第111話 古代ギリシャの思想と文化

 ギリシャ文化が開花したのは、古典期と呼ばれるBC5世紀からBC4世紀の中葉にかけてだが、ギリシャの社会そのものは、それより前のアルカイック期と呼ばれるBC8世紀ごろから形づくられ始めていた。山がちなこの半島にポリスと呼ばれる都市国家を形成し始めたのだった。アテナイに代表されるこれらの都市国家では、実に豊かな文化が育まれた。ラオコーンと2人の息子の像、デルフォイのアテナ・プロナイア神域など、多くの芸術作品や建築物が現在もその姿を留めている。また、科学、数学、哲学、演劇の分野においても、後世に影響を与える偉大な足跡を残した。


 ユダヤは精神の地で、ギリシャは肉体の園といわれる。西洋文明の流れは、この精神肉体二元のいずれかに傾くことによって起伏があったのではないだろうか? とはいっても、ギリシャはやはり肉体、しかも裸体の国である。飾らず、美化せず、ありのままの彫刻の国であり、武技と叙事詩と音楽の国である。ギリシャはまた、ソクラテスに真理・英知を主張させた。彼の弟子プラトンの門下アリストテレスはヨーロッパの科学の祖となった。近代科学の学名はギリシャ語を用いている。ヨーロッパ文明の中で科学と詩歌はギリシャが発祥の地となり、宗教だけがユダヤに始まったと言えるだろう。


 ギリシャ思想の道のりは神話から理性へという2つの極の間で揺れ動いてきたように思われる。典型的にギリシャ的といえるメティス(知恵)は、あらゆる限りの悪巧み、機転、腹黒さ、騙し、抜け目のなさ、などから成る狡猾な知性であり、困難と直面するときや敵と対決するとき、特にその勝敗はすでに決まっているように見えながら、同時にまだ不確定であるときに発揮される実用的思考である。策略に長けた思慮深い男が、最初はとても不可能に見えていた成功を手に入れるのは、このメティスのおかげである。このように行動に結びついた知性は、独自の目的と行動様式を持っている。アルカイック時代(BC8世紀前葉~BC6世紀)からヘレニズム時代(BC321年~BC146年)まで、メティスは神についての知や、哲学の知の周辺でしっかりと存続し続けた。オデュッセウスがこのメティスを代弁する英雄である。

 古代ギリシャは数世紀の間に、社会的にも精神的にも決定的に大きな変化を体験した。まず都市国家ポリスと法律が誕生した。初期の哲学者は合理的な思考を生み出し、知識を着々と積み上げ、存在論、数学、論理学、博物学、医学、道徳、政治など、さまざまな実証的な学問分野を生み出した。また新しい芸術形式や多様な表現様式が生み出され、叙事詩、言語の芸術である悲劇、彫刻や絵画などの形を模倣する手段としての造形芸術などが、それまでの経験では考えられなかったような新しい人間の側面について考えることに対応できるようになった。この変化は知性や理性の働き方に影響を与えただけではない。古代の宗教的人間から、アリストテレスが言うところの政治的・合理的人間へと移行したことによって、心理的枠組み、心理の機能全体が問い直されたのである。

 古代ギリシャの場合、知的変革はヘシオドス(BC700年ごろの人)の時代からアリストテレス(BC384年~BC322年)の時代にかけて起こったが、その変化は主に2つの道のりを辿った。まず自然界、人間界、そして神の世界という3つの世界がはっきりと分けて考えられるようになった。もう一つの道のりは、神話で重要な役割を持っていた正反対で両義的な考え方が、合理的思考によって排除されていったことである。つまり、合理的思考は、2つのものを対照によって結びつける、反対のものをつなぎ合わせ統合する、逆転につぐ逆転で前に進む、といったことをやめてしまうのだ。すべて矛盾なく一義的であるべきであるという理想のもと、対峙するもの、両義的なものを扱う考え方を退けるのである。ホメロスの人間像には、現実味のある統一性も心理的な深さもない。突然衝動に突き動かされるかと思うと、霊感によって啓示を受ける。自分のことも自分の行動の理由もよくわからない。そんな時代の人間から、古典時代のギリシャ人像にまで変化していったのである。その変わり様は目を見張らせるものがある。彼らは主体の内的広がりを発見し、自分の身体から離れてものを考えることを学び、心理的な力を統一し、個人に結びつくいくつかの価値を発見し、責任感を深め、行動する主体というものをはっきりと考えられるようになった。


 古代ギリシャの著作家としては約2000人の名前が知られている。この数はギリシャ文学の並外れた豊かさを際立たせている。しかし、これらの作品の多くは古代遺産が被った3つの大きな試練の中で消滅した。一つはエジプトのプトレマイオス朝によって建設されたアレクサンドリア図書館の焼失、二つ目はパピルスの巻き物からヒツジなどの皮紙の冊子本への変転、そして三つ目は紀元後7~8世紀のビザンティン帝国に起きた偶像破壊運動時代の危機である。しかしながら、偶然のたまものにせよ、碩学せきがくや学校教師たちによる選択の結果にせよ、多くの場合は保存の悪さから断片しか伝わっていないにしても、それらを生き延びた著作は、あらゆる分野に渡っており、数も膨大で、西洋世界の学者たちも未だに汲み尽くすには至っていない。

 この時代の思想家と著作家たちは、語彙の上でも、構文の上でも、並外れて豊かな言葉によって支えられており、その文学的効果や調子を多彩なものにするため、たくさんの方言を自在に駆使した。そして伝統に屈するのではなく、これを支えとして、重要な文学の分野をいくつも創造し発展させる一方、論理的思考が参画できる種々の方向性を、それまで誰もやったことのない大胆さを持って開発した。この思考の進め方とその諸原理を初めて確定したのも彼らである。彼らは、思考は言葉を媒介にしなければ確固たるものになり得ず、自らを把握することもできないことを理解していた。したがって、自分たちの言語手段を完璧なものにすべく絶えず努力し、考えられる限り最も見事な、繊細で鋭敏な表現法を練り上げていった。こうして、この時期ギリシャ人たちは、順番で言うと叙事詩と賛歌、抒情詩、劇作(悲劇と喜劇)、歴史と地理、哲学と雄弁、造形美術といったさまざまな分野を開拓するとともに、それぞれにおいて見事な技法を生み出した。


1)叙事詩と賛歌

〈ホメロス〉

「イーリアス」と「オデュッセイア」は、BC8世紀に盲目のギリシャ人の吟遊詩人ホメロスによって語られ、後世のギリシャの劇作家によって補完されたギリシャの英雄たちを描いた叙事詩である。ホメロスの叙事詩は突如としてその完成された姿で歴史の上に現れた。この完成度の高さは、「イーリアス」と「オデュッセイア」が今ではすっかり忘れられてしまった多くの先行する詩人の試みによって準備された末の結果であったことを想像させる。「イーリアス」の中の「アキレウスの怒り」は、トロイア戦争の中の一つのエピソードに過ぎなかったし、「オデュッセイア」の中の「ユリシーズの帰還」が語っているものも、トロイア陥落後の一英雄の冒険談である。ホメロスがこれらの豊かな素材の一つを取り上げ、厳密に構成するとともに、読み上げるのに何日もかかる長編作品に仕上げることができたのは、アルファベットの助けがあったからと思われる。ギリシャ人はフェニキア人からアルファベットを習得し、BC8世紀には文字は学問や文学にも使用された。アルファベットが拡がって行く過程で、誰かが、あるいは多数の誰かがそれまでの口承の物語をホメロスの作とされる叙事詩に変換した。その当時、色々な所を流浪する吟遊詩人はそらで詩を吟ずるのが常だったが、いつでもメモを携えていた。偉大な叙事詩もアルファベットがなければ成立しなかっただろう。断定はできないが、これより古い叙事詩群について述べられたものが全くないこと、そしてこれより後の時代には、ホメロスを模倣した詩人の名がかなりたくさん伝えられていることが、この仮説をかなり信じられるものにしている。

〈ヘシオドス〉

 ホメロスと同様、ヘシオドスの作品も多くの模倣を生んだ。BC700年ごろに活躍したヘシオドスは、アッティカのすぐ北に位置するボイオティアの農夫であり、古代ギリシャにおいてホメロスと並び称されるほどの詩人だった。その代表作である「神統記」は、天地誕生からゼウスが世界に秩序を打ち立てるまでの経緯を語ったものである。「神統記」の中では、彼自身および同時代人が世界の起源をどう見ているかを物語ってくれている。最初にはカオス(混沌)があった。カオスからウラノス(天の神)とガイア(大地の神)が生まれ、両者は結婚してティタン族という50の頭と100本の腕を持つ怪物が生まれた。また別の息子で長子のクロノスもいた。クロノスは妹のレアと結婚し、その息子の一人がゼウスで、ゼウスはクロノスを失脚させ、さらに叔父のティタン族を冥界に送り込み、そして最終的にゼウスはオリュンポス山の主として君臨した。こういう寓話にはギリシャの歴史が要約されていると考えられる。つまりガイア、ウラノス、ティタン族などは先住民で、ゼウスは支配者であるアカイア人とドーリア人の天上の神だったのだ。ゼウスが父、兄弟、叔父たちに最終的に勝利したことは、北方から降ってきた征服者たちのまさしく凱旋を示している。このように、「神統記」は神々の系譜を辿りながら、この神々と愛で結ばれた女性たちから優れた血族が生じたことを示し、結局は人間を謳歌することで結ばれている。近代になってからは疑問視されるようになったが、こうした神々と人間の女性との愛を謳った多くの詩が、古代においてはヘシオドス自身の作とされて「名婦伝」の中に収められ伝えられている。また、ヘシオドスは粗野で凡庸な人物を体現している。しかし、彼の証人としての値打ちは、細心かつ平板な年代記作家として古代社会の別の一面、無産者階級や農民の社会を我々に示してくれたことにある。ヘシオドスの描く家は泥で出来た掘立小屋で一間から成っており、そこは冬には寒さで震えるし、夏には焼けるように熱くなる。北方からの征服者たちがまだ融合しないで、圧政を敷いていた農村の世界を歌ったのがヘシオドスだった。「仕事と日々」は、農民出身の彼が日常の生活に関する教訓を語ったもので、弟ペルセスとの間に起きた父の遺産相続をめぐる争いなどを題材に、日々の労働の大切さを教えている。そして弟ペルセスへの一連の忠告のなかで、この時代、BC700年ごろの農民の悲惨な生活振りについて、詩的ではないが正確な描写をしている。こうした自らの世界を語るというヘシオドスの作風は、その後のギリシャ叙事詩の詩人たちによって受け継がれていった。

 BC8世紀からBC6世紀において、ホメロス、ヘシオドス、そして彼らのライバルたちによって叙事詩の分野の規範が確立されるとともに、彼らの言葉の使い方がその後の文章作法のスタイルを決定していくこととなった。


2)抒情詩

 アルカイック期(BC8世紀前葉~BC6世紀)には抒情詩の開花もあった。これはメロディーを付けて歌われた詩で、古代ギリシャ人たちはこの文学分野に関して、一つは合唱、もう一つはソロで歌うという二つの形式を生み出した。こうして作られた詩は、残念ながら今日では僅かな痕跡しか残っていないが、当時は大いに流行していた。ギリシャ人たちは音楽に対して活き活きした嗜好を持っており、教育の基本要素として重視していた。この種の詩は、通常7弦のリラ(竪琴)を伴奏しながら歌われた。その後、音量を増大するため改良が加えられたのがキタラである。また2本の管を口元で結合した縦笛のフルートも使われた。歌と音楽が密接に結びついた抒情詩は極めて多彩だった。詩人の出身地や聴衆によってあらゆる方言が用いられ、扱われるテーマもさまざまだった。典礼の頌歌しょうか、アポロンやディオニュソスへの賛歌、行進の歌やダンス用の合唱歌、戦士のためや競技の勝者を称える歌、愛の歌、葬送歌、宴席での酒の歌、市民としての教訓歌、などというようにありとあらゆる人間的感情が抒情歌として謳われた。BC600年ごろ活躍した抒情詩人として、アルカイオスとサッフォーがいる。どちらもレスボス島の人で、特にサッフォーの作品は多くの断片によって我々も知ることができる。


3)劇作(悲劇と喜劇)

 歴史に限らず、ギリシャ人は人類の歴史におけるさまざまな新しい知的領域を開拓した。人類の歴史上初めて、ギリシャは完全な形の「文芸」を生み出したといってもいい。古代ギリシャの文芸世界は聖書と並んで、以後の西洋の形成に大きな影響を与えることになる。内容だけでなく、さまざまな文芸のジャンルや形式を規定し、批評における最大の判断基準ももたらした。貴族政の時代にはホメロス風の叙事詩が流行していたようだが、僭主せんしゅ政の時代に入ると、パトロンたちが詩人の活動を支えるようになり、個人の感情を表わす叙事詩が広く市民社会へ浸透していく。さらに僭主たちが奨励した国家行事としての祭典が、ギリシャ文学の頂点ともいうべき「悲劇」を生み出す舞台となっていった。演劇の起源はどの文明においても、宗教にあったものと思われる。おそらく神への礼拝の儀式などが、演劇の原型となったのだろう。しかしギリシャ人はこの分野でも、単なる「宗教儀式」から、観客にメッセージを伝える「演劇」へと、ジャンルそのものを発展させていった。観客はそれまでのように、ただ受身の態度で宗教的な興奮にひたるだけではすまなくなった。ホメロスの叙事詩に始まり、その後急速に成長を遂げた古代ギリシャ文学は、ギリシャ文明が持っていた変革の力が如何に強かったかを物語るものといえるだろう。悲劇と喜劇が生まれるのは、年代的にはBC542年に僭主政を確立したペイシストラトス治下のアテナイにおいてだった。いずれもディオニュソス神の祭儀の枠内で生まれ、祭りの一環として上演された。最も傑出した悲劇詩人たちがアテナイ人だった理由もここにある。

〈悲劇〉

 ギリシャ悲劇の原型は酒神ディオニュソス(バッカス)の祭りで、踊りやパントマイムと共に歌われた合唱隊の讃歌にあった。こうした形態に大きな革新が起こったのは、BC535年にアテナイで悲劇を上演した詩人のテスピスが、合唱隊に役者を一人加えて、役者の台詞せりふが合唱隊の讃歌と掛け合いになるように工夫したときだった。その後さらに改良が加えられて役者の数も増え、100年もしないうちに、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスに代表される円熟した悲劇作品へと一気に上り詰めていった。

 悲劇作家として最初に挙げられるのはプリュニコスである。彼の作品は失われてしまったが、BC5世紀末になってもその高名は伝えられていた。しかし彼の段階では、役者はまだ合唱隊と対話する形でしか使われていない。彼が称賛に値するのは、当時の歴史の中に着想を求めていたことで、BC494年のイオニアの反乱が鎮圧された事件に題材を得て、「ミレトスの陥落」、サラミス海戦のさまざまな結果をテーマに「フェニキアの女たち」をBC476年からBC475年にかけて書いて上演している。アイスキュロスが「ペルシャ人」を書いたのはその4年後で、このプリュニコスの作品が土台になっている。我々にとってギリシャ悲劇といえば、BC5世紀のアッティカの3大詩人の作品である。アイスキュロスはアガメムノンを含むアトレウス王家にまつわる悲劇、ソフォクレスはテーバイの王オイディプスの悲劇、エウリピデスは夫への復讐のために我が子を殺すメディアの悲劇を描いた。彼らは「三大悲劇詩人」と呼ばれ、ギリシャ神話を秀逸な文学作品へと昇華させている。劇作家は次第に、2人の主役の間で交わされる台詞のやり取りを通じて登場人物の感情を表現し、観客の共感を得ようと努めるようになっていった。但し、ストーリーはともかく、全体の枠組みは依然として従来の神話や英雄の物語を引き継いだものだった。しかしそれは少なくとも、神殿に集まって生贄いけにえの儀式を恐怖の目で見つめていた東方世界の人びとからは、遠くかけ離れたものだった。アイスキュロスは、「オレスティア」3部作に代表される著作の中で、人間の運命は超自然の地下によって決定されるという考えを展開した。

 ローマ帝国とは異なり、古典期のギリシャは後世に形ある帝国を残さなかった。それよりも形には捉えにくい逃れ難い魅力を持つものを残した。その一つがギリシャ悲劇であり、それは人間中心の思想に大きく貢献した。初めは酒と豊穣の神ディオニュソスを称えるアテナイの祭りで上演されていた悲劇は、人間の境遇に関わる永遠の謎を考察するものだった。人の運命はあらかじめ定められているのか? 国家の法律と神が定めた自然法とではどちらが重要か? この自然法を解釈する者として信頼できるのは誰か? 正義の本質とは何か? 復讐心か、それとも熟考して事実の拠り所を考察することか? 人間にはどのような悪い性癖があるのか? 偉大な悲劇作家のアイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスらの作品では、これらの問題が詩的な言葉や人びとの心を捉える筋立ての中で考察されている。エウリピデスの「バッコスの信女」のコロスは歌う。“神々は天空の彼方に居るが、人間のごうを見守りたもう。小賢しき者、人の程を過ぎたる望みを持つ者は、真の知恵者にあらず”

〈喜劇〉

 悲劇と同じ時期に喜劇も発達し、アテナイではこの喜劇も国家行事において上演されるようになった。悲劇の3本の後に猥雑な喜劇が1本演じられ、全体を上演するのに丸一日かかった。崇高な劇も、俗悪な笑劇も共にディオニュソスを満足させ、ディオニュソス神にふさわしい奉げ物と考えられていた。大衆が崇高なものも卑俗なものも一緒に取り込み、神の前で人間とは何かをぎりぎりまで追求しようとしていたことは、ギリシャの奇跡を端的に表しているように思える。ギリシャ古典期がなければ、西洋の政治や倫理、文化の歴史はずっと貧しいものになっていただろう。これだけ少数の人によってこれだけ多くの人間が恩を受けたことは歴史上ないことである。

 古代喜劇の作家としては約40人が知られており、この典型的なアテナイ文学がBC5世紀の間に成功を収めている。クラティノスが喜劇を作り始めたのはBC455年ごろで、その後、数多くの喜劇作家が排出した。その中で傑出していたのが、エウポリスとアリストファネスで、作品のいくつかが完全な形で残っている。古代喜劇は、本当らしさを気にしない状況設定と、もっぱら人を笑わせることを目指した現実への当てこすりと、おどけた所作による役者同士の掛け合いを特徴とする。テーマは空想的なものか、グロテスクなもので、役者は仮装した合唱隊の前で役を演じる。BC5世紀における最も重要な喜劇作家はアリストファネスで、アリストファネスが取り上げたテーマは、ほとんどが政治や時事問題で、風刺的な作品が大半を占めていた。彼が弾圧を免れたということは、当時のアテナイ社会の寛容と自由を物語る証拠といえる。次いでBC4世紀には、奴隷の陰謀や恋の悩みなどを扱った作品も生まれ、かなり現代の演劇に近い段階にまで達していた。当時はメナンドロスが人気を博していた。


4)歴史と地理(ヒストリア)

 ギリシャ人たちが真理の探究と解明のために簡潔な散文体を用いるようになったことは、合理的思考の駆使という点で進歩を示している。この真理の探究をギリシャ語で「ヒストリア」といい、初期の時代に歴史と地理が一体化したものを「ヒストリア」と呼んだのはこのためである。哲学と並んで「ヒストリア」、すなわち歴史を発明したことも、ギリシャ文明の大きな遺産といえるだろう。それまでの古代国家では、単に出来事を記した年代記のような記録が存在するだけだった。ところがギリシャの歴史書は、高い文学的価値と学術的視点を持つ作品として生まれ、さらに驚くべきことに、最初に登場した二つの著作によって、いきなり頂点を極めることになる。これ以降、ギリシャにおいては、その二つの歴史書に匹敵するレベルの作品はついに現れなかった。

〈ヘロドトス〉

 ギリシャ初の歴史家ヘロドトスは、後に古代ローマ最高の知識人とされたキケロから、「歴史の父」と呼ばれるようになる。事実、彼はそう呼ばれるのにふさわしい人物だった。彼の著作のタイトルである「歴史(ヒストリア)」という言葉は、ヘロドトス以前は主に、「調査」や「探求」といった意味で用いられていた。ところがヘロドトスはこの言葉に、「実際に起こった出来事を調べて調査する」という新しい意味を加えたのだ。そして各地を広く旅行し、そこで集めたさまざまな地誌、風俗、歴史物語をペルシャ戦争という巨大なストーリーの中に織り込み、ヨーロッパの言語で書かれた現存する最古の散文作品を著述した。アテナイで同時代人としてペリクレスをその眼で見ていたヘロドトスは、ペルシャ戦争という同時代の世界史的事件がなぜ起こったかを知りたいという強い欲求から「歴史」を創作した。そしてその疑問を解くために、大量の文献を読みあさり、旅に出ては現地の人びとから詳しい話を聞いて記録していった。こうして誕生したのが、永遠の古典と評される「歴史」だった。そこにはペルシャ帝国と初期のギリシャの歴史に関する豊富な情報の他に、旅先で収集したさまざまな地域に関する記述が盛り込まれ、最後にミュカレの戦いに到るまでのペルシャ戦争の経緯が述べられている。ヘロドトスはBC484年に小アジアの南西部にあるドーリア人の町ハリカルナッソスで生まれ、生涯の大半を旅に費やしたといわれる。アテナイにもメトイコイ(外国人居住者)として数年間滞在している。後にヘロドトスは南イタリアに新しく建設された植民市トゥリオに移住し、そこで「歴史」を完成させた後、BC425年ごろに亡くなった。ヘロドトスはギリシャ世界に限らず、バビロンやエジプト、リビアなどを広く旅した古代屈指の旅行家だった。偉大な著作「歴史」は、そのような幅広い経験をもとに、ヘロドトスが見聞を丹念に綴った成果なのだ。その記述にはときに、今日の我々には風聞としか思えないところもあるが、大事なのは、ヘロドトスが合理主義的資質をもっていたことである。しかも、このギリシャ語最初の散文の見本は、後のビザンティンの碩学が「このハリカルナッソスのナイチンゲールは、イオニア語のあらゆる美しい花で身を装う術を知っている」と言っているように、言語的にも素晴らしい新鮮さを保っている。

〈ツキディデス〉

 ヘロドトスがギリシャ人の対ペルシャ戦争を題材にしたのに対して、同じアテナイにあって次の世代に属していたツキディデスが描いたのはギリシャ人同士が戦ったペロポネソス戦争(BC431年~BC404年)だった。ツキディデスはアテナイの名門に生まれ、ペロポネソス戦争で指揮官(ストラテゴス)の一人として、トラキア海岸沖のタソス島でスパルタ軍と戦ったものの、指揮を誤ったとして追放に処せられている。彼はアテナイとギリシャ、そして自らの運命を転落させたペロポネソス戦争の原因を見極めたいと思ったのだろう。ヘロドトスとは違って、ツキディデスは事実の記述にとどまらず、その分析を試みた。こうしてペロポネソス戦争に参加し、その実体験を詳細に記録し分析して生まれた「戦史」は、歴史分析という点では史上まれにみる傑作で、ヘロドトスが「歴史の父」だとするなら、ツキディデスは「歴史学の父」だといえるかもしれない。その著作は、アテナイ人としての立場を離れ、現代の歴史家の手本にもなるような客観的な判断によって貫かれている。したがって、個人的な感情を排し、逸話を語ることもなく、ひたすら事実を正確に記述したこの書は、まさに戦術家あるいは指揮官の冷徹な眼から見た観戦記となっている。「戦史」は、BC411年の事件をもって記述を終えており、未完に終わっている。その後を継いでBC362年のテーバイがスパルタに再び勝利したアルカディアのマンティネイアの戦いまでを書いたのが、同じアテナイ人でソクラテスの弟子の一人だったクセノフォンの「ヘレニカ」であるが、その歴史分析力においてツキディデスには遥かに及ばない。


5)哲学と雄弁

 哲学と雄弁については次の第112話「古代ギリシャの科学と哲学、そして文化人たち」で述べる。


6)ギリシャの造形美術

 ギリシャの造形美術作品は紀元後18世紀にヨーロッパで惹き起こされた最初の熱狂以来、常に好事家たちの垂涎の的となってきた。このような熱狂ぶりはギリシャ芸術が今も我々の好みや感受性に如何に強く訴えかけてくるかを示している。だが、古代ギリシャの制作者は予定されている目的に適うように作品を作ったのである。神殿は記念建造物であるより以前に「神の家」であり、彫像は美の造形物である以前に「奉納物」であった。盃はまず飲むための容器であり、使われている素材と施されている装飾は単に付加価値にすぎない。その意味で、スタンダールが「アテナイ人にあっては、美は有効性の突起物でしかない」と言っているのは、的を射ている。「芸術のための芸術」というのは、ギリシャ人の意識においては無縁の理論なのである。このように、まず何よりも仕事であるとする考え方が、芸術家たちにも一般人にも広く行き渡っており、職人の真面目さと腕の確かさが作品の全般的な質の高さにつながっている。

〈記念建造物〉

 ギリシャ建築は初期には西アジアやエジプトの建築の模倣にすぎなかったが、古典期にはギリシャ独自の完成された建築様式を生み出していた。古典様式と呼ばれるその様式は、それから数百年もしないうちに、西はシチリアから東はインドに到る広大な地域に広がっていった。

 建築に関しては、ギリシャは非常に恵まれた土地だった。上質の石材が豊富に産出されたからだ。その品質の高さは、現在もそびえる荘厳な神殿が雄弁に物語っている。但し、現在目にするパルテノン神殿は飾り気がない厳かな建物だが、BC5世紀のパルテノンの姿とは異なっている。当時のきらびやかな神々や女神の像は失われ、華やかな装飾は、剥げ落ちてしまっている。アクロポリスの丘に建ち並んでいた記念碑や礼拝堂、墓碑も今は存在していない。ともあれ、確実に言えるのは、古典期のギリシャには、他に例のない偉大な芸術性と、それを形にできる驚嘆すべき技術があったということである。ギリシャ建築には、二つの主要な柱の様式、ドーリア式とイオニア式が採用されている。当初は、ドーリア式がギリシャ本土・シチリア島・南イタリア、イオニア式が小アジアとエーゲ海諸島というように地域ごとに分散していた。しかしBC5世紀以降は、都市国家間の人びとの移動が活発になり、二つの様式が混在するようになった。ドーリア式は重々しく、柱礎がないのが特徴であり、柱は下部よりも上部の方が細くなっており、柱頭も簡素に作られている。パルテノン神殿はドーリア式建築である。イオニア式は典雅で、装飾を施した柱礎の上に立てられた柱は、ドーリア式に比べて細く、縦溝装飾の溝も深くなっている。最も大きな違いは、二重の渦巻き装飾が入った柱頭に見られることである。

〈彫刻〉

 彫刻も最初は東方、特にエジプト彫刻の影響が色濃く見られていたが、陶器の場合と同じように、その後のギリシャ彫刻は写実性の追求へと進んでいくことになる。ギリシャの彫刻家たちが究極のテーマとしたのは、人間の肉体だった。それも記念碑を飾ったり崇拝の対象とするためではなく、人間の肉体そのものを表現することを目的とした。最初に登場したのは神々や若い男女の像だった。ポーズも単純な左右対称で、東方の彫刻とそれほど違いはなかった。ところがBC5世紀に入ると、左右のバランスが不均等になり、正面を向いたポーズもすたれて、写実的な性格が強まってくる。そしてBC4世紀になると彫刻家プラクシテレスが登場し、円熟した人間らしい彫像へと進化していった。プラクシテレスは、初めて全裸の女性像(クニドスのアフロディテ像)を製作したことで知られている。

〈絵付け陶器〉

 最近のいくつかの研究によって、BC6世紀からBC5世紀のギリシャ芸術作品の中でも最も魅力的な作品である絵付け陶器の技術の複雑さが解明された。アッティカのかめや壺に独特の質をもたらしている有名な黒絵と赤絵の釉薬の謎が解かれたのだ。それは釉薬の種類によったのではなく、粘土を水に溶かしコロイド状溶液にしたもので、これを土で作ったかめや壺の表面に筆で延ばして焼くのだが、焼かれる温度や工程によって、黒色の酸化第1鉄あるいは磁気鉄になったり、赤色の酸化鉄になったりするだということである。この作業は細心の注意を要するので、陶工は経験を積み重ねながら腕を磨く必要があった。



(ギリシャの文化遺産)


 古代ギリシャ社会は芸術家たちにも聖なる分野でのさまざまな要請に応えるよう求めた。神人同形の宗教においては、崇拝は神がどのような姿を取るかということと密接に結びついており、そこから芸術家に対しても注文が付けられた。つまり、ギリシャ人たちがその神について作り上げている想像上のイメージに具体的な形態を与えることが彼らの仕事だった。したがって、ギリシャの芸術にあっては、自然主義的探求と理想化とが、互いに拮抗するのではなく、相補う二つの志向性となっている。こうして神人同形の外見が、一方では人間主義的理想を、他方では神の超越性を表わす働きをし、それが全体としてギリシャ思想の豊かさを生み出していった。例えば、神殿や霊廟の装飾、祭儀に関わる調度品の制作などに取り組む場合、先祖伝来の神話は人びとにとって馴染みであったから、芸術家たちは多くを語る必要はなかった。ある人物を示すには、その個性を表わすいくつかの特徴を描き入れるか、そうしたものがない場合は、短い言葉を書き添えるだけで十分だった。こうして人びとの間に暗黙の了解が前提としてあったので、芸術家は直接本質的テーマへ進むことができた。ギリシャの芸術作品が持っている簡潔さはそこに由来している。名高い芸術家は住んでいる都市や地域の枠を超えて、遠く離れた都市からも仕事を依頼された。古代ギリシャ世界は政治的には細分化されていたが、芸術と文学の領域では早くから一体性を意識していた。


 ギリシャ文明の偉業は、そのエリート主義的な性格にもかかわらず、生活のあらゆる側面にまたがっていた。民主政、ソフォクレスの悲劇、フェイディアスの彫刻などは、いずれもその一部にすぎない。ギリシャ文明が残した文化的遺産は、2000年以上にもわたってさまざまな形で論じられ、何度も解釈しなおされてきた。いわば古代ギリシャは何度も生まれかわり、何度も利用されてきたというわけである。

 現実の古代ギリシャは、後年の理想主義者がいうほど革新的な社会ではなく、さまざまな点で過去の伝統にとらわれていたことも確かだった。しかしそれでも古代ギリシャ文明がその時点において、人類が自己の運命を決定する力を最大限に発揮した文明であった。BC8世紀からBC4世紀までの400年ほどの間に、哲学や政治、歴史、数学、そして無数のジャンルの芸術が誕生していった。後世のヨーロッパは、そうしたギリシャが築いた財産の上に自らの文明を築き、さらにそのヨーロッパを通して、後の近代文明も誕生することになるのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る