第113話 地中海西方世界におけるギリシャ人とフェニキア人

 広大な地中海の沿岸部にはさまざまな民族が住んでいたが、彼らの生活環境にははっきりとした一つの共通点があったようだ。地中海の沿岸部のほとんどは平地が狭く、背後に険しい山脈が迫り、さらにいくつかの河谷かこくによって隣接する地域とも分断されていた。当然のことながらこの地に住む人びとは、海の彼方に目を転じ、そこに可能性を見出すしかなかった。「地中海性気候」という言葉があるほど穏やかなことで知られるこの海に、人びとが活動の場を求めたのは、極めて自然なことだったと言えるだろう。後にローマ人は地中海のことを「偉大なる海」または「我らの海」と呼ぶことになる。最盛期のローマ帝国の地図を広げればわかるように、当時の「文明の地」は、まさにこの海を取り囲むように存在していた。地中海の南に位置する北アフリカも当時は文明の先進地帯であり、今日のようなヨーロッパとアフリカという区別は存在しなかった。地中海は人や文化を分断する海ではなく、逆にそれらを結びつける強い力を持っていた。早くから航海術も発達し、すでにBC6世紀~BC5世紀には、気象が不安定な冬期を除けば、地中海の沿岸部はどの場所からどの場所へも自由に行き来することができるようになっていた。そのようにして人と文化が交流した結果、共通の言語を持つ沿岸文明が誕生していく。なかには交易によって発展した町もあったが、基本的には地中海世界の経済を支えていたのは、コムギやオオムギ、オリーブ、ブドウの栽培で、作物は主に地元で消費されていた。急速に需要が増していた金属は、ヨーロッパなど外の世界から持ち込まれていた。

 こうして地中海周辺の民族は、沿岸部に共通した文明を誕生させ、各地に植民市を建設することで、一つの新しい世界を築いていくことになった。それまでの大河の流域に栄えた古代文明は、植民ではなく、征服によってその勢力を広げていた。支配者たちは自国の領土を拡大し、そこで専制君主になることで満足していた。しかし地中海世界に生まれた解放的で多様性に富んだ文明は、最初からそうした伝統とは明らかな違いを持っていた。彼らが築いた植民市は、近代の植民地とは全く違う、本国のフェニキアやギリシャなどの母都市から独立した都市国家だった。そうした植民市が中心となって活発な交易を行うことで、地中海世界はさらなる多様性を獲得していったのである。


 ギリシャ人は異なった政治体制を取る外の世界についても豊富な知識を持っていた。また交易を通じて知った知識や、周囲から攻撃を受けやすかった植民市を通じて蓄積された知識も多かったと思われる。BC750年ごろから植民活動を開始したギリシャ人は、その後、限りなく西方に向かって200年間ほど拡張を続けた後、BC550年ごろにカルタゴ(現在のチュニジアの海岸地域)とイタリア中部のエトルリアに行く手を阻まれることになる。ギリシャ人はもともとエーゲ海地方に移住してきたときから、交易の重要性をよく知っていた。彼らは交易の拠点をシチリア島とイタリア南部に築き、やがてそうした植民市は非常に繁栄を遂げることになる。その中でも、最も豊かな植民市はBC733年にコリントス人が建設したシュラクサイ(現在のシラクサ)だった。シチリア島で最良の港だったシュラクサイは、事実上西地中海におけるギリシャ人世界の中心都市となっていた。ギリシャ人はさらにコルシカ島や南フランスのマッサリア(現在のマルセイユ)に定住したり、イタリア中部でもエトルリア人やラテン人に混じって暮らしていた。当時のギリシャの製品は遠く現在のスウェーデンからも発見されている。

 しかしギリシャ世界の急速な拡大は、同じく交易を得意としたフェニキア人の妬みを買い、競争心を煽ったようだ。フェニキア人がチュニジアに建設した都市国家カルタゴは、その後シチリア島西部に拠点を築くと、イベリア半島交易からギリシャ人を追い出すほどの勢力を持つようになった。しかし、エトルリア人がギリシャ人をイタリア半島から追い出せなかったように、カルタゴ人も結局はギリシャ人をシチリア島から追い出すことはできなかった。BC480年にシュラクサイがカルタゴ軍を敗走させ、この戦いがシチリア島における両者の雌雄を決することになった。このBC480年はまた、9月に行われたサラミスの海戦でアテナイ軍がペルシャに大勝した年でもあった。 



(ギリシャの植民市)


 ギリシャでオリンピア競技祭が開催され始めたBC8世紀を過ぎたころ、ギリシャ文明は色々な形で発展を始めていた。その特色の一つが、船で他国に渡り、植民市と呼ばれる新しい都市国家を建設したことである。旅立つ理由はさまざまである。ある者は国を離れるように要請されたが、その理由の大半は人口増加だった。その場合、信望の高い人が創建者として指名され、遠征隊を率いた。また、より良い暮らしを求めて移住する場合や、戦争により安全な場所を求めて航海の旅に出るというのもあった。初期の植民市は、シチリア、イタリア、小アジアの沿岸部に建設された。後には、ガリア(現在のフランス)南部沿岸のマッサリア(現在のマルセイユ)、エジプトのナウクラティス、黒海のオルビア(クリミア半島の近く)のような遠方にまでおよぶようになった。ギリシャの都市国家は150ほどだったが、地中海と黒海周辺の植民市は1500にものぼった。このような植民市の建設は800年にわたって続いた。


 地中海西方におけるギリシャ人による植民市世界は「黄金のギリシャ」と呼ばれ、典型的な農民とその家族が狭く生産性の低い土地という問題に直面していた「古いギリシャ」と比べると、並外れて広大で肥沃な、豊かな空間と見なされるようになった。物質面で恵まれていたのに加えて、この地域の人間は肉体的な美質にも恵まれていたとされている。その西方世界におけるギリシャ人の代表的な植民都市国家、マッサリア(現在のマルセイユ)とシュラクサイ(現在のシラクサ)について、ポール・カートリッジの「古代ギリシャ:11の都市が語る歴史」からその内容を紹介する。


*地中海西方におけるフェニニア人による代表的な植民都市カルタゴ、そのカルタゴと関係の深かったイタリア半島中部のエリトリア、そしてカルタゴと3度にわたりポエニ戦争を行ったローマについてはこの後のエピソードで述べる。



(マッサリア)


 古代ギリシャの住民の多くにうらやみを込めて「黄金の西方」と見なされるようになった「西ギリシャ」は、シチリア島東部から南イタリア沿岸のマグナ・グラエキア(大ギリシャ)まで、さらに、メッシーナ海峡を通ってガリア(現在のフランス)南部沿岸地域とイベリア半島東海岸まで伸びている。このうちミディあるいはプロヴァンス海岸と呼ばれるガリア南部沿岸の地域は、BC7世紀後半のギリシャで暮らしていた船乗りや商人、そして入植を目指していた人びとの目には、活用されるのを待っている処女地と映っていた。実際には、テュロスとシドンのフェニキア人が何百年も前にこの地域を通過して、地名などさまざまな形でその痕跡を残しており、フェニキア人以外にもイタリア半島中部のトスカーナ地方から来たエトルリア人などがこの地を訪れているが、なぜかどちらの民族もこの地に定住しようとせず、フェニキア人はさらにイベリア半島南部沿岸地域まで進んでマラガやカディスなどの都市を建設している。フェニキア人はまた、地中海西部の南岸沿い(アフリカのチュニジア海岸)にもウティカとカルタゴを筆頭格とする一連の植民市を建設し、これらの都市は彼らがシチリア島西端に築いた恒久的な交易拠点群、モティア、パノルムス(現在のパレルモ)などと直接かつ定期的に接触していた。

 プロヴァンス地方沿岸部の都市や集落の中には、地名そのものがギリシャ起源であることを示しているものが少なくない。アンティーヴは、元々は「対岸の都市」を意味するアンティポリスだったし、現在のニースはギリシャの勝利の女神ニケの名を取ってニカイアと呼ばれていた。しかし、この地域で最も大きく魅惑的な都市は、当時も今もマルセイユであり、マルセイユの旧名マッサリアはギリシャ語ではなく、「植民市」を意味するフェニキア語である。BC600年ごろ、ちょうどタレスが小アジアのイオニア地方のミレトスで活躍していた時期に、そのイオニア地方のフォカイアから来たギリシャ人の一団がこの地に定住することを決めた。マッサリアの歴史はここから始まる。その後、BC300年ごろにブリテン島を初めて地図に載せたのはマッサリア人のピュテアスである。

 遥か後年の文献には、マッサリアの創建者プロティス(またはエウクセノス)と地元リグリア王ナンノスの娘である王女ギュプティス(またはペッタ)の結婚を皮切りとする、フォカイア出身のギリシャ人と地元リグリアのケルト人との異民族間結婚に関して色彩豊かな物語を伝えている。これは、シチリア島東部の町、メガラ・ヒュブライアの創建神話と同じく、ギリシャ人による植民活動の明るく幸福な側面を示すために語られた神話であり、慇懃いんぎんな(礼儀正しい)ギリシャ人入植者と受容的な地元住民の有益で自発的な協力関係についての物語である。これとは逆に、植民活動の暗黒面を物語るものとしては、イタリア半島南端のタレントゥム(タラス)の悲惨な例がある。BC700年ごろにこの地を訪れたスパルタ出身のギリシャ人入植者たちは、新しい故郷を手に入れるために土着のイアピュギア人と戦わなくてはならず、度重なる戦闘によっておびただしい血が流され、いつまでも消えない遺恨が残った。もっともマッサリアの創建神話にしても、創建者の名前さえ二通り伝えられているうえ、政略としての王族の結婚にロマンチックな要素が加味されているのは、間違いなく後年の潤色である以上、はたしてどの程度まで真実かはわからない。とはいえ、考古学的研究とヘロドトスの記述は、マッサリアを建設したギリシャ人がイオニア地方のフォカイア出身であることを裏付けている。

 ヘロドトスによると、西方で交易活動に従事していたフォカイア人は、商船用に建造された丸型の帆船ではなく、当時の標準的な軍船だったペンテコンテロス(50のかいを持つ)と呼ばれるガレー船の改良版を使っていたという。この「50櫂船」を動かすのは、平行に二列に並んだそれぞれ20人から25人の商人であり戦士でもある漕ぎ手たちだ。この種の船を使うことによって、海賊による略奪だけでなく、競争相手であるフェニキア人やエトルリア人の好戦的な同業者たちから被る危険も、ある程度は防ぐことができた。マッサリアの建設は、複雑なジグソーパズルのピースの一つに過ぎなかった。冒険心に富むエーゲ海のギリシャ人は、BC800年ごろから船に乗って地中海の至る所を訪れ始めている。理由はさまざまだった。金属や奴隷その他の交易のため、新しい入植地を探すため、輸入すべき新しい贅沢品を見つけるため、傭兵として戦うため、そしてそれらの目的のついでに、あるいはただ純粋に航海の楽しさを味わうためでもあった。

 BC750年以降、地中海と黒海を囲むように、その沿岸部に集中して出現した数百の定住地は、実態に反して「植民地」と呼ばれている。実際には、これらの都市は新しい独立したギリシャ人都市であり、当初は交易拠点や一時寄港地として誕生したものも、後に独立した都市になっている。それぞれの都市建設の背後には、地域的なものも含めて都市によって異なるさまざまな要因があったが、行き先はどこであれ、そこには常に変わることのない二つの目的があった。各種の原材料の入手と、定住し耕作するための土地の獲得である。また、ほとんどすべてのケースで、入植者は自分たちが定住を望む土地、あるいはその周辺の沿岸部や後背地に住む先住民に、何らかの形で対処しなくてはならなかった。主要な河川、ローヌ川の河口近くに位置し、複数の良港を持ち、山がちな地形という天然の要害に恵まれたマッサリアの地勢は魅力的だった。そして先住民が必ずしも伝承が伝えるほど積極的に友好を示したわけではないにしても、少なくとも入植地が首尾よく存続していく上で大きな脅威にはならなかった。このマッサリアという新ポリスの政治体制については、資料不足でほとんどわかっていないが、どうやら中世イタリアの都市共和国でお馴染みの商人貴族政のような、最富裕層の市民の中から互選された評議員から成る自治的に運営される小規模な評議会によって統治されていたらしい。いずれにしてもマッサリアは驚くほどの早さで完全にこの地に定着して著しい発展を遂げ、母市としてイベリア半島北東部にエンポリオンなどの娘市を建設できるようになった。ここでのギリシャ人の最大の狙いはフェニキア人と同様に各種金属だった。

 エーゲ海のギリシャ世界からは、多種多様なギリシャ製品がマッサリアを介して内陸に住む先住民の手にわたっている。その中でも飛び抜けて印象的なのは、BC530年ごろにスパルタで作られたと思われる、高さ1.64メートル、重さ208キロ、容量1100リットルの巨大な青銅器の酒器である。この器には装飾がふんだんに施されており、例えば口のすぐ下の細くなった部分は、ギリシャ人重装歩兵の行進場面を浮き彫りにした帯状装飾で飾られ、蓋にはゆるやかな衣を品良くまとった女性をかたどった握りがついている。この見事な工芸品は、最終的にソーヌ川(ローヌ川の支流)とローヌ川の合流点近くの町ヴィクスのケルト人王女の墓に納められていた。これは経済・社会・政治のすべての要素が絡んだ品物だった可能性が極めて高く、おそらくギリシャ人から地元先住民の首長への外交上の贈り物だったと思われるが、この容器には実用的な機能もあった。具体的にはケルト風の盛大な宴会でワインを供するのに使われたのだ。そのワインは地元産だった可能性はある。それはマッサリアのギリシャ人がブドウの木を初めてプロヴァンス地方に持ち込んでいたからだ。BC600年の時点では、ブドウがギリシャ本国の基幹作物の一つとして定着してからすでに1500年以上が経過していた。マッサリアもいったんワイン交易国としての地位を確立すると、一大交易拠点としてより広範な役割を果たす一方で、目玉商品の一つとして、マッサリア独自のワイン輸送用アンフォラ(両取っ手付の壺)を製造し、輸出するようになった。現在の西ヨーロッパにワインが普及している最大の功労者は、マッサリアであることは認めるべきだろう。

 BC545年ごろ、イラン高原から新興のペルシャが小アジア沿岸に攻め込み、マッサリアの母市フォカイアが包囲され、ペルシャ軍に明け渡された経緯をヘロドトスは色彩豊かに物語っている。残されたフォカイア人は、ペルシャ人への隷属状態に甘んじることを嫌い、開拓者精神に満ちた先祖たちに倣って、その頃にはますますギリシャ化が進んでいた西方に向かった。しかも彼らはいわば船を焼き払うことで自らの退路を断った。自ら進んで亡命の道を選んだこれらのフォカイア人は、最初はコルシカ島で暮らし、その後イタリア半島の爪先部分にあるレギオンに定住した。しかし、ことわざにもあるが、軽々しく「決して」などと言うものではない。というのは、それから2~3世代後にフォカイアの状況が大幅に好転した時期に、これらの亡命者の子孫はフォカイアに戻っているのだ。それはBC480年の第2次ペルシャ戦争後のことで、フォカイアはアテナイを盟主とする対ペルシャ海上同盟、つまりデロス同盟に加盟し、年3タラントの銀という比較的少額の賦課金を割り当てられている。だがフォカイア人は亡命中もその後も、少なくとも何年かに一度は、娘市であるマッサリアの住民と顔を合わせる機会があったと思われる。場所はオリンピアかデルフォイで、特にデルフォイでは、マッサリア人は余剰の富のかなりの部分を注ぎ込んで、自国の市民が作った青銅製の器や小立像、金の宝飾品などの高価な奉納品を納める大理石の立派な「宝庫」を建造しており、デルフォイが出会いの場となった可能性が高い。



(シュラクサイ)


 BC8世紀後期以降、西ギリシャへの移民に最も好まれた入植地はシチリア島だった。そしてシチリアで建設された幾多の新しいギリシャ都市の中でも、最も成功したのはシュラクサイの入植者だというのが一般的な認識でもあった

 紀元神話によると、慇懃いんぎんけがらわしい)な老河川アルフェイオスが魅力的な水の精アレトゥーサに恋した。求愛に応える気になれなかったアレトゥーサは、アルフェイオスの魔手を逃れて西に向かい、やがて絶えず清冽な水が湧き出る泉と化してシュラクサイに辿り着いた。この神話は、ペロポネソス半島西部からシチリア島東海岸まで、清らかな真水の流れが途切れることなく続いているという理由から正当化されている。この神話と事実が混じり合った中から出てくるのは、シュラクサイ、より正確には沖合の小島オルテュギアに実際に清水が湧き出る泉が存在したという事実であり、この神話が説明しようとしたのは、シュラクサイの最初の入植者がアレトゥーサと名付けたその泉の存在こそ、彼らがオルテュギアに定住した理由に他ならないという確固たる歴史的事実である。古代ギリシャの年表ではBC733年とされているこの年の建設年代は、考古学的にもかなり正確に裏付けられており、オルテュギアの最初の入植者が住んでいた家の土台らしきものの跡も発掘されている。

 シュラクサイの入植者の出身地はコリントス、より正確にはテネアという内陸部の小さな村だった。BC730年代、誕生したばかりの都市国家コリントスを統治していたのは、始祖とされるバッキスの名を取ったバッキアダイと呼ばれる貴族一門だった。コリンティア地方は90平方キロの広さしかない小さな国だが、領域内にある二つの港を使う交易商人からも使用料を徴収していた。コリントスの港はペロポネソス半島とギリシャ本土中央部を分ける地峡の両側に一つずつあり、コリントス湾にあって西に向いているのがレカイオン港、サロニコス湾にあって東を向いているのがケンクリアイ港だった。後にシュラクサイに入植する者たちはレカイオン港から船出したと思われるが、強風が吹き荒れ、難破の危険性が高いペロポネソス半島南部のマレア岬を避けて西方の市場を目指すエーゲ海地域の交易商人もこの港を利用していた。

 ホメロスの叙事詩では、コリントス全体に「富裕な」という形容詞が与えられているが、バッキアダイの統治時代にはごく一握りの人間に独占されていた。BC8世紀後半になると、ギリシャ本土の他の都市国家と同様にコリントスでも人口が増加したため、狭い農地しか所有または耕作していない多くの住民は、耐え難いほどの窮屈さを感じるようになった。状況を一層悪化させたのはギリシャの分割相続の風習で、これは嫡出の息子全員が平等に遺産を相続するというものだった。そのため息子が2人以上いる家庭では、圧迫と好機の相乗効果が次男以下の息子たちを西方の「大ギリシャ」、つまりイタリア南部、またはシチリア島の植民市での再出発に踏み切らせた。自発的に出て行かない場合は、やむなく神または人間の命令という形で移住を強制することもあり、コリントスではその役目を果たす人間はバッキス一族だった。シュラクサイ建設の指導者に指名され、死後に植民市創建の英雄として祀られたのは、バッキス一門のアルキアスだったと思われる。シュラクサイはシチリア島のギリシャ都市の中で最大、最強にして富裕な都市となり、ギリシャ世界全体でもスパルタに次ぐ2番目に大きな領土を支配し、先住民であるシケロス人の多くを農奴化してキリュリオイと呼んだ。

 フェニキア人はギリシャ人がシチリア島に到達するよりかなり前にシチリア島西部にすでにパノルムス(現在のパレルモ)やモティアなどを建設していた。ギリシャ人による植民地の建設はフェニキア人より300年以上後のことで、最初はBC8世紀初頭のエウボイア人であり、東はシリアから西はナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げた。その後、他のギリシャ人も加わり、小アジア、トラキア、黒海沿岸、イタリア半島南部、シチリア島東部に進出し植民地を建設した。シチリア島では歴史の重要な節目ごとにフェニキア都市とギリシャ都市の間で戦いが起こり、時としてかなりの規模の援軍が母都市から送り込まれた。シチリア島のギリシャ都市としてはシュラクサイの他、南部にゲラ、アクラガス、セリヌスがあり、北部にヒメラ、メッサナ、ナクソスなどがあったが、ギリシャ本土の共和政的なポリスではなく、独裁的な支配者、すなわち僭主せんしゅに統治されていたようだ。BC480年当時のシュラクサイの僭主はゲロンだった。ゲロンは征服と併合によってシチリアの東部と南部に勢力を広げ、領土を倍増させた。BC5世紀半ばの数十年間、シチリアのギリシャ都市は大いなる繁栄を享受していたことを物語る痕跡は、この島の他の場所にも存在する。アクラガスにある数多くの巨大神殿、あるいは最近引き揚げられたアテナイとペロポネソス半島のアンフォラ、杯、灯油ランプ、編んだ籠などの貴重な荷を積んでゲラを目指していた商船の残骸である。しかもシチリアには穀物という自前の天然資源があった。例えば、BC456年に死去したアイスキュロスの終焉の地であるゲラは、この偉大な悲劇作家の感動的な墓碑銘の中で、「コムギの実る」という形容句を与えられている。そのため、増加の一途をたどる人口を養うために穀物輸入量の増大を図る必要に迫られたアテナイ帝国は、西方の南イタリアとシチリア島に視線を向けるようになった。目当ては西方からの穀物の輸入、そして船の建造に使う木材である。石碑に刻まれて残っている条文によると、アテナイはイオニア系ギリシャ都市であるレギオンとレオンティノイだけでなく、シチリア島北西部の非ギリシャ系都市セゲスタのエリュモス人ともそのための条約を結んでいる。

 またツキディデスは、当初はギリシャ本土とエーゲ海地域だけに限定されていたアテナイとスパルタの紛争、ぺロポネソス戦争(BC431年~BC404年)を拡大させた要因として、BC430年代後半にエピダムノス(現在のアルバ)がこの紛争に引きずり込まれコルキュラ側について真っ先に参戦したのは、第一義的にはコルキュラがアドリア海への入口という実入りのいい西方航路上に位置していたからだが、加えてこの都市がギリシャで二番目に大規模な三段櫂船の船隊を有しており、さらに民主政を敷いていたからでもあったことを挙げている。ぺロポネソス戦争の最初の10年間、アテナイはいたって真剣にシチリア内部に揺るぎない軍事的影響力を擁立しようと企てたが、その試みは完全に裏目に出て、思いもよらない事態をもたらした。シチリアのギリシャ諸都市がゲラで会議を開き政治的団結を誇示したのである。議長を務めたのは民主政シュラクサイの一政治家だった。およそ10年後のBC421年、スパルタとの「ニキアスの和約」の時期に、アテナイは再びシュラクサイに関心を向け、この都市を滅ぼさないまでも、せめて弱体化させようと考えた。これは戦略的理由によるものだった。いずれスパルタとの紛争が再燃したときには、シチリアの資源をより入手し易くなっているかどうかが、勝敗の鍵を握ることになる可能性が高いからだ。シュラクサイはアテナイに匹敵する面積と富と人口を持ち、しかも当時アテナイと同じく民主政を敷いていた。そのため民主政の樹立による抑圧的な寡頭かとう政あるいは僭主せんしゅ政からの解放を約束して民衆を味方につけようとしたアテナイの作戦は全くの不発に終わった。それでもアテナイはBC415年~BC413年にかけてシチリア遠征を強行したが。惨憺たる失敗に終わった。アテナイに帰りついた者はほんの一握りだった。多くの者が戦争捕虜となり、採石場で働かされ、次第に衰弱して死んでいった。

 その後しばらく、シュラクサイとアテナイは政治面では反対の道を進むことになる。シュラクサイの民主政はより急進的なものになり、一方のアテナイは、二度にわたって寡頭かとう派支配という反動期を経験するとともに、BC404年にスパルタに最終的な敗北を喫するという致命的な打撃を受ける。しかし、BC5世紀最後の10年間に当るこの時期、シュラクサイにとって対処すべき外国の対抗勢力はアテナイだけではなかった。BC409年には、BC480年に撃退されたカルタゴ人が捲土重来を期して来襲した。ここにBC413年以降、アテナイで問われ続けていた疑問がある。民主政体が帝国を運営し、大々的な戦争に勝つことははたして可能なのか? BC404年に示された最終的な答えは、明確な否定だった。そしてシュラクサイでは、民主派勢力は対外的な軍事的敗北を待たずに大きな政治的敗北に見舞われ、BC405年、カルタゴの脅威が強まるとともに民主政は突如として断ち切られる。ここで挙がってきたのは、シュラクサイとシチリアの全ギリシャ都市が必要としているのは一人の強者であり、ギリシャ人同士のいがみ合いを抑え込み、統一のとれた抵抗勢力にまとめ上げる力を持つ総司令官という主張だった。ここに登場したのがディオニュシオスなる人物だった。ディオニュシオスはカルタゴ勢を撃退したうえに、イタリアのアドリア海沿岸部にちょっとしたミニ帝国も建設した。ディオニュシオスは曲りなりにも世襲君主制の樹立に成功し、死後はディオニュシオス1世と呼ばれている。早い話が、シュラクサイとシチリアは僭主せんしゅ政に戻ったのである。それは私兵や傭兵の武力に支えられた独裁政治であり、複数の政略結婚、無節操な住民の移動、外国人への市民権の付与によって強化された。

 シュラクサイの僭主せんしゅ政王朝はディオニュシオス1世の死後、それほど長くは続かなかった。BC4世紀半ばには不十分ながらも民主政が復活し、強制的な土地と家屋の再配分など、貧困層に有利な改革が実施されている。だがギリシャ世界の未来は、民主派、寡頭かとう派のいずれの共和政体でもなく。ギリシャ人が「覇者」と呼んだ政治的強者たちの手に握られる運命だった。BC4世紀半ばにはペルシャ帝国の小アジア南西部のカリアの総督マウソロスに、そしてBC330年代までにはギリシャ本土はすべてマケドニアのフィリッポス2世の勢力下に入った。フィリッポスは自らのギリシャ支配権を温存し不滅のものにするために、BC337年にコリントス同盟を結成する。その後まもなくコリントス市民ティモレオンが娘市であるシュラクサイに派遣され、極度の経済的・政治的混乱からシュラクサイを再建させた。ティモレオンはシュラクサイでも他のギリシャ系シチリア都市でも卓越した手腕を発揮したため、事実上シュラクサイの第2の創建者となり、BC330年代半ばにシュラクサイのアゴラに葬られている。



(フェニキア人のカルタゴ、ギリシャ人のシュラクサイ、そしてローマ)


 BC5世紀、西方植民市に住むギリシャ人にとってチュニジアのカルタゴは交易における手強いライバルだった。カルタゴはギリシャ人に対するフェニキア人の敵対心から誕生した都市国家だったと言っても過言ではない。BC800年ごろにフェニキア人によって建設されたカルタゴは、当初から金属を中心とする西地中海交易をめぐってギリシャと激しく争っていた。しかし、長い間都市国家の形態を保ち、市民たちも戦いより交易を好んでいたため、他国の征服よりも同盟や保護による外交政策を主な方針としていた。BC480年の時点で、ギリシャの交易ルートは現在のフランスのローヌ渓谷、イタリア半島、シチリア島に限定されていた。その中で西方のギリシャ最大の拠点がシチリア島とその中心都市シュラクサイだった。シュラクサイはコリントスがBC733年に建設していた。ギリシャ軍がサラミスの海戦で、アテナイ軍がペルシャに大勝(第2次ペルシャ戦争)したBC480年に、シュラクサイも始めてカルタゴと戦って勝利を収め、シチリア島をカルタゴの手から守ることに成功した。その後はBC5世紀の間にカルタゴがギリシャ人を悩ませることはほとんどなかった。シュラクサイは、ペロポネソス戦争中に、アテナイによるシチリア遠征(BC415年~BC413年)の標的にされたが、それを打ち破った。この後、シュラクサイは再びカルタゴの攻撃にあうが、この敗戦を乗り越えてまもなく黄金期を迎える。その後、シュラクサイは勢力をシチリア島だけでなく、イタリア南部からアドリア海へと広げていった。黄金期に入ってもカルタゴとの戦いは続いたが、シュラクサイには勢いがあり、一時はカルタゴをもう一歩で占領するところまで追いつめ、また別の戦いではコルキュラ(コルフ)島を手中にして、アドリア海の領土を増やしている。しかし、BC300年を過ぎるとカルタゴの勢力が増し、シュラクサイはイタリア本土でもローマの脅威に直面するようになった。ギリシャ北方のアドリア海側のエペイロス王ピュロスがシュラクサイに援軍を差し向けようとしたが、シュラクサイはピュロス王と仲たがいしてしまい、BC3世紀の中ごろ以降はイタリア本土にはローマ人が君臨することになった。こうして地中海西方の舞台に、カルタゴ、ギリシャ、ローマという3人の主役が姿を現すことになった。

 しかし、東方のヘレニズム諸国は不思議なほど西方に関心を示さなかったようだ。この時点ではローマ人自身もまだ自らを世界の覇者になるような存在とは考えてもいなかったと思われる。BC264年にカルタゴとの戦い(第1次ポエニ戦争)に突入したのも、野心というよりは恐怖に駆られてという面が大きかった。しかし、BC201年にカルタゴの名将ハンニバルとの長い戦いに勝って(第2次ポエニ戦争)カルタゴとの争いに決着をつけると、自信を深めたローマ人は東方に目を向け始めることになった。ようやくこの頃にはヘレニズム諸国のギリシャ人の中にも歴史の新たな動きに気づき始めた者が現れるようになった。東方のヘレニズム世界は、その後のローマとの戦いの中で、強大な力を持っていることを歴史に証明していくことになる。それは一言でいえば、異民族をギリシャ化することができるというギリシャ文明の持つ偉大なる力だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る