第109話 ペロポネソス戦争とギリシャ古典期後半

<古典期後半の主な出来事>

BC431年~BC404年 ぺロポネソス戦争。アテナイとスパルタが主導するペロポネソス同盟の戦争

BC415年~BC413年 アテナイのシチリア遠征。シチリアのシュラクサイが勝利

BC404年 スパルタがペルシャの援助を受け、ぺロポネソス戦争に勝利

BC404年~BC371年 スパルタによる覇権掌握

BC401年~BC400年 ギリシャ人傭兵1万人の小アジアへの遠征

BC395年~BC386年 コリントス戦争。スパルタが四国同盟(アテナイ・テーバイ・アルゴス・コリントス)を破ったりしたが、最終的な決着がつかず、BC386年にペルシャの仲介で和平条約が締結された。これはギリシャでは「王の平和」と呼ばれている。

BC385年 プラトンがアカデミアを創設

BC377年 アテナイを中心とする第二次海上同盟(約60ヶ国)が第一次のデロス同盟からちょうど1世紀後に結成された。

BC371年 スパルタはレウクトラの戦いでテーバイに完敗し、ギリシャの覇権は一時的にテーバイに移った

BC362年 テーバイの指導者だったエパミノンダスはアルカディアのマンティネイアの戦場でスパルタに再び勝利を収めたが、そこで命を落とした。指揮官を失ったテーバイは弱体化し、覇権は失われた。

BC366年 スパルタ主導のペロポネソス同盟解体

BC359年 マケドニアのフィリッポス2世即位

BC357年~BC355年 同盟市戦争。アテナイを中心とする第二次海上同盟から離反してマケドニアの庇護の下へ入る都市が次々と現れた。BC355年にアテナイがマケドニアに敗北。

BC356年~BC346年 第三次神聖戦争、デルフォイの聖域の管理をめぐる争い。フォキスとテーバイがアテナイとスパルタをまき込んで争う中、マケドニアはその南のテッサリアを保護下に置いた。


 ***


 古代ギリシャ文明を支えた基盤は小さかった。確かにギリシャの都市国家の数は多く、エーゲ海の広い範囲に散らばっていた。しかし、マケドニアとクレタ島を加えたとしても、ギリシャの総面積は10万平方キロ(日本の4分の1)ほどしかなく、しかも耕作に適した土地は全体の5分の1ほどにすぎなかった。都市国家の規模も小さく、人口もせいぜい2万人、最大規模のものでも30万人程度だった。さらに都市に住む人びとの中で市民として生活を送り、ギリシャ文明を享受していたのは一握りのエリートだけだった。

 それでもなお、BC5世紀のギリシャが人類史上まれにみる輝かしい時代だったことは間違いない。もちろんその文明は過去と深く結びついたものであるし、その後に広くギリシャ世界に浸透していったという意味では未来と切り離して考えることもできない。それでも、BC5世紀という時代が、ギリシャ文明が統一性を持って力強く前進し、目覚ましい成果を上げた特別な時代だったことは確かであり、ギリシャという小国のわずか1世紀余り、しかもほぼ戦争に終始した時代の歴史が、古代の大国の数千年の歴史に劣らない重大な意味をもっているのである。


 BC480年にはギリシャの都市国家が力を合わせてペルシャ軍を撃破したが、それでギリシャが統一されたわけではなく、昔からの対抗意識は根強く残った。同盟国の利益を目的としたデロス同盟の富と権威は、アテナイが帝国主義的な野心を募らせるにつれて次第に失われた。ペルシャ海軍を打ち負かしたサラミスの海戦からわずか50年後には、敵対していたスパルタとの間で全面戦争に突入した。BC431年からBC404年にかけて行われたこのペロポネソス戦争で、両国の資源や活力、士気、人材は枯渇してしまった。



(ペロポネソス戦争)


 BC478年にアテナイによって結成されたデロス同盟以降のアテナイの繁栄に対して穏やかではなかったのが、ペロポネソス半島南部のスパルタである。強力なペロポネソス同盟を率いるスパルタ、そしてアテナイの同盟国のうち特にコリントスとテーバイは、アテナイに台頭しつつあった帝国主義を恐れた。BC460年からBC446年にかけて、アテナイと反アテナイ同盟国との戦争が行われ。スパルタも反アテナイ同盟軍に加わった。BC446年からBC445年にかけてアテナイはスパルタとの間に30年間にわたる停戦条約を結んだが、BC432年、アテナイはメガラの商人たちをアッティカ地方及びアテナイの同盟国の港湾と市場から締め出す命令を発した。これが契機となり、相対立するアテナイとスパルタ両陣営の断絶は決定的となった。BC431年にペロポネソス戦争が始まると、スパルタはギリシャをアテナイの専制から解放すると宣言した。


 ペロポネソス戦争は、途中で中断された時期はあったものの、27年間(BC431年~BC404年)にもわたってギリシャ世界を2分する長く苦しい戦いとなった。この戦争の特色を一言でいうなら、「陸軍対海軍の戦い」だったと言えるかもしれない。「陸軍」とはスパルタを中心としたペロポネソス同盟軍のことで、テーバイのあるボイオティア地方やコリントスなども含まれる。一方、「海軍」のアテナイ陣営は、デロス同盟時代から支配下にあったエーゲ海の島々やイオニア地方の植民市が主体で、エーゲ海沿岸に広く散らばっていた。

 ギリシャ世界最強を誇るスパルタ陸軍にしてみれば、アテナイの領土に侵入して降伏をせまるというのが当然の戦術であり、事実彼らはそのように行動した。アテナイ軍は地上戦ではスパルタの敵ではなく、アテナイは何度も苦境に立たされた。しかし、海軍ではアテナイの方が勝っており、なかなか勝敗の行方は決しなかった。この強大なアテナイ海軍の創設に大きく貢献したのが、古代ギリシャを代表する偉大な政治家ペリクレスだった。ペリクレスは当初からアテナイ人たちに唯一の戦略を授けていた。それは、スパルタ側が数においてだけでなく、その重装歩兵の勇猛さでも圧倒的に優勢であることを見抜いていたので、スパルタとの地上戦は避け、アッティカの住民をアテナイとアテナイの外港であるペイライエウスとを結ぶ全長約8キロ、幅180メートルの長城の中に避難させ、あくまでアテナイが得意とする300隻の三段櫂船を有する海軍力を生かして、ペイライエウス港を窓口とする商業の自由を保持しながら、ペロポネソス半島の沿岸を執拗に攻撃し、兵を上陸させては各地を襲う戦略であった。当時のギリシャ世界にはこうした城壁を破るような武器はなかった。そのため、海軍によって制海権を掌握していたアテナイは、陸路を封鎖されても平時と同じように食料を確保することができた。


 戦争の第1幕はBC431年からBC421年まで10年間続き、スパルタの王の名を取り「アルキダモスの戦争」と呼ばれる。アルキダモス2世はスパルタ軍を率いて3度にわたってアテナイの本土アッティカ地方に攻め込んでいる。この間、アテナイではペストと思われる謎の疫病が流行し、BC427年には住民の3分の1が死んでいる。また、長年指揮を執ったペリクレスもそれが原因でBC429年の秋に死去した。BC421年、10年におよぶ戦いに双方が疲れ実現したのが、アテナイの交渉で中心的役割を果たしたアテナイの政治家の名を取った「ニキアスの和約」である。しかしこの和平は長続きしなかった。そもそも有力国であるコリントス、テーバイ、メガラが和約に参加していなかった。和約から数年もしないBC419年、アテナイはスパルタの長年の敵であるペロポネソス半島東部のアルゴスと手を組んだ。さらにBC416年には、スパルタと同じドーリア人が定住していて中立だったメロス島を配下に入れようとして、抵抗されると占領した。また、アテナイにとってスパルタの同盟国であるコリントスは交易における最大のライバルだった。そのコリントスが最も重視していた植民市がシチリア島のシュラクサイである。豊かなシュラクサイを抑えればペロポネソス半島への穀物の供給路が絶たれ、敵に大きな打撃を与えられるとアテナイは考えた。こうしてBC415年~BC413年に行われたのが惨憺たる失敗に終わったシチリア遠征だった。アテナイはこの遠征の失敗によって陸軍の半分を失い、艦隊はほとんど全滅してしまい、致命的な打撃を被ることになった。

 一方、スパルタはペルシャに接近し、その支援を取り付けることに成功する。見返りとしてスパルタは、小アジアのギリシャ植民市をペルシャ戦争以前のように再びペルシャに従属させるという密約を交わした。こうしてペルシャの支援によって艦隊を編成することに成功したスパルタは、アテナイの強力な海軍に打ち勝ち、アテナイの支配下にあった都市を支援して、次々と開放していくことになる。

 BC412年からBC404年にかけてのアテナイの歴史は、外敵の圧迫から逃れようとする絶望的な努力と、シチリアでの失敗の責任をめぐって繰り返される政界の混乱のため、極度に複雑な様相を示す。軍事行動においても、個人的な野心が幅を利かせ、しばしば予期せぬ結果をもたらした。BC411年には政変が起こり、わずか4ヶ月とはいえ、寡頭かとう政治が民主政に取って代わったこともあった。BC405年、スパルタの将軍リュサンドロスはアテナイ船隊に奇襲攻撃を加え、捕えた船を残らず破壊し、兵員と乗員を捕虜にした。この敗北はアテナイにとって致命的であった。BC405年11月からアテナイの外港であるペイライエウスは封鎖され、海外の植民地や同盟国との間の交通は断ち切られ、穀物の輸入も途絶えた。アテナイ市民は4ヶ月抵抗した後、BC404年4月に無条件降伏した。アテナイはすべての船舶を取り上げられ、ペイライエウス港への長城は破壊されて、以後は対外政策についてはスパルタの命令に従わなければならなくなった。


 ペロポネソス戦争はBC404年に終結した。その後に起こった出来事を見ると。ギリシャ世界を2分して行われたこの戦争の物理的・精神的な損失の大きさがよくわかる。終戦後はスパルタが一時的にギリシャ世界の盟主のような立場に就いた。ギリシャの盟主となったスパルタだが、ペルシャに対して効果的な戦略が立てられず、スパルタはすぐにペルシャから密約を果たすように迫られた。ペルシャは小アジアのギリシャ諸都市国家をペルシャの支配下に戻すよう要求し、それらの国に干渉を始めた。スパルタは軍を派遣し、ペルシャの企てを阻止しようとしたが、ギリシャ本土でテーバイがスパルタに反旗を翻し、これにアテナイが呼応するという事態が起こって譲歩を余儀なくされた。


 アテナイ人の理解では、市民権は簡単に与えるべきものではなかった。しかし、ペロポネソス戦争においてアテナイは重大な危機に陥った。そしてBC403年、アテナイ人は、厳しい戦争期間中常にアテナイ側についてくれたサモス島の人びとにも市民権を付与することを決議した。サモス人に市民権を付与する決議を記した碑文は、アテナ女神がサモスの守護女神ヘラに友好のしるしに手を差しのべている様子を描いたレリーフの下に刻まれている。

“これは評議会と民衆によって決議されたものである。・・・サモス人を褒めたたえよ。彼らはアテナイ人の良き友であることを自ら証明した。以前アテナイ人がサモスの民のために決めたすべてを、改めて有効と見なすことで合意した。サモス人は、彼らの要求通り、彼らがスパルタに送りたいと思う者を自分たちで選んで送ることができる、これに加え、サモス人はスパルタとの交渉にアテナイ人の参加を要求することができる。サモス人はサモスとアテナイ双方にとって利益になるよう、サモスの使者と共に交渉の席に座って検討するアテナイの使者を選ぶことができる。・・・サモス人に何か要求がある時は、その代表にアテナイに来てもらって交渉し、次の日には彼らをプリュタネイオン(迎賓館のような公館)での晩餐会に招くこととする・・・”

 もともとBC405年にアテナイ市民権をサモス人に付与すると言う合意がなされていた。碑文に「以前にアテナイ人がサモス人のために決定したすべてのこと」とあるのがそれである。だがその合意は、BC404年にペロポネソス戦争でアテナイが最終的に敗北を喫した後、アテナイを支配したスパルタ主導の「30人僭主せんしゅ」により完全に取り消された。30人僭主政は、多くの有力な市民が毒殺されたり追放されたりした後のBC403年にトラシュブロスらの民主派によって倒され、アテナイの民主政は復活した。だがアテナイはかつてのアテナイではなかった。アテナイが強い立場にあった時代であれば、如何にサモス人の活躍がそれに値するものであったとしても、市民権の付与を交渉の材料にするなどということは決してなかった。この碑文には、長引いたサモスとの交渉で相手にさらに譲歩せざるを得なかったアテナイ人の悔しさが滲み出ている。スパルタの将軍リュサンドロスとの戦闘が始まる前にアテナイ艦船に停泊地を提供していたサモスは、アテナイが大敗を喫した後でもアテナイに忠誠を尽くしたり、リュサンドロスの軍隊がアテナイ領だった土地を蹂躙しながら進軍してきた時も、サモス人は勇敢に抵抗した。

 ペロポネソス戦争は断続的に何年も続いた後、BC404年にスパルタがアテナイに勝ったが、まもなくアテナイは民主政を再興し、続くBC4世紀にも繁栄は続いた。しかしペロポネソス戦争はギリシャ人の間に大きな亀裂を残し、新たに北方のマケドニアの侵入を招くことになる。



(戦後社会)


 アテナイは戦後の内部の亀裂の修復に精一杯で、ペルシャとの関わりについてはスパルタが行った。当時、ペルシャは重大な危機に遭遇しており、ギリシャ人たちもこれに巻き込まれた。BC405年にダレイオス2世が死去し、その第2子でペロポネソス戦争の末期に重要な役割を演じたアナトリア西部のリュディアと小フリュギアのサトラップ(太守)だった小キュロスが、アルタクセルクセス2世(在位:BC405年~BC359年)となった兄に対して反乱を起したのである。小キュロスはアナトリアで多くのギリシャ人を傭兵に採用して軍隊を強化し、バビロンへ向けて進軍した。しかし、彼はBC401年、メソポタミアのクナクサでのアルタクセルクセス2世の軍との戦いの中で戦死してしまった。


 BC395年、スパルタの覇権に反感を抱く都市の中から、テーバイ・アテナイ・アルゴス・コリントスの4か国が同盟を結成した。これを知ったスパルタはテーバイを攻めるが、ボイオティアでの戦いで司令官が命を落とした。そのとき、小アジアに侵入していたスパルタ王アゲシラオスがアナトリアから取って返し、BC394年に同盟軍を打ち破った。しかし、アテナイはペイライエウス港への長城を再建し、船隊も再編しており、スパルタの船隊はアテナイ船隊に破れ、ペロポネソス半島の東南部沿岸は、またもアテナイ船隊によって脅かされることになった。これと平行してBC395年からBC386年にかけてコリントス地峡周辺で繰り広げられていたのが、いわゆる「コリントス戦争」である。この戦いは最終的な決着がつかず、最後は、BC386年にスパルタはペルシャと交渉して、ペルシャの仲介により和平条約「大王の和約」が締結された。この結果、小アジアとキプロスにあるギリシャ人都市についてはペルシャの領有権を認める代わりに、それ以外のギリシャ人都市については、大小にかかわらず自治権を保障されることになった。もちろんそこにはアテナイも含まれていた。ところが皮肉なことに、スパルタはまもなくギリシャ世界の嫌われ者となってしまった。そうした情勢のもと、優れた指導者に恵まれ急速に国力を増したテーバイが反スパルタ勢力を結集して、BC371年にレウクトラの戦いでスパルタを撃破し、ギリシャの覇権は一時的にテーバイに移った。テーバイの勝利はギリシャ世界に大きな衝撃を与えた。この戦いにおけるスパルタの敗北は心理的にも軍事的にもギリシャ史の分岐点となるような大事件だった。事実、それを証明するような動きが起きていた。スパルタに対抗するため、まさにスパルタの北に新しい「アルカディア同盟」が結成され、さらにBC369年には、テーバイがスパルタに併合されていたメッセニアを解放し、スパルタは再び打撃を受けることになった。


[テーバイ]

 アテナイとスパルタの双方の対立によって国力を消耗した結果、最も得をしたのはスパルタの同盟国である中部ギリシャのテーバイだった。この都市も神話の世界の上に築かれている。アテナイのあるアッティカ地方のすぐ北に位置するボイオティア地方の中心都市テーバイは酒神ディオニュソスと、超人的英雄から神に転じたヘラクレス、そしてオイディプス王の生誕の地である。テーバイはまた、神話の英雄として名高いフェニキアの王子カドモスが目指した定住の地でもあり、このカドモスはフェニキアのテュロスからアルファベットをもたらしたとされている。ギリシャ人は自国のアルファベットをフェニキアの、またはカドモスの文字と呼んでいた。アクロポリスにあったミュケナイ時代の宮殿の遺跡からは、まとまった量の線文字Bが出土し、この文書には後にスパルタが支配することになる地方を指す「ラケダイモン」とおぼしき語も使用されている。東南の隣国アテナイ人たちは、テーバイ人をつまらない「ボイオティアの豚」として見下していた。ヘシオドスの出身地アスクラ村はボイオティアの都市、テスピアイの領内にある。さらにテーバイは、単一ポリスに代わる独自の政治機構として連邦国家を構築し、ボイオティア地方を支配下に置いている。テーバイはアルゴス同様、BC480年のペルシャによるギリシャへの進攻の際の行動によってギリシャ人としての資格に大いに難ありと見なされたが、その程度はテーバイの方がより深刻だった。アルゴスがかろうじて中立を保ったのに対して、テーバイの支配階級ははっきりとペルシャ側についたからだ。これは極めて露骨で忘れ難い行為であり、それから1世紀半も後のBC335年、アレクサンドロス大王がテーバイの完全破壊を命じた際に、それを正当化する理由に使われている。BC335年を終着点とする40年間はテーバイの最も輝かしい時期であり、その原点はBC5世紀半ばまでさかのぼることができる。BC457年~BC447年までのアテナイによる占領の屈辱から立ち直ると、テーバイは新しい方針のもとでボイオティア連邦を再建した。ペロポネソス戦争の最終局面であるBC423年~BC404年において、テーバイ人はアテナイとボイオティアとの国境近くに配置されたスパルタの駐屯地の保護下で、アテナイの銀鉱山から逃亡した何千人もの奴隷を安く買い上げるなどの形で、経済的に大きな利益を得ている。しかし、ペロポネソス戦争の終結時からその後にかけては、寡頭かとう政派のテーバイもスパルタの高圧的な態度に不満を募らせ、BC403年にはスパルタの傀儡政権である30人僭主が支配するアテナイからの民主派亡命者に避難所を提供し、さらにBC395年には反スパルタの四国同盟(アテナイ・テーバイ・アルゴス・コリントス)に加盟している。ところが、スパルタはペルシャから財政支援を得て、四国同盟とのコリントス戦争(BC395年~BC386年)に勝利を収めた。テーバイ主導のボイオティア連邦は解体され、スパルタはボイオティアのテーバイを含む主要都市に駐屯部隊を配置したため、多数の有力なテーバイ市民は亡命し、その多くはアテナイに身を寄せた。

 そしてBC379年~BC378年、アテナイにいた亡命者がアテナイの援助を得て、テーバイをスパルタから解放すると、直ちに民主政を導入して自国の政治体制を刷新し、ボイオティア連邦を再建した。ギリシャ世界全体で民主政が全盛期を迎えたのは、民主政アテナイが絶頂期のBC5世紀後半ではなく、BC4世紀前半のことだった。テーバイの政治革新はボイオティア連邦の軍事力も強くした。BC371年、テーバイはレウクトラの戦いでスパルタを破り、次いでスパルタの農奴のようなヘイロタイの大部分を解放して、スパルタの失墜を決定づけた。ギリシャの覇権は一時的にテーバイに移っていた。この時期にマケドニアの王子だったフィリッポスはBC368年からBC365年にかけて人質としてテーバイで軟禁状態に置かれていた。BC362年、テーバイの指導者だったエパミノンダスはペロポネソス半島中部のアルカディアのマンティネイアの戦場でスパルタに再び勝利を収めたが、そこで命を落とした。指揮官を失ったテーバイは弱体化し、ギリシャ全体がかつてない無秩序の中に沈んだ。

 BC359年にマケドニア王になったフィリッポス2世は、王子時代にテーバイで送った3年間の人質生活の中で、外交・財政・軍事などについて多くを学んだ。それまでのマケドニアは地理的にも政治的にもギリシャ文化の本流から遠く離れた飛び地だった。マケドニアとは、長い間単なる地理上の呼び名にすぎず、政治的には未発達で統一もされていなかった。フィリッポス2世の比較的長い治世(BC359年~BC336年)の間に、マケドニアは統一され、都市化を始め、ついにはBC338年、ボイオティアのカイロネイアでアテナイとテーバイの連合軍を撃破し、その途上でスパルタを制圧して、自国以南のギリシャ本土をすべて支配下に収め、さらにアジア征服にも乗り出そうとした。


 一方、西方のシチリア島でのギリシャ世界においては、BC408年にカルタゴとの戦いが始まったが、BC405年にシュラクサイに若い将軍ディオニュシオスが登場し、カルタゴとの長い戦争の後、この二つの敵対勢力の領土についに境界線が引かれたのはBC374年で、ハリュカス川を境に、シュラクサイがシチリア島の3分の2にあたる東側を確保することに成功した。カルタゴとの戦争中には、シュラクサイはイタリア半島の爪先の部分も制圧し、BC387年にはメッサナ(現在のメッシーナ)海峡を挟む両岸を支配下に収めた。ディオニュシオスの独創性は、あらゆる出自のギリシャ人だけでなく、シチリアやイタリアの原住民をも組み込んで一つの大国家を作り上げたことである。また、シュラクサイを西地中海における巨大市場にした。その宮廷の輝き、文学への関心、並外れた人柄のもつ魅力は哲学者たちの好奇心をかき立てた。プラトンが彼を訪ねたことはよく知られている。

 この間、ギリシャ本土はペルシャとスパルタとの共謀でBC386年に結ばれた「大王の和約」が生みだした無秩序の中で四苦八苦していた。テーバイがスパルタに反抗したとき、アテナイはテーバイに味方した。そしてBC377年、アテナイを中心とする約60ヶ国による第二次海上同盟が第一次のデロス同盟からちょうど1世紀後に結成された。これには、エーゲ海の島々の大部分の都市とトラキア沿岸のほとんどが参加した。対立していたテーバイとスパルタがレウクトラで衝突したのはBC371年だった。この戦いにはテーバイが勝利した。これにより平地戦におけるスパルタの軍事的優位は終わりを告げた。そのテーバイの台頭に対してアテナイとスパルタは協調してペルシャの援助を得ようとしたが、テーバイは先回りしてBC367年にペルシャの援助を得た。BC366年にはスパルタのペロポネソス同盟も解体された。ギリシャ各地で争いが起きる中、それまでテーバイを率いてきたエパミノンダスがBC362年のスパルタとの戦いで戦死した。指揮官を失ったテーバイは弱体化し、ギリシャ全体がかつてない無秩序の中に沈んだ。



(マケドニアの台頭とギリシャ古典期の終焉)


 新しい秩序の構築はギリシャ都市自身ではできず、ギリシャ北方の新興の大国マケドニアからの干渉によってなされた。君主に対する貴族たちの個人的忠誠感情を基盤としたこの軍事的君主制は、BC359年に野心的な王、フィリッポス2世の登場により強国となった。フィリッポス2世がまず目指したのは、海への自由な出口を確保することだった。BC355年、アテナイ海上同盟の弱体化に乗じて、マケドニアにあるいくつかのギリシャ人植民港湾都市を奪取した。また、東方に向かってはタソス島のギリシャ植民地やパンゲイオン山の金鉱山を奪取した。これ以降、パンゲイオンの黄金を使ったフィリッポス2世の金貨はギリシャ世界にあってペルシャの黄金が果たしてきた役割を演じていくこととなる。BC356年、マケドニアがギリシャに干渉する好都合な口実ができた。デルフォイの聖域をめぐる第三次神聖戦争が勃発したのである。フォキスとテーバイがアテナイとスパルタをまき込んで争う中、マケドニアはその南のテッサリアを保護下に置いた。さらにその東のトラキアからヨーロッパと小アジアの境界にあるプロポンティス海(現在のマルマラ海)にまで軍を進めた。BC348年、マケドニアはアテナイの重要植民都市があるカルキディケ半島(マケドニアの東南に位置する)を征服した。BC346年、ここに至ってアテナイはマケドニアに「フィロクラテスの和約」を提示した。この和約の間、フィリッポス2世はトラキアをはじめとするマケドニア周辺の国々の完全掌握に専念した。

 BC339年、ギリシャではまたも不仲から神聖戦争が始まった。フィリッポス2世はこの機にギリシャ征服をもくろんだ。BC338年夏、フィリッポス2世は軍を率いてアッティカの北のボイオティアのカイロネイアに進軍した、この戦闘でマケドニア軍の左翼を指揮し、ボイオティアの重装歩兵を撃破したのがフィリッポス2世の息子の若きアレクサンドロスだった。テーバイとアテナイの軍も敗れた。カイロネイアの勝利は決定的な意味を持った。フィリッポス2世の意志に逆らう者は、もはやギリシャ世界にはいなくなったからである。BC337年、フィリッポス2世の招集によってコリントスで開催された全ギリシャ総会にスパルタ以外のすべての都市が代表を送った。そこで結成された「コリントス同盟」は連合体の形態を取ってはいるが、初めての汎ギリシャ国家の誕生を意味した。マケドニアは「コリントス同盟」に参加はしなかったが、フィリッポス2世が同盟軍の指揮者となることが決まった。BC337年、フィリッポス2世はペルシャに対する戦争を提議した。このとき、アケメネス朝ペルシャは深刻な危機にあり、絶好の機会であった。だが、フィリッポス2世自身はこの企てを実行に移すことはできなかった。翌BC336年夏、彼の娘とエペイロス王との婚礼の宴のさなかに、パウサニアスという人物によって個人的怨恨から暗殺されたのである。ただちに彼の息子アレクサンドロスが王に推戴された。ヘレニズムと呼ばれる新時代がこのアレクサンドロス3世とともに始まる。


 BC4世紀、古典ギリシャの文明は今や終焉を迎えようとしていた。ギリシャはマケドニアの専制君主フィリッポス2世の支配に屈し、続くその息子アレクサンドロス3世の支配の性格もそれと変わらなかった。アレクサンドロス3世はギリシャ的世界を西アジアやエジプトに広げ、大王と呼ばれるようになったが、それはソロンやクレイステネスやペリクレスが考えたものと同じではなかった。BC323年にアレクサンドロス大王が病没すると、将軍たちの間で残された遺産をめぐる熾烈な戦いが起きた。アンティパトロスはギリシャを支配したが、彼が手にした分け前は小さく満足できるものではなかった。ギリシャはヘレニズム世界の後進地になりつつあった。アレクサンドロス大王の遺産から大きな富を得たのは、西アジアを支配したセレウコスとエジプトを手にしたプトレマイオスであった。続く1世紀ほどの間にギリシャは経済的にも文化的にもさらに後退し、BC187年、ついにローマに征服されてしまう。



(全ギリシャ的な神域:オリンピアとデルフォイ)


 オリンピアとデルフォイを筆頭格とするパンヘレニック(汎ギリシャ)、すなわち全ギリシャ的だが必ずしもギリシャ人限定ではない宗教上の聖域は、その定義上、都市の枠を超えた国際的な神域だった。しかし、この二つの聖域に集まってくる諸都市の住民が各自の政治的独自性を忘れていたかというと、決してそうではなかった。


 ペロポネソス半島北西部に位置するオリンピアが純粋に地元だけのものではない祭祀の場として登場してきたのは、BC11世紀からBC10世紀にかけてのことで、これは奉納された大量のテラコッタ(素焼きの焼き物)や青銅の小立像によって裏づけられている。この神域の名の由来となった神はゼウスである。しかし、オリンピアに名声を与えるきっかけになったのは、BC776年に創設されたと伝えられる勝敗を競うスポーツ競技祭だった。5日間にわたって行われ、当時で4万人にものぼる観客を集めたと思われる競技祭をここで開催できた理由の一つは、ギリシャ南部としては珍しいほど水が豊かだったからである。オリンピア競技祭はローマ時代になっても続き、1000年以上の長きにわたって栄えた。しかし、紀元後395年、正統派キリスト教徒のビザンツ皇帝テオドシウス1世が異教の祭典すべてを永遠に廃止するよう命じ、異教信仰自体はその後も続いたものの、オリンピア競技祭はそれをもって終焉を迎えた。


 ギリシャ中部フォキス地方にあったデルフォイの神域は、ゼウスの息子の1人アポロンを祀ったもので、ここには全ギリシャ世界随一の神託所があった。デルフォイが全ギリシャ的な神域になった正確な時期は、オリンピアの場合と同様、ギリシャの暗黒時代(BC11世紀~BC9世紀)の霧の中に埋もれているが、デルフォイがBC8世紀に飛躍的な発展を遂げた理由の一端は、この神域が海外への植民活動の認可に絡んで重要な役割を果たしていたという特殊要因にあった。デルフォイのアポロンはギリシャの植民活動の守護神だった。遅くともBC730年代には、シチリアに新しい植民市を建設するにはデルフォイのアポロンから事前に明確な同意と認可を得る必要があると言う認識が一般化し、シチリア島のナクソスには、すべてのギリシャ人植民者に共通のアポロンの聖所が建立された。その1世紀後のBC630年代には、干ばつに見舞われたテラ島から神託を求めて訪れた相談者に、リビアのキュレネに都市を建設するよう命じた。デルフォイには海外を訪れたことのあるギリシャ人からさまざまな海外の情報が集まっていたようだ。

 デルフォイはアポロン神殿や神託で有名であるが、古代のデルフォイはオリンピア同様、スポーツ競技が行われる聖域でもあり、4年に1度の全ギリシャ的な競技祭、ピュティア祭がBC582年に開催されるようになった。その競技場の壁には会場における観客の飲酒を固く禁じた言葉が刻まれていた。

“競走路の近くでは決してブドウ酒を飲んではならない。この規則を破る者は償いとしてアポロン神に献酒し、犠牲を捧げ、罰金として110ドラクマ――半分は神のものとなり、残りの半分は違反を通知した者のものとなる――を支払わなければならない。”

 デルフォイの競技場は、飲酒を禁じ違反者に対する罰則を記した石碑を最初からはめ込んで建てられた。古代ギリシャ人が競技場をアポロンの聖域として守るのにいかに真剣であったかがわかる。

 競技種目には、陸上競技と馬術の他に音楽と詩が含まれていた。アポロン神の持つ重要な機能の一つは、音楽の守護神としてのそれである。古代ギリシャ人は、デルフォイの音楽コンテストをスポーツ競技と同類と見なしていた。競争本能の発散はギリシャ文化すべてに通じて言える。ギリシャ3大悲劇詩人といわれるアイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの作品の初演があったのは、アテナイで開催されたディオニュソス演劇コンテストにおいてであった。デルフォイでは、歌ってもよいキタラ(竪琴)演奏の競走がスポーツ競技と同じくらい重要な意味を持った。同じくフルートコンテストも行われた。これは2本の葦から成る現代のオーボエに似た管楽器である。演奏者はそれぞれの葦管を片手で吹いて複雑な音色を出す。オリンピア祭では音楽コンテストそのものは行われなかったが、デルフォイでは管楽器優勝者が演奏する中でオリンピア5種競技を行うなど、異なる分野同士の交流もなされた。

 BC480年~BC479年の第2次ペルシャ戦争の終結後、ギリシャ人たちが戦勝記念碑を建てる場所に選んだのは、オリンピアではなくデルフォイだった。


[汎ギリシャ競技大会]

 ギリシャ中部フォキス地方にあるデルフォイのピュティア祭はギリシャの全都市が参加する四大スポーツ大会の一つであった。他は、オリンピア祭(ペロポネソス半島西部)、ネメア祭(ペロポネソス半島北東部)、イストミア祭(コリントス)である。そのうちオリンピア祭とネメア祭はゼウス神に、イストミア祭は海洋神ポセイドンに奉献された。最も重要だったのは4年ごとに開催されたオリンピア祭である。ピュティア祭も4年ごとにオリンピア祭とは2年ずらして開催された。ネメア祭とイストミア祭は2年ごとに、他の競技と日程がぶつからないようにして開催された。競技者の存在が一発勝負のオリンピア競技会で試されたのは当然である。しかし、個々のギリシャ人の人生も、あるところまで古代ギリシャ文化の暦の主動力であったオリンピア祭のリズムによって形成されていたのである。

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