第116話 カルタゴ(西地中海の覇者)

<年表>

BC814年

 フェニキアのテュロスが地中海西方に勢力を拡大、地中海の東西のほぼ中間点にあり、シチリア島にも近いアフリカ北部沿岸にカルタゴを建設。

BC6世紀中ごろ

 カルタゴが政治・軍事勢力として地中海西部地域に台頭。

BC509年

 エトルリアの支配的な名門タルクィニア家の王が追放され、ラテン人がローマの支配権を握る。共和政ローマの誕生。同年、カルタゴはローマとの間で最初の同盟条約を締結。

BC480年

 カルタゴはシチリア北西海岸のギリシャ人都市ヒメラを攻めたが、大敗して銀2万タラントの戦争賠償金を支払うはめになった。それから70年間、カルタゴはシチリアのギリシャ植民都市に介入しようとはせず、北アフリカの領土支配を強化することに専念し、国力を増大させた。

BC409年

 カルタゴはシチリア島に大遠征隊を送り出して南西海岸にあるセリヌスを包囲占領し、ついで北西海岸のヒメラを再度攻撃し、今度は征服に成功した。

BC374年

 シチリア島では、ハリュカス川を境にセリヌスやアクラガスを含めて島の3分の1にあたる西部地域がカルタゴ領となることが平和条約で定められた。東部地域はシュラクサイをはじめとするギリシャ系植民都市が占有。

BC332年

 マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がカルタゴの母都市フェニキアのテュロスを占領。テュロスはアレクサンドロスに激しく抵抗した唯一のフェニキア都市だった。アレクサンドロスのテュロス攻略によってフェニキアの歴史は終わった。

BC323年

 アレクサンドロス大王死去

BC300年ごろ

 ローマ人がイタリア中部を掌握。カルタゴは地中海西側の覇者となり、ローマにとっての脅威となっていた。

BC265年

 北はイタリア北部のポー川から、南はギリシャ半島とイタリア半島南部の間に拡がるイオニア海までがローマの支配下に入った。


 ***


 ギリシャ文明とそれに続くローマ文明、いわゆる地中海文明は成熟した後も多様性を失うことはなかった。硬直した体制に陥ることは決してなく、極めて多彩な発展を遂げていった。地中海文明がはっきりとした統一性を確立したときでさえ、周囲に存在した他の文化と明確に区別するのは難しく、さらに後の時代になって境界線がはっきりと確立されてからも地中海文明は他の文明と多彩な交流を行っていた。地中海文明はそれ以前に栄えたどの文明と比べても、明らかに歴史を進歩させる偉大な力を持っていた。例えば、それまでの文明は政治的な大変化が起こっても制度自体はそのまま残される場合がほとんどだったが、地中海文明は短い間に何度も自ら制度を変え、さまざまな政治体制を試みている。宗教について言えば、他の文明では文明と宗教は事実上生死を共にする運命共同体になっていた。それに対して地中海文明は、初めは土着の多神教を信仰していたが、最後には外来の一神教であるキリスト教を採用した。後にローマ帝国が国教としたことで、キリスト教はやがて世界宗教としての道を歩むことになる。これは世界史的な観点から見ても極めて大きな出来事だった。その後、世界中に広まったキリスト教の影響力を介して、地中海文明の伝統は人類の歴史の中で長く広く伝えられていくことになるからである。この地中海文明の先駆けとなったのが、フェニキア人とギリシャ人による地中海ほぼ全域への植民であり、そのそれぞれの文化的伝統を引き継いだのがカルタゴとローマだった。



(カルタゴの発展)


 東地中海沿岸のカナン文化の流れを受け継ぐフェニキア人は、交易と航海術に長けた人びとで、遠くはジブラルタル海峡を越えて大西洋沿岸まで地中海各地に植民地や寄港地を築き、地中海交易を制した国際商人だった。フェニキアは強弱はあったもののお互いに交流のある個々の都市国家だったが、やがてフェニキアの植民都市の一つカルタゴが勢力を拡大して地中海域において「大広域国家」となった。それは「海上帝国」とも呼ばれる。カルタゴに入植した最初の世代のフェニキア人の墳墓の発掘状況から、フェニキア人の流入の歴史と、植民地が都市に発展していく過程が推測できる。BC8世紀のカルタゴの町は小道沿いに家々がポツンポツンと建っているだけだった。その後、入植者が続々と入ってきて人口密度が高まり、建物が建ち並ぶ都市へと成長していった。BC675年ごろ、再び大量にフェニキア人がカルタゴに流入し、レヴァント地方に多く見られる4部屋の住宅の建築様式が新たに持ち込まれた、多くのテュロス市民が新アッシリアによる攻勢から逃れてカルタゴにやって来たらしい。発掘調査の結果、この時期カルタゴの住民たちは昔からあった墳墓を移し、その跡地に巨大な冶金作業場を造ったことが判明した。カルタゴの人びとは、当時としては驚くほど高度な技術を採り入れていた。炉に送る空気の量を調整して鉄を製錬し、強力な武器を作っていたようだ。さらに、フェニキア人の名前の由来となった紫の染料を抽出するアクキガイの貝殻を混ぜて、そのカルシュウムを利用して鉄を強化していた。だが、BC5世紀の終わりごろ、再び人口が急増して冶金作業場は姿を消すことになった。都市圏の拡大に伴い、人びとは冶金作業場の跡地に家を建てた。発掘された穴で、そうした家々の土台を見ることができる。この頃の住民は最初の入植者とは異なる新たな社会集団に属していた。だが、カルタゴ市民はいつの時代もフェニキアの生活様式を守り続けた。


 およそ歴史上の名称でカルタゴほど有名なものは多くないが。学問的見地からこれほど正当に評価されていない国家も珍しい。この都市はBC9世紀後葉からBC2世紀にかけて、西アジア文明と地中海文明の歴史と発展に極めて重要な役割を演じたが、今その名から連想されるものは、主として「カルタゴは滅ぼさねばならぬ!」とローマの元老院で叫んだ大カトーの激しいアジ演説や、3度にわたるポエニ戦争、その第2次ポエニ戦争でローマを滅亡寸前まで追い詰めたハンニバルぐらいである。ポエニとはラテン語でフェニキア人を意味し、ローマ人はカルタゴ人をポエニ人と呼んだ。

 カルタゴの所在地は、現在の北アフリカのチュジニアの首都チュニスの北東16キロにあり、大きな半島の先端に位置している。この半島は、南側はチュニス湾に接し、東側は地中海、北側はエル・リアナという潟湖せきこに区切らられ、そして西側は陸に接続している。海抜150メートルの岩山を境として、この半島は南北二つの部分に分けられる。北には広い肥沃な平地があって、その周辺を比較的平坦な海岸が取り巻いている。中央東の岬から西南に当る部分には、起伏に富んだ平野が広がり、そこに廃墟の残る3つの丘がそびえている。その一つがビュルサと呼ばれる険しい丘で、そこからはカルタゴの家々を一望できた。カルタゴの町の中心部はまさしくここに存在していた。カルタゴ人は優れた農民であり、ポエニ時代のカルタゴの町を取り巻く潅漑された菜園や果樹園はローマ人を感嘆させた。穀物類、ブドウ、オリーブ、菜園の畑が、半島の北部とチュニス湾岸の大部分に広がっていた。

 カルタゴはキプロス人と混淆したフェニキアのテュロス人によって建設された。ギリシャの古典時代の著作や碑文などの古記録やポエニ人の奉献物に記された奉納文を調べると、種々の逸話や多様な固有名詞、地名の形容語などによって、カルタゴ住民が実に雑多な人種であったことが示されている。したがって、ポエニ人は他国人との通婚を厭わなかっただけに、なおのこと混淆した人びとなのだとわかる。それでも住民は、民族的特質によって結ばれる以上に、フェニキア人の文化・宗教・言語によって固く結びついていたのである。

 BC8世紀のカルタゴについては、ほとんど何もわかっていないが、母都市テュロスの公式の援助があり、権威ある有力な人物が排出したため、カルタゴはその初期頃から威信を得て、地中海西部にある多くのフェニキア人植民市から頼りにされ、後年のカルタゴ海上帝国の基礎を作るまでになったということはわかっている。地中海西方のフェニキア人の商業基地は、ギリシャ系住民の植民による圧迫が強まったときとか、先住民の反乱が懸念されるときとかに限って植民市になった。したがって、それらのフェニキア人植民市は、カルタゴが同国人の安全と権利を守るために、陸海軍の兵士を派遣してくれることを期待し頼りにしていた。BC7世紀からBC6世紀ごろには、テュロスが新アッシリア、続いて新バビロニアの攻撃を受け、次いでペルシャの支配下に置かれたため、地中海西部においてカルタゴは完全にテュロスに取って代わった。テュロスの植民市が数ある中で、カルタゴより歴史も古く、地中海世界の中央に位置する他の植民市が、この同じ保護的役割を演じることもできただろう。例えば、カルタゴの北西20キロにあるウティカがそうである。しかしカルタゴの指導者層がテュロス王家の血統を引くことや、テュロスの貴族とその財産の一部がカルタゴに移動したという事実が、カルタゴを事実上「新しい都市」、つまり「新しいテュロス」にしたのだ。カルタゴが輝かしい成功を収めたのは、その位置によるのではなく、ひとえにテュロスの後継者としてのその役割によるものであった。


<カルタゴの建国神話>

 BC146年の滅亡のときに自らの史料を失ったカルタゴの建国に関して言及するギリシャ語およびラテン語史料のうち、最もまとまって伝えられたものは、ポエニ戦争後100年以上も経った皇帝アウグストゥスと同時代のポンペイウス・トログスによって記され、後に紀元後3世紀のユスティヌスによって抄録された「フィリッポス史」における叙述である。それによれば、

「カルタゴ建国の祖となったのはフェニキアのテュロス出身のエリッサという王女であった。父王亡き後、テュロスの王位を継承したのはまだ少年のピュグマリオンであり、エリッサはメルカルト神の神官だった叔父アケルバスと結婚する。しかし、彼の隠し財産に嫉妬した王に夫を殺された彼女は策を弄し、自分に味方する貴族や元老会のメンバーの一部と共に故国を出奔する。キプロス島にいったん上陸したエリッサ一行は、その土地の神官一族の同行を許し、さらに将来、若者が子供を持てるようにと、「聖なる売春」のために海岸にいた80人の乙女たちを拉致して、長い航海の末についに現在のチュニジアのとある場所に辿り着く。やがてここにフェニキア語で「新しい町」を意味するカルト・ハダシュト(カルタゴ)が建設される。その後、近隣からも交易を目的として多くの人びとがやって来たので、先住民の同意を得て、土地の地代を貢租として支払うことが決められた。こうして新しい町が建設され、人びとが集まり、短期間でカルタゴは大いに繁栄を遂げることになった。やがてカルタゴの名声を聞きつけた先住民のマクシタニ族の王ヒアルバスが、カルタゴの10人の貴族を呼び寄せ、エリッサとの結婚を強要した。困惑しながらも貴族たちはエリッサに結婚を認めさせる。落胆した彼女は3ヶ月の猶予を求め、町の一番高い所にたきぎの山を築かせた。彼女は再婚を前にして、亡父の霊を慰めるかのように多くの犠牲獣をほふり、最後は自らが公衆の面前で刀を持って薪の山に登り、夫のもとへ行くと言って、自刃して果てる」という物語である。

 エリッサもピュグマリオンもアケルバスも、本来はフェニキア語のエリシャまたはアラシヤ、プマイヤトン、ザカルバアルからの転用であり、特に前二者はキプロス島との強いつながりを想起させる単語である。一方で、聖なる売春や神官職の継承はレヴァントの伝統である。考古学的証拠からは、BC9世紀後半にはフェニキア本土からキプロス島を経由して、西方へと向かう航路が開発されていたことが明らかである。この逸話の基になった史料は、シチリア島のティマイオスの著作の断片である。ティマイオスはBC4世紀半ばごろに生まれ、BC3世紀の第1次ポエニ戦争(BC264年~BC241年)の開始直後までは生存していた可能性があり、おそらくこの伝承に関わるカルタゴ側の情報に接触できたに違いない。その断片によれば、

「ティオッソー(エリッサ)はテュロスの王ピュグマリオンの姉妹であり、リビアにカルタゴの町を建設した。エリッサは夫をピュグマリオンに殺害されたので、彼女の財産を船に積み、(彼女に味方する)人びとと共に船出し、困難に見舞われながらもリビアに到達した。長い放浪の末に辿り着いたので、彼女は地元民によってデイドー(ディードー)と呼ばれるようになった。エリッサがカルタゴの町を建てたとき、リビアの王が彼女を妻に迎えたいと望んだが、彼女は拒絶した。しかし、カルタゴの市民たちはリビアの王の妻となるよう彼女に迫った。エリッサは(結婚しないという)誓いから自らを解放するための儀式を行うと見せかけて、住まいの宮殿の傍に大きな薪の山を築かせ、そして火をつけ、燃え盛る薪の山に身を投じて果てた」

 カルタゴの建設年代は、ティマイオスによれば第1回オリンピア競技祭の開催年(BC776年)の38年前のBC814年とされ、これが最も一般的に認められている伝承による建国年代である。紀元後3世紀のユスティヌスの記述とBC4世紀~BC3世紀のティマイオスの断片とを比べると、前者ではネガティブでステレオタイプなフェニキア人のカルタゴ人像が構築されていたと思われる。一方、後者にはセンセーショナルな表現や誇張された逸話は見られず、中立的である。


<カルタゴの興隆とマゴ将軍家>

 BC5世紀初頭のフェニキア地方においてフェニキア随一の都市国家にのし上がったのはシドンだった。テュロスが後退した大きな理由は海外の領土を失ったことである。なかでもカルタゴを失ったのが痛手だった。失った理由は今でもよくわからないが、おそらくその始まりはBC573年ごろにテュロスが新バビロニアのネブカドネザル2世の手に落ちたことにあると思われる。しかしBC525年にペルシャのカンビュセスがエジプトに攻め入ったときには、カルタゴはすでに完全な独立国だった。ヘロドトスによれば、カンビュセスはテュロスにカルタゴを海から攻撃する計画に参加するよう命じている。しかし、テュロスは自分たちと植民地という子供たちとを結ぶ固い誓いを理由に断っている。ヘロドトスは、フェニキアの助けがなければ、残りのペルシャ艦隊などカルタゴの敵ではなかったと記している。

 カルタゴが政治・軍事勢力として浮上するのはBC6世紀中ごろとされる。そのころからマゴ将軍とその子孫である後継者たちの指導で、征服と植民地拡大を目指した侵略的な軍事行動が開始されている。サルディニア島やシチリア島のフェニキア人植民地を守るためにそれらの島に軍事介入したのもそのころ、あるいはその少し前になる。カルタゴの裕福なマゴ家は、他のどの名家よりもこの町の隆盛に尽力した。マゴ家はBC535年からBC450年までの3世代の間に、地中海でのギリシャ人の勢力拡張を抑制し、イベリア半島やその東にあるバレアレス諸島、サルディニア島、シチリア島にカルタゴ人の商業特権を確保した。マゴ家はカルタゴ建国以来、先住民に納めていた貢納を解消し、また北アフリカ一帯に海陸両面にわたる大領域国家を確保することに尽力した。「ハンノの周航」はBC450年ごろのことで、アフリカ西海岸を南下し、現在のセネガル、カメルーンの沿岸からギニア湾へと達した。この時期がカルタゴの最盛期である。フェニキア人の富の主な源泉は、イベリア半島南部にあるタルテッソスの鉱山にあった。こ鉱山地帯はずいぶん古い時代からフェニキア人によって開発され、ジブラルタル海峡の先、大西洋に面したカディスの建設はBC12世紀に遡る。その地域の銀鉱石がそれ以前に採掘されていたというのは事実のようだ。その時以来、「ヘラクレスの柱」という呼称で知られるジブラルタル海峡は、完全にフェニキア人に制圧されていたが、それは彼らが大西洋航路の独占権と、ガリアのブルターニュ地方やブリテン島での錫の交易、そしておそらくセネガルでの金の交易の独占権とを掌中に確保しておくためであった。

 カルタゴの軍事力の紛れもない証しとなるのが、BC535年の出来事である。エトルリアの海軍と組んで、コルシカ島沖の海戦で小アジア沿岸イオニア地方の都市フォカイアから南イタリアやコルシカ島に進出してきたギリシャ人を破っている。エトルリアはそのころティレニア同盟(トスカーナ・ラティウム・カンパニアが参加)の先頭に立っていた国だったが、カルタゴと商業的・政治的に密接なつながりがあったという証拠がある。エトルリア語とフェニキア語で同じ内容が記されたBC500年ごろの3枚の金製の奉納板がエトルリアの都市カエレの商港ピュルギで見つかっている。カルタゴでエトルリアからの輸入品が多く見られることにも、二つの海上勢力の間の密接な通商関係が裏づけられる。実際、この時代の地中海中部には、カルタゴの支配力が極めて広範に及んでいたことが考古学的に明らかにされている。シチリア島の西端のモティア、サルディニア島、それにカルタゴの最も古い海外植民地だったイベリア半島の東沖に位置するイビサ島などには、カルタゴ文化の伝播と影響が色濃く見られる。カルタゴがシチリアとサルディニアに遠征したのは、それら二つの島がカルタゴ海洋帝国の形成と発展に重要な役割を果たすからである。どちらの島もカルタゴ本国から160キロほどの距離にあり、しかもイタリア半島とシチリア島とサルディニア島に囲まれたティレニア海内の交易には絶好の位置にあり、シチリア島はエーゲ海との交易には要となる場所である。また、サルディニア島を掌握しておくことは地中海西部地域との通商におけるカルタゴの覇権を保全するカギだった。

 地中海商業帝国を目指すカルタゴにとって最大の脅威はギリシャの植民活動だった。BC6世紀に入るころにはシチリアの海岸には北西部を除いてギリシャの植民地が点々とできていた。それらの中で最も大きく繁栄していたのが南部のシュラクサイとアクラガスでどちらもエーゲ海との通商貿易の要となる港である。この二つのギリシャ人都市の連合陸軍に対して、カルタゴはBC480年、マゴ家の将軍ハミルカル(マゴの孫)のもと、空前の規模の遠征隊を送り出している。シチリアの北西の港パノルムス(現在のパレルモ)に上陸した30万の兵は、地中海西部全域、北アフリカ、イベリア、ガリア、リグリア(イタリア北西部の海岸地域、現在のジェノヴァなどの港がある)、サルディニアなどから派遣されていた。まさにカルタゴの経済力と広域にわたる政治的影響力の証である。この侵略の建て前はアクラガスの僭主に奪われた北部のヒメラの王座を奪還することだったが、実際はシチリア全土をカルタゴの領土にすることだった。しかし、さらに大きな計画があったようだ。ギリシャの歴史家によれば、ペルシャのクセルクセス王がBC480年のギリシャ侵攻計画(第2次ペルシャ戦争)の一環としてカルタゴと攻撃協定を結んでいたというという。本当に共同作戦だったかどうかは別として、このペルシャとカルタゴの攻撃はどちらも失敗に終わった。ペルシャはサラミスの海戦で負け、カルタゴはヒメラで大敗して銀2万タラントの戦争賠償金を支払うはめになった。このヒメラの敗北がカルタゴの歴史の中で一つの転機になった。カルタゴは地中海侵略という対外政策に見切りをつけてアフリカの領土支配を強化することに方向転換するのである。それから70年間、カルタゴはシチリアのギリシャ植民都市については現状に甘んじ、決して介入しようとはしなかった。BC5世紀末には輸入品が大きく変わり、イベリア半島の大西洋岸のカディスやさらに西からも商品が来るようになった。カルタゴが新たな繁栄の時代を迎えた証しは、市街地が広がり、海岸沿いの立派な住宅地、沿岸防衛の設備などに見られる。BC415年までにはカルタゴは明らかに大量の金銀を蓄えていた。


<カルタゴとローマとの最初の条約>

 カルタゴとローマとの最初の条約はBC509年とされる。この条約はカルタゴと中部イタリアの諸都市国家(エトルリア人やローマ人など)との協商の時代に締結され、フェニキア人の中心都市カルタゴの利害と勢力の拡大を示唆している。古代ギリシャの歴史家ポリュビオスによって記録されたこの条文の本文は次のようなものである。

「ローマ人とその同盟者が「美しい岬」(カルタゴ湾の東北に突き出ているボン岬と推定される)の彼方に航海することを禁じている。もしローマ人とその同盟者が他の勢力に追われてカルタゴ領に入った場合でも5日以内に領内から離れなければならない。ローマ人とその同盟者がサルディニア島とアフリカで通商する場合、カルタゴ人への事前通告を書記の面前で行われなければならない。ローマ人はカルタゴ人の支配に屈したシチリア島においてその他の国民と同じ権利を持つ」

 カルタゴはすでにこの時代に、西地中海の北アフリカ沿岸で最も重要な都市となっていったこと、サルディニア島は北アフリカ領と同じ資格でカルタゴの権威と軍事力に依存していたこと、一方でカルタゴに「帰属する」シチリア島西部はサルディニア島よりも独立自立していたことなどがこの条約からわかる。とはいえ、カルタゴの領域は、すでにフェニキア人が部分的に占領していた領域も含めて、現在のモロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア西部(トリポリタニア)、そしてイベリア半島南部、マルタ島とその西側のゴッツォ島とパルテレリア島を含む巨大なものであったが、その領域をカルタゴが如何にして支配していたのか、その具体的な方策については史料が残っておらず、全くわかっていない。

 北アフリカにおけるカルタゴ人の勢力圏とギリシャ人の勢力圏との境界をリビアの大シルティス湾(現在のシルテ湾)の奥に確定するのは、おそらくこの時代まで遡る。それは後のローマの属州アフリカの東の境界となる。カルタゴとギリシャの北アフリカにおける有力植民市キュレネは、それぞれの勢力の及ぶ境界を確定するため、頻繁に戦うことを避けて、カルタゴ市とキュレネ市から出発する各2人の優れたランナーに任務を託したと言われる。現在のリビアのトリポリからモロッコに到るまで、北アフリカの海岸にはフェニキア人あるいはカルタゴ人の存在を示す遺跡やフェニキア起源の地名が点々としてあった。


<ポエニの風景>

 ローマ皇帝の友人であるギリシャ人プルタルコスは、「カルタゴ人は厳しい陰気な民族で、危険な時には臆病、自分が優勢な時には残酷である。彼らは意見を固執し、自分自身に対して峻厳で、人生の喜びを解しない」と記している。こういう決まり文句には信憑性はないが、カルタゴ人は歴史にこのように記述されている。これはカルタゴの敵であったギリシャ人とローマ人の目で見ているのだ。ギリシャ人は彼らを憎み、呪い、攻め、中傷し、ローマ人は同じことをした後で、彼らを地上から抹殺した。その時のローマ人のやり方は、その進出を妨げた他のいかなる町に対するよりも残忍だった。カルタゴに関しては、歪められた記憶しか残すまいとしたのだ。事実その通りになった。

 今日のチュニジアのチュニスの北東にやじりのような形をした半島が海へ16キロ突き出ている。その東端の海岸に平たい丘がいくつか覆いかぶさり、その南に大きな潟湖が2つあって、その1つは海とつながっている。三方を海に洗われるこの岬がカルタゴの建設地となった。これはまさに「ポエニの風景」である。海岸は平らで、湾は波風から守られ、陸地に向かって遮断の容易な狭い連絡路があり、背後には広い肥沃な後背地を控えているのである。この地に移住してきたのは内紛によりテュロスから逃げてきた反徒であったらしい。その中心にいたのが、BC814年ごろに亡くなったと思われるテュロス王マッテンの孫娘エリシャ、ギリシャ風の名エリッサだった。カルタゴの港は発展して新しい集落の心臓部となった。この港は2つの人工の内港から成っていた。1つはほぼ四角で幅50メートル長さ150メートルほど、もう1つは丸く直径100メートルほどある。幅は30メートルほどで、いざという時には鉄の鎖で閉鎖できる人工の水路がこの2つの内港を海と結んでいた。後ろの四角の港が商船の停泊地に、前の丸い港が軍船の停泊地に使われたということである。港は決して大きくはないが、荷物の積み下ろしをする船だけを港に入れるのがフェニキアの伝統で、他の船は天候が悪くない限り海岸に留まり、そこに錨を降ろすか、船首を砂浜に乗り上げるかした。小さくはあったが、軍港は200隻以上の船を収容することができた。町そのものの上方には、海岸に近い丘、いわゆるピュルサがそびえていた。ここには堅固な城壁がめぐらされ、いざという時には避難場所にもなった。ピュルサはギリシャのアクロポリスに比せられる。ギリシャのアゴラに当る、市が立ったり集会が催されたりする大きな広場がピュルサと港の間にあった。そのから遠くないところに、カルタゴの元老院が招集される建物と、野外で裁判が行われる場所もあった。内陸に向かって広い居住地区が拡がり、ところどころに庭や畑が見られた。神殿もたくさんあった。町全体は環状の防壁に囲まれ、内側には300頭の象と400頭の馬を収容できる3階建ての大きな厩舎と、倉庫、武器庫、兵舎などがあった。最盛期のカルタゴはこのような町であった。ギリシャ人がカルケドーンと言い、ローマ人はカルタゴと呼んだカルト・ハダシュトという名は、「新しい町」とも「新しい首都」とも意味するが、おそらくそれが最初からの計画だったと思われる。



(カルタゴ対ギリシャの競争と攻防)


 カルタゴ海上帝国を成立させたのは、主としてギリシャの膨張という大きな因子であった。ギリシャのエウボイア人はBC8世紀初頭、商業的拡大の先頭を切り、東はシリアから西はナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げた。ギリシャのアルカイック期(BC8世紀~BC6世紀)は人口過剰からくる大規模な植民活動の時代である。すでに地中海に進出していたフェニキア人は地中海を横断する東西の軸に沿っていた。したがって、ギリシャ人はジブラルタル、シチリア、キプロスを結ぶ線の北側から外れなければ、フェニキア人との争いを避けることができ、実際に長い間それを守ってきた。ギリシャ人のBC8世紀までの植民先は黒海沿岸、南イタリア、ティレニア海側の中部イタリア、それにシチリア島の東岸地域に限られていた。7世紀に入り、アフリカにも植民地を作る必要があると考えた時、彼らは細心の注意を払ってフェニキア人が手を着けなかったリビア中央の海岸にキュレネの町を築いた。さらにナポリ湾にクマエ、シチリア島にシュラクサイを建設した。シチリア島西部への植民には先住のフェニキア人と争うことになった。西地中海では、カルタゴ人がすでにイベリアやシチリア、サルディニア、バレアレス諸島(マヨルカ島など)にいくつかの拠点を設けていたので、後発のギリシャ人にとっては手強い競争相手であった。それでも、6世紀に入ると、小アジア沿岸のフォカイア人たちは北側のルートでイベリアの拠点を確保しようとした。こうしてBC600年ごろ、彼らはマッサリア(現在のマルセイユ)に後背地との交易の拠点を確保した。さらに、そこからガリア(現在のフランス)の沿岸とコルシカ島の東海岸にいくつかの拠点を築いた。ギリシャ人がフェニキア人に対抗できたのは、フェニキア人の拠点はもっぱら商業用のものであってほとんど兵士を置いていなかったが、ギリシャ人は本格的な移住を目的としていたからである。BC6世紀前葉、フェニキア商人にとってギリシャ人の脅威は母国からの支援を期待できなかっただけに、ますます危険を感じていた。そのときテュロスをはじめとするフェニキアの都市は、新バビロニアのネブカドネザル2世による侵略を受け、テュロスは13年間も包囲されていた。それでカルタゴにチャンスがやってきた。それまでに250年の歴史を経ていたこの町は、他の植民都市と違って母国テュロスからの支援に頼らず、着々と自力で戦力を蓄え、西地中海ではテュロスやシドンを上回る強さを備えていた。フェニキアの苦境を見てシチリア島を完全に征服しようとするギリシャの試みをそのまま放置することはできなかった。地中海のほぼ中央に位置するこの島は、極めて重要な戦略上の地であった。ここを握れば地中海域の制海権をも握ることになる。

 BC539年、ペルシャのキュロス大王がバビロンを征圧したため、フェニキアはその広大な帝国の支配下に入った。遅くともBC5世紀には、カルタゴ人はこれから先のあらゆる紛争から抜け出すには自力に頼るしかないことを悟ったにちがいない。カルタゴは計り知れないほど富裕だといわれた。同じように富裕だといわれたシチリアのギリシャ人の町シュラクサイやアクラガスは数十万の人口を擁し、巨大な神殿などがあった。ギリシャ人の建てたこれらの大都会のどれもが、北アフリカにあるフェニキア人の都市よりもはるかに壮麗で、本国から継続的に人が流入してきていた。一方、カルタゴは徐々に大きくなった町であり、カルタゴ人は保守的で、競争相手がもうとっくに鋳造した貨幣を使っているのに、まだ物々交換方式を守っていた。物質的にはギリシャ人の方が勝っていたようだ。カルタゴの支配層は町の建設当初から宗教的伝統を重んじていた。それはカルタゴの支配者や将軍たちの名前からもうかがえる。ハスドルバル(バァールが助けた)、ハンニバル(バァールに愛された)、ハミルカル(バァールの従者)、バトバール(バァールの娘)などがある。これらの名は確たる信仰を反映しているように思われる。同時にこれによって、フェニキア本土の神々が北アフリカで生き続けたことがはっきりとわかる。とはいえ、長い年月の間に神々の名前や役割が変化してもいる。ビブロスの神バァールとテュロスの神メルカルトは、バアル・ハンモンに、アフロディテの原型であるメルカルトの女神アシュタルテは、タニトに変わっている。タニトはまたタニト・ペネ・バァール(バァールの顔という意味)とも呼ばれた。カルタゴでは他にも多くの神々が崇拝されたが、最高神はメルカルトだった。しかし、本当に重要だと考えたのは、おそらくバァール・ハンモン、エシュムン、タニトの三位一体であった。そして、町が危急に陥るか、大勝利を感謝するときには、カルタゴの祭祀の核心である人身供犠行われた。ローマも人身供犠を行った記録があるが、古代的な人身供犠の象徴として歴史に名を留めたのはローマではなくカルタゴであった。BC3世紀末、有名な数学者、地理学者でアレクサンドリア図書館長を務めたキュレネのエラトステネスは、ギリシャ人がすべての非ギリシャ人を野蛮人というのは不当であると述べている。少なくともギリシャ人以外の2つの地中海民族にはこの呼称は適当ではない。つまり、ローマ人とカルタゴ人は憲法を持っているからだという。カルタゴの政治を行ったのは元老院の貴族クラブで、百人委員会の104名がその委員だった。そして貴族の中から選ばれたスーフェテスと称される1人あるいは2人の執政官が裁判権と制限された執行権を持ち、元老院と国民会議が立法権と残りの執行権を分け持ったと推測されている。


<シチリア島での攻防>

 東地中海のヘレニズム時代はアレクサンドロス3世の東方遠征を始まりとするが、フェニキア本土と西方のポエニ世界では、実際にはすでに100年以上前からギリシャ化が本格的に始まっていた。ギリシャ領との交易が増えたからだ。アッティカ式と呼ばれる土器、特にアテナイ地方で作られる黒光りする地肌の土器がレヴァント海岸の北でも南でも発見されており、BC5世紀末から次第に数が増えているように見える。ギリシャ文化をフェニキア本土に伝えるのに中心的な役割を果たしたのがキプロス島だった。BC4世紀初めのアテナイ崇拝者、サラミス王エヴァゴラス(在位:BC411年~BC374年)の時代にはギリシャ化に拍車がかかり、キプロス島のフェニキア人領にギリシャ風のものが増えていった形跡がある。BC4世紀にはフェニキア人のエーゲ海交易も盛んだった。その主役はシドンだった。カルタゴもBC4世紀にはギリシャの多大な影響を受けたが、その大部分は近くのシチリア島とそのギリシャ系植民地の住民からもたらされた。すでにBC5世紀の終わりからカルタゴはシチリア島のギリシャ系住民の多くを政治的支配下に入れていた。カルタゴは北西にあるエリュモス人の都市セゲスタの頼みでその島へ70年ぶりに軍事介入している。セゲスタがギリシャ人都市セリヌスとその強力な同盟都市シュラクサイとの長年の抗争に疲れ果て、カルタゴに援助を求めてきたからだ。

 BC409年、カルタゴはハンニバル(後にローマと戦ったハンニバルとは別人)率いる大遠征隊を送り出して南西海岸にあるセリヌスを包囲占領し、ついで北西海岸のヒメラを攻撃する。ヒメラはBC480年にハンニバルの祖父ハミルカルが戦いに負け処刑された町である。カルタゴはかつての敗北の仕返しにヒメラを破壊し尽しており、その土地に住民が戻ることは二度となかった。翌年も翌々年もカルタゴはシチリア島に出兵し領土を奪った。富裕な中南部のアクラガスも手に入れ、BC406年にはシュラクサイを除いて島中のギリシャ系領土がカルタゴのものとなった。人口25万人といわれるBC5世紀のシュラクサイは商業ではアテナイのライバル都市だった。ハンニバルはアクラガスを攻撃中に疫病で病没している。しかし、BC405年にカルタゴの兵が引き揚げてからしばらくたったBC398年に、シュラクサイは島の西部へ向かって反撃に出る。BC387年、島の東岸にあるカルタゴの拠点モティアが狙われて陥落した。その後、カルタゴの将軍ヒミルコ(ハミルカルのもう一人の孫)が逆襲し、シュラクサイを包囲するが、堅固な要塞と疫病により撤退を余儀なくされた。ヒミルコは自ら食を絶って死んだと伝えられている。モティアはほどなくカルタゴに取り戻されたが、再建はされなかった。このようにBC410年ごろからの遠征を皮切りにカルタゴは一連のシチリア出兵にかかりきりになっている。シュラクサイとカルタゴ、この二つの敵対勢力の領土についに境界線が引かれたのはBC374年で、ハリュカス川を境に、島の南岸に位置するセリヌスやアクラガスを含めて島の3分の1にあたる西部地域がカルタゴ領となることが平和条約で定められた。カルタゴはこの領土をBC264年に勃発するローマとの第1次ポエニ戦争まで統治する。

 歴史資料によれば、BC406年のアクラガス奪取の結果、ギリシャの多大な芸術作品がカルタゴ本土へ運ばれ市や貴族のものになった。ギリシャ人植民市のセリヌスとアクラガスがカルタゴのもとに入ったのに加え、ギリシャとポエニ世界の商取引が盛んになったこともカルタゴのギリシャ化に拍車をかけた。ギリシャからの輸入品が劇的に増加したこの時期に、カルタゴとその属領の物質文化は様式も図像もすっかりギリシャ化されている。カルタゴの寡頭政治においては「百人会議」と呼ばれるエリート貴族の一群が支配力を強めていたが、彼ら通商拡張主義者にとって関心事はシチリアのギリシャ人問題だけではなかった。イタリア半島西方のティレニア海域の外交関係を安定させる方策として、カルタゴはローマや、カエレをはじめとするエトルリアの大きな商都と次々に条約を結び、北方との関係強化を図っている。BC348年に結ばれたローマとの条約はローマが不利な内容であり、当時のカルタゴの強大さがうかがえる。次のBC306年の条約では、ローマはシチリアから締め出されるが、一方のカルタゴもイタリアに近づけず、政治的状況がだいぶ変わってきたことがわかる。同等に張り合う二つの海上勢力がそれぞれの商圏を懸命に護ろうとしているようだ。その4年前、カルタゴには不名誉な出来事があった。シュラクサイに攻撃され、カルタゴ本土に上陸されたのである。市民は最後には城壁の中に立て籠もらざるを得なくなり、それはカルタゴの歴史上初めてのことだった。当時のカルタゴは灌漑が行き届いた緑豊かな農園が広がる豊かな土地だった。

 BC306年のローマとカルタゴの条約の26年前のBC332年、カルタゴの母国テュロスがもう一つのヨーロッパ新興勢力に屈している。アレクサンドロス3世(大王)のマケドニアである。テュロスの守護神メルカルトに毎年の供物を供えに行ったカルタゴの使節がその出来事を目撃している。風向きが変わりつつあった。アレクサンドロスはテュロスの陸側の海岸に立って、テュロスの要塞化された島の町を眺めていた。そして言った。

「諸君!ペルシャ軍(フェニキアの艦隊)が海を支配している限り、妨害を受けずにエジプトへ軍を進めることはできない。誰の味方だかわからないテュロスを背後に控えている限り、ダレイオスを追っていくわけにはいかない。その上、我々が全兵力をバビロンに向ければ、海岸の町(彼に降伏したアルワド、ビブロス、シドン)が奪い返される危険がある。そして最後にダレイオスが軍を増強してギリシャに攻めていこうと思うかもしれない。ギリシャで我々はスパルタ人と争っており、アテナイ人は確信からというより恐怖から我々と戦うことを断念している。しかし、テュロスが征服されれば、我々はフェニキアを抑え、ペルシャ艦隊の最良・最強の部分であるフェニキアの船隊を我々の側に引き寄せることができる」

 こうして島へ通じる物々しい堤の築造工事が始まった。その間、テュロス側も激しく抵抗したが、降伏したアルワドとビブロスの船80隻とキプロスのフェニキア人の船120隻がアレクサンドロスに提供され、テュロスの港は海から包囲された。テュロス側はなおも抵抗していたが、最後はマケドニア軍の海陸からの総攻撃を受けて陥落した。テュロス人は全員殺され、8000人の人命が奪われたという。マケドニア側はわずか400名を失っただけだった。7ヶ月に及ぶ攻防だった。アレクサンドロスのテュロス攻略によってフェニキアの歴史は終わった。この後、ローマとマケドニアの台頭によって地中海地域の政治地図は永遠に塗り替えられることになる。

 BC332年にカルタゴの母国テュロスがアレクサンドロス3世(大王)のマケドニアに屈したとき、メルカルトに犠牲を捧げるためにカルタゴからの代表団がテュロスに滞在していた。名目的にテュロスの植民地だったカルタゴは、テュロスがペルシャの属国だったことから、カルタゴも名目的にはペルシャの属国ということになる。カルタゴはアレクサンドロスからの攻撃を恐れたが、そうはならなかった。アレクサンドロスがあまりに早く亡くなったからである。アレクサンドロスの後継者たちは、初めのうちは西地中海の情勢に注意を払わなかったようにみえる。しかし、BC310年にプトレマイオス朝エジプトの将軍オペラスは1万の兵を率いてリビアのキュレネからチュニジアへ行軍した。そこでシチリアのシュラクサイから来たアガトクレスの軍と合流した。このときはカルタゴ軍に破られ敗走した。このアガトクレスこそテュロス陥落の22年後に、カルタゴ史上初めてカルタゴ本土を脅かし、あやうくポエニの首都を攻略しそうになった人物である。敗戦後すぐにシュラクサイで体勢を立て直したアガトクレスは、カルタゴに奇襲をかけ、今度は1年以上にわたってカルタゴの町を包囲した。しかし、2000の兵とともにいったんシュラクサイの様子を見に行ったすきを突かれ、包囲軍はカルタゴ軍に全滅させられてしまった。しかし、アガトクレスはともかく一つの成果だけはあげた。シュラクサイはこのときもカルタゴの手に落ちなかったのである。シチリアにおけるポエニ側とギリシャ側の領土の境界は依然としてハリュカス川であった。


 ***


<カルタゴなどフェニキア人植民市の経済発展>

 フェニキア人の西方植民地の経済は、初期には東方の古くからの植民地と同様に海上交易と直に結びついていた。カルタゴやウティカのような北アフリカ海岸の都市の多くは、フェニキア商船の寄港地として故国から地中海西部に到る東西の軸上に都合よく並んでいた。またサルディニア島のスルチスやイベリア半島の大西洋岸のカディスなどは、豊かな鉱物資源の後背地を抱えており、その重要な通商路の玄関口でもあった。こうした西方植民地は、元々は本土の長距離交易のための商都として建設されていたが、やがて独自の地域的な通商網を持った独立的な経済体へと発展していく。その代表がカルタゴで、初期のフェニキア人西方植民地の中で最も長く目覚ましい繁栄を誇った都市だ。母都市のテュロスと同様にカルタゴはその立地から海中心の経済を決定づけられていた。最上級の天然の港があったし、レヴァントとジブラルタル海峡を結ぶフェニキアの使用航路のほぼ中間点にあった。カルタゴという植民地は長距離交易に利用する目的でテュロスの貴族によって建設されており、実際その歴史のほとんどを通して地中海通過交易の活気あふれる中継地だった。交易に関する考古資料として最も古いものはBC7世紀の量産品アンフォラと輸入品の土器があり、ティレニア海が早くからカルタゴ経済にとって重要な場所だったことがわかる。事実、シチリア島、サルディニア島、そしてイタリアの西海岸によって包み込まれたその海域は、カルタゴの全歴史を通してその通商網の中心にあった。パノルムス(現在のパレルモ)とソルントゥムと小島のモティアがあるシチリア島北西部はカルタゴの最寄りの海外領土にもなっている。初めて同盟を結び、取引のパートナーとなった外国はエトルリア(現在のトスカーナ地方)で、この二つの国の間の通商は、早い時期から通商協定によって統制されていた。またローマとの間でもBC509年とBC348年に通商協定が交わされていた。この二つの協定の内容が今日に伝わっており、どちらにもカルタゴの最優先事項である、中部地中海で何の制限も受けずに取引ができることが記載されている。またローマはシチリア島とサルディニア島、それに北アフリカ海岸東部での取引を禁止されていた。チュニジア東部とリビアの海岸都市はサハラを越えの熱帯アフリカとの交易には重要な玄関口である。

 フェニキア本土と同様にカルタゴもその主要な商業的関心は金属の調達にあった。銀と金はもちろんのこと、錫・銅・鉄・鉛のいずれも欲しかった。銀の最大の供給源はスペイン南部の鉱山だった。サルディニア南西部とエトルリア北部にも銀と鉛を含んだ鉱床があったから、それらとも取引があったかもしれない。ツキディデスによれば、カルタゴはすでにBC5世紀には大量の金と銀を蓄えていた。BC4世紀に金貨を発行できたのは膨大な備蓄があった証拠である。金はおそらく西アフリカから調達していたと思われるが、イベリア半島やその対岸の北アフリカ、そしてヌビア西部の産地も利用していたかもしれない。銅と鉄は北アフリカの鉱山から調達していたが、足りない分はイベリア南部、サルディニア島、エトルリアなどから輸入された。カルタゴの遺跡からわかったのは都市内で鉄や青銅の生産が非常に盛んだったことである。錫はおそらく大西洋沿岸を北上してブリテン島南西部のコーンウォールかガリア(現在のフランンス)のブルターニュで入手したと思われる。金属の獲得はカルタゴ最大の商業戦略だったが、他に大きな利益を上げたものの一つが卸売業である。古代からカルタゴ人といえば卸売業といわれるほど縁の深い仕事だった。カルタゴの植民地、すなわちポエニ人都市とその市民を養った大きな産業は造船業と兵器産業だった。カルタゴ市周辺のウティカやボン岬の辺りから豊富に切り出されたカシ、マツ、ヒノキなどの材木は船の建造とそれに関連する木工品の製造には打ってつけだった。他には漁業と奴隷売買がある。カルタゴの奴隷売買は農業と鉱業の需要を満たすために盛んに行われた。イベリア半島のカルタヘナ銀山だけでも4万人の奴隷が使われていたと文献にある。BC4世紀に入るとカルタゴは町の後背地の開拓を行って農業を発展させ、BC4世紀末にはコムギ輸出国になった。BC3世紀に海外の領土、シチリア島、サルディニア島、さらにイベリアが失われると、カルタゴはアフリカ内部への政治的・経済的支配を強め、後にローマ帝国に引き継がれることになる厳しい植民地管理のシステムを作り上げていく。


<ポエニ(カルタゴ)人の軍隊>

 カルタゴの歴史はBC8世紀初頭に都市が建設されたときからローマに滅ぼされるBC146年まで600年を超えて長く複雑である。カルタゴ発展期の軍隊とその活動についてはほとんど知られていない。BC6世紀にその都市が植民に乗り出すまでは、たぶん規模も活動も都市とその周辺を護っていただけの限られたものだったと思われる。カルタゴ軍の活動として初めてはっきりと歴史に登場するのはBC535年、エトルリアと同盟してフォカイアのギリシャ人と対決したコルシカ島アラリア沖の海戦である。またこのころからカルタゴ陸軍やその構成についても将軍マゴとその子孫にまつわる歴史的な報告の中から具体的な情報が拾い出せるようになる。BC550年~BC400年ごろまでカルタゴを支配したマゴ将軍家時代には、陸軍の主力は方々の属国から集められた外国人の派遣部隊になっていた。カルタゴ市民の軍隊は、BC5世紀には上級仕官は別として、将軍直属の神聖部隊と呼ばれる2500人の精鋭予備隊に限られていたようだ。カルタゴ陸軍最大の外人部隊はリビア人部隊だった。チュニジアに住む今のベルベル人である。彼らは軽装歩兵隊として陸軍の中核となった。サルディニアとスペインの属国からも大きな部隊が来ていたし、多くの同盟国も兵士を送り込んでいた。北アフリカのカルタゴの植民地に住むリビア系フェニキア人、騎馬隊の主力となったヌミディア人、マウリ人などである。他にケルト人、リグリア人、エトルリア人、カンパニア人、コルシカ人、シチリア島の原住民も陸軍に加わっていた。リビア、サルディニアなどの属領で徴用された原住民兵士が多くを担う一方で、カルタゴ陸軍では傭兵も次第に重要な役割を果たすようになる。BC480年のヒメラの戦いのころには傭兵が明らかに相当な数になっていた。方々からの外人兵がほとんどだった陸軍とは対照的に、海軍は概ね市民で構成された。カルタゴ艦隊は数十隻から100隻、あるいは120隻以上にもなった大艦隊で、フェニキア譲りの三段櫂船がBC7世紀からBC4世紀まで海戦の主役を務めた。BC5世紀末には1本のオールの漕ぎ手が4人1組で配置されるガレー船も導入された。船が大型化する傾向はその後も変わらず、やがてフェニキア本土とカルタゴ艦隊のどちらにも5人1組で漕ぐタイプが加わっている。ポエニ戦争ではこの船が使われた。1本のオールを5人で動かすとすれば、長さは40メートル、甲板員や予備の人員も含めて300人以上が乗り込んだと思われる。


<ポエニ世界の宗教>

 ポエニ人の宗教は東方から持ち込まれた。当然ながらカルタゴ市には母都市テュロスの信仰が受け継がれた。カルタゴで発見された現存する最古の碑文には、女神アシュタルテと男神プメイが登場する。プメイはキプロス島起源の神で、サルディニア島で見つかった古いフェニキア語の碑文にも名前が見える。他にレシェフ、バァール・サポン、シャドラパといった本国フェニキアの神々も信仰されたことがカルタゴの文書から知られている。しかし何と言っても、初期のカルタゴではメルカルトが最高の神だったが、メルカルトには早くから本土出身のライバルがおり、最終的にはその男神に地位を奪われている。バァール・ハンモン、別名「アマヌスの主」、アマヌスとはウガリトの北の山岳地方である。バァール・ハンモンは農業神で、その印にはしばしばコムギの穂が天辺に付いたしゃくを持って玉座についている。その信仰はチュニジア中核部だけでなく、北アフリカ海岸一帯に広がった。マルタ、シチリア、サルディニアなどの植民地にも早くからハンモン信仰が根づいていた。BC5世紀になったころからカルタゴでハンモンの権威を共有し始めたのが女神タニトである。この2神はカルタゴでは不可分のカップルだった。港の近くに柱廊に囲まれた中央広場があった。この町の商業と行政の活動はこの場所に集中していた。そのすぐ西に、カルタゴ供犠くぎ所に隣接してバァール・ハンモンの神殿があった。女神タニトの神殿はここより北の方の、海とビュルサの丘にある城塞との間の地域に建っていたはずである。これらの大神殿はローマ人の再建事業のために跡形もなくなくなってしまった。カルタゴの海浜地区の神殿跡には文書庫があり、そこから3000個を超えるBC7世紀からBC4世紀のギリシャとエジプト製のパピルス用封泥が見つかったが、残念なのはそれらが使われていたパピルス文書がBC146年にカルタゴがローマに滅ぼされたときに全部焼けてしまったことである。


<大型化したカルタゴの船>

 カルタゴの船はカルタゴの富を保証する道具だった。フェニキアの小船は、BC814年にテュロスがカルタゴを建設した後、数世紀の間に大型化していた。それはもうむき出しではなく、デッキを備え、船首には喫水線と同じ高さのところに尖った衝角がついており、櫂は1列ではなく2列になっていた。テュロスとシドンの船が最大で50本のかいしか備えていなかったのに対し、大型のカルタゴの船は、最も小さいものでも櫂の数はその2倍はあった。ギリシャ人が「ディエレ」、ローマ人が「ビレミス」と呼んだこの2段櫂船は速かった、おそらく5~6ノットは出ただろう、順風ならもっと速くなった。櫂が170本まである3段櫂船トリレミスはギリシャ人の発明で、北アフリカではそれを真似た。5段櫂船ペンテリスはローマ人が開発したもので、古代では最も速い船とされた。カルタゴの商船はかなりの大きさだったと考えられる。BC3世紀のローマの穀物輸送船は全長30メートルほどで、1000トンを越える貨物を運んだ。カルタゴの船も大差はなかったはずである。こういう船は長方形の大きな横帆、船首と船尾に小さな帆を張って走った。船の修理は、今日と同様に乾ドックを利用した。これもフェニキア人の発明である。


<交易のパイオニア、フェニキア人>

 カルタゴ人は昔からイベリア半島の大西洋岸のカディスを基地にイベリアの先住民と取引をして鉱石を地中海域に運んでいた。ローマ時代の年代記に、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の彼方にはカルタゴ人が支配したたくさんの民族と町があると記されている。今日では、イベリア半島の大西洋岸にある大小20以上の港ができたのは、カルタゴの活動のおかげであり、カルタゴはイベリアのほとんど半分を支配していたと推測している。彼らはイベリア半島で豊富な銀のほか、銅や錫、金の鉱石も手に入れていた。さらに、BC450年ごろには、ヒミルコという名のカルタゴの船長が北へ向かいブルターニュ、ブリテン島南西部のコーンウォール半島へも青銅の原料で貴重な錫を求めて進出した。また、その25年後、ハンノという船長がモロッコの大西洋岸に沿って南下した。その航海は「ハンノの周航」と呼ばれ、幸いにもギリシャ語に翻訳されて伝えられている。それによれば、60隻の船に3万の男女が乗ってヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を横断したと記している。それはアフリカの西海岸への数度にわたる移住計画だったと推測される。そしてハンノは現在のモロッコからさらに南へ進み、現在のセネガル、カメルーンの沿岸からギニア湾へと達した。そこで通訳が「ゴリラ」と呼ぶ人間を見た。彼らは数名を追いかけ、男たちは捕まえることができなかったが、3人の女は捕まえた。しかし、抵抗されたので、殺して皮をはぎ、それをカルタゴに持ち帰った。そこで食糧が尽きたので、それ以上先には進まなかった。ところが後に、今日の動物学者がアフリカ最大の類人猿に「ゴリラ」と名づけてしまったのである。ギニア湾岸沿いを後に黄金海岸、奴隷海岸、さらに象牙海岸と呼ばれるようになったのは理由のないことではない。したがって、カルタゴ人がこの地方でそれらの品物を取引したということも考えられる。カルタゴ人はジブラルタル海峡の向こう側の世界について口を閉ざして語らなかったため、BC146年にカルタゴが滅亡した後、サハラ以南のアフリカは暗黒の未知の大陸となった。

 フェニキアの住民は交易のパイオニアのようなものだった。彼らは自国の製品を高価な物から安物まで売れるものなら何でも他国へ持ち込んだ。カルタゴ人も長くこのやり方を守った。彼らは、まず第一に文化程度の低い民族との商売、つまり交易の専門家だった。なぜ彼らがギリシャ人やフェニキア人より300年遅れのBC4世紀になってからようやく自分たちの貨幣を鋳造し始めたのかという理由も、この事実によって説明される。カルタゴの輸出品は、染めた布、絨毯、流行の装飾品、護符(お守り札)、彩色したダチョウの卵、ガラス、武器、陶器、香水などであったが、どれも優良品として名声を博したということはないようである。貴重で品質の良いものをほしいと思う人はギリシャ人と取引した。ギリシャ人の方が趣味が良く、丁寧な細工をしたのである。ホメロスがフェニキアの産物に夢中になった時代はとっくに終わりを告げていた。カルタゴは、必需品は自分の植民地から安く輸入した。コムギはサルディニアから、ブドウ酒と油はシチリアから、魚は西モロッコから輸入した。そのお返しに、サルディニアではオリーブと亜麻の栽培を奨励し、おそらく椰子も移植したと思われるほか、大ガラス工場をも建設した。マルタ島はカルタゴの庇護の下、自らも植民地を持つことができるほど発展し、交易の中心地にのし上がった。裕福になったカルタゴ人はその後背地、現在のチュニスの南方の肥沃な平野に農園を持つようになった。ローマ時代の作家は次のように描写している。

「ここは菜園と果樹園に分けられ、小川と灌漑用水によってどこにも水が行き渡るようになっていた。至る所に広壮な別荘が建ち、その漆喰のファサードが持主の富を示している。納屋にはぜいたくな生活をするのに必要なものがすべてそろっていた。ブドウが栽培されている土地もあれば、オリーブ、あるいはその他の有用な木が植えてあるところもあった。その向こうには、肥沃な牧場に牛や羊が放牧され、その他にたくさんの馬が草を食っている牧草地もあった。カルタゴの指導層が領地を持っている地区では、こういうものが富裕さを示す目印なのだった」

 カルタゴ人はまた、ヌミディア人、ベルベル人など周辺地域の先住民に対しても農業指導をした。彼らにブドウとオリーブだけでなく、イチジクやザクロ、それに多分アーモンド、クルミ、ナシをも与え、その植え方、育て方を教え、さらに品種改良の方法や打穀機などの農具も導入した。このようにして、彼らは食糧物資確保のための基盤を作り上げたように思われる。カルタゴが最盛期を迎えたBC3世紀初頭には町に約40万人、郊外に10万人が住んでいたと考えられる。しかし、そのすべてが純粋なフェニキア系カルタゴ人ではなく、奴隷、先住民、外国人も半数以上を占めていたと思われる。この50万人ほどの町が、西アフリカの海岸と、南ヨーロッパ、小アジアとを結ぶポエニ帝国を支配していたのである。

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