第101話 春秋戦国時代における社会の発展と諸子百家

(春秋時代)BC770年~BC470年


 春秋時代の中期以降にはじまった鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。この時期に商人階級が台頭したことは、経済活動が高度になり、商業の専門家が存在していたことを意味している。都市間の人の移動は頻繁になり、伝統的なきずなとは異なる新しい秩序が形成される。都市には出自を異にする人びとが集まる。そうした人びとは出自ごとにうじを称する。この氏は都市の住民に拡がり、ついには皆が氏を持つに到った。春秋時代は、形の上では東周の王室を担ぎながら、北方の斉・晋・秦と、南方の楚・呉・越などの大国が中原の地を相互に争い、国際関係の舞台回しを務めていた。ちなみに、春秋時代初期には、250前後の諸侯が存在していたと考えられている。この春秋時代を通じて華北一帯にあった数多くの国が文明を共有するようになり、さらには未開の民族がまだ多く住んでいた南の樹木の生い茂る湿地帯である長江流域にまで伝わっていった。BC500年ごろまでの中国文明は世界史的にみると、未開の海に浮かんでいた小さな島のようなものだった。


<春秋五覇>

 一般的理解によれば、周王朝の王道政治が衰えた後、戦乱の世がおとずれた。春秋の世に現れたのは、王道ではなく、武力(覇道)で諸侯を従える者たちである。その有名な者たちを挙げるにあたっては、5つの国と5人の覇者がいる。

 斉のかん公(在位:BC685年~BC643年)、晋の文公(在位:BC636年~BC628年)、楚の荘王(在位:BC613年~BC591年)、この3人に加えて、宋のじょう公(在位:BC651年~BC637年)、秦のぼく公(在位:BC660年~BC621年)を5覇としているが、宋のじょう公と秦のぼく公ではなく、長江下流域の呉の闔閭こうりょ(在位:BC515年~BC496年)と、越の句踐こうせん(在位:BC496年~BC467年)を入れる説もある。


<春秋列国>

 春秋五覇で挙げたせいしんそうしんに、えつを加えた7国の他には、東周とうしゅうえんちんていなどがあった。このうち中原およびその周辺地域以外の国は、東北の燕、東の斉、西の秦、南の楚、南東の呉・鉞であった。


 春秋時代300年は、周代の祭儀と契約に基づく封建体制から脱却した諸侯や貴族(卿大夫)が中心となり、離合集散の会盟(連合)政治が特色を成していた。それはおおよそ4期に分けて考えられる。

 1期(BC770年~BC670年ごろ)の諸侯勃興期

 2期(BC670年~BC620年ごろ)の斉の桓公、晋の文公らの覇者出現期

 3期(BC620年~BC540年ごろ)の楚の荘王に代表される南北の連盟対立期

 4期(BC540年~BC470年ごろ)の呉・越活躍による諸侯混乱期


 1期・2期には中原や山東など黄河流域を中心とした北部で貴族政治が発展したが、2期の後半にはその政治が頽廃をもたらしたため、自ら蛮夷ばんいと称した南方の楚の荘王が中原に覇を唱え、3期の南北連盟対立となった。さらに楚の台頭が4期における呉・越の台頭を引き出した。

 春秋時代を通じて、南北和平に最大の効果を挙げたといわれる「宋の盟」は宋の主導の下に諸侯の卿大夫が集まってBC546年5月の終わりから7月にかけて宋の都、商邱において開催された。それまで晋・楚・斉・秦の4大国の抗争、特に晋・楚という南北両勢力の対立は激甚を極め、その間に介在する諸国は争いの渦中に巻き込まれて安まる時がなかった。隣通しの宋と鄭の間に紛争が絶えなかったのも、こうした背景を抜きにしては考えられない。もともと宋は晋に組することを外交の本筋としてきたが、楚の勢力圏に近く、西隣りの鄭とも緊張関係が続いていたから、国際的和平が成立しない限り、国内の安定もあり得なかった。


<呉越戦争と越文化圏>

 BC601年、呉(長江の南、太湖周辺の蘇州)と楚(長江中流域)は対立した。越(呉の南・会稽かいけいを中心とした地域)はBC544年時点では楚に従う形で楚・呉戦争に参戦した。その後の呉・越の戦いはBC510年以降であり、越はBC494年に「会稽かいけいの恥」と言われる敗北で呉に服属、しかしその後、越はBC473年に呉を滅ぼし、長江下流域の大国は鉞になった。呉・越文化の特徴は“文身断髪”、土壙墓どこうぼ・石室墓と呼ばれるマウント状の墓葬にある。石室墓は太湖の東に多くみられ、越文化を代表している。

 BC471年、鉞は山東の大国斉と中原の大国晋、それぞれの率いる諸侯と鉞と斉の境界付近に位置する徐州で会盟した。この時、越は周王(東周)に貢ぎ物を差出し、周王からは覇者に賜られるとされる「文武の」が賜与されたという。一般的には、この翌年のBC470年をもって、合従連衡がっしょうれんこうの戦国時代が始まるとされる。


<多様な民族>

 中国古代には多様な民族が混在していた。山東省の付け根あたりに位置するせいの旧都、臨淄りんしの遺跡から出土した2500年前の春秋戦国時代中期の人骨と、2000年前の前漢末の人骨をミトコンドリアDNA分析した結果、春秋時代末期の山東人はインド・ヨーロッパ語族系の集団と近い関係にあり、前漢末の山東人は中央アジアのウイグルやキルギスの集団に近いということが判明した。中国の古代には現在とは遺伝的に異なる人々があちこちに移り住んでいた可能性が高い。前漢時代の燕国の30歳前後の王妃の人骨を復元したところ、新疆ウイグル自治区のタジク族に似ていた。また、この時代の呉や越は新石器時代の河姆渡かぼと文化の担い手以来の越人の先祖たちであったと思われる。それは、悠久の中国史がいろいろな民族によって作られ、変質してきたことを物語っている。現在の中国人の容貌には、インド・ヨーロッパ語族の面影はほとんどない。それは、後の時代にモンゴルの元、満州族の清などの北方東アジア人が支配者として長く君臨した影響や、BC500年ごろからの鉄器普及による農業生産力の増加による長江以南の稲作農民の人口増加などにより、インド・ヨーロッパ語族系やテュルク系集団の遺伝子が二千数百年の間に希釈されてしまったからである。


<中国文字、漢字>

 戦国時代(BC470年~BC221年)に入ると、青銅器に銘文を鋳出することは少なくなり、代わって竹簡と呼ばれる竹の札やきぬに書くようになってきた。近年、これらの資料が相当数発見されるようになった。一番古いものが春秋末期にしんから分かれたちょうにおいて、玉片などに書かれた誓盟ちかいの文書である。これらの玉片や竹簡の文字を比較すると、全土にわたって統一された筆記体が次第にできて来ていたと推測される。戦国時代に多くの思想家が諸国を遊説してまわることができたのも、共通の筆記体の文字によって自説を発表し、また他説を記録することができたからである。こうして秦の始皇帝による文字の統一、小篆しょうてんと呼ばれ、現在でも印に使われる字体への準備がなされた。この小篆の成立と併行して、より簡単な字体が使われるようになったようで、それが漢代に一般に用いられた隷書れいしょである。そして、この隷書をさらに簡略化した楷書かいしょが作られ、以後、現在まで漢字の基準字体となっている。

 漢字の書体には、篆書てんしょ隷書れいしょ楷書かいしょ行書ぎょうしょ草書そうしょなどがある。これらのうち隷書以下は漢代以降にできあがって書体である。木簡に記された後、漢代には紙が発明、改良され、やがてその紙に字を書くことが一般化した。篆書てんしょは秦の始皇帝がそれまであった書体を省くなり改めるなりしてできた書体だと伝えられ、それまでの書体を大篆だいてん、始皇帝のときに作られた書体を小篆しょうてんと称している。隷書れいしょとその発展形である楷書かいしょは、筆画のはね具合などを除けば、基本的に同じである。行書ぎょうしょ楷書かいしょを若干くずした書体、草書そうしょはさらに筆画をも大胆に省略した早書きのための書体である。

 隷書は秦の文書行政用書体だった。この隷書が普及したことにより、後世になってから秦の始皇帝が文字を統一したかのように言われるようになった。魏・蜀・呉の三国時代(紀元後220年~280年)に隷書から楷書、行書に次第に移行した。草書は初期の隷書から生まれたもので章草しょうそうと呼ばれた。現在の草書は今草きんそうと言われ、後漢末から三国時代に誕生している。この時代に生まれた書道は次の東晋時代(紀元後265年~316年)に書聖と呼ばれる王羲之おうぎしの出現によって芸術として大成する。

 文字が少数エリートの占有物だったことは、エリートの威光を高めただけでなく、中国語を方言の違いや時代による変化から守るという結果をもたらした。このことは中国の統一と政治的安定にとって大きな意味を持っていた。広大な中国において書き言葉、つまり文語は公用語そして共通語としての役割を果たし、方言や地域的な境界を越えて各地に文化を伝達することができたからである。


<姓と氏>

 漢字が広まる過程で、都市国家の首長を候とした。その首長が称したのが「姓」である。同じ姓の諸侯が同族の扱いを受けた。例えば、周の同族とされた諸侯は「姫姓」を称している。それは漢代の説明と思われる。「氏」は都市の人びとの移動が激しくなり、漢字を使用する人も増えた春秋中期以後、次第に「氏」が現れた。鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。耕地が急激に増え、都市の数も急増した。都市間の人の移動は頻繁になり、伝統的きずなとは異なる新しい秩序が形成される。都市には出自を異にする人びとが集まる。そうした人びとは出自ごとに氏を称した。この氏は都市の住民に広がり、ついには皆が氏を持つに到った。


<孔子>

 春秋時代といえば、まず孔子(BC551年に生まれ、BC479年に没)というほどこの人物とこの時代は切っても切れない関係にある。また、この人物ほど歴代の尊崇を集めた思想家もいない。孔子が目指したのは、古くから伝わるしきたり、つまりれいの中に存在する基本的な知恵を普遍的な形で人びとに示すことだった。そうすることによって、支配階級に高潔な人格や私利私欲のない奉仕の精神を取り戻させようとした。一方で、孔子は「秩序の原理」を重んじ、家族・階級制度・年功序列などを維持し、人はそれぞれの身分に応じた義務を果たすべきであるという思想で、伝統文化を敬い、礼儀作法を重んじ、几帳面に職務をこなす保守的な人を生みだすという性格を持っていた。孔子は弟子をたくさん育てた。その弟子たちもさらに弟子を育てた。そうして増えていった孔子の後継者たちが各国で活躍するようになる。その過程で次第に形を整えるのが原始儒教である。孔子の評価は国によって異なる。賢人を代表する人物だとする国もあれば、未来が読めない者の代表だとする国もあった。孔子の弟子たちが孔子の言葉を記録したとされる「論語」は、戦国時代に原形ができ、その後2400年にわたって中国文明に大きな影響を与えていくことになる。漢代になって今見られる体裁に落ち着いた。漢の時代以降の中国の官僚制度は、孔子の教えをもとに運営されることになる。孔子は行政の手引きとして、「文、行、忠、信」の4つの教訓をあげたとされている。文は学問、行は実践、忠は真心を込めて仕えること、信は信義を意味する。

 孔子の教えはという都市国家で始まり、賛同者を得て近隣に広まった。広まる過程で、孔子の弟子たちの展開した主張は都市の議論ではなくなり、領域国家ごとの要請に沿って、それぞれの国家の論理を述べる上で利用された。孔子は「勇」を語る遊侠であり、「智」を語る者であり、「仁」を語る者でもあった。決して「仁」だけを突出させていたのではない。突出させたのは弟子たちであった。

 後の時代に、中国にはさまざまな思想や宗教が登場するが、そうした時期には孔子の権威がすでに確立されていたため、中国文明は他の文明ほどには神学的な問題、つまり神は実在するかとか、人間は救済されるかなどといった厄介な問題に悩まされることはなかった。神学上の思索にふけったり、神という概念にすがって安心を得たりするよりは、過去の教え、いにしえの知恵に戻り、正しい社会秩序を維持することの方がはるかに重要だという共通認識があったからである。このことが世界史上類を見ない中国の安定した国家体制の基礎を築いたといっても決して言い過ぎではない。しかし、その一方で支配者たちの間に保守的な傾向を根づかせ、文化的な停滞を招く要因にもなった。



(戦国時代)BC470年~BC221年


 一般的に言えば、春秋時代には宗姓氏族的結合を中心とした大勢力が世族(豪族)として発展途上にあり、しばしば諸侯の廃位を行い、ついにはその地位に取って代わるほどになった。ここに、いわゆる下剋上の戦国時代が出現したが、これと同時に諸侯は領域内の農民を掌握し、中央集権を強化することに努め、いわゆる君権拡大の傾向が著しくなり、多くの世族的勢力は中央の王族に吸収されていったということも時代の体勢の重大な面であった。法家を始め諸子百家の目覚ましい論戦も当然この政治の趨勢に沿ったものとなり、その論戦の根底をなす社会の転換を認めなくては成り立たないものだった。しかしながら、せいえんかんちょうの六国に、しんを加えた戦国時代七雄をそれぞれの政治的な推移について考察してみると、やはり各々の内容に特殊性があって、画一的には論じられないところがある。例えば、秦の王室を中心とした集権体制の確立は、中原諸侯が大世族に取って代わられる運命を辿ったのに比べて、終始強力な王室がその発展の推進力となっており、それに付随して他国から来た客卿遊侠かっけいゆうきょうの士の目覚ましい活躍が特徴的である。また楚の国も秦と同様に、中原の諸国からは蛮夷とされた国ではあるが、その内情は秦とはすこぶる異なっている。楚は春秋戦国の時代を通じて同一王族がその支配力を維持したという点では秦と類似しているが、他方、伝統的大世族の活躍が非常に目立ち、客卿遊侠の士の採用は少なかった点は秦の体制と著しく対照的である。こうしたことから、戦国七雄を次の3つの型に分けることができる。

 ① 王権強化によって旧来の世族および王の親族や宗族まで弱体化した。(秦)

 ② 王の親族や宗族が残存する。(趙・斉)

 ③ 旧来の世族が軍事・政治の実権をある程度握っている。(楚)


 戦国時代といえば、一般に合従連衡がっしょうれんこうの時代だとされている。合従連衡を検討するための材料は「戦国策せんごくさく」に豊富に残されている。この書物は前漢末(BC1世紀後葉)にまとめられたもので、まとめられる前には、「短長書たんちょうしょ」や「国事こくじ」などと称されるいくつかの書物で、「史記」が材料にしたのはこれらの書物である。「戦国策」に説話冒頭の説明が付加される前の資料は現実に出土している。湖南省長沙ちょうさ馬王堆ばおうたい3号墓出土の「戦国縦横家書しょうこうかしょ」である。そこには「戦国策」に採用されなかった説話が少なからず残されていた。

 戦国時代に活躍した「」の最大の花形であった「言談の士」たちの身分に農民層を混えていたらしいこと、少なくとも攪乱された社会の中で庶民的意欲を背景にして現れていたということは、農民たちがこれを羨望する余り、農を避け、耕の労を嫌ったと言われ、ついには田畑を棄て家屋を売り文学に夢中になる者が村の半分になったと記されるところまで出てきたことによっても推測される。もっとも農民層といっても小地主層の人たちが中心であっただろうし、さらには貴族出身者も多くいたことはもちろんである。これら遊説の士は、新しく地方都市の中から勢力を拡大し政治に参加しつつあった貴族たちの下に集まりともに動いた。この種の小地主層や、それと結合している人びとの政治的な動きの中で最も特色のあるのが、諸子百家の一つである「縦横家しょうこうか」と呼ばれる権謀策士の発展である。「戦国策」はこの「言談の浮説」すなわち縦横家の論を主として記載したものと思われる。戦国末期に専制支配の傾向が強化されてくると、「法家」を中心とした政治家たちは、専制に対する非難と反抗を唱えるこれらの独立的勢力を如何に統括し抑制すべきかという重大な問題に直面した。「故に国を破り、主を滅ぼすは言談者の浮説を聴くを以ってなり」という嘆きの起こるゆえんである。

 縦横家は言談を政治的平和と社会の安定への重要な力であるとする考え方を基にして、君臣の信義という情的結合の精神を強調し、各所に頭をもたげる専制勢力に反抗し、あるいはその欠陥を衝いて、自己の有用性を説いてその立場を確保しようと試みるが、現実の専制勢力の急激な拡大の前には次々に押し流され、また無力化されてついには進んでその力に屈し身を守らんとする道家的保身をする者が続出するに至った。商人層や地主層の実力を背景にして情的結合を倫理づけることにより社会で活動しようとする彼らは、その意味を否定し、地方を統一して専制支配を打ち立てることにより社会を秩序づけようとする君主の権威や武力を用いた法家の信賞必罰による独断的実力主義を前にして屈服せざるを得なかった。戦国末よりの道家思想の急激な拡大の原因の一つはここにあるようだ。新しい政治を築こうとする為政者や法家などもこの道家的政治観を採用することによって旧貴族や縦横家らとの妥協点を見出し、これを根拠として政治の基礎を理論づけ、君主の態度を理論づけようと試みている。


 BC453年、中原の大国、晋の諸侯の一人である氏がかん氏、氏とともにちょう氏を攻めたが、同年に韓氏、魏氏が寝返って趙氏についた。BC451年、趙氏・韓氏・魏氏の三晋が知氏を滅ぼした。これ以降、晋の政治は三晋によって決定されることとなった。そしてBC403年、趙氏・韓氏・魏氏が春秋時代以来大国として君臨していた晋を三分し、周の威烈いれつ王によって晋に替わる諸侯だと認められた。ここに名実ともに戦国時代が始まることになった。下剋上の気運は晋だけには留まらなかった。東の斉でも元はちんの君主の子であったでん氏の一族が台頭し政治の実権を握るようになる。BC388年、宰相の田和は斉の康公を幽閉し、自ら諸侯を名乗り、周公もこれを承認した。以降、斉は田斉と呼ばれるようになり、戦国時代の二強と称されるようになる。

 戦国時代の七雄は、せいえんかんちょうの六国に、しんを加えた七国で、そのうち西方の秦と東方の斉が二強だった。春秋時代からかろうじて存続してきたそうといった10余りの弱小国は七雄のいずれかに従属していくしかなかった。その二強に挟まれた中原の魏・韓・趙がBC298年、斉とともに秦を函谷関かんこくかんの西に押し込めることに成功する。しかしその後BC288年に、斉が魏の南東に位置する宋に攻め込むと、諸国は連合して斉を攻めた。この戦いで斉は滅亡の淵に立たされる。秦は斉の滅亡の危機という絶好の機会をとらえて、強力に対外拡張を進めた。最大の敵であった斉は衰え、趙も秦に対抗しきれない。秦にとって最大の敵は南方の楚になった。そもそも楚は湖北の西寄りの一角から発展を始め、春秋時代には長江中流域を支配する大国となり、戦国時代には富国強兵を図り、BC329年には長江下流域の鉞を破った。楚は西の秦、北の韓、東北の斉と軍事的緊張状態のまま、鉞の地の支配に乗り出した。

 秦はこの状況をうまく利用することにした。楚に攻め込む準備として長江上流域の巴蜀はしょく(四川の地)を制圧する。この地は「巴蜀文字」を用いる地域で、春秋時代以来基本的に漢字圏には入っていなかった。殷・周に並行する時期に三星堆さんせいたい文化、十二橋じゅうにきょう文化と称される青銅器文化を誇り、以後も独自の文化を継承してきた。そこに秦が侵入して蜀の国を滅ぼしたのはBC317年のことである。東方の諸国が秦を封じ込めたBC298年以降に秦の蜀支配は軌道に乗っていく。斉が宋に攻め込んだのがBC288年で、宋はBC286年に滅んだ。直接宋と領土を接していたのは攻め込んだ斉と、魏と楚である。斉の独走を食い止めるべく各国は斉を攻める。秦・趙・韓の軍も当地にやってきた。そして泥沼状態から抜けられなくなった。

 そうこうしているうちに秦はBC280年に蜀から南下し、湖南の西から楚に侵入し、BC278年に楚の都のえいを陥落させた。そして翌BC277年、湖南の地も秦に平定された。ここに楚の本拠たる湖北・湖南の地も秦の支配下に入ることになった。秦の軍事的優位はこれ以後ゆるぎないものとなっていく。


<都市国家から領域国家へ>

 殷周時代の国家とは、せいぜい支配者の領地と祭祀を守るという必要から生まれた抽象概念に過ぎなかった。王は戦いに関する決定を行う以外は宗教上の役割を果たし、狩猟と宮殿を建設する程度のことしか行っていなかったように思われる。長い間、中国の支配者たちは官僚組織なしで国を治めていた。その後、春秋時代に入ると、次第に宮廷を取り仕切る家臣たちの間に階級が生まれていったが、広大な領地の所有者である王が必要とした官僚は、領地の管理人と農場の監督者、そして数人の書記だけだったようである。当時の王たちにとって領地の問題が最も重要だったことは間違いない。この時代に交通網が整備され、物資が流通するようになった。都市の商業地区には宝石や骨とう品、食べ物や衣服を売る店が並び、酒場や賭博場、娼館まであったようだ。個々の領域国家の経済を成り立たせているのは、天下における物資の流通である。「天下」とはすべての領域国家を包含する地域を指す言葉である。その流通を支えていたのが金属貨幣であった。


<金属貨幣>

 金属貨幣の出現は天下を舞台とした物資の流通が本格化したことを意味する。出現するのはBC5世紀ごろで、最初は物々交換を反映して貨幣も大型だった。BC4世紀に入ると、次第に小型化し貨幣量も増えた。但し、領域国家ごとに独自の貨幣を発行し、領域内で流通させた。中原地域の韓・魏・趙では農具に由来する形をした布銭ふせんが、山東の斉や河北の燕では刀子とうすに由来する形をした刀銭とうせんが、南方の楚では小粒の蟻鼻銭ぎびせんが、西方の秦では円銭えんせんが流通した。いずれもまとめて重量が量れるように穴が開いていたり、束ねやすい形状になっていた。まとめて重量を量るということが、国家のタガを外す役割を演じ、どの国の貨幣を使っても結局は貨幣の総重量でやり取りができた。こうして実質貨幣の統一が進行することになった。


 「中国」は文化の華咲く地域であり、領土支配の正当性を主張する地域である。一方、「夷狄」の地は野蛮の地であり、中国に対する地域である。その地域は自らに対抗する諸国家の領域になっている。いわゆる漢族、漢字漢文を共通の財産とする民族はこのときに出来上がった。

 戦国時代に入ると、鉄製農器具が広く用いられるようになり、牛耕と相まって農業の生産力が飛躍的に増大した。西アジアの鉄器は鍛鉄から始まった。中国でも西アジアから伝播した鍛鉄の技術から鉄器生産が始まったようだが、すぐに炭素を浸み込ませて比較的低い温度で鉄を熔かす鋳造鉄器が主流になった。鍛鉄は展延性に富むが柔らかい。鋳鉄は硬いがもろい。この中間の性質を持つのが鋼であるが、その生産もほどなく始まった。鋳鉄の製造にはより高温の技術管理が必要になるが、ふいご坩堝るつぼは既に開発されていた。これらは高度な青銅器技術がもたらしたものである。戦国時代は青銅器が脇役になっていく時代でもある。かつては丁寧に型を作って少量生産していたのだが、春秋後期から型を使って大量に同じ文様を作りだす方法が始まった。大量生産が軌道にのると、作りそのものがぞんざいな器も増えた。



諸子百家しょしひゃっか


 戦国時代(BC470年~BC221年)は社会的にも政治的にも、まさに危機的な状況が出現する。そしてこの「危機の時代」の中で、さまざまな思想が一気に開花することになる。その主役となったのが、後に「諸子百家」と呼ばれることになる思想家たちだった。理想の社会制度や倫理基準を説く思想家たち、すなわち「客卿遊侠の士」が次々に登場し、自らの思想を現実の政治に取り入れてくれる君主を求めて諸国を放浪していった。

 春秋時代中期以降に始まった鉄器の普及により未曾有みぞうの社会変動が起こり、都市の人びとの秩序を激変させた。周から伝播してきた文字は「史」という文字書きが扱い、都市国家相互の取り決めの確認などの使用されていたのだが、次第に大国中央組織とのやり取りの道具としての使用が始まる。都市国家は滅ぼされて、派遣された官僚の統治下に入り、「史」は再編されて中央や地方に所属する「属史」となっていく。文書行政は官僚が取り仕切るようになり、それを支える法整備、つまり律令の編纂が進んだ。春秋時代は「史」の時代で、「史」は祭祀を司る官で文字書きを担当する者だった。それが戦国時代には官僚の時代になる。「史」はその職能をかわれて文書行政を支える官吏や属史となった。その官僚の中から国家を動かす議論をまとめる者たちが出現する。それが諸子しょしである。諸子が「天下」を語る議論は、官僚統治を基礎とし、戦国時代に出来上がった理論を縦横に駆使する。

論衡ろんこう」を書いた後漢の王充おうじゅうによれば、孟子は中人以上について性善説をとなえ、荀子は中人以下について性悪説をとなえ、道家どうかは上人のみを語り、法家ほうかは中人以下を管理しようとした。どの階層に焦点を当てるかが異なり、棲み分け、共存することができた。諸子の言説は、官僚を統べる王や天子がいかなる存在であるかを論じるものだということを前提にしている。その上で棲み分けを語っている。諸子がさまざまな説を述べたという理解は、科挙が本格化した宋代(紀元後960年~1279年)以後、より直接的には明代(紀元後1368年~1644年)以後の諸子理解である。諸子の思想の多くは国家秩序が確立する過程で次第に衰え、儒家と道家、そして法家が生き残ることとなった。戦国時代は諸子の時代である。後の時代の「漢書」に記された諸子を以下に列挙する。


<儒家(司徒の官)>

 国家の体制に関する論争で法家と対立したのは、孔子の弟子たち、つまり儒家だった。儒家を司徒の官というのは、司徒は宰相の別名であり、官吏を統べる官であったことに基づく。官僚のことを論じるという意味である。儒家は実践道徳を重んじた。代表的な思想家は孔子(BC551年~BC479年)、孟子(BC372年~BC290年)、荀子(BC298年~BC238年)であるが、彼らが活躍した国家も時代も異なる。したがって、彼らは同じ時代に同じ国家で棲み分けを論じていたのではない。孟子は人びとに「仁義じんぎ」、つまり人間愛と人の行うべき道を説いた。この原理に基づいた道徳律に従うことで、人間が本来持っている善の性質が働くことになるという。

 儒教の基本的な古典を「経書けいしょ」という。BC2世紀の前漢の武帝の時代に儒教が国家公認の学とされると、「易経えききょう」「書経しょきょう」「詩経しきょう」「礼記らいき」「春秋しゅんじゅう」のいわゆる「五経」が定められ、それを研究する五経博士がおかれるようになった。それから1000年以上後の宋の時代(紀元後960年~1279年)になって、「論語ろんご」や「孟子もうし」を含む「十三経じゅうさんぎょう」が成立し、その注釈を集めた全416巻の叢書そうしょも編纂された。「十三経」は古代の詩や年代記、公文書や格言、古代の宇宙論ともいうべき「易経」など、さまざまな書物を編纂したもので、その成立の基盤となったのは1500年も前に活躍した孔子の極めて高い権威だった。つまり中国文明は、西洋文明が聖書の教えを中心に国家や社会を築いたように、孔子の教えを基本に長い伝統を築いていった。さらにこうした経書の存在は、もう一つの重大な役割を果たすことになる。知識層だけが使う「文語」という共通語を各地に浸透させ、中国文明の統一性を守る役割も果たしたのだ。「十三経」に代表される経書は、広大で多様性に富んだ中国を共通の文化で結びつける大きな力となったといえるだろう。

 孔子は「怪力乱神かいりょくらんしんを語らず」といったと伝えられているように、超自然現象についてはほとんど何も触れなかった。これは他の文明の常識からすると、かなり驚くべきことといえる。つまり儒教とは、一般的な意味でいうところの「宗教」ではなかったのである。思想家としての観点から見ても孔子は、他の思想家のように神秘的な存在や人智を超えた「永遠の真理」を追究するのではなく、人間の平凡な常識の中にこそ、普遍的な真理が隠されていると考え、それをわかりやすい言葉で伝えようとした。そこに彼の思想の持つ画期的な意味があった。その後中国にはさまざまな思想や宗教が登場するが、すでにそうした時期には孔子の権威が確立されていたため、中国文明は他の文明ほどには神学的な問題に悩まされることはなかった。神学上の思索にふけったり、神という概念にすがって安心を得たりするよりは、過去の教え、いにしえの知恵に戻り、正しい社会秩序を維持することの方がはるかに重要だという共通認識があったからである。このことが、世界史上類を見ない中国の安定した国家体制の基礎を築いたといっても過言ではないだろう。一方で、支配者たちの間に保守的な傾向を根づかせ、文化的な停滞を招く原因ともなった。例えば、BC5世紀にすでに月食を予測できるほど進んでいた天文観測の伝統が、その後次第に衰えていったのも儒教の影響とする学者がいる。


<墨家(清廟の守)>

 BC5世紀の思想家、墨子ぼくしは孔子の説く「じん」を差別的な愛と考え、博愛の教え「兼愛けんあい説」をとなえた。彼は、人間は他人を自分の親族と同じように愛すべきだと説いた。彼の弟子たちの中には、博愛を強調する者もいれば、霊の崇拝を奨励する者もいたが、いずれにしても墨子の教えは広く民衆の心を惹きつけていった。墨家を清廟の守というのは、博愛の教え、すなわち清廟が清明な徳のあるものを祭祀することに基づく。周代が虚偽虚飾に満ちていたのを憤ったことにちなむ。清明な徳のある者とは周の始祖文王をいい、虚偽虚飾はこの時はまだなかったという認識を示す。


<道家(史官)>

 後に道教と呼ばれることになる思想体系は明らかに儒教と対立したものだった。老子は儒教が教えていること、例えば既成の秩序や礼儀を敬ったり、慣習や儀式を守ったりすることはやめて、無為自然の「たお」に従うことを説いた。「たお」とは古くから中国の思想にあった概念で、世界の隅々にまで行きわたり、調和のとれた世界を保っているとされる一種の宇宙原理である。この思想を実行に移すと、政治とは関係を持たず、ただ状況を静観するのが正しいという態度をとることになる。自分たちの村以外の人びとの村々のことに関心を持たず、商取引も行わず、政治的に村と村が結びつくこともない、純朴で貧しい社会を理想とする道教の思想は、繁栄した国家を理想とする儒教の教えとはまさに対極にあった。道家を史官というのは、史官が天文をこととし、天地自然の理に習熟することに基づく。道家は無為自然の道に従うことを説いた。老子は孔子と同時代の人だが、実像はほとんどはかっていない。道教の根本教典「老子」の著者とされる。その他に荘子そうじ(BC369年~BC286年)など人間存在の根本的意味を哲学的に思索した。


<陰陽家(羲和ぎかの官)>

 陰陽家を羲和ぎかの官)というのは、羲和が太陽の御者だという伝説に基づく。太陽に代表される天の秩序を体現し、陰陽五行(木・火・土・金・水)をもって天地の理を知らんとした。


<法家(理官)>

 法家はそれまでの祭祀による国家の運営に代えて、法による統治を国家の基本原理に据えるべきだと主張した。法家を理官というのは、理とは筋道で、正す・裁くという意味があることに基づく。裁きを司るということであり、法律による効果的な統治を説いた。彼らが目指したのは厳格な法治主義と富国強兵政策だった。秦はこの思想を採用した。


<名家(礼官)>

 名家を礼官というのは、礼を司るには文章を考慮する必要が有ることに基づく。名目と実際との関係を論じた彼らをこれで表現した。


縦横家しょうこうか、行人の官)>

 縦横家しょうこうか行人こうじんの官というのは、行人が賓客ひんかくの礼を司ることに基づく。自らが遊説して、そうした説客ぜいかくを操った彼らをこれで表現する。


雑家ざつか、議官)>

 雑家ざつかを議官というのは、議官が諌め議する官であることにちなむ。諸々の説を取捨してまとめあげた彼らをこれで表現する。


<農家(農稷のうしょくの官)>

 農家を農稷のうしょくの官というのは、農稷が農業を司ることに基づく。稷は穀物の神。 


<小説家(はい官)>

 小説家をはい官というのは、稗官が正史にもれた物語を司ったことによる。稗は細米、巷間の雑事を伝えた彼らをこれで表現した。


<兵家>

「漢書」は兵家を兵を司った司馬の職から出たという。



(古代中国の思想・文化・技術)


 孔子の儒家の思想は中国の社会に大きな影響を与えたが、中国の知的伝統を作ったのは孔子だけではなく、道家や墨家など他の数多くの思想家も登場した。そうした思想家個人の影響ではない、東洋思想全体に共通するような特徴も存在する。ギリシャ人のように極めて論理的に思索を展開していくことは、中国の思想家たちの得意とする方法ではなかった。また、彼らはインド人のように来世や観念的な世界に関心が深かったわけでもなかった。儒教に代表される多くの中国思想は極めて実践的な教えである。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの賢者たちとは違って、中国の賢者は現世の問題から離れることはなかった。神や形而上の問題ではなく、実践的で世俗的な問題にのみ関心を向けていた。この傾向は儒教に対抗して生まれた当時のさまざまな思想にもあてはまる。このことは東洋思想全体に共通する特徴といえる。現在の中国では、儒教と道教、そして仏教は三教と並び称されることが多い。


<文書行政>

 春秋時代は「史」の時代であった。「史」は祭祀を司る官で文字書きを担当する者であった。それが戦国時代には官僚の時代になる。「史」はその職能をかわれて文書行政を支える官吏や属史となった。その官僚の中から国家を動かす議論をまとめる者たちが出現する。それが諸子である。諸子百家は諸子がさまざまな思想を説いたという理解をもって語られる言葉である。「史記」が用いた材料の多くは戦国時代に作られている。それら材料を取捨選択し、適宜加筆して「史記」の文章は出来上がっている。戦国時代の前の時代、殷・周・春秋の時代を語る難しさは、戦国時代の史書をもって、都市が基本となっていた時代に遡ることの難しさだったが、戦国時代についてはこの難しさはない。

 漢字の書体には、篆書てんしょ隷書れいしょ楷書かいしょ行書ぎょうしょ草書そうしょなどがある。これらのうち、隷書以下は漢代以後にできあがった書体である。木簡に記された後、漢代には紙が発明、改良され、やがてその紙に字を書くことが一般化した。殷の文字として甲骨文と金文きんぶんがあり、周の文字も殷から引き継いだ金文などがあり、春秋時代に金文に地方色が現れ、戦国時代には文書行政が始まって行政用の書体が出来上がった。隷書は秦の文書行政用書体だった。秦の始皇帝が文字を統一したというのは、その隷書を天下共通の文字にしたということである。


<中華思想>

 自分たちの王朝は非常に慈悲深い存在であり、周囲の野蛮な民族はその文明に感化されるのを待っているのだという思想は、すでに周の時代にが生まれていたようだ。初期社会を形成した地域、すなわち黄河の中流域に拡がる平原である「中原」を中心とする古代国家が興亡を繰り返し、そこに中華なる自集団を保護する思想が形成されるに至った。自らの来歴を尊重し、自尊することにより、さらに自らの現在を再確認するこの民族主義的な発想は、社会組織の再認識と組織の拡大に実に大きく寄与するものである。まさに中華とはそうした発想であり、それが成文化するのが戦国時代であったと言えるだろう。そして、その後の秦・漢時代に完成するのである。


<科学技術>

 戦国時代には天体観測技術が精緻になり、新しい歴が始まった。冬至から冬至までを365と4分の1と計算し、76年を940ヶ月、総日数27759日と計算している。

 春秋時代後期から戦国時代前期にかけては鉄器が次第に普及した時代である。鉄器は西アジアでは鍛鉄として出現した。比較的低い温度で得られる柔らかな鉄のかたまりを鍛えて鉄器にするものだ。中国でも似たような技術から鉄器生産が始まったようだが、すぐに炭素を浸み込ませて比較的低い温度で鉄を溶かすことに成功した。このことで鋳造鉄器が主流になる。鍛鉄は展延性に富むが柔らかい、鋳鉄は硬いが脆い。この中間の性質を持つのが鋼であり、鋼の生産もほどなく始まる。鋳鉄を作りだすための道具としてふいごが開発されている。鞴が太鼓状なので、鞴で作りだした鉄を「鼓鉄」と表現したものがある。

 戦国時代は青銅器が脇役になっていく時代でもある。かつては丁寧に型を作って生産していたが、春秋時代後期から文様を表現するに当たり、型を使って大量に同じ文様を作りだすなどの方法が始まり、戦国時代中期にはろうで模型を作って、この型を青銅に置き換える方法も始まった。しかし、大量生産が軌道に乗ると、作りそのものがぞんざいな器も増えた。

 青銅や鉄で針が作られ、それを使った医療も整えられていく。ツボに関する知識も精緻になり、それを刺激する導引どういん、つまり現在の太極拳の祖先や、鍼灸しんきゅうも発展した。


<鉄>

 隕鉄いんてつ(自然鉄)でない人工鉄、すなわち鉄鉱石から製錬によって取り出された最古の鉄で確実なのは、西アジアのインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトだった。BC16世紀に登場したヒッタイトはこの貴重な金属を独占し続けていたが、13世紀に彼らが衰退すると、製鉄技術は他の民族にも一気に広まった。その背景には、鉄は武器として強力だっただけでなく、銅や錫より豊富に存在したという事情もあった。但し、世の中が一気に鉄器時代に移行したわけではなく、銅と青銅が最初は石器を補う存在であったように、鉄も最初のうちは青銅を補うものとして用いられていた。また、地域によっても鉄器への移行時期には差があった。一般的に西アジアにおける鉄器への移行は12世紀からといわれ、量的に鉄器が青銅器を上回るのはBC10世紀になってからである。

 中国における鉄の使用は殷代の中期だが、殷(BC1600年~BC1050年)・周(BC1050年~BC770年)時代は未だ隕鉄である。殷代中期の河北省から出土した鉄刃銅鉞てつじんどうえつが最古の鉄の使用例として知られる。えつとはマサカリのことで、刃の部分だけ鉄が用いられた。周時代には鉄援銅戈てつえんどうかにも見られる。この時代はまだ青銅器が圧倒的に優勢であり、鉄が限定的に使用されていたのは、その素材がすべて隕鉄であり、希少価値であったためである。周時代後期のBC9世紀に登場した人工鉄は、春秋時代(BC770年~BC470年)後期から戦国時代(BC470年~BC221年)前期になると人工鉄である銑鉄せんてつ鋳造の工具類、農具、ごく少数の武器と容器がえんかんの領域に集中して出土している。殷周時代に出現した可能性のある錬鉄れんてつはこの時期に短剣・刀子とうすやりがんなの一部に利用され始めた。戦国時代(BC470年~BC221年)になると鍛造たんぞうの鉄器も作られるようになった。しかしこの時期になってもまだ青銅製のほうが多数である。生産工具の多くが青銅器から鉄器へ変化するのはBC4世紀後半、戦国時代中期から後期にかけてで、戦国時代は秦・楚・燕・韓・魏・趙・斉という七つの国が中国を割拠した時代である。各国の都には手工業区が設けられ、そこに鉄器の製作工房も設けられていた。古代中国の製鉄技術が世界的にみて優れている点は、鉄鉱石を高温で還元し、液体状の鉄、すなわち銑鉄せんてつを生産する方法を春秋時代後期のBC6世紀にすでに獲得していたことである。これは殷時代以来築き上げられてきた高度な溶銅・鋳銅技術を基礎に完成したものである。一方、鉄鉱石を低温度(1000度前後)で個体のまま還元する塊錬鉄れんてつ法は周後期のBC9世紀には成立していた。

 朝鮮半島と日本列島に鉄をもたらしたのは中国東北のえんで、都は現在の北京付近にあった。燕における鉄製農具の出現はBC5世紀にさかのぼる。春秋戦国時代の燕国の遼寧りょうねい地域、つまり満州南部にあたる遼西・遼東地域への拡大は日本列島を含む東北アジア各地に鉄器文化の到来と青銅器文化の変容を生んだ一大画期である。

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