第104話 ダレイオス1世とその後のペルシャ帝国

(1)帝国での反乱とダレイオス1世


 BC522年夏、カンビュセス2世がエジプトで死去する。それは暗殺だったかもしれない。最初に王位に就いたのはメディア人の宗教の流れを汲むマゴス神官団の僧ガウタマであった。ガウタマは王位を簒奪しただけでなく、カンビュセス2世の弟でメディア総督だったバルディア(ヘロドトスによればスメルディス)を僭称した(偽った)。イラン高原中部のパルティア総督だったダレイオスが6人の貴族の支援を取り付けてガウタマの居城に攻撃を仕掛け、簒奪者とその側近たちを殺害した。そしてダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)として王座に就いた。しかし、たちまち帝国全土で反乱が発生して、混乱は属州から属州へと波及していった。属州がペルシャのくびきから逃れようとする混乱の中、バビロン、メディア、アルメニア、スキタイ、そしてペルシャ発祥の地パールサまでが反旗を翻した。ダレイオス1世は容赦なく鎮圧に乗り出し、驚くことにわずか1年余りで平定してしまった。反乱の指導者たちは捕らえられて処刑された。ダレイオス1世はその後反乱の危険に脅かされることはなかった。ダレイオス1世が刻ませたベヒストゥーンの岩壁碑文には次のように刻まれている。


“彼(マゴス神官団の僧ガウタマ)は民に対し「余はキュロスの子でカンビュセスの兄弟バルディアである」と偽り、王位を簒奪した。・・・このマゴス僧ガウタマに反抗して王国を取り戻そうとする者はメディア人にもペルシャ人にも、アケメネス家の者の中にもいなかった。民は僭主を恐れ、僭主は実際のバルディアを知っている者たちをことごとく殺害した”


 ダレイオス1世の治世は流血で始まった。彼は王権を握るために戦わなければならなかった。ダレイオス1世は、「神アフラ・マズダの助けを借りて王位に就いた」と感謝の言葉を残している。アケメネス朝による統治の秩序は取り戻され、ガウタマによって奪われていた土地は戻され、強制移住させられていた民は元の土地に戻された。ペルセポリスで発見された古代ペルシャ語の碑文には、ダレイオス1世が自分と領民はアフラ・マズダ神の庇護を受けていると記されている。アフラ・マズダはゾロアスター教の神である。


“ダレイオス王は宣言した。このペルシャの国はアフラ・マズダから授かったものであり、良き土地、良き馬、良き人に恵まれている。それはアフラ・マズダと自分の意志によるもので、何も恐れる必要はない。アフラ・マズダがすべての神々とともにご加護を与えてくれるように。アフラ・マズダがこの国を敵の軍隊から、飢饉から、偽りから守ってくれるように・・・・自分はアフラ・マズダとすべての神々にそう祈ってやまない”


 とはいえ、ダレイオス1世の治世当初はバビロニア、エラム、メディア、アルメニア、パルティアその他の地方での反乱の鎮圧に追われたことが詳細に記されている。ベヒストゥーンの岩壁碑文のレリーフには、反乱を起こした「9人の王」が後ろ手に縛られてダレイオス1世の前に引き出される様子が一目で分かるように描かれている。碑文は全体のまとめとして、帝国統治にあたり真実・公正・正義の徳がいかに重要であるか、そしてダレイオス1世の後継者たちもそれらを守らなければならないとしている。そして最後に最新の出来事として、BC521年からBC519年にかけて再びエラム人や草原地帯のサカ(スキタイ)人による反乱が勃発したことに触れている。たとえダレイオス1世の自己宣伝の調子が大げさに聞こえるとしても、彼が築いた大王としての名声は確固として今も揺らぐことはない。しかし、ダレイオス1世が後世に残した最大の贈り物はおそらく古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語(バビロニア語)の3言語で刻まれたベヒストゥーンの岩壁碑文であろう。それは19世紀半ばに始まった学者たちの楔型文字の解読作業に大きな貢献をするのである。この碑文を1847年に解読したのは、イギリスのヘンリー・ローリンソンである。


[ベヒストゥーンの岩壁碑文(BC520年ごろ)]

 イラン高原の中央に位置するエクバタナの近く、「王の道」を眼下に見下ろすベヒストゥーン山の高さ60メートルの岩壁を削って滑らかに磨かれた巨大な壁面に、ダレイオス1世は反乱鎮圧の記録を巨大なレリーフと碑文にして残している。この「王の道」は、BC6世紀にアケメネス朝を樹立する前から重要な交易路として栄えていた。ダレイオス1世が自分の功績を誇示する碑文をこの地点の岩壁に刻んだのは容易に理解できる。岩壁のレリーフ(浮き彫り)上部中央には、ダレイオス1世の守護神であるアフラ・マズダ(光明の神)を象徴する有翼日輪が彫られ、その下には神に敬意を表するダレイオス1世とその前に、反乱を起こした王たちが足枷あしかせをはめられ、1列につながれて引き出されている。ダレイオス1世は他の人物より大きく描かれ、反乱者ガウタマの腹を左足で踏みつけている。左手に握っている弓は軍事的な権威の象徴で、背後に控える2人の護衛もやはり弓を持っている。掲げた右手は中央上部に浮かぶ羽根つき円盤の人物への崇拝を現わしている。これはおそらくアケメネス朝の最高神アフラ・マズダと思われ、環で象徴される王権をダレイオスに授けている。レリーフの下にはダレイオス1世の偉業が3つの言語で次のように刻まれている。

“・・・これらが余の行ったことである。余は常にアフラ・マズダの名によって行った。後代になってこの碑文を読む者は誰も余の業績を信じるがよい。それは偽りだなどと思うなかれ・・・余は碑文の真実の証人としてアフラ・マズダを呼ぶことにする。・・・アフラ・マズダの助けにより、余はここに記されていない多くの事業を行った。それらを記さなかったのは、後の時代の者がそれらを読んで大げさな偽りの記述であると考える恐れがあるからである。・・・これらの理由から、アフラ・マズダおよびその他すべての神々から余は支えられた。余は悪を行わず、不正を働かなかった。余も余の家の誰も暴君ではなかった。余は義を持って国を治め、弱者からも強者からも搾取しなかった。余の家を支持するすべての者を余は助け、歯向かう者は滅ぼした”



(2)帝国の強化


 国内を掌握したダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)は、BC518年に国境をインダス川のパンジャブまで押し広げることに成功した。さらにBC513年には黒海の北のスキタイ人を制圧する。ダレイオス1世の時代に帝国は絶頂期を迎え、領土は東から西に向けてリビアからバクトリアまでも擁する前例のない規模にまで拡大した。ダレイオス1世は帝国全土での大規模な土木・建築を実施した。エジプトではナイル川と紅海を結ぶ運河を建設するほか、ファイユームとヒビスにエジプトの神々ための神殿を建設した。イラン中心部ではエクバタナとパサルガダエを拡張して整備し、ペルセポリスでも大規模な建設に着手している。エラムの都市スーサは行政の都に選ばれたことで新しい顔を持つことになり、宮殿が新しく建造された。スーサ発信の重要な碑文には、ダレイオス1世が全国から労働者を動員して、宮殿を建設・装飾させたことが記録されており、国際的な大事業だったことがわかる。

 アケメネス朝の歴史的建造物はバビロニアやエジプトなどの様式を彷彿とさせる一方で、アケメネス朝ならではの特徴がある。アケメネス朝の宮殿はどれも決まった配置で建てられている。中央には、方形のアパダーナと呼ばれる謁見のための建物があり、華麗に装飾された柱頭を持つ石柱の列に支えられている。アパダーナへの入口はレリーフが施された階段になっていた。公共の建物の後ろには、王とその家族の居住区があり、大きな扉でつながっていた。建物の壁全体は色とりどりの彩釉さいゆうレンガで覆われていた。王たちの墓地は住居からさほど離れていない所に設けられている。墓には、パサルガダエにあるキュロス大王の墓のように、簡素だがまさに墓らしい構造と、ナクシュ・イ・ロスタムにあるダレイオス1世とアルタクセルクセス1世の墓のように断崖の岩を刳り抜いて彫刻によるファサードで装飾した構造とがある。


[ペルセポリス宮殿定礎碑文]

 1933年、ペルセポリス宮殿跡を調査していたドイツのエルンスト・ヘルツフェルトは、瓦礫の下から2個のの石製容器を発見した。それら2個の容器は宮殿建設のときに壁の北東と南東の隅に隠されたものだった。その中に納められていた金銀2枚の板には神アフラ・マズダの保護を求めるダレイオス1世の祈りが刻まれていた。それはベヒストゥーンの岩壁碑文やダレイオス1世の墓碑と同じく、古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語(バビロニア語)の3言語で併記されていた。

“ダレイオス大王、王の王、諸国の王、ヒスタスペスの息子、アケメネス家の者。ダレイオスは言う――これはすべて余の帝国である。すなわちサカ(スキタイ)人の地、ソグディアナ(中央アジア)からクシュ(上ヌビア)まで、インドからサルディス(小アジアのリュディアの首都)までのすべての地がそれである。これらすべての領土を、余は神々の中で最も偉大なるアフラ・マズダより授けられた。どうかアフラ・マズダが余と余の家をお守りくださるように”

 しかし、ダレイオス大王の願いも空しく、首都ペルセポリスは、大王の末裔であるダレイオス3世(在位:BC336年~BC330年)の軍隊の絶望的敗走という不名誉とともにギリシャ人によって完全に廃墟と化した。ギリシャ人は東方の都でまるで無意味な大破壊行為を行いながら、それは「文明」の東方への到来であると称した。実際は、1世紀半前にペルシャ人がアテナイのアクロポリスを略奪したことへの仕返しだったのだが、ギリシャ人がどう弁解しようとも、ペルセポリスの破壊が途方もない蛮行であったことは確かだ。炎がペルシャの首都上空高く昇った。王宮の天井は音を立てて崩れ落ち大きな火の粉が飛び散る。BC331年、アレクサンドロス大王の兵士たちは自分たちの破壊行為がもたらす光景に慄きながら略奪行為を続ける。こうしてペルシャ帝国の首都は彼らの前で炎上し瓦解した。

 エラム語はアッカド語(バビロニア語)や古代ペルシャ語と並んでペルシャ帝国の公用語として用いらえたことが、多くの碑文からもわかる。ダレイオス1世の3言語併用碑文は、異なる文化や言語に対するペルシャ的寛容のもう一つの例証として見ることもできるが、他方で、ダレイオス1世は王碑文を記すために「アーリア文字」と呼ばれるペルシャ語アルファベット文字を特別に考案させている。アーリア文字は王碑文として特殊な場合しか使用されなかったため、BC4世紀末ごろには使われなくなった。


 ダレイオス1世の成し遂げた業績はキュロス大王と肩を並べるほどのものだった。彼は帝国の東の境界をインダス川流域まで広げ、西はマケドニアへ侵攻したが、そこで食い止められ、北はキュロスと同じくスキタイ人によって前進を阻まれたとはいえ、インドからギリシャ、エジプトに到る大帝国を築いた。ダレイオス1世のもと、ペルシャ帝国では驚くべき改革が行われた。領土は20の州に分けられ、王子や有力な貴族がサトラップ(太守)に任命されて各州の行政にあたり、各地の分権化が進んだ。長官の仕事ぶりは地方巡察官が調査し、行政組織の管理も王直属の文官が各州との連絡を取って行っていた。またダレイオス1世は古代のエラムの都スーサを行政の中心地とした。

 アッシリア帝国の共通語だったアラム語が公用語として使われたこともあって、帝国の行政業務も問題なく行われていたようだ。しかもアラム語は楔形文字ではなく、フェニキア文字で書かれた。このような高度な官僚制度を支えたのは整備された交通網だった。各州の税の多くは道路の建設に使われ、その整備された道路を利用した駅伝制度によって早い場合には1日に320キロ離れた場所まで伝言を運ぶことができた。

 ダレイオス1世の遺体は巨大都市ペルセポリスにほど近い墓所に埋葬された。この新しい都ペルセポリスは、都市そのものがダレイオス1世の偉大な功績の記念碑といえる。この宮殿は、自称「王の中の王」というアケメネス朝ペルシャ帝国の皇帝に対する賛辞のあかしとして建てられたものであった。宮殿のテラスの南端にある碑文には、こう書かれている。

“余は偉大なる王ダレイオスである。王の中の王である、あらゆる国々の王である、アケメネス朝の王ヒスタスペスの息子である。アフラ・マズダの託宣によって、これらの国々はペルシャの民とともに私の支配下となった。彼らは私の力に恐れおののき、称賛の言葉を口にする。エラム人、メディア人、バンビロニア人、アラビア人、アッシリア人、エジプト人、アルメニア人、カッパドニア人、リュディア人、本土および海のそばに暮らすギリシャ人、さらには海を越えて、サルガティア人、パルティア人、ドランギアナ人、アーリア人、バクトリア人、ソグド人、コラスミア人、サッタギュディア人、アラコシア人、ヒンドゥー人、ガンダーラ人、サカ人、マカ人である。”


 ダレイオス1世は治世の後半にギリシャへの接近を図った。ペルシャに介入してくるアテナイ人を懲らしめたい気持ちは間違いなくあったはずだ。しかしヘロドトスが書いているギリシャとペルシャの間の緊張状態は、ギリシャの頑なな態度にペルシャが反応したことを誇張しただけだろう。いずれにしても、ギリシャに遠征する前にダレイオス1世は世を去り、ギリシャ人を懲らしめる仕事は、息子のクセルクセス1世が引き継ぐことになる。



(3)悩み多き帝国


 王位に就いたクセルクセス1世(在位:BC486年~BC465年)の最初の仕事は、ダレイオス1世が死ぬ前に始まっていたエジプトの反乱を抑えることだった。そこで弟のアケメネスをエジプトのサトラップ(太守)に任命した。サトラップ(太守)は州の長官あるいは総督といえる地位だった。近親者を重要な総督職に就けることはアケメネス朝によく見られる。BC481年、バビロニアで暴動が発生した。このときも近親者の力を借りる。反乱を鎮めたのはクセルクセスの従兄弟のメガビュゾスだった。彼は後にギリシャ遠征時の最高司令官の一人になっている。反乱鎮圧の後、広大な太守領だったバビロニアは2つに分割された。一つは「バビロニア」で、現在のイラクとシリア東部が入り、もう一つは「川の向こう」で、ユーフラテス川の西側のシリアとレヴァント全域である。

 クセルクセス1世の目標の一つはヨーロッパ本土側のギリシャに支配領域を広げることだった。ペルシャはBC480年にアテナイを奪取することに成功するものの、その後サラミスの海戦でギリシャに敗北を喫する。1年後にはアテナイを再征服したが、それからまもなくペルシャ軍のマルドニオス将軍がプラタイアイの戦いで戦死、ペルシャ軍も完敗してしまう。BC479年8月、ミカレでまたしてもペルシャ艦隊は敗れ、ついにギリシャ侵略計画は頓挫した。これらの戦いは、ギリシャとペルシャの関係の転換点となった。つまりペルシャ軍は無敵ではないことが明白となったのだ。その後の数十年間でペルシャはヨーロッパ側の領土の多くを失い、小アジアにあったギリシャの都市も次々と独立を勝ち取っていく。クセルクセス1世がギリシャに軍を進めていたBC480年、バビロニアで2度目の反乱が起きる。クセルクセス1世が早々とギリシャを後にしたのは、そのためだった。素早い対応が奏功し、その後、バビロニアが反抗することはなかった。BC465年8月、クセルクセス1世は宮廷内の反乱で殺害された。詳細は不明だが、その後を息子のアルタクセルクセス1世(在位:BC465年~BC425年)が継いだ。ここからのアケメネス朝後期は、反抗的な地域の鎮圧などがあったものの成熟して安定した国家だった。



(4)その後の帝国


 アルタクセルクセス1世の死後は、それぞれの3人の息子が短期間に次々と王位に就いた。ダレイオス2世(在位:BC424年~BC405年)は末の息子である。ダレイオス2世は抵抗の芽を徹底的に摘み取ったので、その長男アルタクセルクセス2世(在位:BC405年~BC359年)への王位委譲は問題なく行われた。しかし、BC405年にダレイオス2世が死去したとき、その第2子でペロポネソス戦争の末期に重要な役割を演じ、アナトリア西部のリュディアと小フリュギアのサトラップ(太守)だった小キュロスが、アルタクセルクセス2世となった兄に対して反乱を起したのである。小キュロスはアナトリアで多くのギリシャ人を傭兵に採用して軍隊を強化し、バビロンへ向けて進軍した。しかし、彼はBC401年、バビロニアのクナクサでのペルシャ王、タクセルクセス2世の軍との戦いの中で戦死してしまった。この遠征行で生き残ったギリシャ人の「1万人の叙事詩」は、アケメネス朝の大帝国が、この小部隊を長路ギリシャへ退却する途上で止めることすらできなかったという事実は、この帝国の根本的な脆さを暴露し、逆にギリシャ人はペルシャ人に対するギリシャ人の軍事的能力の優位性を確信したのだった。クセノフォンがこの脱出の全容を執筆した「アナバシス」は、その極めて精彩に富んだ叙述によって、後のアレクサンドロスの企てに刺激を与えることとなる。

 時を同じくしてBC405年、ナイルデルタで再び反乱が起き、ダレイオス2世が同年に没すると、その反乱が成功し、BC404年にエジプトはペルシャ帝国から独立した。これがエジプト第28王朝(BC404年~BC399年)である。これはアルタクセルクセス2世にとって深刻な打撃で、それからBC343年までの約60年間、この重要な属州を取り戻すための努力が続けられる。この時代はギリシャでも内乱、ペロポネソス戦争があり、BC404年にはスパルタがペルシャの援助を受け、アテナイに勝利している。その後、BC395年~BC386年にコリントス戦争が始まり、スパルタが四国同盟(アテナイ・テーバイ・アルゴリス・コリントス)を破ったりしたが、最終的な決着がつかず、BC386年にペルシャの仲介で和平条約が締結された。これはギリシャでは「王の平和」と呼ばれている。これによってギリシャ側は、小アジアの都市がペルシャの支配下に入ることを認めざるを得なくなった。

 アルタクセルクセス2世の跡を継いだのは、アルタクセルクセス3世(在位:BC359年~BC338年)である。彼の最大の功績はBC343年にエジプトを再征服したことだ。その前にはシドンの統治者テネスが指揮したフェニキアの反乱を鎮圧している。テネスは処刑され、町の一部が破壊され、住民のなかにはバビロニアに強制移住させられた者もいた。彼はBC338年に毒殺された。その次に王位に就いたのがアルタクセルクセス4世(在位:BC338年~BC336年)で、彼も暗殺され、その治世はわずか2年で終わった。その後をアケメネス王朝傍系の人物がダレイオス3世(在位:BC336年~BC330年)として即位する。ダレイオス3世は勇敢な武将であり、有能な行政者だったが、BC333年のマケドニアのアレクサンドロス3世とのイッソスの戦いと、BC331年のガウガメラの戦いのどちらにも敗北した。ダレイオス3世は兵力建て直しのためにペルシャ帝国の本拠地イラン高原のエクバタナに逃げ、その後さらに西へ逃げたが、BC330年にバクトリアのサトラップ(太守)のベッソスに殺された。


 ダレイオス1世の子孫たちも皆長い治世を享受した。BC5世紀からBC4世紀の大半を通してアケメネス朝は勢力を保持し続け、実際は20州だが、インドからエチオピアに至る127州と聖書に述べられているほどの影響力があった。しかし、すべての王国や帝国がそうであるように内部に崩壊の芽を抱えていた。ペルシャはギリシャに阻まれてその勢力をエーゲ海の西海岸まで拡大することはできなかった。エーゲ海東岸にはギリシャのイオニア植民都市群があり、アケメネス朝に従属はしていたが、統治は難しかったようだ。ギリシャ風の理念や技芸、戦闘技術などがじわじわとペルシャ宮廷内に浸透し始めていた。その優れた点が認識されるようになると、ペルシャ人たちはギリシャの思想家や技術者や兵士を雇うようになるまでたいして時間はかからなかった。王宮で始まったことは地方でもすぐにまねされるようになる。小キュロスと呼ばれたサトラップ(太守)の反乱がそのよい例で、1万人のギリシャ傭兵の援助を得た小キュロスは帝国領の半ばまで進軍し、最後は自分の兄のアルタクセルクセス2世(在位:BC405年~BC359年)に敗れた。このギリシャ兵1万人の退却はよく知られているが、これによってギリシャ人たちはアケメネス朝の解体あるいはもっと悪いことが起きるのももうすぐだと確信したに違いなかった。

 マケドニア王フィリッポスはギリシャのイオニア植民都市を解放する目的を意図して招集することまではできた。そのフィリッポスの死後、息子のアレクサンドロスはペルシャ帝国の心臓部まで突入していった。BC333年のイッソスの戦いは事実上アケメネス朝ペルシャの運命を決した。そして西アジアとエジプトはギリシャ世界に統合された。そして西アジア・エジプトの伝統とギリシャの伝統とは文化レベルで溶解して、ヘレニズム世界を展開させた。



(パクス・ペルシアーナ)


 アケメネス朝はさまざまな民族が居住する広大な地域を統治していた。ペルシャ帝国が200年余りも永らえたのは、アケメネス朝が征服した民族に寛容な政策を取ると同時に、権力維持のためには手段を選ばなかったからだろう。楔形文字で記され、全土に行き渡った碑文には、征服された国々は大王の下で統一されることを強調している。国々は大王の法に従い、その王権を是認しなければならない。王はアケメネス朝の主神であるアフラ・マズダに擁護されており、世界の混沌に終止符を打って秩序をもたらすために君主に王権を授けたのである。

 優れた統治者だったダレイオス1世は、各地域からの貢ぎ物を確実に取り立てるために、20余りの属州を土台にして、領土を分割して20のサトラペイア(行政区あるいは州)を定め、サトラップ(太守)に行政を任せた。それぞれの行政区は境界線を越えない限りは、自治を行い、自国の文化を育てることを許されていた。当時の領土はペルシャ湾からインドにかけて広がっていたので、それぞれの地域の文化の芸術や技術が合わさって生み出されたのがペルセポリス宮殿なのである。

 ダレイオス1世のベヒストゥーンの岩壁の碑文は、ペルシャ帝国の行政区分を知ることのできる最古の情報源だ。中核地であるペルシャとエラムに始まり、西部、北部、東部へと地方の名前を列挙している。サトラップ(太守)には王族以外の者が就くこともあった。例えば、メティオクスはアテナイの将軍ミルティアデスの息子である。王は純粋なペルシャ人の血を引かない者に「名誉ペルシャ人」の称号を授けることもあった。サトラップ(太守)は王の代理人として数々の特権を与えられていた。税や貢ぎ物の徴収にあたり、必要に応じて軍隊を招集し、地方行政レベルでの意思決定を一手に引き受けていた。もちろん対外的で重要な事案では王や重臣にお伺いを立てなければならなかったが、サトラップ(太守)は王の代理人なので、中央に倣って宮廷を持ち、儀式も執り行った。謁見を行い、宗教儀式に出席し、王室の祝祭も祝った。太守領は広大で、太守の宮殿や宮廷はその太守領の都に置かれた。メディア太守領の都はエクバタナ、エジプトはメンフィス、リュディアはサルディス、フリュギアはダスキュレイオン、「川の向こうのバビロニア」と呼ばれた太守領はダマスカス、バクトリア・ソグディアナはサマルカンドなどである。大王と宮廷は季節ごとに移動するのが常で、太守の宮殿ははその際の拠点にもなった。特に、バビロン、スーサ、エクバタナ、ペルセポリスには定期的に王宮が置かれた。

 ペルセポリス文書には、大王の宮殿で働く者には、貨幣や貴金属ではなく、食料とワインで報酬が支払われたことが書かれている。但し、租税には貴金属や金属(特に銀)が広く使われていた。大王の勅令はすべて保管されていた。旧約聖書の「エズラ記」には、ダレイオス1世がキュロス大王の勅令の写しを見つけるために、バビロンの王室文書庫を捜索させる話が出てくる。それはユダヤ人にエルサレムの神殿再建を認める内容のもので、結局バビロンではなく、エクバタナ宮殿の文書庫で見つかったのだった。太守は地元の上層部と良好な関係を築くことを重視していた。そのためには婚姻関係を結ぶといった手段も採られた。またその逆で、地方のエリートがペルシャの女性と結婚する例もあった。ヘロドトスによると、「すべての男は複数の妻を持ち、それ以上の数の愛人を持っていた」という。ペルシャ帝国のシステムはその地方の権力者の協力に頼る部分が大きく、その地方の既存の行政システムや人材をそのまま活用することも多かった。ペルシャの権益を守るためにはその地方のエリートを登用するのが得策だったのだ。

 ペルシャ帝国の円滑な運営を可能にしたのが優れたインフラだった。各地の太守領の都と帝国中心部とはよく整備された道路で結ばれていた。なかでも重要だったのが「王の道」で、これはまず小アジアのサルディスからバビロン、スーサを経由してペルセポリスに到る。途中で東に枝分かれした道はイラン北東部のエクバナタを経由し、中央アジアのバクトリアのバクトラを通ってインダス川流域のペシャワールに達する。また、シリアのダマスカス、パレスティナのエルサレムを経由してペルセポリスとエジプトを結ぶルートもあった。道路はパラサングと呼ばれる単位(6キロメートル)で測られ、28キロメートルおきに中継所が設けられた。帝国の公式文書を運ぶ伝達史は、この中継所で馬を乗り換えて先を急いだ。スーサからサルディスまでは450パラサングの距離で、90日かかったとヘロドトスは推測している。ペルシャ人は征服した国々に自分たちの言語や文化を押し付ける気はなかったようだ。歴代の王たちが地方に発する命令には現地語が使われていたし、さらに情報を効率よく伝達するため、帝国全土向けにはアラム語が共通語として採用された。宗教に関しても、その地方の神官たちが忠実でありさえすれば、現地の信仰を積極的に支持する姿勢を見せた。エルサレムなどの小規模な地域でさえ、ペルシャ人は神殿に特権を与え、地域の神々への信仰を尊重した。各地の文化に口を出さないこうした態度は自由放任主義にも思えるが、ひとたび一線を越えたら、ペルシャ人は無慈悲な君主になることを忘れてはならない。反抗的な人びとや国は容赦のない扱いを受けた。人びとは住んでいた土地を追われて、はるか辺境の地に移住させられ、信仰の場だった神殿は破壊された。

 ペルシャ帝国は圧倒的な軍事力を基盤に作られ維持された。ペルシャ軍は歩兵、ウマとラクダの騎兵、それにエリートである二輪戦車の戦士で構成され、支配下のギリシャ人も傭兵として組み入れていた。帝国各地から兵士が送り込まれることもあり、例えば、中央アジアのスキタイの二輪戦車戦士やバクトリアのラクダ乗りが参加したことがわかっている。軍の最高司令官は王自身かその近親者が務める。1個師団は兵士1000人で、さらに10の大隊に分割される。特に有名だったのは、不死身の1万人隊と呼ばれたペルシャ人とメディア人から成る王の親衛隊である。アケメネス朝時代の特徴は、司令官をはじめとする将校が実戦に参加し、多くが戦場で命を落としたことだ。国の平安と統一をイデオロギーとして掲げながらも、歴代の王たちは力による統治能力も誇示する傾向があった。実効性のある統治者となるには、王はまず勇敢な戦士たらねばならなかったのである。


 ペルセポリスはダレイオス1世、クセルクセス1世、アルタクセルクセス1世と3代の王たちがそれぞれの宮殿を建設することで、この都に帝国の多様性と国際性を体現させたものとなった。アッシリア風の、頭は人で体は牡牛やライオンの巨像が門を守り、大階段を行進するのは貢ぎ物を運ぶ石の戦士像、エジプト風の列柱、ギリシャ風装飾のレリーフなどが残されている。このような文化的融合は新しい世界の誕生を予言させるものであった。西アジアと東ヨーロッパ、この二つの地域が、すでにこの時代に互いに影響を及ぼし合っていたことは、古代世界の終わりをはっきりと告げる出来事でもあった。

 このように、旧世界のいたるところでペルシャ帝国はさまざまな民族を共通体験で結びつけていった。インド人、メディア人、バビロニア人、リュディア人、ギリシャ人、ユダヤ人、フェニキア人、エジプト人など、さまざまな民族が始めて一つの帝国の統治下に置かれ、一つの文明を共有した。ペルシャ帝国が採用した折衷主義は人類の文明がどれほど成熟した段階に達したかを教えてくれる。西アジアとエジプトではこれ以降、個別の文明の歴史をたどる意味はなくなる。多くのものが共有され、余りにも融合が進んだ結果、もはや個々の文明の系譜を見分けることができなくなるからだ。インド人がペルシャ軍の傭兵となって戦い、ギリシャ人がエジプト軍の傭兵となって戦うような時代がすでに来ていた。都市生活と文字の使用も西アジアとエジプトの世界に広く普及し、地中海地方の広い地域で人びとは都市に住むようになった。ペルシャ帝国がバビロンの灌漑技術を中央アジアに伝え、インドから持ってきたコメを西アジアやエジプトで栽培するようになったころ、農業と冶金技術は地中海地方を越え、さらに遠くへ伝わっていった。小アジアのギリシャ人が鋳造貨幣を使い始めたとき、その計算はバビロンの60進法を基にしていた。こうして来たるべき世界文明の基礎が出来上がろうとしていたのである。


[ダレイオスの分銅碑文]

 閃緑岩せんりょくがんは、宝石用原石を別にすると、古代の人びとが知る最も硬い鉱物の一つであった。加工には手がかかるが、輝くような作品に仕上げることも可能である。ダレイオスの分銅と呼ばれるものは、翡翠ひすいのような温かい緑色を呈しており、見事な仕上がりである。

 一つはギリシャ側の宣伝のため、一つはペルシャ側の自己宣伝に影響されて、アケメネス朝が持つ力はもっぱら軍事的な面だけで捉えられてしまう傾向にある。しかしながら、ペルシャ文明は帝国全体の経済的繁栄や平和維持に重点を置いた極めて開かれた文明だったのである。

“余は強き王、王の王、諸国民の主、世界の王ダレイオスである。余はヒスタスペスの息子、アケメネス家の者である”

 この言葉は閃緑岩製の美しい分銅に刻まれたダレイオスの決まり文句である。もちろんペルセポリス宮殿という特別の場所で用いたものだが、実際的なものでもある。それにしても日常的道具にそこまでぜいを尽くした理由は何だろうか。それはアケメネス朝ペルシャが重視したものは何であったかということに関係してくる。

 ダレイオス大王はベヒストゥーンの岩壁碑文で自分の武勇を書き並べている。王の第1の努めは王国を外敵から守ることなのは当然である。しかし、王国の安全を守りながらダレイオス大王が最も強い関心を示したのは帝国内の交易の活発化であり、現在のEUのような「単一市場」の構築であった。そこでダレイオス大王は貨幣の鋳造や度量衡の統一などを導入し、帝国の端から端まで通商が円滑に行われることを目指した。ペルシャ帝国から2300年後、19世紀の大英帝国が「王立」のヤード、ポンド、パイント、エーカーなどの度量衡をイギリス本土から遠く離れた植民地にも導入したように、ダレイオスの新システムは実際的であっただけでなく、帝国各地の住民に度量衡を含む全体秩序をコントロールしているのは誰であるかを日々想い起こさせるのにも役立った。事実、こうした美しい分銅の存在は、ダレイオスが度量衡を含む日常の隅々に到ることまで統治する「世界の王」であると人びとに思わせるためのものであった。しかし、そうした帝国の虚栄はアケメネス朝ペルシャでは比較的ゆるやかな形で示された。実際の政治的統治は各被征服地の支配者や「王の代理人」としてのサトラップに任されたし、帝国の民はそれぞれ自分たちの文化的伝統や慣習を守ることを許された。アケメネス朝の創始者キュロスにいたっては、バビロニアに捕囚となっていたユダヤ人に祖国への帰還とエルサレム神殿の再建まで許可したほどだった。ダレイオスの度量衡も厳しく国民に強制されたわけではなかった。人びとはそれぞれ旧来の度量衡や貨幣で交易することを認められた。ダレイオス大王の関心は帝国全土の画一化というよりは、もっぱら盛んな経済活動と繁栄にあったようだ。そして実際、その点において彼は成功したのである。


 ***


 ペルシャはどんな帝国だったのか? 現代のイランを中心にした広大なペルシャ帝国は、西は小アジア、アナトリア、シリア、レヴァント、エジプトから、東はアフガニスタン、インダス川流域にまで拡がっていた。このような帝国を支配するには、前代未聞の規模での陸上輸送が必要となった。ペルシャ帝国は史上初の大「道路」帝国なのである。「王の道」と呼ばれた幹線道路が敷設され、駅伝制度が完備されたことにより、ギリシャ人がアンガレイオンと呼んだ騎馬急使は、小アジア西部のサルディス(リュディアの旧都)から都の一つスーサまでの2400キロを、通常90日かかるところを7日で走破したといわれる。

 ペルシャ帝国は、中央集権国家というより、どちらかと言えば王国の集合体のような存在だった。創建者のキュロス2世はシャーハン・シャー、「諸王の王」と名乗っており、同盟国の連合であることを明確にしていた。それぞれの地域に支配者、サトラップと呼ばれる太守はいるが、彼らはすべて揺るぎないペルシャ王の支配下にあった。これは地方自治や、宗教や文化などあらゆる種類の多様性をかなり許容したモデルで、後にローマが採用した方式とは大きく異なっていた。ローマのやり方は、被征服民に対して征服者と同じアイデンティティを共有することを奨励するもので、結果的にローマ帝国領内に住む人は誰もが自分をローマ人だと考えるようになった。一方、ペルシャは、税金を支払い、反乱しない限りは、ほとんどの場合放任された。しかし、もしペルシャに逆らえば、「王の道」ですばやく軍隊が送られ、容赦のない征伐が待っていた。ペルシャは広大な帝国を20の地方に分割し、行政単位と徴税単位を一体化し、各地方にはサトラップ(太守)を置き、法律と秩序を守らせ、税金を課して兵士を招集した。さらに「王の目」「王の耳」と呼ばれた監察官が各地方を巡回していた。そのおかげで帝国内での流血の惨事は避けられたようだ。

「オクソスの二輪馬車」と呼ばれる、4頭の黄金の馬に引かれた小さな黄金の二輪馬車の模型が大英博物館にある。二輪馬車には2人の人間が乗っている。手綱を握って立っている御者と、その横のベンチに座っている粋な模様入りの外套を着た大柄で重要人物だとわかる人物だ。おそらくサトラップ(太守)か監察官だろう。二輪馬車はスポーク付きのウマたちと同じくらいの高さの大きな車輪を持っており、明らかに長距離用に設計されている。ペルシャの治安は大変良かったので、人びとは護衛なしで長距離を旅することができた。しかも迅速に移動できた。幅の広い砂利道は悪天候でも車輪がのめり込まないように整備され、休憩所が随所に設けられていた。それを見聞したヘロドトスは感嘆の声を上げて、「ペルシャの廷臣ほど速く旅をする者はこの世界には存在しない・・・これらの廷臣は何事にも妨げられることなく割り当ての区間を可能な限り速く旅する。雪も雨も暑さも夜の闇も関係ない」と記している。また二輪馬車の全面によく目立つように飾られているのはエジプトのベス神の頭部だ。ヘロドトスは、「ペルシャ人ほど外国の方式を易々と取り入れる民族はいない。例えば、彼らは自分たちのよりもメデ人の衣装のほうが見栄えがすると考えればそれを着ているし、兵士はエジプトの胴鎧を着けている」と書いた。この小さい二輪馬車に凝縮されている多宗教、多文化のアプローチは、よく組織された軍事力と相まって柔軟性に富んだ国の制度を生み出し、200年以上にわたってそれを存続させることになった。

 古代ペルシャ帝国が、「帝国」という概念の形成に計り知れない影響を及ぼしていることは確かである。東と西の継続的な交流を可能にし、アレクサンドロス大王が思い描く帝国像を準備したのは、ほかならぬ古代ペルシャ帝国だった。

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