第105話 フェニキア(ペルシャによる支配時代とその後)

<年表>

BC539年

 ペルシャのキュロス2世(大王)がバビロンを征圧したため、フェニキアはその広大な帝国の支配下に入る。

BC525年

 ペルシャのカンビュセス2世がエジプトへ侵攻したとき、テュロスは自らカンビュセスに艦隊の派遣を申し出た。

BC490年(第1次ペルシャ戦争)

 ギリシャ人の都市ミレトスがペルシャの手で潰されるということは、フェニキアにとっては有益なことだった。ダレイオス1世による第1次ペルシャ戦争のとき、フェニキアはその希望と期待を抱いてペルシャを応援している。

BC480年(第2次ペルシャ戦争)

 ペルシャのクセルクセスがギリシャを攻めたとき、シドンの司令官テタムネストロスはフェニキアの海軍将校の中で最高位に就いており、ペルシャ王の軍事会議でも上席にあった

BC449年

 ギリシャとペルシャとの間で「カリアスの和約」が成立。その約定で、ペルシャの軍艦はエーゲ海と小アジアの西海岸に立ち入ることを禁じられ、一方、ギリシャ海軍はもはやキプロス島周辺の海と地中海東岸には近づけなくなった。それから約40年間、キプロス島はペルシャの支配下にあった。

BC350年

 ナイルデルタでペルシャが敗北したことが引き金になり、シドンはアルワドとテュロスの協力を得て、さらにエジプトと同盟を結び反乱を起した。

BC332年

 アレクサンドロス3世(大王)がテュロスを占領。テュロスは大王に激しく抵抗した唯一のフェニキア都市だった。

BC264年~BC241年(第1次ポエニ戦争)

 シチリアをめぐりテュロスの植民都市カルタゴとローマが争う。

BC218年~BC201年(第2次ポエニ戦争)

 第2次ポエニ戦争は、カルタゴの将軍ハンニバルの活躍によって後世に語り継がれる戦いとなったが、最後はローマが勝利した。

BC149年~BC146年(第3次ポエニ戦争)

 BC146年、ローマ軍がカルタゴに火を放ち、第3次ポエニ戦争が終結。フェニキア最後の主要植民都市が制圧された。

BC64年

 フェニキアはローマの手に落ちる。その後600年以上の長きにわたってローマ帝国に支配され、フェニキア人はその民族的な特徴の多くを失っていった。


 ***


(アケメネス朝ペルシャ統治下のフェニキア人)


 BC539年10月、新バビロニア(BC612年~BC539年)のバビロンとシッパルがキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)率いるアケメネス朝ペルシャ軍に征服された。この新しい帝国の初期にフェニキアの都市がどういう状況にあったかについては何も記録がないが、多分バビロンを占拠したキュロスに自発的に服従し、貢ぎ物をした「北の海(地中海)の宮殿に住まう王たち」に含まれていたのだろう。ペルシャに併合された時期についても意見が分かれており、キュロス2世の治世が始まったBC539年とも、あるいは次のカンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)がエジプト遠征に出かける前あたりともいわれる。BC525年のカンビュセスの勝利の結果、エジプトはペルシャ帝国の一部に編入された。このペルシャ人ファラオの状況はエジプト第27王朝(BC525年~BC404年)として1世紀以上続いた。アケメネス朝ペルシャ支配時代、フェニキアは最初から非常に恵まれた立場にあったようだ。ペルシャにとっては海が戦略上重要だったことと、西方への帝国拡大という狙いがあったからだ。実際、アケメネス朝時代のほとんどを通じてフェニキアは地中海におけるペルシャの軍事行動の第1の戦力だった。このような軍事上の役割は、ペルシャの西方進出のごく初期のころ、すなわちBC525年にカンビュセスがエジプトへ侵攻したときからはっきりしている。ヘロドトスの記録では、テュロスから派遣されたフェニキア艦隊の支援がナイルデルタの陸上攻撃に決定的な役割を果たしており、ペルシャにとってはこの成功がエジプトの首都メンフィス奪取の足場になっている。テュロスは自らカンビュセスに艦隊の派遣を申し出たとヘロドトスは記している。これはペルシャから厚い信頼を得る賢い行動だった。BC6世紀からBC5世紀を通して、フェニキア人は一貫してそういう戦略を取っており、実際ペルシャ海軍への協力の実績がそれを証明している。その点では、フェニキアのすぐ北に位置するアナトリア南部のキリキアも同様で、キリキアもそのゆるぎない忠誠心のためにキュロス大王により報いられている。こういう熱心な協力の見返りは本当に大きい。フェニキア人の都市がアケメネス朝時代のごく初期から、属国ではなくほぼ同盟国として寛大な扱いを受けていたという状況証拠がある。ヘロドトスによれば、カンビュセスはエジプト遠征に成功した後、カルタゴの攻撃を計画する。しかし、カルタゴへ艦隊を差し向けるよう命令されたテュロスは、それを拒絶した。テュロスの植民地カルタゴの母都市として、お互いを尊重して助け合うという約束を破ることはできないというのがその理由だった。この1件には、フェニキアの政治的影響力と独立性がどれほど強かったかがうかがえる。テュロスの返事を聞いたカンビュセスは、命令を押しつけるどころかその願いを受け入れ、ついには侵攻計画そのものまで反故ほごにしてしまうのだ。

 フェニキア本土の4大都市、テュロス、シドン、ビブロス、アルワドと同様に、フェニキア人が建設したキティオンをはじめとするキプロス島の都市国家もそれぞれの君主による自治を許されていた。ペルシャに対するフェニキア人の租税や貢ぎ物の義務については具体的な情報が何もないが、おそらく彼らの艦隊をペルシャが自由に使えるようにしておくといった軍事協力を惜しまなかったことから、金銭的に重い税をかけられることはなかったと思われる。


 フェニキアの諸都市は初めの頃、メソポタミアからシリア・パレスティナ全体を含んだ広大なアツラ(アッシリア)と呼ばれる行政区に入っていた。BC5世紀初めのダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)のときに帝国の行政区が再編され、この途方もない広大な区域は分割されてアバルナハラ(川の向う)と呼ばれる州ができ、ユーフラテス川から西のレヴァント本土全体とキプロスはそこに含められている。アケメネス朝の行政組織の中で、フェニキアは明らかにその特権的な地位を有効に活用した。ペルシャ帝国の権力と効率的な交通網のおかげで、メソポタミアやペルシャ中心部との内陸交易は今や思いのままであったし、より重要なのは、ペルシャの政治的支配力によってエジプトおよび地中海との海上交易が自由になったことである。

 ペルシャによるエジプトや西方のギリシャとの戦争をフェニキアが熱心に応援したのは、まさにこういう商売上の目的があったからだった。フェニキアはその200年前の7世紀から地中海でギリシャ商人と次第に競い合うようになっていた。BC6世紀末からBC5世紀の初めには、ギリシャ商人がエジプト、ロードス島、キプロス島といったフェニキアの昔からの市場を脅かしていたし、レヴァント本土の北部にまでギリシャ人商人が割り込んでいた。BC5世紀の初めにはその地方にエーゲ海からの輸入品が激増している。そういう事情であれば、BC499年~BC494年のペルシャ支配下のイオニア地方のギリシャ人・非ギリシャ人従属民による対ペルシャ反乱の最後の年であるBC494年のラデ島の戦いで、ペルシャ連合艦隊の中でフェニキア艦隊が、ヘロドトスによればイオニアのギリシャ人とミレトス市を最も熱狂的に攻撃したというのも驚くにあたらない。当時、小アジア沿岸に位置するギリシャ人の商都ミレトスは、エーゲ海沿岸交易における東ギリシャ海岸の中心地にのし上がっていた。そのミレトスがペルシャの手で潰されるということは、フェニキアにとっては有益なことだった。ダレイオス1世がBC490年(第1次ペルシャ戦争)に、またその10年後(第2次ペルシャ戦争)にクセルクセス(在位:BC485年~BC465年)がギリシャ本土を攻めたときにも、フェニキアは間違いなく同じ希望と期待を抱いてペルシャを応援している。

 ギリシャ人は7世紀後半からエジプトへ深く入り込んでいた。ナイルデルタにあるサイスの第26王朝(BC664年~BC525年)は多くのギリシャ人を傭兵として雇い入れたので、ギリシャとエジプトの交流が深まった。これら兵士としてファラオに仕えたギリシャ人たちの後に商人たちもやってきて、ナイルデルタの西側河口近くのナウクラティスを拠点に、エーゲ海世界とエジプトとの間の商業活動は再び盛んになった。このナウクラティスのギリシャ人植民地はBC525年のペルシャのカンビュセス2世によるエジプト征服まで驚くべき繁栄を示していた。そういうエジプトがペルシャに征服されたのだから、対外交易にも劇的な変化が起きた。レヴァント側は見事に勢力を取り戻している。一方、ギリシャ人の町ナウクラティスはペルシャの支配下に入ると急速に衰えてしまう。こうしてテュロスはペルシャ統治下のエジプト第27王朝(BC525年~BC404年)との取引から大儲けできる立場に返り咲いた。テュロスが勢いを失っていたBC6世紀の初めごろは、エジプト第26王朝のネコ2世(在位:BC610年~BC595年)が新発明の3段櫂船(3段オールのガレー船)で船団を組んで、対外交易を牛耳っていた。ネコ2世自らがフェニキア人の船乗りを雇い、紅海からアフリカを一周する探検の旅に船出させたこともある。ペルシャの統治下に入ったエジプトでフェニキアの交易がいかに栄えたかは、メンフィスにテュロスの商業地があったことからもうかがえる。ヘロドトスは「テュロス人の駐屯地」と呼ばれたその場所を自ら訪ねている。第27王朝の首都となり、海軍工廠もあったメンフィスは、はるか昔からフェニキアのナイルデルタにおける通商センターだった。BC6世紀末ペルシャのダレイオス1世はこのメンフィスの東の後背地に運河を完成させている。ネコ2世が建設に着手したその運河は、スエズ湾の湾口でナイル川と紅海を結んでいた。そのような運河が存在したことはヘロドトスによって昔から知られていたが、その水路沿いにダレイオス1世が建てた赤大理石(みかげ石?)の一連の記念碑が発見されたことによって確認されている。この運河を利用するエジプトの紅海交易から、フェニキア人は仲介人として利益を得ていたのは確かだろう。この時代の地中海と紅海との間の通商にフェニキア人が深く携わっていたことは、アカバ湾口のテル・エル-・ケレイフェで発見されたフェニキア語の碑文にはっきりと証明されている。



(1)シドンの優越


 ペルシャの支配下に入って以来、テュロスは通商関係の再建に努めたが、それでも数十年後のBC5世紀初頭にフェニキア随一の都市国家にのし上がったのはシドンだった。そしてシドンはアケメネス朝ペルシャ時代が終わるまでその座を降りなかった。シドンの政治的優位性は歴然としている。地域の本部が置かれ、アケメネス朝時代を通して総督(太守)の住まいがあり、ペルシャ軍の駐屯地も、パラディソスと呼ばれたペルシャ王の御苑ぎょえんもあった。アケメネス朝のヒエラルキーにおいてシドンの地位が高かったことはその都市の硬貨にも表れている。フェニキアの都市の中で硬貨にペルシャ王の姿を刻んでいるのはシドンだけで、これが王より与えられた特権だったのは明らかだ。堂々たる重い銀貨で金額的な価値だけでなく威信もあったダブルスタテル貨を発行した都市もシドンだけだった。交易においても、ギリシャの歴史家ディオドロスがシドンの豊かさを語り、「平民が海運により莫大な富を蓄えていた」と述べている。エーゲ海という市場は、実際テュロスよりシドンに有利だった。テュロスのかつての植民地は地中海中部から西部に集中していたからだ。シドンは大理石に人の顔を彫刻した石棺の特産地だったが、その石棺は東地中海一帯で広く使用されている。BC4世紀初頭には、ストラトン1世の下でシドンのエーゲ海交易はおそらくピークを迎えていた。ギリシャびいきだったそのシドン王の名前が、デロス島とアテナイの商業地から出土した碑文に刻まれている。驚いたことにアテナイでは、市内に住むシドン商人は免税されるという条例まで出されていた。シドンの硬貨の流通範囲はフェニキアのどの都市よりも広かった。考古学的にもシドンの繁栄は証明されている。市街地が南と東へ拡大され、神殿では大掛かりな改修や増築が行われているし、シドンの王たちの墓の贅沢さもシドンの豊かな時代を物語るのに十分だろう。

 ペルシャ時代にシドンがテュロスを越えた理由については諸説あるが、一つだけはっきりしているのは海軍の優秀さである。ダレイオス1世時代以来、シドンの艦隊はペルシャ海軍に派遣された中で最も評判が高かった。シドンの三段櫂船は最も速く、最も戦いが上手かった。BC480年にペルシャのクセルクセスがギリシャを攻めたとき、シドンの司令官テタムネストロスはフェニキアの海軍将校の中で最高位に就いており、ペルシャ王の軍事会議でも上席にあった。シドンをフェニキア地域の軍事本部にしたのは明らかにその海軍力だった。それに加えて、内陸部へ向かう二つの街道の起点にある海岸都市という地の利が駐屯地としての価値をさらに高めていた。



(2)ペルシャ時代のキプロス島


 ペルシャ時代はキプロス島のフェニキア人にとっても、すでにテュロスから独立していた東南海岸に位置するキティオンを中心に政治的にも文化的にも発展した時代だった。ギリシャ古典期(BC500年~BC322年)のキプロス島について金石学と考古学から明らかなことは、島中にフェニキア人がいたことである。海岸沿いにはもちろんのこと、ゴルゴイ、タマッソス、イダリオンといった豊かな銅の鉱床があるトゥロードス山脈沿いの奥地にも大勢のフェニキア人が住んでいた。キプロス島はペルシャ時代にもそれまでと同様、地中海西部を相手とするレヴァント沿岸交易の重要な中継地だった。また銅の資源があることからも、キプロス島は本土のフェニキア人にとってはなくてはならない場所であり、したがって、是非ともペルシャの支配下に置いておきたかった島だった。しかし、キプロス島のほとんどの都市国家の忠誠心は西のエーゲ海に向いていた。したがって、アケメネス朝時代はギリシャとペルシャの間でずっと政治的綱引きの中心点になっていた。衝突が起きたのはBC499年~BC494年のペルシャに対する小アジアのイオニアの反乱に、アマトゥスを除いて島中の都市が加勢したのである。ペルシャの対応は素早かった。フェニキア本土の艦隊に応援を頼み、暴動の中心となったキプロス北部のサラミスへ進攻する。上陸してキプロス・イオニア連合軍を破り、反乱に加わった都市を包囲・陥落させるのに1年とかからなかった。南部海岸にあるアマトゥスだけは反乱に加わらなかったが、そこはレヴァントやエジプトとの交易の主要な通過点だったため、アケメネス朝の東地中海通商網に残らなければ既得の利益を失ったからである。ペルシャ戦争に続いて、アテナイの将軍キモンが、アテナイ帝国の軍事同盟であるデロス同盟の要請で3度にわたりキプロス島の支配権奪還を試みたが成功しなかった。しかし、BC450年のキティオン包囲が不成功に終わると、アルタクセルクセス1世(在位:BC465年~BC425年)のペルシャとギリシャの間に緊張緩和が訪れ、BC449年にはギリシャとペルシャとの間で「カリアスの和約」に到っている。その約定で、アナトリア南部海岸に位置するパセリス(ファセリス)を南北の境として、東地中海がギリシャとペルシャの軍事海域に分割された。すなわち、ペルシャの軍艦はエーゲ海と小アジアの西海岸に立ち入ることを禁じられ、一方、ギリシャ海軍はもはやキプロス島周辺の海と地中海東岸には近づけなくなった。それから約40年間、キプロス島はペルシャの支配下にあった。しかし、BC412年には別の反乱がまたもやサラミスで起きて、この体制は破られている。

 フェニキア人のキティオンは「カリアスの和約」以降、政治的・経済的勢力基盤を著しく発展させた。北のサラミスにさえ支配力を振るうようになり、サラミスは一時キティオンの統治下に入っている。キティオンはすでに内陸のイダリオンをBC450年ごろに併合していたが、さらに北と西に領地を広げて、北のゴルゴイ、BC350年ごろには奥地のタマッソスも支配下に収めている。キティオンが内陸部に向かって勢力拡大を図った目的はただ一つ、銅を手に入れたかったからだ。キプロス島の銅の採掘は青銅器時代後期から行われていた。ペルシャが宗主国だった間、取引される銅の大半は東方のペルシャ本土へ出荷されていたに違いない。フェニキア本土の都市の中でも特にテュロスは重要な役割を果たしていたと考えられている。最近行われたキティオンの発掘では大規模な造船所の一部が発見され、BC5世紀末からBC4世紀初めに建設されたと見られている。新たに造られた港湾設備や、それと隣接する聖域は大掛かりな都市再開発の一環をなすもので、当時のキティオンの繁栄ぶりが偲ばれる。



(3)斜陽のペルシャ帝国とフェニキアの終焉


 BC5世紀末期になると、アケメネス朝にも内紛と行政弱体化の時代が訪れる。それがとりわけ目立ったのが帝国の西側だった。小アジア西部の州、リュディアとカリアで起きた反乱はどちらもアテナイの支援を受けていた。アテナイを倒し、繁栄する小アジアのギリシャ人都市から確実に税を取り立てたかったダレイオス2世(在位:BC424年~BC405年)はBC412年、アテナイとの長引く戦争、いわゆる第2次ぺロポネソス戦争に手を焼いていたスパルタと同盟を結び、フェニキア艦隊を応援に差し向けることを約束している。フェニキア艦隊はペルシャ海軍の中で依然として最も大きく信頼もあった。そのころペルシャは別の痛手も受けた。エジプトを失ったのだ。BC405年ごろナイルデルタで反乱が起き、ダレイオス2世がBC405年に没すると反乱が成功し、その翌年エジプトはペルシャから独立した。こうして100年以上続いたペルシャのエジプト支配、第27王朝(BC525年~BC404年)は終わりを迎えた。次のアルタクセルクセス2世(在位:BC405年~BC359年)が繰り返し奪還を試みたにもかかわらず、ペルシャはこのかけがえのない地域を取り戻せないままペルシャは衰退期を迎えてしまう。再び取り戻したのはBC343年だったが、BC332年にはマケドニアのアレクサンドロス3世(大王)に奪われてしまった。このようにペルシャが西方への支配力を失っていき、エジプトや小アジア西部、それにギリシャ本土が独立性を高めていくという兆しは、商業第一のフェニキア本土の都市国家にとっては明らかに一大事だった。ペルシャが東地中海をしっかり統治していたBC5世紀の間はフェニキアのペルシャに対する忠誠心もしっかりしていた。しかし、アケメネス朝の統制力のほころびとともに、フェニキアの商業的・政治的優先順位も変わり始める。ペルシャに取って代わったのは地中海西部だった。

 キプロス島でも政情は安定しなかった。キプロスではBC411年にフェニキア人の王アブデモンが退けられて以来、ギリシャ人のサラミス僭主エヴァゴラス(在位:BC411年~BC374年)によってギリシャ系キプロス人による独立的支配の基礎が敷かれていた。ペルシャの手からキプロスを奪い取ろうとするエヴァゴラスの野望が表明化するのがBC389年で、アテナイ、そしてエジプトと同盟を結んでいる。この反ペルシャ同盟にテュロスとパレスティナ南部のアラビア人連合が加わった。しかし、フェニキア本土の他の都市はペルシャ側に残ったようだ。反乱に加担するというテュロス独自の判断は、エジプトやキプロスとの長きにわたる商業的きずなのためかもしれない。BC390年代からエヴァゴラスの進出に抵抗していたキプロス島のフェニキア系、キティオンとアマトゥスに急き立てられてBC381年、ペルシャはキプロス・エジプト・テュロスの連合艦隊をキティオン沖の海戦で討ち取っている。こうして要衝の島キプロスは再びペルシャの手に落ちた。

 それでも地中海への勢力強化というアケメネス朝の試みは概ね失敗に終わる。BC373年、ペルシャは再びエジプトを征服するためにフェニキア、キプロス、キリキアからの大艦隊を引き連れてエジプト遠征を開始する。だが150年前のカンビュセスのペルシャのときとは勝手が違った。ペルシャの進軍はナイルデルタの入口でエジプト人に妨害され、ナイル川の氾濫にも見舞われて、多大な損失を被り撤退を余儀なくされた。このエジプト奪還の失敗が、小アジア西部の州の反乱に火をつけた。BC360年代半ばにはアナトリアのほぼ全域がエジプトとギリシャ人から軍事的・財政的支援を受けて、ダスキュレイオンの太守アリオバルザネスに率いられ、アルタクセルクセス2世のペルシャに反旗を翻している。このBC363年~BC361年の「太守の反乱」にはフェニキアのシドンも加わっていたようだ。シドンはこの反乱がBC361年に鎮圧された後、ペルシャ軍に占領され、キリキアとシリアを管轄するペルシャの太守の管理下に置かれたが、BC357年あるいはBC356年には自治が戻り、再び王家が設けられた。新しい君主テンネスは、アケメネス朝が自ら選んでいるから、ペルシャに親和的であったであろう。それでもシドンは6年後には、テンネスの下で都市を挙げての反乱を起こす。ペルシャ軍の駐屯地であり、地域本部でもあったシドンは、アケメネス朝のエジプト再征服のための最前線基地だった。ペルシャとシドンの協力関係がはっきり限界に達したのがBC351年で、エジプトへの侵攻に備え、税や物資を取り立てる傲慢な態度のペルシャの大軍が駐留したときだった。BC350年にナイルデルタでペルシャが敗北したことが引き金になり、シドンはアルワドとテュロスの協力を得て、さらにエジプト王ネクタネボ2世(在位:BC360年~BC343年)と同盟を結び、反乱を起した。ペルシャのアルタクセルクセス3世(在位:BC359年~BC338年)は大軍を率いてバビロンからエジプトへ向かって決戦に出てきた。この時のペルシャ軍は兵士30万人、軍艦と貨物船合わせて800隻と伝えられる。シドンは最初の標的になった。テンネスは迫りくるペルシャ軍の規模に狼狽して、シドンとその住民を裏切った。エジプトから派遣されたギリシャ人傭兵隊の指揮官と密かに打ち合わせて、自分の命と解放とを保証してもらう引き換えに、シドンをアルタクセルクセス3世に引き渡したのだ。この背信はフェニキアの歴史上空前の悲劇をもたらした。シドンの指導的な市民600人が待ち伏せに遭い、市の門の外で皆殺しにされた。その後、ペルシャの兵士が押し寄せ、市壁の内側でも虐殺と破壊が続いた。シドン市民の多くがペルシャに降伏せず、家に立てこもって自ら命を絶つことを選んだと、後のギリシャの歴史家ディオドロスは書いている。結局、シドンの4万人を越える男女や子供、そして家の奴隷が死んだ。アルタクセルクセスは容赦なかった。シドン人の持ち物はすべて持ち去られ、売り飛ばされた。生き残った市民はペルシャへ送られ奴隷になった。BC345年10月にシドン人の捕虜たちがバビロンとスーサに到着したとの文書が残っている。シドンの崩壊によりこの大反乱は終結した。こうしてBC345年かその翌年には、フェニキア全土とキプロス島がまたペルシャの手の内に収まっている。アルタクセルクセスに命を請け合ってもらったにもかかわらず、テンネスはたちどころに処刑され、シドンはペルシャのキリキア太守の管理下に置かれることになった。

 シドンは大きな被害を受けたが、アルタクセルクセス3世がエジプトへ遠征したBC343年にはすでにペルシャ艦隊の発進地として機能していたはずだ。シドンの商業的価値もペルシャは決してないがしろにはできなかった。それでもシドンの被ったトラウマは容易に消えなかった。BC333年にアレクサンドロス3世(大王)とその軍隊がアルワドとビブロスを降伏させ、フェニキアとキプロスの艦隊をペルシャからマケドニアに寝返らせてフェニキア海岸を意気揚々と行進してくると、シドン市民は諸手を挙げて歓迎した。10年前にアルタクセルクセス3世に味わわされた苦しみが記憶に鮮明だったからである。

 そのときテュロスは全く異なる運命をたどっている。旺盛な独立精神と難攻不落の砦だという自信から島と市民はアレクサンドロス3世の侵攻に徹底的に抵抗した。アレクサンドロス3世が攻略のために建設した堤は今も残っており、島と本土を地続きにした人工の半島の一部となっている。堅固な要塞に立てこもり、テュロスは圧倒的多数の包囲軍と最後まで勇敢に戦った。そして7ヶ月後の332年7月、ついに城壁が突破された。すでにカルタゴやシドンへ避難していた市民も多かったが、生き残っていた6000人が処刑され、3万人が奴隷として売られた。テュロスの商業はほどなく復活しただろうし、ギリシャ人の君主たちの下で自治も取り戻せただろう。しかし、東方のペルシャ帝国の支配下にあったときのような地位と誇りは決して戻らなかったに違いない。テュロスは少しずつ普通のギリシャの都市のようになっていった。東方の風習も少しずつギリシャ風に変わっていった。アレクサンドロス3世による征服とともに西アジアの国としてのテュロスとフェニキアは事実上終焉のときを迎えたのである。



(ペルシャ時代のフェニキア)


 フェニキア人の都市にとってアケメネス朝ペルシャ時代はおおよそ経済成長と都市の発展に沸いた繁栄の時代だった。シドン、ビブロス、ベイルートでは最初に集落ができた丘のずっと外側まで市街地が広がったことが考古学的に示されている。ペルシャ時代のテュロス、シドン、アルワドの繁栄は、北のトリポリスの活況にもうかがえる。この3つの大都市が共同で建設したトリポリス(現在のトリポリ)は、当時その3市の政治的拠点だった。その意義から言うと連邦の首都であった。各都市が自治を主張していた過去の時代を考えると異例だった。地中海には2つの新しい競争相手であるギリシャとカルタゴが出現し、さらに小さな都市国家ではペルシャのような大国に対し、必要なだけの政治的な重みを持てないからだったと推測する。アッコ、テュロス、シドン、キプロスのキティオンで港湾施設が拡大されていることも、これらの海上交易の中心地で商業と経済が急速に発展したことを物語っている。フェニキア人都市の領土拡大に伴い、また人口の増加から、その文化的・経済的影響力もレヴァント全域へ拡がった。イスラエル北部からガリラヤ西部のカルメル海岸全域がシドンとテュロスの支配下にあって栄えていた。さらにその南のフィリスティアの大きな港町アシュケロンがテュロスの支配下にあったとされる。ペルシャ時代のフェニキア人の人口増加と領土拡大は近隣内陸部の自然資源による著しい経済発展と連動していたことが明らかになっている。こうした地方の鉱物や農作物の活用が地元だけでなく、より大きな地域、おそらく国際的な需要にも応えていたのである。フェニキアの大都市の中でアルワドほどペルシャという後ろ盾から恩恵を受けたところはないだろう。この時代には広大な領土を持ち、そのあちこちに従属的な町があった。フェニキア南部でも都市が再開発された。イスラエル北部海岸の多くの商都が格子状の街路計画を取り入れた市街地拡大に乗り出している。西方のポエニ世界、つまりカルタゴとその植民地では、BC5世紀の宅地開発にこうした中央統制的な街路計画が見られることが最近の発掘で明らかになっている。


<フェニキアの都市>

 交易所であれ、産業の町であれ、都市であれ、フェニキア人の住むところは本国か植民地かを問わず、ほとんどすべてに共通点がある。彼らの町や都市はほぼ例外なく小ぢんまりしているし、立地場所も決まっている。船着き場になる海岸や川岸が近くにあって、しかも防御体制が取り易いところ、つまり沖の小島、半島、海に突き出した岬などが好まれた。交易都市はほとんどが風や波を避けられる良港、すなわち天然の湾やラグーン(潟)、河口の入江などのそばにある。飲料水はほとんどの場合、近隣の河川や泉などの水源から確保されたが、場合によっては井戸を掘ったり、漆喰塗りの貯蔵タンクが作られた。死者は市璧の外、例えば川の対岸。海岸線、近隣の山の尾根、山麓の丘陵地といった場所の共同墓地、すなわちネクロポリスに葬られた。フェニキア本土の都市の大半は狭いけれど肥沃な海岸平野に並んでいた。国外の植民地は資源、特に鉱物や鉱石などの原料物資が豊かな後背地を抱えた場所にあった。


<フェニキアの軍隊>

 フェニキア都市が保有した陸軍の規模や構成についてはよくわかっていない。陸軍には主力の軽装歩兵隊の他、二輪戦車隊と射手隊があったようだ。BC7世紀以降のフェニキア人墓地で鉄の武器、槍先、短剣、槍などが見つかっていることから、平時の軍隊は徴兵か志願兵かにより構成されていたことがうかがえる。フェニキアの軍隊といえば何と言っても海軍である。フェニキアの軍船はその速さと俊敏さで古代世界に勇名をとどろかせていた。フェニキア艦隊の強さは戦闘用ガレー船にあった。BC10世紀ごろの標準的な軍船はオール台が一平面に30台か50台並んだ一段櫂船で、それぞれ30人か50人の漕ぎ手が乗り込んだ。BC8世紀にはオール台が上下二段にジグザグに重なった二段櫂船が造られた。これを発明したのはフェニキア人だといわれているが、一段式に比べ格段に進歩している。船体が小さく衝撃に強いのだ。全長38メートルぐらいあった一段式と比較すると、およそ半分の20メートルぐらいになっている。BC7世紀とBC6世紀にフェニキア海軍を世に知らしめたのはこの二段櫂船である。他の戦闘用ガレー船と同様に舷側の胴板が船首では喫水線の高さで衝角しょうかくとなって突出しており、その鋭い先端は青銅で覆われていた。敵船に激突すれば相当な破壊力を示しただろう。この二段櫂船の跡を継いだ海戦の花形が6世紀後葉からの三段櫂船である。これによってフェニキア艦隊はペルシャ海軍の大黒柱になった。二段櫂船と同様に衝角があり、船体中央の可倒式マストに四角い帆を張って全力疾走すれば9ノット近かった。同時代のギリシャの三段櫂船と比べてフェニキアのものはデッキが高く、円錐状の衝角がより長く突出しており、船首に像も付いている。漕ぎ手の数はおそらくギリシャのものと同じで、上段には27人、中段と下段には25人が左右それぞれの側に配置された。船体外側に張り出しはなく、漕ぎ手は全員が船内から漕いだ。


<フェニキアの貨幣>

 フェニキア人は硬貨の鋳造に手を付けるのが遅かった。BC450年ごろなので、小アジア西部に硬貨が出回り始めてから150年以上も後になる。出遅れの理由は、原料物資や金属の交換レートが昔から明確に決まっている社会では必要性を感じなかったからと思われる。そのような状況にもかかわらず、BC455年ごろからBC435年ごろまでに4大都市国家のすべてが相次いで硬貨を採用している。ビブロスとテュロスが先行し、シドンとアルワドがそれに続いた。その動機は、財政的な価値とは別に、硬貨は政治的な表現の道具として役立ったからだ。都市国家は自分たちの自治を表現し、都市の威信を高めるために硬貨を鋳造したのである。フェニキアの硬貨は、最初はおそらく正確に計量された地金として流通したと思われる。しかしBC4世紀が始まるまでには、商取引で使われるのに十分な量の硬貨が発行されていたようだ。硬貨には銀貨と青銅貨があった。4つの都市の硬貨はかなり異なる流通パターンを示している。テュロスとシドンの硬貨はフェニキアの外にまで大量に出て行ったのに対して、アルワドの硬貨はかなり限定的な地域的な流通に留まった。一方、ビブロスの硬貨はほとんど自分の都市内部でしか使われていない。


<言語と文字>

 フェニキア語の属する北西セム語群はカナン語とアラム語に分けられ、フェニキア語はカナン語に分類される。ヘブライ語やトランスヨルダン地方の諸言語もカナン語に入る。またフェニキア語は言語学的にはBC10世紀~BC7世紀までがアルカイック(最初)期、BC6世紀~BC1世紀までがクラシック(古典)期とされる。フェニキアの最盛期にはフェニキア語は、南はイスラエル北部のドル辺りから、北は北シリアのウガリトに到るレヴァント海岸一帯で使われた。さらに交易と文化の交流を通じてエジプト、アナトリア南部、さらにエーゲ海域へも伝わった。海外発展の時代になると、植民地を通じてキプロス島や、地中海西部の北アフリカ、マルタ島、シチリア島、サルディニア島、それにイベリア半島南部へも拡がって行った。ポエニ語と呼ばれるのはフェニキア語のカルタゴ方言である。文字の筆記方法はアラム語などと異なり、フェニキア語は子音字だけで綴るシステムで母音を表す文字がなかった。フェニキア語で文学を記したものはほぼ完全に失われている。古典期の著述家はフェニキア語やポエニ語でいろいろな文章が書かれていたことをほのめかしているが、原典の形ではそのような作品どころかその断片すら残っていない。それは彼らが、粘土板ではなく、木材や象牙、パピルス、羊皮紙などに書いたため、レヴァント海岸の湿り気の多い環境ではこうした素材はほとんど残らなかったのだ。さらに戦争による徹底的な破壊もあった。特にひどかったのはローマによるカルタゴの破壊である。そこには大きな図書館があったが、跡形もない。アルファベット文字の発展に大きな貢献をしたにもかかわらず、結局、現存するフェニキア語の文書は残念ながら、ほとんどが石碑や像や石棺に刻まれた記念や祈願や弔いのための奉納文のたぐいということになる。


<フェニキア本土の宗教>

 フェニキア人の宗教はBC2500年ごろにその都市が開かれたときまで遡れるという。長い歴史の間にはフェニキア人の宗教生活にも当然ながら大きな変化が起きた。しかし、青銅器時代後期から鉄器時代初期への移行期(BC1500年~BC1200年ごろ)も含め、全体的に唐突なあるいは劇的な変化はなかったと思われる。鉄器時代の神々は、男性と女性の最高神、すなわち主人と女主人による都市の2神支配であったようだ。フェニキアの3大都市のすべてにこの神のカップル化がみられる。テュロスはメルカルトとアシュタルテ、シドンはエシュムンとアシュタルテ、そしてビブロスはバァールとアラトである。また、どのカップルにおいても男性の主神が「死と復活」の観念と結びついている。テュロスのメルカルトは半伝説的なテュロスの王であった。メルカルトという名前は「都市の王」を意味する「ミルク・カルト」が訛ったものである。ギリシャ人はメルカルトをギリシャ神話の英雄ヘラクレスと同一視した。メルカルトは太陽神的性格も持っていたらしい。ある伝承によれば、メルカルトが首を振ると雨が降ったという。アシュタルテは豊穣と愛と戦いを司るフェニキアの女神で、メソポタミアのイシュタル女神にあたる。ギリシャの愛の女神アフロディテやローマのウェヌスの起源はこのメソポタミアのイシュタル女神にあったと思われる。フェニキアの神々にまつわる伝説伝承については残念ながらほとんど知られていない。フェニキア人の1年は農業の周期と結びついた宴と祭りに支配されていた。新年や鍬入れや刈り入れの季節を迎える祝いには動物の生贄いけにえが捧げられた。月日は新月の日から計算され、太陽と月への崇拝がフェニキア人の暦に大きな役割を果たしていた。信者が集まる都市の神殿は職業的神官によって運営されていた。神官長や女性神官長は貴族階級で世襲されていたようだ。エジプトから伝わった神々も民衆の信仰の対象になった。アメン、ベス、バステット、オシリスとイシスとその息子ホルスである。


<美術工芸>

 フェニキアの古い作品はほとんど残っていない。なぜなら、ベイルートを除いて、フェニキアの大きな海岸都市はどれ一つとしてローマ時代の地層の下をきちんと発掘されたことがないからである。また彼らの二大産品である美しい布地と木彫り品は時の経過に耐えられないし、貴金属製品、なかでも銀製品は人と環境によりほとんど消えてしまった。したがって、フェニキア人のアートを定義しようとすれば、彼らの得意先だった遠隔の土地の遺物に大部分を頼らなければならない。主な美術工芸品としては、象牙細工(象牙の飾り棚など)、金属細工(銀メッキの鉢、青銅の鉢、青銅の水差しなど)、石の彫刻(石柱、レリーフ、石棺など)、装身具(金銀細工の胸飾り、指輪など)、印章彫刻、ガラス工芸、テラコッタ(粘土の素焼きの仮面など)、土器、そして織物と染色である。

 フェニキアのガラスは古代世界でもてはやされた。特にシドンはガラスの生産で名高かった。テュロスからアッコに到るフェニキア南部海岸の砂丘の砂がガラス製造に適していた。ガラス産業に革命をもたらした「吹きガラス」のテクニックはBC1世紀の終わりごろ、おそらくこの地域で開発されている。また、フェニキア人は豪勢な布地の生産で古代社会に名を馳せた。ホメロスはBC8世紀の著作で、シドンの女性を有名にしていた色とりどりの織物のことを述べている。色鮮やかな布地で仕立てられた衣類は、アッシリアの記録にあるフェニキアからの貢ぎ物の中でも際立っていた。預言者エゼキエルも、テュロスが商った極上の長い上着と紫色の刺繍を施した衣類のことを語っている。


<フェニキアの最後>

 テュロスが長い包囲の果てにマケドニアに屈したBC332年、フェニキアに対するペルシャの支配も終わりを告げた。翌年にはダレイオス3世がアレクサンドロス3世(大王)に最後の決戦で敗れ、ペルシャ帝国は崩壊する。そのアレクサンドロス大王の支配も長く続かなかった。BC4世紀末からBC3世紀、フェニキアはアレクサンドロス大王の死後、中東に勃興した二つのギリシャ人王朝、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトによる争奪戦の舞台となる。この間、北方のアルワドを除いてフェニキアのほとんどがプトレマイオス朝の統治下に入ったが、BC198年にはセレウコス朝に征服され、その支配はBC2世紀の終わり近くまで続いた。それからしばらくは自治の時代であったが、BC64年にフェニキアはローマの手に落ちる。その後600年以上の長きにわたってローマ帝国に支配され、アラビア人に征服されるのは紀元後7世紀のことである。 

 プトレマイオス朝とセレウコス朝の支配下で、すでにBC5世紀末から進行していたギリシャ化への動きは加速され、多くのフェニキアの都市や聖域が拡大されたり再開発されたりしてギリシャ風になっていった。ヘレニズム時代と次のローマ時代、フェニキアの港町は繁栄の時を迎え、地中海全域で活発な取引が続いていく。しかし、西方の流儀がどんどん採用される一方で、フェニキア人はその民族的な特徴の多くを失っていった。言語もその一つである。都市について言えば、建築物がギリシャの、後にはローマの他の都市のそれと見分けがつかないほどになってしまった。

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