第112話 古代ギリシャの科学と哲学、そして文化人たち

 歴史書の誕生と発展は、アルカイック期(BC8世紀前葉~BC6世紀)と古典期(BC5世紀~BC4世紀中葉)のギリシャ人が切り開いた合理的思考と科学的考察の始まりの一側面にすぎない。小アジアのイオニア地方では、人間社会とその進展についての探究と並行して、科学と哲学の探求が現れる。BC6世紀の初めにはイオニア地方のミレトスのタレスが哲学的探求を、その後半にはミレトスの北西に位置するサモス島のピタゴラスが数学と天文学の最初の探求を開始している。ピタゴラスにあっては、この二つが結びついて神秘的禁欲主義の形を取り、彼の影響は深く長く続く。タレスと同時代に同じミレトスで生きたアナクシマンドロスと、その弟子アナクシメネスは、同じように自然ととその本質について考察する。このBC6世紀の終わりごろ、ミレトスの北に位置するコロフォンのクセノファネスは、神人同形論的多神教を批判し、非人格的な唯一神の神学へ一歩を踏み出した。ミレトスをはじめとするこの小アジアのイオニア地方の植民市が知的発動の中心地だった。なぜこの地域だったかといえば、やはり文明の中心地だった西アジア諸国からの影響があったからだった。さらにミレトスが豊かな都市であったことも重要な意味を持っていた。当時の思想家たちは裕福で働かずに思索を行える人びとに限られていたからである。このイオニア地方を中心とした知的活動は、まもなくギリシャ世界全体へ広まっていく。

 ところが、BC5世紀の古典期に入ると、そのような洞察力を失ってしまった。イオニア学派の思想を埋没させたのは、民間に広まっていた迷信だけではなく、他の学派の影響もあった。その一つにイオニア学派と長く共存し、イオニア学派が衰退した後も長く影響力を振るうことになったエレア学派があった。この学派の中心的思想は「思考によって捉えられる事実こそが永遠不変のものであり、感覚によって捉えられる物質界の現象は単なる虚妄にすぎない」というものだった。イタリア半島南部のギリシャ植民都市群マグナ・グラエキア(大ギリシャ)の都市エレアのパルメニデスは、その生まれた町で弟子の自然哲学者ゼノン(キティオン出身のストア派の創始者ゼノンとは別人)を育てた。シチリア島南部のアクラガスのエンペドクレスは、同じ頃、クセノファネスより明確に、詩の形を用いて存在論的概念を提示している。彼らの同時代人である小アジアのエフェソスのヘラクレイトスは、すべては永劫に続く戦いであり、運動し続けながら成りゆくものであることを述べている。これらの初期思想家たちの著作は、さまざまな著述家たちの引用による断片しか伝わっていないが、それらによっても彼らの思考の力強さと独創性を十分に感じ取ることができる。

 しかしながら、タレスをはじめとするイオニア学派の「あらゆる物質は空気、水、土、火の四元素からなる」という四元素説にしても、宇宙は閉ざされた天球が層を成したもので、太陽、月、惑星は地球を中心として、各天球上の決められた軌道を動いているという天動説にしても、ギリシャの思想が演繹えんえき法に偏り過ぎていたことをはっきりと示している。実験によって検証するのではなく、広範な現象を説明できそうなもっともらしい理論の構築に力を注いだことこそが、ギリシャ思想の持つ最大の欠点だった。ギリシャ思想は、それまでに例のない厳密な論理的思考を生み出すという輝かしい成果をもたらしたものの、一方では感覚の刺激によって直接知覚される対象を徹底的に疑うというマイナスの姿勢を生み出した。経験に基づいた手法を重視したのは、BC5世紀のヒッポクラテスに代表される医学者たちだけだった。



(著名な哲学者・科学者)


〈タレス〉

 BC6世紀にミレトスのタレス(BC624年ごろの生まれ)とアナクシマンドロスが天地万物の性質について思索を開始したとき、神話から科学への重要な一歩が踏み出された。当時エジプト人はすでに巨大建造物を建設する過程で、土木技術や測量術など数多くの科学知識を蓄積していたし、バビロニア人もまた重要な数学上の発見を行っていた。イオニア学派はそのような学問上の成果と宇宙論的な概念をエジプトとバビロニアから取り入れたものと思われる。タレスは「世界の根源は何か?」という画期的な問いを考え出し、それは水であるという説をとなえた。超自然的な神々ではなく、実在の物資である「水」によって世界を統一的に説明しようとした点で、彼は哲学史の冒頭を飾る巨人として位置付けられている。タレスはBC640年ごろに小アジアのミレトスで、ギリシャ人ではなく、フェニキア人の家庭に生まれた。当時のミレトスはトラシュブーロスという僭主せんしゅの下で、繊維産業や商業のみならず、芸術・文学・哲学でもギリシャ世界の中心地となった。当時、ギリシャ本土では科学がいまだに神話と混同されていたのに対して、ミレトスでは最初のギリシャ哲学学派、つまり自然主義学派を築き上げていた。それを築き上げたのがタレスだった。タレスは森羅万象を形作っているすべてのものが、唯一かつ共通の原理を有していることを初めて理解し、それを水と同定した。それは今では誤りだが、史上初めて一元論に哲学的根拠を与えた。

 タレスをはじめとするイオニア学派の哲学者たちが唱えた個々の理論は、最終的には実を結ばずに終わったが、彼らが自然を合理的に説明しようとした姿勢はまさに画期的なものだった。例えば、レウキッポスとその弟子デモクリトスによって展開された原子論は、あらゆる物質は「アトム(原子)」というそれ以上分割できない微小な粒子によって構成されるとした点で、現代の物理学にも思考の枠組みを提供するものだった。その後、アトム論はBC4世紀に退けられ、代わりに初期のイオニア学派の考えを基にした「あらゆる物質は土、火、気(空気)、水の四元素からなり、この四元素が物質ごとに異なった割合で混合されている」という考え方が主流になる。この学説はそれからルネサンスを迎えるまで西洋科学を支配していくことになった。もちろん。この四元素説が誤りであったことは言うまでもないが。それを基盤にさまざまな議論が行われ、いくつかの発見があったことを考えると、歴史的に大きな意味を持った説だったといえるだろう。宇宙論的思弁から合理主義的懐疑論へ、これこそギリシャの哲学的思想がその初期の時代からBC430年ごろのソクラテスの教えが実を結び始める時代まで辿った道筋である。ソクラテスがその語らいと我が身を持って起こした波紋は決定的だったので、今日でも彼以前のすべての哲学をまとめて「ソクラテス以前」と呼んでいるほどである。


〈ピタゴラス〉

 ピタゴラス(BC570年~BC490年ごろ)はサモス島で生まれ、幾何学や数学の分野で活躍し、「ピタゴラスの定理(三平方の定理)」など重要な発見をしたことで知られるが、後に南イタリアのクロトンで創始した教団は、密儀を教える秘密結社のような組織だったといわれる。

 BC8世紀~BC6世紀の時代に最も栄えたギリシャの植民地は、南イタリア沿岸のギリシャの植民地群「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」だった。ギリシャ人は海からここに到達し、ブリンティシとタレントゥム(タラス:現在のタラント)に上陸し、いくつかの都市を創建した。その中でも、シバリとクロトンはすぐに最も人口の多い発展した都市になった。シバリは一説では、ある時期には30万の人口に達したというが、その奢侈しゃしは余りにも有名だったから、洗練されているの同義語として「シバリス風の」という形容詞が生まれたほどだった。市民が没頭していたのは、料理、流行の衣服、スポーツだけだった。BC6世紀末ごろ、より真面目なクロトンと軍事衝突し、粉砕されてしまった。1世紀も経たないうちに、シバリの残骸を探しに来たヘロドトスは何らの形跡も見つけられなかったほどだった。そしてクロトンも敵を滅ぼしてからは享楽主義に陥ってしまった。BC580年に小アジアの沖合にあるサモス島に生まれたピタゴラスは、この遠いイタリアの都市が学問の盛んな大都市だという噂を聞いていた。ピタゴラスは旅行家でもあったので、アナトリア、さらにインドにまで訪れていたようだ。祖国には彼の忌み嫌っているポリュクラテスという僭主せんしゅが出現したため、彼はクロトンに移住して男女共学のアカデミー(学園)を創設した。ピタゴラス自身は算数や幾何を教えていて、直角三角形における有名な「ピタゴラスの定理」を発見している。さらに振動する弦を研究して、ハーモニックス(倍音)の原理も発見している。また、地球は西から東へと自転しており、その他の諸々の遊星とともにコスモス(宇宙)を形成しているとも述べている。すなわち、宇宙は閉ざされた天球が層を成したもので、太陽、月、惑星は地球を中心として各天球上の決められた軌道を動いているとした。その考えは2000年近くもの間、天文学を誤った方向へ導くことになってしまった。この宇宙観、つまり天動説を集大成したのは紀元後2世紀のエジプトのアレクサンドリアの有名な天文学者プトレマイオスである。プトレマイオスが行った惑星の位置の計算と予測は、コロンブスの時代まで航海の指針として用いられた。但し、その予測は誤った前提に基づいていたため、紀元後15世紀までのヨーロッパの宇宙観を不毛なものにした。

「彼らは数を万物の根源と考えていた」と、アリストテレスはピタゴラスのアカデミーをやや批判的なニュアンスで述べているが、そのアリストテレスの師であるプラトンも、ピタゴラスの思想「感覚世界に対する懐疑論」から大きな影響を受けていた。数は明確に定義された完全性も、神の実在であるイデアの抽象性も備えているため、プラトンには非常に魅力的に映った。ピタゴラスの数や幾何学に対する認識は神秘主語的な傾向を持っており、彼は後にクロトンで密儀を教えるピタゴラス教団を創設する。当時の数学者の多くがそうだったが、ピタゴラスも信仰心にあつく、「ピタゴラスの定理」を発見したときには、牡牛を神に捧げて祝ったと言われている。しかし、ピタゴラスが創設したアカデミーは余りにも禁欲的で独善的だったためクロトンの人びとの反感を買い殺されてしまった。80歳だった。彼の「注釈書」の数々は、娘のダモナに託されていた。彼女は後にこれを世に広めることとなった。


〈アテナイの哲学者たちとソフィストたちの修辞学〉

 アテナイを哲学の祖国にしたのは、他のギリシャ諸都市よりもより詮索好きで寛容にして、いろいろな思想を受け入れやすくしたその国際的な性格にあった。アテナイにソクラテスが現れるまでは、哲学は移民がもたらしたものだった。だが、スパルタは哲学を「不和や無用の誹謗への扇動」にすぎないと見なして禁止したのに対して、アテナイは哲学の愛好家たちに喜んで門扉を開けたのである。これによって、現代の人びとはアテナイを古代ギリシャの天才たちを象徴するポリスと見なしているのである。哲学の媒介者はソフィストたちだった。この言葉「ソフィスト」は時代と共に軽蔑的な意味を帯びたが、当初は「知恵」を意味していた。ソフィストたちは話し方や文体についての必要条件を初めて厳密にしかも簡潔に確定した。そうしたソフィストの一人で、トラキア地方のギリシャ人の町アブデラからアテナイに来て、雄弁と会話を教授する学校を創設したのはプロタゴラスだった。そこへ入学するには1万ドラクマ(今の600万ユーロ)が必要だったと伝えられている。ソフィストたちへの人びとの反感はこの高すぎる授業料のせいもあったが、主にその特殊な論証や弁証が「詭弁きべん」と見なされたことにあったようだ。ソクラテスは、「人間が万物の尺度である」と唱えたプロタゴラスの思考を継承して、人間の魂の研究を関心の中心に置き、各人にまず自分自身を知るよう努めるべきであると説いた。これはデルフォイ神殿に書かれていた有名な格言に与えた解釈に基づいている。自らを観察することと道徳的反省、これがソクラテスの常に心掛けたことであった。ソクラテスは日常生活のありふれた例から始めて、徳と真理の認識のためにこそ知性を用いるよう教えた。BC1世紀、共和制ローマ時代の政治家キケロはこう言っている。

“ソクラテスは、哲学を天上から降ろして、我々の町に住まわせ、我々の家の中にまで導き入れて、実践的道徳、善悪の問題に取り組ませた最初の人である”

 修辞家のイソクラテスはBC338年に100歳近い年齢で亡くなったが、あらゆる弁舌家の中でも弁論の技術を最も見事に練り上げた人である。彼自身は健康に恵まれず声が細かったので自分で演説することはできなかったが、他人のために原稿を書いた。イソクラテスは修辞学の教育に貢献し、彼の修辞学の学校はアテナイの若者たちを惹きつけ、プラトンのアカデミアに匹敵するほどだった。また、イソクラテスは確固たる政治思想を持っていた。彼はギリシャが内輪争いによって疲弊することを憂え、抗争を止めて一つのリーダーシップの下に結束し、アジアのペルシャ征服に取り組みべきだと考えていた。その主役としては、当初はアテナイを想定していたが、後にはアテナイがその任に耐えられないことを認め、マケドニアのフィリッポスに期待を寄せた。


〈ソクラテス〉

「有難いことに、私は野蛮人ではなくギリシャ人に、女ではなく男に、奴隷ではなく自由人に生まれた。だが、とりわけ有難いことに、ソクラテスの世紀に生まれたのだ」とプラトンは書いている。ソクラテスは著作を残していない。ソクラテス(BC469年~399年)の思想を書き残したのは彼の弟子たちだった。ソクラテスの「すべての人の魂は不滅だが、正しき人の魂は不滅であるとともに神聖だ」という言葉も残されている。

 進歩的な考えを持っていたアテナイ人だが、古い伝統を守り続ける一方で、寛大さや革新性に限界があった。哲学者ソクラテスの処刑がその典型だ。BC469年に中流家庭に生まれたソクラテスは勇ましい愛国者として何度か大きな戦いに参加した。アルカイック期(BC800年~BC500年)にはミレトスのタレスやヘラクレイトスら初期の哲学者によって、宇宙の本質、生命の起源、魂の本質といった、それまでは神話でしか説明されていなかった神秘的な事象を分析的に解明しようとする試みが始まっていた。ソクラテスも初めは同じような研究を行っていたが、次第に倫理的な問題を追及するようになっていった。ソクラテス自身の著作は一つもないが、弟子のプラトンがソクラテスの言葉を記録に残している。プラトンの「対話篇」は、友情の本質から公正な国家における理想的な機構まで、さまざまな問題について穏やかな反語を用いながらソクラテスが友人や知人と繰り広げた問答を再現している。ソクラテスの高潔な人格と完璧な知性、ユーモアのセンス、考察の新しさに惹かれ、良家の子弟たちも彼の門弟になった。だがその中には、アテナイの民主主義に批判的だった者もいた。

 ソクラテスの周囲にはあらゆる年齢層・社会階層・思想の人びとがいた。貴族で騒ぎ好きなアルキビアデスから、高貴で威厳のあるプラトンまで、反動的人物クリティアスから、社会主義者アンティステネスや、無政府主義者アリスティッポスに到るまで及んでいた。彼らはそれぞれに師匠を見て書いたのである。ソクラテスの父親は地味な彫刻家で、母親は産婆だった。ソクラテスは哲学を考え出してその元祖となった。ソクラテスへの有罪判決は古典時代ギリシャの最大の謎の一つである。当時70歳になっていたソクラテスは30人委員会への服従を拒絶し、クリティアスの悪政を告発した。ソクラテスの敵たちが彼を起訴したのは、その政治なものではなく、宗教的・道徳的なものだった。BC399年に提訴されたのは、「神々に対する公然たる不敬行為と青少年を堕落させたこと」による。陪審は1500名の市民から成っていた。民衆はソクラテスの巧妙な論法を本能的に嫌悪していた。自分たちがそこから締め出されていると感じていたからだ。陪審員たちはソクラテスを有罪として死刑を唱え、それに代わる罰を彼に申し出させた。するとソクラテスは、それまでずっと私利よりも徳や知識を追求せよと人びとに説いてきた自分を、国はオリンピア競技会の勝者と同じように遇し、一生面倒を見るべきだと言った。怒った陪審員たちによって、ソクラテスは有罪判決を受け死刑となった。そして悠然と毒ニンジンを飲み、敷き藁の上に寝そべり死を待った。ソクラテスの死は、プラトンら彼の弟子たちに大きな衝撃を与えたと同時に、アテナイの黄金時代の終わりを告げる出来事でもあった。その後も偉大な哲学者や詩人、芸術家、雄弁家、歴史家は確かに現れたが、発見と試みに満ち、自信に溢れた輝かしい時代は過ぎ去った。


〈プラトン〉

 プラトン(BC427年~347年)はエレア学派の思想を深めて、独自の「イデア論」を展開した。人間が現実の生活で経験することは、イデアの面影おもかげ(模造)にすぎない。そしてイデアとは、現実世界の事物・現象の原型として、思考によって、つまり問答法や弁証法などの体系的思索と直観によって到達できる永遠不変の実在であるとプラトンは考えた。つまり、感覚は我々を欺き、間違った方向へと導くが、魂は理性を用いることでイデアを理解できるとした。この思想のルーツの一つはピタゴラス学派の幾何学にあった。こうしたプラトンの思想は、哲学以外の分野にもやがて大きな影響を及ぼすことになる。例えば、後のキリスト教における「霊肉二元論」で、人間は神から授かった魂と、魂の牢獄である肉体という二つの要素に分離できるとするキリスト教の思想には、明らかにプラトンの影響が感じられる。そのような観念的な「イデア」を論じながらも、プラトンは現実社会にも大きな関心も持っていた哲学者だった。彼の最大のテーマは社会制度、つまり国家の体制に関する問題だった。

 プラトンは自らの思想を、師であるソクラテスとそのもとを訪れてきた人物との対話という形式で文章にした。こうして書かれた「対話篇」は、哲学における最初の書物といってよいだろう。なかでも「国家」と呼ばれる作品は、社会の仕組みとその倫理的な目標について体系的に述べられた最初の書物となっている。しかしそこで理想とされたのは、スパルタを連想させる全体主義国家だった。その国では結婚は最高の遺伝子を残すために管理され、家族や私有財産は存在せず、文化と芸術は検閲を受け、教育も厳しく管理されている。このような国家を統治するごく少数の人間は、イデアの世界を理解し、この世に正しい社会を実現するために必要な知恵を持つことを義務づけられている。知恵とは本質を理解する力のことであり、人は真実を見ることさえできれば、必ずそれにしたがって行動するはずだとプラトンは考えた。プラトンはソクラテスの思想を多く踏襲したが、ここに見られる理想の国家観は、ソクラテスとは全く違ったものだった。プラトンが理想とした国家では、大多数の人が教育と法律のもとで管理され、ソクラテスが生きるに値しないと評した「味気のない生活」を強いられているからである。「国家」をはじめてするプラトンの著作は、その後何世紀にもわたってさまざまな議論と模倣者を生み出した。プラトン以降の西洋哲学は、事実上すべてプラトンの脚注であると述べる哲学者もいるほどだ。現実の世界を嫌い、強い偏見を抱いていたプラトンだったが、彼の思想が、倫理、美意識、知識の根拠、数学の本質など、どれをとっても重要な哲学の命題を先取りしていたことは間違いない。

 プラトンは古い貴族の家系の出身であり、母親は反動的人物クリティアスの姪だった。彼の本名はアリストクレス(優れて有名の意)だったが、後にプラトン(広大)と呼ばれたのは、肩幅が広くて運動選手のような体格をしていたからである。実際、彼はスポーツマンであり、戦功で大勲章を受けている。20歳ごろにソクラテスと出会い、最も勤勉な弟子になった。ところが、家族が原因で、ペリクレスの死後のいろいろな大事件に巻き込まれて、追放されてしまう。当初はメガラのエウクレイデスの許に、次にリビアのキュレネ、最後にエジプトに避難し、ここで数学と神学を学んだ。BC395年にはアテナイに戻るが、再び逃れて、南イタリアのタレントゥム(タラス:現在のタラント)でピタゴラス哲学を研究し、ここで知り合ったディオンが彼をシチリア島のシュラクサイに招き、そこの僭主せんしゅディオニュシオス1世に紹介した。ところが、ディオニュシオス1世の怒りを買い、奴隷として売り飛ばされそうになったが、友人たちの資金援助で助かり、さらにその資金でアテナイに「アカデミア」が創設された。それは歴史上初めての大学と呼んでもおかしくないだろう。生徒たちは金持ちの家庭から選ばれた子弟たちで女性も許可されていた。独特の身振りや話し方をして、正門には「幾何学者に非ざる者入るべからず」と刻まれていた。幾何学は算数、法律、音楽、倫理と並んで、この学校の教育では重要な地位を占めていた。プラトンは助手たちを使って、講義、対話、公開討論などさまざまな方法で教えた。「アカデミア」の四大後援者の一人にディオニュシオス2世がいた。彼は父の地位を受け継ぐと、ディオンの助言でプラトンに莫大な寄付をした。その後、ディオンはアテナイに亡命し、プラトンと一緒になった。その後、プラトンはアテナイを離れなかった。プラトンは暖かい人間味のある純真な人物で、80歳まで生きた。


〈アリストテレス〉

 プラトンが設立した「アカデミア」で学んだのがアリストテレス(BC384年~BC322年)だ。アリストテレスは哲学者の枠を超えて、科学者、数学者、教育者としても広く活躍した。その著作は1000年以上もの間、西洋における教育の根幹となった。「万学の祖」と呼ばれた彼の思想体系は、中世のスコラ哲学をはじめ、現代の生物学・物理学・数学・論理学・文芸批評・美術・心理学・政治学など、ありとあらゆる学問に思考の枠組みを提供するものだった。アリストテレスの偉大さは、その膨大な学問分野の思考法や研究方法を体系化したことと、その体系が極めて柔軟性に富んでいたことにある。

 アリストテレスとプラトンはともに、考えられる最良の社会形態は都市国家、ポリスであるとし、ポリスが正しく機能するためには、絶えざる自己改革と節度が必要だと考えていた。しかし、2人が一致しているのはこの点だけだ。ポリスが正しく機能している状態、国家が幸福な状態とは何かを思索したアリストテレスは「中庸ちゅうよう」というギリシャの伝統的な概念に行き着く。中庸とは、行き過ぎでも不足でもない、その中間の状態という意味だ。両極端を排したそのような心の状態こそ、市民が持つべき「品性の徳」だとした。この思想の正しさを裏付けるため、アリストテレスは150以上のギリシャの都市国家の国制とその歴史的変遷を、体系的な形で収集していった。このようにアリストテレスは、経験的な事実の重要性にいち早く着目した哲学者だった。

「アカデミア」の生徒のうちで、プラトンの死を最も悲しんだのはアリストテレスだった。彼は師のために祭壇をしつらえた。アリストテレスはトラキアにある小さなギリシャ植民地スタゲイラからアテナイにやって来た。父ニコマスはマケドニアの首都ペラで、マケドニア王アミュンタス(フィリッポスの父でアレクサンドロスの祖父)の侍医をしていた。そしてアリストテレスも父から医学と解剖学の手ほどきを受けていた。だが、プラトンと出会い、仕事を変えてしまった。アリストテレスは20年間プラトンの弟子だった。アリストテレスはプラトンよりも遥かにバランスのとれた思想の持ち主で、現実世界についてもそれほど懐疑的ではなかった。プラトンは思想家というよりも芸術家だったが、アリストテレスの思想は経験的事実に基づく考え抜かれた帰納きのう法により生じたものだった。アリストテレスはプラトンの教えを全面的に否定したわけではなかったが、その方法論は全く異なったものだった。生物学に強い関心を寄せたアリストテレスは、何事でもまず、大量のデータを収集し分類することを重要な方法論としていた。そして現実世界にしっかりと足場を置き、「普遍的なイデア」というプラトンの思想を退けて、個別の事実から一般的な法則を導き出す帰納的な論理を展開した。

 BC347年のプラトンの死後、アリストテレスはアテナイを去って小アジアに遊び、レスボス島に渡って研究に時を過ごすが、BC342年、マケドニア王フィリッポス2世に招かれ、王子アレクサンドロスの家庭教師としてペラで7年間を過ごす。アレクサンドロスはアリストテレスをたいそう尊敬した。そして権力を継承したときには、権力をただ文化のためにしか行使しないつもりだと誓ったほどだった。アレクサンドロスが王位を継承し、西アジア遠征に出かける前年のBC335年、アレクサンドロスの教育係の使命を終えると、アリストテレスはアテナイに戻り、ここで「アカデミア」と競って、郊外の神域の森「リュケイオン」に学園を開設した。これは貴族だけに限られていた「アカデミア」とは異なり、中流階級の子弟を募集した。またアリストテレスは科学に焦点を合わせた教育を実施した。弟子たちとともに500種以上の昆虫や動物を研究し、詳細な描写を残している。クジラやイルカが哺乳類で、子育てや呼吸をすることを最初に発見したのも彼だった。アレクサンドロス大王急死の報が届くと、アリストテレスは瀆神罪で告発された。こういう非難はソクラテスに対しても投げかけられたものだった。身に危険が及んだため、アリストテレスは弁明しても無用だと悟り、こっそりとアテナイを去り、エウボイア島のカルキスに逃れた。最判所は欠席裁判でアリストテレスに死刑を宣告した。アリストテレスは翌年その地で病死した。


〈タレスとアリストテレス〉

 ミレトスは単なる交易の中心地というだけでなく、考えを共有する場でもあった。そこでは何十もの多様な文化の人びとが出会っては言葉を交わし、ミレトス人もさまざまな地へ旅して多様な言語や文化に触れた。そのため伝統と伝統が出会い、また迷信と迷信が衝突し合うことで、新たな考え方への扉が開かれ、革新の文化、特に因習的な知識に対して積極的に疑問を投げかけるという極めて重要な姿勢が育まれた。さらに、豊かなミレトス人は余暇を生み出し、人間の存在に関する問題について時間をかけてじっくり考える自由を得た。このようにいくつもの好条件が組み合わさったことで、ミレトスは国際的で洗練された楽園であると同時に学問の中心地となり、思考の革命に必要なあらゆる要素を完璧な形で生み出したのだった。このような環境の中、ミレトス、そして後にはイオニアの幅広い地域で、思索家集団がそれまで何千年も受け継がれてきた宗教的で神話的な自然についての解釈に疑問を抱き始めた。彼らは哲学と科学の両方を生み出すさきがけとなる。アリストテレスによれば、その中でも最初に登場したのが、BC624年ごろに生まれたタレスだったという。ギリシャの哲学者の多くは貧しい暮らしをしていたといわれるが、タレスは例外で、裕福な商人で何の問題もなく思索に時間を割くことができた。また都市国家の政治にも深く関わり、支配者トラシュブロスと懇意にしていたともいわれている。タレスは自分のお金で旅をした。エジプトを訪れたときには、エジプト人はピラミッドを建てる技術を持っていながらその高さを測る知恵に欠けていることを知った。タレスはエジプトの幾何学の手法を応用してピラミッドの高さを計算してみせ、また海上の船までの距離を測る方法も披露し、エジプトでかなりの有名人となった。タレスはエジプトの数学をギリシャへ持ち帰り、幾何学という呼び名をギリシャ語に翻訳した。後に偉大な幾何学者となるエウクレイデス(ユークリッド)はその著書「原論」にタレスの定理をいくつか収めている。しかし、数学的洞察は確かに優れていたものの、タレスが名声を勝ち得た本当の理由は物理世界の現象を説明するための方法論にあった。タレスの考えでは、自然は神話の世界ではなく、科学の原理に従って振る舞う。その原理を使えば、これまで神の介在によるものとされていたあらゆる現象を説明して予測することができる。タレスは史上初めて日食の原因を解明したとされており、またギリシャ人として初めて月は太陽光を反射して輝いていると論じた。タレスの地震についての説明は今では間違っているが、それでもその説は革新的であった。当時は神ポセイドンがいらいらして三つ又の矛で地面を叩くことで地震が起こると考えられていた。しかし、タレスはこの世界は果てしなく広がる水面に浮かんだ半球であり、その水が跳ねることで地震が起こると考えた。地震を自然過程の結果として説明し、経験的および論理的な論証を使って裏づけようとした。最も重要な点はそもそもなぜ地震が起こるかという疑問に焦点を絞ったことにある。科学的疑問を問うという考え方を打ち立てたのがタレスだった。アリストテレスはタレスが過去から徹底的に決別したことを評価して、タレスやその後のイオニア人思索家たちを最初のphysikoi(物理学者)と呼んだ。アリストテレスがこの言葉を選んだのは、超自然的な説明を探すtheologoi(神学者)とは対照的に、現象に対して自然に基づく説明を探す人たちを指すためだった。


〈ピタゴラスとアリストテレス〉

 数学は物理の原理をより簡単に表現し、その関係性に光を当て、それに関する推論を導いてくれる。しかし、BC6世紀初めには数学の大部分はまだ発明されていなかった。人類はまだ自然の仕組みを理解する上で数学が役に立つことには気づいていなかった。科学的概念を表現する言語として数学を始めて使ったといわれているのは、ギリシャ数学を打ち立て「哲学」という言葉を作った人物ピタゴラスである。ピタゴラスはミレトスから湾を隔てたサモス島で育った。年老いたタレスとも会っている。ピタゴラスもタレスと同じくさまざまな地、おそらくエジプトやバビロニアやフェニキアも訪れたと思われる。40歳のとき僭主せんしゅポリュクラテスの下での生活に耐えられなくなったピタゴラスはサモス島を離れ、南イタリアのクロトンへ辿り着いた。その地で大勢の弟子を集め、物理世界の数学的秩序について悟りを開いたといわれている。ピタゴラスに関する言い伝えのうちどの程度までが真実なのかは誰にもわからない。ピタゴラスの定理を証明したのはピタゴラスではなかったかもしれない。最初に証明したのは弟子の一人だったと考えられているが、この公式自体はすでに何世紀も前から知られていた。とはいえ、ピタゴラスの真の功績は、何か具体的な法則を導いたことではなく、宇宙は数学的関係性に従って構築されたという考え方を育んだことにある。ピタゴラスの重要性は、数に名誉を与えて商業という実用的な分野から切り離し、代わりに数の振る舞いと物事の振る舞いとの間の対応関係を示したことにある。タレスは、自然は秩序立った法則に従うと語ったが、ピタゴラスはさらに歩を進めて自然は数学的法則に従うと断言した。そして宇宙の根本的真理は数学的法則にほかならないと説いた。ピタゴラスの考え方はプラトンをはじめとするその後のギリシャ人思索家、およびヨーロッパ中の科学者や哲学者に大きな影響を与えた。しかし、その後の科学の発展にとって飛び抜けて大きな影響力を発揮したのはプラトンの弟子で、後にアレクサンドロス3世の個人教師となるアリストテレスだった。

 ギリシャ北東部の町スタゲイロスで生まれたアリストテレスはかつてアレクサンドロス3世の祖父アミュンタス王の侍医を務めていた男の息子だった。彼は幼くして両親を亡くし、17歳でアテナイに移り住んでプラトンの「アカデミア」で学び始めた。「アカデミア」はアテナイ郊外にある木立が並んだ公共の庭園の名前である。プラトンとその弟子たちはその庭園によく集まりアリストテレスも20年にわたって通い続けた。BC347年にプラトンが世を去るとアリストテレスは「アカデミア」を去り、それから数年後に、まだ13歳だったアレクサンドロスの個人教師となる。マケドニア王フィリッポス2世がまだ無名のアリストテレスを息子の個人教師に選んだ理由は定かでないが、手厚い報酬をもらい他にもさまざまな恩恵を授かった。しかしアレクサンドロスが王位を継ぐと、50歳に近づいていたアリストテレスはアテナイに戻り、その名を知られることになる業績のほとんどを生み出す。アレクサンドロスと会うことは二度となかった。アリストテレスは数学を重視するというプラトンの考え方には満足していなかった。アリストテレス自身は抽象的な法則よりも自然の詳細な観察を重視し、その姿勢はプラトンの科学とも今日の科学とも大きく違っていた。アリストテレスは、万物は土・気・火・水という4種類の基本元素の組合せでできていて、それらの元素はそれぞれ固有の運動傾向を持っていると考えた。しかし、ときに自然な成り行きが妨げられて外部の何らかのものによって運動または変化が引き起こされることがある。このような変化を「猛烈な変化」、すなわち「力」と呼んだ。アリストテレスは変化を体系的に説明するというこの試みをphysics(物理学または自然学)と呼ぶことで、自らをかつてのタラスと結びつけた。アリストテレスの自然学は対象範囲が広く、生物と非生物、天空と地上の両方を含んでいた。アリストテレスは書き手としても多作で、170冊の学術書を書いたとされ、そのうちおよそ3分の1が現存している。気象論、形而上学、倫理学、政治学、弁論術、詩学、天体論、生成消滅論、霊魂論、記憶について、睡眠と覚醒について、夢について、予言・長寿・青年と老年について、動物の歴史と部分についてなど数多くの著作がある。かつての教え子アレクサンドロスがアジアの征服に乗り出す一方、アリストテレスはアテナイで「リュケイオン」と呼ばれる学園を創設した。 

 アリストテレスは偉大な教師で、しかも自然を隅々まで観察したものの、その知識の取り組み方は今日我々が科学と呼んでいるものとはかけ離れていた。古代ギリシャではピタゴラスやその弟子たちが編み出した数学法則によって物理世界を説明しようとするよりも、数々の出来事の目的を分析するほうがはるかに自然なことだった。目的を探すというアリストテレスの分析の特徴は後の時代の人間の思考に大きな影響を与えた。それによってアリストテレスは何世代にもわたる数多くのキリスト教哲学者に敬愛されることとなる。しかし、その特徴は今日の研究の道しるべとなっている科学原理とは完全に相容れなかったため、その後2000年近くにわたって科学の進歩は妨げられた。

 アリストテレスはBC322年、おそらく胃腸障害により62歳で亡くなった。その1年前、かつての教え子アレクサンドロス3世(大王)が逝去してマケドニア政権が崩壊すると、アリストテレスはアテナイを去った。この都市では市民にとって正しいことが、よそ者にとっては正しくない、この都市に住み続けるのは難しいと記している。アリストテレスはアテナイ市民ではなくよそ者だった。死後、アリストテレスの考え方は「リュケイオン」で学ぶ何世代もの弟子たちや、アリストテレスの評釈書を書く人たちによって受け継がれた。中世初期(紀元後5世紀~6世紀)にはあらゆる学問とともに影が薄くなっていたが、中世盛期(紀元後13世紀~15世紀)にはアラブ人哲学者の間で再び重要視され、後に西洋の学者たちが彼らから学んだ。アリストテレスの考え方は若干手直しされた上で最終的にローマ・カトリック教会公認の哲学となった。


[ストアの精神]

 アリストテレスはアテナイ郊外の神域の森リュケイオンで教えたが、彼は本来、アテナイの中央広場アゴラやそれに面するストア(列柱館)が似合う人物であった。実際、西洋の思想はアテナイのアゴラとその周辺で生まれたと言っても過言ではない。アゴラやストアは一般のアテナイ市民が行き交い談笑する憩いの場であり、ソクラテスが自分の「店」を開くのに最もふさわしい場所だった。ソクラテスは、物売りが食べ物や飲み物を売ったり、曲芸師が群集に技を披露したりする喧騒のただ中で人びとと語り、議論を交わした。弟子のプラトンは郊外に創設した学園「アカデミア」に活動の場を移し、アリストテレスも最後は「リュケイオン」に学校を創立したが、それでもストアはアテナイのすべての知識人にとって重要な場所であり続けた。BC3世紀のキプロスのキティオン出身のゼノンを創始者とするストア学派の名は、ゼノンがアゴラのストア・ポイキレーのある建物(彩画列柱館)で講義したことに由来する。そして「リュケイオン」でもストアの精神は生き続けた。アリストテレスは屋根付き歩廊(ペリパトス)を歩きながら教えたので逍遥しょうよう学派と呼ばれた。



(ギリシャの著名な文化人たち)


ホメロス(BC8世紀の人)

 盲目の吟遊詩人、「イーリアス」「オデュッセイア」を語った。

ヘシオドス(BC700年ごろの人)

 ボイオティアの農夫で叙情詩人、「神統記」「仕事と日々」の著者。

タレス(BC624年ごろの生まれ)

 イオニアの哲学者・物理学者であり、哲学の創始者と見なされている。

ピタゴラス(BC570年~BC490年ごろ)

 数学者で直角三角形における三平方の定理(ピタゴラスの定理)を発見、ギリシャ数学を打ち立て「哲学」という言葉を作った。


アイスキュロス(BC525年~BC456年)

 悲劇作家、「メネシス」「アガメムノン」の作者。80篇ほどの戯曲のうち現存するのは7編のみ。

ソフォクレス(BC496年~BC406年)

 悲劇作家、「オイディプス王」「アンティゴネ」の作者。100篇以上の戯曲のうち現存しているのは7編のみ。

エウリピデス(BC485年~BC406年)

 悲劇作家、「バッコスの信女」の作者。

アリストファネス(BC445年~BC385年)

 喜劇作家、「女の議会」「福の神」の作者。


ペリクレス(BC495年~BC429年)

 アテナイの政治家で将軍。ペリクレスはBC480年のペルシャ戦争の勝利を祝って、BC447年にアクロポリスにアテナ女神を祀る壮麗なパルテノン神殿を新たに建設することを命じた。


ヘロドトス(BC484年~BC425年)

 歴史家、「歴史」の著者。

ソクラテス(BC469年~399年)

 哲学者。

ツキディデス(BC460年~BC399年)

 「戦史」の著者、ペロポネソス戦争に将軍として参加、敗戦の責任を問われ解任され、アテナイから追放された。

ヒッポクラテス(BC460年~BC377年)

 コス島出身の西洋医学の父。合理的観察の原理を医術に適用し、臨床医学を打ち立てた。

クセノフォン(BC430年~BC354年)

 ソクラテスの弟子の一人で歴史家、「アナバシス」「ヘレニカ」の著者。

プラトン(BC427年~347年)

 「国家」の著者。BC385年、アテナイに「アカデミア」を創設。

アリストテレス(BC384年~BC322年)

 「オルガノン(手段:論理学)」など多数の著作を残した。アレクサンドロス大王の教育係、アテナイに「リュケイオン」を開設。

ゼノン(BC335年~BC263年)

 キプロス島出身で、アテナイで学校を創設、簡素と禁欲を説いた、ストア(柱廊あるいは列柱館)で授業を行ったことからストア学派の創始者となった。


エウクレイデス(英語名:ユークリッド)(BC330年~BC275年ごろ)

 アレクサンドリアで幾何学を体系化した。

アルキメデス(BC287年~BC212年)

 シチリア島のシュラクサイで生まれ、アレクサンドリアで学んだ数学者、天文学者、祖国シュラクサイ防衛のためローマ軍と戦い戦死。

エラトステネス(BC276年~BC194年)

 リビアのキュレネ出身で、アレクサンドリアで名を成す、多才な年代学者で地理学者。

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