人物はいない。そこから新しい王朝が開かれ、いくつもの後継王国が成立してヘレニズム世界が隆盛していくまでに、半世紀ほどの年月が必要だった。



(アレクサンドロスとアリストテレス)


 アレクサンドロスはフィリッポス2世の死後、BC336年にほとんど際限のない自負心を持って20歳で王位に就いた。アレクサンドロスが公言していた目標は、「世界の最果てと広大な外洋」にまで到達することだった。そのため、まずはアテナイをはじめとするギリシャ諸都市による反乱を鎮圧し、次に東へ向かってギリシャ人の往年の敵であるアケメネス朝ペルシャと対決した。ペルシャは当時、世界最大の帝国であり、エジプトから西アジア、中央アジア、そしてインダス川流域にも達するほど広大な領域を支配していた。若いアレクサンドロスは10年にわたって目を見張るような軍事行動を繰り広げ、最終的にペルシャ帝国のすべてを打倒した。アレクサンドロスは明らかに英雄的な理念や、個人としての名誉、武勇の理想像に突き動かされた男だった。その原動力はなんだったのか? アレクサンドロスは世界の果てにたどり着きたいという願望に駆られていたし、父親のフィリッポスに勝りたいとも思っていたようだ。


 アレクサンドロスはアテナイの北方数百キロのところにある小王国マケドニアのフィリッポス2世の息子だった。フィリッポスは息子のために、ソクラテス、プラトンの後を継いだ哲学者アリストテレスをアテナイからマケドニアに呼び戻して、家庭教師として雇った。今日、アリストテレスは哲学者として記憶されているが、彼は哲学上の書物の他に、158の異なった国家の機構について書物を著したり、音楽や薬学、天文学、磁石、光学、動物学などについても記述している。ギリシャの最も偉大な頭脳と、マケドニアの最も偉大な征服者との接触は、何にもまして我々の興味をそそる。

 短い期間だったのか、あるいは長い期間だったのかわからないが、ともかくアレクサンドロスはこの広い知性の持主と共に時を過ごした。アリストテレスは次のように書いている。「若者は政治学の正しい聴衆にはなり得ない。というのも、彼には経験というものがないからだ。彼はなお自分の感情に引きずられている。したがって、彼が耳を傾けて聞いていても、結局それは無駄なことなのだ」。しかし、アリストテレスはアレクサンドロスのために短い論文をいくつか書いている。「王権について」「植民地を褒め称えて」「アレクサンドロスの集会」「富の栄光」などである。但し、14歳の少年にとって政治的なことより、医学、動物、地勢、海の形などのほうがアリストテレスと共有できた。フィリッポスも同様の興味を持っていたことは立証されている。そうした興味が大人になったアレクサンドロスの一部を作り上げていた。アレクサンドロスはただの野望とタフネスの男ではなかった。それ以上の男だった。幅広い興味を持つ好奇心の塊のような男だった。

 アリストテレスの政治に対する考えは、紛れもなくギリシャ都市の生活から形成されたものだった。そして彼の弟子のアレクサンドロスが、ナイル川からヒマラヤの山麓まで、帝国のいたる所に建設したのも同じギリシャの都市だった。新たに作られた都市はどの王権の時代より長く存続し、重要な役割を果たすことになった。アレクサンドロスは東方の地でなお一人のギリシャ人であり得たのは、ただ彼の作った都市によってだけではなかった。彼はギリシャの文化によってギリシャ人たり得た。政治上の理由や友情によって、確かにアレクサンドロスは東方人を帝国の中に招き入れた。しかし、彼自身はペルシャの宗教に熱中したこともなければ、東方の言語を学び、それを流暢に話せるようになりたいと思ったこともなかった。


[アリストテレス胸像碑文]

 現存の碑文は、かつて偉大な哲人の頭が上についていたアリストテレスの胸像の台座を成した角柱部分のみである。碑文はアテナイのアゴラ東端にあったBC2世紀の吹き抜けの列柱館「アッタロスのストア」跡から出土したが、碑文はそれより100年以上前のものであった。アレクサンドロス大王はBC356年生まれで、BC334年にペルシャへの軍事遠征を開始している。彼はこの碑文を遠征に出発する前に建てたにちがいない。

“アレクサンドロスは、すべての知恵の源泉、ニコマコスの息子アリストテレスの肖像をここに建てる・・・・”

 アリストテレスとアレクサンドロス大王は互いに長期の家族的絆で結ばれていた。アリストテレスはBC384年、マケドニア王アミュンタス3世の侍医ニコマコスの子として生まれた。アミュンタス3世はフィリッポス2世の父、つまりアレクサンドロスの祖父にあたる。アリストテレスは17歳のとき、故郷を離れてアテナイに行き、20年間そこに留まる。最初はプラトンの学園の生徒として、後に教師となり知的研究の発展に心血を注ぐ。プラトンの師のソクラテスは、BC399年にその悪しき思想によって若者たちを堕落させたとの告発を受け死刑に処せられた。プラトンは師の思想を細かく記録に残しその教えを大事にした。やがて彼は、BC385年にアテナイ郊外の森に学園「アカデミア」を設立した。プラトンの思想のどこまでがソクラテスから受け継いだもので、どこからがプラトン自身のものなのかの判別は難しい。だが、プラトンが、現実の世界は理想世界の不完全なる体現と見なしていたのは明らかである。彼によれば、肉体的感覚の対象を通り過ごし、その背後にある物事の本質(イデア)を捕らえることである。アリストテレスはプラトンの弟子であるが、師とは異なる見方を持った。アリストテレスは、事物がどうあるべきかではなく、どうあったかを知ることこそ重要であると言う。経験主義者としての彼の考えによれば、人間が認識できるのは、自分の目で実際に見たもの、観察を通し検証できる事柄だけである。アリストテレスは彼の見解が意味していることを完全に把握できていたわけではないが、彼の考えは近代の科学的思考システム全体にとっての土台になった。そしてそれはアリストテレス自身、後に気づいたのであるが、心理学から劇、そして法律に到るすべての知的活動に等しく応用できる考え方であった。

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