第107話 古代ギリシャの黄金時代:古典期とペルシャ戦争

<年表>

古典期(BC500年~BC322年)

 ギリシャの古典期は、おおよそペルシャ戦争の直前のBC499年から始まる小アジアにおけるイオニアの反乱から、BC323年のアレクサンドロス大王の急逝と、翌BC322年のアテナイ民主政の終焉までである。


<古典期前半の主な出来事>

BC499年~BC494年 イオニア反乱。イオニア地方のギリシャ人と非ギリシャ人従属民による対ペルシャ反乱。

BC490年 第1次ペルシャ戦争。マラトンの戦い、アテナイとプラタイアイがペルシャの侵攻軍を撃退。

BC480年 第2次ペルシャ戦争。9月に行われたサラミスの海戦でアテナイ軍はペルシャに大勝。また、シチリア島のギリシャ人都市国家シュラクサイがフェニキア人都市国家のカルタゴ軍を敗走させた。

BC479年 プラタイアイの戦い。スパルタ人のパウサニアスが指揮するギリシャ軍がプラタイアイの戦いでペルシャ軍を打ち破り、15年間の長きにわたってギリシャ世界の上にのしかかってきたペルシャの脅威に終止符が打たれた。

BC478年~BC404年 アテナイ、対ペルシャのデロス同盟を結成。BC454年にデロス島の同盟の金庫をアテナイに移管。

BC466年 シチリア島のシュラクサイで僭主せんしゅ政が終わり、民主政が始まる。

BC462年 アテナイでさらなる民主改革。エフィアルテスの改革により成人男性市民全員に民会へ参加する権利が与えられた。ペリクレスの登場。

BC460年~BC446年 アテナイと反アテナイ同盟国との戦争。スパルタも反アテナイ同盟軍に加わった。

BC449年 ギリシャの盟主アテナイとペルシャとの間で和約(カリアスの和平)が成立。

BC447年~BC432年 パルテノン神殿の造営。

BC446年 スパルタとアテナイが停戦条約締結。BC431年に破棄された。


 ***


 BC1200年ごろのミュケナイ文明の崩壊後、今では暗黒時代と呼ばれる時代が数百年続いた後に、アテナイやスパルタ、コリントスなどの都市国家がギリシャの重要な政治的・経済的中心として登場した。アルカイック期(BC800年~BC500年)にインフラが整備されると、それが全体としては古典期ギリシャ(BC500年~BC322年)の拡張政策を可能にし、ギリシャ諸都市に繁栄をもたらした。

 ギリシャは雨が非常に少なく、川がほとんど流れていない。そのため水利事業はインフラの重要な要素だった。BC6世紀ごろになると、アテナイが都市国家の中で最強で、文化的にも最も洗練された都市として頭角を現わした。アクロポリスやパンテオンはギリシャ文明の象徴として今もその姿を留めている。絶頂期にアテナイは25万の人口を擁していたため水の必要量はかなり大きかった。人口の大半はアクロポリスの下の都市部に住んでいた。BC4世紀ごろには、装飾を施したり、凝ったデザインの噴水が、アテナイ市内のあらゆる十字路で水を湧き出させた。それは清潔な飲料水として、あるいは会合場所や洗濯の施設として、そしてもちろん噴き上がる水を目や耳で楽しむ場所として使われた。裕福な家ではその多くが浴槽や水洗トイレのある浴槽を設けていた。都市では井戸、貯水槽、導水管、排水管などの複合システムが普及した。泉の水は導水管で送られて飲料用の噴水に、飲料水にならない水は洗濯用の貯水槽に送られ、使用済みの水は床を掃除したり、水洗トイレや植物の水やり用に再利用された。粘土で作られた管が地下のネットワークによって、都市のあらゆる地区に水を分配した。そして同じように、排水のネットワークが都市の汚れた水を排出させた。井戸はスポンジのようなカルスト地形の中へ深々と掘ることができた。個々の家々の屋根からは雨水が集められ、いったん地下の貯水槽に貯められて、干ばつのときなどに必要な予備の水として使用された。アテナイが幸運だったのは、泉がどこにでもあったからだ。実際、アクロポリスにもさまざまな所に8つの泉があった。柔らかな石灰岩の層に不浸透性の泥土が混じった地質をしているため、水が地層の間から自然に滲み出て来て泉を形成し、井戸を掘り易くしていた。このような泉の存在が、BC3000年以前からアクロポリスに集落ができた要因だった。ミュケナイ時代(BC1600年~BC1200年)にはアクロポリスは要塞化された。BC7世紀後半のアルカイック期に最も大きな泉の周りに壁が作られた。それから徐々に神殿やその他の建物が建てられて、現在我々が目にするアクロポリスが形成された。アテナイではBC510年ごろに、長い地下水路によって水が供給されるようになった。この水路はアテナイに僭主せんしゅ政を確立したペイシストラトスの一族によって建造されたもので、ペンテリコス山やヒュメットス山から7.5キロにわたって水を運んできた。他にも、リュカベットス山の貯水池から運んでくる水路もあった。また、アクロポリスではBC6世紀を通して、流出水を集める貯水槽、井戸、排水路などが作られた。BC4世紀にはアテナイ全域に給水路と排水路が建設されることになった。

 ギリシャの各都市国家は、常時住民への十分な水補給を確実にするために、それぞれ固有の環境に応じて的確な対応をする必要があった。ギリシャ本土の大半の地域には空洞や水路のある石灰岩のカルスト地形が拡がっていた。コリントスも石灰岩の丘アクロコリントスの周囲に作られた町だった。地下の水路や貯水槽を作るにあたって、技術者たちはこのスポンジ状の露出部と、自然にできたトンネルや洞窟のネットワークをできる限り利用した。サモス島は小アジア南部海岸の沖合にある。そのサモス島でBC530年に完成された水利事業はおそらく古代ギリシャで最も難しかった工事だったと考えられる。それはこの工事の責任者だった技術者の名を取って「エウパリノスのトンネル」と呼ばれた。島と同じ名の主要都市サモスは、標高300メートルのカストロ山によってアギアデスという大きな泉から遠ざけられていた。僭主のポリュクラテスは十分な水を確保し、さらに町を発展させようと、カストロ山にトンネルを掘り抜き、泉から直接水を引く水路の建設をエウパリノスに依頼した。それは今日から見ても驚異的と思える数学上および工学上の水準を示していた。縦横1.5x1.5メートルの通路は長さが1036メートルあり、山の真ん中を海抜55メートルの高さで貫通していた。エウパリノスが実際にどのような方法を使ったにせよ、驚くべきことに彼は計画されたルートからほとんどそれることなくトンネルを完成させたのである。



(イオニアの反乱)


 ミレトスはアナトリア西部の小アジア、エーゲ海沿岸地域のやや南に位置するイオニア地方の主要都市の一つであるだけでなく、ギリシャ人の海外移住と植民活動においても中心的な役割を果たした。この地には、後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)からクレタ島から来たミノア人や、ギリシャ本土からのミュケナイ系の人びとが住み着いていた痕跡が残されている。その後、BC1200年の前後の数十年間に東地中海全域を襲った大変動を経て、この地は、今度はギリシャ本土からエーゲ海を東進して小アジアへ向かうギリシャ人の民族移動の中で、その中心的な舞台として登場してくる。BC12世紀~BC11世紀に見られたこの現象は「イオニア人の移動」と呼ばれるが、それはこの地が後にイオニア地方と呼ばれるようになったからだった。これは移動であって、植民活動ではない。小アジア沿岸部とギリシャ本土のアッティカ地方とエウボイア島のイオニア人は、フェニキア人のアルファベットやバビロニアの数学、リュディアの貨幣制度など東方の文化遺産を取り入れて活用した。BC8世紀~BC6世紀のアルカイック期には、ミレトスは数多くの海外植民市を建設した。ヘレスポントス(現在のダーダネルス)海峡とその周辺にアビュドス、キュジコス、そして黒海南岸のシノペとトラペゾス、黒海北岸のオルビアとオデッソス(現在のオデッサ)などである。ミレトスの目的は、これらの植民市を拠点に黒海沿岸地域産の穀物、塩漬けの魚、奴隷を買い付け、オリーブや彩色土器を売ることだった。この時期には他のギリシャの都市も海外植民市を建設している。例えば、アッティカの西方に位置するメガラは、ボスポラス海峡の両岸にビュザンティオンとカルケドン、さらにシチリア島東部にメガラ・ヒュブライアを、エウボイア人はイスキア(イタリア中部)とキュメ(小アジア)に植民市を建設している。ミレトスはアルカイック期のギリシャ都市の中で最も繁栄していた先進的な文化都市の一つで、バビロニアやエジプトとも交流を持っていた。ナイルデルタの交易都市ナウクラティスを建設し、アポロン神殿を建てたのはミレトスである。自然哲学の祖、タレス(BC624年~BC546年)はミレトスの人だ。しかし、ミレトスの繁栄は突如として終わりを迎えた。


 アケメネス朝ペルシャを創立したキョロス2世(大王)の後、BC525年に息子のカンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)がエジプトを征服、BC522年からはダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)が更なる領土の拡大を目指す。彼はその征服戦途上でさまざまな機会にギリシャの本土人を目にしていた。スパルタは小アジアの中央に位置するリュディアのクロイソス王(在位:BC560年~BC546年)を支援してペルシャに敵対的態度を取っていたし、アテナイは追放されてペルシャに身を寄せていた僭主ペイシストラトスの息子ピッピアスの帰還を拒絶した。BC499年、ペルシャはキクラデス諸島のナクソス島に軍を派遣したが、この遠征は失敗しただけでなく、イオニア人たちを抵抗へ駆り立てた。ペルシャ帝国に従属していた小アジア沿岸とキプロスにあるギリシャ都市の全てがペルシャ帝国に対して蜂起した。これは一般的に「イオニア反乱」と呼ばれているが、実際には、小アジアのアイオリス系とドーリア系のギリシャ人、キプロスのギリシャ人とフェニキア人も蜂起している。その首謀者がミレトスだった。彼らはアテナイから20隻、エレトリアから5隻の軍船の援助を受けて防衛力を増強する一方、内陸のヘルモスの谷へ軍隊を派遣し、リュディア人が崇拝していたキュペレ(大地の女神)の聖域を蹂躙したうえ、BC546年以降ペルシャ領となっていたリュディアの首都サルディスを攻撃し放火した。アテナイ人たちは国に帰っていたが、小アジア沿岸のすべてのギリシャ都市がこの攻撃に加わった。それに対するダレイオス1世の報復は苛烈であり効果的であった。BC494年には、ミレトスの沖にあるラデ島周辺の海戦でイオニア船隊は敗北、ミレトスも陥落した。ミレトス人たちは集団で追放され、アポロン神殿は略奪され、神に奉納されていた品々は戦利品としてペルシャの行政の中心都市スーサへ運ばれた。ダレイオス1世はミレトスを文字どおり消滅させ、生き残った住民の一部をティグリス川の河口にあるアンペに移送させた。ミレトスは、いったんは完全に破壊されたが、すみやかに復興を果たしている。そして5世紀後半にはアテナイやスパルタの関係に絡んで、重要な役割を演じることになる。

 ペルシャはBC494年にイオニア地方の反乱を鎮圧すると、その2年後のBC492年には、マルドニオスに率いられたペルシャ軍がヘレスポントス(現在のダーダネルス)海峡を越えて、ギリシャに艦隊を送ってきた。そしてトラキアとマケドニア、さらには、この地域のギリシャ人植民都市を征服した。しかし、この艦隊はトラキアを通過した先の岬にあるアトス山沖で嵐に遭って沈没、神々はギリシャに味方したかに見えた。次いでBC490年、ペルシャ軍がダティスとアルタフェルネスに率いられてアナトリア南部のキリキアを出発する。その直接の目的は、イオニアの蜂起に加担したアテナイとエウボイア島のエレトリアの2都市に懲罰を加えることだった。しかし、そこにはもっと政治的な野望があったことは確かだ。それは全ギリシャをペルシャの支配下に組み入れることである。



(第1次ペルシャ戦争)


 ペルシャ帝国との戦いは古代ギリシャの歴史におけるハイライトであり、輝けるギリシャ古典期の始まりを告げる出来事でもある。ペルシャとギリシャの間にはペルシャ帝国の建国当初から文化的な交流があったが、もともと民主的な気風の強かったギリシャ人の心には、王を神のようにあがめるペルシャ人の文化を憎悪する気持ちが潜んでいた。


 ペルシャ戦争の原因はアケメネス朝ペルシャの領土拡張政策にあった。BC6世紀中ごろ、アケメネス家のキュロス2世によりイラン中央部に打ち立てられた強力なペルシャ帝国が勢力を西方へ伸ばしてきたのである。キュロス2世は現在のイラン北西部にあったメディア王国を手に入れ、BC546年にはリュディアのクロイソス王(在位:BC560年~BC546年)を倒してアナトリアを制圧、小アジア沿岸とエーゲ海の多くの島々のギリシャ人都市を支配下に収めた。こうしてリュディアが滅び、ギリシャとペルシャは直接向かい合うことになった。エジプトもBC525年にペルシャ軍に破れ、ペルシャ帝国の一部に編入され、エジプトの第27王朝(BC525年~BC404年)はペルシャ人ファラオの時代になった。その結果、エジプトを拠点にしていたギリシャ商人の利益も損なわれるようになった。さらにペルシャ軍はボスポラス海峡を渡って海岸沿いの都市を占領しながらマケドニアに達したが、ドナウ川を渡り黒海北方のスキタイを攻略することには失敗した。この時点でペルシャは領土拡張政策を一時停止することになった。

 その後、おそらくペルシャがスキタイの攻略に失敗したことに勇気を得て、BC5世紀の最初の10年間に小アジア沿岸のギリシャ人都市がペルシャの支配に反旗を翻した。ギリシャ本土にもこの反乱に加勢しようとという動きが生まれ、アテナイとエウボイア島のエレトリアが艦隊をイオニア地方に派遣した。その後の戦いで小アジアのイオニアを中心とした連合軍は、かつてのリュディアの首都でペルシャ帝国の西の拠点となっていたサルディスを焼き払った。しかし、小アジアでの反乱は結局失敗に終わり、ギリシャ本土は怒りに駆られたペルシャ軍を迎え討つことになった。


 BC490年、ペルシャ王ダレイオス1世は再び遠征軍を派遣し、ダティスとアルタフェルネスに率いられたペルシャ軍はイオニアの蜂起に加担したアテナイとエレトリアを攻撃するためにキリキアを出発した。これが「第1次ペルシャ戦争」となる。ペルシャの遠征軍は歩兵と騎兵合わせて2万5000の兵力で、船で輸送された。これにはかつての僭主ペイシストラトスの息子ピッピアスが同行していた。船隊は途中、ナクソス島などエーゲ海のキクラデス諸島を服従させ、エウボイア島のエレトリアに到達した。6日間の包囲によりエレトリアは味方の裏切りにより降伏、次いでアテナイがあるアッティカ地方に上陸し、アテナイの北東約27キロのエウボイア島に面したマラトン湾の海岸に上陸した。急ぎ、アテナイはスパルタに援軍を要請したがスパルタは宗教上の問題から行動をためらい出動が遅れた。このとき、アテナイの民会は城壁内に籠るより、平坦な野原で迎撃することを決議した。この決議の音頭を取ったのは、かつてトラキアへの植民事業でペルシャ人と関わったことのあるミルティアデスで、彼を含み6人が司令官となり、最高司令官はカリマコスになった。

 BC490年9月の朝、両軍は激突した。アテナイの重装歩兵部隊は同盟国であるプラタイアイから1000人の兵士が加わったものの、ペルシャ歩兵部隊の兵力は少なくともアテナイ軍の2倍はあった。しかし、激しい白兵戦の後、ペルシャ軍は敗北し、6500人以上が死に、わずかな敗残兵がペルシャ船隊に拾われただけであった。この古代ギリシャにおける最も有名な戦闘「マラトンの戦い」で、アテナイ側が出した死者は最高司令官のカリマコスはじめ200人弱だった。彼らは今もオリーブ畑が広がるマラトンの斜面を見渡す墓に合葬されている。ミルティアデスをはじめとする残った司令官たちは、その日のうちにギリシャ軍をアテナイ方面に移動させ、ペルシャ軍のアテナイに近い沿岸の町への上陸を阻止することができた。ペルシャ軍は沿岸が既に防備されているのを見て上陸を諦め、エウボイア島とキクラデス諸島で手に入れた戦利品と捕虜を連れてアジアへ帰っていった。エレトリア人捕虜たちはペルシャの都スーサの北、既に油田が開発されていたアルデリッカへ連れて行かれた。その子孫は50年後にヘロドトスが訪れたときも、故国の風習と言葉を守っていた。これが第1次ペルシャ戦争である。その後10年間、ペルシャはギリシャに侵入せず、アテナイ人は戦闘能力の高い軍船をそろえた海軍を作り上げた。

 この戦争は、ペルシャ人にとっては小さな失敗でしかなかったが、ギリシャにとっては大いなる成功であり、偉大な結果につながる輝かしい勝利として人びとの心の中に残った。それまで軍事的分野で無敵を誇っていたのはスパルタであったが、これ以降アテナイは軍事的栄光に輝くこととなる。しかしもっと重要なのは、この戦争を機にギリシャ人皆がアジアの強大な帝国と対決していくところにギリシャ的精神があることを強く意識するようになったことである。一人の絶対君主の気まぐれの下に大量の人間を服従させることで成り立っているアジアを前にして、ギリシャ人たちはその力の強大さ、富の膨大さを知りつつも、自由な人間によって構成され、法律によって秩序を保つ都市国家の理想というものを、武器を取って守ったのである。



(第2次ペルシャ戦争)


 第1次ペルシャ戦争の後、ダレイオス1世はさらに大規模なギリシャ攻略計画を立てたが、その実行はエジプトで反乱が起きたため遅らせざるを得なかった。エジプトはギリシャよりはるかに大きく豊かな国であり、BC535年にペルシャの初代キュロス2世の息子の一人であるカンビュセス2世が征服していた。そうこうしているうちに、ダレイオス1世はBC486年に死去。あとを継いだクセルクセス1世(在位:BC486年~BC465年)もギリシャへの遠征の前に、まずエジプトの秩序回復を仕上げる必要があった。

「第2次ペルシャ戦争」は全く別の性質を持っていた。クセルクセスがBC483年から艦船の通過を容易にするための運河の掘削などの準備を始めていたことは周知の事実であった。こうした動きから侵略が近いこと、今度は全ギリシャが目標であることは明白だった。アテナイでは政治指導者テミストクレスがこのペルシャ軍襲来を予見し、如何に防衛すべきかを考えていた。彼の助言でアテナイは鉱山から得られた銀による収入を注ぎ込んで、漕ぎ手200人という三段櫂船の船隊を整備していた。こうして自由のために力を合わせて戦うことを決意したギリシャ諸都市の先頭に立ったのはスパルタであった。「マラトンの戦い」ではアテナイ軍が勝利したが、その10年後の「第2次ペルシャ戦争」では最強の陸軍を持つスパルタがギリシャ連合軍、いわゆるペロポネソス同盟軍の中心となって戦った。

 そしてBC480年6月初め、いよいよ小アジアの北西部に集結したクセルクセス率いるペルシャ軍はアビュドスとセストスの海峡に架けた船の浮橋を使ってヘレスポントス海峡を渡り始める。この何十万という地上軍の行動を1200隻からなる船隊が援護し、食糧などの補給を担った。兵士たちは広大なペルシャ帝国のあらゆる州から徴収された人びとで、ヘロドトスはこの混然たる様子を詳細に描写している。海軍もまた、フェニキア・エジプト・キリキア・キプロスなどの船隊から成り、そのうえペルシャに屈従したイオニア諸都市や島嶼とうしょ部の人びとによる約300隻のギリシャ船も含まれていた。海峡を越えたペルシャの地上軍の大群はすでにペルシャ領となっていたエーゲ海の北岸のトラキアとそのギリシャ人植民地を通過し、ペルシャと同盟関係を結んでいたマケドニアを経て、オリュンポス一帯を呑みこみながらペロポネソス半島を目指して南下し、テッサリアに侵入した。共に侵攻してきた大艦隊も水路を通ってギリシャに侵入してきた。プラタイアイとテスペイアを除いてテッサリアとボイオティアはクセルクセスの下に降った。


 480年8月の初め、ペルシャ軍はギリシャの北部から中部への要衝であるテルモピュライの山道を守っているギリシャ軍の防衛陣地を数日間にわたって攻めた。ギリシャ軍はスパルタのレオニダス王の率いる約300人のスパルタ兵、若干のテスペイア人だけを残してコリントス地峡へ後退した。友軍を無事撤退させるためにレオニダス王以下、最後の一人までこの戦場で討ち死にしたエピソードは有名である。彼らの犠牲はギリシャ人の戦意を高揚させ、後にこの地には勇士たち讃えるシモニデスの短詩を刻んだ共同墓碑が建てられた。これと平行してギリシャ船隊はエウボイア島の北端のアルテミシオン岬に集結していたが、マケドニアのテルメ(現在のテッサロニカ)から南下してきたペルシャの船隊と初めて相まみえた。この二日間にわたった海戦では決着がつかなかったが、テルモピュライの防衛線が突破されたとの知らせを受けたギリシャ船隊は南へ後退し、アテナイの南西にあるサラミス島近くへ移動した。ペルシャ地上軍はフォキスとボイオティアを攻略し、アテナイのあるアッティカに到着した。アテナイ市民たちは町を捨ててサラミス島とペロポネソス半島東端のトロイゼンに避難した。

 アテナイに残った少数の部隊は玉砕し、アテナイは略奪されたうえ焼き払われた。アテナイの指揮官テミストクレスはペルシャ船隊がその数の優位性を利かすことができないように、狭いサラミス湾で交戦すべきと考えた。480年9月末の朝、ペルシャ船隊はフェニキアの軍船を先頭に、サラミス島とアッティカ海岸の間の幅1キロにも満たない水路に進入した。ギリシャの船隊は戦闘準備を整えていた。舳先へさきにつけた船嘴せんし(くちばし)で、狭い水路ですばやい動きができない多くのペルシャ船を次々と突き破り、次に敵船に乗り移ってアテナイとアイギナの重装歩兵が攻撃した。激しい混戦の後、ペルシャ船隊は船首をめぐらし、サラミス湾から逃げ出した。アイスキュロスは「まぐろの如く」と言っているように、400隻のギリシャ船隊が3倍もあるペルシャ船隊をさんざんに打ちのめした。これが有名なサラミスの海戦である。こうしてペルシャ海軍は弱体化したものの、ペルシャ陸軍は無傷であり、ギリシャ側にとって脅威がなくなったわけではなかった。しかし、クセルクセスは海戦の敗北を眼前にし、季節も冬に向かっていたことから撤退を決意し、残った船隊をヨーロッパと小アジアの間のヘレスポントス海峡へ向かわせる一方、自らは軍と共に陸路来た道を引き返し、ペルシャに帰還した。


 クセルクセスは、将軍の一人、マルドニオスにかなりの軍勢をつけてギリシャ北東部のテッサリアに残し、再度の作戦行動に備えて越冬させた。そして翌479年7月初め、ムギの収穫が終わるや、マルドニオスはアッティカに侵入、アッティカの住民たちは再びサラミス島に避難した。マルドニオスはギリシャ連合軍がペロポネソス半島を出発したことを知ると、ボイオティアへ退き、そこでギリシャ軍を待ち受けた。スパルタ人のパウサニアス(レオニダスの甥)が指揮するギリシャ軍は4万の重装歩兵に軽装備の遊撃隊を加えた強力な軍隊だった。ギリシャ軍はプラタイアイの町の傍らで待ち受けるペルシャ軍に向かい合って陣取った。両者のにらみ合いは3週間続いたが、この間にもギリシャ側はペルシャの騎兵隊による執拗な攻撃に苦しめられた。パウサニアスが出した後退命令でギリシャ軍が混乱しているのを見て、ペルシャ軍は攻撃を仕掛けた。だが、ギリシャ軍は彼らの伝統的な長所を発揮して、形勢を逆転しペルシャ軍を粉砕、マルドニオスは戦死し、ペルシャ軍は敗走した。侵入軍のうち生きのびたのは、騎兵隊に守られながら北方へ退却したわずかな残兵だけだった。ペルシャ軍に占領されていたテーバイは20日ぶりに解放された。これでギリシャは完全に救われた。サラミスの海戦から1年経ったこのプラタイアイの戦いをもって、15年間の長きにわたってギリシャ世界の上にのしかかってきた脅威に終止符が打たれた。その後、サモス島に面した小アジアの海岸、ミュカレ岬でもギリシャ船隊がペルシャ軍陣地を攻め落としたのを機に、エーゲ海の制海権はギリシャ人に帰した。断続的な戦いはその後も約30年わたり続いたものの、この二つの戦いをもって事実上ペルシャ戦争は終わりを告げた。BC487年春、アテナイ軍の司令官クサンティッポス(ペリクレスの父)が、クセルクセスがヘレスポントス海峡に船同士をつないで架橋した太綱を重要な戦利品として持ち帰った。これは戦勝記念の品として重要な二つの聖域の神々に捧げられた。

 これは古代ギリシャの歴史に訪れた最も偉大な瞬間の一つだった。勝利を導いたスパルタとアテナイは栄光に包まれ、小アジアにあったギリシャ植民地も解放され、ギリシャ人はこの後「偉大な時代」を迎える。意欲的に海外へ進出するようになり、1世紀半後にはアレクサンドロス3世(大王)に率いられたマケドニア王国が世界帝国を築くことになる。世界の歴史から見ても、この対ペルシャ戦争の影響は極めて大きなものがあった。このときギリシャがペルシャを撃退したことは、その後、ヨーロッパとアジアの区別が生まれるきっかけになったとも考えられるからである。また、マラトンの戦いとサラミスの海戦は、遥か後の時代になってからヨーロッパ世界を守った最初の戦いとして回顧されるようになる。


 アジアに対するヨーロッパの優位とギリシャ文明の遺産、これは今のヨーロッパ人には当然のように思われている現代世界の基本要素である。しかしBC5世紀には独立したギリシャの存続のためにペルシャ帝国の圧倒的な力と戦わざるを得ない時期があった。BC490年のマラトンでの勝利は、その10年後に運命を決するサラミスの海戦と、その翌年のプラタイアイでの地上戦につながり、ギリシャの独立を守ったばかりでなく、BC5世紀後半にギリシャ文明が輝かしい頂点に達する原因ともなった。この二度にわたるペルシャ戦争での勝利はBC334年に、ペルシャがギリシャに侵攻してきた行程を逆にアレクサンドロス3世(大王)に取らせ、アレクサンドロス3世にペルシャを征服させてギリシャ文明を世界中に広める道をも開いた。



(デロス同盟)


 ギリシャが大勝利を収めた後も、ペルシャとの戦争は30年にわたって断続的に続いた。その間、古代ギリシャ文明は最盛期を迎え、ペルシャの脅威もそれほど意識されなくなった。ギリシャ古典期のその輝かしい到達点を評して、「ギリシャの奇跡」と表現する歴史家もいるほどである。しかし、この一見華やかな時代の裏側では非常に深刻な問題が起こっていた。アテナイとスパルタの対立が次第に深まっていたのだ。ペルシャ戦の大勝利の後、安心したスパルタ人は自国へ帰っていった。ヘイロタイの反乱が気がかりだったからである。したがって、アテナイがギリシャの都市国家の盟主として対ペルシャの軍事行動を主導するすることになり、BC478年の冬から、アテナイは小アジアとその沿岸諸島のイオニア諸都市に対ペルシャ戦争を継続させるべく、同盟関係を組織した。こうして成立したのがデロス同盟だった。本部と金庫をデロス島に置くこの同盟の目的は、ペルシャとの戦いに備えて連合艦隊を結成することだった。その後、多くの加盟国は軍船を出すのではなく、拠出金を収めるようになったが、ペルシャの脅威が弱まって拠出金を拒否する国が出てくると、アテナイは武力によってそれを弾圧するしようとした。例えば、ナクソスが同盟からの離脱を図ったとき、アテナイはナクソスを攻撃して無理やり同盟に引き戻している。こうしてデロス同盟は、次第に「アテナイ帝国」と呼ばれるような性格を持つようになった。その証拠に同盟本部と金庫をデロス島からアテナイに移し、拠出金の用途もアテナイが決定し、各加盟国にアテナイ人の役人を駐在させて、重要な訴訟はアテナイの裁判所で行うようになった。


 BC460年からBC450年までの10年間はアテナイにとって重要な意味を持っている。貴族の家に生まれたペリクレス(BC495年~BC429年)がアテナイ政治において最高指揮権を振るったのがこの時期だからである。BC454年あるいはBC453年、デロス同盟の金庫がデロス島からアテナイへ、いわばアポロン神の庇護からアテナ神の庇護の下に移された。この措置はキクラデス諸島がペルシャの船隊に脅かされるようになったためとされるが、実際はアテナイがデロス同盟を独占支配するという意図でなされたと思われる。ペリクレスは同盟諸国がペルシャ側につかないように、まずスパルタと平和条約を結び、そうしておいてから、同盟諸国の離脱阻止に力を注いだ。こうして足元を固めた後にペルシャに対する戦争を再開した。追放先から召喚されたかつての政敵キモンは船隊を率いてキプロス島海域でのペルシャとの戦いに臨み、勝利の知らせをアテナイにもたらしたが、自身は作戦行動中に病死した。

 BC449年からBC448年にかけて和平交渉が行われ、アテナイ側の交渉者の名を取って「カリアスの和平」と呼ばれる条約が締結された。この条約により、小アジアにおけるギリシャ都市の自治権が確保され、ペルシャの船隊はパンフュリアとボスポロスとの間の海、すなわちエーゲ海全域と黒海の入口のボスポロス海峡までには入らないことが決められた。それと共に、アテナイもペルシャの領土には敬意を払うべきことが義務づけられた。こうしてデロス同盟が当初から目指した目的であるイオニア諸都市の安全は確保され、海上貿易が再び自由に行われようになった。アテナイは同盟都市に対する支配権を強化し、各地に軍事的植民地を作って、半農半兵の「クレルコイ」を駐屯させていった。また、アッティカの貨幣と度量衡システムを使用させるなど、政治・経済両面にわたる支配を並行的に進めていった。

「カリアスの和平」によって、その存続理由がなくなった後もデロス同盟は維持された。最盛期には150を超える都市国家がアテナイに拠出金を差し出していた。アテナイは同盟を維持するため、ときには高圧的な態度を同盟国に対して行ったこともあり、いくつかの同盟国は不満を募らせていた。アテナイは巨大な交易国だったため、やはり交易国だったコリントスは脅威を感じていた。また、ボイオティア地方の諸都市はすでにアテナイの直接的な攻撃対象となっていた。こうして反アテナイの機運が高まり、BC460年に対アテナイ戦争が始まることになった。この戦いにはスパルタも加わり、反アテナイ同盟軍を指揮している。その後、15年にわたって小競り合いが続いた後に、和平が結ばれた。ところが、それからやはり15年が経ったBC431年、古代ギリシャ文明の基礎を崩壊させることになる大戦争の幕が切って落とされる。 それがペロポネス戦争だった。


[第1次デロス同盟]BC478年~BC404年

 ツキディデスはこう述べている。 “ペルシャ戦争(BC494年~BC479年)からペロポネソス戦争(第2次:BC431年~BC404年)に至るまで、ラケダイモン(スパルタ)人とアテナイ人とは、あるいはお互いに戦い、あるいは相手方に従う同盟国に攻撃を加え、あるいは休戦協定を結びつつ、絶え間なく軍事力を強化し、それらの機会を通じて戦闘経験を重ねていった”

 こうして、この約50年間は、歴史家の眼にはアテナイとスパルタというギリシャの両雄が運命的に到達せざるを得なかった決戦への準備期間として映る。これまで軍事面で異論の余地のない権威を保持してきたスパルタは、アテナイが次第に力を増大し、おひざ元のペロポネソス半島においてすらスパルタと拮抗するようになるのを、不安を抱きながら見守ることとなる。このアテナイの隆盛はギリシャ史にとってのみでなく、全西洋にとっても重要な事実である。なぜならアテナイは政治と戦争の舞台で主役を演じることを通じて、思想・文学・芸術の分野でその才能を開花させることができたからで、BC480年からBC430年までの半世紀はペリクレスの世紀として、人類の記憶の中に残っていく。BC478年の冬から、アテナイは小アジアとその沿岸諸島のイオニア諸都市に対ペルシャ戦争を継続させるべく、同盟関係を組織した。直接ペルシャに脅かされていた小アジアと海峡部、そしてエーゲ海の諸都市は海軍力を基盤とする恒久的庇護を必要としていたが、それを提供できるのはアテナイのみであった。この同盟を容易にした背景は、アッティカとイオニアとの古くからの伝統の共有であったが、一番の要因は相互利益であった。アテナイは同盟国のために船隊を提供し、同盟軍の指揮権も引き受けた。この同盟の海軍に貢献できない都市は財政的に貢献することを義務づけられた。同盟の基金はアテナイが管理したが、その金庫はキクラデス諸島にあって、イオニア人共通の崇拝の対象であったデロス島のアポロン神殿の保護下に置かれた。



(反アテナイの動き)BC460年~BC446年


 初めのうち、スパルタはギリシャ防衛の責任がアテナイに移ったことを歓迎していた。鎖国政策を基本とするスパルタにしてみれば、国外のことはアテナイに任せておけばよいと考えていたようだ。ところが、アテナイの支配力が増し、他の都市国家の内政に重大な影響を及ぼすようになると、次第にスパルタも他の都市国家と同じように状況の変化を無視できなくなってきた。デロス同盟をめぐる対立は、参加する都市国家の内部でも富裕層と貧困層の対立という形で現れた。つまり税金を払う裕福な市民は同盟に資金を出すことに反対し、金銭的な負担がなかった貧しい市民は同盟を支持した。アテナイの干渉を受けた都市国家では、離反を試みて土地の一部を取り上げられた国もあったが、次第にアテナイを手本にした政治制度が各国で採用されるようになった。一方、アテナイの政治体制はその間、さまざまな苦闘を乗り越え、確実に民主政の方向へ動き出していた。BC462年のエフェアルテスの改革によって、古くからアレオパゴス会議(議場がアレオパゴスの丘にあった)の持っていた権限が、民会・評議会・民衆法廷に移された。こうしてアテナイに「民主政」が確立した。


 他国がアテナイに対して不満を募らせた要因はさまざまだった。アテナイと同様に

交易国だったコリントスは交易競争に脅威を感じていたし、アテナイの北に隣接するボイオティア地方の諸都市は地政学的な脅威を感じていた。こうして反アテナイの機運が高まり、BC460年に対アテナイ戦争が始まった。この戦いにはスパルタも加わった。スパルタはアテナイ北方の同盟都市であるフォキスに対して戦争を起こした。アテナイは反撃に出たが、アッティカのすぐ北のボイオティアの多くの都市が反アテナイ的だったため、重大な困難に直面した。BC446年、アテナイの軍隊はボイオティアから全面撤退せざるを得なくなる。さらに、近隣のメガラとエウボイアも反逆した。しかし、スパルタ軍はアテナイのすぐ西方で進軍を停止し撤退していった。ペリクレスはこの幸運に助けられて、反乱を起したエウボイア人たちを厳しく罰するとともに、BC446年からBC445年にかけてスパルタとの間に30年間にわたる停戦条約を結び、アテナイを盟主とする同盟国と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間に、ある種の力の均衡を樹立した。この結果、メガラとエウボイアもペロポネソス同盟に参加することとなり、アテナイ同盟はギリシャ本土における同盟都市の大部分を失ったが、エーゲ海の覇権は保持した。また、海上におけるアテナイの通商権は東方でも西方でも保障され、どちらの同盟にも属さない国に対しては自由に働きかけることができたため、アテナイの国力は絶頂期を迎える。パルテノン神殿がBC447年からBC438年まで9年をかけて完成されたのをはじめ、アクロポリスの丘はBC432年まで絶え間ない大規模建設の作業場となる。同時にアテナイは植民都市を南イタリア、トラキア、黒海南部沿岸など各地に建設している。BC432年、ペリクレスはメガラの商人たちをアッティカ及びアテナイの同盟国の港湾と市場から締め出す命令を発した。これが契機となり、相対立する二つの都市同盟の断絶は決定的となった。BC431年、古代ギリシャ文明の基盤を崩壊させることになる大戦争の幕が切って落とされた。それがぺロポネソス戦争(BC431年~BC404年)だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る