第103話 史上初の統一帝国アケメネス朝ペルシャ

<年表>

アケメネス朝ペルシャの時代(BC539年~BC330年)

 キュロス2世(在位:BC559年~BC530年)はイラン高原北部のメディアに続き、小アジアのリュディアを征服し、BC539年にはバビロンに入城して、イラン高原とアナトリアも含めた西アジア全土を手中に収めた。シュメールから始まった長いメソポタミア文明の伝統がこの時点でついに消滅した。以後、BC334年~BC330年に行われたマケドニアのアレクサンドロスの東征によってアケメネス朝が滅び、西アジアにヘレニズム時代が到来するまで、ほぼ2世紀もの間、西アジアに帝国として君臨した。アケメネス朝の西アジア全域における帝国支配は、新アッシリアと新バビロニアの行政州分割と道路と通信網の整備に基づく中央集権の仕組みを継承し、発展させた完成形とみなすことができる。

 古代ペルシャ語は、インド-ヨーロッパ語族の一つだが、BC550年~BC350年までは楔形文字で書かれた。ベヒストゥーンの岩壁に刻まれたダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)の記念碑文は、古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語(バビロニア語)で書かれており、楔形文字解読とこれらの言語の再現への手がかりをもたらした。古代ペルシャ語の書記たちはメソポタミアから借用した文字を徹底的に単純化し、わずか41の記号に減らした。楔形のわずか4個の表語文字と36個の音節文字を使って書く混合の書記法である。特に重要なことは、古代ペルシャ語もウガリトの文字体系が1000年前に伝えていた独立した長母音と短母音を伝えたということである。


 ***


 人類史上最初の世界帝国を築いたペルシャの物語の出発点は民族の移動にあった。現在のイラン中央にある高原には、BC5000年ごろすでに定住集落が存在していた。「イラン」という言葉は、もともと「アーリア人」を意味する古代ペルシャ語「アルヤーン」に由来する。BC1000年ごろに北方から侵入したアーリア系の部族がイラン高原に広がった時点で、ペルシャの歴史が始まったといえる。アーリア人はインドにも影響を与えたが、彼らはイランでも土着の文化に大きな影響を及ぼし、その後も長く続くことになる文化的伝統を確立した。そうしたアーリア人の中でも特に強力だったのが、旧約聖書に「メディア人」と「ペルシャ人」の名で登場する人びとで、メディア人はイラン高原の西や北西へ移動してメディア王国を建て、BC612年に隣国の新アッシリアを滅ぼした後、王国の最盛期を迎える。一方、ペルシャ人はペルシャ湾に向かって南下し、古代のエラムがあったティグリス川下流の東岸からイラン高原南西部にかけて国家を樹立する。ペルシャという名はイラン南西部の一地方を指す古称パールサに由来し、その地方の人びとをペルシャ人と呼んだからである。ペルシャの名は、最も古くは旧約聖書に見られるが、その名を西ヨーロッパに広めたのはアケメネス朝と親交の深かったギリシャ人である。アケメネス朝のダレイオス1世はペルセポリス近くで発見された碑文に、自らのことを「ペルシャ人、ペルシャの息子、アーリア語族から発したアーリア人」と呼んでいる。およそ2500年もの間、イランの広大な領域は諸王の王たちの土地であった。各王朝は軍をもって、人びとを野生動物から、住居を異民族から、水を太陽から守った。精神的指導者であり、真の国家統一者であった諸王の王は、オアシスで収穫される果物やナツメヤシ、ヒツジやヤギ、ラクダの群れから得られる肉や毛糸、そして中国、中央アジア、インドと地中海沿岸諸国とを結ぶキャラバン・ルートからもたらされる富を臣下に保証していた。


 古代ペルシャ本土、すなわち現在のイランは、およそ163万平方キロ(日本の4.4倍)の広大な土地を占め、北を中央アジア、南をアラビア半島、東をインド亜大陸、西をメソポタミアに囲まれている。そのほとんどが灰色がかった青い岩でできた広大な高原で、ところどころに細長い農耕地が広がっている。水のほとんどは乾いた土に吸い込まれてしまい、枯れ川となるため、これら島のように孤立した肥沃な土地を潤しているのは、この国独特の灌漑施設である地下の長い水路カレーズで流れ続けている水である。イラン高原は四方を山に囲まれている。北西には、東から西へ伸びるエルブルズ山脈があり、かつてヒョウやトラが生息する深い森だったカスピ海の南岸とを分けている。果てしなく広がる中央アジアの大草原へ続く北東には、コペト・ダグ山脈の峰々、南西部には、ザグロス山脈がメソポタミアやペルシャ湾との自然の境界を成している。さらに東に行くと、高原はイランの二大砂漠、カビール砂漠(塩の砂漠)とルート砂漠(ちりの砂漠)へと落ち込んでいく。東端からはホラーサーンの斜面が始まり、アフガニスタンへと続く。南側には、山々やその間の道、草原が複雑に入り組んでおり、そこを越えると湿気の多い灼熱のペルシャ湾岸に到達する。


<エラム>

 エラムはシュメール文明と同時期に都市文明を登場させており、非常に古い歴史を持っている。エラム国家の核を成すのは都市国家スーサで、メソポタミアの諸国家と抗争しつつ3000年近くも栄えた。後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)を通じてエラムは概ね、西アジアの舞台で大した役割を演じてこなかったが、婚姻を通じて大国、カッシート朝バビロニアの王家とつながっていた。BC13世紀後半になると、エラムは勢力を回復し、ウンタシュ・ナピリシャ(在位:BC1260年~BC1235年ごろ)の治世にスーサを中心とする北部とアンシャンを中心とする南部は統一され、シュトルク・ナフンテ(在位:BC1190年~BC1150年ごろ)とその後継者の時代にエラムの繁栄は最高潮に達する。BC1158年、シュトルク・ナフンテはバビロニアに侵攻し、その都バビロンを占領して、カッシート朝の王を打倒し、自分の息子をその王座に据えている。そのとき略奪したハンムラビ法典の刻まれた高さ2.5メートルの石碑やバビロンの主神マルドゥクの像などはスーサの神殿の庭に陳列された。しかし、BC12世紀末ごろバビロニアのイシン王朝のネブカドネザル1世はエラムのスーサを征服し、略奪された品を取り戻した。BC720年ごろ、エラム文化は一時的な返り咲きを見せたものの、アッシリアとバビロニアの抗争に巻き込まれ、BC7世紀半ばに新アッシリアのアッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)に攻め込まれ、その属国となった。スーサは破壊され、エラム王テウマンは斬首された。この様子はアッシリアのレリーフに描かれている。輝かしいエラム王国は衰退し始め、BC6世紀に入ると、新バビロニアの圧力にエラムの弱体化はさらに進んだ。ここでイラン高原の新たな主役としてメディア人やペルシャ人が登場する。

 多くの文化における人びとの生活は太陽運行のリズム、日の出や日没を基にして成り立ち、冬期にその太陽の姿が後退すると人びとは危機感を募らせた。BC13世紀からBC12世紀における、イラン南西部のエラムの太陽神ナフンテに対する信仰は長いペルシャの精神史を通じて生き続けた。後期ペルシャ時代になると、太陽崇拝はより一般的な火炎崇拝へと変容し、火が人びとの啓蒙と道徳的浄化の象徴の役割を果たすようになる。日の出と日没、昼と夜、光と闇のサイクルは、善と悪、真実と虚偽、生と死の間で永遠に繰り返される抗争の象徴と見なされた。


<メディア人とペルシャ人>

 原始アーリア人の中でも中央アジアに残ったグループとは別に、イラン高原の北西部では、BC9世紀には新アッシリアと接触していたメディア人たちが原始アーリア人たちの宗教思想を発展させていた。メディア人は牧畜民としてイラン高原に移動してきたにもかかわらず、メソポタミアの先進文明に触れる機会に恵まれ、早くもBC8世紀にはエクバタナを首都として新アッシリア傘下の自治国を築いていた。BC7世紀初頭には、同じアーリア人ながら騎馬民族化した中央アジアのサカ族(黒海北岸のスキタイと同族)の支配を受けるものの、定住民化した強みで自らの文化を維持し、BC625年には独立してメディア王国を樹立した。これが、原始アーリア人がイラン高原に移動してきて以来、初めて建てた独立国である。このメディア王国のメディア人の宗教について、ヘロドトス(BC484年~BC425年)やストラボン(BC64年~紀元後21年ごろ)などのギリシャ人著述家が書き残している。それらによると、メディア人の宗教は、通常マゴス神官団と呼ばれ、6大部族の一つであるマゴス族によって担われ、拝火儀礼、曝葬(死体を地上に晒して骨だけにした後、遺骨を集めて横穴墓に収納する)、清浄儀礼、悪なる生物(カエル・サソリ・ヘビなど)の殺害、近親婚、ウシの犠牲獣祭などの習慣を持っていた。このうち拝火儀礼とウシの犠牲獣祭は原始アーリアに共通した特徴であるが、その他の習慣がどこから取り入れたかは解明されていない。このような特異なマゴス神官団の宗教は、その後、西進してきた原始ゾロアスター教と習合し、やがてイラン高原のアーリア人の国教となった。

 メディア人とペルシャ人の存在について最初に触れているのはアッシリアの年代記である。メディア人もペルシャ人もインド・ヨーロッパ語族系の民族である。メディア人はBC2000年紀末には現在のイラン北西部に定着し、BC1000年紀前半には強国として台頭する。BC612年、メディアの王キャクサレス(在位:BC625年~BC585年)は、新バビロニアの王ナボポラッサル(在位:BC626年~BC605年)と同盟を結んで新アッシリアの都ニネヴェを攻略し、新アッシリアを滅亡させた。その後、50年ほどはメソポタミアを支配するセム系民族の新バビロニアとイラン高原を支配するアーリア人のメディア王国との間で、比較的良好な関係が築かれていた。こうしてメディアの支配は西のアナトリア東部から東はイラン高原、さらにはアフガニスタン方面にまで及んだ。

 しかしながら、メディアの支配は長く続かず、もう一つのインド・ヨーロッパ系集団であるペルシャ人に取って代わられる。このペルシャ人集団は二つに分かれ、一つはイランの北西端に位置するカスピ海西方のウルミア湖周辺に定住し、もう一つは南方のイランのザグロス山脈南部から南のファルス高原(古称パールサ)に定着した。それまでペルシャ人は、エラム人、次いでメディア人の支配下にあったが、BC550年、同じアーリア人のペルシャのキュロス2世は、メディアの首都エクバタナを攻略し、キャクサレスの息子メディアの王アスティアゲスを廃位させた。ここにメディアは滅亡した。その翌年BC549年にメディアとペルシャの王となった。



(アケメネス朝ペルシャ)


 アケメネス朝ペルシャはアレクサンドロス大王の登場以前では、最大規模で最強の国であり、まさに当時の世界帝国と呼ぶにふさわしい国である。その歴史は新バビロニアと同様、敵や被支配者、特にギリシャ人の古典文学とユダヤ人の旧約聖書の視点から記録されてきた。ヘロドトスやクセノフォンはペルシャ帝国を興したキュロスを偶像化しつつも、贅沢で退廃したペルシャ宮廷や、権力を一手に握った諸王たちの残虐なふるまいを真に迫った物語に仕立て上げた。ギリシャの自由と民主主義を、東方すなわちペルシャの独裁と専制に対比させるというのが、ペルシャの歴史や性質を語るときのギリシャの基本姿勢だった。しかし、時代とともにアケメネス朝に向けられる視線は冷静になっていく。新たに発見された行政記録からもわかるようにペルシャは荒々しい力だけに頼っていたわけではない。帝国では道路網が高度に整備され、専門性の高い官僚機構が機能していた。宗教面の寛容とか、「パクス・ペルシアーナ」を通じてそれぞれの臣民を守っているのだという歴代の王の主張など、この国の実利主義に、少なくとも理想主義的な発想が見て取れる。

 アケメネス朝ペルシャの美術はエジプト、アッシリア、バビロニア、エラムから幅広くモチーフを借用しながらも、それらが融け合ってひと目でペルシャ風とわかる調和のとれた印象を作り出している。またペルシャ帝国全土から発見された古代文書や考古学の比較研究も行われるようになって、ギリシャの古典文学の作者たちはペルシャ文化を著しく歪めて伝えていたことがわかってきた。各地で反乱が起きたり、宮廷内での内紛があったりしたものの、古代ペルシャ帝国は200年余りの長きにわたって国としてのまとまりを保ち続けた。アケメネス朝はイラン高原のペルシャ本土を含む23の国にから成り、リビアからエジプトそしてレヴァント、ヨーロッパ側のトラキアからアナトリア、中央アジア南部からインダス川流域までを擁する帝国だった。200余年の歴史を通じて、古代ペルシャは絶えず拡大と縮小、そしてまた拡大を繰り返していた。属州や部族が、武力や威圧によって中央の統治機構に追加されたと思うと、戦争や反乱が起こってペルシャの支配から離れたりもした。



(1)キュロスによる帝国建設


 ペルシャの歴史はアケメネス朝のキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)から始まった。キュロス2世は自分の先祖をBC7世紀ごろに王朝を創設したとされるアケメネスの系譜に結びつけている。もしアケメネスが実在の人物だったとしても、アケメネスにはさほどの力はなく、地方豪族の首長以上の者ではなかったはずだ。当時ペルシャ人はエラムの支配下にあったからである。アケメネスの後継者たちはエラム人から古都アンシャンを奪い、そこを拠点に王朝を建てたと言われる。当時アンシャンはエラム王国の属国であったが、キュロス2世はBC533年、反乱を起こしてその立場を逆転させた。彼はパサルガダエの戦いで勝利を収めると、その山中の平地に首都を築き、死後そこに埋葬された。

 キュロス2世が自分をアケメネス朝の系譜に結びつけようとしたのは、彼が廃位したメディア王アスティアゲスが実はキュロスの祖父にあたる人物だという事実をぼかすためだったかもしれない。アスティアゲスは自分の娘をペルシャの首長カンビュセスと結婚させ、ペルシャ人との政治的同盟の強化を図った。その娘が生んだ息子が反乱を起こしたのである。

 王位を簒奪したキュロス2世は、メディア王国を併合し、メディア人の首長たちをペルシャの官僚体制の要職に就けることで彼らを巧みに支配した。足元が固まると、以後は征服によって領土を広げていった。最初にアナトリアを通ってリュディアを含む小アジアのイオニア沿岸の拠点都市も攻略し、次いでバビロニアを征服した。バビロンに入城したキュロスはまず、彼の前の支配者たちが戦利品として奪ったバビロンの神々の像を戻し、彼自身がバビロンの伝統を崇敬しているところを示した。その後のアケメネス朝の支配者たちもそれを基本政策として守り、被征服地の人びとの文化、そして政治的自治をも認めた。その後さらに、シリアからパレスティナへと南下していった。

 キュロス2世(在位:BC559年~BC530年)はイラン南西部パールサ地方にあった小さなペルシャ王国の統治者だった。彼はアンシャン王も名乗っていた。スーサの東南に位置するアンシャンとはザグロス山脈のふもと一帯で、かつてエラム人が支配していたところだ。最初期のペルシャ王たちはエラム人の土地を引き継ぐ立場にあり、エラム文化の継承者を自負していたようだ。キュロス2世の初期、ペルシャ人はアーリア系部族の一つであるメディア人の支配を受けていた。当時勢いがあったメディア王国はイラン北部にも進出し、さらに裕福な新バビロニアにも軍事遠征をしかけるほどだった。ところが、BC550年ごろペルシャのキュロス2世がイラン南部の部族連合の支援を受けて、メディア王のアステュアゲス打倒のため北に進軍した。メディア王国の都エクバタナで略奪を行ったキュロス2世は、クルディスタンのヴァン湖周辺のウラルトゥ王国を含むイラン北西部に目を向ける。さらに南西部のエラムを占領し、その都スーサを掌握したと思われる。次いで、中央アジア南部のバクトリアにも戦争を仕掛けた。その後、小アジアの強国で豊かなリュディアに向かう、リュディアのクロイソス王(在位:BC560年~BC546年)はイオニア各地の都市も支配下に置いており、その都サルディスはメソポタミアとの交易で巨万の富を築いていた。そのサルディスを陥落させたことで、キュロス2世はイオニア沿岸の拠点都市も手に入れることになった。


 BC540年、いよいよバビロン攻撃の機が熟した見たキュロス2世は軍をメソポタミアに向ける。バビロンの北西に位置するシッパルを経由して、BC539年10月29日にバビロン入城を果たしたとき、新バビロニアのナボニドゥス王はすでに捕虜になっていた。バビロニア軍の抵抗もないまま、キュロス2世は息子のカンビュセス2世をバビロン摂政に任命するが、統治や宗教の実務に関してはバビロニアの官僚たちが引き続き担当した。バビロン陥落に関してはキュロス2世の円筒印章が情報源となっている。これはアッカド語で刻まれた粘土製の円筒形をした印章で、バビロンのマルドゥク神の聖域近くで発見されたものだ。キュロス2世の命で作られたと思われるが、バビロニアの伝統的な言葉づかいで、バビロニアの視点から記されている。キュロス2世はマルドゥク神の擁護者であり、マルドゥク神もキュロス2世をバビロンの救済者として認めている。BC539年にバビロンに進攻した際に、キュロス2世は寛容な勅令をバビロニア語で発布した。また多神教を復活させ、バビロニアに囚われていた人びとを故郷に帰らせた。以下はキュロス2世自身の言葉である。

「大軍の我が兵が平和裏にバビロンに入城したとき・・・人々を怯えさせるような行為は許さなかった・・・。人びとが必要とするものや、健全な暮らしを促進するための神聖な場所からは目を離さなかった・・・。奴隷はすべて解放した」

 このキュロス2世の明敏な判断の恩恵を被ったことでよく知られているのは、バビロンに捕囚されていたユダヤ人だ。ヘブライ語聖書では、キュロス2世は神により霊感を得た恩人であり英雄として称賛されている。長年バビロニアに苦しめられたイスラエル人は、彼らの前に現れた解放者キュロスの口を借りて、旧約聖書「イザヤ書」の書き手はメソポタミア文明(バビロン)の終焉を高らかに告げる。

「身を低くして塵の中に座れ、バビロンという名の娘よ。王座を離れ、地に座れ、カルディア(新バビロニア)という名の娘よ。諸国の女王と呼ばれることは、もはやないのだから」

 ユダヤ人にとってキュロス2世は慈悲深い王だった。彼らは50年~60年ぶりに捕囚民の立場から解放された。さらにエルサレムに帰郷して神殿を再建するように励ましさえされた。捕囚の民の多くはバビロンに留まったが、忠誠心の強い者はBC538年に帰還して国家と神殿の再建を始めた。


 バビロニアの征服を果たしたキュロス2世は真に国際的な帝国作りに乗り出した。東ではイラン東部のパルティア、アリア、そして中央アジア南部のマルギアナ、ソグディアナを次々と落とし、西はキリキア、シリア、パレスティナがキュロス2世の支配下に入った。エジプトも明らかに標的にしていたが、結局それを征服することができなかった。

 キュロス2世は後のペルセポリスの北東に位置するパサルガダエに墓所と宮殿を建設している。宮殿には水路を巡らせた本格的な庭園まで完成させた。それはまさに砂漠の楽園と呼ぶにふさわしいものだった。キュロス2世が支配するすべての土地の植物を集めた庭園は、帝国のミニチュアの様相を呈するとともに、飛ぶ鳥をも落とすペルシャの勢いを体現したものでもあった。BC530年、キョロス2世がスキタイ系のマッサゲタイとの戦いで戦死するなど、東方の国境線の安定には手こづったが、ペルシャは最終的にはヒンドゥークシ山脈を越え、ガンダーラ地方に到るまで支配することになった。


[キュロスの王墓と墓碑]

 キュロスはBC530年に没し、出身地の都パサルガダエに埋葬された。墓の造りは、石檀をピラミッド型に数段積み重ねた上に小屋のような石室を置いただけで極めて簡素である。墓碑銘も控えめである。

“汝が何者であろうとどこから来ようと、汝が来ることを余は知っている。余はペルシャの支配を握ったキュロスである。余の身体を容れているこのわずかの土地を惜しまないように願う”

 BC331年のアレクサンドロス大王の遠征の際に荒らされたため中は空である。キュロスの力の偉大さを象徴すると言う意味では、高さ13メートルの石柱の方がふさわしい。とはいえ、簡素な点では彼の墓と変わらない。石柱に特別な装飾はなく、刻まれた碑文も「キュロス、大王、アケメネスの者」と極めて簡素だ。注目すべきは、その碑文が3つの異なる言語(古代ペルシャ語、エラム語、アッカド語(バビロニア語))で記されていることである。3言語併用碑文は、キュロス大王の帝国と支配の大きさを証言している。「大王」の称号は古代世界において特に珍しいものではない。


 キュロスは簡素や簡潔をもって最善としていたようだ。古代世界の他の大王たちに比べると、彼の統治スタイルは非常に謙虚である。彼は被征服民に対しよく理解を示したことで有名である。彼の寛大政策は近代的市民開放の意識より、むしろ実用主義から生じたものである。とはいえ、権力の一部を地方の支配者に委譲するとか、被征服民が自分たちの伝統を守ることを容認するなど、「民主的」ギリシャ人たちでさえ想像もしなかった寛大な政策がキュロス大王により打ち出されたことは疑いない事実である。しかし一方では、キュロスの支配に反抗する者や、課された税を納めない者たちは、王の寛容さにも限度があることを厳しく教えられた。また地方にかなりの自治が認められたとはいえ、それはキュロスおよびその後継者たちの絶対的権威を認めた上での話であることは言うまでもない。

 キュロス2世の墓は細長い石を階段状に積み上げた上に丸屋根の玄室が設置されただけの簡素なものだ。この墓に詣でたのが、キュロス2世を軍事指導者と崇めてやまないマケドニアのアレクサンドロス3世(大王)だった。多くのイラン人にとって、今もここは聖地である。



(2)アケメネス朝の政治と文化


 アケメネス朝の支配方法は、それ以前の西アジアの国々とはかなり違っていた。新アッシリアに比べ、残忍さはそれほどなかったようだ。少なくとも、表向きは残虐な行為は褒められず、キュロスは新しく支配した人びとの固有の制度や慣習を尊重したといわれる。こうして多様性に富んだ帝国が出来上がったが、その一方でペルシャは、人びとに国家への忠誠心を要求した。これはペルシャ以前の国にはなかったことだ。宗教にも寛容だった。例えば、バビロニアの守護神マルドゥクを保護したことで、キュロスはバビロニアの王位に就くことを嘆願されている。さらにバビロンに捕囚されていたユダヤ人のカナンへの帰還を認め、彼らがエルサレムに神殿を再建することも許している。この時ユダヤ人の預言者イザヤは、キュロスの勝利に神のわざを見て、彼を「主が油を注がれた人」、つまり真実の王と呼び、バビロンの破滅を喜んだ。

 この時代のペルシャは、それ以前の大国ヒッタイトや新アッシリア、新バビロニアとはいくらか異なった原則によって運営されていた。ペルシャ以前の大国は総じて力は正義なりという赤裸々な考え方に基づいていた。一方、ペルシャは外面は穏やかにして内側に冷徹さを秘めるという原則に基づいていた。


 キュロスがこのような成功を収めた理由の一つは、王国が持つ豊かな天然資源にあった。鉱石、なかでも多くの鉄を産出し、イラン高原では数多くの騎馬用のウマが放牧されていた。しかしキュロスが成功した理由には個人としての能力があったことも否定できない。キュロスは後世の歴史家だけでなく、同時代のペルシャ人からは「父」、ギリシャ人からは「理想の王者」と見なされた人物でもあった。キュロスの統治は、各州の地方長官であり、太守あるいは総督でもある「サトラップ」に大きな権限を与える緩やかなものだった。キュロスは属州には税金(普通は金)と忠誠心の他は、ほとんど何も要求しなかった。こうしてペルシャ帝国は200年余りにわたって西アジアを一つの文化的枠組みに収め、アジアとヨーロッパにまたがる巨大帝国を発展させていくという偉大な道を歩み始めた。広大な地域がこの帝国のもとで長く平和を謳歌した。しかもこの文明は多くの意味で美しく優しい文明だった。ヘロドトスは、ペルシャ人は花を愛する人びとで、他になくては困るものはたくさんあるだろうに、小アジア原産のチューリップばかりを大事にしているという話を伝えている。

 キュロスの王宮があったパサルガダエやペルセポリスに築かれた記念建造物は、ペルシャ文化の多様性と寛容主義をよく表している。ペルシャ文化は外国の影響を広く受け入れた文化で、その姿勢は最後まで変わることがなかった、ペルシャは征服した国々の言語だけでなく、思想を取り入れることもあった。逆にペルシャが影響を与えたものもあった。例えば宗教、古代インドの宗教とペルシャの宗教はガンダーラ地方で融合しているが、元はどちらもアーリア人の宗教だった。どちらの宗教においても、その中心にあったのは生贄いけにえを伴う祭儀で、そこでは火が崇拝の対象となっていた。ペルシャではその後、ダレイオス1世の治世までに、さまざまな宗教の中で最も洗練されたものが、いわゆるゾロアスター教へと発展していく。ゾロアスター教は、世界を善神と悪神の戦いで説明する二元論に基づいていた。この教えを説いた預言者ゾロアスターについてはほとんど何もわかっていないが、彼の弟子たちに、儀式と正しい行いをもって、光明の神アフラ・マズダの大義を支えるように説いたとされている。信仰の行く手には救世主による救済と死者の復活が、そして審判の後には永遠の命が待っているとされた。こうした信仰が、ペルシャの統治とともに西アジアに急速に広まっていき、ユダヤ教や西アジア地域の信仰に影響を与え、ひいてはキリスト教が誕生する背景にもなる。キリスト教の天使や、悪人は地獄の火に落されるという考え方などは、どちらもゾロアスター教からもたらされたものである。



(3)カンビュセス2世による帝国の拡大


 BC530年、キュロス2世はマッサゲタイとの戦いで命を落とした。その後を継いだのがカンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)である。父王から帝王学を授けられていたこともあって、王位継承はつつがなく完了した。BC530年8月31日の日付があるバビロニアの文書では、カンビュセス2世は「バビロンの王、国々の王」と呼ばれている。即位したカンビュセス2世は、弟のバルディアをメディア総督に任命した。

 カンビュセス2世の最大の業績は、BC525年にエジプト第26王朝(サイス朝)のイアフメス2世の死に乗じてエジプトを征服したことだろう。カンビュセス2世はエジプトの古来の仕来りに従ってメンフィスでエジプト王としても即位し、メスティ・ラーという即位名を名乗った。これがエジプト第27王朝(BC525年~BC404年)ペルシャ人ファラオの時代である。エジプトに続いて、近隣のリビアとそこにあるギリシャ人の植民都市キュレネもペルシャ軍に降伏する。さらにカンビュセス2世はナイル川に沿って南に進み、南方での自国の利益を守るためアスワン近くのエレファンティネ島にユダヤ人守備隊を置いた。さらに前進したカンビュセス2世は、少なくともヌビアの一部までは征服に成功した。ギリシャの文献に登場するカンビュセス2世は、領民を恐怖政治で抑圧し、占領した国々の宗教的な伝統を踏みにじった暴君だ。そうした悪評の出所は、カンビュセス2世によって富と権力が奪われかけた一部のエジプトの神官たちである。しかし、エジプトで見つかった考古学的証拠は、カンビュセス2世がむしろ宗教的には寛容な政策を取っていたことを示唆する。例えばメンフィスには、神聖な牡牛が死んだとき、カンビュセス2世はしかるべき儀式を執り行ったというBC524年の碑文が残っている。バビロンでのキュロス2世と同様、カンビュセス2世はエジプトでの主権維持のためにエジプト貴族の支持を取り付ける必要があったため、エジプトの宗教的・文化的伝統に配慮したのである。

 キュロスの息子カンビュセス2世はエジプトを版図に加えたたが、メディアやバビロニアが反乱を起こしたとき、それに乗じて王位を狙った謀反者を鎮圧しようとエジプトから本国へ向かう途中で死亡してしまった。その後、キュロスの遺産を回復したのはアケメネス朝の後継者を自称する若きダレイオスだった。

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