第101話 春秋戦国時代における社会の発展と諸子百家
(春秋時代)BC770年~BC470年
春秋時代の中期以降にはじまった鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。この時期に商人階級が台頭したことは、経済活動が高度になり、商業の専門家が存在していたことを意味している。都市間の人の移動は頻繁になり、伝統的なきずなとは異なる新しい秩序が形成される。都市には出自を異にする人びとが集まる。そうした人びとは出自ごとに
<春秋五覇>
一般的理解によれば、周王朝の王道政治が衰えた後、戦乱の世がおとずれた。春秋の世に現れたのは、王道ではなく、武力(覇道)で諸侯を従える者たちである。その有名な者たちを挙げるにあたっては、5つの国と5人の覇者がいる。
斉の
<春秋列国>
春秋五覇で挙げた
春秋時代300年は、周代の祭儀と契約に基づく封建体制から脱却した諸侯や貴族(卿大夫)が中心となり、離合集散の会盟(連合)政治が特色を成していた。それはおおよそ4期に分けて考えられる。
1期(BC770年~BC670年ごろ)の諸侯勃興期
2期(BC670年~BC620年ごろ)の斉の桓公、晋の文公らの覇者出現期
3期(BC620年~BC540年ごろ)の楚の荘王に代表される南北の連盟対立期
4期(BC540年~BC470年ごろ)の呉・越活躍による諸侯混乱期
1期・2期には中原や山東など黄河流域を中心とした北部で貴族政治が発展したが、2期の後半にはその政治が頽廃をもたらしたため、自ら
春秋時代を通じて、南北和平に最大の効果を挙げたといわれる「宋の盟」は宋の主導の下に諸侯の卿大夫が集まってBC546年5月の終わりから7月にかけて宋の都、商邱において開催された。それまで晋・楚・斉・秦の4大国の抗争、特に晋・楚という南北両勢力の対立は激甚を極め、その間に介在する諸国は争いの渦中に巻き込まれて安まる時がなかった。隣通しの宋と鄭の間に紛争が絶えなかったのも、こうした背景を抜きにしては考えられない。もともと宋は晋に組することを外交の本筋としてきたが、楚の勢力圏に近く、西隣りの鄭とも緊張関係が続いていたから、国際的和平が成立しない限り、国内の安定もあり得なかった。
<呉越戦争と越文化圏>
BC601年、呉(長江の南、太湖周辺の蘇州)と楚(長江中流域)は対立した。越(呉の南・
BC471年、鉞は山東の大国斉と中原の大国晋、それぞれの率いる諸侯と鉞と斉の境界付近に位置する徐州で会盟した。この時、越は周王(東周)に貢ぎ物を差出し、周王からは覇者に賜られるとされる「文武の
<多様な民族>
中国古代には多様な民族が混在していた。山東省の付け根あたりに位置する
<中国文字、漢字>
戦国時代(BC470年~BC221年)に入ると、青銅器に銘文を鋳出することは少なくなり、代わって竹簡と呼ばれる竹の札や
漢字の書体には、
隷書は秦の文書行政用書体だった。この隷書が普及したことにより、後世になってから秦の始皇帝が文字を統一したかのように言われるようになった。魏・蜀・呉の三国時代(紀元後220年~280年)に隷書から楷書、行書に次第に移行した。草書は初期の隷書から生まれたもので
文字が少数エリートの占有物だったことは、エリートの威光を高めただけでなく、中国語を方言の違いや時代による変化から守るという結果をもたらした。このことは中国の統一と政治的安定にとって大きな意味を持っていた。広大な中国において書き言葉、つまり文語は公用語そして共通語としての役割を果たし、方言や地域的な境界を越えて各地に文化を伝達することができたからである。
<姓と氏>
漢字が広まる過程で、都市国家の首長を候とした。その首長が称したのが「姓」である。同じ姓の諸侯が同族の扱いを受けた。例えば、周の同族とされた諸侯は「姫姓」を称している。それは漢代の説明と思われる。「氏」は都市の人びとの移動が激しくなり、漢字を使用する人も増えた春秋中期以後、次第に「氏」が現れた。鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。耕地が急激に増え、都市の数も急増した。都市間の人の移動は頻繁になり、伝統的きずなとは異なる新しい秩序が形成される。都市には出自を異にする人びとが集まる。そうした人びとは出自ごとに氏を称した。この氏は都市の住民に広がり、ついには皆が氏を持つに到った。
<孔子>
春秋時代といえば、まず孔子(BC551年に生まれ、BC479年に没)というほどこの人物とこの時代は切っても切れない関係にある。また、この人物ほど歴代の尊崇を集めた思想家もいない。孔子が目指したのは、古くから伝わるしきたり、つまり
孔子の教えは
後の時代に、中国にはさまざまな思想や宗教が登場するが、そうした時期には孔子の権威がすでに確立されていたため、中国文明は他の文明ほどには神学的な問題、つまり神は実在するかとか、人間は救済されるかなどといった厄介な問題に悩まされることはなかった。神学上の思索にふけったり、神という概念にすがって安心を得たりするよりは、過去の教え、
(戦国時代)BC470年~BC221年
一般的に言えば、春秋時代には宗姓氏族的結合を中心とした大勢力が世族(豪族)として発展途上にあり、しばしば諸侯の廃位を行い、ついにはその地位に取って代わるほどになった。ここに、いわゆる下剋上の戦国時代が出現したが、これと同時に諸侯は領域内の農民を掌握し、中央集権を強化することに努め、いわゆる君権拡大の傾向が著しくなり、多くの世族的勢力は中央の王族に吸収されていったということも時代の体勢の重大な面であった。法家を始め諸子百家の目覚ましい論戦も当然この政治の趨勢に沿ったものとなり、その論戦の根底をなす社会の転換を認めなくては成り立たないものだった。しかしながら、
① 王権強化によって旧来の世族および王の親族や宗族まで弱体化した。(秦)
② 王の親族や宗族が残存する。(趙・斉)
③ 旧来の世族が軍事・政治の実権をある程度握っている。(楚)
戦国時代といえば、一般に
戦国時代に活躍した「
縦横家は言談を政治的平和と社会の安定への重要な力であるとする考え方を基にして、君臣の信義という情的結合の精神を強調し、各所に頭をもたげる専制勢力に反抗し、あるいはその欠陥を衝いて、自己の有用性を説いてその立場を確保しようと試みるが、現実の専制勢力の急激な拡大の前には次々に押し流され、また無力化されてついには進んでその力に屈し身を守らんとする道家的保身をする者が続出するに至った。商人層や地主層の実力を背景にして情的結合を倫理づけることにより社会で活動しようとする彼らは、その意味を否定し、地方を統一して専制支配を打ち立てることにより社会を秩序づけようとする君主の権威や武力を用いた法家の信賞必罰による独断的実力主義を前にして屈服せざるを得なかった。戦国末よりの道家思想の急激な拡大の原因の一つはここにあるようだ。新しい政治を築こうとする為政者や法家などもこの道家的政治観を採用することによって旧貴族や縦横家らとの妥協点を見出し、これを根拠として政治の基礎を理論づけ、君主の態度を理論づけようと試みている。
BC453年、中原の大国、晋の諸侯の一人である
戦国時代の七雄は、
秦はこの状況をうまく利用することにした。楚に攻め込む準備として長江上流域の
そうこうしているうちに秦はBC280年に蜀から南下し、湖南の西から楚に侵入し、BC278年に楚の都の
<都市国家から領域国家へ>
殷周時代の国家とは、せいぜい支配者の領地と祭祀を守るという必要から生まれた抽象概念に過ぎなかった。王は戦いに関する決定を行う以外は宗教上の役割を果たし、狩猟と宮殿を建設する程度のことしか行っていなかったように思われる。長い間、中国の支配者たちは官僚組織なしで国を治めていた。その後、春秋時代に入ると、次第に宮廷を取り仕切る家臣たちの間に階級が生まれていったが、広大な領地の所有者である王が必要とした官僚は、領地の管理人と農場の監督者、そして数人の書記だけだったようである。当時の王たちにとって領地の問題が最も重要だったことは間違いない。この時代に交通網が整備され、物資が流通するようになった。都市の商業地区には宝石や骨とう品、食べ物や衣服を売る店が並び、酒場や賭博場、娼館まであったようだ。個々の領域国家の経済を成り立たせているのは、天下における物資の流通である。「天下」とはすべての領域国家を包含する地域を指す言葉である。その流通を支えていたのが金属貨幣であった。
<金属貨幣>
金属貨幣の出現は天下を舞台とした物資の流通が本格化したことを意味する。出現するのはBC5世紀ごろで、最初は物々交換を反映して貨幣も大型だった。BC4世紀に入ると、次第に小型化し貨幣量も増えた。但し、領域国家ごとに独自の貨幣を発行し、領域内で流通させた。中原地域の韓・魏・趙では農具に由来する形をした
「中国」は文化の華咲く地域であり、領土支配の正当性を主張する地域である。一方、「夷狄」の地は野蛮の地であり、中国に対する地域である。その地域は自らに対抗する諸国家の領域になっている。いわゆる漢族、漢字漢文を共通の財産とする民族はこのときに出来上がった。
戦国時代に入ると、鉄製農器具が広く用いられるようになり、牛耕と相まって農業の生産力が飛躍的に増大した。西アジアの鉄器は鍛鉄から始まった。中国でも西アジアから伝播した鍛鉄の技術から鉄器生産が始まったようだが、すぐに炭素を浸み込ませて比較的低い温度で鉄を熔かす鋳造鉄器が主流になった。鍛鉄は展延性に富むが柔らかい。鋳鉄は硬いがもろい。この中間の性質を持つのが鋼であるが、その生産もほどなく始まった。鋳鉄の製造にはより高温の技術管理が必要になるが、
(
戦国時代(BC470年~BC221年)は社会的にも政治的にも、まさに危機的な状況が出現する。そしてこの「危機の時代」の中で、さまざまな思想が一気に開花することになる。その主役となったのが、後に「諸子百家」と呼ばれることになる思想家たちだった。理想の社会制度や倫理基準を説く思想家たち、すなわち「客卿遊侠の士」が次々に登場し、自らの思想を現実の政治に取り入れてくれる君主を求めて諸国を放浪していった。
春秋時代中期以降に始まった鉄器の普及により
「
<儒家(司徒の官)>
国家の体制に関する論争で法家と対立したのは、孔子の弟子たち、つまり儒家だった。儒家を司徒の官というのは、司徒は宰相の別名であり、官吏を統べる官であったことに基づく。官僚のことを論じるという意味である。儒家は実践道徳を重んじた。代表的な思想家は孔子(BC551年~BC479年)、孟子(BC372年~BC290年)、荀子(BC298年~BC238年)であるが、彼らが活躍した国家も時代も異なる。したがって、彼らは同じ時代に同じ国家で棲み分けを論じていたのではない。孟子は人びとに「
儒教の基本的な古典を「
孔子は「
<墨家(清廟の守)>
BC5世紀の思想家、
<道家(史官)>
後に道教と呼ばれることになる思想体系は明らかに儒教と対立したものだった。老子は儒教が教えていること、例えば既成の秩序や礼儀を敬ったり、慣習や儀式を守ったりすることはやめて、無為自然の「
<陰陽家(
陰陽家を
<法家(理官)>
法家はそれまでの祭祀による国家の運営に代えて、法による統治を国家の基本原理に据えるべきだと主張した。法家を理官というのは、理とは筋道で、正す・裁くという意味があることに基づく。裁きを司るということであり、法律による効果的な統治を説いた。彼らが目指したのは厳格な法治主義と富国強兵政策だった。秦はこの思想を採用した。
<名家(礼官)>
名家を礼官というのは、礼を司るには文章を考慮する必要が有ることに基づく。名目と実際との関係を論じた彼らをこれで表現した。
<
<
<農家(
農家を
<小説家(
小説家を
<兵家>
「漢書」は兵家を兵を司った司馬の職から出たという。
(古代中国の思想・文化・技術)
孔子の儒家の思想は中国の社会に大きな影響を与えたが、中国の知的伝統を作ったのは孔子だけではなく、道家や墨家など他の数多くの思想家も登場した。そうした思想家個人の影響ではない、東洋思想全体に共通するような特徴も存在する。ギリシャ人のように極めて論理的に思索を展開していくことは、中国の思想家たちの得意とする方法ではなかった。また、彼らはインド人のように来世や観念的な世界に関心が深かったわけでもなかった。儒教に代表される多くの中国思想は極めて実践的な教えである。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの賢者たちとは違って、中国の賢者は現世の問題から離れることはなかった。神や形而上の問題ではなく、実践的で世俗的な問題にのみ関心を向けていた。この傾向は儒教に対抗して生まれた当時のさまざまな思想にもあてはまる。このことは東洋思想全体に共通する特徴といえる。現在の中国では、儒教と道教、そして仏教は三教と並び称されることが多い。
<文書行政>
春秋時代は「史」の時代であった。「史」は祭祀を司る官で文字書きを担当する者であった。それが戦国時代には官僚の時代になる。「史」はその職能をかわれて文書行政を支える官吏や属史となった。その官僚の中から国家を動かす議論をまとめる者たちが出現する。それが諸子である。諸子百家は諸子がさまざまな思想を説いたという理解をもって語られる言葉である。「史記」が用いた材料の多くは戦国時代に作られている。それら材料を取捨選択し、適宜加筆して「史記」の文章は出来上がっている。戦国時代の前の時代、殷・周・春秋の時代を語る難しさは、戦国時代の史書をもって、都市が基本となっていた時代に遡ることの難しさだったが、戦国時代についてはこの難しさはない。
漢字の書体には、
<中華思想>
自分たちの王朝は非常に慈悲深い存在であり、周囲の野蛮な民族はその文明に感化されるのを待っているのだという思想は、すでに周の時代にが生まれていたようだ。初期社会を形成した地域、すなわち黄河の中流域に拡がる平原である「中原」を中心とする古代国家が興亡を繰り返し、そこに中華なる自集団を保護する思想が形成されるに至った。自らの来歴を尊重し、自尊することにより、さらに自らの現在を再確認するこの民族主義的な発想は、社会組織の再認識と組織の拡大に実に大きく寄与するものである。まさに中華とはそうした発想であり、それが成文化するのが戦国時代であったと言えるだろう。そして、その後の秦・漢時代に完成するのである。
<科学技術>
戦国時代には天体観測技術が精緻になり、新しい歴が始まった。冬至から冬至までを365と4分の1と計算し、76年を940ヶ月、総日数27759日と計算している。
春秋時代後期から戦国時代前期にかけては鉄器が次第に普及した時代である。鉄器は西アジアでは鍛鉄として出現した。比較的低い温度で得られる柔らかな鉄の
戦国時代は青銅器が脇役になっていく時代でもある。かつては丁寧に型を作って生産していたが、春秋時代後期から文様を表現するに当たり、型を使って大量に同じ文様を作りだすなどの方法が始まり、戦国時代中期には
青銅や鉄で針が作られ、それを使った医療も整えられていく。ツボに関する知識も精緻になり、それを刺激する
<鉄>
中国における鉄の使用は殷代の中期だが、殷(BC1600年~BC1050年)・周(BC1050年~BC770年)時代は未だ隕鉄である。殷代中期の河北省から出土した
朝鮮半島と日本列島に鉄をもたらしたのは中国東北の
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