第99話 スキタイの起源

 スキタイの起源についてはいくつかの紀元神話が知られているが、それらとは別に何らかの歴史的な経緯を反映したと思われる伝承も残されている。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスはその著書「歴史」の中でスキタイの起源について次の3つの説を紹介している。


1.スキタイ自身の語り伝えで、ギリシャのゼウスと黒海に注ぐボリュステネス川(現在のドニエプル川)の娘との間に3人の男の子が生まれ、その末子がその地を相続したというものである。ギリシャ人は彼らをスキタイと呼んだ。末子相続は騎馬遊牧民に見られる相続法である。この説には4つの部族が登場する。西から農耕スキタイ、農民スキタイ、遊牧スキタイ、王族スキタイがおり、クリミア半島とその周辺にいた王族スキタイに他の部族が隷属していたという。

 農耕スキタイについてヘロドトスは、彼らが穀物を栽培するのは、自分たちの食用のためではなく、他に売却するのが目的なのであると説明しているが、農民スキタイの農業形態については何も語っていない。両者の居住地はドニエプル川中・下流域の主として西側であったと考えられているが、まさしくその地域ではスキタイと同時代の農具、炭化穀物、集落跡などが多数発見されており、農耕が盛んであったことがうかがい知れる。それらを残したのが、農耕スキタイと農民スキタイであることは十分考えられる。黒海北岸は、スキタイが現れるよりはるか以前の新石器時代から農耕文化が栄えていた。農耕スキタイや農民スキタイはそのように黒海北岸に以前からいた農耕民で、新来のスキタイに支配されるようになった人びとであると考えられる。もしそうであれば、この説は、スキタイが黒海北岸を領有するようになってから、その領有を正当化するために作り上げられたものではないだろうか? 父親が外来神で母親が地元の娘というのもその見方を支持していると思われる。


2.黒海地方在住のギリシャ人が伝えるもので、ゼウスの子ヘラクレスと、上半身が乙女で下半身が蛇というエキドナ(蛇女)との間に3人の男の子が生まれ、やはり末子のスキュテスが国を治めた。そしてスキタイの代々の王はこのスキュテスの子孫であるという。この説に登場するヘラクレスが与えたという器物(ベルト(帯)、それに付けられた金盃、弓)に農耕民的色彩は見られない。ベルトを使わないギリシャ人の服装とは異なり、短い上衣とズボンという乗馬に適した出で立ちのスキタイにとって、ベルトは必要不可欠の衣装用具であった。留め金具にはさまざまな意匠が施され、彼らの服装の文字通り要を成していた。また遊牧民は移動を常とするため、刀剣、弓矢、砥石といしむちなど、日常的に使うものをベルトから吊るしていた。盃をベルトに吊るすこともあった。


3.スキタイは初め中央アジアの草原地帯の遊牧民であったが、マッセゲタイ人(同じく中央アジアの遊牧民)に攻め悩まされ続けた結果、アラクセス川(ヴォルガ川、あるいはシルダリヤ川・アムダリヤ川)を渡ってキンメリア地方(カフカス(コーカサス)北方から黒海北岸にかけての草原地帯)に移り、そこにいたキンメリオイ(キンメリア人)を追い払って代わりに住みついたというものである。この説はギリシャ人もバルバロイ(非ギリシャ人)も一致して伝えている説で、ヘロドトス自身もこの説が信頼できるという。この説には第1や第2の説のような神話伝説的な要素はない。実はその後のユーラシア草原地帯の歴史を概観すると、この説はごく自然に受け入れられる。


[ギリシャ人の黒海沿岸地域への植民活動]

 ギリシャは、BC8世紀には人口の急激な増加に対して乏しい耕地による食糧生産では対応しきれなくなり、ギリシャ各都市は海外に植民地を建て、そこに市民を送り出した、BC8世紀末以降には、ヘレスポントス(現在のダーダネルス)とボスポラスの二つの海峡と、その間にあるプロポンティス海(現在のマルマラ海)を経て黒海にまで侵入した。しかし、原住民であるキンメリア人たちの抵抗に遭い、定住が始まるのはその半世紀ほど後のBC7世紀半ば過ぎのことで、スキタイ前期の時代となる。彼らが黒海沿岸地域に点々と都市を設けたのは、その大部分はなによりも通商上の拠点としてであり、蛮族の世界の中で孤立していた。ギリシャ人たちは本国で流行していた衣服や装飾品、陶器、それらの生産活動などを持込んだ。黒海北岸における装飾品生産の中心地は、クリミア半島のパンティカパイオンとケルソネソス、そして黒海北岸西部のオリビアなどであった。それらの町からはテラコッタ製の女神像も発見されている。


 ***


 スキタイはBC9世紀ごろから中央アジアに住んでいた。その文化は西方に広がり、現在のロシア南部やウクライナ、東ヨーロッパにまで達するが、BC300年ごろになると徐々に衰退していった。ヘロドトスによれば、彼らは町も城塞も築いておらず、その一人残らず皆が、家を運んでは移動してゆく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に牽かせる車であったという。また戦闘で殺した敵兵の首級を王のもとへ持参しないと、略奪品の分配にあずかれないことや、各地区の首長が催す年に一度の宴会の席では、戦場で敵を討ち取ったものだけが酒を飲むことを許されるなど、武勇を重んじる風習についても伝えられている。そしてアケメネス朝ペルシャのダレイオス大王がスキタイの地を攻めて失敗に終わった顛末も生き生きと記されている。


 スキタイにおける黄金への嗜好は、すでにその初期のころから始まっていた。スキタイ文化の初期の古墳は北コーカサスのクバン地方に多く見られ、そこからは剣、動物文様で飾られた戦闘用斧、ヒョウの形の大きな飾り板、背面に金の板が付けられた鏡、リュトン(儀式用の角杯)などが発見されている。胸飾り、耳飾り、指輪、首飾り、イヤリング、ペンダント、衣装の飾り物、馬具の装飾品、剣のさや、動物像、ゴリュトス(弓と矢を一緒に入れる入れ物)、リュトンなどはほとんど金で作られている。スキタイが特に重視したのは、胸飾りと首飾りで、それらは単に美しいというだけではなく、社会的・宗教的・経済的な差別化の象徴ともなっていた。そういう意味では、上層階級の女性の衣装にはほぼ全体にわたって、形や文様がさまざまな小さな金製装飾品が縫い付けられていた。

 また金製装飾品に加えて、鉄・青銅・ガラス・骨製の独創的な製品もある。スキタイの衣装の中で重要な要素となっていたものにベルト(帯)がある。ベルトも特定の象徴的機能を持っていた。スキタイに特徴的なベルト装飾をよく示しているものに、動物文様で装飾された青銅製帯金具がある。また、さまざまなサイズの青銅製鏡も普及していた。それらは片面が入念に磨かれ、専用のケースか袋に入れられていた。そして、スキタイ文化の特徴の一つに儀式のときに用いられた青銅鋳造製の竿頭飾かんとうしょくがある。竿頭飾は上に動物像が付けられ、下部が鈴あるいはたくになっており、下の軸に棒や竿さおを取り付けられるようになっている。スキタイ時代に黒海沿岸からモンゴル高原までユーラシア草原に広く普及した。振れば音がするので、戦いの開始を告げる合図に使われたとする説もあるが、確かではない。

 剣や戦闘用斧にはスキタイ特有の動物文様とともに、当時西アジアで盛んに用いられていた文様と同種のものが表され、ヘロドトスが伝えるような、彼らと西アジアとのつながりを明らかに示している。また、ウマの陪葬、シカを表わした金製の飾り板や矢筒の装飾板も出土している。これらは黒海沿岸ばかりではなく、中国の北方にまで至るユーラシア・ステップ草原に形成された当時の多くの遊牧民の文化に見ることができる。初期スキタイ文化の古墳は、ヘロドトスによって王族スキタイの領土であったと伝えられるドニエプル川下流域にはあまり知られておらず、かえって、本来のスキタイの領土ではなかったかもしれない北コーカサスなどに多く残されている。これはスキタイ考古学の一つの謎である。


 鉄生産はBC10世紀にはカフカス(コーカサス)を経てユーラシア草原地帯まで拡散した。カフカス(コーカサス)の鉄製錬は土坑炉でスラグを下部に溜める方式が取られ、出来上がった塊錬鉄は、浸炭、焼き入れ、焼き戻しなどの工程が加えられ、はがねも作られていた。また、北コーカサスの鉄製の剣身と青銅の柄によるバイメタルの製造技術は、東ヨーロッパからヴォルガ川流域まで広がり、先スキタイのキンメリオイも独自型式のバイメタル短剣や鉄剣を保有していた。スキタイはそうした鉄利用の世界に東方から入り込み、その技術を継承した。

 キンメリオイについては明らかではないが、少なくともスキタイは、遊牧スキタイと王族スキタイの領域では土塁を有する防御性集落を持っていた。そこでは青銅器と鉄器の生産も行われており、居住地や交易センターに加えて金属製品などの生産拠点の役割も担っていた。東方から来たスキタイは、当初は青銅製短剣を使用していたはずだが、黒海北岸に移動後はキンメリオイと同様にバイメタル短剣を使用した。BC8世紀~BC7世紀の古い型式の短剣は鉄の茎と剣身を芯にして、ハート形のつばと中央が空いた青銅の柄が鋳造で連結されている、少数を除き、スキタイの短剣は他の型式でも鉄製であり、鉄の小札こざねを重ねた甲冑を含め、鉄の武装が行き渡っていた。

 キンメリオイやスキタイといった騎馬遊牧民は、サヤン・アルタイ地域から西方に移動して黒海北方周辺に定着し、そこで導入された鉄器生産が今度は西から東へ伝わった。ユーラシア草原地帯の東西では複数の交易ルートと広い交流網が形成されており、鉄生産の技術の拡散経路の限定は難しいが、この多様な交易路こそ文化や技術の伝播にとって重要であったことは確かである。


 ユーラシア大陸中央部を中心とした古代における民族移動・侵入の波を眺めてみると、南北方向では北から南に、東西方向では東から西へ向かう波、この二つの波が圧倒的に多い。北から南への波は、草原あるいは森林地帯から遊牧民、狩猟民、半農半牧民が都市文明を持つ定住農耕地帯へ侵入することによって起こる。一方、東西間の移動は遊牧民同士の衝突を引き起こし、主として草原地帯で行われる。キンメリオイとスキタイが西アジアに侵入したのは前者であり、スキタイがキンメリオイを追い出した状況は後者である。

 スキタイによって黒海北岸から追い払われたキンメリオイは黒海沿岸を時計回りに逃げて、BC695年あるいはBC675年にアナトリア中西部のフリュギア王国のミダス王を自殺に追い込み、BC670年~BC660年代初めにはアナトリア西部のリュディア王国の都サルディスを一時占拠した。一方、スキタイの西アジア侵入(アナトリア東部、アッシリアの北方)はその20年~30年後になる。スキタイの名が初めて西アジアに登場するのはBC670年代のことである。ヘロドトスはスキタイは西アジアに侵入したが、BC625年過ぎには故国の黒海北岸に戻ったという。これらのことはアッシリアやウラルトゥの楔形文字粘土板文書によって裏づけられる。また、旧約聖書にはイスラエルの地を北方から襲う騎馬軍団が登場するが、これらはキンメリオイとスキタイを指すと言われている。キンメリオイやスキタイが西アジアに侵入したBC8世紀末~BC7世紀は、大国の新アッシリアの他にメディア、ウラルトゥ、フリュギア、リュディア、などの新興国家が各地に発生した激動の時代であった。スキタイ人は傭兵として西アジアの各勢力から富を得ていたようだ。

 中央ユーラシア東部には、スキタイ文化に先行してカラスク文化があった。カラスク文化の遺物として残っている美術工芸品は青銅製品だけで、貴金属工芸品は今のところ知られていないが、スキタイ文化の起源の一つにカラスク文化があったことは間違いない。さらにそのカラスク文化の起源となると、説はさまざまに分かれるが、南シベリアや中央アジアのアンドロノヴォ文化(BC1800年~BC1200年)が有力である。そのアンドロノヴォ文化の影響の下に成立したのが、内モンゴルの夏家店下層文化(BC2200年~BC1500年)であり、それは殷(BC1600年~BC1023年)の文化と類似しており、夏家店下層文化の人びとが乾燥化と寒冷化が進んだため南下し殷文化を形成したと推定されている。


[スキタイの三要素]

スキタイ文化を特徴づけるのは、次の三要素である。

① V字やハート形のつばを持つアキナケス型短剣、とげ付き両翼・三翼やじりなどの武器

② 円形あるいは半月形のはみ先環を持つはみ、三孔・二孔はみ留め具などの馬具

③ デフォルメされたスキタイ風動物文様の装飾


 馬具と武器は、まさに軍事優先の騎馬遊牧民ならではの特徴と見ることができるだろう。しかし、動物文様の施された美術装飾品は似つかわしくないと思われるかもしれないが、このスキタイ初期の動物文様こそは他所からの借り物ではない、スキタイ独自のものなのである。

 スキタイの美術工芸品に最もよく見られるのは、動物の身体全体、あるいはその一部である頭・足・爪・目などの表現である。それは、力強さ、注意深さ、敏捷さなどの特質が表現されている。スキタイ動物文様はかなり写実的で躍動感あふれた表現から、紋切型の装飾へと変化してゆき、主要なモチーフは時代とともに減少していった。動物文様が軍事優先の考え方や生活と結びついていたことは疑いない。ユーラシア草原地帯の遊牧民の物心両面の価値基準の中で、黄金は特別な意味を持ち象徴的性格を帯びていた。これらは黒海北岸から中国北部の長城地帯まで共有され、その拡がりをスキト・シベリア世界と呼ぶ。これらがそろって最初の段階で西アジアに現れたということは、スキタイ系遊牧民がまだ北方の草原地帯にいたころに、すでにそれらを完成させていたということになる。初期の動物文様はアルタイ北部地域の一角に登場していることからスキタイ東方起源説が有力となっている。北コーカサス・黒海北岸にスキタイ動物文様が登場するのは後期になってからである。



(大草原の古墳群アルジャン)


 ウマを駆って、土地を次々に征服していったスキタイの文化は、はるか中央ヨーロッパからシベリアにまで及んだ。史上最古にして最強ともいわれる騎馬民族の彼らは、生と死、そして芸術のすべての面でウマを崇拝した。ロシアのトゥバ共和国(現在のモンゴルに接する北西側)にある谷でも、高貴な二人の男女が埋葬された2700年前のクルガン(環状の石と墳丘で構成された墓)と呼ばれる墓にはウマに対して表した崇敬の念が残されている。

 アルジャンは南シベリアの西サヤン山系の中の盆地にある。そこは寒冷ではあるが、風が強いため積雪量が少なく遊牧民の冬営地に適している。エニセイ川上流に流れ込むウユク川の流域にあり、現在のロシア連邦トゥバ共和国の首都クズルの北西80キロに位置する。現在アルジャンの名を持つクルガンは1号墳から5号墳まである。スキタイ人は崖から切り出した砂岩でこれらの古墳の外璧を構築し、その中に防腐効果のあるカラマツ材の丸太で埋葬室を造った。


<アルジャン1号古墳>

 スキタイ東方起源説に有力な証拠を提供したのは、1971年に発掘されたアルタイ北部地域のトゥバにあるアルジャン古墳の1号墳(炭素14年代測定法ではBC822年~BC791年)である。この墓は盗掘されていたが、このアルジャンの地が王族の集合墓地であることが明らかになった。アルジャン1号古墳は直径120メートルと大きいが、高さは4メートルほどしかないフラットな積石塚である。石の下には丸太を組んで作られた墓室が70以上もあった。王と王妃と思われる二人のほかに、男性15人と160頭のウマが確認された。1号墓室は盗掘が激しく、人骨の多くの部分は失われ、残された副葬品も僅かであったが、墓室内やそのすぐ外側で金銀やトルコ石の装飾品、青銅製の武器や馬具、毛織物や毛皮断片などが発見されており、埋葬時の豪華さが偲ばれる。墳丘の周囲には西側を除いて二重三重に小石堆(石積み)が巡っている。小石堆には葬儀で食べられたと思われる家畜の骨が多数発見された。これと同じスキタイ時代の大型古墳はまだ発見されていない。またこれほど古いスキタイ系の古墳も見つかっていない。残念ながらかなり古い時期に盗掘され大きな金銀製品は少なかったが、先スキタイ時代のチェルノゴロフカ型の馬具とやじり、ヒョウのような獣の青銅製飾り板、下部が竿さおを挿し込めるような筒になっているヤギ形竿頭飾り、シカとイノシシが表された「鹿石」の断片などが出土した。これらのことから、文化的には初期遊牧民のもので、年代はスキタイより古くBC9世紀後半~BC8世紀初頭の先スキタイ時代である。スキタイに特徴的な動物文様の起源はこのアルタイ北部地域のようである。黒海北部にいたキンメリオイは動物装飾を持たず、スキタイとは異なる型式の短剣を有するが、一部のやじりと馬具がアルジャン1号墳のものと共通する。これはキンメリオイもまた東方から来たことを示唆しており、近年のDNA分析では、サヤン・アルタイ地域の人びとに類似していたという結果が出ている。つまり、東から西へ幾度かの騎馬遊牧民の移動の波があり、これにより広大な交流網が形成されていったと考えられる。


<アルジャン2号古墳>

 2001年、アルタイ北部地域のトゥバにあるアルジャン2号墳から盗掘を免れた金製品が5700点も発見された。外見は1号墳とそっくりで規模は一回り小さく、積石塚の直径は80メートル、高さは2メートルである。出土品全体からは、西アジアやギリシャのモチーフがまったく認められない。アルジャン1号墳よりは新しいものの、初期スキタイ時代に属する。年代はBC619年~BC608年の範囲内であり、アルジャン1号墳より200年ほど新しい。ここからの出土品は重要な意味を持っている。動物闘争文様がBC7世紀末のアルタイ北部地域に登場していること、そして鉄製品が登場していることである。鉄製品はユーラシア草原地帯の西部ではBC7世紀後半から知られているが、東部ではBC5世紀にならないと現れないとされていた。この発見により西部との差はほとんどなくなったのである。このアルジャン2号墳の出土品によりスキタイ美術の東方起源説がますます有利となった。

 この古墳の主人公ともいうべき高貴な二人の男女の遺骸は墓壙の中に二重の木槨があり、その中に左横臥屈肢の状態で横たわっていた。男性は40代、女性はそれより10歳ほど若い。その墓壙と外側の木槨との間にふくが2点発見された。青銅製ふくは祭祀の際に犠牲を煮炊きする両耳広口の鋳造製の釜である。学術的な発掘の過程で発見された例は極めて少なく、この発見は重要である。男性は帽子の上に鹿形装飾をつけ、首には1.5キロの金の首輪をはめ、肩に短いマントをかけ、ズボンをはき、膝までの長靴をはいていた。マントには2500点もの小さなヒョウ形金製品が縫い付けられていた。女性は長い金製のピンを芯にした高い髪飾りをつけ、胸飾りを首から吊るし、肩マントをはおり、膝までのスカートをはき、長靴をはいていた。どちらも右腰に短剣を吊るし、顔の前には青銅の鏡が置かれていた。その周りには男性用の斧、むち、弓矢、女性用のくし、水差し、石皿などが供せられていた。

 壁の上には細い棒が固定されて、そこからカーテンのようにフェルトの壁掛けが垂らされていた。女性の髪飾りや墓室の壁にフェルトの壁掛けを垂らすことは、その後のBC5世紀末~BC4世紀のアルタイのパジリク古墳群でも見られる。アルジャン2号墳をアルジャン1号墳と比較すると、2号墳の墳丘はやや小さいが、周りのストーンサークルの数は1号墳の石堆(石積み)よりも多い。しかし、一番の違いは墓壙を深くし、位置を中央から14メートルほどずらしていることにある。これは盗掘を避けるためと思われる。他にもこのクルガンでは衣服の断片が残る珍しい墓や、ウマの墓などが見つかった。BC4世紀のパジリクも木槨を入れた墓壙は深い。殉死者は女性を含んではいるが、数はほぼ同じである。ウマの数はかなり少ない。

 金製品については1号墳が盗掘に遭っているため比較のしようがないが、2号墳の金製品の豪華さには目を見張るものがある。二人の遺骨とともに出土した5700個の20キロに及ぶ金製品、その一部である数百個の金のイノシシ像は矢筒の飾りに使われていた。スキタイの人びとは、装身具に描いたシカや魚、神話上の動物グリフィンを崇拝していたらしい。ウクライナのスキタイの墓でも大量の金製品が出土したが、それらは後世にギリシャ人あるいは彼らの影響を受けた人びとによって作られたものだった。この墓から出土した金製品は、これまでのものより古く、スキタイ独特の様式である。したがって、スキタイ人はギリシャ人と出会う前から熟練した金細工技術を持っていたことになる。出土した金製品には、二つの首飾り、矢筒の締め金、かぶとの飾り、馬具を飾るための金箔の魚などがある。さらに大量のビーズが出土している。はるかバルト海沿岸地方で産出された琥珀こはくのビーズは431個、トルコ石のビーズ1657個である。その他、青銅・骨・鉄製のやじり、弓、石皿なども出土している。

 また、クルガンの石積みの範囲から3点、北西部に並ぶ環状列石から1点の「鹿石」が見つかっている。鹿石とは、全体としては人間の姿を表わすとされる立石で、鉢巻き状の装飾、耳飾り、ベルト、ベルトから吊り下げられるように表わされた短剣、刀子などの図像が刻まれており、特徴的なシカの文様が見られることからこの名がある。シカ文様がなく、他の動物や、ベルトなどの人間を示す文様だけが刻まれているものもあり、それらも鹿石と呼ばれる。アルジャン2号墳から発見された鹿石は、シカ文様のない鹿石である。


 ***


 スキタイが黒海北岸に進出したのはBC7世紀~BC6世紀ごろからである。カザフスタン西部や北カフカス(コーカサス)、黒海北岸にもかなり大きな初期スキタイ時代の古墳がある。それらも墓室は木槨で、地表面上かあるいは浅く掘り窪めた穴の中に設けられている。このように初期スキタイ時代には草原地帯の東から西まで、木槨墓室を地上か浅い穴の中に設ける王墓が流行していた。


 ヘロドトスはスキタイの人びとを「殺した敵の頭蓋骨を杯にする冷酷な戦士たち」と描写した。一般にスキタイの言語はイラン諸語に属すると考えられている。スキタイ人が書き残した記録はないが、古代の文献に残るスキタイの部族名をみるとイラン語のようだ。それぞれの部族は別々の集団だったが、生活様式や埋葬習慣は同じだった。つまり、スキタイ人は統一された民族ではなく、同じ文化を共有する多数の部族の集まりである。

 スキタイ文化を象徴する「動物文様」には古い起源がありそうだ。モンゴル高原で500以上出土している「鹿石」のシカの文様はアルジャン1号墳のシカ文様に似ている。それは1~4メートルの石柱に、後ろに長く伸びた枝角と、背中に突起のあるシカの文様が描かれている。高濱秀(金沢大学教授)は、「鹿石」に武器が刻まれているが、それは中国の殷代後期から周のもの。つまり「鹿石」はアルジャン古墳より古いBC13世紀~BC8世紀に作られたという。スキタイはBC6世紀末~BC5世紀初頭に、この地にやってきたテュルク系遊牧民族に取って代わられた。彼らは既存のクルガンを浅く掘り返して埋葬した墓を同じ場所に造ったが、そこには豪華な副葬品はない。


 スキタイの支配層がインド・ヨーロッパ語族、イラン語派であったということは、BC5世紀にギリシャのヘロドトスが「歴史」で記したスキタイ起源神話に登場する兄弟の名称や、歴代の王名、黒海北岸に建設されたギリシャ植民地で制作された多くのギリシャ碑文に見られる名前から推定される。また、墓から発掘された遺骨の形質人類学研究では、長頭で、顔面幅は狭く、眼窩は高くなく、鼻は幅広く突出しており、明らかにインド・ヨーロッパ系である。これらのことから、彼らは東イラン語を母語としたインド・ヨーロッパ語族の集団であったと考えられている。おそらく、彼らはBC9世紀ごろ中央ユーラシア東部で勢力を拡大し、近隣諸部族との勢力争いの末に西部へ進出して黒海北岸に達した遊牧的牧畜を生業とする集団であったと考えられる。

 スキタイは先住のキンメリオイと同様に、製鉄の技術をヒッタイトの滅亡後にカフカス(コーカサス)経由で入手し、鉄の武器を持つ騎馬軍団を作り上げた。その文化の特徴は鉄の工具で作成された金製品である。スキタイは黒海北岸からアルタイ地域まで広がっていた遊牧民族の中では西方に位置し、ギリシャやペルシャにも打ち勝ったことがあるが、BC3世紀初頭に突然滅びた。文字を持たなかったので、その歴史は未だ良くわかっていない。


[スキタイ語]

 スキタイ語はBC8世紀より現在のウクライナ・南ロシアで活躍した史上最初期の遊牧騎馬民族で、インド・ヨーロッパ語族、イラン語派に所属するとされるスキタイ人の言語である。この言語で記されたものは、アッシリア語の楔形文字粘土板碑文、アケメネス朝ペルシャ(BC539年~BC330年)の古代ペルシャ語の楔形文字記録、ヘロドトスの「歴史」に出てくる固有名詞(人名・神名・地名)、スキタイ特有の物産名のみである。スキタイ語は複合語でその並びから推定すると、語順もOV型(目的語・動詞)であり、インド・ヨーロッパ祖語(Pre-Indo-European)の語順を引き継いでいると考えられる。このOV型語順はアルタイ語族(満州・ツングース語群、モンゴル語群、テュルク語群)、シュメール語なども含め、ユーラシア大陸に広く分布している型であり、インド・ヨーロッパ祖語(PIE)もその一つであった。そして、ヘロドトスの「歴史」に出てくる固有名詞より推定すると、インド・ヨーロッパ語族、インド・イラン語派、イラン語派、東イラン語支、東南イラン語群という詳細レベルまでその所属が推定できる。

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