第106話 古代エジプトの終焉(末期王朝時代)とその遺産

<年表>

第26王朝:サイス朝(BC664年~BC525年)

 新アッシリアの王アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)は、BC665年にナイルデルタ地帯西部のサイスの支配者であるネカウ1世とその息子のプサムテクの自治権を認め、翌年のBC664年にネカウ1世が死去したため、プサムテク1世(在位:BC664年~BC610年)がエジプト王としてサイスに第26王朝を樹立したとされるが、その実体はアッシュールバニパルの忠実な臣下だった。しかし、新アッシリアの勢力がその南の新バビロニアの脅威の前に弱まるにつれて、プサムテク1世はBC656年に独立したエジプト統一王国の支配者となった。半世紀にわたるプサムテク1世の治世は、平和と安定の時代であると同時に、伝統への復古が促進され、古代エジプトにおけるルネッサンス時代とも呼ばれている。伝統復古の風潮は、すでに第25王朝(ヌビア朝)に現れていたが、さらにそれを促進するように古王国時代、中王国時代の宗教文書や美術様式が取り入れられた。第26王朝はリビア系の王朝であったため、ヌビア人による第25王朝と同じように、古代の伝統を復古することにより、自らをエジプト文化の正統な継承者として誇示することが必要だったと思われる。こうして栄えたリビア系エジプト人による王国も、新バビロニアを襲ったのと同じ運命に見舞われる。ペルシャ帝国が周辺諸国を滅ぼしながら勢力を拡大し始めたのだ。


第27王朝:ペルシャ人ファラオ(BC525年~BC404年)

 アケメネス朝ペルシャのカンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)はエジプト王の称号を採用し、エジプトの神々を崇拝し、エジプト人の高官を登用するなど、エジプト人の民族感情に配慮した支配を行った。カンビュセス2世の後継者ダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)は、上エジプトのアル・カブ、カルガ・オアシスなどで神殿を建設し、第26王朝時代に掘削が始まっていたナイル川と紅海を結ぶ運河を完成させるなど、エジプト国内の整備に努めた。また、ダレイオス1世はサトラップと呼ばれる総督(太守)を置き、王の代理とした。またペルシャによる支配によってエジプト語に次いでアラム語が第2公用語となった。


第28王朝:最後のエジプト人ファラオたち(BC404年~BC399年)

 BC404年にエジプトはペルシャ帝国から独立した。その時のエジプトの指導者は下エジプトのデルタ西部のサイスのアミルタイオスで、第28王朝の唯一の王である。しかし、アミルタイオスはメンフィスのネフェリテスにその座を奪われた。


第29王朝:最後のエジプト人ファラオたち(BC399年~BC380年)

 ネフェリテス1世(在位:BC399年~BC393年)により創立された第29王朝は、彼が没してデルタ東部のメンデスにある墓に埋葬されると同時に起きた王位継承抗争のためまもなく崩壊する。


第30王朝:最後のエジプト人ファラオたち(BC380年~BC343年)

 第30王朝の初代ネクタネボ1世(在位:BC380年~BC362年)はメンデスの西30キロのセベンニトスの出身で、即位後5年足らずで新たなペルシャ軍の侵攻に直面するが、ちょうどナイル川の氾濫時期にあたったことと、ペルシャ軍とアテナイ軍の同盟者同士の不和が起きたことで、危機を逃れた。その後、ジェドホル(在位:BC362年~BC360年)、ネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)を中心に全国規模の壮大な神殿建設事業を開始し、その多くは後のプトレマイオス時代(BC305年~BC30年)初頭に完成を見る。第30王朝は、BC343年にペルシャがエジプトを再征服したことで終わりを告げた。以後のエジプトは、国家としての真の自主独立を、紀元後1952年のエジプト共和国の誕生まで2300年間取り戻すことはなかった。


第2次ペルシャ支配(BC343年~BC332年)

 ペルシャ帝国がアレクサンドロス3世(大王)により滅亡する直前の第2次のペルシャ支配の時代で、その時のペルシャ王はアルタクセルクセス3世(在位:BC359年~BC338年)である。マケドニアのアレクサンドロス大王の軍事遠征はペルシャ帝国の完全な滅亡をもたらし、ペルシャのダレイオス3世の殺害によりナイルの地はマケドニア人の手に落ちたため、この王朝は10年ほどしか続かなかった。BC332年に新たな征服者としてアレクサンドロス大王が現れ、それによりエジプトがマケドニア人に支配され、ギリシャ語で統治される時代が始まった。


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 エジプト末期王朝時代は、リビア系エジプト人によるサイス朝、そしてアケメネス朝ペルシャによる支配とそれへの反抗の時代だった。先の第21王朝から第25王朝までの第3中間期(BC1069年~BC656年)と同様に、末期王朝時代はエジプトの様々な異民族の隆盛により特徴づけられる。また個人信仰とともに動物崇拝が盛んになった時代でもあった。宮廷文化は創造性を求めて古王国時代(BC2686年~BC2125年)を回顧し、古風な様式を生み出した。



(サイス朝)第26王朝(BC664年~BC525年)


 ナイルデルタ地帯西部に位置するサイスの第24王朝(BC727年~BC715年)時代からのリブ族の一門が、第26王朝(BC664年~BC525年)を形成する。ここから末期王朝時代が始まる。この新たなサイス朝は、元々は新アッシリアがエジプトに侵攻して、ヌビア人の第25王朝を倒したとき、アッシリアからエジプトを支配する総督に任じられたのが始まりだった。やがてアッシリアは、本国で内紛が激化していったため、その対応に追われるようになった。そのためサイス総督プサムテクは徐々に主権を獲得し、プサムテク1世としてエジプト全土を統治するようになった。


 エジプト第25王朝のヌビア人の王タハルカ(在位:BC690年~BC664年)と新アッシリアのアッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)が対立しているとき、一部のデルタの君侯たちはアッシリア側についた。なかでも、かつてのヌビア人の敵、第24王朝のテフナクトの子孫と思われる下エジプトのサイスの支配者たちはメンフィスとともにデルタ西部の支配を任された。第26王朝の初代、プサムテクはアッシリアの王アッシュールバニパルの忠実な臣下で、ナブシェズィバンニというアッシリア名まで持っていたので、アッシリアは自分たちの代理としてプサムテクに下エジプトの統治をまかせたらしい。一方、上エジプトのテーベではヌビア(クシュ王国)の首都ナパタ(第4急湍近くの下流域)の王の統治が名目上続いていたが、実際の行政権はテーベの首長メンチュエムハトの手にあった。また、ナパタ王が指名した「神の女性礼拝者」である「アメンの神妻」シェペンウェペト2世(第25王朝の創始者ピイの娘)は、そのまま職に留まっていた。しかし、アッシリアの勢力がその南のバビロニアの脅威の前に弱まるにつれて、プサムテクは独立し、BC656年、プサムテクは上エジプトの第25王朝の残テーベ政権と新たな協定を結び、テーベ支配を認める代わりに、娘のニトイケレトをシェペンウェペト2世の養女とし、次の「アメンの神妻」にしたと記録にある。テーベに向かうニトイケレトに随行してナイルを遡る壮麗な船団行列については、船団指揮官セマタウイ・テフナクトが生き生きと記述している。それは末期王朝の一大スペクタクルの一つだったに違いない。テーベの神官団の最高官職である「アメンの神妻」に付与された政治的影響力は大きかった。王はこの称号を自分の長女に与えることでアメンの祭祀とその莫大な富や広大な領地に対する王の支配を確実にすることができた。したがって、上エジプト全土に対する支配も確保することができたのである。南部のヌビア系第25王朝から北部デルタ地帯サイスの第26王朝への権力移譲は、この方式で達成された。この養子縁組により、彼はプサムテク1世(在位:BC664年~BC610年)としてエジプト統一王国の支配者となり、新たにサイスの第26王朝の系譜を開いて、先駆者であるサイスの第24王朝テフナクト(在位:BC727年~BC715年)の野望を実現させた。


 プサムテク1世の治世は長期にわたり、やがて国力がついたと判断すると、彼はアッシリアへの朝貢を止め、こうしてアッシリアによるエジプト支配は崩れた。アッシリアは、かつて服従させていたプサムテクに何の対策も取らず、エジプトでプサムテク1世の治世が終わるころのBC609年に新バビロニアに攻め滅ぼされてしまった。サイスの第26王朝は自国の防衛をアナトリアのリュディアやカリア出身の傭兵に大きく頼っており、人口密度の高いギリシャの都市国家とも良好な関係を維持していた。ギリシャ人都市はエジプトにもあり、デルタ西部のナウクラティスがそれで、地中海交易の利益をエジプトにもたらしていた。

 サイスの第26王朝が支配した時代には軍事行動が多かった。プサムテク1世を継いだネコ2世(在位:BC610年~BC595年)は、ギリシャ人商人や船乗りのエジプトへの定住を奨励し、初めてギリシャ人の傭兵からなるエジプト海軍を創設した。またナイル川と紅海を結ぶ運河を掘削させ、交易を発展させた。さらにフェニキア人の船団によるアフリカ周航を試みた王として有名である。ネコ2世はパレスティナに軍事遠征を行い、BC609年にユダ王国のヨシュア王をメギッドで破った後、シリアのカルケミシュやハランまで侵攻した。しかしBC605年、ネコ2世の軍は新バビロニアの皇太子ネブカドネザル率いるバビロニア軍とカルケミシュとハマトで交戦し、完敗して退却した。そしてBC601年には新バビロニアの2代目の王となっていたネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)の軍をナイルデルタ東部の国境線で迎え撃つことになった。

 ネコ2世の息子で後継者のプサムテク2世(在位:BC595年~BC589年)は新バビロニアに抵抗を試み、パレスティナへの軍事遠征を実施した。また南のヌビアのナパタとの戦争が勃発し、王は自ら軍隊を率いてヌビア深く攻め込んだ。第2急湍の北に位置するアブ・シンベル神殿にはプサムテク2世の軍事遠征に従ったギリシャ人、フェニキア人、カリア人兵士たちの残した落書きが残されており、プサムテク2世が外国人傭兵に依存していたことがわかる。

 プサムテク2世の息子アプリエス(在位:BC589年~BC570年)も先代の王に倣ってエジプトの版図拡大を試み、キプロス、パレスティナ、フェニキアに軍事遠征を行った。BC588年、新バビロニアがユダ王国の首都エルサレムを攻撃した際に、アプリエスは自ら出兵したが、翌年にはバビロニアのネブカドネザル2世に大敗北を喫した。エルサレムはBC587年に陥落し、上流市民層はバビロンに捕囚され、ユダ王国は滅亡した。これが第2回バビロン捕囚である。また、アプリエスはリビアで勢力を拡大していたギリシャ人植民都市キュレネを制圧するため軍事遠征を行ったが、この戦争でも大敗した。幾度の戦争に敗れ続けたアプリエス王はついにエジプト兵の不評を買い、反乱が起きた。この反乱を鎮圧するために将軍アマシスが遣わされたが、アマシスはアプリエス王に背いて反乱軍のリーダーとなり、アプリエス王から王位を奪い、イアフメス2世として即位した。


[イアフメス2世(アマシス)]

 第26王朝のイアフメス2世の生い立ちについてはほとんど知られていないが、その容貌からおそらくリビア系だったと思われる。若い頃に兵士となったアマシスは、第26王朝第4代アプリエス(在位:BC589年~BC570年)の治世末期には将軍の地位に昇った。アプリエスが行ったリビア沿岸のギリシャ人植民市キュレネ攻撃が失敗に終わると、土着のエジプト人部隊が反乱を起こした。エジプトの主要な将軍だったアマシスは、この機会を逃さなかった。彼はアプリエスを放逐し、王座に就き、イアフメス2世(在位:BC570年~BC526年)となった。放逐されたアプリエスは3年後、仇敵だったバビロニアの支援を受けてイアフメス2世に対する「反クーデター」を試みたが、デルタ地帯での会戦で敗れた。イアフメス2世はエジプト在住のギリシャ商人に高額の税を課したため、後代のギリシャの歴史家たちからその卑しい出自からくる振る舞いが王にふさわしくないと軽蔑されている。しかし、イアフメス2世の44年に及ぶ治世から得られる証拠は、彼がエジプト王の伝統的な職務を模範的なやり方で果たしていることを示している。イアフメス2世はエジプト経済を押し上げるため、ギリシャ人によるすべての商業活動をデルタ地帯西部の都市ナウクラティスに集中させた。対外政策については、エーゲ海諸国との友好関係を深めるように努めた。強固な同盟が、新バビロニアや次のペルシャに対する最良の防御となること、またギリシャ人によるエジプト侵略に対しても有効な防御方法だと彼は認識していた。簒奪者として王座に就いたイアフメス2世は息子のプサムテクを王位継承者とする一方で、娘を現職の「アメンの神妻」の後継者に指名させた。ペルシャによる侵攻の絶えざる脅威は、イアフメス2世の治世晩年に影を落としていた。彼個人の決断力と強靭な性格、そして抜け目なく結ばれた外交同盟関係は、敵軍を束の間食い止めることに成功したものの、彼が世を去ると、新たなペルシャ王カンビュセスが率いる敵軍が侵攻してきた。イアフメス2世の息子プサムテク3世(在位:BC526年~BC525年)は、自ら受け継いだ遺産を守り抜くには力量不足で、エジプトはたちまち屈服させられた。イアフメス2世の声望は、豪奢な埋葬や壮麗な記念建造物ではなく、圧倒的に不利な状況でエジプトの独立を保った偉業によって支えられることとなったのである。


 このように軍事面での活動が目立つが、この時代は第25王朝時代の文芸復興が強力に進められた時代でもある。第26王朝は、エジプトでヌビア人の第25王朝が始めた文芸復興を受け継いでさらに進展させている。第22王朝にも言えることだが、王の名前さえ見なければ、リビア系とはわからないだろう。末期王朝時代の芸術は見過ごされてしまうことが多いが、これは庇護者が集中していた下エジプトでは、ほとんどの遺跡で石材やヒエログリフ碑文が散逸しているからである。それでも現存する作品からは当時の活気が伝わってくる。中央政府によってデモティック(民衆文字・省略化文字)が碑文を刻む際の標準文字と定められたし、葬祭文書である「死者の書」が復活して、はっきりとしたストーリー性を持つ一定の順序に編纂された。


 こうして栄えたリビア系エジプト人による王国も、新バビロニアを襲ったのと同じ運命にみまわれる。ペルシャ帝国が周辺諸国を滅ぼしながら勢力を拡大し始めたのだ。第26王朝末期のイアフメス2世(在位:BC570年~BC526年)はペルシャによる進出の暗雲に覆われていた。イアフメス2世が死を迎えようとしていたまさにそのとき、カンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)が率いるペルシャ軍はエジプトの国境に到達した。そしてBC525年、エジプト第26王朝最後の王プサムテク3世(在位:BC526年~BC525年)は、ナイル河口のペルシウムでカンビュセスに敗れ、リビア系エジプト人による第26王朝は滅んだ。この王がペルシャ軍に敗れて以降、西方のリビアの遊牧民はエジプト史の表舞台から去ってしまったようである。マケドニア系のプトレマイオス時代、リビア沿岸はプトレマイオス朝の領土の一部になったが、これはかつてのファラオのように領土を征服したからではなく、リビアにあったギリシャの植民都市キュレネを併合した結果だった。


[エジプトにおけるフェニキア人・カリア人・ギリシャ人]

 鉄器時代初期のBC1200年ごろの次にエジプトがその北方地域と直接接触した事例は、末期王朝時代(BC664年~BC343年)となるBC7世紀に第26王朝が勃興した時期の現存記録に見ることができる。末期王朝時代の王たちは、エーゲ海地域とアナトリアで通商相手を探しただけでなく、それ以上に必死になって、国内外の敵と戦う兵士も求めた。新たにこうした太い関係ができたことを反映して、ギリシャ人とフェニキア人が海運網を拡大した地域では、西地中海も含め各地でエジプトの品々やエジプト風の物が見つかっている。BC5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスによると、プサムテク1世(在位:BC664年~BC610年)がエジプト全土の統一を成し遂げた裏には、アナトリア南西部のエーゲ海に面したカリア地方出身の傭兵の力があったという。またプサムテク2世(在位:BC595年~BC589年)がヌビアに侵入したとき、その軍隊は将軍アマシス(後のイアフメス2世)が指揮するエジプト人の部隊と、ギリシャ人の将軍ポタシムトが率いるギリシャ人とカリア人とフェニキア人からなる混成部隊とで構成されていた。メンフィスには多くのカリア人が居住していて、カロメンフィテス(カリア系メンフィス人)と呼ばれる独立したコミュニティを形成し、独自の文字や、エジプトとカリアの要素をそれぞれ取り入れた生活様式を発展させていた。サッカラのネクロポリスでは、メンフィスに住むカリア人たちの墓碑銘が見つかっているほか、カリア様式と思われる珍しいレンガ造りの礼拝所もあった。

 イアフメス2世(在位:BC570年~BC526年)の時代からは、ギリシャ人の交易商がデルタ地帯西部の都市ナウクラティスに集まるようになった。ここはエジプト王国内に作られたギリシャ人植民都市で、エジプトに地中海交易商を呼び込むことでファラオたちに利益をもたらし、ローマ支配時代になっても繁栄し続けた。イアフメス2世は、エーゲ海諸国との関係を強固なものにするため、デルフォイやロードス島の都市リンドスなどにある神殿に奉納物を捧げた。ギリシャ人やアナトリア人の兵士は、その後も宮廷内の権力闘争や、エジプトと周辺諸国との戦いで重要な役割を担い続けていたが、やがてBC332年にアレクサンドロス大王が登場する。



(ペルシャによるエジプト支配)第27王朝(BC525年~BC404年)


 エジプトはBC605年にカルケミシュで新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)に大敗し、BC525年にはペルシャのカンビュセス2世に敗北して、エジプトはペルシャ帝国の属州の立場に置かれることになった。そして世界の覇者となったペルシャ帝国は、その後数世紀にわたって地中海地方に台頭してくる新たな勢力と覇権争いを意続けることになる。

 BC525年、ペルシャ王カンビュセス2世がエジプトに侵攻して、首都メンフィスを攻略し、サイス朝のプサムテク3世(在位:BC526年~BC525年)を退位させた。そしてエジプトはペルシャ帝国の一部に編入された。ペルシャ支配が始まると、エジプトは本格的に鉄器時代に入り、行政用の新たな言語としてアラム語が導入された。だがペルシャ人の王の中には、宗教や美術の分野でエジプトの伝統を奨励する者もいた。この状況は1世紀以上続いた。拡大しつつあったペルシャ帝国がエジプトを併合したとき、ファラオの国は根本的に異なる文化に政治的に従属することとなった。この前例のない挑戦に対してエジプトのエリートである神官たちは、ペルシャの侵略者と戦う道を選ばず、その代わりに忠誠と説得を合わせ持ちいることでペルシャ人にエジプトの流儀を認めさせるほうを選んだ。カンビュセス2世は、エジプトで模範的なファラオとして振る舞っていると見られれば政治的に有利であることを明らかに認識していたので神官たちに合わせることに同意した。これにより、神官たちは自らの地域の神殿がとりあえず残ったことだけでなく、祖国の独自性も保たれることに安堵した。

 エジプトを征服したカンビュセス2世はアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世の息子である。エジプトはメンフィスに居を構えるサトラップ(総督あるいは太守)によって統治された。その一人アケメネスはペルシャ王クセルクセス1世の兄弟であった。カンビュセス2世とダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)以外にエジプトを訪れたペルシャ王はおらず、後の王たちは最初の二人のように完全なファラオとしての称号を用いようとしなかったらしい。したがって、サトラップが第27王朝の実際上の支配者だった。ダレイオス1世はエジプトに安定をもたらし、カルガ・オアシスにエジプト式のアメン神殿を建てた。しかし、BC490年にマラトンの戦いでペルシャ軍がギリシャ軍に敗れると、エジプト独立を目指して反乱を起こす者が続々と現れた。最初の反乱はダレイオス1世の後を継いだクセルクセスが、即位したBC486年にすぐに鎮圧したが、アルタクセルクセス1世がBC465年に即位すると、今度はナイルデルタ地帯で火の手が上がった。この時はイナロスという地元の豪族がデルタ地帯を支配したが、メンフィスを攻略するにいたらず、BC454年に戦いに敗れて処刑された。BC405年ごろナイルデルタで再び反乱が起き、ダレイオス2世がBC405年に没すると、その反乱は成功を収めた。首謀者である地元の豪族はギリシャ語ではアミルタイオスと呼ばれ、マネトの王名表では第28王朝唯一の王とされている。



(最後のエジプト人ファラオたち)第28王朝~第30王朝(BC404年~BC343年)


 BC404年にエジプトはペルシャ帝国から独立した。第28王朝は、エジプトのペルシャからの独立のために立ち上がったアミルタイオス(在位:BC404年~BC399年)1代のみの王朝で終わった。アミルタイオスのおかげでエジプトは統一されて60年間独立を保つことができた。アミルタイオスの後はデルタ地帯の都市メンデスに本拠を置く第29王朝と、同じくデルタ地帯の都市セベンニトスを本拠とする第30王朝がエジプトを統治した。新たな対立の危機が目の前に迫っていたにもかかわらず、末期王朝最後の第28王朝から第30王朝までは、60年あまりという短期間ながらエジプト文化が復興し、ペルシャ支配時代に無視されていた神殿建設計画が大々的に進められた。しかしBC343年、再びペルシャ軍に攻め込まれ、エジプト人最後の王となった第30王朝のネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)は国外に逃亡した。


[ネクタネボ2世]

 ギリシャ世界とペルシャ帝国の衝突は、ナイル河谷を統治したエジプト生まれの最後の支配者が置かれた状況だった。ナクトホルヘブは第30王朝の創立者ネクタネボ1世(在位:BC380年~BC362年)の甥の息子だった。スパルタの傭兵たちが彼の叔父のジェドホル(在位:BC362年~BC360年)を退位させ、ナクトホルヘブを代わりに据えたとき、彼はまだフェニキアに遠征したエジプト軍の士官にすぎなかった。放逐されたジェドホルはエジプトの大敵であるペルシャ側に逃げ込んだ。この自暴自棄の重大な行動が、結局はエジプトの独立に終焉をもたらすことになった。ナクトホルヘブの属した軍はエジプトに帰還したが、ナクトホルヘブは必ずしも英雄として迎えられたわけではなかった。王位を狙う手強い競争相手のメンデスに、エジプトへの入口に当るナイルデルタ東部のタニスで包囲されたナクトホルヘブは、スパルタ王アゲシラオスによる軍事介入により辛うじて救われた。ナクトホルヘブは即位してネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)となった。若きファラオは自分の立場が危ういことを理解していたに違いない。そこで彼は、国中で最も影響力のある団体、大神殿の神官団から支持を取り付けようと企てた。そのための最上の方法は、神殿を拡張するという伝統的な王の義務を実行すること、そして神々に仕える神官たちの富を増やすことだった。この計画には新しいイシス神殿の造営も含まれていた。第30王朝の前王たちの彫像がエジプト全土の神域に建立され、ネクタネボ2世自身は伝統的な王権の神であるホルスと自分自身を密接に結び付けるために彫刻を利用した。ネクタネボ2世の下で芸術と文学が栄え、エジプト文化はルネサンスともいえるものを享受した。

 しかし、エジプトが独自の国家であるという自意識を満足させたところで、それは中東におけるこの国の衰えというどうしようもない現実を覆い隠すことはできず、エジプトの独立を終わらせようとする諸勢力を食い止めることもできなかった。最初の挑戦はネクタネボ2世の治世10年目、BC351年にペルシャ軍がエジプトに侵攻してきたことだった。このときはエジプト軍が勝利を収めたが、この勝利は王の心中に何ら根拠のない自己満足を生み出すことになった。そしてギリシャ人をはじめとする地域勢力と条約を結ぶのを怠ったのだ。これは致命的な誤りだった。その7年後にペルシャは再び侵攻してきた。今度はペルシャ王アルタクセルクセス3世が陣頭指揮を取り、首都メンフィスに迫ってきたとき、ネクタネボ2世は国外に逃亡した。その後の彼がどのような運命をたどったのかは知られていない。彼はヌビアへ逃れたのかもしれないし、ギリシャやマケドニアに亡命したのかもしれない。その真偽は不明だが、アレクサンドロス大王やその後のプトレマイオス朝の王たちがネクタネボ2世の追憶に敬意を払い、この王の祭祀のためのほこらをいくつも造営したのは事実である。第30王朝のネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)はエジプトで生まれた最後のエジプト人ファラオとなった。



(第2次ペルシャ支配(BC343年~BC332年)と古代エジプトの終焉)


 第2次ペルシャ支配は10年ほどしか続かなかった。BC332年、エジプトはアレクサンドロス大王の手に落ち、アレクサンドロスは人びとから救世主として歓迎された。こうして始まったギリシャ系のプトレマイオス王朝も、BC30年にはローマに征服され、エジプトはローマ帝国の一部となった。


 エジプト土着の王朝で最後の繁栄を見せたのは、サイス朝とも呼ばれる第26王朝である。しかしその後、アケメネス朝ペルシャの軍門に下り、エジプトはアケメネス朝ペルシャ帝国の属州となった。その後エジプトは再び独立し、第28王朝から第30王朝まで土着のエジプト人たちの王朝が支配するが、再度のペルシャの侵入に屈し、次は「第2次ペルシャ支配期」となり、もはやエジプト王朝とは呼べなくなった。

 ペルシャによる占領、それに続く解放と再占領の日々の中で、エジプトの官僚たちは現実的な立場をとり、権力を握っているどのような支配体制にも順応した。エジプトは第30王朝の下で、その最後の王であるネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)がペルシャの侵入に屈するまで、最後の独立と国家再生の短い時期を享受した。ペルシャへの従属によって、エジプトの独立が完全に消滅したわけではないが、その後のエジプト人の反乱を経て、第2次ペルシャ支配が始まったBC343年以降、エジプトは常に異民族の王朝に支配され、独立国としての立場を奪われることになる。結局ペルシャ帝国の出現は、エジプト文明を襲った最後にして最終的な打撃だった。BC332年のアレクサンドロス大王の侵入によりエジプトはペルシャ支配から解放されたが、それはヘレニズム世界の一部になることだった。


 ***


(古代エジプトの遺産)


 エジプト文化の最上位を占めるのは書記術である。BC3000年紀のエジプト人はシュメール人が発明した書記術を自分たちに合うように改造した。並外れた製図技術と均整感覚に優れた古代エジプト人たちはすばらしい神聖文字(ヒエログリフ)体系を創りあげた。それはシュメール語と同様に、表意文字記号と音節文字記号が混ざり合って使用されている、いわゆる表語音節文字体系である。この書記法には多くの数の文字が必要であり、それを書き表すには大変な技術を要した。そのためより簡便な書法が考案された。その一つに神官文字のヒエラティックがある。これは筆記体なので書き易かったが、読みづらい点もあった。異国との接触が増大したエジプトの「黄金時代」には純粋な音節正書法が考案された。正書法では、すべて表意文字を用い、従来の神聖文字(ヒエログリフ)では子音しか表せなかったが、各音節文字の母音も区別されるようになった。BC 2000年紀中ごろになると、この正書法から西セム語として初めての音節正書法が生まれた。やがて30個余りの文字だけでセム語を書き表すようになり、最後はフェニキア人がそれをさらに簡素化し、その書記法をギリシャ人に伝えた。するとギリシャ人はそれに母音記号を加えて、完全なアルファベット文字を創りあげた。その後、同様な経緯を経たアラム文字が東方へ広まり、両者の分派が世界中を席巻することになった。

 シュメール人がそうであったように、エジプト人も早くから文学作品を作った。古王国時代には「ピラミッド・テキスト」、第1中間期の「イプウェルの訓戒」、中王国時代の「シヌへの物語」、アマルナ時代の「太陽神アテン賛歌」、新王国時代末期の「ウェンアメン航海記」などである。また後代に大きな影響を与えた文学の分野で、「知恵文学」といわれるものでは、教訓とか諺という形でヘブライ語聖書に伝えられた。その一例は、聖書の「30の訓戒と知識の言葉」で、それはエジプトの「アメンエムオペの教訓」と実によく似ている。


[アメンエムオペの教訓]

 第20王朝時代(BC1186年~BC1069年)ラメセス朝の知恵文学作品。ある役人から彼の息子へと伝えられた30章から成る一連の教訓。よく知られた主題としては、謙虚な態度や、土地の境界線を公正に定めることの大切さなどがある。ラメセス朝後期の特色は個人の信心深さの傾向である。その作品は隠喩いんゆに富んでおり、そのためいくつかの要素は聖書の格言に組み込まれた。


 古代エジプトの遺産で目に見えるものといえば、巨大建造物や彫像がある。メソポタミアと同様、エジプトでも木材資源が乏しかった。シュメール人は粘土やアシといった脆い材料を使ってその欠陥を補ったが、せっかくの大建造物も火災にあったり、すぐに砂に埋もれてしまった。しかし、ナイル渓谷は両岸が砂岩と石灰岩の峡谷であり、農業の発展には支障をきたしたが、石材は豊富で硬い石も柔らかい石もあり、石工や彫刻家にいくらでも供給することができた。ピラミッドや墓所、神殿・彫像などいつの時代もエジプトは質量ともに近隣の西アジアや東地中海世界のいかなる石造物をも凌駕している。その多くは完全に破壊されたり埋め尽くされたりすることはなかった。それらは画家や書家が精緻な作品を作製するために絶好の環境を与えた。現代の視点からすると、古代エジプト芸術の中で今日まで伝わる記念物には、埋葬や死者への儀礼に捧げられたものが多いという印象がある。古王国時代には、王は「ピラミッド・テキスト」も含めて特別扱いであった。冥界で復活するためには、さまざまな試練(大河を渡るなど)を乗り越える必要があり、その手引書(呪文集)が「ピラミッド・テキスト」であり、やがて「死者の書」となった。それが中王国時代になると、「ピラミッド・テキスト」の中から選ばれたものは、貴族など私人の墓所にも採用され、それらは「コフィン・テキスト」の基礎となった。さらに新王国時代になると、それらを総括した「死者の書」と呼ばれるものがパピルスや獣皮に記されて、一般民衆の埋葬にさえ用いられるようになる。古代エジプト人はいつの時代でも西方に浄土があり、死者はそこで生き続けると考えてきたので、死後もよい生活を送れるように十分な用意をしていた。また彼らはこの世での生活も享受していたことは、壁画や世俗歌謡に描かれている。


[ピラミッド・テキスト]

 古王国時代後期の第5王朝(BC2494年~BC2345年)から第17と18王朝(BC2181年~BC2125年)までの9つの王族のピラミッドの玄室内部や通路に刻まれたエジプト最古の宗教文書群。1000ほどある個々の「発話」は呪文、祈祷、そして長い節で構成されるが、すべてを備えたピラミッドは一つもなかった。それらは王の来世での復活と神々の間における王の運命に関することが書かれている。発話の後半部分はオリシス信仰の隆盛を示している。


[コフィン・テキスト]

 中王国時代(BC2125年~BC1650年)に1000を超える呪文の中から選ばれたひつぎ上に描かれた文。文書形態はさまざまで、賛歌、祈祷文句、供物表、来世に関する記述、および使者の変身や昇天を助けるための呪文などから成る。ピラミッド・テキストから受け継がれたものもあれば、新たに作りだされたものもある。コフィン・テキストの出現や使用は、古王国時代末期以降に来世信仰が広く行き渡ったことを反映している。その信仰の主な要素は、太陽神との来世への旅と、オシリス神の面前で祝福されることの2点である。いくつかの文言は後に「死者の書」に組み込まれた。


[死者の書]

 古代エジプトでは、死者は男女を問わず「日の下に出現するための呪文」と呼ばれる葬祭文書を添えて埋葬されていた。一般に「死者の書」という呼称で知られているものである。そこには、冥界へ下る魂に死後の世界およびそこで受ける裁きについて、死者の裁判官、ウンネフェル(永遠に朽ちないという意)なるオシリス神に会った時に語るべきことなどが記されていた。「死者の書」の内容は、それぞれの死者の名前や個人的詳細は異なるが、基本部分はどれも共通している。あらかじめ用意された文書で、空欄箇所に後からそれぞれの名前だけを書きこんだ「死者の書」写本も数点発見されている。


その他、古代エジプトの特徴として次のような点を挙げることができる。

・医学に関しては、エジプトはメソポタミアより進んでいたようだ。例えば、今日の薬物学を支える植物や薬の知識は、エジプト人が最初に発見し、ギリシャ人を通して中世ヨーロッパに伝えられたものが大半である。

・エジプトのテーベで出土したBC1550年ごろの「リンド・パピルス」と呼ばれる数学の問題集がある。それによるとエジプトの代数学は1次方程式までのレベルだったことがわかる。また幾何学では、円や三角形の面積の求め方などが書かれている。ギリシャ人はエジプト人から幾何学を学んだとされている。当時、人びとの憧れであった役人や書記になるには、読み書きと計算ができなければならなかった。宮殿や神殿の大規模な建設や運営をするためには、材料の量の計算とその運搬方法、労働者の数とその管理、彼らの食事の量と賄いなどの問題を解決する必要があったからだ。

・メソポタミアとは対照的に、エジプトでは長い間ほとんど都市が発達しなかったため、住民の大半は農民だった。古代のエジプトは、テーベやメンフィスのように宗教と行政の中心地がいくつかある他は、村と市場以外に何もない国だった。 

・エジプトにも奴隷制は存在していたが、西アジアの他の地域ほど重要な役割は果たしていなかったようだ。


 末期王朝時代の初めのペルシャ人による征服(第27王朝:BC535年~BC324年)まで、第3中間期(BC1069年~BC656年)の期間が長かったことは、エジプトの古代遺産伝達に十分な効果を発揮した。メソポタミアの場合はそれが逆で、アッシリアもバビロニアも権力の絶頂期に突如として崩壊してしまった。前者はメディアに敗北し、後者はペルシャに敗れたのである。ところが、エジプトでは新王国時代の黄金期の頂点から、第3中間期とサイス朝合わせて500年間をかけてゆっくりと衰弱していったので、異国の征服者たちもいつの間にかエジプトの諸制度を取り入れていったということが度々あった。今日でも、ナイル渓谷に住むアラブ系農民は古代エジプトの日常生活に似た生活をしているし、教育を受けたエジプト人たちは、自分は古代の書記や貴族あるいはファラオの末裔なのだと思っている。


 数々の壮大な建造物や数千年にもおよぶ歴史を持つエジプト文明は真の意味でその創造力の結実をみなかった。途方もない数の労働力が集められ、今日の規準から見ても極めて有能な役人たちが指揮を取り、その結果完成したのは世界最大の墓だった。優れた職人たちの手で数々の工芸品が創り出されたものの、それらが納められたのもまた墓の中だった。優秀なエリートたちが複雑な文字を操り、大発明であるパピルス紙に大量の文書を記録したが、ついに彼らはギリシャ人やユダヤ人に匹敵するような哲学や宗教思想を生みだすことはなかった。

 もっとも、これだけ長く続いた文明は他になく、その点ではまさに驚異的といえる。しかし、よくわからないのは、なぜ彼らの進歩が早い段階で止まってしまったのかという点なのだ。エジプトは結局、軍事面でも経済面でも後世にほとんど影響を与えていない。またエジプトの文化が国境を越え、外の世界に根づくこともなかった。エジプト文明が長期間存続した原因は、おそらくその自然環境にあったと考えられる。エジプト人が暮らすナイル川両岸の外側には広大な砂漠が広がっていた。同じくらい外界から遮断された環境にあれば、どんな古代文明でもエジプト文明に匹敵する期間存続することができたかもしれない。

 確かに先史時代と比べれば、古代エジプトの歴史は非常に速いペースで進んだ。しかし、第1王朝のナルメル王の時代から第18王朝のトトメス3世の時代までの約1500年間にエジプト人の日常生活がほとんど変化しなかったのは、やはり停滞といってもよいと思う。古代社会において大きな変化が起こるのは、大規模な自然災害が起こったときか、外敵に侵入されたり征服されたりしたときだけだった。ところがナイル川は常に安定した「恵みの川」であり続け、さらにエジプトは長期にわたって西アジアの紛争地域の外側に位置し、ほんの時折侵入者に対峙するだけでよかった。現在とは違い技術も経済もごくゆっくりとしか変化を起こさなかった時代において、伝統を継承することが何より重んじられた社会では、知的な刺激によって変化が起こることはほとんどなかった。

 古代エジプト人にとってナイル川の両岸こそが全世界だった。その存在があまりにも大きかったため、この川の持つ特異性に古代エジプト人は気づかなかったのかもしれない。「肥沃な三日月地帯」が絶えず戦乱の舞台だった西アジアとは対照的に、エジプトではナイル川に支えられて数千年も文明が続き、人びとはナイル川がもたらしてくれる恵みに感謝しながら伝統的な暮らしを続けた。このような暮らしの中でエジプト人が生きる目的と考えたのが、死後の世界への準備をすることだったのかもしれない。

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