第117話 ポエニ戦争(ローマとカルタゴの激突)、そしてカルタゴの滅亡

“歴史は常に勝者の立場で語られる。したがって、真実を知りたければ、敗者からの視点が欠かせない。特に、ペルシャ対ギリシャ、カルタゴ対ローマは顕著である。中国における殷対周もそこに入るかも知れない。だが、往々にして敗者からの史料は少ない”


<年表>

BC264年(ローマとカルタゴの最初の激突)

 第1次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)が勃発。シチリアをめぐりローマとカルタゴが争う。カルタゴは敗北し、シチリア島を手放し、莫大な賠償金を支払わされた。

BC218年(ハンニバルの活躍)

 第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)はカルタゴの将軍ハンニバルの活躍によって後世に語り継がれる戦いとなったが、カルタゴは最終段階で、致命的な敗北を喫し、イベリア半島南部の領土をローマに割譲し、艦隊も破壊させられ、そして再び賠償金を支払わされた。それは50年にも及ぶ分割払いとなった。戦争初期に目覚ましい成功を収めたハンニバルも、結局は北アフリカの地で敗れ、亡命を余儀なくされ、最後は自ら命を絶っている。

BC146年(カルタゴの消滅)

 第3次ポエニ戦争(BC149年~BC146年)はカルタゴの国力復活のきざしや軍事的な動きがローマの猜疑心を煽ることになり、BC149年、ローマはカルタゴの北西に位置するウティカに軍隊を配備して、最後通牒を突きつけた。BC146年、ローマ軍はカルタゴへ突撃し、第3次ポエニ戦争が終結。フェニキア最後の主要植民都市が制圧された。ローマ軍はカルタゴの城壁を打ち破って街に火を放ち、住民が隠れていた建物を炎上させ、町を完全に破壊し尽した。そして、残った住民は奴隷となり、歴史から姿を消した。しかし、その言語、信仰、慣習などは北アフリカやカルタゴの海外領土の中で何世紀も生き続けた。

BC64年

 カルタゴの母都市テュロスを含むフェニキアの都市すべてがローマの手に落ちた。

BC44年

 カルタゴの廃墟の跡に、カエサルが新たにローマ植民市を建設。その後、カルタゴのあった地は、紀元後439年にヴァンダル人に侵略され、紀元後548年にはビザンツ帝国に占領され、最後に、紀元後696年にアラブ人に征服された。


 ***


 BC265年までに、南イタリア沿岸のギリシャの植民地群マグナ・グラエキア(大ギリシャ)を支配下に置いたローマが意気揚々と西地中海域に登場すれば、この海域におけるもう一つの大国、カルタゴと衝突するのはごく自然の成り行きであった。裕福で不屈なカルタゴは、リビアのキュレナイカ地方との境界からジブラルタルに到る北アフリカ、さらにはイベリア南部、バレアレス諸島、サルディニア島、コルシカ島、シチリア島西部に及ぶ広範な支配領域を確立した。カルタゴは共和政であったが、ローマとは異なり支配階層は豊かな商人と勢力のある船主であった。カルタゴは良港を抱え、大規模な海上交易からその富を得ていた。しかし、ローマにとって強力なライバルであるにもかかわらず、カルタゴは政治的・軍事的にある弱点を持っていた。それはローマとは違い、打ち負かした相手に如何なる権利も認めなかったということである。その結果として、支配は脆弱な基盤に立っていた。強力に見える軍隊も、祖国のために戦おうとするカルタゴ市民の数は限られており、大半は傭兵で構成されていた。またその指揮官もローマとは異なり職業的な専門家であった。

 BC3世紀前半までに、ローマ人の支配する道は、イタリア半島を真っ直ぐ南下し「かかと」にまで達した。そこから西のシチリア島やサルディニア島へはひと飛びである。BC264年、ローマ人はシチリア島で彼らがポエニ人(フェニキア人)と呼んだカルタゴ人と衝突することになる。BC814年にフェニキアのテュロスが建設したカルタゴは、西は遠くジブラルタル海峡の西の大西洋を望むタンジェ(タンジール)までの北アフリカ沿岸一帯から、イベリア半島南部やシチリア島西部まで広大な地域を支配していた。西地中海一帯の完全な支配を望むカルタゴにとって、それを実現するシチリア島の獲得は長年の悲願だった。カルタゴがシチリア島のメッサナ(現在のメッシーナ)に進軍すると、メッサナの支配者はローマに援軍を求めた。ローマはこの求めに応じ、カルタゴとの戦争に突入した。


 カルタゴとローマが真正面から激突したポエニ戦争は、100年を超える長い戦いとなった。ポエニ戦争は3回に分けて戦われたが、最初の2回で勝敗は決していた。第1次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)は、ローマ軍がそれまで経験したことのない大規模な海戦となった。しかし、新しく建造した艦船を駆って、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島を次々に占領したローマは、シチリア島のギリシャ植民地シュラクサイにカルタゴとの同盟を破棄させ、BC227年にはシチリア島西部とコルシカ島を手に入れた。この時ローマは、初めて「海外」の領土を手に入れ、それを「属州」とした。このことがその後の数世紀にわたり、ローマが帝国として歩む道筋を決定したといえるかもしれない。

 1回目の戦いでは決着がつかなかったため、両国はBC218年に再び激突する。有名なカルタゴの名将ハンニバルが登場するこの第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)は、第1次をはるかにしのぐ大規模な戦いとなった。戦いの火ぶたが切られたのはイベリア半島だった。ローマの同盟市であるギリシャ人がイベリア半島東部沿岸に建設した植民市サグントゥムを、カルタゴの若き将軍ハンニバルが攻撃したのをきっかけに、第2次ポエニ戦争は開始された。イベリア半島での戦いの後、ハンニバルは驚くべき作戦に出る。象の部隊を引き連れて北側からアルプスを越えてイタリア半島に侵入したのだった。戦闘は当初、カルタゴ軍の快進撃が続き、BC217年のイタリア中部のトラシメヌス湖畔の戦いと、BC216年のイタリア南部のカンナエの戦いでは、2倍の兵力を持つローマ軍を壊滅させている。ローマの覇権はこの二つの戦いで大きな打撃を受けることになった。イタリア半島中部の都市はローマへの忠誠を守ったものの、南部ではほぼすべての都市がカルタゴ側に寝返ってしまった。ローマ軍は劣勢に苦しみながらも、兵力の劣るハンニバル軍がローマの町を包囲できないことに助けられて長期戦に耐えた。一方のハンニバル軍は本国からの補給が困難であるため、次第に物資不足に悩まされるようになっていった。ローマに反旗を翻した現在のナポリ近くに位置するカプアがローマによって容赦なく破壊されたときも、ハンニバルは援軍に駆けつけることすらできなかった。やがてローマはイベリア半島にあるカルタゴ領に攻撃を仕掛けるという大胆な策に転じ、BC209年にローマ人がノヴァ・カルタゴ(新カルタゴ)と呼んだイベリア半島東南部に位置するカルタヘナの攻略に成功した。さらにBC207年、ローマ軍はやはりアルプスを越えて援軍に駆けつけたハンニバルの弟ハスドゥルバルを撃破すると、攻撃の矛先をカルタゴの本土である北アフリカに向けた。ついにハンニバルも北アフリカに引き返さざるを得なくなり、最後はBC202年のザマにおける決戦で、若き将軍スキピオの率いるローマ軍に敗れた。こうして第2次ポエニ戦争はローマ軍の勝利に終わった。

 第2次ポエニ戦争は軍事的な勝敗だけでなく、西地中海地方のその後の運命を決した大事件だった。その後、BC2世紀の初めにローマは北部のポー川流域を征服し、ついにイタリア半島全体を支配下に置いた。そしてカルタゴに対して極めて苛酷な和平条件を付きつけるとともに、戦後もハンニバルを追い続けた。結局ハンニバルはシリアに逃れ、その後、小アジア北西部のビテュニアへ逃げた後、追い詰められて自殺することになった。またシチリア島最後のギリシャ植民市であったシュラクサイは、戦争中にカルタゴと再度同盟を結んでいたため、戦後ローマによって自治を奪われた。こうしてシチリア島全体がローマの支配下に入り、イベリア半島南部もローマの属州となった。


 カルタゴはBC4世紀末には自分の持っているもので満足していられた。大掛かりな政治劇は北アフリカの西地中海地域ではなく、ずっと東の方で演じられていた。アレクサンドロス大王の後継者たちは彼の遺産からかき集めて3つの大国、すなわちアンティゴノス朝のマケドニア、セレウコス朝のシリア、プトレマイオス朝のエジプトを作った。ヘレニズム時代の海上交易は非常に盛んだった。古代初の世界都市アレクサンドリアの港の入口には高さ120メートルのパロスの燈台がそびえ、ロードス島の港には高さ30メートルのギリシャ神話の太陽神であるヘリオスを表わしたブロンズの巨像が立ち、広げた両脚の間を船が通ったという。この2つは世界の七不思議に数えられている。

 セレウコス朝に属することになった東方のフェニキア人はヘレニズムの多国家世界でも商業取引に活発に関与した。アンティゴノス朝はシドン、ビブロス、トリポリスに大きな造船所を建設し、レバノン杉とイトスギを使用して船を造らせた。フェニキアの都市国家の住民はペルシャ時代にも海運に携わっていたが、この時はもうその独占権をなくしていた。もちろん、フェニキア都市がそれで没落したわけではない。船の建造と地中海貿易はけっこう大きな利益を生んだし、政治的な情勢も我慢できる程度だった。この時代のフェニキア都市はすっかりヘレニズム化されていたようだ。テュロスでは5年ごとに開催されるオリンピア競技のようなものもあった。他方、カルタゴにとっても母国であるテュロスを通じて大きな市場であるセレウコス朝シリアとの結びつきは重要だった。また同じ北アフリカ海岸にあるエジプトとの関係もうまくいっていた。カルタゴの繁栄はちょうどそのころ形成され始めたローマにとって眼の中のとげだった。ローマの政治家大カトー(BC234年~BC149年)は意見を述べる時、「カルタゴの地はローマからわずか3日の船旅のところにある。私はカルタゴは滅ぼされねばならないと思う」という言葉で必ず結んだという。

 イタリア半島西側の中部テヴェレ河畔の目立たないローマの町は、次第に粘り強く大きくなって、BC5世紀には同盟者エトルリア人の権力を奪い、BC400年ごろにはイタリア半島中部の大半を支配地域とした。しかし、イタリア半島南部あるいはシチリアにあるギリシャの都市国家とはまだまだ比較にならなかった。カルタゴはこの若い共和国と、全部で3回の条約を結んだ。最初はBC509年、2回目はその162年後のBC348年、3回目はBC306年に結ばれた。これらの条約で両者はそれぞれの勢力範囲について取り決めを行った。例えば、ローマ人はサルディニアに都市を建設したり、イベリアの海岸を略奪したりすることを禁じられた代りに、海難に際してはカルタゴ領の港に寄港でき、本拠地のカルタゴでは市民に許されていることなら何でもすることができた。強い方のカルタゴが弱い方のローマに、どの境界線内で動いてよいかを指定し、その代わりに、ローマ人およびその同盟者と、カルタゴ人、テュロス人、ウティカの人びとおよびその同盟者との間の友好関係を提示したのである。この友好関係は約200年続いた。その間、ローマ人はポエニ人に妨げられることなく、南イタリアのギリシャ人都市国家を除いて、イタリア半島全域に勢力を拡げることができた。



(第1次ポエニ戦争)BC264年~BC241年


 南イタリアで最も富裕な商業都市タレントゥム(タラス:現在のタラント)は、ローマの艦隊がBC303年にその港を襲ったとき、彼らはシチリア島のシュラクサイのアガトクレスに、彼の急死後は、ギリシャ北方のアドリア海側のエペイロス王ピュロスに救援を頼んだ。BC280年、アレクサンドロスの親類でもあるピュロスは南イタリアとシチリアにギリシャ帝国を建設するという夢を実現しようとした。ピュロスはローマ軍と遭遇次第これを撃破したが、そのたびに大損害を受けた。ローマ人はピュロスと和平交渉を始めた。それがカルタゴを舞台に呼び出した。第1次ポエニ戦争はシチリア島のメッサナ(現在のメッシーナ)を舞台に開始された。イタリア半島との海峡にのぞむこの町は、当時イタリア中部、現在のナポリを中心としたカンパニア地方の傭兵たちの手中にあった。彼らはかつてシュラクサイのアガトクレス軍の補助部隊でマメルティーニ(軍神マルスの息子)たちと自称していた。彼らは手広く略奪をして、東シチリア全域を騒がせ、シュラクサイと始終紛争を起していた。BC265年春、シュラクサイの支配者ヒエロンは彼らの跳梁に我慢できなくなり、数度戦ったが大敗を喫したため、仕方なく長年の紛争相手であるカルタゴに助けを求め、駐屯軍をメッサナに派遣してもらった。ところが、マメルティーニ側もローマに助けを求めたのである。ローマの元老院は、シュラクサイにメッサナと海峡の支配権を握られては困るので、2人の執政官が指揮する2軍団を送ってきた。ローマと友好関係にあったカルタゴ駐屯軍の司令官は、ローマの船団が接近するのを知ると、あっさり陣地を引き払った。しかし、この友好関係はほとんで一夜にしてひっくり返った。ローマ軍はメッサナを救っただけでなく、そこに居座ろうとしたため、カルタゴはシュラクサイと連合を組んで、ローマ軍を追い払おうとした。結果は手ひどい敗北だった。ローマがさらに4軍団を送ってきたとき、シュラクサイは連合軍から離脱した。これが序幕だった。

 その後、ローマは軍隊の大部分を引き揚げたが、メッサナには居座った。ローマはシチリアに、カルタゴはイタリアに駐留してはならないという和平条約をローマが破ったことにカルタゴが反発し戦争になった。カルタゴはシチリア中部南岸のギリシャの都市国家アクラガス付近に大軍を送り、同時にイタリア西海岸にあるローマの港を襲撃し始めた。ローマもシチリアに軍隊を送ってアクラガスを占領し、ポエニ人を自領に追い戻した。2年後、シチリアでの勝負はカルタゴにやや有利のまま引き分けに終わった。しかし、その情勢も長くは続かなかった。ローマがBC261年まで十分に力を発揮できなかったのは、船はカルタゴの船を真似て建造したもので、経験も乏しく、また船の数がカルタゴに比べて十分でなくカルタゴが海を完全に支配していたからである。

 程なくして、ローマ人はカルタゴの船をお手本にして5人で漕ぐ櫂を両側に25~30本備えた5段櫂船と呼ばれる100隻もの大船を建造した。当時、この大きさの船はフェニキアとカルタゴにしかなかった。さらにローマはその大船に、長さ10メートル、幅1メートルの梯子はしごをマストに取り付け、45度の角度で舷側から突き出るようにしておき、敵船に横付けされたときにこの梯子を降ろし、先端の太い鉄鉤で敵船のデッキに食い込ませ、兵士がこの梯子で敵船に乗り込めるようにした。ローマのこの発明は古代の海戦に革命をもたらした。それまでは操船の熟練者が船の先端に取り付けられた衝角で敵船を突き、かじをぶち壊し、敵の戦闘力を失わせるというやり方だった。ところが今度は、歩兵の戦闘法が海戦に持ち込まれたわけで、歩兵としてはローマの方がはるかにカルタゴよりも優れていた。

 そのことは、BC260年シチリア島北部のミュラエ沖で143隻のローマ艦隊が、ほぼ同勢力のカルタゴ艦隊との海戦で初めて勝利し実証された。カルタゴ艦隊は敗北を喫して、海での不敗を誇ったポエニ人の名声はひどく傷ついた。この海戦に勝利したことで、カルタゴがギリシャから奪ったコルシカ島とサルディニア島をローマのものとする道が開かれた。ローマ人は自分たちの優位を悟り、戦争の7年目の終わり、BC257年にローマは350隻からなる大船隊を仕立てて北アフリカに向かい、カルタゴの対岸に上陸した。このとき、スパルタの軍人がカルタゴの救援に駆けつけて、カルタゴの軍隊を鍛え直し、カルタゴの城壁の前での決戦に持ち込んだ。ローマ軍はカルタゴ側のヌミディアの騎兵とゾウとに太刀打ちできず、四方から包囲され壊滅した。カルタゴは体制を立て直し、ハミルカル・バルカスを司令官にして、まだカルタゴが死守していた西シチリアに乗り込み、一種のゲリラ戦を3年間展開した。しかしBC241年、シチリア島の西、アエガテス諸島沖の海戦でローマ艦隊がカルタゴ船隊を再び打ち破ったことにより、ハミルカルは補給線を断たれ、ポエニ人は決定的に敗退した。明白な陸軍力が海の女王を王座から引きずりおろしたのだ。BC241年、カルタゴは和平を提案し、ハミルカルとその部隊の無事引き揚げの条件とともに、シチリアがローマ領であることを認め、その上に3200タラント(8.320トン)の銀を10年間で支払うことになった。そしてシチリア島はローマ最初の属州となった。また、カルタゴは西地中海の指導的海軍国という名声も失った。


 しかし、ローマも大きな犠牲を払ったようだ。BC247年に行われた人口調査によれば、ローマ市民の成年男子の数は、第1次ポエニ戦争の23年間に5万人減少したことがわかっている。さらにローマはそれから何年かの間、艦隊編成を断念している。双方とも大きな痛手を被ったのだ。


[ハミルカル・バルカス]

 第2次ポエニ戦争のときイベリア半島からゾウを連れてアルプス越えを行い、イタリア半島に攻め込んだカルタゴの名将ハンニバルの父として名高いハミルカル・バルカスは、彼自身も優れた指揮官で、第1次ポエニ戦争でカルタゴがローマに敗北した後、カルタゴの財政を再建した。傭兵から成る軍隊を維持するためには、財源と人材が必要だったのだ。イベリア半島に目を付けたハミルカルはイベリア半島の大半を手中に収め、鉱物や穀物などの物資を手に入れた。共和政ローマ時代の伝記作家コルネリウス・ネポスによると、主戦論者だったハミルカルはローマ人を毛嫌いしており、若きハンニバルにローマ人と親しく交わらないよう誓わせたという。ローマ人は、ハミルカルがイベリア半島に進出したときから、イタリア侵略の前哨戦ではないかと懸念していた。BC218年にハンニバルが軍を率いてアルプスを越え、その悪夢は現実のものとなった。ハミルカルの最後は、遠征の連続だったその人生を象徴するように、BC228年の遠征中にイベリア半島のフカル川を渡る途中で溺死、あるいは戦死したといわれる。



(カルタゴの内戦とイベリア行き)BC241年~BC219年


 ハミルカルはカルタゴの名門マゴ家の将軍だった。敗戦後、シチリアから帰ってきた2万人におよぶハミルカルの部隊は、イベリア人、ケルト人、リグリア人(イタリア半島北西部)、ギリシャ人らが入り混じっていた。ハミルカルは免職となり、自分の土地に蟄居ちっきょさせられた。彼ら傭兵たちは相応のお金を要求したがカルタゴの元老院はケチだった。不満だった傭兵たちは反乱を起し、家族や使用人を引き連れてカルタゴの西200キロのところにあるシッカに防備堅固な陣地を張った。指導者は奴隷上がりのスペンディウストとリビア騎兵のマトだった。マトは2万のリビア人を陣営に引き入れ、カルタゴの隣接都市を攻撃し、スペンディウストはウティカを囲んだ。ここに到ってカルタゴの元老院は、反乱軍に立ち向かうために、ハミルカルを復職させ司令官に任じた。内戦はBC241年からBC237年まで続いた。最後は反乱軍が破れ、マトははりつけになった。

 ハミルカルはカルタゴの総司令官に任命された。ハミルカルはローマに奪われたシチリアとサルディニアの代わりになる土地を確保することと、カルタゴの名誉を回復することを誓い、3人の息子にそれを植えつけた。後にアルプスを越えてローマへ進攻したハンニバルもその息子の1人だったが、ハンニバルがまだ9歳か10歳のBC237年、父とともにイベリア半島に向かった。ハンニバルがイタリアへの遠征に踏み切ったとき、ここがその根拠地となる。イベリア半島南部の大西洋に面したカディスへのこの遠征が、600年前にフェニキアのテュロスからアフリカのカルタゴに移住したもう一つの遠征に比すべきものであることは明白だ。そのときはテュロスの支配者に不満な市民のグループが、母国と違う共同体を建設するためにフェニキアの植民地に向けて船出したのであったが、今回はカルタゴの一貴族が失った領土に代わる土地を母国のために獲得し、その地に一種の中央集権的な国家を建設するためにカルタゴの植民地に向かったのである。ハミルカルはイベリア半島の3分の1を征服したところで、BC228年に戦死した。跡を継いだ娘婿のハスドルバルは、イベリア南部の地中海に突き出た陸とは狭い堤で結ばれているだけの小さな半島で、側面に丘陵を擁する湾沿いに、カルタヘナという町を建設した。ローマ人はこれをノヴァ・カルタゴ(新カルタゴ)と呼んでいる。その後の数年間にわたってハスドルバルの取った政策は、明らかにイベリアに根を下ろすことを意図していた。彼は最初の妻を亡くした後、土着の領主の娘と結婚し、義理の弟のハンニバルをも現地の公女と結婚させた。彼はついにイベリアの領主たちに推されて王にまでなり、海水に洗われる城に宮廷を構え、護衛と贅沢とお喋り屋に囲まれて暮らした。彼は自分の顔を刻ませた貨幣も鋳造させた。それは非カルタゴ的、非フェニキア的であったが、イベリアの銀鉱山に依存する母国のカルタゴの支配層は文句をつけることができなかった。ローマは彼を警戒し始め何度か使節団を送ってきた。BC226年に使節団が来たとき、ハスドルバルはローマが進出していた現在のバルセロナの南方に位置するエブロ川以北に手を出すつもりはないと明言して追い払った。ハンニバルがローマの使節団を直に見たのはこの機会だったと思われる。その5年後、ハスドルバルは一人のイベリア人に殺され、ハンニバルがその後を継いだ。25歳だった。

 若いハンニバルは実行力を発揮し、慎重かつ大胆に父ハミルカルの政策を継続した。毎年、夏にはヌミディアとケルトの騎兵を率いて西方に進出し、中部スペインの多くの部分を支配下に収め、まもなくイベリア半島の南4分の3を支配下に置いた。この事実はローマの介入を招くことになった。BC219年春、戦場から戻ってきた彼をローマの使節団が待ち受けていて、唖然とさせるような法律上の問題を持ち出した。エブロ川の南にあるギリシャ人が建設したサグントゥムの町に手を出すなと要求したのだ。そこで内紛が起こり、親カルタゴ派と親ローマ派が争い、親ローマ派がローマに助けを求めたからである。ハンニバルは拒絶した。ハンニバルは素早い決断を下し、サグントゥムの町を包囲した。BC218年5月、ローマは戦争することを決し、カルタゴ元老院に通告した。そのころサグントゥムは攻略され、すでに北へ向かって進軍していた。エブロ川を越えていたのである。



(第2次ポエニ戦争)BC218年~BC201年


 第2次ポエニ戦争は、カルタゴのハンニバルが象軍団を含む大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島、ガリア(現在のフランス)を通過し、アルプス山脈を越えてイタリア北部に侵攻した時に始まった。ハンニバルの有名なイタリア遠征は、アレクサンドロスのペルシャ遠征とともに、古代軍事史上おそらく最も危険で大胆な企てである。しかしこの冒険には進路の調査など周到な準備がしてあった。ハンニバルが進軍したとき、ポエニ艦隊の戦力は第1次ポエニ戦争のときの半分だった。その代わり、十分に訓練された5万の兵と、9000の騎兵を率いていたし、37頭のアフリカ象は行く先々で恐怖を振りまいた。しかし象は実際にはそれほど重要な役割を果たしたとは思えない。ハンニバルが立てた前進計画は決してお座なりの思いつきではなかった。注意深く練り上げられ、十分に検討された上で、カルタゴ元老院の意志のもとでの行動であった。ハンニバルはピレネー山脈を越え、ローヌ川を渡ってから、川に沿ってイゼール川との合流地点に達し、次にイゼール川をさかのぼって山の中に入り、最後に東に向きを変えて、アルク川の谷に入り込んだ。それからこの渓流に沿って進み、モンスニ峠を通ってアルプスの尾根を越え、トリノ付近で上イタリア平地の縁に達したと推測される。これまで軍隊がヨーロッパアルプスを越えた例もなければ、温暖地方や亜熱帯地方の人間がまともな装備もなく氷河や雪崩の危険に耐えた例もなかった。さらに未開のガリア人諸部族の襲撃を防がなければならなかったのだから、歴史上の快挙といえる。しかし、37頭の象のうち17頭が18日間にわたるこの山中行軍で死んだし、兵士の数もかなり減っていた。最終的にハンニバルは2万の歩兵と6000の騎兵を率いて適地に乗り込んだ。

 その後、ハンニバルはイタリア半島で歴史に残る四大会戦を行った。最初の戦場はイタリア北西部のパヴィアに近いティチーノ川のほとりで、ローマの執政官コルネリウス・スキピオを撃破した。第2の戦いはBC218年12月、その東に位置するトレビア川の河畔で行われた。ハンニバルの有名な側面戦術、中央の敵を釘づけにしてその両翼を、別部隊が迂回して背後に回るという戦術が初めて用いられ、ローマの執政官センプロミウス・ロングスを破った。これによってイタリア北部を押さえた。BC218年からBC217年にかけての冬、ハンニバルは長期戦に備えボローニャに腰を据えて、新たに加えた傭兵の訓練をした。そのとき風邪をひいて片目を失明している。一方、イベリア半島北部に進攻したローマ軍は、ハンニバルの代理を務めるハンノに手痛い打撃を加え、シチリアのカルタゴ領リリュバイオン沖ではカルタゴ艦隊が全滅していた。また、カルタゴ領マルタ島もローマに奪われた。カルタゴの希望はハンニバルにかかっていた。第3の戦いはローマの北方に位置するペルージャ近くでローマ軍を罠に誘い込み、執政官カーユス・フラミニウスの部隊を急襲し殲滅した。その後、ローマは決戦を避けるようになったため、ハンニバルはローマの横を通り過ぎて南イタリアへ下り、BC216年8月にイタリア半島東南のカンナエで第4の戦いを行い、ここでも側面戦術で大勝した。このカンナエの会戦だけでローマ軍は4万1000の兵を一度に失った。ところが、それでもローマは崩壊しなかった。ローマは市民による共和国で団結が強く、本拠地を攻められればたちまちバラバラになるような共同体ではなかった。隻眼せきがんとなったハンニバルはなお13年間もイタリアを縦横に駆け巡った。彼はマケドニアのフィリッポス5世を戦争に引きずり込み、イタリア南端のタレントゥム(タラス)を攻略し、一時はイタリア南端を全部支配下に置いた。

 その間、BC212年に反攻に転じたローマは、カルタゴと結んだシュラクサイを攻略し、他のギリシャ都市と共同してマケドニアのフィリッポス5世を抑え、北部イタリアへ進出してきていたハンニバルの弟マゴの軍を打ち破り、ローマ南方のカプアも奪回し、さらに北アフリカのヌミディア(カルタゴの西に位置する現在のモロッコ東部地方)のマシニッサと協力してイベリア半島南端にあるカルタゴの拠点カディスへ侵攻した。これでイベリアにおけるポエニ領はすべて失われた。そしてローマ軍はついに、スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の指揮下に北アフリカに渡り、カルタゴの本拠に迫り、和平交渉の道を開いた。カルタゴは和平が結ばれる前にハンニバルを呼び戻した。同じ頃、北部イタリアでは弟のマゴが戦死している。BC202年、ハンニバルはカルタゴの南方ザマで大スキピオと戦い敗れた。カルタゴはまたしてもローマに敗れ、苛酷な和平条約を呑まざるを得なかった。それは、イベリアの放棄、ヌミディアの領地の放棄(マシニッサのものとなった)、10隻の三段櫂船を除く全軍船の引き渡し、1万タラントの銀の50年間の分割支払い、アフリカ以外の地での戦争禁止、ローマの認めないアフリカ内の軍事行動の禁止だった。BC201年春、カルタゴ市民と元老院はローマにおいて批准された条約の条件を受け入れた。ハンニバルは無事だった。

 7年後、カルタゴは英雄ハンニバルを最高執政官に選んだ。ハンニバルは、新しい選挙法を導入して104人委員会の権力を弱め、賠償金の支払いに注意を払い、それと同時に、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世と慎重に接触した。ローマはハンニバルを恐れ、カルタゴに彼の拘束を要求した。ハンニバルはフェニキアのテュロスへ逃れ、それからアンティオコス3世の宮廷に移った。ハンニバルはアンティオコス3世にローマ討伐を勧めたが、アンティオコス3世は踏み切れなかった。数年後、ローマはセレウコス朝シリアに進攻し、最初の戦いで勝利し、アンティオコス3世を殺した。ハンニバルはその知らせを聞いて宮廷を去り、小アジアのボスポラス海峡に近い小国ビテュニアのプルシアス1世の下にたどり着いた。プルシアス1世はハンニバルを提督、建築家として用いると言いつつ、結局はローマに売り渡した。BC183年、ビテュニアの部隊に邸を包囲されてハンニバルは自殺した。そのころ、ローマでは、「カルタゴの地はローマからわずか3日の船旅のところにある。私はカルタゴは滅ぼされねばならないと思う」と言う言葉で必ず結んだという大カトー(BC234年~BC149年)が権力を握っていた。


[マルクス・ミヌキウス碑文]

 1862年、ローマのサン・ロレンツォ教会の脇で行われた発掘の際、武骨で硬い感じの文字で刻まれた石板が出土した。それはローマの「独裁官」マルクス・ミヌキウスが勝利者ヘラクレスに奉げたものであった。

“執政官マルクス・ミヌキウス、勝利者ヘラクレスにこの碑を捧げる”

 碑文は短く簡潔を極めているが、背後には都市ローマが存亡の危機にさらされた第2次ポエニ戦争の最も暗い日々の緊張が漂っている。

 BC217年、ローマ軍はすること成すこと皆しくじり、兵士の士気はどん底にあった。カルタゴの若き知将ハンニバルはたびたびローマ軍を出し抜いて攻撃した。イベリア、ガリアを経て、アルプスを越えてイタリアに侵攻したカルタゴの象と兵士は、イタリア北部のトレビア河畔の戦いでローマ軍を一掃し、さらに南のトラシメネス湖畔で数の上で圧倒的に勝るローマ軍団に対し巧みな戦術で圧勝。ローマ側の死者3万に加え、1万の兵士が捕虜となった。ローマ文明の将来が重大な危機に直面する中、トラシメネスにおける大敗の悪夢を克服するため、クイントス・ファビウス・マクシムスがディクタトル、すなわち「独裁官」に任命された。ところが、しばらくすると人びとは、彼をクンクタトル、すなわち「先延ばし屋」と呼ぶようになる。ローマ軍の勝利の報せが一日も早く待ち望まれている時であるが、ファビウスは勝算がないと思った時はハンニバル軍との衝突を避けるが、しかし執拗に敵に付きまとう作戦をとった。

 ファビウスの戦略を誹謗する声が同じローマ陣営内、特に次席司令官の地位にあった騎兵長官マルクス・ミヌキウス・ルフスから上がった。二人の司令官の不調和はローマ軍団の士気にとり大きなマイナスであったが、ミヌキウスは思わぬ脚光を浴びるのである。ファビウスが一時ローマに戻り、元老院で批判者の声を聞かされている時、ミヌキウスはイタリア南東アプリア地方ゲロニウム市郊外で本隊からはぐれたカルタゴ兵たちを見つけ殺害した。報せにローマは戦勝ムードで沸き返り、ファビウスは恥をさらすことになる。扇動者たちに踊らされたローマ人はついに無思慮にもファビウスの独裁官職をそのままに、ミヌキウスを独裁官に任命してしまう。ローマで「独裁官」ミヌキウスのために碑が建てられたのはこの時であったと思われる。ゲロニウムで「本物」の戦いが起きたのはその2、3日後のことであった。ハンニバルとその主力部隊(歩兵・騎兵)は待ち伏せしてミヌキウス軍を罠にはめた。ミヌキウス軍は大損害を被り、ローマから戻ったファビウスが間一髪のところで救援に駆けつけカルタゴ軍を撃退していなければ、全滅していたところであった。その日の敗北を肝に刻んだミヌキウスは自分たちを救ってくれたファビウスとその兵士たちに深く感謝し、会戦後は独裁官を辞め、本来の騎兵長官の任務を忠実に果たしている。

 ローマ軍は敗色濃厚だったが、ファビウス・マクシムスのお蔭でやっと勝つことができた。栄光に満ちた勝利ではないが、壊滅よりはましだった。「ファビウス戦略」の価値が明らかになるにつれ、軽蔑的に使われていたクンクタトル、すなわち「先延ばし屋」も名誉の添え名に変わっていった。しかしながら、ローマを取り巻く状況が真に好転するまで今しばらくの時が必要だった。BC217年が終わると、ファビウス・マクシムスは任務を解かれたが、彼の後継者たちは依然決定的勝利をつかめないまま、翌年のBC216年、カンナエでハンニバル軍と戦うことになる。ローマ軍は死者4万1000、文字通りのどん底に突き落とされた。ローマ人が失地を回復するまでに10年以上かかるが、とにかく、BC201年、第2次ポエニ戦争はローマの勝利で終わる。



(第3次ポエニ戦争)BC149年~BC146年


 イタリア半島の覇者としての地位が確立したローマは、カルタゴが所有していたものも自由にすることができた。地中海の島々だけでなく、イベリア半島もローマの手に落ちた。マケドニアや小アジアにあったカルタゴの旧同盟国も征服され、ローマの領土にされた。しかしそれでもローマは満足せず、カルタゴの復活を恐れて、あくまでもカルタゴの滅亡を望んでいた。実際、第3次ポエニ戦争が始まる前までに、カルタゴは陶器などの工芸品の輸出や、大量のコムギとオオムギの生産などで裕福になっており、BC151年には、50年分割払いの莫大な賠償金の支払いを約束通りに終えていた。

 ローマはヌミディアのマシニッサにカルタゴを襲撃させ、戦争になるように持って行った。BC150年、ローマの思惑通りカルタゴはヌミディアに反撃した。ローマとの和平条約によれば、戦争はあらかじめローマの許可を得なければならなかったため、カルタゴの違反となった。カルタゴはローマと交渉したが、ローマの最後の要求は町を明け渡してどこかに移住せよというものだった。カルタゴは自殺行為と思いつつ抗戦に踏み切った。BC149年、ローマは直ちに2軍団を派遣し、第3次ポエニ戦争が始まった。ハスドルバルという将軍が町の後背地で騎兵隊を組織し、ローマ軍に絶え間なく攻撃を仕掛けて侵入軍を圧迫した。カルタゴの町は3年間持ちこたえた。ローマはスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)を総指揮官に任命した。彼はかつてアレクサンドロス大王がテュロスの島の要塞を攻略したと同様の戦略を実行した。海に突き出たカルタゴの町に通じる地峡に堤を築いて、町と後背地を切り離し、港の入口も前にも堤を築いて町と海を切り離すようにした。カルタゴ市民は必死に抵抗し、6日間にわたる流血の市街戦を行った。ローマ軍は城壁を打ち破ってカルタゴの街に火を放ち、住民が隠れている建物を炎上させた。

 町はまる17日間燃え続けた。カルタゴ陥落とともに住民は奴隷になり、歴史から姿を消した。とはいえ、彼らの文化は消滅したわけではない。当時すでにフェニキアの文化は北アフリカに深く根付いていたので、カルタゴの言葉が使われなくなるのは、その何世紀も後のことだった。紀元後193年には、北アフリカ出身のセプティムス・セウェルスがローマ皇帝に即位したが、彼は強いフェニキアなまりで話したと言われている。

 後に小スキピオは、町を完全に破壊し、鋤で掘り返せと命令した。そして不毛の土地にするために畝の中に塩をまき散らさせた。それにもかかわらず、カルタゴの町はもう一度灰の中から今度はローマの属州として蘇えった。北アフリカの肥沃な土地は、ラティフンディアと呼ばれる大農園へと変わり、高度な技術を用いて段々畑や灌漑が整備されて、乾燥地が畑に変わり、奴隷を使って育てた穀物がローマに送られた。現在、元のカルタゴの町はチュニスの別荘地区となっている。


[ポエニ戦争時代のカルタゴの軍隊]

 カルタゴとその海上帝国は二つの組織、元老院と人民議会によって運営されていた。政治の実権はすべて貴族が握り、貴族の資格は血筋ではなく、富によって決められた。判事は毎年選挙で選ばれ、元老院の上に立って市政を監督する役目を担った。その権限は主に裁判権、つまり裁定だった。再選の回数に制限はなく、例えばハンニバルは22年にわたって再選されている。判事たちは最高政務官(shofets)、ラテン語ではスフェテス(suffetes)と呼ばれた。300人の貴族で構成される元老院には、30人が常任する枢密院が置かれ、彼らが陸海軍の指揮官を選び、指揮官は交代があるまでその任務に就いた。枢密院は体制の中核としてスフェテスを補佐し影響を与えた。陸海軍の将軍とスフェテスは協力体制を敷いていたが、スフェテスは特別にその任務に指名されない限り陸海軍に指令を出せなかった。元老院の代理官が戦場までそれぞれの司令官に付き添ったのである。この枢密院はやがて104名の政務官で構成された百人会と呼ばれる最高法院に変わった。この法院が法律と秩序を守り、軍の司令官の業績を査定した。百人会は次第に元老院を支配し始め、独裁的な真理を行うようになり、夜中に密かに会合を開くことも多かった。構成員は毎年選挙で選ばれたが、カルタゴの最盛期の間は、同一人物が再選され続けたため、特に外交面では1世紀以上にわたってほとんど何の変化もなかった。人民議会は財産面で一定の資格を満たす市民全員で構成された。スフェテスを選ぶ権限はあったものの、その他の権限はないようなものだった。人民議会は元老院と対立することが多く、それがカルタゴ没落の原因の一つでもあった。

 初期のカルタゴの兵力は市民軍だった。緊急事態になると市民が駆り出され、事態が解決すると軍も解散された。しかしBC5世紀以降、こうした市民軍は存在しなくなり、兵士の中でカルタゴ生まれの者は、神聖隊を構成する名家出身の2500人ほどの若者だけになった。この神聖隊はエリートの騎馬隊で、他の部隊を率いる士官たちの訓練にもあたった。カルタゴ傘下にあったフェニキア人のその他の都市では独自の軍隊を持つことが禁じられ、防衛は完全にカルタゴの力に頼っていた。都市の防衛と拡大、そして帝国全体の防衛について、カルタゴは属州や同盟国から徴用した兵士と傭兵の力にほぼ全面的に頼っていた。こうした部隊を養うため、カルタゴは北アフリカ沿岸の全植民地および内陸部の原住部族から年貢を取り立てていた。国外の植民地は年貢を現物の形で支払わされた。例えば、イベリア半島やコルシカ島には豊かな金属鉱脈があったのだ。その一部は直接カルタゴに送られ、残りはそこに駐屯している部隊の運営資金として使用された。帝国の一部の地域では兵士と年貢の両方が調達された。特にイベリア半島南部とカルタゴの北西に位置するウティカでそれが行われた。イベリア半島南部のカディスやウティカなどの都市は、カルタゴと肩を並べるほどの規模だったが、それでも兵士と年貢を納めさせられた。

 カルタゴが築かれた北アフリカ中央部では、カルタゴが都市として力を強めると、原住民は農奴にされたが、BC3世紀の半ばになると、農奴だった人びとは年貢を納める自由小作人へと地位が引き上げられ、作物の4分の1を献納したほか、カルタゴ軍のために多くの兵士を差し出すようになった。BC252年からBC251年の初めにかけてシチリアに送られたカルタゴの部隊のほとんどは原住民で構成されていたと言われる。BC3世紀には、カルタゴはヌミディア(現在のアルジェリア)の騎兵も徴用するようになり、その後、マウレタニアからムーア人兵士も徴用した。これらの兵士は、同盟国でありながら独立体制のまま、年貢も支払わなかったヌミディアとムーアの王たちの手で調達された。これらの同盟国部隊や属州から徴用した部隊に加え、傭兵が雇われた。各地にある交易の中心地へ元老院議員が派遣され、その地の王や首長たちに士官や兵士の調達を依頼したのである。このように、ポエニ戦争におけるカルタゴ軍はカルタゴ植民地で徴用されたフェニキア人とリビア人を中核として、ヌミディア人(現在のアルジェリア)、ムーア人(現在のモロッコ)、さらにイベリア人、ケルト人などで構成されていた。各地域ごとに分かれた部隊は、それぞれ自分たちが戦い慣れた戦い方をした。カルタゴの勝利の大半は、これらの部隊を取りまとめ、彼らの力を最大限に発揮させた将軍たちの働きによるものだった。ハンニバルが傑出した指揮官と知られるようになったのも、こうした能力のためだった。

 カルタゴの城壁内に設けられた兵舎には、兵士2万4000人、馬4000頭、象300頭を収容することができた。この数字からカルタゴのアフリカ人部隊の規模の大きさが想像できる。第2次ポエニ戦争が始まった頃、カルタゴの人口はおよそ100万人と推定されている。戦争末期BC202年のザマの戦いでは約1万2000人におよぶカルタゴ人とアフリカ人が徴用された。第3次ポエニ戦争では2万5000人の歩兵と400人の貴族の騎兵がカルタゴ市民とリビア人の中から集められた。これらのことから、カルタゴは緊急時には最大1万人の市民を徴用することができたと思われる。



(カルタゴの滅亡)


 BC264年からBC146年までの間に、ポエニ戦争と呼ばれる戦いが共和政ローマとカルタゴの間で3度にわたって起こった。最終的にカルタゴは滅亡し、最後まで抵抗したカルタゴの人びとは奴隷にされ、西地中海は完全にローマの勢力圏となった。わずか数世紀前まで、強国がひしめくこの地域において、ローマは比較的弱小と見られていたが、この戦いによって大国として躍り出た。

 BC146年、第3次ポエニ戦争でカルタゴはローマ軍により徹底的な破壊を受け、いったんは灰燼に帰した。ローマ側の将軍スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)と共に戦場にいて、この惨劇を目撃した古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは、以下の記述を残している。


「スキピオはこの都が最期を迎え、跡形もなく消えて行こうとするのを見て、人目もはばからずに涙を流し、敵のために嗚咽おえつしたと伝えられる。そしていつまでも一人物思いにふけるスキピオの心に見えてきたのは、いかなる都市も民族も帝国も、人間と同じく運命の流転から逃れられないと言う真理であった。かつて栄華を誇ったイリオスの都もそうだった。それぞれの時代に覇を唱えたアッシリア、メディア、ペルシャの帝国も、そして最も近い時代に光輝を放ったマケドニアの王国もやはりそうだった。それを思った時、考えた上であったか、それとも思わず漏れ出たか、スキピオがこんな詩句を口にした。

“聖なるイリオスにも、槍で名高きプリアモスにも、そしてプリアモスの民にも、やがて滅びの日が来るであろう”

 ポリュビオスがスキピオにこの言葉の真意を尋ねると、いずれローマもこのような運命を辿るのではないかと危惧して発した言葉であったという」


 これがフィクションでないとすれば、沈着冷静なスキピオ自身がローマに先んじて栄華を極めたカルタゴの滅亡を先達の大国の興亡に重ね合わせ、さらにローマ自身の行く末をトロイア落城の悲劇にまで遡らせて落涙するさまは圧巻である。

 このBC146年という年は共和政ローマにとって、西方ではカルタゴとの3次にわたるポエニ戦争、東方ではマケドニアとの4次にわたるマケドニア戦争に終止符を打ち(BC148年)、それぞれに属州を設置して地中海支配の地歩を固めた重要な年である。だが、これらの勝利は、属州の拡大に伴う経済的混乱や中小農民の没落を誘発する貧富の差の拡大を惹起するなど、これまで経験したことのない大きな変質をローマ社会にもたらすことになった。征服者としてのローマは、勝利の美酒に酔いしれるどころか、その後、100年にわたる内乱の1世紀を経験することになる。この点で、スキピオの不安はまさに的中したと言えるかもしれない。第3次ポエニ戦争でいったんは徹底的に破壊されたカルタゴは、その時点で彼ら自身のもとにあった文献史料を失ったとされる。ローマによるカルタゴの組織的な破壊によって、フェニキア人とカルタゴ人の長い歴史を裏付ける著作はすべて灰塵に帰してしまった。ただカルタゴの農業についてマゴが記した28巻の「農書」だけは、その実用性と有用性から破壊と散逸を免れ、オリジナルは現存しないものの、後にギリシャ語やラテン語に翻訳され後世に伝わった。

 また、カルタゴ市の再建は、BC44年にカエサルが新たにローマ植民市を建設した後のローマ時代の行われたものの、多くの場所で古代都市カルタゴの僅かな痕跡をも消し去り、考古学的な研究をより難しくしてしまった。したがって、カルタゴの「事実」を再構築すると言っても、ギリシャ語とラテン語の史料に頼らざるを得ないが、そのような史料は、シチリア島のギリシャ人の都市国家との関係や、ローマとの関係でしか記していない。これらの史料はカルタゴの宿敵の手になる著作であって、むしろカルタゴに否定的な傾向を持っている。ただ20世紀後半の数十年の間に、僅かとはいえ考古学的遺物や碑文が発掘されたおかげで、十分とは言えないが、西地中海の覇者カルタゴが果たした歴史上の役割を正しく位置づけることも可能となってきた。


[不吉な慣習]

 復讐心に燃えるローマ軍によるカルタゴの破壊と略奪が余りにも徹底的すぎて廃墟以外何も残らなかったというのは、如何にも残念である。フェニキア人の貴重な遺産の多くが失われた。フェニキア文化については、ギリシャやローマに比べてもほんのわずかしか知られていない。建造記念碑のようないくつかの新たな発見があっても、得られる情報は常にじれったいほど不完全なものばかりである。しかしながら、時には知らない方が幸せだと思わされることもある。カルタゴ人の幼児犠牲の慣習については古来ずっと語られてきたが、具体的に証明されてはいなかった。ところが1921年、祭儀の犠牲になったと思われる幼児たちの集団墓地トフェトが発見された。見つかった幼児の遺体は数百にもなり、おそらく危機の際に神々を慰めるためか、喉を切られていた。この種の墓はフェニキア世界のいたる所から出土している。


[大路建設記念の碑文]カルタゴの市民意識

 カルタゴは余りにも長い間無人の地であったため、かつてそこが喧騒と活気に満ちた都市であったことは、人びとの記憶にほとんど残っていない。それだけにカルタゴの廃墟の中から発見された道路建設のフェニキア語の記念碑は、これまで忘れられていた生気溢れる時代のカルタゴの歴史を想い起させてくれる貴重なものである。

“市南壁の新門前の広場に向かって伸びるこの大路は、シャファトとアドニバアルがスフェテス(最高政務官)で、エシュムンヒレツの息子アドニバアルが長官であった年に、カルタゴ市民により建設され開通した。・・・アブドメルカルト・・・ボドメルカルトの息子であるバアルハンノの息子のボドメルカルトが大路建設主任技師であった。石の切り出しの指揮は彼の兄弟ヤハウウィエロンが執った。商人、ポーター・・・金のある者、ない者――金細工職人、陶工、窯の火入れ工、靴職人――市民全員がそのために貢献した。この記念碑を傷つける者は誰で銀1000シェケルの罰金に加え、新しい碑文の費用として100ミナを支払わなければならない”

「デレンダ・エスタ・カルターゴ(それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである)!」大カトー(BC234年~BC149年)がローマ元老院で叫んだ言葉は不朽のものとなった。事実、それを肝に銘じたローマ軍団は、BC146年、任務を遂行した。カルタゴの城壁は崩れ落ち、全市が廃墟と化した。

 フェニキア人によって北アフリカ沿岸に建てられた植民市カルタゴは、地中海世界随一の経済力と海軍力を誇る都市となり、ローマは何世紀もの間カルタゴを最強のライバル、最大の脅威と見なしていた。イタリア南部沿岸周辺に築かれたカルタゴ人入植地の存在にローマの安全は常時脅かされていた。

 ローマとカルタゴとの間には3回の大きな戦争があった。いわゆるポエニ戦争である。BC264年に第1次ポエニ戦争が勃発した時、ローマ人は未だイタリア半島内での勢力拡大に忙しく、海上での戦いに対する備えは十分でなかった。ローマはカルタゴの軍船を真似た船を建造したが、ローマ海軍がカルタゴ海軍に打ち勝つまでに23年もの年月を要した・第2次ポエニ戦争(BC218年~BC201年)の際、将軍ハンニバル率いるカルタゴ兵とその象軍団はイベリア半島を通ってアルプスを越え、イタリアに侵攻した。最終的ローマは勝利するが、そこに到るまでに長い年月を要し、多くの犠牲を払わなければならなかった。カルタゴは速やかに戦力を立て直した。BC157年、大カトーは元老院でカルタゴの完全消滅を求めて叫んだ。そしてBC149年、第3次ポエニ戦争が勃発、ローマ軍はアフリカ大陸に侵攻した。

 伝承によれば、カルタゴはBC814年にテュロスとシドンのフェニキア人の入植地として建設された。その時フェニキア人が地中海に自分たちの通称ネットワークを築いてからすでに1世紀以上の時が経っていた。彼らはあらゆる種類の商品を持って交易した。なかでも銅、錫、金、銀といった鉱物資源の支配に力を入れた。今日のチュニジアのチュニスの北に位置するカルタゴは、地中海東岸フェニキアのテュロスやシドンの港と西のイベリア半島の鉱物産地とを結ぶ航路のほぼ中間点にあり、通商戦略上これ以上恵まれた場所はなかった。カルタゴは後に運河によって結ばれる二つの申し分のない天然港の間に位置する岩地にあった。そうした場所に築かれたカルタゴは、その地方を広く自由に往来し大きな富をもたらす貿易商たちにとって完全な基地、完璧な港であった。

 カルタゴの廃墟から出土した黒色石灰岩製碑文には、この長く繁栄を重ねた海上交易都市の住民たちの市民意識が活き活きと表現されている。それは市に新しく建造された大道の記念碑であり、BC3世紀のカルタゴの社会にみなぎる力の証しであり、また共通の事業のためには職人から商人までのあらゆる階級が一丸となるほど強い市民意識について証言するものである。碑文に記されているカルタゴの最高政務官スフェテス職は、司法に対し責任を負う点において同時代のローマの執政官(コンスル)職とは異なる。

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