第100話 中国、漢民族の誕生(周王朝~春秋戦国時代)
<年表>
周(西周)(BC1023年~BC770年)
漢民族はBC10世紀ごろ、西方の中央アジアからモンゴル高原を経て、黄河の中流域に拡がる平原である「
春秋時代(BC770年~BC470年)
春秋時代中期以降にはじまった中国における鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。耕地が急激に増え、都市の数も急増した。都市の多くは3つの区域に分けられ、まず城壁の内側には遺族の住居と職人や商人の住居、さらに城壁の外側には住民の食料を賄うための耕作地が広がっていた。この時期に商人階級が台頭したことは、経済活動が高度になり、商業の専門家が存在していたことを意味している。しかし、殷・周・春秋時代まではまだ都市を中心とした都市国家の形態である。
戦国時代(BC470年~BC221年)
戦国時代といえば、一般に
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中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性である。中国には現在まで、およそ3500年にわたって漢民族による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えてもすでに2200年が経っている。もちろんそれ以降、分裂したり、異民族に支配された時代はあったが、とにかく中国では一つの民族が同じ国土の上に数千年もの間、高度な文明を維持し続け現在に至っている。これは世界史上極めて稀なことで、わずかにはるか昔に滅亡した古代エジプト文明がその長さで肩を並べることができるくらいである。では、いったいなぜそのようなことが可能だったのか? まずその問題について考えることが、中国文明を理解する鍵となる。
中国文明の特色は、それが文化的であると同時に極めて政治的でもあるという点にある。古代インド文明は文化が政治よりどれほど重要なものとなり得るかを示すよい例だといえるが、中国文明においては文化の重要性が別の形で示されている。つまり、中国では文化の力が政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持され続けたということである。中国文明はごく早い時期に、おそらく秦・漢の時代(BC221年~紀元後220年)に統一国家を運営するための制度と文化をワンセットで見事に創りあげた。専制国家という制度、天下の土地はすべて国家のものという考え方など、そのいくつかは現在も確実に存続している。世界史的なスケールから見れば、20世紀の共産主義革命を経て成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な違いはないといえる。
その一方で、中国の社会が土地を持った貴族と、土地を持たない民衆とに早くから分離していた。当時の民衆のほとんどは農民だったが、こうした無数の人びとの生活については未だにほとんどわかっていない。他のどの古代文明に比べても、社会の底辺にいた農民たちについての情報は残されていない。なぜなら、殷と周の時代を通じて中国の農民は、冬は土でできた小屋に住み、夏は野宿をしていたため、生活の痕跡が残されていないからである。戦争や建設のための労働に駆り出される以外、貧しい農民は土地に縛られ、社会に埋もれるようにして暮らしていた。農民が抑圧されていたこの殷と周の時代は、封建制社会に先立つ奴隷制社会であったと考えられている。
そうした長い中国の歴史を理解するためにはまずその国土を見るところから始めた方がよいだろう。現在の中華人民共和国でいうと、南北が5500キロ、東西が5200キロ、約960万平方キロにおよぶその国土は地球上の陸地面積の15分の1を占める広大さである。さらに驚かされるのは人口の多さで、2023年現在14億1200万人という数字は、地球上の総人口の5分の1近く(18%)を占めている。こうした広大な国土は気候も性質も違う地域で構成されている。なかでも北部の華北と南部の華南とでは大きな違いが見られる。夏の華北は焼けつくような乾燥した暑さだが、華南は蒸し暑く、頻繁に洪水に見舞われる。冬の華北は砂塵が吹きつける不毛の地だが、華南は常に緑で覆われている。
さらに中国の内陸部は山や川によって幾つにも分断されている。特に大きいのは国土を西から東へと横断する3つの大河、黄河、長江(揚子江)、西江(珠江)である。これだけ広大で、しかも地理的に分断された国が2000年以上も統一され続けたという事実には驚かざるを得ない。その理由の一つは、中国が険しい自然によって外部の世界から孤立していたことにあったと考えられる。中国の西部の大部分は山岳地帯で、内陸部の国境線は大きな山脈や高原をいくつもまたいでいる。そのような高地を通る国境線が、この国を外部から隔離する役割を果たしてきた。西側で国境線が破られるのは、黄河が内モンゴルから華北へと流れ込んでくる地域だけである。古代中国文明の物語はまさにその黄河流域から始まった。古代中国における文明の拡大は、いつの時代も北部から南部へと広がっていった。後に繰り返されることになる政治的統一や、異民族による征服も、北から南へ進んでいくことが多かったが、常にその起点となったのは華北の地であり、その華北の社会に刺激を与えていたのは、モンゴルや中央アジアという外の世界からの影響だった。
華北の文明を育んだのは、長江に次ぐ中国第2の大河、黄河だった。青海省に源を発し、内モンゴルをぐるりと囲むように流れる黄河は、その後、平野部に達し、華北の大地を潤していく。この大河によって大量の泥が流域へ運ばれ、簡単に耕せるその肥沃な土壌が、1万年前の新石器時代に中国で初めての農業、アワやキビなどの雑穀栽培を生むことになった。また、ほぼ同じころ、華南の長江中・下流域でも野生イネの栽培化が始まり、いくつかの定住性農耕社会が出現している。
(周王朝)BC1023年~BC770年
BC1600年ごろからBC1023年まで、殷が覇権を握った時代に中国では初めて大きな都市が出現した。殷後期(BC1320年~BC1023年)に、華北の河南省の黄河沿いにあった安陽は、
当時の世界の文明地域では、東地中海地域とエジプト、西アジアにおけるBC12世紀~BC10世紀の混乱の時代を経て、BC10世紀には地中海から太平洋に到るまで、既存の社会が崩壊して新たな勢力がそれに取って代わっている。中国でも、600年ほどの間、権力を掌握していた殷は、西方の中央アジアの草原から来た新たな勢力、周(BC1023年~BC770年)によって打倒された。ほぼ同時期に、メソポタミアにおいて、レヴァント北部とシリア地方からのアラム系諸部族、およびイラン高原からのカルディア系諸部族、そしてエジプトにおいて、ヌビア地方からのクシュ人の侵入のように、周も古くからあった繁栄の中心地を攻撃して崩壊させた周辺部からの民族だった。彼らは最終的に殷王朝の全てを支配するようになり、メソポタミアやエジプトと同様、自分たちが征服した国を都合よく利用しただけでなく、その歴史、図像、儀式も借用した。
大英博物館にBC1000ごろの
「商(殷)の国を制圧した王は、康侯に命じて同国を周辺領土の一つとし、
周王朝は殷から高度な統治組織と社会構造の多くを受け継ぎ、さらに洗練されたものに作り変えていった。なかでも埋葬の儀式や青銅の加工技術、装飾美術などは、ほとんど変更されることなく引き継がれた。実際、最初の王都である
周王朝の大きな業績は、そうした殷の高度な文化をさらに発展させ、周囲に伝えていったところにある。そうしてこの時代に作られたさまざまな制度が、その後3000年も続く中国文明の基本となる。周の時代、すでに中国には「中華思想」が生まれていたようだ。つまり、自分たちの王朝は非常に慈悲深い存在であり、周囲の野蛮な民族はその文明に感化されるのを待っているのだという思想である。周王朝は殷王朝と同様に、真の統一国家を作ったわけではなく、各地の諸侯たちの支持のもとに成立していた。それでも周の統治がうまく行っている間は、諸侯たちや各地の都市を治める家臣たちは、周の王家に依存する度合いにそれぞれ違いはあっても、王家の支配権を認め、文化を共有していた。こうした権力構造が運営されていく過程で、諸侯たちは次第に王と呼べるような支配者へと成長し、諸侯たちの下でも初歩的な官僚制度も出来上がっていくことになる
一般に殷や周は「天下」の王朝だと考えられている。この「天下」は新石器時代以来の文化地域、つまり黄河中流域の中原地区を中心とした黄河と長江の上流域、中流域、下流域の6地域に、北部のオルドス地域と、東北部の燕・遼西の地域を加えた8地域をいくつか統合した領域である。ところが実際は、殷王朝と周王朝が支配を及ぼしたのは、基本的にこれらの文化地域一つ分の支配にすぎなかった。その次の春秋時代も基本的には同様だった。したがってその後、領域国家となる戦国時代の国々がこれらの文化地域を母体として成立したというのも、当然の帰結を示しているのである。戦国時代の領域国家はそれぞれに中央組織があり、その中央組織の下で官僚統治を始めた。その官僚統治を支えたのが文書行政であり、その文書行政を支えたのが戦国時代を通じて次第に整備されていく法体系としての律令である。これらがあってはじめて、秦の始皇帝は秦の律令を天下に施行し、唯一の皇帝の下、つまり唯一の中央政府の下で官僚統治を進めた。
殷王朝と周王朝が支配を及ぼすにあたっては、大国である殷や周の下にいくつもの小国が従うという体制があった。周が小国となった春秋時代も周の権威は衰えなかったため継続されていた。この体制は、その小国を滅ぼして県とし、中央による地方の官僚統治を進めた戦国時代以降の国家体制とは質的に異なっている。しかし、大国が小国を支配する体制がどこまで広がったのかを探ってみると、新石器時代以来の文化地域に大きく規制されている。秦の始皇帝が統一した天下に広がるようなものではなかったのである。
前漢(BC206年~紀元後8年)時代の
① 地域内に農村がいくつも存在する時代(夏)
② 城塞都市(小国)ができあがり、その都市に農村が従う時代(殷・周)
③ 小国の中から、これら小国を従える大国が出来上がった時代(春秋時代)
④ 大国が小国を滅ぼして中央官僚を派遣し、文書行政を行った時代(戦国時代)
これらの時代を経由した後、秦の始皇帝が各国を併合して天下を統一することになる。
周王朝の創設者である
中国では、完成した形の二輪戦車あるいは戦闘用馬車は、北西方面から殷王朝に導入された。夏と殷の農民は金属製の農具を使用せず、また動物で鋤を引かなかった。また、殷における二頭立て二輪戦車の使用は、北西部や北方ステップ地帯からの二輪戦車による侵入の証拠(遺物)を伴っていないが、これはまだモンゴル高原や中国のオルドス地方での発見がまだないからだけかもしれない。中央ユーラシア文化複合体のうち、戦車として使用される二輪戦車などいくつかのものがBC12世紀より少し前に中国に出現したのは確かである。それは殷後期第2期(BC1250年~BC1192年)の
陝西省
周は元は遊牧民であったと思われるが、気候の冷涼化がこうした牧民の南下を促した一つの要因だった。当初小さな周の部族は北部の他の遊牧民や西部の
周王朝は人口の増大という社会変化が遠因となって終焉の時を迎えることになる。それは驚くことではなく、農業を基盤とする中国社会の社会変動は、その後も常に食料と人口のバランスが崩れた時に起こっているからである。ちなみに、BC841年からは「史記」など古典籍による暦年代の復元も可能となった。王朝の末期のBC772年に王都
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800年以上に及ぶ長い殷(BC1600年~BC1023年)と周(BC1023年~BC770年)の時代の後、BC770年からBC221年まで550年にも及ぶ春秋戦国時代の混乱の中でも、中国の歴史を支える大きな二つの道筋は絶えることなく継承されていた。
その一つは、黄河流域からの文化の伝播が依然として続いていたということである。中国文明は当初、未開の海に浮かぶ小さな島のようなものだった。しかしBC500年ごろまでには華北一帯にあった数多くの国が文明を共有するようになり、さらにそのすぐ南の長江の流域にまで伝わっていった。長江流域は樹木の生い茂る湿地帯で、華北に比べると未開の民族が住んでいたが、周の影響によってその長江流域にも
二つ目は、殷と周の時代を通じて、その後現代にまで生きのびることになる各種の社会制度が確立していったことである。その中の一つが、中国の社会が土地を持つ貴族と、土地を持たない民衆とに分離したことだ。当時の民衆の大半は農民だったが、こうした無数の人びとの生活についてはよくわかっていない。他のどの古代文明に比べても、社会の底辺でつらい労働を担った農民たちについての情報は残されていない。なぜなら中国の農民は、冬は土でできた小屋に住み、夏は野宿をしていたため、生活の痕跡が残されていないからである。戦争や建設のための労働にかり出される以外は土地に縛られ、社会に埋もれるように暮らしていた農民たちは、まさに農奴であったといえる。貴族たちは土地や金属製の武器を所有し、それによって長い間富を独占し続けていた。
<都市の発達>
周時代の後期には、もう一つ重大な変化が起こっている。都市の発達である。古代中国では都市は河川に近い平原に生まれる傾向にあった。そうした初期の都市では、まず行政の中心である宗廟、つまり祖先の霊を祭る神殿を建てる場所が決められ、その後で武器庫や馬小屋、家屋などが建てられていった。宗廟の周辺に集落ができていくにつれ、民衆が土地の自然神を祀る建物も作られるようになった。その後、殷王朝が成立すると、大規模な建築物が建設されるようになる。BC1300年ごろ、殷の都安陽には、宮殿や王家の墓所、金属の鋳造所などがあった。周時代の末期のBC800年ごろには、首都の王城(現在の洛陽の西郊)は一辺の長さが3キロほどある土塁で四方を囲まれていた。BC500年ごろになると、かなりの数の都市が誕生しており、社会の多様化が進んでいたことがうかがえる。都市の多くは3つ区域に分けられていた。まず城壁の内側が2つに分かれ、一方に貴族が、もう一方には職人や商人が住んでいた。さらに城壁の外側には住民の食料をまかなうための耕作地が拡がっていた。この時期、商人階級が台頭したことも重要な意味を持っていた。戦国時代(BC470年~BC221年)になると、都市の商業地区の通りには、宝石や骨董品、食べ物や衣服を売る店が並び、酒場や賭博場、娼館まであった。
<中国文字と銘文>
殷後期(BC1320年~BC1023年)の始めのBC1300年ごろには甲骨文による文字の使用が始まった。甲骨文は殷王朝第22代
文字は西周時代まで、殷や周という限られた大国の都市の内部で使用される文字に過ぎなかった。周が熱心に銘文を刻した青銅器を配布したので、周の諸侯はいち早く漢字に慣れ親しんでいったが、青銅器銘文を鋳込む技術は特殊で難しかったため各国はその技術を習得することができなかったようだ。というより、周は青銅器に銘文を鋳込む技術を殷から継承すると、その技術を他に洩らさなかった。こうした状況を一変させたのがBC770年の東遷であった。この東遷は周王朝を支えた諸侯の争いを背景とする周王朝の分裂だった。そして、これに他の諸国の侵入が加わって周の故地は混乱し春秋時代が始まった。文字による文化が春秋戦国諸国の正統性を説明する上で不可欠のものとなり、自然に周王朝の権威は確立されたのである。春秋時代になってからの
<鉄の鋳造と周王朝の終焉>
以上のように、中国の歴史を決定づけるじゅうような社会制度は、周時代の末期にはほぼ出来上がっていた。しかしその周王朝は、さらなる社会の大変化が遠因となって終焉の時を迎えることになる。それは人口の増大という社会変化だった。農業を基盤とする中国社会の社会変動は、常に食料と人口のバランスが崩れた時に起こっている。BC500年ごろに使われるようになった鉄の出現が、社会に激変をもたらしたのである。鉄の農具によってまず農業生産が急速に増大し、それにより人口の増加も進んだ。武器より農具が先に作られたことは、BC5世紀~BC4世紀の鉄製の
<宗教>
また社会制度の中心に位置する当時の信仰を共有していたのは貴族だけだった。祖先を祀る祖先祭祀は殷以前から行われていたが、最初の頃は特に重要な人物、つまり支配者の霊に限って祀られていたようである。周の社会制度もそうした祖先祭祀を中心に成立していた。周は同姓の
中国における祖先祭祀は非常に厳格な儀式を持ち、そのため大変な時間と労力が費やされた。王は祖先に対する祭祀を司ることで民衆を統治していた。例えば、神の意志は
<青銅器・鉄器>
殷を周の武王が滅ぼすことによってBC1023年に周王朝が樹立される。周はBC1023年以前にも地方的な青銅器生産を開始しているが、殷王朝の青銅器工人を採り入れることにより殷的な様式による青銅
周中期のBC9世紀に入ると、二里頭文化・殷文化以来の青銅
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