第110話 スパルタとアテナイ

 スパルタとアテナイはBC5世紀に激しく争ったため、この両国は古代ギリシャ世界において常に対極にあったと見られがちだが、ギリシャには他の政治形態も存在していた。おそらくそこにこそ、古代ギリシャが政治という分野において人類の歴史に大きな貢献を果たした秘密の一端があるのだろう。多くの異なる政治形態があったおかげで、ギリシャ人はそれまでのどの民族よりも豊富な政治上の経験と知識を持っていたのである。そうした経験から、政治や法律、社会制度といった問題について史上初めて系統だった考察が行われるようになった。それ以来、人類は古代ギリシャ人が作った用語を頼りに、そうした社会問題を考察してきた。ギリシャ以前の古代社会では、そのようなテーマに関する考察はほとんど行われなかった。ただ神を敬い、慣習に重きを置くだけで、社会的な制度を研究したり、考察するなどといったことは考えもしなかったのだ。



(教育と伝統儀式)


 子供の教育も、スパルタとアテナイとでは全く異なっていた。それ以外の都市については、今日入手できる資料が余りにも不十分なためよく分かっていない。


 スパルタ市民は子供のころから男女を問わず厳しい訓練を受け、スパルタ人気質を徹底的に教え込まれた。スパルタの西にはタイゲトス山脈が走っている。山並みを裂くように入り込む渓谷は、スパルタ人の厳しい人生が誕生の時から始まっていたことを思い起こさせる。虚弱だったり、障害があって国の役に立たないと見なされたスパルタの男の赤ん坊が置き去りにされて死を迎えたのはこの山々の奥だった。生きることを許された男の子は7歳で両親から引き離され、兵舎で育てられた。若者たちは近くのアルテミス・オルティアの神域で持久力のテストを受けたが、成績が悪いと鞭打ちの罰が待っていた。それは最終的に一人前の兵士に仕上げることを目指したもので、辛い訓練と苛酷な試練を受けながら年齢ごとの段階を上がっていくのである。このような教育が30歳になるまで続けられた。

 一方、スパルタの女性は他の都市に比べてかなり自由だった。とはいえ、ローマ時代のギリシャ人歴史家プルタルコスによると、スパルタの女性は、子供を産む痛みに耐えられる丈夫な体になるため、走ったり、格闘技をしたり、運動する必要があった。例えば、女性たちだけで運動競技を行い、男性と同じように裸で参加していた。しかし、スパルタやアテナイに限らず、ギリシャの女性は市民権も与えられず、男性と国家の支配下に置かれ、女性の価値は結局、どれほど立派な子どもを生んだかで判断された。結婚初夜、スパルタの花嫁は頭を刈りこみ、男装をして、できるだけ男っぽく見えるようにした。初夜が終わると夫は兵舎へと戻っていった。スパルタの男性の間では同性愛は普通のことで、女性の間でもあったらしい。さらにギリシャ全土の貴族社会でも、特に軍隊ではごく普通のことだった。アテナイの北西にあるボイオティア地方の都市テーバイのエリート騎士団「神聖隊」は、スパルタ軍に次ぐ強力な軍隊で、同性愛者のカップルで編成されていた。彼らは恋人の命を守るためには自分の身を守る時より激しく戦うからである。

 スパルタの教育システムにおいて知的教育に割かれた時間は明らかに少なかった。せいぜい合唱のために国民的詩人の作品を学ぶ程度で、あとは市民として必要な道徳の教えに限定されていた。このような修辞学に対するスパルタ人たちの不信は、話す技術を培うことに精力を傾けた他のギリシャ人たちを驚かせているほどだ。そして、この雄弁への不信から、スパルタ人たちは「ラケダイモン(スパルタ人)の箴言しんげん」と呼ばれる簡潔な短文を好んだのだった。保守的で内向的に見えるスパルタ人は、国際性に富んで寛容なアテナイ人をいぶかりと軽蔑の眼で見た。ペロポネソス半島の山地にあるスパルタでは古い伝統が消えずに残った。ゼウス・リュケイオスの狼人間の儀式も、この半島中部のアルカディア地方で行われていたものだ。


 アテナイ人の場合は、家庭内の婦人部屋でもっぱら女性に囲まれて幼児期を過ごした後、6~7歳になると、パイダゴゴスと呼ばれた奴隷に付き添われて学校に行く。ソロンの法律は、息子の教育についての監視を父親の重要な義務として課している。プラトンは、これはアテナイの法律の優れた点であると述べている。教師たちは自前で学校を開き、子供の両親から報酬を受け取った。教師は読み書きと計算を教え、次いでホメロスとヘシオドス、ソロン、シモニデスなどの詩を暗唱させた。プラトンの「対話篇」を読むと、当時の人びとが知的・道徳的教育のために、これらの詩人を如何に重視していたかが明らかである。音楽の教師は、竪琴とキタラの演奏を教えた。どちらも弦楽器だが、キタラの方が扱い方が複雑で技能を要した。笛の一種アウロスもあったが、情念を余りにも刺激するため使用されなくなった。いずれにせよ、音楽はアテナイの若者の教育において一つの重要な役割を果たした。最後に体操教師は、体育のために特別に造られた建物、パレストラで、身体を鍛える基本的なやり方を教えた。若者は15歳になると、公的ギムナシオンに通った。そこには私立のパレストラと同じような施設のほかに、トラック・コースや庭園、ホールもあった。若者たちは青年学校で2年間を過ごした後も、ギムナシオンへ通い続けた。そこには鍛錬とともに娯楽や友人との出会いの機会があったからだ。しかも、法律によって施設の管理規則だけでなく、開館と閉館の時間が決まっていて、盗難防止のための厳格な規則が設けられ、自由市民たちが安心して利用できるよう配慮されていた。アテナイにも同性愛はあったが、公衆の道徳に反するとして非難された。

 洗練されたアテナイでも、昔からの習慣は容易に滅びなかった。ソクラテスが対話を通じて道徳や友情、愛、正義の真理を追究したのと同じ町で、魔術やまじないが広く行われていた。呪文のほとんどが裁判で争っている相手に対するものだった。現代と同じように、個人の表現の自由を育んだ民主主義は、訴訟好きな社会をもたらしたようだ。

 アテナイには、啓蒙の中心地と謳われた町にしては意外だが、驚くような伝統的祭礼が多くあった。地方の農民にとっては、農業祭は昔から季節ごとの大事な区切りであり、収穫をもたらす神々に捧げる宗教儀式などは楽しみな行事でもあった。ところが都市が発展するにつれてこうした伝統的な祭りは都市で行われるようになり、より手の込んだものになっていった。国家の管理下で行われた祭りは、古くからの儀式的要素を残しながらも市民の誇りを表明する場となった。豊作を祈って3日間行われたテスモフォリア祭では、威厳のあるアテナイの年配の夫人たちが木の枝であずまやを建て、地面に座って丸一日断食した。3日後には、数か月前に女神デメテルへの生贄いけにえとして穴の中に投げ込まれた子豚の腐敗した死体を引き上げ、厳かに穀類とともに祭壇に奉げた。



(スパルタ)


 古代ギリシャを語るとき、常にアテナイのライバルとして登場するのがスパルタである。スパルタではアテナイとは違って、制度の改革ではなく、別な形で土地問題に対応しようとした。内政では長期にわたり厳格な社会規範を維持し、外交では他国を征服するという道を選んだ。

 長期間にわたってギリシャの中で最も強い勢力を誇ったスパルタは、あらゆる面で他のポリスとは違っていた。スパルタ人たちは、奴隷にしていた近郊の住民たちに、自分たちの代わりに農作業や貿易をやらせていた。彼らには勇敢に戦死することだけがすべてだった。スパルタの軍隊は無敵といわれていた。他のポリスと違い、スパルタには国の城壁がなかった。国を守るには兵士だけで十分だったのである。スパルタでは子供は両親のものではなく、国家のものだった。男の子は7歳になるまで母親の下で暮らし、7歳になると兵舎で暮らし、訓練を受けた。男たちは20歳になると結婚したが、その後も30歳になるまで10年間ほどは兵舎で暮らさなければならなかった。スパルタ人の生活様式全般が、常に戦争に備えておくことを最大の目的として作り上げられたものだった。

 ギリシャ南部のペロポネソス半島を勢力下に置いていたスパルタは、アテナイとは全く違った形で発展した。ギリシャで最も広い領土を治めていたスパルタは、ペロポネソス半島西部のメッセニア地方を征服して住民を無理やり農奴にしていた。スパルタ市民をはるかに上回る数のメッセニア住民はBC7世紀半ばに反乱を起こしたが、鎮圧された。この反乱を警告と受け止めたスパルタ人は、こうした脅威に二度とさらされないように政治システムを立て直した。その結果、ギリシャ全土で最も優れた戦士を育成するという一つの目標の下に全体主義の軍事国家を作り上げた。


 スパルタ人の簡潔表現好きは有名で、ヘロドトスの「歴史」にもその一例が登場する。スパルタ人にとって重要なのは言葉ではなく行動だった。スパルタ史に関する文献史料がアテナイに比べて余りにも乏しいのは一つにはそのせいである。実際、スパルタ人の文書嫌いは徹底しており、そのためスパルタの法律は故意に成文化されないままだったし、墓石に使者の名を刻むことも、二つの例外を除いて全面的に禁止されていた。その二つとは、戦死した兵士と在職中に死亡した女神官だった。

 スパルタは、ペロポネソス半島南東部、最高峰2404メートルのタユゲスト山脈と最高峰1937メートルのパルノン山脈に挟まれたエウロタス川流域の肥沃な平野を中心としたラコニア地方にある。BC700年ごろ、スパルタ人は市の中心部から数キロ東にあるエウロタス川を見下ろす断崖の上に、メネラオスとヘレネを祀る神域と神殿を建立している。さらに数キロ南のアミュクライには、それより後の時代にメネラオスの兄アガメムノンが祀られていたことが確認されている。だがスパルタ人にとって第1の宗教上の聖域は「市の守護神」アテナに奉げられたもので、これはアテナイなどと比べると小さなものだがアクロポリスと呼ばれる丘の上にあった。また祭祀という意味で重要だったのは、エウロタス河畔にあった土着の草木と豊穣の女神オルティアの神域、そしてアミュクライにあったアポロンとヒュアキントスの神域だった。すべての古代ギリシャ人にとって宗教と政治は密接に関係していたが、なかでもスパルタ人の信心深さは際立っていたとヘロドトスは述べている。

 スパルタは、BC8世紀後半に西隣りのメッセニア地方を征服し、自国と同程度の広さの肥沃な平野を領土に組み入れ、そこの住民をヘイロタイ(文字通りの意味は捕虜)と呼ばれる農奴のような集団に仕立てた。この新しく獲得したメッセニア人の土地を中心にある種の土地の分配が行われ、すべてのスパルタ人が最低単位の広さの土地クラロス、つまり分割地と、国有奴隷としてその土地を耕作する一定数のヘイロタイ家族の使用権を与えられた。スパルタの土壌と地形と気候は、ラコニアとメッセニアの両地方ともにオリーブ栽培にことのほか適していた。周囲に極めて大きな影響を与えた風習、つまり成人男性が全裸で運動や競技を行い、その後、青銅器のヘラで体の汚れをこすり落とし、オリーブ油を全身にたっぷり塗っることが誕生したのは、そのせいかもしれない。他のギリシャ緒都市もスパルタを真似た結果、男子が全裸で運動をし、陸上競技の技量を競うことは、オリンピア競技祭などの大規模な全ギリシャ競技会に採用され、非ギリシャ系の異民族に対するギリシャ人の優越を示す文化的指標としても用いられるようになった。

 政治・軍事面では、戦士からなる最高議決機関である民会の一員として、すべてのスパルタ人が平等な投票権を与えられた。民会の上には60歳以上の貴族に限られた終身制の28人の長老と、2つの王家から選ばれた2人の王、合計30人の長老会があった。双子の神であるカストルとポリュデウケスはスパルタと関係が深いこともあり、その肖像が地上での二王政を象徴する天上のシンボルとして戦場に持ち込まれていた。成年男子で、生まれ育ちがしかるべき要件をみたしているスパルタの完全市民は、全員が重装歩兵として戦う装備を整えており、その数はBC7世紀~BC6世紀にはおそらく8000人~9000人に達しており、典型的なギリシャ都市の10倍もの兵力を動員できた。スパルタでは、少年は7歳になると親元を離れ、国家による管理の下で集団で教育を受けた。古代ギリシャの戦争のほとんどは、隣国同士の土地をめぐる紛争の形を取っている。BC7世紀~BC6世紀のギリシャの国の中で、スパルタは最も強大だった。この軍事力を背景にして、スパルタはその覇権を不動のものとするために、BC505年にペロポネソス同盟を結成した。ペルシャ帝国がギリシャ本土に2度にわたって攻め入ってきたとき、BC490年の第1次ペルシャ戦争では、アテナイとプラタイアイがマラトンの戦いでペルシャの侵攻軍を撃退し、BC480年の第2次ペルシャ戦争でも、9月に行われたサラミスの海戦でアテナイがギリシャ連合軍の指揮を取り、勝利を収めたことは事実である。しかし、その数週間前にテルモピュライの関門でペルシャ軍を迎え撃ったスパルタ軍が見せた自己犠牲的な働きと、それによる戦意高揚効果、さらにBC479年夏にボイオティア地方のプラタイアイで行われた最後の陸戦でスパルタ軍が果たした決定的な役割も、サラミスの海戦と同程度に重要なものだった。

 こうしてスパルタは、アテナイとともにペルシャ戦争に勝利し、その後のギリシャに黄金時代と呼ばれる文化の全盛期が訪れる下地を作った。但し、スパルタはその文化の隆盛そのものには全くと言っていいほど関与していない。しかし、スパルタが古代ギリシャの歴史と文化だけでなく、西洋の伝統にもさまざまな形で与えた影響は決して失われたわけではない。一つ目は、解放されていた女性の役割と地位、例えば、スパルタの女性は自分自身の権利で土地を所有し、処分することができた。二つ目は、ヘイロタイと呼ばれる農奴の存在。三つ目はよそ者嫌いの態度などである。また現在の英語圏への遺産として、ヘイロタイの英語形である「helot」は、一般的に下位または抑圧された集団・民族に属する者を意味する。「laconic(簡潔な)」は、スパルタ人の「言葉より行動」という簡潔表現好きからきている。「spartan(スパルタ的)」は質素・倹約・無私の気風である。その一方で、お馴染みのギリシャ風の工芸品、焼成粘土の酒杯や、見事な細工を施した青銅製の器や小立像などがスパルタで製造され、地元で消費されたり外国に輸出されたりしていた。

 スパルタは少なくともBC480年~BC479年の第2次ペルシャ戦争では、その後のギリシャ全体、そして西洋全体の歴史の道筋を決定するのに一役買っており、その行為は身勝手なだけのものでも、卑劣なだけのものでもなかった。それによって自身は多くの意味でアルカイック的な都市でありながら、スパルタはギリシャ古典文化(BC500年~BC322年)の開化を可能にしたのである。


 スパルタには僭主せんしゅ政の時代は存在しなかった。アルカイック期(BC800年~BC500年)のギリシャ本土の都市の中で最大にして最強の存在であったスパルタが、僭主を持たず、ツキディデスの言葉に従えば「アテュランネウトス(非僭主政)」を貫いたのは、要するに個人に対する不信によるものではないだろうか? いずれにせよ、スパルタの政治は僭主政治に対する敵意を基盤とした。事実、スパルタはサモス島の僭主ポリュクラテスや、アテナイの僭主ペイシストラトスのやり方に介入したし、ナクソス島の僭主リュグダミスについてはこれを打倒している。スパルタがコリントスとシキュオンをペロポネソス同盟に引き入れたのは、これらの都市が僭主政から脱却して後のことだった。スパルタのこの制度は、内的危機に立ち向かうために「僭主政に代わるもの」として樹立された。古来の伝承は、これらの改革を一人の傑出したBC9世紀末とされる伝説の立法家、リュクルゴスに帰してきた。実際、スパルタの制度と慣習はBC6世紀半ばごろまでかけて次第に整えられたようであり、その後はBC4世紀後葉の古典時代の終わりまで変わらなかった。この制度の進展の本質的要因は、スパルタがアルカイック期初期から行った領土拡張政策にあり、偉大さと同時に欠陥を含んだスパルタの独自性はここから生じた。


[スパルタの政治機構]

 スパルタの政治機構は、戦士階級である本来のスパルタ人が周辺民であるペリオイコイと農奴のようなヘイロタイを全面的で専断的に支配することの上に成り立っていた。特権的スパルタ人たちはお互いを「同等の仲間」と称し、自分たちだけをスパルタ市民とし、スパルタ本土のラコニアとその西にあるメッセニアの最も肥沃な土地をヘイロタイに耕させて生活のかてを得ていた。スパルタ市民、つまりスパルタ人たちは、幼児期の7歳から厳しい集団的訓練を施され、成人して後も種々の厳格な義務を課された。30歳になるまで同年齢の仲間と共同で生活し、それまでに結婚しても、最小限の権利しか認められなかった。30歳を過ぎてやっと自由になり自分の家庭で生活できたが、それでも1日に1回は所属する兵士の団体の仲間と一緒に食事し、60歳になるまでは集中的に行われる軍事訓練に参加しなければならなかった。このように恒常的に維持された社会的支配力が、あのように賞嘆され、しばしば勝利をもたらしたラケダイモン人(スパルタ人の通称名)の戦いの方法と、戦術的で道義的な結束の強さをもたらしたと考えられる。このスパルタの政治機構は、王政と貴族政、そして民主政などギリシャ人たちが知っていた種々の制度からさまざまな要素を取り入れ、それらを組み合わせたものだった。市民を統率する要になったのは2人の王で、これはアギアダイ家とエウリュポンティダイ家が世襲した。しかし、その権力が及んだのは軍事的分野だけで、作戦中の軍隊は、通常2人の王のうちの1人の指揮下に置かれ、もう1人は祖国に残った。

 重要な政治的決定については、28人の長老から成るゲルシア(長老会議)が担い、高等法院の役目を果たした。長老会議を構成するメンバーは民会から指名された60歳以上の人たちでゲロンティアと呼ばれ、終身制であった。指名は各候補ごとに推薦する群衆が歓声を上げ、それによって審査委員が決定した。行政官の指名も、スパルタ市民の集会(アペラ)によってこうした素朴なやり方で行われた。指名された行政官たちは国政に関する事項をこのアペラにはかって決定し、また結果についても報告することを義務づけられていた。アペラでは論議は行われず、賛否が問われただけだったが、この集会で得られた市民の支持は行政官たちにとって力の源泉となった。また、国政において重要な役割を果たした機関としてエフェロス(監査官)がある。これは5人のメンバーによる合議制で任期は1年間である。メンバーはアペラによって選出され、2人の王の行動が適法か否かを判定するとともに、市民たちについても公私にわたり伝統に忠実に従っているかどうかを、全市民の名において監視することをその任務とした。したがって、世襲的な二重王制を別にすると、他のギリシャ諸都市の「評議会」や「民会」と同じものがスパルタでも採用されていたわけで、スパルタの独自性はその応用の仕方にあったということができる。


 スパルタの政治機構は、28人の長老会とエフォロイと呼ばれる5人の監査官が行政を運営する一方で、2人の世襲の王が戦時に軍隊を指揮するという体制をとった。この寡頭かとう政治は国の最高決定機関である民会に対して責任を負っていた。ヘロドトスによれば、BC5世紀初め、スパルタの民会に参加した市民の数は約5000人だったという。つまり、スパルタの社会とは元は重装歩兵だった社会階層から成る大きな貴族社会だった。スパルタの社会は農業に依存しており、商人階級の存在は認められず、BC6世紀にギリシャの他の都市が貨幣を導入したときも、鉄の貨幣の国内使用だけを認めていた。その後BC4世紀まで、市民が銀貨や金貨を持つことは禁じられていた。さらにスパルタは植民活動にも消極的で、わずかに1ヶ所、南イタリアのタレントゥム(タラス)に植民市を建設しただけだった。言って見れば、スパルタは戦士を中心とした軍国主義的な平等社会であり、富や安楽に価値を認めなかった。古典期に入るBC500年まで、スパルタ人は同じ服を着て、男性市民は同じ夕食を共同で食べていた。生活は有名な「スパルタ式」で、質実剛健な戦士を育成するための厳しい規律を維持していた。結婚した後も夫婦は一緒に住まず、夫は30歳になるまで男性の仲間と共同生活を送り、共同の食事を続けた。このように誇り高いが、決定的に保守的なスパルタ社会は、閉鎖的で狭量であり、外部からのさまざまな影響から何としても身を守ろうとした。BC6世紀以降は、芸術と建築に関しても外部世界からの誘惑を一切拒絶している。自立を守るため通商も最小限に留め、銀貨の使用さえ排斥している。


 また、スパルタでは、学芸は尊重されていなかったため、文化や芸術面での業績はない。おそらくスパルタの社会は、非常に危うい基盤の上に成立していたことから、そのような軍国主義的な性格を持つようになったと思われる。問題の本質は、市民の数が非常に少なかったことにあった。実はスパルタの住民の大半は市民ではなく、ヘイロタイと呼ばれる農奴のような存在だった。彼らはもともとドーリア人の侵略によって奴隷にされた先住民だったようだが、個人が所有する奴隷ではなく、後の農奴のように土地に縛りつけられた社会階層を形成していた。その後、ヘイロタイの数はスパルタが他国を征服するたびに膨れ上がっていった。特にBC8世紀にペロポネソス半島南西部のメッセニア地方を併合したことは大きかったようだ。しかし、こうした政策の結果、スパルタの社会には常に潜在的な脅威、すなわち余りにも多くなったヘイロタイによる反乱の恐れが内在することになった。ヘイロタイの問題は、後にスパルタが他の都市国家と共同してペルシャ軍と戦うときにも、大きな足かせとなった。初期のころはギリシャ防衛の盟主となったスパルタだが、次第に軍隊を遠征させることに不安を覚えるようになった。ヘイロタイという敵が国内にいたため、スパルタは常に臨戦態勢を取る軍国主義的な社会となったと考えられている。


 時が経つにつれ、伝統の教えの厳しさにもかかわらず、その見かけの厳格さの下に隠された所有欲は多くのスパルタ人を堕落させていった。法律に定められている平等性は、個人資産を増やしたいという人びとの欲望の増大によって損なわれ、富はますます少数の人間の手に集中していった。多数のスパルタ人が共同の食事のための分担金をすら払えなくなり、同等者の身分から下層民へと落ちぶれていった。同等者の市民の数は、BC5世紀からBC4世紀にかけて絶えず減少していき、ペルシャ戦争直後は約5000人だったのが、BC371年のテーバイとのレウクトラの戦いの時代には、3000人を切っている。市民共同体のこの緩やかだが止まることにない衰退は、死に至る病と映る。



(アテナイ)


 ギリシャで一番大きなポリスだったアテナイは、現在のルクセンブルグほどの大きさだった。BC431年当時の人口は25万人くらいだったと思われる。アテナイに食糧を供給していたアテネ周辺の地方はアッティカと呼ばれた。そこは起伏が多く土壌が浅く、岩ばった土地だった。そのうえ雨も少なかった。ギリシャ世界でアテナイが早くから有力な都市となったのは、立地に恵まれていたことが大きかった。重要なのはアテナイがもともとエーゲ海や小アジアのイオニア地方にあるギリシャ植民市と密接な関係を結んでいたという事実である。さらにエーゲ海や小アジアへの行き来が容易だったこと、農業資源が乏しかったことが、BC6世紀初めにアテナイを強力な交易・海軍国に仕立て上げた。その結果、アテナイはギリシャで最も裕福な都市になった。その上、ラウレイオン銀山における新しい銀の鉱床の発見という思いがけない幸運まであって、艦隊を編成することができた。この艦隊を武器にアテナイはエーゲ海に揺るぎのない覇権を確立し、BC5世紀にはデロス同盟諸国から集めた拠出金で国庫を潤すようになった。そして自国の勢力拡大に対する誇りが、さらに輝かしい文化面での功績へと結びついていった。しかし、アテナイが所有するラウレイオン銀山では、何千人もの奴隷が働かされていたと考えられている。


 西洋の政治思想、政治的イデオロギーの伝統は、18世紀までは圧倒的に反民主政的で、親スパルタ的なものだった。しかし、19世紀に英米などで新しい現代的なタイプの代表民主政が登場したこと、新しいギリシャ国家が建設されたこと、そして西洋全域において政治上の手本と見なされた古代ギリシャの権威が高まったことを受けて、現在の代表民主政とは全く異なるとはいえ、アテナイの直接民主政に対する態度も大幅に軟化し、高く評価するようになった。こうして1830年代に拡大したアテナイへの敬意は、スパルタを独裁的な全体主義的体制と結びつける見方によって一層助長された。また、プラトンが「叡智の殿堂」と呼び、ツキディデスの「戦史」の中でペリクレスが「全ギリシャの教育の場」と称えたアテナイは、当時の市民だけのためとはいえ、自由と平等の理念の下に絢爛たる文化を開花させた都市として今も称賛されている。


 古典期(BC500年~BC322年)のアテナイは8キロメートルほど内陸に位置していたこともあって、ギリシャ世界最大の都市に成長し、エジプトでアレクサンドリアが建設され、ヘレニズム時代(BC321年~BC146年)に台頭してくるまでその地位を保った。アテナイは複雑な都市で、実際には3つの都市から成っていた。


① 一つの政治共同体、すなわちポリスとしてのアテナイで、これは中心市街地とその周囲に拡がるアッティカ(アテナイ人の土地の意)と呼ばれる田園地帯から成り、面積は2400平方キロで、ギリシャ世界ではスパルタとシュラクサイに次ぐ3番目の広さである。この共同体は139にのぼるデーモス(街区と村落)で構成され、そのほとんどは田園地帯に位置していた。

② 共同体の中にアクロポリスがあった。この「高所の都市」が時として単に「ポリス」と呼ばれたことは、共同体としてのアテナイにおけるその中心性を物語っている。ミュケナイ時代(BC1600年~BC1200年)、ここは宮殿があった場所で、BC6世紀までは「ペイシストラトスとその子孫」を意味するペイシストラティダイと呼ばれる僭主せんしゅ一族の統治の場所だったと見られている。だが遅くともBC500年には、アクロポリスは宗教的色彩の濃い空間になっていた。BC600年ごろ以降、アクロポリスの丘の麓には市民が集まる場所を意味するアゴラがあり、アテナイの商業・政治の心臓部であるこの中央広場は、アクロポリスと有機的につながっていた。さらにそのすぐ近く、アクロポリスから見える場所にプニュクスの丘があり、民主政期には、ここでアテナイの民会(エクレシア)が開かれた。

③ アテナイの分身ともいえる港湾都市ペイライエウスがある。ペイライエウスはBC5世紀に急激に拡大したため、ミレトスからヒッポダモスを招き、碁盤目の街路と公共スペースを計画・実施し、その無秩序な広がりを制御した。


 考古学的記録によれば、この地域は他のいくつかの地域に比べ、BC1200年ごろの大動乱による被害は比較的少なく、他の地域より迅速に回復したことを示している。したがって、アテナイがBC11世紀~BC10世紀の「イオニア人の移動」の中でそれなりに重要な役割を演じたという伝承にはある程度の信憑性がある。アテナイの経済的発展の兆候が認められるのはBC9世紀半ば以降であり、特にBC8世紀に国内経済と外交面で大きな前進が見られたことは、墓地の墓が雄弁に物語っている。この時期には相当数の移民が流入した見られ、その中にはフェニキア出身の熟練手工芸職人も含まれていた。BC7世紀は内紛による混乱の時代だった。BC621年にドラコンが成文法を定めて、家族の復讐権を取り去ったりしたが、内紛は収まらなかった。BC6世紀に入るとソロンが登場し、BC594年にソロンの立法と呼ばれる国政の改革に取り組み、中小農民の権利を守るとともに、財産により市民を四階級に分け、納税額と公職をリンクさせた。この成功はBC6世紀末の民主革命を思わせるものであり、ソロンは古代ギリシャの7賢人の1人に数えられている。その後、BC542年にアテナイでペイシストラトスが僭主せんしゅ政を確立した。僭主は独裁的ではあったが、暴君ではなかった。ペイシストラトスはディオニュソスに捧げる第1回の悲劇の競演会を催した。これが後のギリシャ悲劇を生みだした。しかし、僭主政の下では内部対立が続き、それに懲りたクレイステネスがBC508年に改革を実施し、人類史上初の民主政を誕生させた。その後、陶片追放制を始め、衆愚政治に恰好の武器を与えたことあったが、民主政は民衆の政治参加の度合いを大幅に高めるとともに、アテナイの潜在的な軍事力を計り知れないほど強化させた。

 こうして高まったアテナイ民衆の潜在能力は、第1次ペルシャ戦争において、BC490年夏にペルシャ軍と戦ったアッティカ東部のマラトンの戦場で華々しく発揮された。その後のアテナイの軍事史から、アテナイの強みは最初から主として海戦にあったと思いがちだが、実際にはアテナイが国を挙げて真剣に海軍力の増強を考えるようになったのは、マラトンの戦いの後に続くBC480年代になってからである。アテナイの、そしてギリシャの数少ない天然資源の一つは、アッティカ地方南東部のラウレイオン一帯にある銀を含む鉛の鉱床だった。BC483年に並外れて豊富な銀の鉱床が掘り当てられると、アテナイの政治指導者テミストクレスは民会を説得し、ギリシャで最大かつ最新式の200隻におよぶ三段櫂船船隊の建造費用にあてることを承認させた。漕ぎ手が170人の三段櫂船は軽量快速で、フェニキア人の発明である。第2次ペルシャ戦争において、BC480年8月にサラミス沖でフェニキア人主体のペルシャ海軍を壊滅させたのはこの艦隊だった。続いてBC479年夏のプラタイアイでの陸戦で、スパルタ軍は勇猛な戦いぶりを示し、これでギリシャ側の勝利は決定的なものになり、この二つの戦いをもって事実上ペルシャ戦争は終わりを告げた。最後の仕上げは、小アジア沿岸のミュカレ岬の沖合の海戦だったが、ここでも勝利した。その後、スパルタは基本的に国際問題から手を引き、自国のあるペロポネソス半島内の支配に専念するようになった。一方、アテナイは小アジアのギリシャ人の開放という大事業の先頭に立つことになった。

 BC478年の冬に結成されたデロス同盟(BC478年~BC404年)は、基本的にアテナイを盟主とするペルシャに対する海上における軍事同盟である。アポロンの聖地であり、イオニア系ギリシャ人による年に一度の祝祭の場となっているデロス島で誓いの儀式が行われ、加盟国はペルシャ帝国を破った後も同盟を維持し、永遠にペルシャ帝国に対する抵抗を続けることを神々の名に懸けて厳かに誓約した。しかし、この同盟はそもそも最初からほぼ完全にアテナイのものだった。200を超える加盟国の大半は小都市で、アテナイの軍事力と善意に完全に依存しており、そのため相応の拠出金の支払いに応じた。拠出金の額は、最盛期であるBC5世紀後半には年1000タラントほどにのぼった。その後、マケドニアのフィリッポス2世が登場するまで、この数字を塗り替えるギリシャ国家は一つも現れていない。


 ペリクレス(BC495年~BC429年)がBC462年に登場してからの数十年間、公共建築と民衆への権限の付与に関して注目すべき事態が進行していた。建築面では、アテナイのアゴラが真に都市の中心地区にふさわしい外見を備えはじめると併行して、ペイライエウスがアテナイの港湾都市として発展した。アクロポリスにはパルテノンがBC447年~BC432年に造営され、その後にエレクティオンも造営され、この二つの神殿はアテナイの守護女神アテナに奉げられている。この時代、前例がないほどの繁栄と勢力を誇ったアテナイには、ギリシャ人も非ギリシャ人も、一時滞在者も含めて大勢のアテナイ人以外の都市、シチリア島やエーゲ海の島々などから人が集まってきた。在留外国人は70前後のギリシャ都市で確認されているが、アテナイには多い時で1万人ほど住んでいた。彼らは男女ともに市民の保証人を介して住民登録をして、月ごとに人頭税を納めなくてはならず、成人男性は徴兵対象になった。その中には、武器製造業者、哲学者、手工芸職人、銀行家、商人、そして奴隷がいた。アテナイ市民の中からも、劇作家、歴史家、工芸家、建築家、彫刻家、医学者など後世に名を残した偉大な人びとを数多く生み出した。この文化上の英雄時代に成し遂げられた偉業の数々に貢献したのはアテナイだけではない。エーゲ海東部のコス島出身の「西洋医学の父」ヒッポクラテス(BC460年~BC377年)、その理想的な均整美と巧みな塑像技術ゆえに「カノン(規範)」と呼ばれる男性裸体像を製作したアルゴスのポリュクレイトスなど、この時代に光彩を添えたギリシャ人は他にも数多く存在する。

 この夜明けの時代には、生きていることは大いなる喜びだった。特に、アテナイ市民の中でも比較的貧しい一般民衆の成人男子にとっては、軍船の漕ぎ手を務める民衆の軍事面での役割が重要性を増すなか、その見返りとして与えられる民衆の政治的権限は加速度的に増大した。例えば、裁判所で陪審員を務めると、公費で日当が支払われるようになった。BC461年にエファアルテスが若きペリクレスの下で実施した一連の改革によって、半世紀にわたって進展してきた民主化は完成を見る。しかし、主に経済発展の理由で急激な伸びを示したアテナイの総人口が25万人~30万人の中で市民団の規模が5万人を超えると、BC451年の市民権法など一連の婚姻法によって市民権取得に厳しい制限を課した。このような政策が取られたにもかかわらず、出生率の著しい上昇によって、BC430年代には成人男子の市民数は6万人に達したと考えられている。その結果、エーゲ海域の同盟国を含む海外入植地に市民を大量に送り出す必要が生じるとともに、食糧輸入量、特に現在のウクライナとクリミアから輸入されるパン用小麦の量は大幅に増加した。


 ぺロポネソス戦争に敗れたBC404年以後、アテナイがかつての栄光を完全に取り戻すことは二度となかった。この年のアテナイは飢餓の冬と全面降伏に続いて、クリティアスが率いるわずか30人の極端な寡頭かとう派(30人僭主せんしゅ)による恐怖政治の下で血なまぐさい内戦を経験している。そしてBC403年に民主政が復活したとはいえ多くの者はBC399年のソクラテス裁判とそこで出された有罪判決が、アテナイの民主政に消すことのできない汚点を残したと感じている。ソクラテスは二つの罪で有罪を宣告された。一つはアテナイ国家公認の神々に敬意を払わなかった。もう一つは、若者を堕落させたこと。つまり弟子の中にクリティアスのような民主政への裏切り者がいたことだった。とはいえ、その後も穏健な形の民主政が維持され、プラトンや彫刻家のプラクシテレス(BC322年没)、喜劇作家メナンドロスを生み、アリストテレスと彼が設立した高等研究機関リュケイオンに安住の地を与えたこの時代は決して恥じるべきものではない。そればかりか、BC377年にアテナイを中心とする第二次海上同盟(約60ヶ国)が第一次のデロス同盟からちょうど1世紀後に結成され、昔日の絶大な勢力を多少なりとも回復するための第1歩を踏み出している。アテナイは、民衆への政治的権限の付与、芸術的な気風、自由な哲学的思索という大いなる遺産を通して、古典ギリシャの最良の時代を象徴する存在になった。そしてその結果、2000年以上後の1830年代にオスマントルコによるおよそ400年間の支配から解放されて誕生した新国家「ヘラス(ギリシャ語の正式国名)」の恒久的な首都に選ばれたのである。


[アテナイのアクロポリス]

 アテナイのアクロポリスは防衛上の理由から険しい岩山の上に築かれており、そこにはかつてミュケナイ文明の時代に建てられた宮殿などの古代建造物が並んでいた。古典期に入ると、この場所にアテナイの重要な神域や神殿が設けられたが、BC5世紀前半のペルシャ戦争によってアクロポリスは廃墟と化した。戦争が終結すると、ペリクレスが大規模な再建計画を指揮し、壮麗な記念建造物や神殿の建設に着手した。後年、地中海の覇権を握ったローマ人によって、さらにアグリッパの記念碑など別の建造物が付け加えられた。


[アテナイのパルテノン]

 アテナイのパルテノンは処女アテナを意味するアテナ・パルテノスの女神に奉げられた神殿だった。この神殿はBC440年ごろに、アテナイの中心部にある岩だらけの要砦ようさい、アクロポリスの上に建てられた。その中央のホールに金と象牙で作られた女神自身の巨大な像が祀られていた。そして至る所すべて彫刻で埋め尽くされていた。この建物の外側4方向すべての列柱の上に、メトープと呼ばれる92枚の四角いレリーフが並んでいた。そこに描かれているのは戦いばかりで、オリンポスの神々と巨人との間の戦いや、アテナイ人とアマゾネスとの戦い、伝説上のギリシャ人ラピテーヌ族と半人半馬ケンタウロスとの戦いなどだ。これらの彫刻は、当時実際に起きた出来事を英雄物語として神話を用いて描いていたと考えられている。彫刻が製作される1世紀前までアテナイは他の都市国家と互いに激しい攻防を繰り返していたが、BC490年~BC480年にかけてギリシャ本土にペルシャ軍が侵攻してきたために、都市国家同士が同盟を組まざるを得なくなった。したがって、メトープの中で、ギリシャ人がケンタウロスと戦っていれば、神話上のこうした戦いは現実のギリシャとペルシャの戦いの代りなのである。

 古代ギリシャは、紛争あるいはその勝敗といった観点からさまざまな問題を捉える世界で、紛争の絶えない社会であり、世界の中でアテナイが占める位置を考える場合、敵や他者を人間ではないという観点から見ることだった。つまり、パルテノンにあるのは、自分たちの敵の異質性を理解するさまざまな方法だった。巨人やアマゾネス、ケンタウロスの世界は、単にペルシャ帝国を意味しただけではなく、競合するギリシャの他の都市、なかでもアテナイがしばしば交戦していたスパルタも暗示していただろう。理性的な人間は狂暴な非理性と戦い続けなければならないのだ。しかし、これらの彫刻は短期的には必ずしも理性が勝つわけではないという苦い洞察も与えてくれる。

 パルテノンは神殿であるが、同時にここは宝物庫になっていた。それは再び攻めてくるかもしれないペルシャに対するギリシャの防衛費を賄うための金庫だ。しかし、やがてアテナイがギリシャの都市国家の頂点に立つと、この防衛費はアテナイが他の都市国家に要求する見かじめ料となった。他の国々は拡大を続けるアテナイ海洋国家の衛星国となるよう強いられたのだ。そしてその資金の大半はアクロポリス建設事業の資金となった。ギリシャの他の都市から来た人びとにとってパルテノンは服従の象徴のように見えたかもしれない。ギリシャが衰退した後、パルテノンは何百年もの間、処女マリアのキリスト教大聖堂となり、後にはイスラム教のモスクになった。18世紀末には、オスマントルコの支配下で活気を失ったアテナイで誰にも顧みられない廃墟となっていた。しかし、1820年代から1830年代にかけてギリシャは独立を果たし、ヨーロッパの同盟国からバイエルンのドイツ人の王を与えられ迎い入れた。そして1834年に修復作業が開始され、現在のギリシャ国民をパルテノンと恒久的に結びつけることが始まった。



(アテナイ帝国)


 アテナイがデロス同盟の盟主として、同胞であるギリシャ人を支配下に置いていた期間はBC5世紀のおよそ75年(BC478年~BC404年)と短く、また規模も他の西アジアの国々と比べると小さかった。クセルクセス1世のギリシャ侵略を撃退した海上同盟が起源だが、アテナイが主導権を握ったことで、時と共に緩やかな支配へと形を変えた。しかし、締め付けが厳しくなると、他の都市国家は離脱をもくろむようになる。ギリシャ世界におけるアテナイの影響力は、エーゲ海の島々と小アジア沿岸の都市に限定されていた。それにもかかわらず、アテナイは人類の歴史上でとても重要な役目を果たした。アテナイ人がBC5世紀に実現した民主政と高い文化水準が、都市国家アテナイの2本柱である。アテナイの隆盛を記録した歴史家ツキディデス(BC460年~BC399年)は「国際関係の父」と呼ばれた。


 ミュケナイ文明がBC1200年ごろに滅びた後、ギリシャにはパッチワークのように都市国家が出現した。都市国家はそれぞれの地域の政治的景観を作る核のような存在であり続けたが、BC9世紀以降はその自治を重んじる孤立主義が徐々に影をひそめ、都市国家を越える体制も出現し始める。ギリシャは複雑なネットワークに身を置くようになり、その重要性は少しずつ増していく。ネットワークでつながった共同体同士は宣誓によって相互義務の結びつきを強め、都市は兵力を派遣して遠隔地に独立した共同体を建設する。こうした海外入植地は、宗教、文化、政治的な面で「母都市」とつながっていた。都市が豊かになるにつれて、エリートたちは狭い社会の中で競い合うだけでは満足できなくなった。彼らは名誉と地位を求めて新しい領域を模索し始める。こうして野心的な僭主たちは、政治同盟を結成して影響力の拡大を図り始めた。都市国家は宗教的な同盟も作って同じ神を信仰し、共通の聖地を運営するようにもなる。BC6世紀末までに、スパルタはBC715年に西隣のメッセニアを支配し、BC505年にはペロポネソス同盟を結成して、ペロポネソス半島の大部分を統一した。コリントスは広範囲に交易路を開拓して、交易で裕福になり、地中海全域にいくつもの植民地を持ち、さらにペロポネソス地域にも影響力を振っていた。都市国家アテナイが大国になる直接のきっかけは、BC490年とBC480年の二度にわたり、ギリシャ侵略を試みたペルシャ帝国をギリシャ人連合が撃退したことである。これは予想外の勝利だった。アケメネス朝ペルシャはキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)以来、小アジアとその周辺地域にその支配を広げていた。保有する資源や財力でも軍隊の規模でも、ペルシャはギリシャをはるかに凌駕していた。ペルシャへの反撃で目覚ましい活躍を見せたのがアテナイである。BC499年に小アジア沿岸のイオニア地方のギリシャ系都市国家がペルシャに反乱を起こしたとき、支援要請に応じたのもアテナイだった。

 ペルシャ戦争後、アテナイはスパルタに代わって指導力を発揮する絶好の立場にあった。連合を組んでいた都市国家の間にスパルタへのへの不満がくすぶり始めたからだ。さらにスパルタ王パウサニアスに独裁的な傾向があったことから、ペルシャ帝国への備えのために新しくできたデロス同盟(BC478年~BC404年)はアテナイが主導権を握ることになった。アテナイ帝国ともいえるアテナイの繁栄の基盤となったのはこのデロス同盟である。アテナイは同盟の中で卓越した立場だったので、海軍力維持のための協力金を要求し、それを査定したり、同盟国全体の利益を考えて意思決定を下したり、同盟内で対立が生じた時に仲介したりした。同盟維持の名目の下、アテナイは反抗的な都市に制裁を加えたりもした。最盛期アテナイは、本国のアッティカ以外にギリシャ本土では北東部のボイオティア、フォキス、テッサリア、ペロポネソス半島では北東部のアルゴリス、アカイア、エーゲ海では南はロードス島から北は現在のトルコのボスポラス海峡に到るまでほとんどすべてに沿岸都市を含む400もの都市国家の頂点に立った。しかし、協力金を真面目に支払っていたのは190ヶ国にすぎなかった。アテナイはデロス同盟維持のため軍事力を積極的に行使した。まず、海賊の巣窟を粉砕する目的でエーゲ海中西部のスキュロス島を攻撃し、そこに自分の植民地を建設した。次に、BC490年の戦いでペルシャ側についたアッティカの西隣のエウボイア島南端の都市カリュストスを侵略し、同盟に組み込み、協力金を供出させるようにした。さらに、エーゲ海中南部に位置し、BC470年に同盟脱退を表明したデロス島の南にあるナクソス島を包囲し降伏させ、彼らの艦隊を剥奪して、デロス同盟に再び加入させ協力金も課した。そして、同じく同盟脱退を宣言したエーゲ海北部でトラキアの南にあるタソス島も攻撃し、3年におよぶ戦いの末、降伏させた。タソス島はそれまで対岸のトラキアにある金鉱の管理権を持っていたが、それをアテナイに譲ることになった。こうして碑文にそれまで書いていた「アテナイとその同盟国」を止め、「アテナイが支配する各都市」と記すようになった。

 デロス同盟の加盟国は海軍力の維持を通じて同盟関係を支えることが最大の義務だった。具体的には艦船や乗務員の調達費用をアテナイに渡すか、現物をアテナイに差し出すということである。ほとんどの国は前者を選び、毎年相当額の協力金を拠出する一方、自国の海軍力は縮小していった。なぜそうしたのか、その背景には2つの要因があった。一つは、艦隊維持には莫大な費用と労力がかかること、二つ目は、アテナイの海上覇権が広く受け入れられていたことだ。自前の艦隊を保有すれば単独で行動できるというのは幻想でしかない。キオス、レスボス、サモスといった大きい島はその幻想を捨てず、サモスとレスボスは反乱を起こしたがあっけなくアテナイに鎮圧されている。

 協力金拠出には、経済的基盤を安定させ軍事力を維持する以外に、イデオロギー的な意味も持っていた。アテナイは国内のさまざまな行事日程を協力金と結びつけた。例えば、アテナの誕生日を祝う4年に1度の大アテナイア祭の時期に、協力金の査定を行った。さらに集まった協力金をアテナイに運び込むのが、大ディオニュソス祭のときだった。協力金のお披露目は、演劇が上演されるこの祭りのいわば前座だった。演劇や美術、儀式を通じて、自国の制度が如何に唯一無二で、優れているかという、アテナイの売り込みの熱心さは他の都市国家の比ではなかった。アテナイのこうした活動は、他のギリシャ人の関心を大いに集めた。穀物や木材が水揚げされるアテナイの港には、職人、詩人、劇作家も続々と上陸した。富を蓄えつつあったアテナイのエリート層は、新しいものに飛びつき、才能ある外国人もアテナイに活躍の場を見出した。教師、音楽家、詩人、劇作家などだが、なかには会話術の相手役を務めるレッスンプロもいた。アテナイに集まる富を目当てに、ギリシャ各地から商人や職人が流れてきた。アテナイの市場には、キオス島のワイン、エジプトの香料売り、リビアの穀物商人、フェニキアの織物職人はひしめき合い、トラキアの王子たちが見物を決め込んでいた。

 スパルタおよびその同盟国との戦い、アテナイと反アテナイ同盟国との戦争(BC460年~BC446年)と、ぺロポネソス戦争(BC431年~BC404年)はアテナイの歴史の中で最大の事件である。14年と27年、合計41年間におよぶこの戦いはギリシャを二分し、最終的にアテナイ帝国を崩壊させることになる。ペルシャ戦争後、台頭するアテナイを当初スパルタが容認したのは、内政が不安定で海外派兵する余裕がなかったからで、アテナイのエーゲ海支配を歓迎していたわけではなかった。国を長く留守にすると農奴が反乱を起こす危険があった。そこでスパルタは相互防衛条約で結びつくペロポネソス同盟を率いるに留まった。ペロポネソス同盟のもう一つの有力国がコリントスである。コリントスはスパルタ以上にアテナイの脅威を感じていた。アテナイはコリントスのライバル国と次々に手を結び、西方に影響力を広げようとしていた。BC461年~BC446年にコリントスとアテナイは外交面でも軍事面でも衝突を繰り返した。アテナイはボイオティアにも進出したが、ボイオティアを自らの領土と考えていたテーバイからは強烈な反感を買うことになった。

 デロス同盟結成からの47年間は、二つの特徴で語ることができる。アテナイ帝国の土台作りと勢力圏の拡大、それにアテナイとペロポネソス同盟との絶え間ない軋轢である。その対立からは憎悪しか生まれなかった。ペロポネソス戦争に参加し、この戦いを「戦史」に記録した歴史家ツキディデス(BC460年~BC399年)は、「アテナイの権力が増長したことでスパルタが脅威を覚えた。戦争の真の原因はこれに尽きる」と書いている。とはいえ、勃発当初は、まさか5年以上も続くとはどちらも思っていなかったし、シチリアとトラキアにまで戦いが拡がることも予測していなかった。

 ぺロポネソス戦争で目を引く特徴は、アテナイとスパルタが共にペルシャに接近を試みたことだ。ペルシャのような大国の介入なしに、この泥沼は打開できないことをどちらもわかっていた。結局ペルシャはスパルタ側につき、この瞬間アテナイの運命は封じられた。ペルシャが出した資金で、スパルタは艦隊を整備し、陸戦が主体だったスパルタが海軍増強に乗り出したのである。その後、一進一退を繰り返したが、BC404年、アイゴスポタモイの海戦でついにスパルタに勝機が訪れた。アテナイ艦隊は乗組員が陸に上がっているときに不意打ちを食らい、一網打尽にされた。この敗戦によって実質的にアテナイ帝国は終止符が打たれた。海洋軍事同盟から帝国へと発展したものの、短命に終わったアテナイはいわば単にアルケー、すなわち統治と呼ばれた。


 ***


 スパルタの寡頭かとう政にせよ、アテナイの民主政にせよ、ギリシャ緒都市が試みた政治体制は狭い限られた共同体のために考えられたもので、それを広大な規模に広げて大規模国家の形成へ発展させていくことはできなかったが、歴史が明白に示しているように、これらの体制の多様性はあらゆる近代的政治システムの基礎自体を樹立することによって、国家と市民との間の関わりを史上初めて明確に確定した。

 それらの国家と市民との関係は「法」に基づいているが、この「法」は文書に記されたものもあれば、口承によるものもあり、また伝承によって神に結びつけられていることもあれば、人間の発意によるものもあり、さまざまである。この「法」を無視したのが古典期に用いられた意味での僭主せんしゅたちで、ギリシャの僭主政を特徴づけたものは、権力の粗暴さや残忍さよりも、伝統的な「法」に照らし合せようとしないことだった。発展した都市国家はどのような制度であれ、良き「法」によって規制された共同生活の理想を実現しようとした。この理想とは、「法にかなった調和」であり、「英知に導かれた良き秩序」である。ギリシャ人たちはほとんどこの理想に現実を近づけることができなかったが、だからと言って、彼らが真摯な努力をしなかったわけではない。確かに、元来は神的なものに捧げられた「法」の概念は、次第に俗化の傾向を辿って行ったが、古典期のギリシャ人にとって、相変わらず「法に背くこと」と「神への不敬」の間には密接なつながりがあった。法律の目的は、人間関係を暴力と勝手気ままから守ることにある。BC4世紀になっても弁論家たちは、法廷での論争でも政治的演説においても、良風美俗と市民の安全の守り手である「法」への敬意を言明している。

 ギリシャ人たちは「法典」として編纂することを知らなかったわけではない。後のローマ人のように法律家ではなかった古典期のギリシャ人は、原則を定めることより、具体的な問題を解決するために如何なる実践的手段を整えるかに関心を向けた。各都市が法律について自主独立主義をとっていたため、一つの大きな国家なら当然実現したような法律の統一化はあまり必要とされなかったのである。これらの法的規範の中で大きい部分を占めたのが、人権と財産に関する規定だった。しかし、それらが保障しているのは、あくまで訓練課程を修了した市民の特権的地位であり、常に弱者である女性や身分の低い市民や住民、外国人や奴隷といった人びとは対象外である。その上で、市民共同体との関係における個人の権利と義務、また国家に背く罪と、個人間の争いを調停するための罰則および訴訟手続きといったことが定められている。ギリシャ人が生き、働き、市民権を行使し、その神々を礼拝したのは、都市という狭い枠組みの中においてであり、戦い、死ぬのもこの都市のためであって、それが彼らの欲求や好みに見事に合致していた。マケドニアのフィリッポスやアレクサンドロスが、この都市という古い概念を消滅させないまでも、別の国家概念をギリシャ世界に押しつける以前は、ギリシャ人たちは自らの視野を広げようともしなかったし、多くの都市を組織的で永続性のある一つの形の下に糾合しようとも望まなかった。デロス同盟とかペロポネソス同盟、第二次海上同盟、コリントス同盟などが結成されたが、長続きしなかった。このような狭い都市の枠組みを超えての結合に対する根強い嫌悪感にもかかわらず、ギリシャ人たちに自分たちは同じ民族に属しているのだと宣言させたものは一体何だったのか? この連帯は、内輪の敵対関係にもかかわらず、全ギリシャ的な大祭のときとか、ギリシャ世界の存続そのものを脅かす外敵が現れたときとかには、明かな形で現実化している。この連帯感の基盤にあったのが、共通の言葉と宗教を持つ共同体であるとの自覚であり、伝承と伝達を可能とするさまざまな作品、すなわち悲劇作家や芸術家の創作したものに対する感動の一致である。ギリシャ人は、他のいかなる民族にもまして、自己認識のために独自の文学と芸術とを必要とした。この二つの創造物はいずれも並外れた豊かさを示しており、そこにはギリシャ人の比類のない才能とともに、生の必然性に突き動かされたかのようにその手(知恵と技術)と精神をもって注いだ情熱的関心が反映されている。

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