第113話 地中海西方世界におけるギリシャ人とフェニキア人
広大な地中海の沿岸部にはさまざまな民族が住んでいたが、彼らの生活環境にははっきりとした一つの共通点があったようだ。地中海の沿岸部のほとんどは平地が狭く、背後に険しい山脈が迫り、さらにいくつかの
こうして地中海周辺の民族は、沿岸部に共通した文明を誕生させ、各地に植民市を建設することで、一つの新しい世界を築いていくことになった。それまでの大河の流域に栄えた古代文明は、植民ではなく、征服によってその勢力を広げていた。支配者たちは自国の領土を拡大し、そこで専制君主になることで満足していた。しかし地中海世界に生まれた解放的で多様性に富んだ文明は、最初からそうした伝統とは明らかな違いを持っていた。彼らが築いた植民市は、近代の植民地とは全く違う、本国のフェニキアやギリシャなどの母都市から独立した都市国家だった。そうした植民市が中心となって活発な交易を行うことで、地中海世界はさらなる多様性を獲得していったのである。
ギリシャ人は異なった政治体制を取る外の世界についても豊富な知識を持っていた。また交易を通じて知った知識や、周囲から攻撃を受けやすかった植民市を通じて蓄積された知識も多かったと思われる。BC750年ごろから植民活動を開始したギリシャ人は、その後、限りなく西方に向かって200年間ほど拡張を続けた後、BC550年ごろにカルタゴ(現在のチュニジアの海岸地域)とイタリア中部のエトルリアに行く手を阻まれることになる。ギリシャ人はもともとエーゲ海地方に移住してきたときから、交易の重要性をよく知っていた。彼らは交易の拠点をシチリア島とイタリア南部に築き、やがてそうした植民市は非常に繁栄を遂げることになる。その中でも、最も豊かな植民市はBC733年にコリントス人が建設したシュラクサイ(現在のシラクサ)だった。シチリア島で最良の港だったシュラクサイは、事実上西地中海におけるギリシャ人世界の中心都市となっていた。ギリシャ人はさらにコルシカ島や南フランスのマッサリア(現在のマルセイユ)に定住したり、イタリア中部でもエトルリア人やラテン人に混じって暮らしていた。当時のギリシャの製品は遠く現在のスウェーデンからも発見されている。
しかしギリシャ世界の急速な拡大は、同じく交易を得意としたフェニキア人の妬みを買い、競争心を煽ったようだ。フェニキア人がチュニジアに建設した都市国家カルタゴは、その後シチリア島西部に拠点を築くと、イベリア半島交易からギリシャ人を追い出すほどの勢力を持つようになった。しかし、エトルリア人がギリシャ人をイタリア半島から追い出せなかったように、カルタゴ人も結局はギリシャ人をシチリア島から追い出すことはできなかった。BC480年にシュラクサイがカルタゴ軍を敗走させ、この戦いがシチリア島における両者の雌雄を決することになった。このBC480年はまた、9月に行われたサラミスの海戦でアテナイ軍がペルシャに大勝した年でもあった。
(ギリシャの植民市)
ギリシャでオリンピア競技祭が開催され始めたBC8世紀を過ぎたころ、ギリシャ文明は色々な形で発展を始めていた。その特色の一つが、船で他国に渡り、植民市と呼ばれる新しい都市国家を建設したことである。旅立つ理由はさまざまである。ある者は国を離れるように要請されたが、その理由の大半は人口増加だった。その場合、信望の高い人が創建者として指名され、遠征隊を率いた。また、より良い暮らしを求めて移住する場合や、戦争により安全な場所を求めて航海の旅に出るというのもあった。初期の植民市は、シチリア、イタリア、小アジアの沿岸部に建設された。後には、ガリア(現在のフランス)南部沿岸のマッサリア(現在のマルセイユ)、エジプトのナウクラティス、黒海のオルビア(クリミア半島の近く)のような遠方にまでおよぶようになった。ギリシャの都市国家は150ほどだったが、地中海と黒海周辺の植民市は1500にものぼった。このような植民市の建設は800年にわたって続いた。
地中海西方におけるギリシャ人による植民市世界は「黄金のギリシャ」と呼ばれ、典型的な農民とその家族が狭く生産性の低い土地という問題に直面していた「古いギリシャ」と比べると、並外れて広大で肥沃な、豊かな空間と見なされるようになった。物質面で恵まれていたのに加えて、この地域の人間は肉体的な美質にも恵まれていたとされている。その西方世界におけるギリシャ人の代表的な植民都市国家、マッサリア(現在のマルセイユ)とシュラクサイ(現在のシラクサ)について、ポール・カートリッジの「古代ギリシャ:11の都市が語る歴史」からその内容を紹介する。
*地中海西方におけるフェニニア人による代表的な植民都市カルタゴ、そのカルタゴと関係の深かったイタリア半島中部のエリトリア、そしてカルタゴと3度にわたりポエニ戦争を行ったローマについてはこの後のエピソードで述べる。
(マッサリア)
古代ギリシャの住民の多くに
プロヴァンス地方沿岸部の都市や集落の中には、地名そのものがギリシャ起源であることを示しているものが少なくない。アンティーヴは、元々は「対岸の都市」を意味するアンティポリスだったし、現在のニースはギリシャの勝利の女神ニケの名を取ってニカイアと呼ばれていた。しかし、この地域で最も大きく魅惑的な都市は、当時も今もマルセイユであり、マルセイユの旧名マッサリアはギリシャ語ではなく、「植民市」を意味するフェニキア語である。BC600年ごろ、ちょうどタレスが小アジアのイオニア地方のミレトスで活躍していた時期に、そのイオニア地方のフォカイアから来たギリシャ人の一団がこの地に定住することを決めた。マッサリアの歴史はここから始まる。その後、BC300年ごろにブリテン島を初めて地図に載せたのはマッサリア人のピュテアスである。
遥か後年の文献には、マッサリアの創建者プロティス(またはエウクセノス)と地元リグリア王ナンノスの娘である王女ギュプティス(またはペッタ)の結婚を皮切りとする、フォカイア出身のギリシャ人と地元リグリアのケルト人との異民族間結婚に関して色彩豊かな物語を伝えている。これは、シチリア島東部の町、メガラ・ヒュブライアの創建神話と同じく、ギリシャ人による植民活動の明るく幸福な側面を示すために語られた神話であり、
ヘロドトスによると、西方で交易活動に従事していたフォカイア人は、商船用に建造された丸型の帆船ではなく、当時の標準的な軍船だったペンテコンテロス(50の
BC750年以降、地中海と黒海を囲むように、その沿岸部に集中して出現した数百の定住地は、実態に反して「植民地」と呼ばれている。実際には、これらの都市は新しい独立したギリシャ人都市であり、当初は交易拠点や一時寄港地として誕生したものも、後に独立した都市になっている。それぞれの都市建設の背後には、地域的なものも含めて都市によって異なるさまざまな要因があったが、行き先はどこであれ、そこには常に変わることのない二つの目的があった。各種の原材料の入手と、定住し耕作するための土地の獲得である。また、ほとんどすべてのケースで、入植者は自分たちが定住を望む土地、あるいはその周辺の沿岸部や後背地に住む先住民に、何らかの形で対処しなくてはならなかった。主要な河川、ローヌ川の河口近くに位置し、複数の良港を持ち、山がちな地形という天然の要害に恵まれたマッサリアの地勢は魅力的だった。そして先住民が必ずしも伝承が伝えるほど積極的に友好を示したわけではないにしても、少なくとも入植地が首尾よく存続していく上で大きな脅威にはならなかった。このマッサリアという新ポリスの政治体制については、資料不足でほとんどわかっていないが、どうやら中世イタリアの都市共和国でお馴染みの商人貴族政のような、最富裕層の市民の中から互選された評議員から成る自治的に運営される小規模な評議会によって統治されていたらしい。いずれにしてもマッサリアは驚くほどの早さで完全にこの地に定着して著しい発展を遂げ、母市としてイベリア半島北東部にエンポリオンなどの娘市を建設できるようになった。ここでのギリシャ人の最大の狙いはフェニキア人と同様に各種金属だった。
エーゲ海のギリシャ世界からは、多種多様なギリシャ製品がマッサリアを介して内陸に住む先住民の手にわたっている。その中でも飛び抜けて印象的なのは、BC530年ごろにスパルタで作られたと思われる、高さ1.64メートル、重さ208キロ、容量1100リットルの巨大な青銅器の酒器である。この器には装飾がふんだんに施されており、例えば口のすぐ下の細くなった部分は、ギリシャ人重装歩兵の行進場面を浮き彫りにした帯状装飾で飾られ、蓋にはゆるやかな衣を品良くまとった女性をかたどった握りがついている。この見事な工芸品は、最終的にソーヌ川(ローヌ川の支流)とローヌ川の合流点近くの町ヴィクスのケルト人王女の墓に納められていた。これは経済・社会・政治のすべての要素が絡んだ品物だった可能性が極めて高く、おそらくギリシャ人から地元先住民の首長への外交上の贈り物だったと思われるが、この容器には実用的な機能もあった。具体的にはケルト風の盛大な宴会でワインを供するのに使われたのだ。そのワインは地元産だった可能性はある。それはマッサリアのギリシャ人がブドウの木を初めてプロヴァンス地方に持ち込んでいたからだ。BC600年の時点では、ブドウがギリシャ本国の基幹作物の一つとして定着してからすでに1500年以上が経過していた。マッサリアもいったんワイン交易国としての地位を確立すると、一大交易拠点としてより広範な役割を果たす一方で、目玉商品の一つとして、マッサリア独自のワイン輸送用アンフォラ(両取っ手付の壺)を製造し、輸出するようになった。現在の西ヨーロッパにワインが普及している最大の功労者は、マッサリアであることは認めるべきだろう。
BC545年ごろ、イラン高原から新興のペルシャが小アジア沿岸に攻め込み、マッサリアの母市フォカイアが包囲され、ペルシャ軍に明け渡された経緯をヘロドトスは色彩豊かに物語っている。残されたフォカイア人は、ペルシャ人への隷属状態に甘んじることを嫌い、開拓者精神に満ちた先祖たちに倣って、その頃にはますますギリシャ化が進んでいた西方に向かった。しかも彼らはいわば船を焼き払うことで自らの退路を断った。自ら進んで亡命の道を選んだこれらのフォカイア人は、最初はコルシカ島で暮らし、その後イタリア半島の爪先部分にあるレギオンに定住した。しかし、ことわざにもあるが、軽々しく「決して」などと言うものではない。というのは、それから2~3世代後にフォカイアの状況が大幅に好転した時期に、これらの亡命者の子孫はフォカイアに戻っているのだ。それはBC480年の第2次ペルシャ戦争後のことで、フォカイアはアテナイを盟主とする対ペルシャ海上同盟、つまりデロス同盟に加盟し、年3タラントの銀という比較的少額の賦課金を割り当てられている。だがフォカイア人は亡命中もその後も、少なくとも何年かに一度は、娘市であるマッサリアの住民と顔を合わせる機会があったと思われる。場所はオリンピアかデルフォイで、特にデルフォイでは、マッサリア人は余剰の富のかなりの部分を注ぎ込んで、自国の市民が作った青銅製の器や小立像、金の宝飾品などの高価な奉納品を納める大理石の立派な「宝庫」を建造しており、デルフォイが出会いの場となった可能性が高い。
(シュラクサイ)
BC8世紀後期以降、西ギリシャへの移民に最も好まれた入植地はシチリア島だった。そしてシチリアで建設された幾多の新しいギリシャ都市の中でも、最も成功したのはシュラクサイの入植者だというのが一般的な認識でもあった
紀元神話によると、
シュラクサイの入植者の出身地はコリントス、より正確にはテネアという内陸部の小さな村だった。BC730年代、誕生したばかりの都市国家コリントスを統治していたのは、始祖とされるバッキスの名を取ったバッキアダイと呼ばれる貴族一門だった。コリンティア地方は90平方キロの広さしかない小さな国だが、領域内にある二つの港を使う交易商人からも使用料を徴収していた。コリントスの港はペロポネソス半島とギリシャ本土中央部を分ける地峡の両側に一つずつあり、コリントス湾にあって西に向いているのがレカイオン港、サロニコス湾にあって東を向いているのがケンクリアイ港だった。後にシュラクサイに入植する者たちはレカイオン港から船出したと思われるが、強風が吹き荒れ、難破の危険性が高いペロポネソス半島南部のマレア岬を避けて西方の市場を目指すエーゲ海地域の交易商人もこの港を利用していた。
ホメロスの叙事詩では、コリントス全体に「富裕な」という形容詞が与えられているが、バッキアダイの統治時代にはごく一握りの人間に独占されていた。BC8世紀後半になると、ギリシャ本土の他の都市国家と同様にコリントスでも人口が増加したため、狭い農地しか所有または耕作していない多くの住民は、耐え難いほどの窮屈さを感じるようになった。状況を一層悪化させたのはギリシャの分割相続の風習で、これは嫡出の息子全員が平等に遺産を相続するというものだった。そのため息子が2人以上いる家庭では、圧迫と好機の相乗効果が次男以下の息子たちを西方の「大ギリシャ」、つまりイタリア南部、またはシチリア島の植民市での再出発に踏み切らせた。自発的に出て行かない場合は、やむなく神または人間の命令という形で移住を強制することもあり、コリントスではその役目を果たす人間はバッキス一族だった。シュラクサイ建設の指導者に指名され、死後に植民市創建の英雄として祀られたのは、バッキス一門のアルキアスだったと思われる。シュラクサイはシチリア島のギリシャ都市の中で最大、最強にして富裕な都市となり、ギリシャ世界全体でもスパルタに次ぐ2番目に大きな領土を支配し、先住民であるシケロス人の多くを農奴化してキリュリオイと呼んだ。
フェニキア人はギリシャ人がシチリア島に到達するよりかなり前にシチリア島西部にすでにパノルムス(現在のパレルモ)やモティアなどを建設していた。ギリシャ人による植民地の建設はフェニキア人より300年以上後のことで、最初はBC8世紀初頭のエウボイア人であり、東はシリアから西はナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げた。その後、他のギリシャ人も加わり、小アジア、トラキア、黒海沿岸、イタリア半島南部、シチリア島東部に進出し植民地を建設した。シチリア島では歴史の重要な節目ごとにフェニキア都市とギリシャ都市の間で戦いが起こり、時としてかなりの規模の援軍が母都市から送り込まれた。シチリア島のギリシャ都市としてはシュラクサイの他、南部にゲラ、アクラガス、セリヌスがあり、北部にヒメラ、メッサナ、ナクソスなどがあったが、ギリシャ本土の共和政的なポリスではなく、独裁的な支配者、すなわち
またツキディデスは、当初はギリシャ本土とエーゲ海地域だけに限定されていたアテナイとスパルタの紛争、ぺロポネソス戦争(BC431年~BC404年)を拡大させた要因として、BC430年代後半にエピダムノス(現在のアルバ)がこの紛争に引きずり込まれコルキュラ側について真っ先に参戦したのは、第一義的にはコルキュラがアドリア海への入口という実入りのいい西方航路上に位置していたからだが、加えてこの都市がギリシャで二番目に大規模な三段櫂船の船隊を有しており、さらに民主政を敷いていたからでもあったことを挙げている。ぺロポネソス戦争の最初の10年間、アテナイはいたって真剣にシチリア内部に揺るぎない軍事的影響力を擁立しようと企てたが、その試みは完全に裏目に出て、思いもよらない事態をもたらした。シチリアのギリシャ諸都市がゲラで会議を開き政治的団結を誇示したのである。議長を務めたのは民主政シュラクサイの一政治家だった。およそ10年後のBC421年、スパルタとの「ニキアスの和約」の時期に、アテナイは再びシュラクサイに関心を向け、この都市を滅ぼさないまでも、せめて弱体化させようと考えた。これは戦略的理由によるものだった。いずれスパルタとの紛争が再燃したときには、シチリアの資源をより入手し易くなっているかどうかが、勝敗の鍵を握ることになる可能性が高いからだ。シュラクサイはアテナイに匹敵する面積と富と人口を持ち、しかも当時アテナイと同じく民主政を敷いていた。そのため民主政の樹立による抑圧的な
その後しばらく、シュラクサイとアテナイは政治面では反対の道を進むことになる。シュラクサイの民主政はより急進的なものになり、一方のアテナイは、二度にわたって
シュラクサイの
(フェニキア人のカルタゴ、ギリシャ人のシュラクサイ、そしてローマ)
BC5世紀、西方植民市に住むギリシャ人にとってチュニジアのカルタゴは交易における手強いライバルだった。カルタゴはギリシャ人に対するフェニキア人の敵対心から誕生した都市国家だったと言っても過言ではない。BC800年ごろにフェニキア人によって建設されたカルタゴは、当初から金属を中心とする西地中海交易をめぐってギリシャと激しく争っていた。しかし、長い間都市国家の形態を保ち、市民たちも戦いより交易を好んでいたため、他国の征服よりも同盟や保護による外交政策を主な方針としていた。BC480年の時点で、ギリシャの交易ルートは現在のフランスのローヌ渓谷、イタリア半島、シチリア島に限定されていた。その中で西方のギリシャ最大の拠点がシチリア島とその中心都市シュラクサイだった。シュラクサイはコリントスがBC733年に建設していた。ギリシャ軍がサラミスの海戦で、アテナイ軍がペルシャに大勝(第2次ペルシャ戦争)したBC480年に、シュラクサイも始めてカルタゴと戦って勝利を収め、シチリア島をカルタゴの手から守ることに成功した。その後はBC5世紀の間にカルタゴがギリシャ人を悩ませることはほとんどなかった。シュラクサイは、ペロポネソス戦争中に、アテナイによるシチリア遠征(BC415年~BC413年)の標的にされたが、それを打ち破った。この後、シュラクサイは再びカルタゴの攻撃にあうが、この敗戦を乗り越えてまもなく黄金期を迎える。その後、シュラクサイは勢力をシチリア島だけでなく、イタリア南部からアドリア海へと広げていった。黄金期に入ってもカルタゴとの戦いは続いたが、シュラクサイには勢いがあり、一時はカルタゴをもう一歩で占領するところまで追いつめ、また別の戦いではコルキュラ(コルフ)島を手中にして、アドリア海の領土を増やしている。しかし、BC300年を過ぎるとカルタゴの勢力が増し、シュラクサイはイタリア本土でもローマの脅威に直面するようになった。ギリシャ北方のアドリア海側のエペイロス王ピュロスがシュラクサイに援軍を差し向けようとしたが、シュラクサイはピュロス王と仲たがいしてしまい、BC3世紀の中ごろ以降はイタリア本土にはローマ人が君臨することになった。こうして地中海西方の舞台に、カルタゴ、ギリシャ、ローマという3人の主役が姿を現すことになった。
しかし、東方のヘレニズム諸国は不思議なほど西方に関心を示さなかったようだ。この時点ではローマ人自身もまだ自らを世界の覇者になるような存在とは考えてもいなかったと思われる。BC264年にカルタゴとの戦い(第1次ポエニ戦争)に突入したのも、野心というよりは恐怖に駆られてという面が大きかった。しかし、BC201年にカルタゴの名将ハンニバルとの長い戦いに勝って(第2次ポエニ戦争)カルタゴとの争いに決着をつけると、自信を深めたローマ人は東方に目を向け始めることになった。ようやくこの頃にはヘレニズム諸国のギリシャ人の中にも歴史の新たな動きに気づき始めた者が現れるようになった。東方のヘレニズム世界は、その後のローマとの戦いの中で、強大な力を持っていることを歴史に証明していくことになる。それは一言でいえば、異民族をギリシャ化することができるというギリシャ文明の持つ偉大なる力だった。
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