第98話 ユーラシア草原とスキタイの登場

<年表>

カラスク文化(BC13世紀~BC10世紀)

 BC14世紀ごろまで草原地帯のさまざまな文化要素は西から東へと伝わっていたが、BC13世紀ごろから風向きが変わってくる。ユーラシア草原地帯の西部や中部では相変わらずスルブナヤ(木槨墓)文化とアンドロノヴォ文化が続いていたが、東部の南シベリアやモンゴル高原ではヤギやシカ、ウマなどをモチーフにした青銅器の文化が現れる。これはカラスク文化と呼ばれ、中国の殷後期(BC1320年~BC1023年)、周時代(BC1023年~BC770年)との関係が深くなる。曲がった柄の先端に動物の頭が表現され、小さいつばが両側に突き出たタイプの短剣がどちらの地域にも現れる。また用途不明のπ字形の青銅製品も両地域に共通する。カラスク文化期のユニークな遺物に、シカの図像を浅く彫り込んだ細長い石柱「鹿石」がある。鹿石にはシカのほかにカラスク型の短剣やπ字形製品が彫り込まれていることから、カラスク文化の時代と見なすことができる。また鹿石は円形あるいは方形の石囲いを伴う積石塚の近くに複数で立っていることが多いが、この積石塚が埋葬遺跡なのか祭祀遺跡なのかも分かっていない。いずれにしても積石塚は高さが最大で5メートルを超え、石囲いの外側の付属施設も含めると直径あるいは一辺が200メートルを超えるような大規模なものもあり、このころからある程度大きな権力を持つ有力者が現れていたと推測される。


先スキタイ文化時代(BC9世紀~BC8世紀)

 BC10世紀~BC9世紀ごろになるとユーラシア草原の乾燥化はさらに進み、草原地帯の農牧民は二極分化していったようだ。すなわち南方では水の確保できるオアシスなどで定住農耕民となり、北方では移動しながら牧畜を営む遊牧民が登場した。遊牧民が生まれた背景には二つの条件が考えられる。一つは、3つの孔が空いた棒状のはみ留め具が普及し、騎乗が一般的になったことである。二つ目は、後のテントの原型になった木の骨組みを持つ簡単な構造の家が出現したことである。ユーラシア草原地帯では、BC9世紀に先スキタイ系文化が始まっている。この時代には黒海北岸を中心とするチェルノゴロフカ型文化と北カフカス(コーカサス)を中心とするノヴォチェルカッスク型文化の二つが区別されている。両文化に大きな差はないが、やじりくつわには違いが認められている程度である。アルタイ山脈北西部、ロシアのトゥバ共和国のアルジャン1号墳(炭素14年代測定法ではBC822年~BC791年)出土の馬具や鏃とチェルノゴロフカ型文化とは類似している。先スキタイ時代に草原地帯の東部と西部の結びつきを示すその他の例としては、鹿石とふくと呼ばれるや煮炊きや儀式などに使われる青銅製鋳造の釜がある。石柱に独特のシカ文様などが彫られた鹿石は、東はモンゴルからアルタイ、西は天山北方からウラル、そして黒海北岸まで、極めて草原地帯の広範囲に分布する。東部のカラスク型の短剣は西部の黒海沿岸の鹿石にも彫り込まれている。ふくはスキタイ時代以降、草原地帯の各地で見られるようになるが、それは中国北方の周時代後期(BC9世紀~BC8世紀)が源と思われる。類似のふくが北コーカサスの遺跡から出土している。このように先スキタイ時代には草原地帯の東西間の交流がより盛んとなり、類似の馬具や武器といった実用品が全域に普及し、鹿石を建てたり、ふくを使用した儀礼も広く受け入れられていった。それは物質文化だけでなく精神文化の面でもユーラシア草原地帯が一つにまとまりを持ち始めたといえる。この一体性は次のスキタイ時代になるとさらに顕著となる。


スキタイ文化前期(BC7世紀~BC6世紀)

 BC7世紀初頭、北コーカサスから黒海北岸地方にかけての草原に、東方の中央アジアからスキタイという騎馬遊牧民集団が登場し、先住のキンメリオイを駆逐して勢力を拡大していった。このようにして、スキタイ人はBC7世紀ごろから黒海沿岸に居住するようになった。スキタイ時代には大型の円墳、クルガンが作られた。前期には地上からごく浅い墓壙ぼこうの中に木造の小屋のようなものを作り、それを石で覆うか、あるいはさらにその上を土と石で覆って高くしたものが多い。ちゅうと呼ばれるつまみの付いた鏡は、先スキタイ時代に出現していた可能性はあるが、普及したのは前期スキタイ時代である。


 ***


 ユーラシアの草原地帯は、東は満州東部の大興安嶺から西はハンガリー平原に至るまで約8000キロにも及ぶ広大な空間を占めている。この空間は、西部のハンガリー平原とカルパチア山脈からウラル山脈までのポントス・カスピ海ステップ(カスピ海と黒海の北岸)、中央部のウラル山脈からアルタイ山脈までのカザフ・ステップ、東部のアルタイ山脈からモンゴル高原を経て中国東北部の大興安嶺までに分けることができる。また、その流域に豊かな森林と沃野をつくってカスピ海に注ぐヴォルガ川の東西には、南ロシアとカザフスタンの広大な草原が広がり、ここからジュンガル盆地を経てモンゴル高原にかけては、遊牧に適した草原が連なっている。歴史を通してスキタイや匈奴きょうど、テュルク(突厥とっけつ)、ウイグルなど数多くの遊牧国家が興亡を繰り返したのはこの草原地帯であった。これらの遊牧国家は、その卓越した軍事力によって東アジアや西アジア、スラヴ世界に勢力を拡大し、これらの世界の歴史において度々決定的な役割を演じた。


 新石器時代のステップに出現した騎馬遊牧文化は、インド・ヨーロッパ語族の話者と手を携えながら遠くまで拡がった。古代のイラン人もインド人も自分たちのことをアーリア人と呼んでいる事実は、南方に移動してくる以前に、両者が南ロシアやシベリアのステップで共に暮らしていた一つの集団であったことを示唆している。ウラル山脈東部から中央アジアにかけてのステップ地帯全域に広がった先史時代最初の文化はインド・ヨーロッパ語族のシンタシュタやペトロフカの文化(BC2100年~BC1800年)に後続するアンドロノヴォ文化(BC1800年~BC1200年)であった。現在の中国新疆しんきょうのタリム盆地で見つかった墓地はBC2000年~BC400年のものと推定されており、そこには明らかにコーカソイドの特徴を備えたよく乾燥して保存状態の良い遺体が埋葬されていた。さらに墓からは、北ヨーロッパに特徴的な格子柄の織物や、古代イラン人が身に着けていた長くて黒いつばの付いた帽子が見つかった。これらの人びとはトカラ人の祖先であると考えられている。後にこの地に住みついたトカラ人はインド・ヨーロッパ諸語の一つで文書を残した。インド・ヨーロッパ語族の人びとが先史時代に拡大したことは、後のテュルク系諸民族の拡大にも比すべきものであった。但し、大きな違いはテュルクの拡大の方は歴史の明かりの下でつぶさに観察できるところにある。



(先スキタイ時代)BC9世紀~BC8世紀


 馬車が先か、騎馬が先か? 馬車よりも騎馬の方が早かったようだ。BC2000年前後にメソポタミアを中心とした地域で、ウマに乗った人物を表現した押型と粘土板がいくつか発見されている。この粘土板では手綱の先はウマの鼻輪につながっている。したがって、この段階では口にくわえさせるはみはまだ出現しておらず、ウシと同じように鼻輪で制御したと推定される。騎乗をマスターすることは難しく、また乗り心地も快適とはいえなかったためか、BC21世紀初めにスポーク付き車輪の二輪車が登場する。BC2100年ごろに初めて出現した二輪戦車(チャリオット)は高速で走ることだけを目的に設計された最初の車輪付き乗り物である。それはウラル山脈南麓のシンタシュタ文化(BC2100年~BC1800年)の墓から発見された。ウラルからカザフスタンにかけての草原で、二輪戦車に乗ったインド・ヨーロッパ語族の集団が南方を脅かしたと考えられている。二輪戦車は急速に広まり、150年くらいの中に多くの言語集団で数千キロ離れた所でも使われるようになった。ウマを制御する上で重要なはみと銜留め具は南ロシアや中央アジアの草原地帯で発明された可能性は高い。そこから東ヨーロッパ、さらにミュケナイ文明のギリシャに伝わったようだ。銜は発明されたがその後すぐに草原で騎乗が広まったわけではない。

 しかし、BC10世紀に入ると、状況は一変する。西アジアや東地中海世界では、騎馬を表現した土偶・レリーフ(浮彫り)・絵画などの資料が急増する。ユーラシア草原地帯では、BC9世紀にスキタイ系文化が始まった。その中でも特に早いのはモンゴルの北西に位置するアルジャン古墳群で有名なトゥバの地域である。草原地帯西部の現在のウクライナでスキタイ文化が始まるのはその後のBC7世紀からとなる。BC9世紀中ごろは世界的な気候変動の時期にあたる。乾燥期から湿潤期への移行期に相当し、半砂漠だったところが草原に変わりはじめる。草原の牧畜民は西アジアから青銅器、さらには鉄器の生産技術を学び、優れた武器や馬具の生産が可能となった。このような条件が重なり、有力な騎馬遊牧民が登場したと思われる。そして、彼らは中国の周との交流も行っていたと推定される。 


 BC12世紀~BC9世紀に中央ユーラシア草原地帯では気温が低下して、旧来の生業である農耕・牧畜の複合経済は疲弊し、草原地帯の北寄りの人びとは季節により家畜を移動させる遊牧を選び、南寄りの人びとは定住農耕に活路を見い出した。遊牧を選択した人びとは騎乗も習得し、ここに騎馬遊牧民が誕生した。定住地帯に脅威をもたらすような騎馬軍団が登場するのはBC10世紀~BC9世紀という考え方が一般的である。BC13世紀~BC9世紀にはモンゴル高原にも大きな変化が見られる。積石塚の墳墓からは鼻面を東に向けたウマの頭骨が多数出土している。BC11世紀~BC9世紀の大型の墳墓には1700頭ものウマが犠牲に奉げられていた。これほど大量にウマを葬り、大型の積石塚を築くためには、大勢の人びとを動員できる組織が必要である。そのリーダーは王と呼べるかどうかわからないが、大きな権力を持っていたはずである。しかし、ウマにはまだ金属製の馬具は着けられていない。馬具が装着されたウマが大量に犠牲に奉げられるのもう少し後になる。BC10世紀~BC9世紀でもう一つ注目すべき文化は、内モンゴル東部と中国遼寧省に分布する夏家店上層文化(BC11世紀~BC6世紀)である。この文化には、先スキタイ(BC9世紀~BC8世紀)文化と共通する要素が多く見られ、この文化がアルタイ北部地域からモンゴル高原にまで広まったことがよく分かる。

 初期鉄器時代の中央ユーラシア草原で最も注目を集める遺跡は1971年に発掘されたアルタイ北部地域のトゥバのアルジャン1号墳(炭素14年代測定法ではBC822年~BC791年)である。この年代は先スキタイ時代(BC9世紀~BC8世紀)の古墳の中で最も古い。この古墳は早くに盗掘を受けていたため金銀製品は出土しなかったが、規模の大きさと殉死者15人、馬具を着けた殉葬馬160頭という多さから王墓と位置付けられる。エニセイ川に沿ってトゥバよりも下流のミヌシンスク盆地では青銅器時代にさまざまな文化が栄えたのに対し、トゥバには青銅器時代の遺跡が全くない。つまり青銅器時代には人が住んでいなかった。ところが、BC9世紀から気候が湿潤化し、草原が出現したため人びとを惹きつけるようになった。トゥバに文化的発展と人口増大をもたらした要素の一つにはモンゴル高原と中国北部(内モンゴル地域)からの影響が考えられる。青銅器時代にはまだ純粋な遊牧民は存在せず、鉄器時代になってから純粋な遊牧が成立するが、その重要な要素となったのは金属技術の発展とともに環境の変化であった。また、純粋な遊牧に移行したのは、中央ユーラシア草原の西部よりも東部のモンゴル高原や中国北部(内モンゴル地域)のほうが早かった。環境の変化とは、モンゴル高原でBC1100年~BC1000年ごろから乾燥化が始まり、冬でも雪が少なくなったことであり、そのおかげで一年を通して家畜を飼うことが可能となった。その後、純粋な遊牧は西方のカザフスタンや南ウラル地域に拡大していった。



(スキタイ前期)BC7世紀~BC6世紀


 BC8世紀~BC7世紀に中央ユーラシア草原の西部から東部にかけて、一挙に新たな遊牧文化、すなわちスキタイ文化が広まったことは、ふく・鹿石・古墳の形態などの考古学資料から推測することができる。これらのことから、現在ではスキタイ文化の東方起源説が定説となっている。しかも、その支配者はインド・ヨーロッパ語族である。鉄は西アジアからカフカス(コーカサス)、あるいは中央アジア経由で東方の南シベリア、モンゴル高原へ伝播しているが、その伝播した年代はまだ明確にはなっていない。鉄製品はユーラシア草原地帯の西部ではBC7世紀後半から知られているが、東部ではBC5世紀にならないと現れないとされていた。しかし、同じトゥバのアルジャン2号墳(BC619年~BC608年)から鉄製の短剣、刀子(ナイフ)、戦闘用斧、鏃が多数出土している。しかもそれらの多くは金製品と同じスキタイ独自の文様で金象嵌されており、これらの鉄製品は現地産とみなされる。したがって、鉄製品はBC7世紀にはアルタイ地域に伝播していたことになる。ひょっとすると、BC9世紀にまで遡れるかもしれないが、それはまだ証明されていない。

 現在のウクライナから北コーカサスの地域にあたる西部のスキタイは王族スキタイと呼ばれる戦士たちが治めていた。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによると、彼らは最も数が多く、最も勇敢なスキタイの部族で、農耕スキタイや農民スキタイ、遊牧スキタイなど他の部族をことごとく隷属民と見なしていたという。黒海沿岸の植民都市に住んでいたギリシャ人が穀物を金で買うことを知って、スキタイ人は農耕スキタイの穀物を売って金を手に入れた。スキタイの王墓はスキタイ様式の動物に美しく加工された金の財宝で埋め尽くされている。出土した金の中には遠く東のアルタイ山脈産のものもあった。ペルシャ人とギリシャ人がスキタイ人に関心を持ったのは、彼らが繁栄していたからである。彼らの戦士としての勇ましさは関心を引く要因ではなかった。ペルシャのダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)が征服を考えるようになったのは、スキタイは征服する価値があると考えたからである。


ふく

 ふくと呼ばれる青銅製あるいは鉄製容器、つまり釜であるが、日本や中国ではふくと呼んでいる。それは初期遊牧民文化の広まったほとんどの地域で発見されている。ある程度共通した器形を持つが、地域・時代によりさまざまな変化がある。武器、馬具、動物文様と並んで、初期遊牧民文化を象徴するような器物といえるが、なかには祭器であったと考えられる例もある。器体は深鉢型あるいは球形で、底に円錐形の台が付くものが多いが、稀に三脚が付いたり、無いものもある。取っ手が口縁上に付くことが多く、その他に胴部に付けられるものもある。また注ぎ口の備わったものもある。形としては、煮炊きのためといえるだろう。東ヨーロッパのハンガリー辺りから、黒海沿岸のスキタイ文化、ヴォルガ・ドン川流域のサウロマタイ・サルマタイ文化、中央アジアのアラル海周辺のサカ文化、南シベリア、そして中国の北方に到るまで、初期遊牧民文化の広まった地域ではどこでも見られる。近隣の定住民にも使用され、中国北部では南北朝時代(紀元後439年~589年)に到るまで用いられた。東ヨーロッパでは民族大移動期(紀元後4世紀後半~6世紀ごろ)のフン族の地域に独特なものが存在する。

 大きさもいろいろあり、大きなものとしては、中国甘粛省で高さが1.2メートルのものが発見されているし、初期サルマタイでは直径も高さも1メートルのものが出土した。スキタイでは高さ1メートル、直径68センチに達するものもある。草原地帯で最初に出現したと思われるふくは、口縁に環が接合されたような形で付けられた2つの取っ手を持ち、その上には1つの突起があるものである。底には円錐形の台が付いている。そして縦方向の鋳型の合わせ目の線が見られない。これはユーラシア草原地帯のふくに共通する特徴である。ふくが何に使用されたのか? 最初に現れた型式のふくは、どこの地域でも墓から出土するのではなく、埋納品のような形で発見されている。それらは装飾的要素が多いわけではない。実用品と儀礼のための品というのは、互いに排除し合うものでもない。例えば、儀礼の場としての宴会に使用したとも考えられる。大きさばかりでなく、出土状況も地域によって大きな差異があるので、使い方はそれぞれ異なっていたと思われる。いずれにせよ、ふくは初期遊牧民の生活に強く結びついたものであった。


[鹿石と石人]

 高さ1~4メートルほどの細長い石柱である鹿石に浅く彫り込まれた爪先立ったシカの表現は、BC8世紀~BC6世紀の初期スキタイ美術の特徴を示す。鹿石はしばしば積石塚を伴う。鹿石の年代はBC9世紀~BC5世紀ごろと考えられている。鹿石は3つのタイプに分類されているが、動物表現が全くないタイプは、東はモンゴルからアルタイ、天山北方からウラル、西は黒海北岸まで、極めて広範囲に分布する。しかし、5世紀のスキタイ中期になると、鹿石の姿は突然消える。それに代わって人間の顔がはっきりと表現された石人が登場する。石人はスキタイの古墳の墳丘の中や墳丘の周囲で発見されることが多い。現在までに180点ほどが確認されている。前期の石人は北カフカス(コーカサス)に多く、後期の石人は黒海北岸、特にクリミア半島に多い。前期には角柱・円柱状のものが多く、形状そのものが男根を模している。頭部に目・耳・鼻・髭が表現されているが、模様や飾りの無いものもある。必ず太い首輪をはめている。両手を腹の前で合わせ、ベルト(帯)には剣、ゴリュトス、斧、むちを吊るしている。後期になると、右手に角杯を持ち、武器や衣服の細部の表現がやや写実的になる。このような変化はギリシャ彫刻からの影響と思われる。石人は特定の族長や王を表わしていると推定される。スキタイの石人の起源について現在有力なのは、西方の鹿石を起源とする説である。


[ゴリュトス]

 ゴリュトスとは、弓と矢を一緒に入れる入れ物に対するギリシャ語の名称。スキタイは騎馬に便利な服装をしていた。筒袖で短めの上着を着てベルトを締め、ズボンと長靴をはいていた。ベルトはまたさまざまな携帯品を吊るすのに役立った。ゴリュトスもベルトから吊るされた物の一つである。弓はかなり短い弓形に湾曲したもので、矢はやじりを上にして外側に入れた。



(スキタイ人)


 BC10世紀ごろに騎馬術が完成して騎馬遊牧の技術と生活様式が発達したことによって中央ユーラシアの中核の草原地帯はインド・ヨーロッパ語族のものとなった。BC7世紀~BC5世紀には、歴史上最も早い例としてよく知られた牧畜遊牧民族であるスキタイ人が西部草原に移住し、そこで強い勢力となった。また、草原地帯の他のインド・ヨーロッパ語族は東に移動し、中国まで達した。

 スキタイ人がよく知られているのは恐ろしい戦士としてであるが、彼らの成し遂げた最も偉大なことは、交易システムを発達させたことである。それについてはヘロドトスや他の古代ギリシャの著述家が記述している。そのシステムは、ギリシャ、ペルシャ、そしてさらに東の地域をつなぎ、それによってスキタイ人は非常に裕福になった。彼らを交易に駆り立てた原動力は社会・政治的な基盤を支えるためであった。その基盤とは支配者とその何千人という宣誓護衛団を中心に構築されたものである。中央ユーラシアの活気あふれる国際的な交易は、スキタイ人、ソグド人、匈奴、その他の人びとが交易に関心を示したことにある。過去に何千年も続いていた遠隔地交易もあったが、スキタイ人ら草原のインド・ヨーロッパ語族の下で初めて交易が重要な経済活動となった。中央ユーラシア人は境を接する人びとの誰とでも交易を行ったので、ヨーロッパ、西アジア、南アジア、東アジアの文明圏と交易し、それらの周辺諸文化を、中央ユーラシアを介して間接的に互いに結びつけた。スキタイの全盛期には周辺の古代都市国家の文化も絶頂期だった。古代のギリシャ、ペルシャ、インド、中国の言語で書かれた古典哲学がほぼ同時に現れたということは、その時代にすでにこれら文化圏の間で、思想面で何らかの交流があったことを示唆している。しかし、中央ユーラシアの思想家については見過ごされてきた。西部草原におけるスキタイ人の王国と交易ネットワークは、その後に続くさらに強力な中央ユーラシアの国々の枠組みとなった。中央ユーラシア人が富と力を増大させ、周辺の諸文化との接触が大きくなっていったことは、周辺諸国による侵略につながった。知られている最古の侵略は、中国の周王朝によるもので、BC979年の2回の戦いで北方の遊牧民族を破り、4人の武将を含む多くの捕虜と戦利品を獲得した。中国はその時から近代に到るまで、機会あるごとに東部草原を繰り返し侵略した。アケメネス朝ペルシャはダレイオス1世の下でバクトリアとソグディアナを征服し、その後、BC514年~BC512年ごろにスキタイに攻め入った。マケドニア人とギリシャ人はアレクサンドロス大王の指揮下でBC4世紀末に中央アジアに侵攻した。このダレイオスとアレクサンドロスの遠征は中央アジアの文化に対して非常に大きな影響を与えた。ペルシャ人はBC9世紀の新アッシリア時代(BC911年~BC612年)の資料に登場するが、インド・ヨーロッパ語を話す人びとについて最初の確実な歴史的記述はその1世紀後のメディア人とスキタイ人に関連したものである。BC 8世紀末にインド・ヨーロッパ語族系のメディア人がイラン北西のエルブルズ山脈とその東に王国を建てた。彼らはBC7世紀初めにアッシリア人と敵対したが、そのときキンメリア人(キンメリオイ)とスキタイ人がメディア王国に侵攻し、支配権を掌握した。


<キンメリオイとスキタイの西アジア侵入>

 キンメリオイはBC9世紀ごろから黒海沿岸の草原地帯に住み着き、アッシリアやウラルトゥのような西アジアの強国に脅威を与えた。キンメリオイの経済の基盤を成していたのは、主としてウマを飼う遊牧であり、軍事遠征が大きな役割を果たしていた。彼らの美術的特徴は、短剣の柄や馬具に装飾された螺旋らせんや菱形、矩形くけい(四辺形)などのさまざまな幾何学文様で、それらを組み合わせて多様なヴァリエーションが生まれた。BC8世紀の金製の留めピンと首飾りはウクライナで出土している。ヘロドトスによれば、BC7世紀初頭、東方の中央アジアから移動してきたスキタイが先住のキンメリオイを駆逐して北コーカサスから黒海北岸地方にかけての草原に進出したとき、キンメリオイは西アジアに逃れたため、スキタイは彼らを追ってイラン高原のメディアの地に侵入したという。しかし、アッシリアの史料ではキンメリオイとみられるギミッラーヤが最初に言及されたのはBC714年ごろのことで、彼らがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされたのである。これはウラルトゥ遠征を行っていたアッシリアのサルゴン2世にとって歓迎すべき出来事だったが、BC705年にはサルゴン2世自身が彼らとの戦闘の中で戦死してしまう。その仇を討とうとしたのか、孫のエサルハドン(在位:BC681年~BC669年)はBC679年からBC676年にかけてアナトリア東南部のキリキア地方でギミッラーヤの首長テウシュパとその軍勢を打ち破った。その後、ギミッラーヤの名はアナトリア西部のリュディアの敵としてしばしば登場するが、BC640年ごろにギミッラーヤは再度アッシリアに敗れている。最後は、BC7世紀末ごろにリュディアにも敗れ、その姿をほぼ消すことになった。

 スキタイとみられるイシュクザイが言及されたのがBC677年あるはBC676年であるため、彼らは別々に西アジアに侵攻したと考えられる。スキタイ王バルタトゥア(ギリシャ史料ではプロトテュエス)はBC672年にアッシリアの王エサルハドンの娘を娶り、アッシリアと軍事同盟を締結して西アジアにおける地位を固めた。そして、バルタトゥアの息子マデュエスが王となり、BC625年まで28年間西アジアの北部を支配したが、最後はメディア王キャクサレス(在位:625年~BC585年)に敗れ、故国に戻ったという。さらにヘロドトスは、スキタイはパレスティナのアシュケロンを攻略したことを伝え、旧約聖書のエレミヤ書にはスキタイとみられる北の蛮族の恐怖が記された。その間にスキタイは各地で強引な徴税と略奪を繰り返したため、西アジアの侵略された諸国は疲弊してしまったと伝えられる。

 西アジア進出時代のスキタイの中心については、これまでコーカサス南部のクラ川流域の平原にあったとする説が有力であったが、近年の遺跡発掘の進展により、同時代のスキタイの遺跡が北コーカサスの草原に多数分布し、王国の中心地に相応ふさわしい古墳群が明らかになっていることから、スキタイは北コーカサスの草原地帯を根拠地にして西アジアに侵攻していたと思われる。スキタイの西アジア侵攻の考古学的証拠としては、コーカサス南部全域、北西イラン、アナトリア、メソポタミア北部、シリア、パレスティナにかけての遺跡から発見された両翼あるいは三翼の青銅製やじりがよく知られている。さらにスキタイの墓自体も発見されている。アナトリア東部の墳墓の陪葬墓ではスキタイの青銅製はみ留め具とグリフィン頭部をかたどった青銅製辻金具などが出土した。アナトリア北部の墓からはツルハシ型斧、鉄製アキナケス型長剣、青銅製両翼鏃、青銅製留め金具が出土した。アキナケス剣とは、つばの部分がV字やハート形、あるいは蝶形をしたスキタイ特有の剣に対するギリシャ語の名称である。

 また、スキタイの王墓と関係づけられているのが「ジヴィエ遺宝」で、1947年にイラン西部のクルディスタン地方で発見されている。そこからは青銅製の大きな箱が出土し、中からアッシリアやウラルトゥ美術に特徴的な多数の金銀青銅製品や象牙製品などとともにスキタイ動物文様が施された遺物が発見されたが、残念ながらこれらは盗掘によってもたらされた資料であるため、出土状況や遺物の全貌は不明である。


<サカ>

 ヘロドトスは実際にスキタイの地を訪れたことがある。ヘロドトスによると、スキタイ人はスコロトイと自称していたという。彼らをアケメネス朝ペルシャ(BC539年~BC330年)は「サカ」と呼び、ダレイオス1世が刻ませたベヒストゥーンの岩壁碑文には、とんがり帽子のサカ、ハマオを飲むサカ、海の彼方のサカ、と記録されている。また、アッシリアではイシュクザイ、あるいはアシュクザイと呼んでいた。これらの名称はすべて北イラン語の「射手」のギリシャ語「スキタ」が基になっている。これは西のギリシャ人と東の中国人の間に住んでいた北イラン系の人びとすべてを指す名称である。

 とんがり帽子の特徴を持つサカは、考古学的にはアルタイ北部地域のサヤン・アルタイ地域から中国の新疆しんきょうにかけて確認されている。ハマオは薬草のソーマという一種の幻覚剤で、中央アジアのアーリア人が祭祀で用いていた。中央アジアのアラル海周辺地域に居住していたサカはスキタイと親縁関係にあった民族である。中央アジアのサカの古墳で有名なのが、チリクタ古墳群で、現在のカザフスタン共和国と中国との国境地帯、バルハシ湖の100キロほど南にある。51基の古墳から成り、そのうち13基は直径が100メートルもあり、ユーラシアの巨大古墳の中でも最大級である。このうち特に注目されるのが、直径66メートルの5号墳で、この古墳群では特に大きなものではないが、極めて重要な金製品が発見された。14点のシカ形飾り板、9点の猛禽形装飾、29点のヒョウ形装飾、5点のイノシシ形装飾と破片7点、1点の魚形装飾など全部で524点になる。シカ形飾り板は矢筒の装飾であったと考えられている。シカ、猛禽、ヒョウ、魚には、目などに石が象嵌されている。これらは埋葬用に作られたものである。これらの表現は黒海沿岸の初期スキタイの古墳からの出土品とよく似ており、しかもさらに写実的である。チリクタ5号墓から出土した遺物は初期遊牧民文化の極めて早い時期のもので、アルタイ北部地域のトゥバにあるアルジャン古墳に次ぐものと考えられる。アルジャン1号古墳はBC9世紀後葉~BC8世紀初頭、アルジャン2号墳はBC7世紀末である。

 サカと呼ばれた民族が中央アジアのどの地域までを占めていたのかは未だ明らかになっていないが、現在の中国新疆ウイグル自治区のイリ地方からはサカのものと考えられる青銅器がしばしば出土している。

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