第115話 共和政ローマの誕生と発展

とらわれのギリシャが荒々しい征服者をとりこにした”

 BC1世紀後葉のローマの詩人ホラティウスの有名な「グラエキア・カプタ(とらわれのギリシャ)」の警句は、古代ギリシャ人への絶大な賛辞だった。ローマ人は古典時代のギリシャ人文化の継承者を自任していた。


<年表>

BC753年 伝説上のローマ建国

BC7世紀 ラテン人の30の町がテヴェレ川の南岸のラティウム地方で「ラテン同盟」を結成。

BC6世紀 ローマの草創期。BC616年からBC510年までエトルリア人の王の下で都市化された。

BC509年 エトルリアの支配的な名門タルクィニア家の王が追放され、ラテン人がローマの支配権を握る。共和政ローマの誕生。

BC451年 貴族から平民を保護するいくつかの規定「十二表法」の制定。

BC390年 北方から侵入したケルト人がローマの町を占拠。

BC280年 ギリシャ本土のエペイロス王ピュロスが南イタリアのギリシャ植民市の支援のためローマ軍と戦い、勝利したものの多大な損害を受け撤退。

BC264年 ローマによるエトルリア12都市連合すべての征服完了。

BC264年~BC241年 第1次ポエニ戦争(カルタゴとローマの最初の激突、ローマの勝利)

BC218年~BC201年 第2次ポエニ戦争(ハンニバルの活躍はあったが、最後はローマが勝利)

BC175年~BC159年 ローマがその支配圏を地中海世界全域に広げ始める。

BC149年~BC146年 第3次ポエニ戦争(カルタゴの滅亡)


 ***


 古代地中海世界の首都となったローマには出現をめぐるさまざまな伝承があるが、その中で最も確かな事実は、「ローマは1日では成らなかった」ことである。話の面白さでは、双子の兄弟ロムルスとレムスの伝説の方が面白いし、共和政ローマがエトルリア人のくびきを砕きその王タルクィニウスを追放したという出来事の方が劇的かもしれない。しかし、いずれの伝承も歴史的に信頼できるものではない。事実はむしろ、エトルリア人を抜きに都市ローマの誕生はなかったということである。ローマで今も使用されている「大下水溝(クロアカ・マクシマ)」を建設したのはエトルリア人なのだ。その下水溝のおかげでもともと沼沢の多かった谷は農地に変わり、徐々に居住地へと変容していった。

 BC8世紀にローマに最初にやって来て町を建てたラテン人はヒツジの飼育や農業を生業とする者たちで、帝国建設などとは無縁だった。考古学的な証拠から最初のローマ人はラテン人の農民とヒツジ飼いで、エスクィリヌスの丘とパラティヌスの丘にまたがる小さな小屋に住んでいたことがわかっている。農民と戦士を兼ねた人びとが暮らす小さな村落は、強大な都市国家へと成長した。その過程でローマ人たちはさまざまな異なる文化を吸収し、機能的な軍隊や政治組織を整えた。粗野な原ローマ的気風はその後も消えることなく、特に地方に残ったが、物事の判断基準や強調点が時代とともに如何に変わるかは、ローマの軍神として有名なマルスを見ればわかる。実際、マルスは当初、農耕に携わる神であった。やがて彼らは、政治や法律に対する鋭い才能を示すことになる。


 ローマがその支配圏を地中海世界全域に広げ始めたBC175年~BC159年ごろ、監察官(ケンソル)だった共和政ローマの政治家大カトー(BC234年~BC149年)は、その著書「起源論」の中で、「かつてイタリアのほぼ全土がエトルリア人の権限に服していた」ことを想い起させている。さらに時代が下って、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:BC31年~紀元後14年)の時代には、「ローマ帝国以前にエトルリア帝国が海陸とも遠くまで広がっており、イタリア半島を両岸にわたって支配していた」ことを歴史家リウィウスが言及している。かつてのエトルリアのこのような隆盛は、当時のローマ人には、もはや理解できなかった。リウィウスと同じ時代に生きた詩人プロペルティウスは、ローマの北西に位置するエトルリアの都市ウェイーの凋落を次のようにうたっている。

“この都市はその歴史の最初の数世紀の間、ローマと競ったが、プロペルティウスの時代には「城壁の中で牧人のラッパが鳴り渡り、廃墟の中で農夫が種をまいていた”

 またギリシャの地理学者ストラボン(BC64年~紀元後21年ごろ)も、その「地誌」の中で別のエトルリアの都市カエレに触れ、「これほど輝かしく際立っていた都市だったが、今日では若干その跡を留めるに過ぎない」と述べている。とはいえ、ローマ人からすると癪に障ることではあるが、タルクィニア家の時代(BC616年~BC510年)にエトルリア人の王を戴いたこと、そしてエトルリア人が文化的にローマ人より非常に進んでいたことは事実として認めざるを得なかった。そのため当時、ローマ人は子供をトスカーナの都市に送ってエトルリア文学を学ばせた。エトルリア人はローマの草創期であるBC6世紀に真の都市の段階に移行するのを助けたのだった。


 BC5世紀に最盛期を迎えた古代ギリシャ文明の登場により、古代地中海の歴史は一つの曲がり角を迎えることになった。その後、西洋世界の歴史は地中海地方を中心に展開し、ローマ帝国の出現を経て「ヨーロッパ世界」という概念が形成されて行くことになる。もともと地中海文明の発祥の地は、エーゲ海を中心とした東地中海であり、西地中海は東部に比べると長い間遅れた地域に留まっていた。交易を得意としたフェニキア人やギリシャ人が活発な商業活動や植民市建設を行っていたものの、全体的に見れば依然として後進的な地域だった。ところがイタリア半島に住んでいたごく小さな部族、ローマ人の活躍によって、やがて西地中海は世界史の表舞台に登場する。BC6世紀には東隣のギリシャ人にさえよく知られていなかったローマ人が、BC3世紀末にイタリア半島から東方へ進出を開始した時点で、歴史は新たな時代を迎えることになる。

 続く約200年の間にローマは「帝政」という独自の統治システムを確立し、ギリシャ文明圏であるヘレニズム世界のみならず、西ヨーロッパの大部分を含む巨大な統一帝国を樹立する。それはある意味でアレクサンドロス大王の後継国ともいえる巨大国家だったが、結果としてアレクサンドロスをはるかに凌ぐ範囲の領土を支配し、はるかに大きな足跡を世界史の上に刻むことになる。なかでも注目すべきは、この帝国の中で発展したキリスト教が、後に政治的な支配構造に溶け込み、一つの社会的システムとして機能するようになったことだ。このことにより、はるか後に誕生するヨーロッパ文明の基本的性格が決定されたともいえるだろう。現在のヨーロッパの大都市の多くは、その起源をローマ時代の植民市にもっている。またキリスト教の存在が、広大な地域を一つのまとまりのあるものにしていることも確かである。ローマ帝国は文化や制度といった直接的な遺産はもちろん、人類の歴史に「帝国」という巨大な成功例と、「ヨーロッパ世界」という新たな概念をもたらすことになった。



(ローマの起源)


 ローマはイタリア中部のラティウムと呼ばれる地域で、テヴェレ川のほとりにあるいくつかの丘にすでに形成されていた村々が次第に連合して出来上がった。BC10世紀には、テヴェレ川を見下ろす丘のうちでは一番防御しやすいパラティヌスの丘にすでに定住しており、やがて他の丘にも人が住むようになった。これら7つの丘は西風に晒されて乾燥していたため、低地の湿原よりも居住に適していた。丘の下の平地はお互いの取引きの場として重要になり、個々の丘にあった村落は次第に連合することになった。この連合の過程でテヴェレ川が決定的な役割を果たした。古代の他の河川と同様にテヴェレ川も人びとを結びつけたからである。この川はティレニア海に注ぎこむ河口から約20キロ上流で、いくつかの防御に適した丘の畔を流れていた。川の中の小さな島が川を渡り易いものにしており、その両岸には肥沃な平地があった。これらの自然環境が絶妙に組み合わさり、川を渡る地点に交易の場が作られ、両岸には道が作られた。また、テヴェレ川の河口には広大な窪地があり、そこでは海水を蒸発させ塩が作られていた。塩はテヴェレ川沿いの道を北に向かい、エトルリア地方にも運ばれた。ローマはイタリアの北と南を結ぶあらゆる道が交差しており、自然環境・経済環境ともに非常に恵まれ、当初から共同体が発展する条件は整っていた。BC8世紀からBC4世紀までは、ラテン人、エトルリア人、それに山岳民族であるサビーニ人、これら3つの異なる民族集団がこの地域に居住した。ラテン人とサビーニ人はインド・ヨーロッパ語族の人びとである。BC8世紀のイタリア半島には多種多様な民族集団と言語が存在しており、BC7世紀にエトルリア文明が登場するまで、文明と呼べるようなものは誕生していなかった。ローマという名は、エトルリア語で川を意味する「rumon(ルーモン)」に由来すると考えられる。


 ローマ人(ラテン人)の起源はアエネアスの上陸という出来事から、トロイア人に求められることは周知のことである。歴史家リウィウスによるローマの建国神話によれば、トロイア戦争(BC1250年ごろ)からの落人であるアエネアスは長旅の末にようやくイタリア半島に上陸、北上してラツィオ地方に入り、そこの先住民との対立の後に和解する。やがて彼は先住民の王の娘と結婚し、両者は同盟関係に入り、その2人の間に生まれたアスカニウスこそ、後のローマ建国の祖となるロムルスの遠い祖先となる人物である。ウェルギリウスはその著作「アエネーイス」の冒頭で次のように詠っている。

“古来栄えた都があり、テュロスから植民した者が住んでいた。カルタゴという名で、イタリアに面して、遠くティベリスの河口を望み、財に富んでいたが、戦争に明け暮れ荒んでいた。・・・・・・だが、トロイア人から血を引く後裔が生まれ、テュロス人の建てた城塞をやがて覆すことをすでに知っていた。ここから、広く諸国を治め、戦争に勝ち誇る民が現れてリビュア(リビア、当時はアフリカ北岸の中央部分を広くリビアと呼んでいた)を滅ぼすであろう、それが運命の定めであった”

 ラテン文学の黄金期とされるBC1世紀から紀元後1世紀にかけては、ローマが共和政から帝政へと大きく時代を方向転換させ、ローマ人が自分たちの出自に関する物語に大いに関心を持ち始めた時期に相当する。建国以来のローマの歴史を叙述したリウィウスも、この壮大な叙事詩を詠ったウェルギリウスも、皇帝アウグストゥスと同時代の人物であり、「アエネーイス」のこの冒頭部分は、カルタゴを倒し地中海世界の覇者となったローマの自負が如何にも垣間見えてくる箇所である。


 ローマの建国神話には、有名なロムルスとレムスという双子の兄弟と、一匹のメスオオカミが登場する。テヴェレ谷の町アルバ・ロンガ(現在のローマ南東)の王ヌミトルは、兄弟のアムリウスに王位を奪われた。アムリウスはヌミトルの娘レア・シルウィアから生まれる子供が自分の王位を脅かすことを怖れ、彼女をウェスタの巫女みこに任じ、生涯処女を通させようとした。ところがある夜、軍神マルスが眠っている巫女のもとに来た。巫女は身籠り、双子の息子を生む。掟を破った母から生まれたロムルスとレムスはテヴェレ川に流されたが、彼らを入れた籠がイチジクの枝に引っ掛かっていたところに、一匹の牝オオカミが近づいて、2人に乳を飲ませて育てた。その後、成長した兄弟は勢力を拡大し、戦いに勝って父の敵を討つと、自分たちの町ローマを建設することになった。やがて二人の間に争いが起こり、ロムルスはレムスを殺害する。こうして唯一の支配者となったものの、ロムルスは殺人者やならず者のレッテルを貼られる。ロムルスは自分の周りに罪人や逃亡奴隷などの無法者を多く集めた。しかし女性が欠けていたため、近隣のサビーニ人を祭礼に招待し、サビーニの男たちが気をそらしている間に、彼らの娘たちを略奪しローマに連れ帰った。こうしてBC753年にローマが建国されたと伝説は語っている。もちろんこの物語は後に創作されたものだが、建国者の兄弟がオオカミに育てられたというエピソードは重要な意味を持っている。当時イタリア半島中部に大きな勢力を広げていたエトルリア人には、オオカミを崇拝する風習があったことがわかっているからだ。建国神話にオオカミが登場するのは、初期のローマがエトルリア人から、如何に強い影響を受けていたかを示す証拠といってよいだろう。いずれにしてもローマ最初の王はマルスの息子ロムルスで、38年間統治したとされている。ローマ人は、彼らの文明の根本に潜む狂暴性をあえて認めていたようだ。双子の兄弟ロムルスとレムスの残酷な物語は、どのローマ人の子供も知っていた。



(都市国家ローマの発展)


 伝説上、ロムルスのみがラテン人で、彼の跡を継いだ者たちはサビーニ人だった。ローマは当初から、移民や新たな文化の影響を拒まない寛容な社会だったようだ。伝承によれば、BC616年からBC509年まで約100年間、ローマは3人のエトルリア人の王によって支配されていた。ローマの未来を決定づけたさまざまな革新は、その2人目の王セルウィウス・トゥッリウスの名の下でBC6世紀後半に実行された。新たな、そして異なる民族集団の絶え間ないローマへの移住は、ローマの「開放性」を確かなものにした。そしてこの移住の結果、BC6世紀までにローマはラテン人のアイデンティティを失うことなく、ラティウムとエトルリアの両地域で最大の都市となり、イタリアにおける最も勢力のある都市国家の一つとして数えられることになった。この時までに人口は3万5000人に及んだと推定される。


[セルウィウスの改革]

 ローマ史の最初の転機となった重要な事柄は、ローマ領内に居住していた人びとに市民権を認めたことである。その結果、それぞれの出身の家系に基盤を置く部族は、地域的に結合した部族に変わった。これらの部族に加わる基準は、市域や周辺の出生地に基づくものであった。ローマの将来にとって、二つの段階を経た重要な改革がなされた。まず初めに、セルウィウスが財産評価を実施し、全市民を財産に応じて区分した。当初は所有している土地について算定されたが、その後貨幣が流通すると、青銅貨幣や家畜、備蓄された穀物の価値も算入された。これにより、血統ではなく、富裕さがローマの経済や社会における地位の指標となった。次の段階は軍事組織に関するもので、富に応じて市民を分けるという新しい措置と結びついていた。この財産評価は、騎兵が何騎、歩兵が何人動員できるか、また補助的な軍務をする財産のない者は何人であるかを決めるためになされた。市民権を拡大して、自分で武具を調達できるすべての者を徴兵することにより、ギリシャやエトルリアに由来する「重装歩兵」隊形として知られる戦術の採用が可能となった。歩兵は密集隊形を組み、大きな丸楯で身を守った。軍隊こそがローマの力の象徴であった。ローマ人はあらゆる動員可能な人的資源を国のために利用することが巧みだった。外国人を迎え入れる政策のおかげで、短期間で近隣のどの都市国家をも凌ぐほど兵力は増大した。


 エトルリア人の王の下の100年間に、ローマの都市部は大きな変貌を遂げた。それを象徴的に示すのが、セルウィウスの城壁とカピトリヌスの丘のユピテル(英語名ジュピター)神殿である。町の中心的な集会場や市場として使われる平坦なフォルム(公共広場)は舗装され、古くからのエトルリアの諸都市に匹敵する建築物を伴った公共生活の中心地となった。カピトリヌス、パラティヌス、エスクィリヌスという3つの丘に囲まれた小さな谷間にあるフォルムには、BC7世紀から次々に建物が建てられ、古代ローマの政治、宗教、商業の中心地として賑わっていた。とりわけ豪華な建物を造ったのは、ユリウス・カエサル(BC100年~BC44年)、アウグストゥス(在位:BC31年~紀元後14年)、ティベリウス(在位:紀元後14年~紀元後37年)の3人だった。かつてはこの場所が世界を支配したローマ帝国の心臓部だった。そこは現在フォロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌス)と呼ばれる。


[ローマの建設者ロムルスと名誉の戦利品]

 ポンペイのローマ時代の建物の玄関跡から、ローマ帝国の首都ローマの創建を記した碑文が見つかった。そこにはBC735年にローマを建設した伝説的王ロムルスの物語が記されていた。碑文はロムルスをめぐるエピソードの中で最も有名なものだけに言及している。ローマ人はロムルスがカエニナ人の王を一騎打ちでどのように倒したかをよく知っていた。伝説はホメロスの叙事詩にあるような英雄たちが一騎打ちの戦いを演じるのが珍しくなかった古い時代にまで遡る。もちろん、ローマ軍の強さの秘密は強固な意志、規律、猛訓練が一体となった総合力にあった。ローマ軍が当時彼らに知られていた世界の大部分を征服できたのは個々の兵士の武勇に加え、組織力や技術力においても優れていたからである。だが、それらを認めた上でさらに付け加えるべきは、ローマ人は彼らの建国の父が一騎打ちで敵を倒した話から強いインスピレーションを得ていたということである。碑文に出てくるスポリア・オピマ、すなわち「名誉の戦利品」は、自ら一騎打ちで敵の将軍を倒した将軍にだけ認められた剣や鎧などの戦利品の奉納を指す。この栄誉を得たローマの将軍は3人しかいない。二人の伝説的人物、ロムルスと、エトルリアの都市ウェイ―の王トルムニウスを倒したアウルス・コルネリウス・コッスス、そしてBC222年にケルトの将軍を倒したマルクス・クラウディウス・マルケルスである。しかし結果はともかく、どの将も「名誉の戦利品」を奉納する栄誉を得ようとした。その野心はユピテル・フェレトリウス(戦利品をもたらすユピテルの意)の祭儀を通してローマ人の胸に深く根付いていた。おそらくロムルスが自らの戦利品を献納するためにローマに建てたものが最初のユピテル・フェレトリウス神殿であった。彼はリウィウスが記している有名な祈りを奉げた。

“勝利者なるロムルスはここに、敵の王より奪った戦利品をユピテル・フェレトリウスに捧げる。またこれらの名誉の戦利品を納めるため、余自ら計画し境界を定めたこの聖域に宮を建てる。他の倒れた敵の王や将軍たちから奪った戦利品もそこに納められる”



(共和政ローマの成立)


 エトルリア人の王が統治している間に、外国人の技術者や商人がローマ社会に編入され、経済発展と新規の建築事業という有利な環境の下、その地位を向上させていた。一方で多くのローマ人は依然として借財に苦しみ、自分の土地を失っていった。双方の集団とも不満を持っていた。前者は貴族(パトリキ)が特権を保持して、政治参加の機会が限られていたためで、後者は自分の悲惨な状況ゆえである。同じ頃、約50の氏族に属していた貴族たちは、この王政に対して不満を抱いている新興の集団を利用して王政を打倒し、自らの権力を強化しようと考え始めた。BC509年は伝統的にローマの最後の王タルクィニウスが追放された年とされている。詳細は不明であるが、エトルリア人の支配が終焉し共和政ローマが誕生したのはBC6世紀末であったと考えられる。ローマの少なくとも貴族たちは自由を手にした。平民(プレブス)は、貴族の集会である元老院議員に誰が選ばれようと文句は言えなかった。毎年2人の執政官(コンスル)が選出されるのも元老院の中からであった。そして、1年任期の2人の執政官はローマ市における意思決定者であった。ローマは執政官が指導する共和政体になったが、現実に政府を支配したのは相変わらず貴族たちであった。その後の200年間、ローマは貴族と平民の闘争の場となった。セルウィウスの改革の結果、市民団は財産評価に基づいてケントゥリア(百人隊)と呼ばれる集団に分けられ、それぞれの集団の軍務が決められた。裕福な平民やさまざまな種類の武装が可能なすべての者が、軍事的に重要になった。彼らが戦うことを拒否したり、戦いから離脱するという脅しが、貴族に対して効力を発揮することになった。共和政樹立後、数十年して貴族と平民の対立は表面化していく。


 BC509年に共和政が誕生した後、古代ローマの共和政は450年ほど続いた後に終焉を迎え、その後、事実上の君主制(いわゆる帝政)へと移行する。しかし、かなりの長期にわたって名目上は共和政の政治体制が存続した。ローマの人びとにとって、市民が王政を打倒した共和政初期は、誇りにすべき「古く良き時代」であり、後世から帝政と呼ばれるような時代になっても、その頃の政治体制が継続している形を取ろうと努力し続けたからである。この「共和政の衣をまとった君主制(帝政)」によって、ローマ帝国は領土を大きく拡大し、その土壌の中からキリスト教文明と、後のヨーロッパ世界が誕生することになる。そして古代ローマ文明の遺産は、古代ギリシャ文明の遺産と共に遥か後世に出現する近代社会の土台をつくることにもなった。古代ギリシャ文明の遺産の多くはローマを通じて後世に伝わることになる。例えば、我々が知っているギリシャの彫像の多くは、ローマ時代に模倣されたものである。

 共和政時代のローマに起きた変化の多くは、時代の流れの中で必然的に引き起こされたものだった。時代が進み、領土が飛躍的に拡大するにつれて、旧来の共和政が徐々にほころびを見せ始めた。小さな都市国家を運営していた制度が、巨大な帝国に成長しつつあった現実にそぐわなくなったのは当然の話で、最終的には社会全体が崩壊の危機にさらされてしまった。その危機を救ったのが、後のカエサルとアウグストゥスによって創始された「帝政」という統治システムだったと言える。しかし、BC3世紀末からイタリア半島の外へ進出し始めたローマが、最終的に帝政という新しい統治システムを確立するまでには、2世紀ほどの時間とさまざまな「生みの苦しみ」に直面する必要があった。なぜローマが共和政から帝政への移行にあたってそれほど苦しんだかといえば、ローマの共和政のそもそもの目的が、王政(君主制)の復活を阻止する体制作りにあったからだった。市民が王政を打倒したことに誇りを持つ共和政ローマでは、政権を運営する執政官(コンスル)は1年の任期で必ず2人が就任し、互いに拒否権を持つなど、権力の集中を避けるためのさまざまな仕組みが確立していたのだ。

 共和政ローマの理念を表わす言葉として、「元老院とローマ市民」というフレーズがよく用いられる。ラテン語で「Senatus Populusque Romanus(SPQR)」という。ローマの政治は政権の諮問機関である元老院と、ローマ市民という二大勢力の対立を軸に繰り広げられることになった。制度の上では市民が常に最高の権限を持ち、全市民が参加する複数の集会(民会)によって、さまざまな決定が行われていた。しかし、国家の方針を定め、政権を運営する人材を供給するなで、実質的な権力を握っていたのは、貴族たちを主体とする元老院階級だった。とはいえ、ローマの共和政は、執政官、元老院、民会で構成され、この三者が相互に権限を牽制して均衡を保った。ローマにおける三権分立である。驚くことに、成文憲法はおろか初期には成文法すらなかったのに、時とともに制度は進化し、共和政はローマ史において成功の時代となった。


 共和政初期にも、もちろんさまざまな混乱や政争はあったが、元老院階級と市民の対立はたいてい比較的穏やかに収束したようだ。そして大きな流れで見れば争いが収束するたびに、市民たちの権利が拡大していった。政治の実権を元老院が握る状況に変わりはなかったが、BC300年ごろからは貴族たちに加えて、裕福な平民たちも元老院のメンバーに加わることができるようになった。ローマの共和政とは、実質的には元老院議員による寡頭かとう政(少数指導制)だったといってもよいだろう。元老院といっても、元老院議員の資格は30歳以上と若く、基本的には終身制だった。共和政当初は300人しかいなかったこのエリート集団の中から、さまざまな公職に人材が供給され、その中で特に優れた人が公職の最高位である執政官に選ばれていった。BC6世紀末にエトルリア人による王政が廃止された後、王に代わる国政と軍事の最高責任者として位置付けられたのが、この執政官だった。執政官に選ばれるためには、財務官と法務官という少なくとも二つの要職を経験していることが必要だったため、常に政治的経験を積んだ優秀な人物が執政官に就任した。このようにローマの政界には、下位の職務で経験を積み、有能であることが証明された人の中から高位の行政官が選出されるという優れたシステムが出来上がっていた。このシステムは長期にわたって非常にうまく機能し、ローマの政界には優秀な人材が次々に登場していくことになる。しかし、寡頭政は往々にして階級的な対立を引き起こすものだが、ローマも例外ではなかった。平民がいくら権利を勝ち取ったところで、社会的な果実を手にすることができるのは、ごく一部の富裕層に限られていた。公職に就いて国家を運営することはもちろん、民会における投票のシステムでさえ、富裕層に有利な仕組みになっていた。


<平民(市民階級)>

 ローマ人の演説家たちが盛んに口にした自由の概念は、アテナイ人のそれよりは狭かった。政治的代表権は金持ちと既得権所持者に限られていた。支配者層は社会的身分の固定化に努め、身分の低い者との結婚は望ましくないどころか禁じられた。平民は特定の貴族(パトリキ)を保護者(パトロヌス)とし、その被保護者(クリエンテス)となって仕える代わりにその貴族の保護を受けた。BC5世紀になると一種の身分闘争が起きた。ギリシャにおいてと同様、商人や技術者などの「中産階級」が力を持つようになる。BC494年、平民保護のための「護民官(トリブーヌス)」制度が導入された。その任務は平民を守ることであり、2人の執政官の決定に対する拒否権を有した。また、BC451年に導入された「十二表法」は、貴族による専横な威圧や、没収から平民会のメンバーを保護するいくつかの規定が設けられたが、元老院が下層民に門戸を開くのはBC367年に「リキニウス法」が制定されてからのことであり、執政官の一人が常に平民(プレブス)から選出されるようになるのはBC342年になってからである。


[十二表法]

 BC451年、最初の成文法の制定を任務とする十人委員が組織された。この法が十二表法であり、平民は裁判官を務める貴族による法の勝手な運用から免れ、法は以前に比べて誰に対しても明らかなものとなった。これは口承の法律から、記述された法律への転機となった。その「平板」は12枚の青銅板で出来ており、それに最初の成文法が刻まれた。


 ローマは早くから周辺地域の征服に乗り出しているが、他の国と違っていたのは、戦いで打ち破った相手国の住民にもローマ市民権を与えるようになっていたことだ。ローマ市民の大半は農民であり、ローマ社会もまた農業と農民によって支えられた社会だった。ローマ周辺の農民は、ファルムと呼ばれたコムギの一種、さまざまな種類のキビ、葉物野菜、マメ類を耕作した。オイル用のオリーブやブドウの栽培が導入されたのはもっと後のことである。土地の測定方法が、2頭の牡牛で1日に耕すことのできる面積を単位としていたことを見ても、如何に農業が社会の中で重要な役割を果たしていたかがわかる。後に土地についてはさまざまな改革が行われるが、共和政時代のローマが常に農業国だったことに変わりはなかった。しかし大半が農民だったといっても、共和政時代のローマの自由民の中には、大きな貧富の差が存在していた。当時の自由民は、武器と鎧を自分で調達して戦争に参加する有産階級、子供以外には財産を持たない無産階級、そして財産も家族も持たない人びとに分かれていた。

 BC3世紀からBC2世紀にかけてローマの領土が拡大していくと、小規模の農業を営む平民たちが没落を始める一方で、貴族階級は征服によってもたらされた富を利用して、大規模な農場経営に乗り出すようになる。こうした変化はゆっくりと進行したようだが、このことが農業国家ローマの根幹を揺るがす大問題となるのだ。さらに同盟市となった征服した都市の住民にもローマ市民権が与えられるようになると、状況は一層複雑な様相を見せ始める。市民の数は徐々に増加したものの、階級としての力は低下するという皮肉な結果が生じてしまったのである。市民階級の力が弱体化した原因は、大規模な農場の出現だけではなかった。ローマから遠く離れた同盟市の住民にも市民権が与えられたため、市民が直接参加して決議を行う民会(市民集会)のシステムがうまく機能しなくなっていったのだ。広域国家を運営するすべての機能がローマに集中していたにもかかわらず、イタリア各地のローマ市民はもとより、ローマに住む市民の意志ですら効果的に反映することができなくなっていた。そのため平民(貴族以外の市民)たちは兵役を拒否したり、ローマ以外の別の都市の建設を計画するなどして、元老院から譲歩を引き出そうとした。そうした対立の結果、BC367年の「リキニウス法」制定以降は、すべての公職が平民に解放され、BC287年の「ホルテンシウス法」以降は、平民だけの市民集会である「平民会」の決議だけでも法律が制定できるようになった。またこうした改革の結果、平民によって選ばれる10人の護民官の権限が拡大し、支配階級ににらみを利かせるようになった。護民官は法律を発議する権利と1票でも成立する拒否権を持ち、行政官から不当な取り扱いを受けた市民のために、昼夜を通して交代で任務にあたった。護民官が特に重要な役割を果たしたのは、深刻な社会不安が起こったときや、元老院の内部で意見が対立したときだった。そうしたときには政治家たちも護民官の協力を頼りにしたため、共和政時代を通して護民官は執政官や元老院議員たちと、概ね良好な関係を保つことができたようだ。

 以上のように、さまざまな問題はあったが、基本的にローマの初期の共和政は、少しずつ平民たちに譲歩し、権利を与えていくことで、比較的安定した体制を維持することができた。また共和政初期の執政官や元老院議員には優秀な人材が多く、戦争などの非常時にも優れた指導力を発揮した。そのため、後に深刻な社会問題が起こって共和政が完全に衰退するまで、元老院議員が強大な権限を持ち続けることになった。


[共和政初期の投票制度]

 共和政の投票制度は裕福な貴族階級に有利な形になっていた。一方、軍隊の中核を担うのは職人や農民、多少の資産を持つ市民で構成される平民階級であり、平民階級の不満の爆発はローマの将来を危うくした。平民が問題としたのは経済と政治の2点だった。借金を返済できずに農奴(ネクシ)に身を落す平民が少なくなく、貴族のせいで自分たちの意見が政治に反映されていないというのが彼らの主張だった。平民の不満を解消すべく、2人の護民官が任命されることとなった。護民官は元老院の支配を受けない政務官で、平民の利益にならない元老院の議決を拒否することができた。もともとローマには成文法がなく、裁判官を務める貴族は自分たちに都合がよいように法律を曲げることができた。この悪弊を改めるべく、BC451年にローマにおいて初めて法律が12枚の石板に刻まれた。それが十二表法である。



(イタリアにおけるローマの勢力拡大)


 BC6世紀からBC5世紀までのローマはイタリア中部の中規模都市国家に過ぎなかった。エトルリア人による支配をはねのけながら、ラティウムの後背地にある他の都市と、必ずしも友好的ではないが緊密な関係を保っていた。共和政初期に存在した優れた政治システムのお蔭で、ローマには暴力的な革命は起きず、社会は穏やかな変化を続けていった。さらにローマの共和政は、大規模な領土の拡大に成功したことでも評価されている。BC6世紀末に誕生したばかりの共和政ローマは生き残るため軍事的拡張主義の道を進み始めた。BC5世紀のローマは、ラテン人諸都市の連合体であるラテン同盟のリーダーとして戦争に明け暮れた。BC396年、ローマの北西、テヴェレ川の対岸に位置するエトルリア人の重要な都市ウェイー(現在のヴェイオ)が陥落し、大きな転換点となる。BC351年、エトルリアの12都市連合の中の大国タルクィニアとファレリーの両市も陥落。タルクィニアはかつてローマを100年間支配し、その王を輩出していた都市国家である。エトルリア人に対する勝利を確信したローマ人は、矛先をラテン同盟の仲間であった、北隣りのウンブリア人、南隣りのサムニウム人に向けてこれを征服、中部イタリアの覇者となった。そして、BC4世紀初めからBC3世紀半ばまでの150年足らずの間に、エトルリア12都市連合すべて、つまりエトルリアの全域もローマの支配下に置いた。

 ローマは征服した都市を「同盟市」とし、自治を認める代わりに、ローマの外交政策に従うことと、ローマ軍に兵士を提供することを求めた。代わりに各地の支配階級を温存し、一般の住民たちにも一定の条件を満たせば市民権を与えた。こうした対外政策によってローマは、それまでイタリア半島に大きな勢力を広げていたエトルリア人に代わって、イタリア半島中部の支配者として君臨することになった。征服を重ねるにつれ、ローマ軍は次第に強大になっていった。ローマでは徴兵制が採用されており、財産を所有する男性市民は全員、招集があれば兵役に就く義務を負わされていた。兵士たちは5000人を単位とする軍団に属し、長い槍を手に密集方陣を組んで戦った。しかし周辺都市を次々に征服していったローマにBC390年、ローマの町を占拠されるという大事件が起こった。北方から侵入したケルト人との戦いに敗れたのだった。カピトリヌスの丘だけは持ちこたえたが、戦いによって市街は破壊された。ケルト人は7ヶ月後に大量の黄金を手に引き上げていったが、異民族に征服された傷跡は長く残った。


[ケルト人・ガリア人]

 ケルト人はBC8世紀からBC5世紀の間にヨーロッパの中央部から拡散した。彼らは中部ヨーロッパに豊富にあった岩塩と鉄の鉱脈を産物として活用した最初の人びとだった。現在のオーストリアのハルシュタットとスイスのラ・テーヌが初期ケルト文明の主要な二つの中心地であった。ハルシュタットの墓から出土した鉄の長剣と短剣と槍、それに青銅製の式典用の容器などの副葬品は、ケルト人の金属細工の職人としての能力の高さを示している。ケルト人は後に現在のフランスとベルギーに広がり、先住民と混淆してガリア人となった。


 この屈辱がローマ人の政治意識に深く影を落とした。それ以降、敵になりそうな相手は徹底的につぶし、服従させることがローマ外交の基本方針となる。その後、BC367年の公職を平民に解放する「リキニウス法」などで平民階級の力を増大させたローマは、再び態勢を立て直し、勢力を拡大していく。BC300年には、ローマ人はイタリア中部をかなり掌握していた。エトルリア都市の同盟を解体し(BC357年~BC353年)、ラテン人の反乱を制圧し(BC340年~BC338年)、イタリア南部のサベリー系部族連合を敵に回したサムニウム戦争(BC343年~BC290年)にも勝利して、勢力範囲を守った。


[サムニウム戦争]

 BC343年、イタリア南部カンパニア地方のエトルリア人の町カプアがサムニウム人の脅威を受けローマに援助を求めた。ラテン同盟の町とともにローマ軍は救援に急行した。ここに、BC290年まで続くことになるサムニウム戦争が勃発した。3つの時期に区切って語られるこの戦争は、激烈な戦闘の連続だったが、結局ローマの勝利で終わった。第1次サムニウム戦争と第2次サムニウム戦争の合間に当るBC340年には、ローマ市民権付与の要求を拒絶されたラテン人たちが武力蜂起したが、2年後、それを鎮圧したローマ人はラテン同盟を解消し、この同盟に参加していた都市と個別の同盟を結び、それぞれ関係を持つこととなった。緒都市の条件と権利は、場合に応じて異なり、立地条件やローマに対する友好と忠誠、そして利害関係に基づいて決められた。ローマ人は従属させた諸都市が団結すれば恐るべき敵になるかもしれないということに気づいていたために、このように個別に同盟を規定する方針を決めた。これは賢明な行動だった。第3次サムニウム戦争はBC298年からBC290年まで続いたが、ローマはこれにも勝利した。サムニウムを打ち破ると、次に南イタリアで繁栄しているギリシャ人地域への進出が可能となった。


[アッピア街道の建設者記念碑文]

“カイウスの息子アッピウス・クラウディウス・カエクス、監察官(ケンソル)、執政官(コンスル)を2回、独裁官(ディクタトル)、空位期間中の執政官(インテルレックス)を3回、法務官(プラエトル)を2回、造営長官(アエディリス・クルリス)を2回、財務官(クアエストル)、軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)を3回努める。いくつかのサムニウム人の要塞を占拠し、サビーニ人とエトルリア人の軍を敗走させた。ピュロスの王と講和を結ぶ。監察官としての任務中にアッピア街道を建設し、ローマへ水を送るアッピア水道を敷設。またベロナ(戦争の女神)神殿を造営する”

 アッピウス・クラウディウス・カエクスの輝かしい業績を記した碑文。そこにはローマの高位行政職名がいくつも並んでいる。指導的ローマ人は純粋なまでに「公共心」旺盛であった。たとえ究極的には自分のために行ったとしてもである。栄誉や名声は公共のために尽くすことによってこそ得られるものだということを、彼らは知っていた。

 アッピウス・クラウディウス・カエクスはBC340年ごろ、共和政ローマの比較的初期に生まれた。当時のローマはまだ周辺部族に存在を脅かされる1地方勢力に過ぎなかった。皮肉なことに、彼の先祖はローマに帰順したサビーニ人だった。サビーニ人はサムニウム戦争でローマが戦った敵の一味である。アッピウスの碑文にあるように、サムニウム人はサビーニ人やエトルリア人と連合して、イタリア中部の覇権を握ろうとした。BC312年、アッピウスは野心的な公共事業に取り掛かる。彼は山地から首都ローマへ新鮮な水を運ぶ最初の大水道、「アッピア水道」を建造した。また、首都とイタリア半島を縦断して南端のブルンディシウムを結ぶ「アッピア街道」を完成させた。このローマ時代に建造された最初のそして最も有名な街道はローマの経済発展に大きな働きをしたが、元々は軍事目的のために造られたのである。BC280年、アッピウスは突然視力を失う。彼は呪いにかけられたのだという噂が流れ、カエクス、すなわち「盲人」が彼の添え名になった。BC273年、彼は深い悲しみのうちに息を引き取った。


 そして、いよいよローマ軍が戦うべき相手は、南イタリアやシチリア島で繁栄を謳歌するギリシャ植民市となった。ローマ人はギリシャ人と敵対しながらも、彼らの洗練された美術や文化は高く評価していた。ローマがこの地域、マグナ・グラエキア(大ギリシャ)に進出する機会はタレントゥム(現在のタラント)によってもたらされた。同じ南イタリアのトゥリイの救援要請に応じてローマの駐屯軍が派遣されると、この一帯で最大にして最も栄えていた町タレントゥムは激しく動揺し、BC282年にローマに対して宣戦布告した。ローマに対抗するためタレントゥムは、ギリシャ北西部のエペイロス地方の王ピュロスに救援を求めた。アレクサンドロスの親類でもあるピュロスは南イタリアとシチリアの全てのギリシャ人をまとめることで、地中海中部にカルタゴに対抗できる大ギリシャ人勢力を形成するという夢を実現しようとした。そのためタレントゥムの救援要請に応じてBC280年、大軍を率いて対岸のイタリア半島に渡った。ピュロスはローマ軍と遭遇次第これを撃破したが、そのたびに大損害を受けた。そのため今日なお、「ピュロスの勝利」という慣用句が使われているほどである。ローマ人はピュロスと和平交渉を始めた。ピュロスは数々の戦いでローマ人を破ったものの、それを足がかりにすることができず、結局はイタリアから撤退することになった。その結果、南イタリアにいたギリシャ人たちは無防備状態に陥り、ローマに少しずつ征服されていく。こうしてBC265年には、イタリアのほぼ全域にあたる北のポー川から南のイオニア海までがローマの支配下に入った。マグナ・グラエキアの征服とギリシャ文明との直接的な接触は、ローマがギリシャ文明の本質を学ぶことを可能にした。それまでは、ローマ文化に対するギリシャの影響は大きかったものの、未だ断片的だった。しかし、ギリシャ文化との直接的な接触は、当時まだはっきりとした芸術的・文学的独自性を持たなかったローマ文化に、強い刺激を与え発展させた。その結果、一地方の文化に過ぎなかったローマ文化は隆盛への道を歩み出すこととなった。


 この時代、ローマ人だけが地中海で領土拡大を狙って戦いを繰り返していたわけではない。ローマ人と他のライバルとの最大の違いは、エリート層の結束力だった。危機に直面すると、彼らはそれまでの論争を止めて指導者の下で直ちに一致団結した。だが、それ以上に成功の鍵となったのは、一定の条件を満たせば、ローマが市民権を気前よく与えたことだろう。ローマは国として順調に成長を続け、軍事力も増大していった。BC367年からBC267年までローマの軍団はほぼ毎年戦いに従事している。ただ共和政時代のローマには海軍力が不足していた。南イタリアにあったギリシャ系都市国家を征服してからは、当然のことながら海外雄飛が視野に入ってくる。次なる狙いはシチリア島だった。ここは経済的にも戦略的にもぜひ手に入れたい拠点である。こうなるとローマの利害が、当時の海洋大国だったカルタゴと衝突することは避けられなかった。カルタゴとその植民都市を圧倒するするためには、ローマは一から艦隊を組織し、海戦の戦術を身につけねばならないが、ローマはそれをやってのけた。

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