第100話 中国、漢民族の誕生(周王朝~春秋戦国時代)

<年表>

周(西周)(BC1023年~BC770年)

 漢民族はBC10世紀ごろ、西方の中央アジアからモンゴル高原を経て、黄河の中流域に拡がる平原である「中原ちゅうげん」地方に入ってきた周という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族と混淆同化してゆく過程の中でできあがってきたものである。周は先の殷と同様に元々は遊牧民であったと思われるが、気候の冷涼化がこうした遊牧民の南下を促した一つの要因だった 最初の王都は黄河中流域の鎬京こうけい、現在の陝西せんせい省の西安である。周王朝は各国に銘文、つまり金文きんぶん入りの青銅器を与えた。BC771年に周王朝は内部分裂により西周、都は発祥の地の鎬京こうけい)と、東周、都は河南省の雒邑らくゆう(現在の洛陽)とに分裂し、春秋時代が始まった。その翌年のBC770年に西周は滅んだ。東周はその後、BC256年にしんに滅ぼされるまで権威の象徴だけの小国として存続した。


春秋時代(BC770年~BC470年)

 春秋時代中期以降にはじまった中国における鉄器の普及は春秋戦国時代に空前の社会変動をもたらした。耕地が急激に増え、都市の数も急増した。都市の多くは3つの区域に分けられ、まず城壁の内側には遺族の住居と職人や商人の住居、さらに城壁の外側には住民の食料を賄うための耕作地が広がっていた。この時期に商人階級が台頭したことは、経済活動が高度になり、商業の専門家が存在していたことを意味している。しかし、殷・周・春秋時代まではまだ都市を中心とした都市国家の形態である。


戦国時代(BC470年~BC221年)

 戦国時代といえば、一般に合従連衡がっしょうれんこうの時代だとされている。後の漢の時代には戦国時代を「六国の世」と呼んでいた、せいえんかんちょうの六国である。当時、しんは西の辺境に位置していたため含まれていないが、秦を含めると七国となりこれが主流になった。韓・魏・趙は春秋時代の晋が分裂してできた国である。春秋時代までの都市国家から戦国時代には領域国家となる。その領域国家は新石器時代以来の文化地域を母体として成立した。漢字もそれまでの祭祀用から行政の道具となり、文書行政が始まり官僚による律令国家となる。そして、支配下に置いた小国を県として官僚統治を始めた。また領域国家ごとに史書も作られた。


 ***


 中国の歴史を考えるとき、何よりも驚かされるのはその長さと継続性である。中国には現在まで、およそ3500年にわたって漢民族による国家が存続し、秦の始皇帝による中国統一から数えてもすでに2200年が経っている。もちろんそれ以降、分裂したり、異民族に支配された時代はあったが、とにかく中国では一つの民族が同じ国土の上に数千年もの間、高度な文明を維持し続け現在に至っている。これは世界史上極めて稀なことで、わずかにはるか昔に滅亡した古代エジプト文明がその長さで肩を並べることができるくらいである。では、いったいなぜそのようなことが可能だったのか? まずその問題について考えることが、中国文明を理解する鍵となる。

 中国文明の特色は、それが文化的であると同時に極めて政治的でもあるという点にある。古代インド文明は文化が政治よりどれほど重要なものとなり得るかを示すよい例だといえるが、中国文明においては文化の重要性が別の形で示されている。つまり、中国では文化の力が政治的な力となり、そのことによって広大な国土の統一が維持され続けたということである。中国文明はごく早い時期に、おそらく秦・漢の時代(BC221年~紀元後220年)に統一国家を運営するための制度と文化をワンセットで見事に創りあげた。専制国家という制度、天下の土地はすべて国家のものという考え方など、そのいくつかは現在も確実に存続している。世界史的なスケールから見れば、20世紀の共産主義革命を経て成立した現在の政権も、それ以前の王朝とそれほど本質的な違いはないといえる。

 その一方で、中国の社会が土地を持った貴族と、土地を持たない民衆とに早くから分離していた。当時の民衆のほとんどは農民だったが、こうした無数の人びとの生活については未だにほとんどわかっていない。他のどの古代文明に比べても、社会の底辺にいた農民たちについての情報は残されていない。なぜなら、殷と周の時代を通じて中国の農民は、冬は土でできた小屋に住み、夏は野宿をしていたため、生活の痕跡が残されていないからである。戦争や建設のための労働に駆り出される以外、貧しい農民は土地に縛られ、社会に埋もれるようにして暮らしていた。農民が抑圧されていたこの殷と周の時代は、封建制社会に先立つ奴隷制社会であったと考えられている。


 そうした長い中国の歴史を理解するためにはまずその国土を見るところから始めた方がよいだろう。現在の中華人民共和国でいうと、南北が5500キロ、東西が5200キロ、約960万平方キロにおよぶその国土は地球上の陸地面積の15分の1を占める広大さである。さらに驚かされるのは人口の多さで、2023年現在14億1200万人という数字は、地球上の総人口の5分の1近く(18%)を占めている。こうした広大な国土は気候も性質も違う地域で構成されている。なかでも北部の華北と南部の華南とでは大きな違いが見られる。夏の華北は焼けつくような乾燥した暑さだが、華南は蒸し暑く、頻繁に洪水に見舞われる。冬の華北は砂塵が吹きつける不毛の地だが、華南は常に緑で覆われている。

 さらに中国の内陸部は山や川によって幾つにも分断されている。特に大きいのは国土を西から東へと横断する3つの大河、黄河、長江(揚子江)、西江(珠江)である。これだけ広大で、しかも地理的に分断された国が2000年以上も統一され続けたという事実には驚かざるを得ない。その理由の一つは、中国が険しい自然によって外部の世界から孤立していたことにあったと考えられる。中国の西部の大部分は山岳地帯で、内陸部の国境線は大きな山脈や高原をいくつもまたいでいる。そのような高地を通る国境線が、この国を外部から隔離する役割を果たしてきた。西側で国境線が破られるのは、黄河が内モンゴルから華北へと流れ込んでくる地域だけである。古代中国文明の物語はまさにその黄河流域から始まった。古代中国における文明の拡大は、いつの時代も北部から南部へと広がっていった。後に繰り返されることになる政治的統一や、異民族による征服も、北から南へ進んでいくことが多かったが、常にその起点となったのは華北の地であり、その華北の社会に刺激を与えていたのは、モンゴルや中央アジアという外の世界からの影響だった。

 華北の文明を育んだのは、長江に次ぐ中国第2の大河、黄河だった。青海省に源を発し、内モンゴルをぐるりと囲むように流れる黄河は、その後、平野部に達し、華北の大地を潤していく。この大河によって大量の泥が流域へ運ばれ、簡単に耕せるその肥沃な土壌が、1万年前の新石器時代に中国で初めての農業、アワやキビなどの雑穀栽培を生むことになった。また、ほぼ同じころ、華南の長江中・下流域でも野生イネの栽培化が始まり、いくつかの定住性農耕社会が出現している。



(周王朝)BC1023年~BC770年


 BC1600年ごろからBC1023年まで、殷が覇権を握った時代に中国では初めて大きな都市が出現した。殷後期(BC1320年~BC1023年)に、華北の河南省の黄河沿いにあった安陽は、洹北えんほく商城と呼ばれ、第19代盤庚ばんこうが遷都して以降の殷の最後の都である。面積が30平方キロにおよび12万人の人口を抱えていた。当時、世界最大の都市だったに違いない。殷の都市の暮らしは、12ヶ月の暦と10進法の度量衡、徴兵制、中央集権化された税制を備え、極めて管理が行き届いていた。都市はまた富の中心地として、陶器、ヒスイ細工、そして何よりも青銅器の優れた芸術作品を生み出した。

 当時の世界の文明地域では、東地中海地域とエジプト、西アジアにおけるBC12世紀~BC10世紀の混乱の時代を経て、BC10世紀には地中海から太平洋に到るまで、既存の社会が崩壊して新たな勢力がそれに取って代わっている。中国でも、600年ほどの間、権力を掌握していた殷は、西方の中央アジアの草原から来た新たな勢力、周(BC1023年~BC770年)によって打倒された。ほぼ同時期に、メソポタミアにおいて、レヴァント北部とシリア地方からのアラム系諸部族、およびイラン高原からのカルディア系諸部族、そしてエジプトにおいて、ヌビア地方からのクシュ人の侵入のように、周も古くからあった繁栄の中心地を攻撃して崩壊させた周辺部からの民族だった。彼らは最終的に殷王朝の全てを支配するようになり、メソポタミアやエジプトと同様、自分たちが征服した国を都合よく利用しただけでなく、その歴史、図像、儀式も借用した。

 大英博物館にBC1000ごろのと呼ばれる、2つの湾曲した取っ手が付いた鍋のような直径が27センチの儀式用の青銅器がある。上下の帯状部分には花に似た複雑な模様が見られるが、何よりも印象的なのがその両側の取っ手である。取っ手は、牙と角と巨大な四角い耳がある大きな獣が、鳥を丸呑みしている姿になっており、そのくちばしだけが獣の口からのぞいている。このような青銅器は古代中国を最もよく象徴しており、その製造工程はとても複雑なものだった。この青銅器は別々の鋳型で鋳造したそれぞれの部分を組み合わせて、一つの複雑で難解な芸術作品に仕立ててある。出来上がった物は、当時、世界のどこでも作れなかったような器になっている。の内側には漢字で銘文が刻まれている。それはこの器が、周の将軍で殷王朝を転覆させた侵略者の1人のために作られたことがわかる。銘文は殷に対する周の最終的な勝利を決めた重要な戦いについて語っている。

「商(殷)の国を制圧した王は、康侯に命じて同国を周辺領土の一つとし、えいの国とした。X司土X(メイシトウイ)はこの変革に関わってきたので、亡父のためにこの聖杯を作らせた」、当て字なので「X」部分は変換できる漢字がない。メイシトウイという名前からしても牧畜民らしい。おそらく周の王族もこのような本名を持っていたと思われる。康侯は周王の弟である。周はBC1046年に建国している。殷の滅亡はBC1023年である。この銘文は周の建国の後に、殷の都、安陽の東にあった後の時代に衛と呼ばれた地域を制圧した記念に作られたと思われる。「天命」という考えを正式に表明したのは周が初めてだった。公正な支配者は天が祝福し維持するという中国の考え方である。神を信じない無能な支配者は神々の不興を買い、天命は撤回される。したがって、敗北した殷は天命を失い、覇者となった高潔な周に今ではそれが受け渡されたというわけだ。それ以来、天命は中国の政権の恒久的な特徴となり、支配者の権威を支えるか、その反対に解任を正当化するようになった。中国では、神々や民衆を怒らせると、その前兆が空に現れると信じられている、雷、雨、地震などだ。このようなは中国の広大な領土一帯で出土している。周は殷の2倍ほどの領域を支配した。周の領土は春秋戦国時代(BC770年~BC221年)になってからは小さくなったが、その権威は秦の始皇帝が現れるまで続いた。


 周王朝は殷から高度な統治組織と社会構造の多くを受け継ぎ、さらに洗練されたものに作り変えていった。なかでも埋葬の儀式や青銅の加工技術、装飾美術などは、ほとんど変更されることなく引き継がれた。実際、最初の王都である鎬京こうけい(現在の陝西せんせい省の西安)がある周原しゅうげんと呼ばれる周の本拠地地の遺跡からは、殷が滅ぼされた後に周の地に移された殷の遺民による祭祀場と考えられる遺構が発見されている。殷の多数の遺民を周の地に遷したことは古文献にも記されている。また殷後期の殷墟青銅器とよく似た型式・銘文形態を有する青銅器も見つかっている。それは、そもそも周の青銅器が殷墟時代の高度な青銅器製造技術をそのまま導入しているからである。

 周王朝の大きな業績は、そうした殷の高度な文化をさらに発展させ、周囲に伝えていったところにある。そうしてこの時代に作られたさまざまな制度が、その後3000年も続く中国文明の基本となる。周の時代、すでに中国には「中華思想」が生まれていたようだ。つまり、自分たちの王朝は非常に慈悲深い存在であり、周囲の野蛮な民族はその文明に感化されるのを待っているのだという思想である。周王朝は殷王朝と同様に、真の統一国家を作ったわけではなく、各地の諸侯たちの支持のもとに成立していた。それでも周の統治がうまく行っている間は、諸侯たちや各地の都市を治める家臣たちは、周の王家に依存する度合いにそれぞれ違いはあっても、王家の支配権を認め、文化を共有していた。こうした権力構造が運営されていく過程で、諸侯たちは次第に王と呼べるような支配者へと成長し、諸侯たちの下でも初歩的な官僚制度も出来上がっていくことになる


 一般に殷や周は「天下」の王朝だと考えられている。この「天下」は新石器時代以来の文化地域、つまり黄河中流域の中原地区を中心とした黄河と長江の上流域、中流域、下流域の6地域に、北部のオルドス地域と、東北部の燕・遼西の地域を加えた8地域をいくつか統合した領域である。ところが実際は、殷王朝と周王朝が支配を及ぼしたのは、基本的にこれらの文化地域一つ分の支配にすぎなかった。その次の春秋時代も基本的には同様だった。したがってその後、領域国家となる戦国時代の国々がこれらの文化地域を母体として成立したというのも、当然の帰結を示しているのである。戦国時代の領域国家はそれぞれに中央組織があり、その中央組織の下で官僚統治を始めた。その官僚統治を支えたのが文書行政であり、その文書行政を支えたのが戦国時代を通じて次第に整備されていく法体系としての律令である。これらがあってはじめて、秦の始皇帝は秦の律令を天下に施行し、唯一の皇帝の下、つまり唯一の中央政府の下で官僚統治を進めた。

 殷王朝と周王朝が支配を及ぼすにあたっては、大国である殷や周の下にいくつもの小国が従うという体制があった。周が小国となった春秋時代も周の権威は衰えなかったため継続されていた。この体制は、その小国を滅ぼして県とし、中央による地方の官僚統治を進めた戦国時代以降の国家体制とは質的に異なっている。しかし、大国が小国を支配する体制がどこまで広がったのかを探ってみると、新石器時代以来の文化地域に大きく規制されている。秦の始皇帝が統一した天下に広がるようなものではなかったのである。

 前漢(BC206年~紀元後8年)時代の司馬遷しばせん(BC145年~BC87年)は「史記しき」の中で、漢に先立つ王朝として夏、殷、周についても論じている。それらはいにしえにおいて天下を支配した王朝になっている。その天下は、BC221年に秦の始皇帝が統一した領域を念頭に置いている。秦を継承した漢王朝において「史記」が記され、その「史記」の中で、夏王朝、殷王朝、周王朝が天下の王朝であるかのように読める記述がなされているが、それは事実とは異なる。夏はまだ新石器時代の集落だったし、殷と周は青銅器時代の都市国家である。鉄器時代が始まるのはようやく春秋・戦国時代になってからだ。新石器時代から戦国時代に到るまでの歴史はおおよそ次のように語ることができる。

 ① 地域内に農村がいくつも存在する時代(夏)

 ② 城塞都市(小国)ができあがり、その都市に農村が従う時代(殷・周)

 ③ 小国の中から、これら小国を従える大国が出来上がった時代(春秋時代)

 ④ 大国が小国を滅ぼして中央官僚を派遣し、文書行政を行った時代(戦国時代)

これらの時代を経由した後、秦の始皇帝が各国を併合して天下を統一することになる。


 周王朝の創設者である后稷こうしょくの伝説は中央ユーラシアの典型的な創設神話で、ローマ神話、中央アジアの烏孫うそん神話、そして東北アジアの夫餘ふよ高句麗こうくり神話とよく似ている。周は中国の歴史を通じて最も理想的な王朝のモデルであるが、起源的には中国ではないと考えられている。周は当時の中国文化地域の北西の境界から来た。后稷こうしょくの母親の姜嫄こうげんは名前から見てきょう族である。きょうは非中国系の民族で、殷の主たる外敵であるきょうと同一である。中国の歴史家がきょうとすべきところをきょうに書き換えた。なぜならきょうは異民族であり、彼らが中国の王朝の始祖では都合が悪いからだった。きょうは殷の時代に熟練した二輪戦車戦士だったことは明らかである。初期のきょうは、一般に考えられているようなチベット・ビルマ系の言語の話し手ではなく、インド・ヨーロッパ語族の人びとであり、姜嫄こうげんはインド・ヨーロッパ語族起源の一族の一人であったと思われる。周の言語は金石文(青銅の器に刻まれた銘文)に残っているが、それは甲骨文字で書かれた殷の言語から続くものであり、どちらも現代中国語につながっている。殷(BC1600年~BC1023年)そのものの建国にもインド・ヨーロッパ語族の遊牧民が関与していたと考えられる。殷の国は、黄河渓谷のかなり小さな地域を占領しただけだった。そこは現在の河南省の北部と東部、山西省の東南部、山東省の西部に当り、つまり中原である。そこは二輪戦車で武装した好戦的なインド・ヨーロッパ語族の遊牧民によって簡単に支配されてしまったようだ。二輪戦車戦士が東アジアに現れたのは、彼らが、ギリシャ(ミュケナイの始まりはBC1600年)、メソポタミア(BC16世紀初頭ごろ、アナトリアから押し寄せたヒッタイトがバビロンを陥れて、バビロン第1王朝は滅亡したのはBC16世紀初頭ごろ)、インド北西部(自らをアーリア(高貴な者)と自称するインド・ヨーロッパ語族の遊牧民がパンジャブ地方に侵入するのは、インダス文明が崩壊した300年~400年後、BC1500年ごろである)、に現れたのとほぼ同時期である。東アジア以外のすべての場合、彼らはインド・ヨーロッパ語族の言語を話し、ユーラシア草原文化を有していた。東アジアの場合も、二輪戦車戦士はユーラシア草原文化を持っていたと思われる。したがって、彼らもインド・ヨーロッパ語族の言語を話していたはずである。初期古代中国語が、最低限の特徴を保ったインド・ヨーロッパ語であるのかは、言語学的研究のさらなる進展を待たなければならないが、第73話「中国の文字体系」で記したように、中国文字の漢字は、初期にシュメール語の楔形文字から発展し、BC2200年~BC1500年ごろの内モンゴルの夏家店下層文化の担い手が中国に伝えたと思われる。インド・ヨーロッパ語とその話し手が、後に中国となったものに対して大きな影響を与えたことは確かである。


 中国では、完成した形の二輪戦車あるいは戦闘用馬車は、北西方面から殷王朝に導入された。夏と殷の農民は金属製の農具を使用せず、また動物で鋤を引かなかった。また、殷における二頭立て二輪戦車の使用は、北西部や北方ステップ地帯からの二輪戦車による侵入の証拠(遺物)を伴っていないが、これはまだモンゴル高原や中国のオルドス地方での発見がまだないからだけかもしれない。中央ユーラシア文化複合体のうち、戦車として使用される二輪戦車などいくつかのものがBC12世紀より少し前に中国に出現したのは確かである。それは殷後期第2期(BC1250年~BC1192年)の武丁ぶてい期に当る。これまでに発見された一番古いものは、その武丁期のBC13世紀のもので、すでに細部にわたって殷の装飾が全面に施されており、これは中国において文化的に適応するための時間が十分にあったことを示している。したがって、二輪戦車、すなわち戦闘用馬車の導入はもっと前であったはずである。ウマは馬車とともに入ってきた。そして、ウマは人と馬車とともに殷の王墓に葬られた。馬車をウマと御者とともに埋葬することは、中央ユーラシア文化複合体に特有のものであり、その文化複合体はBC1000年ごろまでもっぱらインド・ヨーロッパ語族系のものであったと考えられている。


 陝西省関中かんちゅう平原の西部に位置する周原は、北は岐山を仰ぎ、南は渭水いすいに面し、東は武功県、西は鳳翔県宝鶏ほうけい市あたりまで拡がる細長い地域である。周族の祖先が北部のひんから岐山の南へ移って居を定めたのがこの場所である。周族はこの周原に来てから、都を造り、国を建て、都城を「京」と名づけ、国号を「周」とした。すなわち、この周原こそが周民族発祥の地なのである。

 周は元は遊牧民であったと思われるが、気候の冷涼化がこうした牧民の南下を促した一つの要因だった。当初小さな周の部族は北部の他の遊牧民や西部のきょう族と同盟して強盛となったようだ。周の部族は異なる文化の人びとを寛容に扱い、共に力を尽くせる方法を早くから学んでいた。したがって彼らは渭河いが流域に定住した後、殷の家臣になった。その後、BC1024年~BC1023年の「牧野の戦い」で殷を破り、殷はBC1023年に滅びた。周は殷の上流階級を都の鎬京こうけい(現在の西安)に移住させ、儀式や政治、文字や建設などの技術を取り入れた。その他の殷の支配者一族は西部へ植民移住させた。東部平原を征服した後、周は北西の遊牧民の征服、さらに南の漢水と長江地域地域、東南の淮河わいが地域へと勢力を拡大した。周の支配は王族の息子たちに50以上の支配下の集落を封土として授け、封建的ネットワークを作ることによって確立した。周の封土は契約に基づく委任であった。周王朝は象徴的な儀式の贈り物である銘文入りの青銅器を各国に与えることに加えて、信頼できる家臣団を征服した土地に送り込んで支配させた。このように周は殷と同様に血縁関係を利用した一方で、非人格的な天命理論を採用することによる正統性を創造した。天の命令、すなわち天命理論は単に血統のみに頼った王権神授説とは異なり、権力掌握の道徳的規準であった。周の支配は中国文字体系や、周の儀式と行政の普及を伴った。主流の文化は殷と周が支配した中心地域である中央平原(中原)の文化であった。周による殷王朝の征服によって漢民族の国家が現れたともいえる。漢民族とは北西方面から中原地方に入ってきた周という部族が黄河流域に定着し、徐々に周辺の諸部族を同化してゆく過程の中でできあがってきたものである。

 周王朝は人口の増大という社会変化が遠因となって終焉の時を迎えることになる。それは驚くことではなく、農業を基盤とする中国社会の社会変動は、その後も常に食料と人口のバランスが崩れた時に起こっているからである。ちなみに、BC841年からは「史記」など古典籍による暦年代の復元も可能となった。王朝の末期のBC772年に王都鎬京こうけいに携王が即位すると、反対する諸侯はBC770年に平王を副都雒邑らくゆう(後の洛陽)に擁立した。これにより、周王朝は西周と東周とに分裂した。この東遷から春秋時代が始まったとされる。BC759年、西周は一部の諸侯の寝返りもあって東周によって滅ぼされた。


 ***


 800年以上に及ぶ長い殷(BC1600年~BC1023年)と周(BC1023年~BC770年)の時代の後、BC770年からBC221年まで550年にも及ぶ春秋戦国時代の混乱の中でも、中国の歴史を支える大きな二つの道筋は絶えることなく継承されていた。

 その一つは、黄河流域からの文化の伝播が依然として続いていたということである。中国文明は当初、未開の海に浮かぶ小さな島のようなものだった。しかしBC500年ごろまでには華北一帯にあった数多くの国が文明を共有するようになり、さらにそのすぐ南の長江の流域にまで伝わっていった。長江流域は樹木の生い茂る湿地帯で、華北に比べると未開の民族が住んでいたが、周の影響によってその長江流域にもという国がBC7世紀ごろ誕生する。楚は周の影響を受けながらも、独自の言語や芸術、宗教を発達させていった。こうして春秋戦国時代を転換点として、中国史の舞台は大きく広がっていった。

 二つ目は、殷と周の時代を通じて、その後現代にまで生きのびることになる各種の社会制度が確立していったことである。その中の一つが、中国の社会が土地を持つ貴族と、土地を持たない民衆とに分離したことだ。当時の民衆の大半は農民だったが、こうした無数の人びとの生活についてはよくわかっていない。他のどの古代文明に比べても、社会の底辺でつらい労働を担った農民たちについての情報は残されていない。なぜなら中国の農民は、冬は土でできた小屋に住み、夏は野宿をしていたため、生活の痕跡が残されていないからである。戦争や建設のための労働にかり出される以外は土地に縛られ、社会に埋もれるように暮らしていた農民たちは、まさに農奴であったといえる。貴族たちは土地や金属製の武器を所有し、それによって長い間富を独占し続けていた。


<都市の発達>

 周時代の後期には、もう一つ重大な変化が起こっている。都市の発達である。古代中国では都市は河川に近い平原に生まれる傾向にあった。そうした初期の都市では、まず行政の中心である宗廟、つまり祖先の霊を祭る神殿を建てる場所が決められ、その後で武器庫や馬小屋、家屋などが建てられていった。宗廟の周辺に集落ができていくにつれ、民衆が土地の自然神を祀る建物も作られるようになった。その後、殷王朝が成立すると、大規模な建築物が建設されるようになる。BC1300年ごろ、殷の都安陽には、宮殿や王家の墓所、金属の鋳造所などがあった。周時代の末期のBC800年ごろには、首都の王城(現在の洛陽の西郊)は一辺の長さが3キロほどある土塁で四方を囲まれていた。BC500年ごろになると、かなりの数の都市が誕生しており、社会の多様化が進んでいたことがうかがえる。都市の多くは3つ区域に分けられていた。まず城壁の内側が2つに分かれ、一方に貴族が、もう一方には職人や商人が住んでいた。さらに城壁の外側には住民の食料をまかなうための耕作地が拡がっていた。この時期、商人階級が台頭したことも重要な意味を持っていた。戦国時代(BC470年~BC221年)になると、都市の商業地区の通りには、宝石や骨董品、食べ物や衣服を売る店が並び、酒場や賭博場、娼館まであった。


<中国文字と銘文>

 殷後期(BC1320年~BC1023年)の始めのBC1300年ごろには甲骨文による文字の使用が始まった。甲骨文は殷王朝第22代武丁ぶていから殷末までのものである。さらに、銘文(金文)入りの青銅器も殷が始めた。漢字は殷から周に継承され、独占的に使われた後に各国に広まっていった。殷に先行する夏が文字を使っていた証拠は未だ発見されていない。文字は殷から周に継承され、独占的に使われた後に各国に広まっていった。

 文字は西周時代まで、殷や周という限られた大国の都市の内部で使用される文字に過ぎなかった。周が熱心に銘文を刻した青銅器を配布したので、周の諸侯はいち早く漢字に慣れ親しんでいったが、青銅器銘文を鋳込む技術は特殊で難しかったため各国はその技術を習得することができなかったようだ。というより、周は青銅器に銘文を鋳込む技術を殷から継承すると、その技術を他に洩らさなかった。こうした状況を一変させたのがBC770年の東遷であった。この東遷は周王朝を支えた諸侯の争いを背景とする周王朝の分裂だった。そして、これに他の諸国の侵入が加わって周の故地は混乱し春秋時代が始まった。文字による文化が春秋戦国諸国の正統性を説明する上で不可欠のものとなり、自然に周王朝の権威は確立されたのである。春秋時代になってからの盟誓めいせい(誓い)の内容を文書にした盟書めいしょの出現は文字が広く根付いたことを示している。BC759年に東の周が西の周の携王けいおうを滅ばしたとき、東周の平王側の旗頭はしんの文侯であった。晋は周の技術者や知識人、そして記録類を入手し、文字文化を晋に根づかせ、記録類は書き写した。それらは「竹書紀年ちくしょきねん」の材料となり、後の戦国時代に晋の都を掌握した魏に継承された。「竹書紀年」は戦国時代の魏の年代記である。やがて秦が西方から周の故地に乗り出してきた。西周が滅亡した後、秦は西周の余民を治めたという。この時点で青銅器銘文の鋳造技術が秦に伝わったようだ。また、西周滅亡の混乱の中で鋳造を初めてする技術者や文字を使う知識人も散り散りになり、逃れた先で技術や知識は伝えられたと思われる。


<鉄の鋳造と周王朝の終焉>

 以上のように、中国の歴史を決定づけるじゅうような社会制度は、周時代の末期にはほぼ出来上がっていた。しかしその周王朝は、さらなる社会の大変化が遠因となって終焉の時を迎えることになる。それは人口の増大という社会変化だった。農業を基盤とする中国社会の社会変動は、常に食料と人口のバランスが崩れた時に起こっている。BC500年ごろに使われるようになった鉄の出現が、社会に激変をもたらしたのである。鉄の農具によってまず農業生産が急速に増大し、それにより人口の増加も進んだ。武器より農具が先に作られたことは、BC5世紀~BC4世紀の鉄製のかまの鋳型が数多く発見されていることからわかっている。周王朝の終焉が近づくにつれ、各地の諸侯たちは、ますます王から自立する兆しを見せてきた。諸侯たちはもともと兵士を王に提供する義務を持っていたため、一定の兵力を蓄えていた。武器や戦術の進歩が、そうした諸侯たちの自立を後押しする形になった。


<宗教>

 また社会制度の中心に位置する当時の信仰を共有していたのは貴族だけだった。祖先を祀る祖先祭祀は殷以前から行われていたが、最初の頃は特に重要な人物、つまり支配者の霊に限って祀られていたようである。周の社会制度もそうした祖先祭祀を中心に成立していた。周は同姓の氏族うじぞくの後継者たちを中原に建設した植民都市の長として派遣していたが、彼ら諸侯と周王の関係は、同じ祖先を祀る本家と分家の関係にあった。氏族とは一般的に共通の祖先を持つとされる血縁集団によって構成されるが、実際に共通の祖先を有するか否かではなく、有すると意識されることが重要であることは多くの研究者によって明らかにされている。さらに周には約1000の氏族があったとされるが、各氏族の長は祖先の祭祀を司る資格を持ち、そのことで氏族内の人びとを支配していた。氏族に属することは、土地の所有や官職を得るための重要な資格だった。有力な氏族に属していればいるほど、高い地位に就く機会が与えられた。この意味でいえば、王といえども最も重要な氏族の第一人者、つまり貴族の中で最も抜きんでた貴族にすぎなかったことになる。一方、そうした祭儀とは無縁だった民衆は自然崇拝に信仰の拠り所を見つけ出していた。自然崇拝には支配者たちも関心を払っており、山や川を崇拝し、その霊を慰めることは、古い時代から中国の王の義務となっていた。こうした事情が他の文明には例を見ない中国思想の発達に影響を及ぼすことになる。

 中国における祖先祭祀は非常に厳格な儀式を持ち、そのため大変な時間と労力が費やされた。王は祖先に対する祭祀を司ることで民衆を統治していた。例えば、神の意志は卜占ぼくせんで伝えられ、それを記録した卜辞(甲骨文)によって種まきや収穫などの時期が決められ、農業社会の秩序が保たれていた。つまり、殷周時代の中国社会は王を中心とする神権政治によって統治されていた。神権政治においては、たとえ王や国を滅ぼしても神を滅ぼすことはできない。殷の神を祀ることは殷族の子孫にしかできないので周王はその後を継ぐことはできない。そこで周は民衆を統治する資格、すなわち天命を、王朝の祖先神より優位な神である天帝から委ねられたという新しい概念を持ち出す必要があった。人間に寿命があるように王朝にも寿命がある。しかし、殷は正しい行い、つまり徳行を積まなかったために寿命をまっとうすることができなかった。そこで新たな天命を受けた周が王朝を樹立することとなったということにした。その後の中国の歴史は王朝の盛衰はあっても文化的伝統は引き継がれていくという性格を持つことになるが、天命はそうした伝統を支えた重要な概念だった。


<青銅器・鉄器>

 殷を周の武王が滅ぼすことによってBC1023年に周王朝が樹立される。周はBC1023年以前にも地方的な青銅器生産を開始しているが、殷王朝の青銅器工人を採り入れることにより殷的な様式による青銅彜器いきを生産し始める。周の青銅彜器いきは殷以来の飲酒器が主体であり、祭祀形態は基本的に殷と同じ祖先祭祀であった。それは周王を頂点とした階層構造を維持するための祭祀儀礼でもあった。周は各地に諸侯を封建して広大な領域を統治した。その封建体制は、周王から任命された諸侯や諸侯一族と、周王から派遣された殷系貴族、殷代以来の在地の有力氏族から構成されていることが、青銅器や金文の内容と墓地の分析から見出すことができる。これを典型的な初期国家と呼ぶことができるが、一方で西周前期の青銅器は、殷後期の青銅器様式を受け継いで祭祀儀礼が行われている。周原においては、複数の宗廟が同時に存在しており、王族や貴族たちが氏族の系列ごとに祭祀儀礼を宗廟で行い、そのための青銅彜器いきを地下の穴蔵に保存していた。このように、西周前期には、殷の祭儀国家と周の封建制という二つの社会システムが併用されていた。また西周時代には、周の領域外である長江下流域や湖南、江西でも、地方的な青銅彜器いきが発達する。これも殷代後期の地域間ネットワークの発展であり、金属資源供給地帯の独自な地域社会の発展を意味する。

 周中期のBC9世紀に入ると、二里頭文化・殷文化以来の青銅彜器いきとしての酒器が消滅していくとともに、周王の権威が次第に弱まり、儀礼内容も変質する。この段階に周王は盛んに冊命儀礼を行い、諸侯や貴族を叙任することにより周王の権威を確認させたことが金文の内容によってわかる。新たな礼制改革が行われ、青銅彜器いきには、炊器や盛食器に、酒器に代わり鐘やはくといった楽器が加わって儀礼制度が変容していく。これらは西周後期に編鐘としてセットとなり、礼と楽が一体となった儀礼が完成する。しかしこの時期には周王室の権威が失墜し、礼制改革が進むとともに各貴族単位での祖先祭祀が行われるようになる。これが春秋時代(BC770年~BC470年)に見られる諸侯単位の青銅彜器いき生産やその地域の特徴の出現につながっていく。このように次第に階層構造の再編が進み、宰相にあたる卿大夫けいたいふクラスが国を乗っ取る下剋上が春秋後期に始まるが、基本的には氏族単位での祖先祭祀が重要であった。しかし、この時期から始まる鋳造鉄器生産により、戦国時代(BC470年~BC221年)には土地開発が進み、新興農民層や商人層の出現など社会が変化し、個人を重視する観念が生まれていく。これにより次第に青銅彜器いき生産が衰退し、代わって陶器の副葬が葬送儀礼に用いられるようになる。これは青銅器時代の終末期であるとともに、初期鉄器時代の到来を意味している。この時期、現世への思考(欲求)の高まりは身づくろいをするための青銅鏡生産を促し、漢代(BC206年~紀元後220年)においては鏡が主要な青銅器となっていく。また、戦国時代には国ごとに青銅武器の生産が行われ、それを管理する中央集権的な青銅器銘文が三晋(趙・韓・魏)や秦、燕などに現れる。戦国時代後半期の国ごとの中央集権化は、秦漢帝国の制度の礎となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る