第114話 エトルリア文明とローマ

<年表>

BC9世紀~BC8世紀 中部イタリアでヴィラノーヴァ文化が繁栄。

BC8世紀 サルディニア島、シチリア島西部にフェニキア人の植民地が作られる。南イタリアにギリシャ植民地が作られる。

BC7世紀 エトルリア地域に都市国家が誕生。エトルリア出身の王がラテン人のローマの統治を始める(BC616年)。

BC6世紀 エトルリア文化の最盛期。フェニキア人のカルタゴがエトルリアの海軍と組んで、コルシカ島沖の海戦でギリシャ人を破る(BC535年)。エトルリア人によるローマ統治がローマ人によって終止符が打たれ、ラテン人がローマの支配権を握る共和政ローマの誕生(BC509年)。

BC5世紀 エトルリアの衰退の始まり。南イタリアとの陸上の交易路がローマの発展により遮断され、海上交易もBC474年にシュラクサイとの海戦に敗れて以降難しくなった。

BC4世紀~BC3世紀 ローマによるエトルリア12都市連合体の解体(BC396年~BC264年)。

BC2世紀 エトルリア文化はローマに吸収され、ローマを通じてさまざまな形で後世に伝えられることになる。

BC91年~BC88年 同盟市戦争。ローマの同盟市が結束して市民権を求めて蜂起した結果、ローマ市民権がエトルリア人にも与えられた。

BC27年 ローマのアウグストゥスは、ローマ人が治めるイタリア国家を11の地方に分割し、その第7区がその地域に住む民族の名称エトルスキからエトルリアと名付けられた。


 ***


 BC7世紀後半、エトルリアはローマを支配し、イタリア中部を中心としてイタリア半島のほぼ全域に勢力を伸ばすなど最盛期を迎えた。草創期のローマに文字を伝え、ワイン醸造技術などの文化や芸術、建築、占い術をローマに持ち込んだ。またローマ市街を建設するなど、ローマ帝国が後に地中海世界の中心となる基礎を築いた。だが皮肉なことにその後、ローマによってエトルリアの都市国家群は征服され、その文明は歴史の舞台から消えた。1800年後の紀元後12世紀にチェルヴェテリ墓地が発見されるまで、人びとはエトルリア文明の存在すら知らなかった。チェルヴェテリ墓地には約6000基の墓が存在する。その一部には内部に美しい壁画があり、BC6世紀の暮らしをうかがうことができる。エトルリア人は死後の世界を信じて、生前暮らしていた寝室や広間(アトリウム)、玄関を墓の中に再現していた。


 エトルリア人はギリシャ人から「テュレノイ」と呼ばれていたが、エトルリア人自身は自分たちのことを「ラセンナ」と呼んでいたようだ。またラテン語では「エトルスキ」あるいは「トゥスキ」と呼ばれたこの民族は西地中海で最初の都市文明を作り上げた。エトルリア文明はイタリア中部でBC9世紀からBC2世紀まで約700年にわたって続いた。この都市文明はエトルリア人を介して北イタリアと北東イタリアの民族に伝播した。南イタリアとシチリア島は別の展開となり、ギリシャに植民地化され、いわゆるマグナ・グラエキア(大ギリシャ)に加わった。但し、シチリア島の3分の1にあたる西部はすでにフェニキア人の植民地となっていた。エトルリア文明はフェニキア人やギリシャ人からさまざまな影響を受けながら、独自の文化を発展させた。それらはエトルリア人によってローマに引き継がれた。


エトルリア文明は3期に分けることができる。

1期(BC9世紀~BC7世紀前半):ヴィラノーヴァ文化、エトルリア文化形成期

2期(BC7世紀後半~BC6世紀):エトルリア文明の最盛期

3期(BC5世紀~BC2世紀):エトルリア文明の衰退期


 エトルリアは北をアルノ川、東をアペニン山脈、南をテヴェレ川、西をティレニア海に囲まれた地域で、今日のウンブリア州とトスカーナ州の一部、そしてローマへと流れるテヴェレ川の右岸地域に相当するラツィオ州の一部を含んでいる。商業的・政治的には、エトルリアの影響は南イタリアの現在のナポリがあるカンパーニア州と北イタリアのポー川流域にも及ぶ。イタリア半島の西のティレニア海は、ギリシャ語では「テュレノイ」と呼ばれた。エトルリア人がその沿岸に住んでいたことからそう名付けられた。


 エトルリア文化の中心地はイタリア中部、現在のトスカーナ地方にあった。そこは降水と太陽に恵まれ、農業に非常に適した土地であり、穀物、オリーブ、ブドウ、カシューナッツなどがよく育った。だが、フェニキア人がエトルリアに対し関心を抱いた一番の理由は、その地域が錫・鉛・銅・銀・鉄鉱石などの鉱物資源に富んでいたことである。その西にあるティレニア海のエルバ島は鉄鉱石の主要産地であった。これらの金属の精錬に欠かせない燃料は、近くのエトルリアの山の木を切り出すことで容易に入手できた。


 ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアからイタリアに入植し、ギリシャ人が西進してきたときには、イタリア半島の大部分を支配していたという。西地中海へのこうしたギリシャ人の進出はカルタゴ人とエトルリア人の反感を買い、BC540年ごろ、ケルト12部族連合はフェニキア人と共同で、コルシカ島のギリシャ人入植者たちの追放を図り成功した。さらにBC535年、フェニキア人都市国家カルタゴとエトルリアの連合船隊がサルディニア沖で小アジアのギリシャ人都市国家フォカイアの船隊と海戦を行い破った。その結果、フォカイア人たちは多くの船を失い、コルシカ島を放棄して南イタリアへ撤退した。フォカイア人たちはイベリア半島においてもカルタゴの勢力に押されてその拠点を放棄したが、マッサリア(現在のマルセイユ)を中心としたガリア沿岸とイベリア半島のカタロニアの拠点は固守した。カルタゴ人もエトルリア人も西アジアから移住してきて、どちらも新興のギリシャ民族よりもはるかに古い文化を持ち、どちらも鉱石に関してギリシャ人の競争相手だった。

 フェニキア人とローマ人との対立の時が到来するまでのフェニキア人とイタリア半島との関係は順調であった。例えば、彼らはイタリア中部に住むエトルリア人と友好関係を保った。それは、ヨーロッパで最も謎に包まれた民であるエトルリア人について比較的よくわかっていることの一つである。長い間、エトルリア人は小アジア方面から移住してきたと考えられてきた。彼らの起源についてはわからないことだらけなのに、彼らの文化には明らかに西アジアの影響が見られる。エトルリア人の初期の歴史は依然不明だが、彼らの文化はBC9世紀~BC8世紀に中部イタリアで栄えたヴィラノーヴァ文化から発達したものであり、彼らの西アジア的遺物はその後の何世紀にもわたる交易の過程で外から輸入されたというのが現在の大半の学者の見解である。


 エリトリアの貴族たちは、彼らの墓から出土した財宝が示しているように非常に多くの富を蓄えた。彼らはイタリア中部の民と盛んに交易し、さらに南のカンパニア地方にまでその影響力を広げた。しかし、エトルリアを単一国家を目指す民と見なすのは誤りである。彼らは、最初はギリシャ人のように文化的伝統を共有しながら政治的・経済的には独自に行動する都市国家集団だった。後のローマの文献によれば、エトルリアに12都市連合のような組織が形成されるのはBC7世紀末になってからで、その連合は宗教的かつ政治的なものだった。毎年、各都市を代表する君主や王が集まって祭儀を執り行い、翌年における連合としての方針が話し合いで決められた。

 エトルリアの勢力範囲が拡大するにつれ、イタリア南部沿岸に植民市を建設していたギリシャ人と衝突するようになる。ギリシャ人はエトルリア人をティレニアの海賊と呼んで、彼らに対する妬みやライバル意識を露わにした。エトルリア人は酒宴の席に女性を伴い、一緒に横臥おうがして飲み食いしたり踊ったりしたが、これもギリシャ人の目からすれば嫌悪すべき風習だった。エトルリアの女性は地位が高く、教養を身に付け社会的に活躍する女性も少なくなかった。とはいえ、ギリシャ人のプライドがエリトリア人との交渉を全く許さないほど高かったわけではない。むしろギリシャ人の陶工や金細工師はエトルリアの町に住み込んで、地元の職人に影響を与えた。エトルリア人はギリシャからの贅沢品を進んで求めたし、ギリシャ語アルファベットを採用して自分たちの言葉を表現した。今日、学者たちはエトルリア語碑文の全ての文字を読めるが、内容が十分に理解できていないという矛盾を抱えている。エトルリア人自身優れた芸術家であり職人であった。エトルリア人の墓を飾る壁画は古代の名作といえる。エトルリアの薄手で精緻な黒色ブッケロ式陶器や美しい青銅製品は、地中海世界のあらゆるところに輸出された。

 その後に来るのは、ローマ人による勢力拡張と全イタリア統治の時代である。エトルリアの諸都市は征服されて、その連合組織は粉砕され、エトルリア人の文化的アイデンティティは抹消された。高度に洗練された文化的足跡を歴史に残したこの民族は、共和政ローマからは支配されて然るべき野蛮な僭主せんしゅ集団と見なされた。



(エトルリア人とその文化)


 古ヨーロッパの民族の中で、注目すべき民族が一つだけあった。彼らは「オリーブ栽培線」の南側である中部イタリアに定住し、早くもBC8世紀にはイタリア南部のギリシャ人やフェニキア人の植民市と交易を行っていた。それから200年の間に、ギリシャのエウボイア人から借用した西型のギリシャ文字を使って自分たちの言語を書き記し、イタリア中部に数多くの都市国家を建設して、優れた芸術作品を生み出すようになる。エトルリア人と呼ばれる民族である。

 エトルリア人は碑文を含む多くの考古学史料を残しているが、彼らの文化の実態は今なお謎に包まれている。エトルリアが誕生した時期についても、BC10世紀からBC7世紀まで、研究者によって意見はさまざまである。そもそもエトルリア人がどこから来たのかさえはっきりしていない。小アジアなど、いくつかの説がとなえられているが、どれも確かな証拠はない。


 エトルリア文化はギリシャ人の目には極めて異質に映ったようだ。ギリシャ人にとってエトルリア人は商売上かつ最終的には軍事上のライバルであった。エトルリア人の墓からの異国風の出土品の数々、ダチョウの卵、象牙、宝石類、金や銀を用いたライオンやスフィンクスで飾られた装飾品、エジプト製の陶器などは明らかにイタリア産でもエトルリア人が作ったものではない。それらはフェニキア人が東方あるいはアフリカの入植地からエトルリアにもたらしたものである。エトルリア人がフェニキア人を通して輸入しなかったのは、エトルリア人の言語のみであったようだ。 


 BC9世紀からBC2世紀にかけてイタリア半島中部を中心に活躍したエトルリア人は、「謎に満ちたエトルリア人」といわれてきた。しかし、近年の研究によって謎の多くが解明されるにつれ、それらの謎がエトルリア人および彼らの文化に関する誤解や偏見に起因していたことが明らかになってきた。

 これまで最大の謎とされてきたのはエトルリア人の起源に関してであり、すでに古代から二つの説があった。一つはエトルリア人がアナトリア西部のリュディアから渡来したとするヘロドトスの伝承である。それはエトルリア人がエーゲ海域と交易関係を持っていたとするギリシャのアルカイック期(BC800年~BC500年)に遡る説であり、ペラスゴイ人(初期のミュケナイ人)と同一視された。一方、イタリア半島の先住民族であるという説は、ローマのアウグストゥスの時代(紀元ごろ)に小アジアの南西部にあるハリカルナッソスのディオニュシオスの考えを展開させたものである。エトルリア民族はさまざまな要素の相互作用の所産であり、単一の起源を探ることには無理があるようだ。


[エトルリア語]

 エトルリア人は文字も持っており、おそらくギリシャ人から学んだと思われる。エトルリア人の起源と同じように、エトルリア人の言語も長い間謎めいたものとして捉えられてきたが、実際はエトルリア語を読むのは難しくはない。なぜならエトルリア語は、ギリシャ人がもたらしたアルファベットを少しだけ調整を施して採用したからである。文字は基本的に右から左へと書かれている。しかし、エトルリア語が死語となってから2000年余り経っており、さらに碑文などに残された文字資料そのものの内容が不十分なため未だに部分的な解読に留まっている。そのギリシャ文字は、よく知られている東型ではなく、より古い西型で、それをそのまま受け継いだ。エトルリア文字は26文字で左向きに横書きする。エトルリア語はインド・ヨーロッパ語族ではない。エトルリア語は今なお極めて不完全にしか理解できないが、その形態体系は以前よりもよく記述できるようになった。その結果、エトルリア語は、インド・ヨーロッパ諸語の一つであるラテン語などを含むイタリック語派ではないことは確かであり、インド・ヨーロッパ諸語が確立される以前に地中海沿岸で使われていた諸言語の基層に属すると考えてほぼ間違いない。


 地中海世界の歴史を最も早くから記述したギリシャ人は、エトルリア人を重要な交易の相手とする一方で、円滑な交易関係が結べないとき、エトルリア人は残虐な海賊行為に走ると非難し、民族としての残虐性、狂暴性を喧伝した。BC8世紀にギリシャ人が南イタリアやシチリア島に進出し始めたころ、エトルリアはすでに自分たちの土地へのギリシャ人による植民市建設に対して抵抗できるだけの勢力を持っていた。ギリシャ人は他所では紛れもなく、土着民の土地を奪いかねない征服者だった。両者の接触が常に平和的だったというような幻想を抱いてはならない。しかしながら、エトルリアとギリシャ世界との交流は、幸いにもほとんどの時期を通じて平和裏に行われ、エトルリア文明の飛躍的発展を促した。

 エトルリア人も自らの歴史を記したことは、ローマの文献などで判明しており、そこでは全く違ったエトルリア人像が書かれていたかもしれない。しかし、エトルリア語が死語となったときからそれらの歴史記述も完全に姿を消してしまった。さらに、ティレニア海の制海権を争ったシチリア島のギリシャ人の植民市シュラクサイは、その覇権主義故にエトルリア人を徹底的に否定し、ギリシャ人の倫理道徳に反する快楽主義や軟弱さをことさらに強調した。以上のような誤解と偏見はエトルリア人の世界を他者から見た結果であり、他者からの記録しか残っていないためである。もちろん、かすかな記憶を基にエトルリア人の歴史を書く残そうと努めたローマ人がいなかったわけではなかった。ウェリウス・フラックスの「エトルリア人の歴史」や第4代ローマ皇帝クラウディウスによる「テュレニカ」などだが、それらもことごとく失われてしまった。


〈エトルリアの鉱物資源〉

 エトルリア人が他の民族から注目を集めるようになったのは、BC9世紀ごろからである。その理由は、彼らが住む土地のポプローニア山地とその沖にあるエルバ島、さらに南にあるトルファの山々に産出する鉄、銅、錫などさまざまな鉱物資源が採れるからだった。特に鉄と錫はギリシャ人にとって貴重な金属で、鉄は農具や武器を作るためにいくらあっても十分ということのない金属であり、錫は青銅を作るために不可欠な金属だったからである。エトルリアの歴史上、鉱物資源は重要なものである。竪穴や横穴を掘り、鉱石を搬出するまでの採鉱の仕事に必要なツルハシ、ハンマー、木槌、のみ、ショベルなどはすべて手製の道具が用いられた。採鉱と冶金術は密接に関係していたのだ。ギリシャ人はエトルリアで採れるこれら貴重な金属を安定して手に入れようと、BC775年ごろナポリ湾の外に浮かぶイスキア島にピテクサイという名の定住地を建設し、ギリシャ本国とエトルリアとの交易を中継した。エトルリア人は、金属のインゴット(塊)を輸出する見返りとして、ギリシャの優れた陶器、貴金属製品、象牙細工などの工芸品を手に入れた。特に当時は、幾何学文様で装飾された陶器類が中心で、BC6世紀になるとアッティカの黒色の絵付け陶器が中心となった。


〈ギリシャ文化の摂取〉

 このように物と物との交易が盛んになると、当然の結果として人の交流も活発になり、ギリシャの進んだ技術や農作物の栽培方法も伝わってきた。例えば、BC9世紀には轆轤ろくろの使用が、BC8世紀前半にはブドウの栽培方法が、そしてその後半にはオリーブの栽培法が伝わった。穀物以外の農産物を貯蔵食品に変える技術を持っていなかったエトルリア人にとってブドウをブドウ酒に醸造し、オリーブの実から油を抽出することは新たな貯蔵食品の確保を意味した。実際、エトルリアではBC6世紀にブドウとオリーブを栽培するようになっていた。ギリシャからもたらされたこれらの加工技術や栽培技術によって、エトルリアの農業は大きく発展しただけでなく、余剰農産物は、サルディニア島、コルシカ島、南ガリア(現在のフランス)へも輸出されるようになり、エトルリアの経済基盤を拡大させ充実させることに大きく貢献した。



(ヴィラノーヴァ文化前期:BC9世紀~BC8世紀前半)小規模集落の時代


 エトルリア文明の始まりはBC9世紀に遡るが、それはヴィラノーヴァ文化の兆候が初めて現れた時期と一致する。BC8世紀にイタリア半島西海岸にたどり着いたギリシャの入植者たちは、そこにすでに栄えていた地元のエトルリア文化と出会うことになる。ギリシャ人の常として彼らはそうした先住の民族を野蛮な海賊程度にしか見なかったが、その土地の鉱物資源(錫・鉛・銅・銀・鉄鉱石など)は欲しかった。そこは鉱物だけでなく、肥沃な土地と気候にも恵まれて農業が栄えていた。こうした外来の民との交易により、エトルリアの鉄器時代文化は急速に発展した。19世紀にボローニャ近くのヴィラノーヴァで鉄器時代の遺跡が発見され、それはヴィラノーヴァ文化と呼ばれた。BC9世紀からBC7世紀前半までの時代は、美術の上では前期と後期に分けることができる。前期は、ヨーロッパ中部からイタリア北部にかけて普及する「骨壺の原文化」の美術との共通性が多く、エトルリア特有の要素を見出すことが難しい時代である。一方、後期は後のエトルリア特有の要素となるようないくつかの要素が萌芽する時代である。

 ヴィラノーヴァ時代のエトルリア人は初期鉄器文化の段階にあり、二つの円錐形の底を重ね合せたような特徴のある骨壺に遺骨を納める火葬文化で、その前期では、自然の要塞である丘の上に小規模な集落をつくって住む、未だに貧富の差があまりない社会だったと推定される。しかし、後期には集落規模も拡大し、一部の家族に富が集中する段階に入る。おそらく農業や商業だけでなく、ギリシャ人との接触によって鉱業も経済活動の重要な分野に成長したためだろう。その時代になると、単純な土器で出来た骨壺だけでなく、住宅を模した青銅製の豪華な骨壺も出現するようになる。集落の首長が住んでいた、鳥をかたどったと思われる屋根飾りを持つ家は、当時としては豪壮な住宅を表わしていた。


 BC8世紀前半に、ヴィラノーヴァ文化に一大事が起こった。ギリシャ人のイタリア南部カンパ―ニア地方(現在のナポリ周辺)への到来である。ギリシャのエウボイア島のギリシャ人は現在のナポリ湾の沖合に浮かぶイスキア島のピテクサイに交易拠点を築き、少し遅れてエウボイア島の都市カルキスのギリシャ人が現在のナポリ近郊のクマエに植民市を建設した。ギリシャ世界との接触により数多くの輸入品がエトルリアにもたらされるとともに、大勢の職人や商人が移り住んできた。彼らは鉱物資源の豊富な地域、例えば、ラツィオ地方のトルファ山地、トスカーナ地方の西のカンピリア一帯の丘やエルバ島などを支配下に置くエトルリア諸都市の経済的な将来性に魅せられたからにほかならない。

 このようにBC8世紀前半に、エトルリア人は古くからのフェニキア人との関係と同様に、ギリシャ人との関係も築き上げ、その結果、ギリシャとフェニキアの装飾モチーフやさまざまな造形の技を使いこなすようになる。さらにエトルリア人は、ギリシャとフェニキアの文化全体を取り込み始め、やがて社会に文字や新しい正餐せいさんの形式、そして英雄葬祭の観念などが浸透した。こうした新しい貴族的な生活様式は従来の社会の性質を大きく変化させた。ホメロスは叙事詩の中で、正餐の儀式を中心に世の中を描いている。肉やブドウ酒のような象徴的な食物は特別な場面にしか現れない。しかもそれが供されるのは、ある一定の儀式に限られている。特に肉は、古代の人びとに食されることは滅多になかった。歴史時代には、酒食を饗することに重きを置く「正餐」と、演説や儀式などを伴う「酒宴」は明確に区別された。社会参加と人間関係の形成の場として重要な酒宴は、創意あふれる高貴な生活様式の一つとして捉えられていた。それを実現したのは、社会に新しく出現した正真正銘の貴族階級であった。



(ヴィラノーヴァ文化後期:BC8世紀後半~BC7世紀前半)首長の時代


 いくつかの集落が集まって大集落を形成し、首長ともいうべき権力者が出現するBC8世紀後半からは、つまりヴィラノーヴァ時代後期はエトルリア文化の形成期となる。後の時代にナポレオンが流されたことで有名なエルバ島やその対岸のポプローニアでは、鉄鉱石の採掘と製鉄が行われるようになり、首長たちの権力と富は急激に拡大した。骨壺と僅かな副葬品だけを埋葬した簡素な墓が、直径10メートルを超える墳丘墓に変わり、その墓室には金製の装身具など豪華な副葬品が納められた。これらの見事な副葬品のうち、古いものはフェニキア製やギリシャ製などの輸入品が多く、新しいものはエトルリアで作られたものが多い。東方からの交易によってもたらされた贅沢な品々を真似て、同じような贅沢品を作れるだけの技術をエトルリア人が短期間に獲得したことを物語っている。特に金の装飾品の数々は「東方化様式」と呼ばれ、エトルリアの職人の優れた技巧と豊かなセンスを示している。実際、彫金と打ち出しの技術においてはエトルリア人に並ぶ者はいなかった。そしてブロンズを含む金属製品はエトルリアを代表する職人芸の一つと見なされるようになった。この時期には小屋に代わって石造りの家が建てられるようになったが、「東方化様式」の特徴が最もよく現れているのは、名門貴族が建てさせた邸宅である。このような大建築は中庭に面した扉が設けられており、それらは小アジアのトロイア地方で見られる東方のアジア的な家屋様式を模範としている。


 ギリシャ人が彼らに敵愾心てきがいしんを抱いても、エトルリア人は、ギリシャ人がギリシャ本土あるいはさらに遠い小アジアから運んでくる贅沢品の魅力に取りつかれた。エトルリア人の墓からさまざまな種類の副葬品や宝物が見つかるのはそのためであり、エトルリア人の西アジア起源説が唱えられたのもそのためである。墓の副葬品として出土する杯(カンタロス)、水差し(オイノコエ)、ブドウ酒と水を混ぜるための混酒器(クラテル)など一連の重要な陶器から、ブドウ酒を飲む習慣がBC8世紀末までにはイタリア中部のティレニア海沿岸(西岸)地域にまで広がっていたことがわかる。この時代のエトルリアは、社会経済学的、文化的に見て明瞭な階級社会であり、主導的な家族を核とする社会集団を構成していた。彼らは所有する土地を利用して主に農業を営み、さらに牧羊や漁業や狩猟も行っていた。あるいは周辺地域とのさまざまな交易や鉱物資源の開拓を行い、富を築き上げる者もいた。BC7世紀前半から墓室は徐々に大きくなり、それに伴ってその上を土で覆う小高い丘(トゥムルス)の規模は拡大した。象牙、骨、琥珀、金、銀、そしてガラスなどに彫刻した種々の豪華な副葬品は、被葬者の社会的な地位と身分を暗示している。武器や甲冑には立派な装飾が施されるようになった。



(エトルリア文明の最盛期:BC7世紀後半~BC6世紀)都市文化


 イタリア半島では、BC1000年ごろには鉄器の製作も始まっており、彼らは高度な冶金術を発達させていた。鉄製の武器を携えたエトルリア人は、やがてBC7世紀後半からBC6世紀にかけて最盛期を迎え、北はポー川から南はカンパニア平野に到る、ローマを含むイタリア半島の大部分を支配した。ローマではタルクィニア出身のエトルリア人の王が統治したし、ローマとラテン人が住むラツィオ地方全域(ラティウム)の物質文化もエトルリア風だった、詳しいことはわかっていないが、王を戴くいくつかの都市国家が、ゆるやかな連合体を形成していたようだ。この時代、エトルリア人は海上においても強く、カルタゴと組んでギリシャ人の進出を排除し、ティレニア海の制海権を保持していた。


 この時代、恵まれた鉱物資源と商品農業の発達によってエトルリアは繁栄する。ギリシャから学んだ都市型の社会と文化を形成して効率的な経済運営が可能となったためで、真のエトルリア文明が形成された。エトルリアの主要な町の都市構造は、BC7世紀末にはほぼ共通した特徴を持っていた。町は城壁に囲まれ、居住区域が設けられるとともに神殿、公共建築物が建てられた。ギリシャの場合と同様に、都市が一つの国として機能するためにはアクロポリスが不可欠だった。アクロポリスは町の最も重要な場所を占め、貯水槽を擁し、外敵から身を守る戦略的な場所であった。そこに神殿が築かれたように、そこは本来神々に護られた聖域だった。

 社会的発展はこれまでのように単純な貧富の差だけでなく、一般人と区別された貴族階級を出現させ、富と権力の両方を持つ者たちがそれぞれの都市を支配するようになった。実際の戦闘にはとても使用できないと思われる、巨大な頂飾りを持つかぶとのような武具が出現するのは、そのような権威を象徴するためであり、誇示するためでもあった。この種の武具が出土する墓からは時折二輪戦車が見つかることがある。二頭立て、あるいは四頭立ての戦車は、実際の戦争に使用されたのではなく、凱旋式のような儀式にのみ用いられるものだった。兜や戦車が出土する貴族の墓からは豪華な金製の装身具も出土する。鉱物資源に恵まれたエトルリアではあったが、金は産出されなかった。おそらくギリシャ北部のマケドニアやエジプトから輸入された金を用いてエトルリアで作られたものである。金細工の技法自体はギリシャやエジプトに起源を持つが、エトルリアの貴族社会でさらに発展し、当時としては西地中海域で最も高い水準にまで到達している。エトルリア人が宴会を好むようになったのはこの時代からである。ブドウ酒を飲みながらの貴族の宴会には男たちだけでなく、妻たちも同席した。このことはギリシャ人をひどく驚かせたようだ。エトルリア人の夫婦が宴会に参列している場面はBC6世紀後半からの壁画や棺の蓋にもしばしば表わされている。


〈エトルリア人の生活〉

 エトルリア人の生活がどのようなものであったかを知る手掛かりの多くは墓の中にある。例えば、宴会に妻が列席していることはタルクィニアの墓を装飾している壁画にしばしば見ることができるし、宴会で使用した杯や酒を入れる壺も数多く発見されている。これらの杯や壺は、粗末なものやエトルリアで作られたブッケロ式陶器という黒陶のようなものと並んで、ギリシャのアッティカで作られた見事な陶器類も非常に数多く発見されている。現在、世界の多くの博物館、美術館に展示されている膨大な数のギリシャ陶器の大部分はエトルリア人の墓で発見されたものである。それは如何にエトルリア人が富み栄えていたか、そしてギリシャ文化に如何に憧れていたかを示している。その証拠に、ギリシャのエウボイア人から借用したギリシャ文字を変形して、エトルリア文字をBC7世紀末には生み出している。おそらく、宴会のような娯楽やスポーツ競技もギリシャ起源と考えられるが、フェルスと呼ばれる、後の剣闘士競技のような見世物はエトルリア起源だったようだ。


〈占い〉

 現存するエトルリア語で書かれた最もユニークな文書の一つは、ヒツジの肝臓を精巧に模した「ピアツェンツアの肝臓」と名付けられた青銅の塊に刻まれていた。表面は細かくいくつもの部位があって、それぞれの中に異なるエトルリアの神の名前が刻まれている。肝臓縁辺部の16部位は天体の異なる区分に対応しているようだ。古代の人びとは何か冒険をするとき、必ず占い師にそれを開始するにふさわしい吉日を尋ね確かめてから行動に移った。特にエトルリア人の場合それが顕著で、動物犠牲と内臓占いを行ったが、内臓占いの場合、内臓の形を見て将来を占うわけだが、ヒツジの肝臓はそうした「腸卜ちょうぼく」に最もよく使用された動物の内臓の一つである。結婚、家を建てる、商取引をする、病人をかかえる家族、畑の作物の収穫、など先行きに不安を覚える者はみな。腸卜師あるいは祭司に相談した。祭司は相談者に代わって犠牲のヒツジをほふり、肝臓を開けると、その色、感触、そして特に各部位の状態を丹念に調べる。そうした要因のすべてが太陽や星の動きに関係するとされた。祭司は肝臓の状態から得たデータに基づきさまざまな出来事の結果の予測をした。腸卜は天空を走る稲妻や鳥の飛行路による占いと同類で、メソポタミアやヒッタイト、その他古代西アジア世界で非常に古い時代から広く行われていた。一部の学者は、それをエトルリア人西アジア起源説の根拠の一つにしている。


〈不動産文書〉

 現存する最も長く完全なエトルリア語文書の一つ「タブラ・コルトネンシス」は、ある家族から他の家族への不動産譲渡を証明する法的合意文書である。

“以下はペトル・スケウェスの財産として認められるものである。すなわち、オリーブ園、ブドウ園、家屋で、評価額は10タレント。一方、湖畔にあるラリスの末裔、クス家の所有地は・・・約6タレントと10・・・となる。この土地に(金?)4・・・を加えたものが、クス家とペトル・スケウェスの財産を合わせた総価値となる。この約定の証人は以下の通りである。ラルト・ペトルニ、アルント・ピニ、・・・以下12メ名。この約定はラリスのウルカ・クスと息子たち、ラリス・クス、ラリスの末裔たち、ラリスの息子ラリン、ペトル・スケワスとその妻アルントレイにより承諾された・・・。この約定はたった今、クス家のために正式に決められ、法に基づき保管された・・・2通の写しはラリスの子孫、クス家およびペトル・スケウェスの手に渡された・・・。以上の手続きは、ラウスのラルト・ククリナと祭司ツィラト・メクル・ラスナルの立会いの下に認証された・・・”

 これが作成されたのはBC200年ごろと思われる。「タブラ・コルトネンシス」はイタリア中部ウンブリア州コルトナ郊外で発見された青銅書板である。元の書板は高さ50センチ、幅30センチ、厚さ3ミリの比較的重い書板だったが、発見されたときはいくつもの断片になっていた。おそらく溶解するために切断したと思われるが、結局8ヶ所の欠損部分がある。「タブラ・コルトネンシス」は未だ未解読のエトルリア語理解の貴重な資料になるはずだったが、そこに記された契約当事者や証人たちの名前を除くと、テキストは非常に短いものになってしまう。とはいえ、内容は比較的理解しやすい。法律文書らしく表現は単調で、内容も平凡である。しかしながら、エトルリア人とその生活についてほとんど何もわかっていないため、そうした彼らの日常に関わる知識の断片が啓示的力を帯びてくるのである。


〈エトルリアのネクロポリス(死者の町)〉

 エトルリア人は死後の世界を信じていたらしいことが、都市の周辺に残されていた豪華な墓の調査から判明している。家具や織物、武器、調理道具などの副葬品と、数多く描かれていたフレスコ画は、エトルリア人の暮らしと文化を今日に伝えてくれる。エトルリア人は、この世は神々によって秩序が与えられていると考えていた。神々と人間との対話は予言を通して行われたため、エトルリア社会では予言の解釈者たちが重要な地位を占めていた。エトルリア人の来世観は、ギリシャ人のように現世と死後の世界を峻別したものではなく、死んだ後も生きていたときと同じような生活を楽しむことができると考えられていた。故人を送るための宴会でありながら、明るく親しげに宴会を満喫する参会者の姿は、そのような来世観に基づくのである。この時代の壁画は、太く強い輪郭線で人間や動物の形を枠取り、その中を赤、褐色、緑、黒、黄色などで埋めている単純明快な描き方だ。人物の顔はいずれも真横から捉えたもので、まだ笑いや悲しみを表現することはできなかった。ギリシャ絵画においても、人間の喜怒哀楽が表現されるようになるのはBC5世紀に入ってからであり、エトルリアの壁画がそれよりも1世代遅れていたことを考えれば、当然のことだった。


[壁画で装飾された墓]

 壁画で装飾された墓はBC7世紀末から主に南エトルリアの海岸に近い都市で作られるようになる。初期の壁画装飾墓は陶器の装飾文様がそのまま壁面に描かれたような小ぶりで単純なものだった。それがBC6世紀中ごろから、墓室の壁面一杯に人物を描く大壁画に発展する。この時代からBC480年ごろまでの壁画の様式は、小アジアのイオニア地方の壁画に極めてよく似ている。新アッシリア(BC911年~BC612年)やアケメネス朝ペルシャ(BC539年~BC330年)の小アジアへの侵攻に伴い。その地方に住む壁画職人たちが難を逃れてエトルリアに移住してきた結果であると考えられる。もちろん彼らに壁画技法を習ったエトルリア人職人の手によるものもあった。ギリシャ文化を吸収したエトルリア人ではあったが、壁画にギリシャ神話が描かれることは少なく、最も一般的な主題は宴会の場面で、おそらく葬儀に際しての宴と考えられている。


[マラチェーナ碑文]

 墳墓の発掘が古代人との出会いの契機となったと語る考古学者は少なくない。しかし、エトルリア人との出会いでは、最初から最後まで墳墓が決定的な役割を果たしている。実際、エトルリア人の生活や文化は、墳墓を通して見たもの以外、ほとんどわかっていない。おそらく木造だった彼らの家屋は事実上、痕跡すら残っておらず、その後何世紀もの間の都市開発や農耕の過程ですっかり消えてしまい、彼らの墳墓だけが残された。その墳墓は見事で、まさにネクロポリス、すなわち「死者の町」と呼んでもおかしくないほどの規模である。エトルリア人は地上で生活する以上に永く墓で過ごすことを願い、自分たちの墓をことのほか立派で丈夫なものに仕上げた。タルクィニアやチェルヴェテリのネクロポリスでは、軟らかい凝灰岩を刳り抜き芝生でおおった「家」が、普通の町の家と同様、道路沿いに何百と建てられた。かつてそうした墳墓群は隣接する都市のためにあったであろうが、今や生者の都市は消え、死者の町だけがある。ネクロポリスのどの「家」にも入口や窓が彫り込まれ、内部の壁にはどこの家にもある寝椅子、その他の家具類が刳り抜いて作られた。権力者たちの墓の壁は、狩猟、競技会、宴会などの場面を描いた豪華な絵画の装飾が施されていた。死者については、しばしばその姿が墓壁に描かれ、石製や陶製の彫像が作られた。その典型は、まるで死後も生前の宴会がずっと続いているかのように宴会用寝台に横臥する夫婦の像である。エトルリアの女性は死後も男性と対等の立場を享受した。エトルリア美術の中で最も有名なのは、チェルヴェテリ出土の実に素晴らしいテラコッタ製の夫婦用棺である。宴会用寝台の形をした棺の上には、家族や友人たちとの宴会を共にいかにも楽しんでいるような美しい夫婦像が置かれている。

 岩を刳りぬく作業が容易でないエトルリア北部では、立派な墳墓を作るのはエリート層に限られた。岩を矩形に刳り抜いた通常型の墳墓で、石室の天井は中央の柱で支えられていた。墓の入口手前には堂々とした石造りのポーチがあった。石室は、今日「マラチェーナ」の名で呼ばれる特徴的なブルーブラックの陶器をはじめとするさまざまなギリシャ製の宝物で一杯だった。飾り立てられた骨壺も多く見つかった。その中でも特に際立った骨壺に記された碑文から、そこはBC6世紀からBC4世紀のある時期に繁栄を極めたと思われる豪族カリスナ・セプ家の墳墓であることがわかった。その碑文には「我はラルト・カリスナ・セプとその妻クルスィの骨壺なり」と記されている。貴族夫婦の遺灰は同一の壺の中で混ざり、二人そろって死後の人生に旅立つ。エトルリア人は、ギリシャ人やローマ人が繭をひそめるほど、古代一般の常識を越えて男女平等で愛情に満ちた結婚生活を楽しもうとした。


〈エトルリアの陶器〉

 BC7世紀後半のエトルリア美術は、ギリシャ美術の影響を大きく受けている。そのことを象徴するかのように、コリントスの政治家デマラトスが画家や彫刻家を伴ってエトルリアに亡命してきたと伝承に記されている。当時、ギリシャで最も栄えていたのはアテナイではなくコリントスだった。シリア、アナトリア、メソポタミアなどから伝わった装飾文様を取り入れたコリントス陶器は、地中海のさまざまな地域に輸出され、エトルリアにも多くのコリントス陶器が運ばれた。パルメット、ロゼット、ロータスなどの植物文様や、グリュプス(グリフィン)、スフィンクスなどの空想上の動物文様、それにライオン、ヒョウ、シカ、ウサギなど実在する動物文様が陶器の表面を埋め尽くし、楽園のような心地よい世界を表わしていた。エトルリア人も、この装飾文様を真似た陶器を作るだけでなく、地下に設けた墓室の壁面にこれらの動物を描いている。東方化様式と呼ばれる時代に属するエトルリアでは最古の壁画である。これらはエトルリア人によって描かれたのか、それとも移住してきたギリシャ人によって描かれたのかは、以前から多くの説があるが、最近は後者の説が有力である。

 移住してきたギリシャ人たちは工房を構えて、エトルリア人好みの陶器を制作し、やがて「ミカーリの画家」と呼ばれるエトルリア人陶芸家も出現するようになる。そのようなエトルリア人の陶芸家が装飾した壺の中に、オデュッセウスとその部下が、ポリュフェモスの一つ眼を突き刺している場面を表わしているものがある。アッティカ陶器ほどに洗練された気品のある装飾ではないが、調和の崩れた素朴さは、ギリシャ陶器には見られない温かさが感じられる。このようなギリシャ陶器を真似た陶器以外に、ブッケロ式陶器というエトルリア固有の陶器もあった。窯の中を酸欠状態にして焼いたこの陶器は表面が黒く、それにさらに磨きをかけることによって光沢のある美しい陶器が生まれた。初期のブッケロ式陶器は薄手のもので、ガラスを黒く塗ったような印象を与えるが、後期のものは肉厚となり、表面に浮彫り状の装飾が施されている。どちらのタイプも西地中海では人気があったようで、イタリア半島だけでなくシチリア島やサルディニア島でも発見されている。


〈エトルリアの建築、彫刻と青銅像〉

 ギリシャ美術の影響が強かったエトルリアではあるが、神殿建築に関してはギリシャで建てられたような大理石や石灰岩による美しく均整のとれた神殿はエトルリアでは建立されなかった。エトルリア神殿は、ひさしが大きく張り出した正面にだけ列柱を持つ形式で、のきはりの末端には鬼瓦や豪華な彩色テラコッタの装飾版が張り巡らされていた。神殿は通常、高い基壇の上にそびえ立ち、正面から見られることだけを意識して造られている。このため前後左右どこから見ても均整のとれた美しい姿を見せるギリシャ式神殿とは大きく異なる印象を与える。神殿以外の建築として、いくつかの住宅も発見されているが、出土例は少なく、居室を死者のために再現していると考えられる墓室が有力な手掛かりとなる。例えば、チェルヴェテリの墓のレリーフは、住宅の中心だった広間(アトリウム)がどのようなものであったかを克明に教えてくれる。

 神殿建築の装飾などで彩色テラコッタが盛んに使用された理由の一つは、エトルリアに良質な大理石が発見されていなかったためである。したがって、ギリシャのように大理石による彫刻が発達することはなく、塑像や青銅像が彫刻の主要な分野として発展した。等身大の塑像が作られるようになるのはBC6世紀後半からで、この分野でも小アジアのイオニア地方からの彫刻家が活躍したと推定されている。ヴォイオから出土したアポロン像やヘルメス頭部はイオニア彫刻に共通する流麗さを持っており、アテナイで作られた彫刻のように厳格な構築性備えているわけではない。しかしその流麗さと全体の均整を無視した率直な表現が、像全体に活き活きとした生命力を与える結果となっている。塑像の発達は青銅像の発達を促した。なぜなら、青銅像を作る際にもまず塑像で型、つまり中子なかごを作らなければならないからだ。高いレベルの塑像彫刻があったからこそ、エトルリアで青銅像が発達したといえる。エトルリアの工人は、特に美しい青銅製品を作るわざに秀でていた。エトルリア人は、ギリシャや小アジアの美術品の輸入だけでなく、それらの製造技術を学ぶことにも熱心だった。そのため学者たちは長い間、エトルリア人の起源を小アジアに見ていた。



(フェニキアとエトルリア)


 エトルリアでは主に南ガリア(現在のフランス)の沿岸地方への輸出品として、ブドウ酒、青銅器容器、コリントス様式を手本とした陶器、そしてブッケロ式陶器が生産された。南ガリア以外にも、シチリア島のギリシャ植民都市を始め、コルシカ島とサルディニア島の沿岸部、そしてカルタゴに到るまでエトルリアの製品は行き渡った。BC6世紀にはエトルリア人はカルタゴと強固な同盟関係を結び、ティレニア海の交易に対する支配力を強化していた。


[ピュルギの金製書版(BC500年ごろ)]

 1964年にイタリア中西部ローマ北西の町カエレにあるピュルギ港の発掘で出土した金製書版はさまざまなことを語っている。フェニキア語の書版とエトルリア語の書版の2種類がある。一方は他方の逐語訳ではなく、わかり易く言い換えただけだったため、エトルリア語解明の手掛かりになりそうなものはあまり得られなかった。

“この聖所は、女主人アシュタルテ(エトルリア語のウニ・アストゥレ)のために、カエレの王ティベリエ・ウァルナス(エトルリア語のテファリエ・ウェリアナス)により建立され奉献された。太陽神の供犠月に彼は神殿への贈り物としてさらに小祠堂を寄贈した。これは女主人アシュタルテが自らの手で彼を王位に就け、3年間の統治を許されたことへの感謝の印である。・・・女神の像は天に星がある限り宮に安置されるであろう”

 この書版の内容への疑問は、なぜエトルリアの王がフェニキアの女神アシュタルテに犠牲を奉げたり神殿を奉献したりしたのかである。メソポタミアのイシュタル女神にあたるアシュタルテは愛と戦いの女神で、古くから西アジアの文化や伝統において重要な役割を果たしていた。フェニキアの神々の中でも高位を占めるアシュタルテ女神の中心聖所はフェニキアのテュロスとシドンにあり、さらにカルタゴでもこの女神礼拝が行われていた。後にキプロス島とペロポネソス半島の南のキュテラ島はアフロディテ誕生の地の本家争いをするが、それも両島にその前からアシュタルテの聖所があったからである。フェニキアのアシュタルテ、ギリシャのアフロディテ、ローマのヴィーナスの原型はメソポタミアのイシュタル女神である。

 ピュルギの金製書版が示しているように、BC500年当時の世界の中心は地中海であった。書版の出土地ピュルギは、近くの都市カエレの港であった。当時、地中海東岸のテュロスやシドンと西のイベリア半島の間を往来するフェニキア船の寄港地の一つにピュルギが含まれていたとしても不思議ではない。フェニキア人の主要入植市は、マルタ、サルディニア、シチリアなど、ピュルギから遠くない島にもあったし、地中海対岸のカルタゴには新ポエニ(フェニキア)の首都があった。BC6世紀にはエトルリア人はフェニキア人と同盟を結び、イタリア南部に入植地を築いていたギリシャ人に対抗した。ピュルギの金製書版は豊かな鉱物資源を背景に異なるパートナーと交易を結び、栄えていた時代のエトルリア文化の証しである。



〈エトルリアとローマ〉


 エトルリアが最も栄えていたBC6世紀になると、エトルリア人は北イタリアのポー川流域にも植民し勢力を拡大したが、南のテヴェレ川の南岸にも勢力を伸ばし、ラテン人の一派であるローマ人と接触する。ラテン人とは、古くからイタリア中央部のラティウム地方に住み、ラテン語または同系の言語を話していた人びとのことで、BC7世紀には複数の町の間で、「ラテン同盟」を結成していた。ラテン同盟の場合、その組織は30のラテン集落共同体を基に築かれたが、それはエトルリアの12都市連合と同様に同一民族総体への帰属意識からだった。当初、この共同体の目的は宗教的なもので、30のラテン集落共同体の祭礼を営むときに同一民族への帰属を表明した。毎年のラテン祭の日に、ラティウム地方の中央にあるアルバーノ山系の中心に位置する古くからの祭礼場所アルバ・ロンガに集まり、「ラテン」を意味する「ラティアル」を添え名とするユピテル神の祭祀を全員で行った。彼らは牡牛を供え、30片に切り分け、共同体加盟国の30人の代表の間で分かち合うことで彼らの一体性を目に見える形で表した。この種の祭儀は非常に古い時代から行われ、エトルリア世界におけるウォルトゥムナ神に捧げる聖域での祭典や、ギリシャにおける全ヘラス的聖域やそこでの祭礼が表したものを想起させる。

 ローマの王も初期はラテン系だったが、後にエトルリア人の王が登場する。古代文献によると。ローマはエトルリア中部の都市キウージのポルセンナ王率いる軍隊に攻撃されている。この戦いの成り行きは明らかではないが、ある時期にエトルリア人がローマを支配したのは確かなようだ。伝承によれば、ローマはBC753年からBC509年まで次の歴代の王たちに統治された。ロムルス、ポンピリウス、トゥルス・ホスティリウス、アンクス・マルキウス、タルクィニウス・プリスクス、セルウィウス・トゥッリウス、タルクィニウス・スペルブスの7人である。実際、最後の3人はエトルリアの出身であった。このようにローマはエトルリア人の王によってBC616年からBC509年まで約100年間支配されていた。エトルリアという地域の南限はテヴェレ川で、ローマはこのテヴェレ川の左岸(南側)に位置している。したがって、エトルリアとローマは古くから密接な関係にあった。テヴェレ川は現在のフィレンツェの東に連なる山岳地帯に水源地を持つ水量豊かな川で、自然の渡河地点は少なく、ティレニア海に近い所では、ローマの位置する所が唯一といってもよい場所だった。エトルリア人にとって南イタリアのギリシャ植民市と交易するうえでも、また地味豊かなネアポリス(現在のナポリ)のあるカンパニア地方に進出するためにもローマという渡河地点は重要な場所だった。エトルリア人の王が支配を開始したBC7世紀末、ローマはまだ規模の大きな集落といった状態で、都市の段階には入っていなかった。しかし、優れた建築技術を持つエトルリア人が支配するようになったときから都市としての整備が進められ、中継都市に発展し人口も増加し、BC6世紀末の王政末期には、ローマはラティウム地方で最大の都市国家になったと考えられている。約1世紀にわたるエトルリア人の王による統治時代を通じて、ローマはエトルリア都市のような文化水準に到達することができた。その結果、ローマ人はタルクィニウス・スペルブスというエトルリア出身の王をBC509年に追放して、ローマ人自身による国を樹立することになる。それがBC509年のローマ共和政の成立である。その頃のエトルリア人は、長く続いたギリシャ人との抗争でかなり疲弊していたと思われる。

 ローマ人の建造物の多くはエトルリア人が築いた土台の上に建てられた。その典型的な例は、テヴェレ谷沼沢地を居住可能な土地に変えた大下水溝(クロアカ・マクシマ)である。この決定的大工事はBC600年ごろエトルリア人の手によって行われた。ローマ時代になって都市の拡大化が進み、初期エトルリアの居住の跡はすっかり姿を消したが、ローマ人は、建築から宗教的儀式、宴会用寝台を含む社会的慣習や制度まで、多くをエトルリア人から学び採り入れた。



(エトルリア文明の衰退:BC5世紀~BC2世紀)


 共和政ローマの樹立は、ローマにとっては独自に発展できる基盤ができたことになるが、エトルリアにとっては南イタリアとの関係が難しくなることを意味した。BC5世紀に入ると、エトルリアは徐々にかつての繁栄に影が差してくる。陸上の交易路がローマの独立によって遮断され、海上交易もBC474年に、エトルリア艦隊がシチリア島のシュラクサイの僭主せんしゅヒエロン率いるギリシャ艦隊とカンパニア沖で戦って敗れ、ティレニア海の制海権が縮小されて以降難しくなった。もちろん交易路をすべて失ったわけではなく、エトルリア人は当時北イタリアのポー川流域を支配していた。そこはコムギの栽培に適した広大な農地が広がる地域で、アテナイ人がしばしば食料輸入に訪れる所だった。したがって、ポー川河口に建設されたスピーナというアドリア海沿岸の港町は食料輸出港として大いに繁栄した。それでも以前に比べれば交易網が縮小したことは事実である。しかも、BC5世紀末になると、この大切な穀倉地帯も失うことになる。アルプスを越えてイタリアに南下してきたケルト人がこの地域を占有し、定住するようになったからだ。発掘調査からBC4世紀初頭にガリア人(現在のフランスに居住していたケルト人)がポー川流域にまで入り込んだことがわかっている。この地方のエトルリアの拠点は、小さなものは消滅し、大きなものはケルト的特徴を持ち始めている。このように、次第にエトルリアの衰退が進んでいった。

 エトルリアの衰退を決定的にしたのが、BC396年のローマによるテヴェレ川の西の対岸に位置するエトルリアの都市ウェイー(現在のヴェイオ)の攻略である。10年の歳月をかけたこの戦いは、ローマ人の勝利に終わり、エトルリアとローマの関係がこの時初めて逆転した。それ以降、100年にわたり数々の戦いが繰り広げられたが、ローマ人のエトルリア進出という大きな流れを変えることはできなかった。この間、エトルリアの12都市連合はローマ人の侵攻に対して一度も共同戦線を張ることができなかった。ウェイーに対する最終攻撃がかけられていたとき、カエレはローマの同盟国だったし、共和政を採っていたエトルリア諸都市は、王政を復活させたウェイーに味方しようとはしなかった。そして北部ではガリア人の攻撃で危機にさらされていたため、南部の一都市ウェイーに援軍を送るわけにはいかなかった。その後のローマとの抗争の際にも、エトルリア諸都市は大きな結束を示すことがなかった。結局、BC264年にエトルリア南部のウンブリア地方のウォルシニイの陥落をもって終わる150年足らずの間に、エトルリア12都市連合すべて、つまりエトルリアの全域がローマの支配に屈した。ローマはエトルリア北部のトスカーナ地方のほぼすべての都市の独立性を形式的には尊重した。南部のローマに近いウェイーの領土は併合して、四つの新たな地区に分けた事例は例外に留まり、これ以外のエトルリア都市では、ローマは敗れた都市の領土の一部にいくつかの植民市を建設したにすぎない。また言語に関してもラテン語の使用を強制しようとはしなかった。かつての敵は公式に同盟国となり、同盟国は個別条約によってローマと結びついた。しかし、エトルリア都市民がローマ市民権を得ることは極めて稀だった。このような状態は共和政ローマ時代に起こった同盟市戦争と名付けられた反乱(BC91年~BC88年)まで続いた。

 やがて彼らが話していたエトルリア語自体もローマ人の話すラテン語に取って代わられてしまった。このようにして、エトルリア文化は衰退し、歴史の表舞台から姿を消すことになるが、その文化的影響はローマを通じて、さまざまな形で後世に伝えられることになる。例えば、「百人組」と呼ばれる軍事制度と選挙制度、剣闘競技や凱旋式、生贄いけにえの肝臓を使った占いなどである。


 BC4世紀初頭からローマに吸収されるBC2世紀までの時代は、エトルリア美術がヘレニズム文化という国際文化の大きな影響を受ける時代である。南イタリアのギリシャ植民都市からもたらされる新しい思想と美術はエトルリア美術を大きく変身させていった。それまでの死後の世界を楽しむ明るく活力に満ちた表現は影を潜め、彼岸の暗く恐ろしい世界が墓室の壁画に表わされるようになる。あれほど生命力に満ち、死後の世界を楽しむかのようだった墓室壁画にも、三途の川の渡し守であるカロンのようなデーモンが登場するようになり、来世観が大きく変化したことを物語っている。ローマとの戦いに明け暮れたBC4世紀の壁画には戦闘場面さえ描き出された。地中海世界で最も強力な国に成長しつつあったローマを前にして、エトルリアの政治的閉塞状態は貴族たちをさらに享楽的な生活へと誘い、東方のヘレニズム王国の宮廷美術の影響も濃厚となる。この時代、エトルリア内陸部で盛んに作られた納骨容器には埋葬者の姿を写実的に表した肖像が浮彫りされるようになる。この写実的な肖像もヘレニズム美術の影響であり、それはBC3世紀後半からローマ美術に受容されていく。そしてローマによるエトルリア支配が確立したときから、エトルリア美術は次第にローマ化していき、BC2世紀後半にはその独自性を失う。


 都市文化を開花させたBC7世紀後半から、エトルリア人は恵まれた自然条件のなかで地中海世界で最も栄えた地域の一つにまで成長した。しかし、その当初からの少数の貴族による寡頭かとう政治の枠を取り外すことができず、文化においてはローマを圧倒したものの、政治と軍事においてはBC4世紀初頭にローマに凌駕されてしまい、その劣勢を覆すことは結局できなかった。しかし伝統を重んじ、ギリシャ宗教とは異なる独自の宗教を堅持したエトルリア人は、他の地域には見ることのできない特徴ある美術を形成し発展させた。確かにギリシャ美術の影響が濃厚に反映しているとはいえ、自分たちを取り巻く環境を素直に認めた現世享楽的な明るい雰囲気は、地中海人らしい特質をはっきりと表明している。また理念的な美の規準に縛られることがなかったため、現代人さえも驚かせるような作品をいくつも作っている。肖像彫刻に見られる極端なまでの写実性、人体を一本の細い棒のようにデフォルメした奉納用の彫刻、のびやかな線で描かれた壁画や手鏡の装飾、それらは古典的規範からの解放を目指した多くの近現代の美術家に新鮮な刺激を与えている。ジャコメッティの彫刻にしても、ピカソのデッサンにしても、エトルリア美術の存在なくしては生まれることはなかったとさえ言えるのである。

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