第108話 古代ギリシャの合理的思想とアテナイの民主政

“古代ギリシャの偉大さはその科学的で合理的な考え方にある。タレス、ピタゴラス、アリストテレスなどに代表されるように”


 ギリシャが達成したさまざまな偉業の中で、ひときわ目立つテーマは、彼らが合理的な精神と知識の追及に対して大きな価値を認めていたということである。そして彼らは社会的活動や知的活動を妨げる不合理な慣習に挑戦し、その束縛を和らげることに成功した。その後、この成功物語は数千年にもわたって人類の歴史に影響を及ぼすことになった。これこそギリシャ文明が成し遂げた最大の偉業だった。現実の古代ギリシャは、後年の理想主義者がいうほど革新的な社会ではなく、さまざまな点で過去の伝統にとらわれていたことも確かである。しかし、それでも古代ギリシャ文明がその時点において、人類が自己の運命を決定する力を最大限に発揮した文明であった。4世紀ほどの間に、哲学や政治、歴史、数学、そして無数のジャンルの芸術が誕生していった。後世のヨーロッパはそうしたギリシャが築いた財産の上に自らの文明を築き、さらにそのヨーロッパを通して、後の近代文明も誕生することになる。 


 合理的思想がいつどこで生まれたについては、はっきりわかっている。それはBC6世紀に小アジアのミレトスを中心としたイオニア地方のギリシャ植民都市で生まれた。そこで自然について実証的な新しい哲学が生まれた。イオニアの哲学者、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスたちが新しい道を開き、その哲学は科学的思想の始まりを促したのだ。その後、科学はただその道を辿るだけでよかった。ミレトス学派において初めて、まるで目の見えない人の目からうろこが落ちるように、理論(ロゴス)から神話(ミュトス)といううろこが落ちた。ミレトス学派の自然哲学には3つの特徴がある。


1.水、空気、無限のもの(アペイロン)、地震、稲妻、月食や日食といった、実証的で一般的で抽象的な言葉で自然を理解できるような調査研究の分野が確立されたこと。

2.宇宙の秩序は、至上神の力にあるのではなく、自然の中に書き込まれた正義という法の中にある、あるいは他の元素を支配したり凌駕したりしないような、それぞれの要素に平等の秩序を与える分配の規則の中にあると考えたこと。

3.物語が次々と連続する物語ではなく、幾何学的に一つの理論を一つの形にして世界に与えることを重視すること。つまり、物事を空間というスクリーンに反映させて、それがどのようになっているのかを「ひと目でわからせる」ことが大事だと考えたこと。


 この3つの特徴が絡み合ってミレトス学派の革新的性格となった。しかしそれはBC6世紀に突然奇跡のように起こったのではない。それはギリシャ社会があらゆる面で体験した変化、ミュケナイ文明が滅びた後、都市国家ポリスの誕生に到る過程と強く結びついている。だからミレトスのタレスのような人物と、同時代にアテナイの詩人にして政治改革者であったソロンとの間には密接な関係がある。二人とも7賢人のメンバーに数えられており、ギリシャ人の目には、人間に現れた最初の知恵を体現しているように思われた。こうしてBC6世紀のソロンからクレイステネスの時代に到って、ポリスは円形の宇宙の姿を取ることになった。ポリスの中心には公共の広場であるアゴラがある。そこでは似た者同士である市民が、代わる代わる命令を出す役とそれに服従する役を演じる。時間の秩序に従い、ポリスという空間を構成する対照的な役職に就き、やがて次に譲るのである。アナクシマンドロスは、法の前の平等という原則に従う社会のイメージを、自然哲学の宇宙のモデルとした。古代の神々の系譜は、王の儀礼に根ざした主権神話の中に組み込まれていた。一方、ミレトスの自然哲学者たちが作り上げた世界の新しいモデルは、実証性と平等の概念、幾何学的枠組みにおいて、ポリスに特有の政治体制と精神的構造と深い関係がある。

 宗教的教えは、神秘的形式のもとで、深く考えず皆で一緒に崇拝する群衆のためのものだった。これに対してミレトスでは、真理についての新しい概念が生まれ、はっきりと姿を現した。それは誰にでも開かれた真実であり、それが正しいかどうかの規準はただ一つ、きちんと証明できるかどうかにかかっていた。ミレトス学派は幾何学を好み、図形の研究を特別なものと位置付けた。厳密な証明によって認識の可能性を探求する動きは、このような数学の進歩と結びついて、正確さを求めるモデルとなった。すなわち論理的で必然的な性格を持つ幾何学は、真の思考を追及するためのモデルとなったのだ。


 BC5世紀の時点で地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立されていた。ところがその中で、BC6世紀に台頭しつつあったギリシャ文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく世界に拡がって行く可能性を示していた。それは最も新しく誕生した文明だったが、その後目覚ましい成功を収め、後にローマ文明へ受け継がれたその文化的伝統は、1000年もの間、途切れなく続いていくことになる。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史に残した豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素が、ほとんですべて存在したということである。

 東地中海に誕生したギリシャ文明は、それに先立つ古代西アジア文明やエジプト文明、エーゲ海文明から大きな影響を受けていた。なかでも重要なのは、フェニキア人のアルファベットを改良してギリシャ文字、すなわちギリシャ・アルファベットを作りだしたことである。その他にもギリシャ文明は、エジプトやメソポタミアに起源を持つ思想や、ミュケナイ文化の名残りなど、さまざまな文化を取り込んで発展していった。

 地中海文明を生み出した原動力の中で、最も基本的な要因となったのは、もちろん地中海そのものだった。この穏やかで海上交通が盛んだった海は、古くからさまざまな文明が物資や文化をやり取りする重要な交易の場となっていた。文明の潮流は先行する西アジアやエジプトの地から、いわば文明の貯水池ともいうべきこの海に流れ込み、その後再び西アジアやエジプト、そして北方の異民族の地へと流れ出していった。

 古典期の「古典」とは、「クラシカル」といい、人びとが過去のある時期を振り返って、そこに自らが手本とすべき「模範」を見出すことによって成立する概念である。つまり後のルネッサンス期にヨーロッパ人が古代ギリシャ文明を再発見したとき、彼らはその優れた美術品や人間中心の考え方にすっかり魅了されてしまった。ギリシャの古典期(BC500年~BC322年)はまぎれもなく特別な時代だった。活力に溢れ、絶えず前進を続け、多くの技術や制度、そして文化を生み出したこのギリシャ文明によって、その後の世界は大きな可能性を獲得することになる。なかでも思想・哲学などの精神文化における世界史への貢献には計り知れないものがある。それは今でも西洋文明の根幹を成しており、その文化的伝統は現在の我々の暮らしに直接つながっている。古代ギリシャ人が作りだした価値観は、そのまま後世の人びとにとっての価値観になり、彼らが生んだ哲学、文学、美術は、その後の西洋文明の中核を成していくことになる。



(アテナイの民主政)


 アテナイ繁栄への下地は、ペルシャ軍敗退のずっと以前からあった。BC6世紀には、ソロンやクレイステネスたちによって民主政への動きが始まっていた。男性の自由市民は集会で法律問題を討議したり、毎年指導者を投票で選ぶことができた。そのためアテナイでは、人びとを説得する弁論術が指導者の重要な要素になった。この技能に長けたペリクレス(BC495年~BC429年)は、BC5世紀に長い間活躍し、アテナイの黄金時代に貢献した。

 ペルシャ戦争後、軍事力がアテナイに勝るのはスパルタだけだった。BC478年にアテナイは、自国の海軍にギリシャをペルシャ軍や海賊から守らせて、他の諸都市からその代償を得るデロス同盟を組織した。ペリクレスはその供出金の多くをアテナイのために活用した。パルテノン神殿などの建築事業を進めて町を美化し、市民の雇用の増加を図った。公共の仕事に関わる人びとに対しては報酬を支払う制度を設けて、それがアテナイ民主主義の発展につながった。この町には創造的才能の持ち主が数多く集まった。アイスキュロスとソフォクレスは悲劇を、アリストファネスは喜劇を書き、ソクラテスは正義と徳について思索を巡らし、ヘロドトスとツキディデスは歴史を記した。職業教師であるソフィストたちは弁論術を説いた。


[パルテノン神殿]

 古代アテナイの中心だったアクロポリスにきらめくパルテノン神殿は、2500年もの間に幾多の傷を受けたが、その壮麗さは失われていない。処女神アテナ・パルテノスに因んで名づけられたこの神殿では、かつて生贄いけにえを焼く煙が立ち上っていた。アテナイの指導者ペリクレスは、BC480年のペルシャ戦争の勝利を祝ってBC447年にこの建設を命じた。ペリクレスはアテナイの将来についてこう言った。“今日の世界のみならず、遠き末世まで我らは称賛を受けるだろう”

 パルテノン神殿は、ドーリア式建築の傑作とされている。アテナイの大政治家ペリクレスの勧めで腕利きの彫刻家フェイディアスが監督し、有名なイクティノスとカリクラテスが建築を担当した。さらに大理石で造られたという点は他の神殿よりも優れた特徴だった。パルテノン神殿を設計したイクティノスは以前に、ペロポネソス半島山中の都市バッサイにあるアポロン・エピクリオス神殿も手掛けた。小さな宝石のようなその神殿は、パルテノン神殿に匹敵するほど斬新な建物だったが、地元産の石灰岩で造られたため、今では内部から崩れかかっている。パルテノン神殿に匹敵する破風はふ(西洋建築における切妻屋根の、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分)彫刻のあるオリンピアの大きなゼウス神殿もまた石灰岩で建てられている。これはしっかりしているが、時の経過とともに黒く汚れた色に変化した。昔は白大理石に見えるように表面に化粧漆喰しっくいを塗っていたのだ。各神殿はまさに彫刻の展示場で、破風はふには丸彫り像を立て、フリーズ(帯状の装飾部)として石製のレリーフ(浮き彫り)を建物の周囲に巡らせていた。古典期の彫刻には、新たに成熟した人体表現が見られた。若者像はアルカイック期と同様にまだ偶像視され理想化されていたが、すでにクーロス像(アルカイック期に制作された直立裸身の青年像)にはより自然主義的な形が表現されていた。

“数ある不思議なもののうちに、人間以上に不思議なものはない”。BC441年にアテナイで初演されたソフォクレス作「アンティゴネ」の劇中で合唱隊はこう歌う。

 古典期の芸術は、人間と神々を同じように理想的な人間の形で表現して神格化した。像の顔の部分は捉えどころがなく謎めいているが、俗世からはるかに超越した感じを与える。ギリシャ彫刻には着色されていたものが多いことを誰もが忘れている。目は絵具で描き込まれていたし、肌も着物も鮮やかな原色で塗って、剥げないように上から透明なワックスをかけてあった。これらの像は時を経て風化し、全く性格の異なるものに変わった。温かみのある大理石でできたパルテノン神殿は、かつて地中海の強い色彩にきらめきながら、喧騒と活気に満ちたアテナイの町と完全な調和を見せていたのだ。


 民主政への動きで先行したのはアテナイだった。アテナイは土地の痩せたアッティカ地方にあったが、アテナイはスパルタと並んで、当時の都市国家としては例外的に大きな領土を持っており、土地を求める社会的な圧力にそれほど悩まされることはなかった。また、アテナイの経済は早い時期から活力があり、BC8世紀ごろにはすでに商業や芸術の中心地だった。しかし、BC6世紀になると、他の都市国家と同様に、アテナイも富裕層と貧困層との争いに悩まされることになった。ほどなく伝説的な改革者ソロンが登場して貧困者の債務の帳消しを宣言し、債務を返済できない者が債務者の奴隷にされるというそれまでの制度も廃止した。ソロンはまた、農民に特定の作物を専門に栽培することを奨励し、その結果、オリーブ油とワインとそれらの容器がアテナイの主要な輸出品となり、穀物はすべて自国内の消費にまわせるようになった。同時に彼は、BC594年に「ソロンの改革」と呼ばれる国政の改革に取り組み、中小農民の権利を守るとともに、財産により市民を四階級に分け、納税額と公職をリンクさせた。この改革によって全市民は民会に参加できるようになり、アテナイの裕福な商工業者たちは従来の貴族たちと同等の権利を得られることになった。また、民会で扱う議題を準備する機関として新たに評議会も設けられることになった。その後、再び内部対立が起き、BC542年にアテナイでペイシストラトスが僭主せんしゅ政を確立した。そのときの僭主は独裁的ではあったが、暴君ではなかった。しかし、内部対立が続いた僭主の時代はBC510年に最後の僭主が追放された。

 そして僭主政に懲りたアテナイは、BC508年に人類史上初の民主政を誕生させた。すべての政治的決定は原則として民会の多数決によって決められ、民会は行政担当者と軍司令官の選任も行い、都市部の住民の利益だけを求めるような党派が生まれないような制度も実施された。それはBC508年に行われた「クレイステネスの改革」で、全土をまず利害の対立する都市部、内陸部、海岸部の3地区に分け、さらにそれぞれを10の地区に分け、各部の1地区ずつをくじ引きで組み合わせて10の行政単位、デーモスに再編するという巧妙なものだった。そして市民は居住するデーモスに戸籍を持つことになった。この改革によって、それまでの血縁関係に代わって、居住区域を単位とする行政区分が導入された。こうして少なくとも理論と法律の上では、血縁関係よりも地域への帰属が重要とされるようになった。ここに人類史上初の「民主政」が誕生した。それは偉大な繁栄の時代の始まりであった。アテナイはさらに、都市国家の枠組みを越えて自らの祭儀を開放し、ギリシャ全域の人びとに参加の機会を与えた。これはアテナイがギリシャ世界のリーダーシップと取ろうとする意思の表れだったといえるだろう。このような動きはギリシャ全土で起こったようだ。それ以降、この政治システムは2500年後の現在に至るまで基本的には変わっていない。また、アテナイ人はくじ引きによる行政官の選出を正しいものと考えていた。ほとんどの行政官をくじによって選ぶことで、地位や権力の世襲を防ごうとしていた。民会は全アテナイ男性市民で構成され、年に40回招集された。民会は重大な国事に関する決定権を持っていた。法令は公開で討論を行った後に投票によって賛否が決せられた。

 地理的に互いに隔てられた初期のギリシャの共同体は、それぞれが独自の政治的経験を積み重ねていった。その結果、彼らは神に認められた王たちが統治を行うという従来の体制と決別し、政治制度は市民の意思によって選択できるという新しい思想に到達した。そして古典期のアテナイでは市民による政治参加への波が、人類の歴史において前例がないほど高まっていた。優れた政治家ペリクレス(BC495年~BC429年)がこのアテナイ民主政の全盛期を主導したが、彼が指導的立場にいたときのアテナイの民主政は間違いなく素晴らしいものだった。彼らは、自らが選んだ政治の結果について個人が責任を負う社会という神話を現代の我々に残してくれた。


[神権政治、僭主政、寡頭政]

1.神権しんけん政治

 支配者の権力が神から与えられたものとされる体制。実際には,政治を司る者が神の代弁者と見なされている場合が多い。古代オリエントで政治的支配者が神官を兼ねた専制君主政治,中国の殷(いん)代に王が祭司の長として亀卜(きぼく)をもって行った政治など,宗教と政治が未分化であった古代社会に多くみられる。

2.僭主せんしゅ

 古代ギリシアのポリス民主政への過程で現れた独裁的な権力の集中した政体で、前6世紀中頃、アテネに現れたペイシストラトスがその例。僭主は市民に迎合しながら独裁的権力を維持したが、市民の自覚の高まりによって克服され、民主政が実現していった。また、非合法な手段で権力を奪いながら、市民の支持を受けて独裁的な支配を行ったポリスの政治のあり方でもある。僭主はTyrant (ギリシア語のテュランノス)と呼ばれ、権力を相続以外の方法で得ることが非合法とされ、そのような方法で権力を得た者を意味した。現在では暴君の意味に使われる。その政治が僭主政Tyrany(ティラニー)である。ポリスの典型例であるアテネにおいては、王政の次に貴族政となったが、貨幣経済の発展に伴ってポリスの市民の中に貴族と平民の格差が大きくなり、両階層間の争いが激しくなっていった。この貴族と平民の対立の中から登場したのがペイシストラトスの僭主政であり、次の民主政成立への過渡期と考えられる。

3.寡頭かとう

 全部または大半の政治権力を、特定の少数の人々が握っている政体。但し、アテナイでは少数といっても数百人だった例もある。少数者支配の体制であり、対比語は多頭制(多数支配)である。寡頭制は君主制や独裁制のほか共和制や民主制でも存在する。なお権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、4名の場合はテトラルキアともいう。


 アテナイの民主政改革はギリシャ本土で反響を呼んだ。ある都市はアテナイを見習い、ある都市は衝撃を受けた。伝統的尚武の精神を尊び、支配層に対する絶対服従を美徳とする保守派陣営のリーダーはスパルタであった。BC490年、アテナイ軍がダレイオス1世のペルシャ軍に勝利すると、ギリシャにおけるアテナイの地位は一気に上がった。しかし、民主政はあくまでもアテナイの境界内の話であり、デロス同盟の加盟都市に対するアテナイのやり方は「保護」を名目に金品を取り上げるものだった。アテナイに正しい判断力がもっと備わっていたら、アテナイがスパルタを中心とするペロポネソス同盟と対立したとき、さらに多くの都市がアテナイを支持したはずだ。ペロポネソス戦争はBC431年に始まってBC404年にアテナイの降伏で終わった。


 BC5世紀は民主政アテナイの「黄金時代」であった。それはカリスマ的指導者ペリクレス(BC495年~BC429年)の力によるところが大きい。ペリクレスはパルテノンその他の美しい建築や彫刻でアクロポリスを飾った。彼はアテナイの民主政をさらに徹底させた。


[アゴラ(公共の広場)]

 他の都市であれば、城塞あるいは神殿や宮殿がその中心を占めるだろう。だが、史上初の民主政が行われたアテナイの中心は公共生活の場である「アゴラ」であった。市民の集会を大事にしたアテナイ人にとってアゴラは疑似宗教的意味を持つ重要な場所だった。ペリクレスはアクロポリスにアテナ女神を祀る壮麗なパルテノン神殿を新たに建設した。しかし、たとえアテナイ以外の人びとの目にはパルテノン神殿やそれに連なる建物がアテナイ市民の美徳の象徴として映ったとしても、アテナイ市民自身にとってはアゴラこそが美徳の中心であり聖所であった。アゴラは市の中心にある広場で、その端にはストアと呼ばれる吹き抜けの列柱のある建物があって、人びとは陽光を浴びながらそこを散歩したりおしゃべりに興じたりした。そこには高邁な精神を持って民主政について論じ合う市民政治家たちの姿が見られただけでなく、床屋や居酒屋もあり、行商人やペテン師、曲芸師その他あらゆる種類の芸人たちがいた。さらにアゴラの周囲には民衆裁判所、評議会場その他の重要な公共の建物があった。


 古典時代のギリシャを一つの型のはめてしまうのは危険である。BC5世紀のアテナイで民主政が発展したといっても、ギリシャのすべての都市国家がそうだったわけではない。しかし同時に、アテナイの民主政の精神がその時代のギリシャ世界のさまざまな地域に広がったのは事実で、クレタ島南部のゴルテュンはその代表的な例である。「ゴルテュン法典」は市民の誰もが目にする公共の建物の壁に刻まれていた。「ゴルテュン法典」はアテナイのイオニア方言ではなく、ドーリア方言でも書かれ、高さ1.5メートルくらいの位置に、横幅9メートルにわたって刻まれた。テキストは全部で600行から成り、商業や契約に関する法も記されていたが、大半は姦淫かんいんから養子縁組、遺産相続から奴隷の権利に到る私法的規定である。


“誰でも自由民の男性あるいは女性を犯した者は100スタテルの貨幣を支払わなければならない。・・・奴隷が自由民の女性を犯した場合はその倍を支払う。・・・下女を犯した者は2スタテル支払わなければならない。・・・もし奴隷が自由民の女性のもとに行き結婚した場合、生まれる子供は自由民である。もし自由民の女性が奴隷と結婚した場合、子供は奴隷である。・・・女性が夫と離婚してそのもとを去った後に子を産んだ場合、彼女はその子供を夫の家に連れて行かなければならない。そしてもし夫が、3人の証人の前で、子供を受け取らなった場合、その子供を育てるか遺棄するかを決める権利はその母親である女性にある・・・”


 ギリシャ人は自由よりも民主政の方が重要であることをよく理解していた。隣人との良き関係を維持するためには良きフェンスが必要であるように、誤解や無駄な議論を生じさせないために明確な法律が必要である。ギリシャ法は起こり得るすべての事態に備えて作成された。


<市民権>

 ギリシャ人から見て、市民とは人間が真に人間であることのできる諸権利の唯一の受託者である。そしてその市民としての資格は生れによって得たものである。アテナイ人についてはペリクレスが定めた法律に規定されているように、少なくとも父親、ときには母親も、この特権的な市民に属していなければならなかった。したがって、一般的に言うと、市民権を授けてくれたのは「血」であることから、生れによって属している「氏族」の古い伝統が、都市の中にしっかりと維持されていた。この権利こそ、ギリシャの諸都市が外国人に対して決して気前よく与えようとしなかった特権であり、都市にとってよほど大きな利点があるなど例外的な場合以外は、外国人に市民権が与えられることはなかった。例えば、BC409年にアゴラトスという外国人がアテナイ市民権を認められたのは、彼が忌み嫌われた寡頭かとう政の中心者、プリュニコスを暗殺したからだった。BC406年には、アルギヌサイの戦いで三段櫂船の漕ぎ手として尽くした居留外国人たちに報いるため、彼らに一括して市民権が与えられている。また、BC405年には、アイゴスポタモイの敗北に伴う混乱の中でもアテナイに忠義を貫いたサモス人たちに市民権を認めている。これらはあくまで特殊なケースであり、アテナイに限らず他の都市も、市民権の拡大を防ごうとした。このため、対ペルシャ戦争を勝利に導いたあのテミストクレスも、母親がトラキア人であったため、アテナイ市民ではなかったのである。


<市民の権利と義務>

 一般的に社会的・政治的統一体は、一纏まりの土地という地理的要素と、市民共同体という人間的要素を持つが、古代のギリシャ都市においては、これら二つの側面のうち、後者の人間的側面の方がより重要性を持っていた。その点、国土と緊密に結びついている近代的国家概念とは明らかな相違がある。つまり、古代のギリシャ都市は、近代的国家のそれとは反対に、まず第一義的にはそれを構成している人間の総体である。このため文献にある公的名称は、国や町の名前ではなく、人びとの呼称なのである。「アテナイ」ではなく「アテナイ人」であり、「スパルタ」ではなく「ラケダイモン人」、「コリントス」ではなく「コリントス人」なのだ。だからといって、ギリシャ人たちが生まれた土地や町への愛着という形の愛国心を基本的なものとして認めなかったわけではない。しかし、特別な状況にあっては、彼らは本質的なのは土地ではなく人びとであると信じ、土地は失ったとしても市民共同体が残って、どこか他の土地でその伝統と祭儀を復活することができるなら、都市は無事に助かったとした。例えば、ヘロドトスによると、小アジアのイオニア都市を屈服させるためペルシャ帝国の創始者キュロス2世が派遣した軍隊が迫って来たとき、フォカイア市民たちは抵抗しても無駄だと知ると、フォカイア人は50人櫂船を海に降ろして女子供と家財全部を載せ、神殿の神像や奉納物も全部積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、沖合のキオス島に向かって出航した。しかも彼らは、キオス島からさらに西方へ移り、最後は西地中海のコルシカ島の東海岸のアラリアに新しい都市を築いたのだった。同様な例は他の都市でもあった。移住先の土地と名前を変えただけで、それを構成した人びとは新しい土地で、ギリシャ都市の市民として誇りを持ち続けたに違いない。原則として市民一人一人が国家の経営に参画し、国家が求める諸義務を担うことによって直接国家に結びついていることを自覚していた。


<民会(エクレシア)>

 全アテナイ市民で構成される集会。少なくとも年に40回招集された。市民権を有する者は、アテナイ人の両親を持つ18歳以上の自由身分の男子に限られていたため、住民の大多数は政治の場から排除されていた。民会は重大な国事に関する決定権を持っていた。法令は公開で討論を行った後に、投票によって賛否が決せられた。アテナイの中で国事を決定する民主的機関、エクレシア(民会)の会場ほど議論が盛んに行われた場所は他にない。アクロポリスを真正面に眺めることができるように、隣接する丘に造成された演壇の上は熱気あふれる場所だった。採決はたいてい約6000人の市民の挙手で行われていたが、はっきりとものを言う彼らを前にして、政治家たちは議論を交わし、主張を繰り広げた。そのため相手を説得する雄弁術が重要になり、良家に生まれたアテナイ人の教育には欠かせないものとなった。


<500人評議会(ブーレ)>

 500人の市民で構成される評議会。評議会議員は全員が30歳以上の市民で、その多くは市政に参加した経験を持っていた。議員の選出はくじ引きで行われた。評議会は法律の草案を検討し、民会が決定する議事の準備にあたった。また評議会は対外政策や市の行政も統括していた。評議会はプリュタネイアと呼ばれる10部門に分けられ、交代で1年任期の職務に就くことになっていた。現職の評議会議員はプリュタネイオンと呼ばれた。


<行政官>

 行政官は大きな権限を持っていた。候補者は評議会の厳しい審問を通じて道義心を試験された。行政官の役割はさまざまな公共奉仕が確実に実施されているかどうか、民会や評議会の決定が施行されているかどうかを監督することにあった。選出された行政官の中でも、「将軍(ストラテゴス)」は特に大きな力を持っていた。陸軍や海軍の長として、戦争か平和かの決定に参加したためである。行政官の任期は1年だったが、再選の回数に制限はなかった。有名なペリクレスはBC461年から約30年にわたり、ほぼ毎年この職に選ばれ、「ペリクレス時代」ともいわれる繁栄の時代を作りだした。


<民衆法廷(ディカステリア)>

 6000人の陪審員で構成された民衆の権利を擁護する制度。民衆法廷の陪審員は、毎年30歳以上の候補者の中から、くじ引きで選出された。


<陪審員による評決>

 アテナイの民主政は国家統治に関係しただけではなかった。それは正義の施行の問題にも関係した。アテナイ人は自分の言い分を同じ市民である陪審員たちの前で訴えることができた。市民の訴訟問題は陪審員により真剣に討議された。評決の投票は円盤型バロット(投票札)で行われた。円盤の中央には軸があり、軸に穴が開いている、つまり空洞のものは有罪で、空洞ではないものは無罪に対する投票を意味する。この投票法の良さは無記名で行われるところにある。バロットは掌に納まる程度の大きさで、中央の軸は隠せるため投票の機密性は守られた。

 民主政には権利だけでなく責任も伴うが、アテナイの民主政も例外ではなかった。大半の市民は民主政の義務を果たすことに熱心だったが、さらに平等を帰すためにすべての評議会議員が交替で義務を果たすような制度が考えだされた。全アテナイを代表する10の部族の議員がそれぞれ交替で1年のある期間当番にあたり、当番に当った者はその期間いつでも任務を果たせるようにしていなければならなかった。10名の陪審員は当番となった評議会議員の中から、公正を帰すため抽選で選ばれた。


<陶片追放(オストラキスモス)とテミストクレス>

 アテナイの「オストラコン(陶器片)」に人の名を書くのはあっという間のことである。しかし、名前を書かれた者にとってそれは人生を左右する重大な結果をもたらした。アテナイの指導者でありながら、最終的に追放される憂き目にあったテミストクレスの場合は、その最もよい例である。テミストクレスはペルシャ軍の再襲来を予測し、三段櫂船の船隊を整備して、サラミスの海戦で勝利に導き、一度は国家を救ったほどの人物であったが、市民の敵意を買って窮地に陥った。彼は国外に追放され、外地で生涯を閉じた。

 テミストクレスはBC490年にマラトンの戦いでペルシャ軍に勝利した後も、ペルシャ軍の再来に対する準備を市民たちに訴えた。多くの市民はアテナイの陽光の下でのんびりして生活を楽しみたいと思ったのだが、テミストクレスは戦時体制を解こうとせず、ダレイオス1世の死が伝えられても、警戒を緩めなかった。BC483年にラウレイオン銀山で新しい鉱脈が発見されたが、彼はその富を公共の建物の建設よりも海軍の拡張のために使うことを提案し了承させた。折も折、BC480年、ダレイオス1世の息子クセルクセス1世は10万の兵を率いてギリシャに侵攻した。ここで再びテミストクレスは大胆な行動に出た。ペルシャ軍がアッティカ地方に向かって南下してくる直前、アテナイ市民に町を放棄するよう指示したのだ。ペルシャ軍がアテナイ市内で狼藉を働いている間、市民はペイライエウス(現在のピレウス)港で身を潜めていた。しかし、テミストクレスはペルシャ艦隊に対し罠を仕掛けていた。クセルクセス1世の艦隊はサラミス海峡に誘い込まれ、テミストクレスが造らせた3段櫂船によって撃破され、ペルシャ軍は撤退を余儀なくされた。アテナイを滅亡から救ったテミストクレスの株は上がったはずである。ところが、彼は防衛に対する注意を怠らず、市民にさらに我慢することを要求した。戦艦建造への資金投入を続け、アテナイとペイライエウス港を結ぶ「長壁」を築いた。

 こうして、アテナイはそれまでの内陸国家から海洋国家へと変貌し、人びとの心理におけるアテナイの位置づけに劇的変化が生じた。テミストクレスはペルシャ軍により破壊されたアクロポリスの神殿や要塞を再建せず、アジア人の「野蛮」とそれに対する警戒の必要を常に思い起こさせる教材として、瓦礫のままにさせておいた。戦勝ムードに浸りたいアテナイ市民にとりそれはあまりにわびしいことだった。英雄であったはずのテミストクレスは結果として、市民の神経を逆なでしてしまい、人びとはテミストクレスの追放を望む者たちの扇動に簡単に乗せられてしまう。

 陶片追放(オストラキスモス)は、それを受けた者にとって非常に痛ましい刑罰であったはずで、それがテミストクレスのような誇り高い人間となれば、苦しみはさらに深かったに違いない。追放された者は追放期間が過ぎれば、汚点は全て帳消しとなって社会に戻ることができるというのが一般的な決まりであった。しかし、反テミストクレス運動は続いた。最後にテミストクレスに救いの手を差しのべたのは、敵方ペルシャのクセルクセス1世の息子アルタクセルクセス1世であった。彼はテミストクレスに小アジアのマグネシアの統治を任せた。その地の住民がテミストクレスを神として崇めたのは、おそらくテミストクレスがペルシャ王に忠誠を尽くしたからであろう。BC459年、ついにテミストクレスは没した。

 陶片追放に弁護はなされなかった。実際、告訴もなされなかった。ある人物の追放が「民意」であるなら、そのまま実行に移されるだけであった。それは二つの段階を経て行われた。まず、市民たちにオストラコン(陶器片)を持ちたいかどうかを問い、イエスかノーかの単純な投票が行われる。結果がイエスと出た場合、2~3週間後に次の投票がなされる。投票者は、それぞれ追放したい人物の名前およびその人物が所属する選挙区名を陶器片に書いた。得票数が6000を超えると、追放が決定され、その人物は一切の抗弁もないまま10日以内に市を去らなけばならない。そしてその人物は10年間、外地で死の苦しみを味わうことになる。


<奴隷制度>

 民主政治の形態は多くの都市国家にあったが、それが最も純粋な形で確立したのがアテナイであると、アテナイの人びとは誇らしげに主張していた。BC7世紀末以降のアテナイの為政者たちは法律を少しずつ改正し、裕福な貴族への負債や農奴の身分に苦しんでいた人びとを徐々に解放した。“私は大地の中央に突き刺さっていた担保という石を取り除いた。以前に奴隷となっていた女も今は自由になった”。BC6世紀初期にアテナイで活躍した偉大な社会変革者ソロンはこう記した。BC5世紀までには民会に出席する市民はみな自由に発言でき、採決にも加わるようになった。しかし、参加できるのは男性の自由民だけで、全女性と人口の3分の1を占めていた奴隷は除外されたのである。

 結婚年齢は、男性は30歳ぐらいだったが、アテナイの女性は14歳が普通だった。夫が教育できるほど若い花嫁だった。身分の低い女たちは、毛糸の織物や子守り、パン作り、洗濯などの仕事していたが、中産階級の良家の女性はほとんど家事にしか携わらなかった。奴隷たちはもっと惨めだった。家で働いていた奴隷の中には、一家の一員として扱われた者もいたが、産業労働に従事した奴隷は過酷な環境に置かれていた。アテナイの貨幣に使われる銀を産出していたラウレイオン銀山では、ろくに息もできないほど狭い通路で腹這いになって作業した。奴隷たちは農作業や家事、教師、見世物などあらゆる仕事に就いたが、元は戦争奴隷だったり、海賊や奴隷商人に捕まった人たちであり、自由市場で売られていた。しかし、その身分は一生続くわけではなく、自由を買う者、自由を与えられる者も珍しくなかった。

 古代ギリシャにおいて自由を愛する文化が奴隷所有の上に築かれているのは全くの皮肉であるが、ギリシャ人自身にはそれが見えなかった。古代世界の他の民族と同様、彼らは奴隷所有を当たり前のことと見なしていた。戦争捕虜およびその子孫は彼らの財産であり、国外からは新しい奴隷が絶えず外国商人の手により運ばれてきた。数だけで言うと、最多は民主政アテナイである。BC4世紀末に行われた調査によると、アテナイおよびアッティカ地方には40万人の奴隷がいた。これは市民1人が20人の奴隷を所有していた計算になる。その理由や動機が何であれ、デルフォイその他の神殿で開放を宣言された奴隷の数はごくわずかであった。ローマ時代になると解放奴隷の数はずっと増えるが、主人側のしたたかな計算、例えば、アポロン神殿に対する支払は解放される奴隷の稼ぎにより支払われる、あるいは解放後も元主人が生きている間は以前と同じように元主人に仕えなければならない、などの条件に基づく解放であったという点はギリシャの場合と同じである。奴隷所有の習慣の根は非常に深く、紀元後何世紀も続き、キリスト教の時代になっても倫理的問題の対象にされなかった。


 ***


 現代の民主政に見られる多くの欠点の主な原因は、それが本当の意味で民主的でないことにある。選挙は数年に1回しか行われない。各選挙民が投じた1票は、他の大勢の人が投じた票と一緒に集計され、その結果勝利した政党は自分たちの自由に事を運ぶことができる。現代の行政機関は、この投票で得た選挙民から委任された権限を基盤にして多くの決定を下すことができる。

 アテナイの民主政の限界についてはたびたび指摘されてきた。つまり、それはあくまでも奴隷所有制に基づく女性を排除した民主政だという指摘である。しかし、市民の声を代表し、市民の意思を直接、しかもすぐに反映すると言う点では、アテナイの民主政は驚くほど優れている。それでも、アテナイの不完全な民主主義は、それまでのどの国にも劣らない開放的な社会を生み出した。人口15万人~25万人と推定されるアテナイの影響力は大きく、ギリシャ全土から哲学者や詩人が集まってきた。現代から見ても、黄金時代のアテナイほど創造力に満ちた刺激的な町はなかったといえる。スパルタに最後は敗れた戦争で死んだ兵士たちの国葬で、ペリクレスが行った演説には、この国の自負心がよく表れている。


[ペリクレスの民主政を称える演説]

 ツキディデス「戦史」の「ペリクレスの戦没者葬送の演説」からの抜粋。

“我々の政体は、近隣諸国の法の模倣ではない。他国を模倣するのではなく、他国の模範となっているのだ。その施策は少数者のためではなく、多数者のためのものである。だからこそ民主政と呼ばれるのだ。この政体において、すべての市民は平等な権利を持っている。社会的な名誉も、個人の能力と業績に応じて与えられるのであり、身分によって与えられるのではない。貧困から身を起こした者であろうと、国家に貢献できる能力があれば、貧しさゆえに道を閉ざされることもない。我々が政治において享受しているこうした自由は、日常生活にも及んでいる。互いに疑いの目を向けることはおろか、隣人が自己の楽しみを求めても怒ることなく、相手を不快にさせるような視線を浴びせることもない。しかし私的な生活において互いに拘束することがないからといって、市民として法を犯すことはしない。恥を知る心が安全弁となって、我々に行政官と法に従うことを教えているのである。・・・(略)つまり、アテナイという我々のポリスは、あらゆる面でヘラス(ギリシャ)の手本となっているのである”

 アテナイの政治家ペリクレスの自負に溢れたこの言葉には、真実の裏付けがあった。先見の明がある指導者で帝国主義を進めたペリクレスは、アテナイの黄金時代を創りあげる中心人物となった。


 政治家にして将軍、芸術のパトロンでもあったペリクレス(BC495年~BC429年)は、アテナイに黄金時代をもたらした代表的な人物として歴史に名を刻む。ペルシャ戦争が終結すると、都市の再建を主導して輝かしい成果を上げた。雄弁と精力的な仕事ぶりで知られ、宴席への参加は生涯に一度、それもほんの少し顔を出しただけだという逸話もある。

 現世で起きうる最大の幸せは、ちょうど良い時期に生まれることだ。ペリクレスは運の良い少数者の一人だった。ペリクレス時代はアテナイの黄金期なのだ。彼の父クサンティッポスは海軍士官で、サラミスの海戦では司令長官に昇進し、ミュカレの勝ち戦では艦隊を指揮した。母はクレイステネスの曾孫アガリステスだった。だから貴族に属していたのだが、思想的には民主派だった。真の民主政治家だったとはいえ、信心家の振る舞いには陥らないで、職権乱用することもなかった。ペリクレスにとって最上の体制は、啓蒙化された進歩的改革主義で自由主義、つまり民衆に秩序ある発展を保証し、しかも下品な行為や扇動を排除する体制だっだ。これは良識あるすべての政治家が育んでいる夢なのだが、ペリクレスにとって幸運だったのは、ペイシストラトス、クレイステネス、エフィアルテスが民主改革を実行した後で、アテナイがそれを実現できる状態にあったこと、そしてそうするのに適した指導者階級を擁していたことだった。ペリクレスの政治上の最良の武器は公共事業だった。それができたのは自由な海とアテナイ艦隊とを擁していて、交易が順風満帆で、国庫は潤沢だったからである。当時のアテナイの政治家たちはすべて大建築業者でもあった。

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