第102話 統一帝国の時代(BC500年~紀元ごろ)

 ここでは帝国とは何かについて識者の見解を紹介するにとどめる。各地域の具体的な発展の有様については、この後のエピソードで記述する。


 歴史の世界では、古代ギリシャ文明が最盛期を迎えたBC5世紀からBC4世紀末近くまでを「古典期」と呼ぶ。最古の文明がシュメールに生まれてから3000年もの時間の隔たりがあった。人びとの日々の暮らしはゆっくりとしか変化しなかったが、大きな視点から見れば、この間に人類は着実に進歩を重ねていった。シュメール文明とアケメネス朝ペルシャ(BC539年~BC330年)の間には、統治の方法や文化の融合状況など、質のうえで大きな差が存在している。人類が初めて手にした文明は、メソポタミアのシュメール文明だった。そのときから続いてきた長いメソポタミアの伝統が、この時点でついに消滅したといえるかもしれない。

 極めて大胆に言えば、このBC5世紀ごろを境にして人類が文明の基礎を築いた時代はほぼ終わりを告げたと言ってよいだろう。その頃にはすでに地中海沿岸から中国までの広大な地域に、さまざまな文化的伝統が確立され、いくつもの高度な文明が誕生していた。アケメネス朝ペルシャ、古代ギリシャ、スキタイ、インドの16大国、中国では戦国時代がそれだった。そうした文明の多くは孤立状態にあり、他の文明にほとんど影響を与えなかった。偉大なるメソポタミア文明でさえ、BC539年のバビロン陥落以降、ときおり侵略を受ける以外は外の世界とあまり交流がなかった。ところがその中で、BC6世紀にすでに台頭しつつあったギリシャ文明だけは、発祥地である東地中海を越えて、大きく外の世界に広がっていく可能性を示していた。それは最も新しく誕生した文明だったが、その後目覚ましい成功を収め、後にローマ文明へ受け継がれたその文化的伝統は、1000年もの間途切れることなく続いていくことになる。そして何よりも注目すべきことは、この活力に満ちた文明が人類の歴史に残した豊かな土壌には、現代のヨーロッパ文明、ひいては近代文明を形成することになる重要な要素がほとんどすべて存在していたという事実なのだ。

 一方で、これら高度な文明を取り巻く周辺地域の勢力との抗争も熾烈だった。アケメネス朝ペルシャは史上初の帝国となり、そのペルシャによるエジプトの征服とギリシャとの戦争、ギリシャ内部ではアテナイとスパルタの抗争、地中海ではカルタゴとローマによる西地中海地域の覇権争いである3次にわたるポエニ戦争、そして東地中海と中東ではアレクサンドロスがペルシャ帝国を打倒してヘレニズム文化を打ち立てた。また、ペルシャやアレクサンドロス大王に刺激された南アジアのインドでは初の統一帝国であるマウリヤ朝が成立し、さらに東方では中国を統一した秦と漢が北方遊牧民族匈奴との熾烈な争いを繰り広げていた。

 ユーラシア大陸の西や東、そして南で強大な権力を手にしたこれら帝国の支配者たちは難題に直面する。異なる民族、異なる宗教、異なる文化を如何に統治するのか? 軍事力がものをいうのは初めのうちだけで、そこまでは簡単な部分なのだ。では支配者たちは自分の権威を被支配民の心にどうやって刻み付けるのか? それぞれの帝国は今なら国政術と呼ばれるような国の運営の原則を考案し定義づけていただろうが、この時代はまだ「精神の帝国」とも呼べる時代なのだ。


 ***


「サピエンス全史」の著者であるユバル・ノア・ハラリ は、歴史に正義はないという。過去の文化の大半は、遅かれ早かれどこかの無慈悲な帝国の餌食になった。そしてその帝国は、打ち破った文化を忘却の彼方に追いやった。帝国もまた、最終的には倒れるのだが、豊かで不朽の文化の痕跡を残すことが多い。21世紀の人びとのほぼ全員が、いずれかの帝国の子孫なのだ。

 帝国とは二つの重要な特徴を持った政治秩序のことをいう。帝国と呼ばれるための第1の資格は、それぞれが異なる文化的アイデンティティと独自の領土を持った、いくつもの別の民族を支配していることだ。では、厳密にはいくつの民族を支配していればいいのか? 2つか3つでは不十分だ。20か30までは必要ない。帝国となるのに必要な民族の数は、どこかその間にある。

 第2に、帝国は変更可能な境界と潜在的に尽きることのない欲を特徴とする。帝国は、自らの基本的な構造もアイデンティティも変えることなく、次から次へと異国の人びとや異国の領土を呑み込んで消化できる組織体である。文化的多様性と領土の柔軟性のおかげで、帝国は独特の特徴を持つばかりでなく、歴史の中で自らの中心的役割も得る。帝国が多様な民族集団と生態圏を単一の政治的傘下に統一し、人類と地球のより多くの部分を融合させられたのも、この二つの特徴があればこそだ。

 帝国は、その由来や統治形態、領土の広さ、人口によってではなく、文化的多様性と変更可能な国境によって定義される。帝国は必ずしも軍事的征服によって出現する必要はない。例えば、「アテナイ帝国」とも呼ばれるギリシャのデロス同盟は自主的な同盟として始まったし、近代のハプスブルク家の帝国は、一連の婚姻同盟によってまとめ上げられた。また、帝国は独裁的な皇帝に支配されている必要もない。史上最大の帝国である大英帝国は、民主政体によって支配されていた。大きさもあまり関係ない。実に小さな帝国もある。古代アテナイ帝国は、全盛期にさえ、大きさも人口も現代のギリシャよりも格段に小さい。しかし現代のギリシャは帝国ではない。なぜなら古代アテナイ帝国は、何十・何百もの異なる国家を徐々に征服したのに対して、現代のギリシャはそうしてこなかったからだ。古代アテナイは、独立していた100以上の都市国家に君臨していた。それが可能だったのは、古代には今より格段に多くの異なる民族がいて、それぞれが現在の典型的な民族よりも少ない人口を抱え、狭い領土を占めていたからだ。帝国は人類の多様性が激減した大きな要因だった。

 今日、帝国は「ファシスト」と並んで悪の象徴のように批判されているが、実のところ帝国は過去2500年間、世界で最も一般的な政治形態だった。古代のペルシャ帝国、ローマ帝国、中国の秦・漢、インドのムガール帝国から近代の大英帝国まで、この2500年間人類のほとんどは帝国で暮らしてきた。帝国は非常に安定した統治形態でもあり、大半の帝国は反乱を驚くほど簡単に鎮圧してきた。また一般的には、帝国は外部からの侵略や、エリート支配層の内部分裂によってのみ倒されている。逆に、征服された民族は帝国の支配からめったに逃れられなかった。ほとんどが何百年も隷属状態に留まり続け、たいていは征服者である帝国にゆっくりと消化され、やがて固有の文化は消え去っている。また多くの場合、一つの帝国が崩壊しても、支配下にあった民族は独立できず、むしろその空白は新しい帝国が進出してきて埋めている。

 帝国を建設して維持するには、抵抗する大量の人を残忍に殺戮し、残った人びとを迫害し搾取する必要があった。だがこれは、帝国が価値あるものを何一つ残さなかったということではない。帝国のエリート層は征服から得た利益を軍隊や砦のために使ったが、哲学や芸術、道義や慈善を目的とする行為にも還元している。歴史的にみると、人類の文化的業績の相当部分が、被征服民の搾取によって成り立っていたのは事実である。

 メソポタミアで史上初の領域国家を創建したのはアッカドのサルゴン1世(在位:BC2334年~BC2279年)だった。アッカドはサルゴンの死後、長続きしなかったが、その後の1700年間、西アジアではサルゴンに倣い領域国家や帝国が支配した。アッカドの後はアッシリアやバビロニア、ヒッタイトの王たちが領域国家を樹立し、やがてキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)が創建したアケメネス朝ペルシャが西アジア全域とエジプトを支配し、真の帝国となった。キュロスは隷属させた民族が彼を敬愛し、ペルシャの従属民であって幸運だと思うことを望んでいた。実際、彼はバビロニアで捕囚となっていたユダヤ人を解放し、故国に戻って神殿を再建することを許し、その資金援助さえ申し出た。キュロスは自分がユダヤ人を支配しているペルシャの王だとは考えていなかった。彼はユダヤ人たちの王でもあった。だからこそ彼らの望みをかなえることに責任があったのだ。全世界をその居住者全員の利益のために支配するという思い込みには驚かされるが、この新しい帝国のビジョンは、キュロスから彼の後継者、そしてアレクサンドロス大王へ、さらにヘレニズム時代の王たちやローマ皇帝を経て、現代にまで受け継がれている。一方で、この帝国のビジョンは、帝国の存在を正当化し、支配下にある民族による反乱の試みも、帝国の拡張に反対する他の独立国による抵抗も否定してきた。

 同じような帝国のビジョンは、世界の他の場所でもキュロスのペルシャモデルとは別に、独立して発達した。例えば、伝統的な中国の政治理論によれば、「天」は地上の一切の正統な権威の源だという。正統な権威は当然ながら普遍的だ。もし支配者が「天命」を欠いていれば、都市一つさえ支配する正統性も欠く。支配者が天命を享受すれば、彼は正義と調和を全世界に広める義務を負う。天命は何人かの候補者に下されることはありえない。したがって、二つ以上の独立国の存在は正当化できない。中国では、秦・漢から始まる帝国時代は秩序と正義の黄金時代であり、政治的分裂の時期は混沌と不正の暗黒時代と見なされ今日に到っている。それは公正な世界は別個のさまざまな独立した国民国家から成るという近代の西洋の見方とは逆である。


 多数の小さな文化を融合させて少数の大きな文化にまとめる過程で、帝国は決定的な役割を果たしてきた。思想や人びと、財や富、有用な技術は、政治的に分裂した地方よりも帝国の国境内でのほうが容易に広がった。帝国自体が意図的に思想や制度、習慣、規範を広めることも多かった。それは一つには手間を省くためだった。標準化は皇帝たちにとって大きな恵みだった。また帝国が共通の文化を積極的に広めたもう一つの理由は、正当性を確保することだった。少なくともペルシャのキュロス大王と秦の始皇帝の時代以降、帝国は自国の行動は、征服者よりも被征服者のほうがより大きな恩恵を受けるためであると本気で信じていた。時が経つにつれ、帝国内における文化変容と同化の過程を通して、征服者と被征服者を隔てる壁が最終的に崩れる場合も多くあった。被征服民は、もはや帝国を異国人による占領制度とは見なさず、征服者も支配民を自分たちと対等に眺めるようになった。ローマ帝国では、ローマに支配されていた人びとは皆、何世紀にも及ぶ帝国支配の後、ついにローマの支配権を与えられた。非ローマ人がローマ軍の将軍や元老院議員に任命された。紀元後2世紀には一連のイベリア生まれの皇帝に支配された。おそらくその血管には地元のイベリア人の血が少なくとも数滴は流れていただろう。トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスの治世は、ローマ帝国の黄金時代だと考えられている。その後、民族の壁はすべて崩壊した。

 人類の文化から帝国主義を取り除こうとする思想集団や政治的運動がいくつもある。帝国主義を排せば、罪に犯されていない、無垢で純正な文明が残るというのだ。こうしたイデオロギーは、良くても幼稚で、最悪の場合には、粗野で乱暴な国民主義や、正義を取り繕う不誠実な見せかけの役を果たす。しかし有史以来、そのような無垢で純正な文化は一つもない。人類の文化はすべて、少なくとも部分的には帝国と帝国主義文明の遺産である。例えば、現代のインド人の国家は大英帝国の子供だ。イギリス人はインド亜大陸の住民を傷つけしいたげたが、彼らはまた、相争う藩王国や部族などの、途方に暮れるほどの寄せ集めを統一し、インド人が共有する国民意識と、概ね単一の政治的単位として機能する国家を生み出した。彼らはインドの司法制度の基礎を築き、行政機構を創設し、経済統合に不可欠な鉄道網を敷設した。その後、インドは独立にあたり、イギリスに倣って、統治形態として西洋の民主主義を採用した。多言語国家のインドにあって英語は今なお共通語である。今日、帝国主義の遺産だからという理由で、民主主義や英語、鉄道網、クリケット、紅茶を廃止する投票を求めるインド人が何人いるだろうか? イギリスによる支配でインド文化が台無しにされたと憤慨する人は、ムガール帝国の遺産と征服者であるデリーのスルタンの権力を、図らずも神聖視することになる。文化の継承にまつわるこの厄介な問題をどのように解決すればいいのかは、誰にもはっきりとはわからない。どの道を選ぶにしても、問題の複雑さを理解し、過去を単純に善人と悪人に分けたところでどうにもならないのを認めるのが第一歩だろう。


 地域によって異なるが、BC500年~BC200年ごろから、人類のほとんどは帝国の中で暮らしてきた。将来も、やはり人類の大半が帝国の中で暮らすだろう。だが、将来の帝国は真にグローバルなものとなる。全世界に君臨するという帝国主義のビジョンが、今や実現しようとしているのだ。21世紀が進むにつれ、国民主義は急速に衰えている。次第に多くの人が、特定の民族や国籍の人ではなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治の指針であるべきだと考えるようになってきている。だとすれば、200近い独立国があるというのは、その邪魔にこそなれ、助けにはならない。

 2023年の時点で、世界はまだ政治的にばらばらだが、国家は急速にその独立性を失っている。独立した経済政策を実施したり、好き勝手に宣戦を布告して戦争を行ったりすることや、自らが適切と判断する形で内政を実施したりすることさえも、本当にできる国は一つとしてないはずだ。これに近い形で現在行っている、あるいは行おうとしている国々の試みは、世界から理解されず、やがて失敗に終わるだろう。国家はグローバルな思惑や、グローバルな企業やNGOの干渉、グローバルな世論や国際司法制度の影響をますます受けやすくなっている。さらに金融面での行動や環境政策、正義に関する国際基準に従うことを余儀なくされている。資本と労働力と情報の途方もなく強力な潮流が世界を動かし形作っており、国家の境界や意見は次第に顧みられなくなっている。我々の現前で生み出されつつあるグローバル帝国は、特定の国家あるいは民族集団によって統治されはしない。この帝国は多民族のエリート層に支配され、共通の文化と共通の利益によってまとまっている。次第に世界中で、多くの起業家やエンジニア、専門家、学者、法律家、管理者が、この帝国、すなわち世界国家に参加するようにと呼びかけを受けている。彼らはこの世界国家の呼びかけに応じるのか、それとも自分の属する国家と民族に忠誠を尽し続けるのか、じっくり考えなければならない。だが、世界国家を選ぶ人は増加の一途をたどっている。


 ***


「世界の古代帝国歴史図鑑」の編者であるイギリスのトーマス・ハリソンは、古代帝国と呼ばれる国々は、地理的に広範囲にわたり、独自の変遷を辿ったとはいえ、敵対関係や継承問題、異民族の同化といった要素が複雑に絡み合いながら互いに結びついているという。中国では漢が秦の流れを受けて成立したように、南アジア、インドのマウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝もそれぞれ前王朝との複雑な関係の中から形成されていった。アレクサンドロス大王の死後の混乱から興ったパルティア王国やササン朝ペルシャは、BC6世紀後葉からBC4世紀後葉に栄えたアケメネス朝ペルシャを規範とし、それに倣って自国の支配者を「諸王の王」と呼んだ。それは古代インドの王朝も同様だった。アケメネス朝ペルシャがギリシャと衝突したように、パルティア王国やササン朝ペルシャはローマと対立した。そしてどちらも東の帝国のほうが、西の敵方の歴史家に記述されるという憂き目にあった。

 なぜ今、古代帝国について知るべきなのか? 19世紀後半と20世紀初頭は例外として、古代帝国の歴史がこれほど時宜じぎを得て、人びとの興味をかき立てる時代はかつてなかった。その理由を探るなら、現代の国家が繰り広げる熾烈な覇権争いに目を向けなくてはならない。スペイン、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど、かつて列強と呼ばれた国々は時代の激しい変化に対応するために、帝国だった過去の時代をこれまでとは全く異なる方法で見直さざるを得なくなっている。それと並行するように、帝国をめぐる人文学的研究も着実に進歩してきた。とりわけ現代文学に現れた「ポストコロニアル」の潮流は、帝国が表面的な支配構造だけではなく、人びとの心にも存在していたことを改めて教えてくれる。帝国の終焉は、はるか遠くの植民地から手を引くという単純な話ではない。宗主国の旗が降ろされ、楽隊が出発してから何年経とうと、人びとが世界との関係を捉えるときに、帝国は抜きがたく存在しているのだ。帝国は間接的・個人的な形で出現しうるのだという理解は、新しい帝国の認定にもつながった。ロシア、オスマントルコ、それに西ヨーロッパ諸国など過去の帝国は、それぞれローマ帝国の後継を標榜していたが、アメリカにもその順番が回ってきた。

 現在の目的のために古代史を利用するのは、今に始まったことではない。古代帝国へのなぞらえは、建築様式の模倣や英雄の装束などさまざまな形で行われている。また数は少ないものの、より直接的な対比もある。例えば、他民族の扱いなど現代世界で帝国運営が直面する問題の答えを、古代史に求めようとする動きだ。今の帝国は、一つの古代帝国を「祖先」と仰ぐのではなく、いくつもの国からヒントを得ようとする。アメリカ建国の父たちは、カルタゴとその宿敵ローマに範を求めた。イギリスはローマとペルシャから帝国支配の発想を得た。ドイツもローマ人だけでなく、ローマ支配に抵抗した英雄たちも手本にした。これぞまさに古代から言われていた「トランスラティオ・インペリイ」、つまり、一番新しい帝国は、過去の帝国の良い面を採り入れ、悪い面を抑制したり、排除したりした総和という概念である。現代の古代帝国観は、こうした文脈を基礎に築かれた。古代帝国は、考古学的な発掘調査で多くの証拠が見つかっているが、そうした調査自体、大なり小なり強国の支援で行われたものだ。ヨーロッパの研究者がこぞって取り組んだ楔形文字の解読によって、西アジアの古代帝国、アッシリア、バビロニア、ペルシャなどにさまざまな角度から新たな光が当たることになった。そしてついには、19世紀の欧米に定着していた中東諸国の退廃的な印象が覆されたのである。しかし同時に、明らかになりつつある古代文明を捉える思考の枠組みが、欧米の列強によるもので固定されてきたことも確かであり、それは今も続いているかもしれない。


 そもそも帝国とは何なのか? 帝国を一言で表現することはできない。海洋軍事同盟から帝国へと発展したものの、短命に終わったアテナイは、言わば単にアルケー、すなわち統治と呼ばれた。ラテン語のインペリウム(Imperium)は帝国を意味する英語(Empire)の語源だが、元は正式に認められた権限のことだった。現代の「Empire」は、規模はさまざまで、遠くの植民地を統治するものもあれば、君主が支配するものもある。官僚制度が根を張っているかと思えば、形ばかりの中央集権制を敷いている場合もある。住民の同化にいそしむものもいれば、異なる人種のエリート層を通じて間接的な統治を行う者もいる。支配のための手段はいろいろで、規模や領土の広さのみならず、持てる技術によっても変わってくる。現在のアメリカ合衆国まで加えるとなると、帝国の定義はさらに広くなる。近年アメリカの政治論議では「帝国」という言葉が一部でははばかりなく使われているようだが、一般のアメリカ市民は自らを反帝国的と位置付けているはずだ。こうした帝国が、過去に存在した帝国との比較によって巧みに実態を隠している事実は認めなければならないだろう。とはいえ、ローマ帝国もまた、あくまで共和政という文脈で綴られていたのである。

 古代世界の帝国に対する我々の視点、なかでも道徳的な判断が、現在見聞きする帝国の姿に左右される。例えば、中東の帝国というと必ず道徳的観念が低く、退廃的だったとの烙印が押され、それ以外の帝国は学問が盛んだったと好意的に見られてきた。そうなったのは、一つには「オリエント(中東)学者」の思い込みによる記述が最初に広まったせいであり、さらには、違う価値観で書かれた古代文献しか情報源として頼れなかったせいもある。例えば、ペルシャのクセルクセス王の人間像は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによるペルシャ戦争の記録による部分が大きい。同様に新バビロニアのネブカドネザル王のイメージを形成しているのは、彼が命じたユダヤ人のバビロン捕囚についての旧約聖書の記述だ。このような古代文献を鵜呑みにした軽率な道徳観は、おおむね過去のものになっているが、一度定着した道徳観はそう簡単に拭い取れるものではなく、古代帝国を見るときに道徳的な物差しを持ち出したくなる傾向は今も変わらない。例えば、安全が守られるのであれば、経済的搾取を受けたり、「文明化の布教」をされても仕方がないと考える。道徳的な功罪を天秤にかけるこうした考え方は、現代の帝国を背景として、多少なりともそれを擁護したいという意識的な欲求から出てきたものなのだ。このような道徳的天秤は、支配される側ではなく、権力側の視点に自ずと現れるものである。

 古代ギリシャの歴史家ツキディデスは帝国を理論づけた最初の人物の一人だが、彼は近隣諸国のギリシャ支配を正当化するアテナイ人に、「弱者は強者に支配されるのが決まりだ」と驚くようなことを言わせている。そうなると広義の帝国は世の定めとなり、古代帝国から我々が学べることは、それぞれの国の状況次第ということになる。ただツキディデスは、「その上で我々は権力に相応ふさわしいか考慮する」とも付け加えている。

「帝国」を区別する特徴として、支配手段の違いはもちろんだが、自らを正当化するためにどんな想像をどういう方向でふくらませるか、ということも関係してきそうだ。過去の実績を臆面もなく持ち出して正当化を主張する国もある。アケメネス朝ペルシャの創始者キュロスは、近隣諸国の争いに終止符を打つ慈悲深い世界警察を標榜した。ローマ帝国や中国の秦・漢は国境の外は文化果つるところと決めつけてはばからなかった。また現在のアメリカ合衆国のように、自国の価値観が永遠で必然であるかのように演出する国もある。古代のアテナイでも、必然性は自己正当化の大きな柱だった。このイデオロギー的な側面や、無限に再生し得る能力にだけ注目すれば、古代と現代の帝国の表面的な違いはないに等しい。


“過去を振り返り、興っては滅びた数多あまたの帝国の変遷を眺めたまえ。そうすれば未来をも見通せるだろう”

 By マルクス・アウレリウス(紀元後2世紀の第16代ローマ皇帝)


 過去と現在、古代帝国と現代におけるその解釈が織りなす複雑な関係、それをこれからのエピソードで見ていこう。

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