第96話 インド(アーリア人によるガンジス川流域への進出)

<年表>

前期ヴェーダ時代(BC1500年~BC1000年ごろ):アーリア人のパンジャブ地方への侵入

 BC1500年ごろに「アーリア(高貴な者)」を自称する民族が幾波にも渡って中央アジア方面から南下し、インダス川上流域のパンジャブ地方に侵入してきた。彼らはこの地で先住民と接触し、対立や交流を繰り返しつつ、牧畜を主とする生活を始めた。当時のアーリア人は部族を単位として活動しており、王権形成の前段階にあった。インド最古の文献で、祭儀で唱えられる神々への賛歌集である「リグ・ヴェーダ」はBC1200年ごろに成立している。首長(ラージャン)を取り巻く有力な部族民(ラージャニヤ)、宗教行事を執り行う司祭者の存在も知られている。これが後世のヴァルナ(四つの階級)制度における、バラモン(神官・司祭階級)、クシャトリア(王侯・貴族や戦士階級)の淵源だが、この段階では未だカースト的集団とはなっていない。


後期ヴェーダ時代(BC1000年~BC650年ごろ):アーリア人のガンジス川流域への拡大

 中央ユーラシアからアーリア人が第二派としてイランに侵入したのはBC1000年ごろのことだったが、引き続きパンジャブ地方はインドを目指す諸民族の十字路であり続けた。この時代にアーリア人の一部はガンジス川流域にも拡がっていった。BC9世紀~BC8世紀、ガンジス川上流域に部族国家が形成され、その争いの歴史は、後に「マハーバーラタ」に謳われることになる。BC800年ごろ、インドにも鉄器が普及し始め、それに伴いガンジス川流域の開拓も進展していった。「リグ・ヴェーダ」の部族社会から「リグ・ヴェーダ」時代末期における部族社会統合の動きとバーラタ族による覇権の獲得、次の後期ヴェーダ時代初めのクル王国の成立とその後の拡大、それに続く後期ヴェーダ時代後半のガンジス川中流域以東の新興勢力の勃興へと進展した。インドにおける「リグ・ヴェーダ」の部族社会はBC1200年ごろからBC650年ごろまで続いた。この長いヴェーダ時代の後、インドは国家形成の最後の段階である統一国家に向かって次の時代へ移行する。


16大国の時代(BC650年~BC364年ごろ):インド北部

 インドでは、ギリシャに遅れること約100年、BC650年ごろ、ギリシャ人と同じインド・ヨーロッパ語族の遊牧民であるアーリア人が、ガンジス川上流域を皮切りに中・下流域にかけて多くの部族国家を築き始めた。BC900年ごろに始まった鉄器の使用が、BC600年ごろには広く国内に行きわたり、ウシによる耕作と組み合わせて、農業の生産性が急速に高まったことがその背景にある。これらの部族国家はやがてクル、パンチャーラ、コーサラ、マガダ、マッラ、ヴリジなどの16の大国に収れんしていった。そしてガンジス川中流域を中心とする各地で都市の興起が見られた。BC1800年ごろのインダス文明の滅亡後1000年以上の空白期間を経て、再び都市文明の時代が始まった。インドで最初に貨幣が用いられたのもこの時代である。銀貨は高額貨幣として、銅貨は低額貨幣として発行された。金貨の発行に言及する文献はあるが、出土例はほとんどない。


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 インド亜大陸は中央アジアとは、ヒマラヤ山脈とその西にのびるヒンドゥークシュ山脈によって隔てられている。少なくとも初期の農業に関する限り、南アジアの環境を雨季と農業の開拓史によって5つのゾーンに分けることができる。


1.インダス川流域とバルチスタン

 バルチスタンはBC7000年紀までに西南アジア型経済がメヘンガルに導入されたことからもわかるように、南アジアで最も早くコムギやオオムギ、レンズマメとエンドウなどの農業を経験した地域である。インダス文明が現れるまでこの経済はバルチスタンにおいて周辺からの大きな影響もなくそのまま続いた。盛期ハラッパー文化(BC2600年~BC1900年)の終わりまでには、数々の新しい重要な食用穀物が現れた。中国南部あるいは東インドからイネが、そして熱帯アフリカから数種(トウジンビエとモロコシなど)の雑穀やマメ類がやって来た。これらの導入によって、おそらくBC2000年までには、夏作物と冬作物の両方を作る体制ができた。インダス水系における増水は春と夏に集中するため、冬の栽培は灌漑に依存するものであった。

2.ガンジス川流域

 インダス川流域よりも湿気が多く、夏のモンスーンで確実に降雨があるこの地域は、BC3000年ごろに西方の先ハラッパー文化から部分的に派生してきたものに、栽培化されたイネが主要となる形で始まった。

3.内陸インド半島部

 インド内陸のデカン高原地域は乾燥したモンスーン気候である。BC3500年ごろ、デカン高原の北部と西部に先ハラッパー文化の農民たちが最初に移住した。彼らは西南アジアの穀物と在来のグラムマメ類と雑穀を基盤とする経済を営んでいた。BC2000年ごろまでには、アフリカのトウジンビエとモロコシがインダス文明期の海上交易によって持ち込まれた。ウシの牧畜も盛んになりながらも、長期間にわたって狩猟採集民たちが農民と交流しながら生き残っていた。

4.多湿の沿岸地域

 スリランカと同様、一般的に未開の地であった。

5.ヒマラヤ地域

 同様に未開の地であり、初期農耕に関する考古データがない。


 古代インド文明は他の古代文明とは違い、今も現実の社会の中に根づいている。そうした保守性はインド社会特有のものだが、もちろんそれだけがインドではない。20世紀の初めのインドには、狩猟採集生活を営む人びとと、汽車に乗って旅行をする近代的なインド人が共存していた。そうした驚くほどの多様性は、おそらくこの国が持つ広い国土と変化に富んだ自然環境によってもたらされたものだろう。歴史が記録されるようになった時期には、すでにインドは人種的にかなり複雑な様相を呈していた。少なくとも6つの主要な部族が確認されている。その後もインド亜大陸とその社会には、さまざまな民族がやって来ては定住していった。こうした民族的多様性のために、インド文明の核心を見極めることは非常に難しくなっている。


 BC1900年~BC1800年ごろのインダス文明の崩壊の背景には、気候変動による干ばつなどの自然環境の変化とそれに伴う社会の変化、つまりモヘンジョ・ダロやハラッパーのような高度に都市化した文化の中心地は放棄され地方分散化へと変貌したこと、さらに世界の文明の中心であるメソポタミアとの交易の衰退などさまざまな要因が想定されるが、インダス文明の衰退が南アジア北部における文化的な断絶を意味するわけではない。インダス文明以前から育まれてきた文化の伝統はインダス文明の衰退後の時代にも継承されており、インダス文明の崩壊とはすなわち都市社会の衰退であると理解する必要がある。都市社会の衰退とは一つに統合された広大な地域社会の解体を意味する。実際、インダス文明崩壊後のBC1800年からBC1500年ごろには、バルチスタン高原からパンジャブ平原東部、ガンジス・ヤムナー両河地域(ガンジス上流域)にさまざまな地域文化が成立することになる。これらの文化は特徴的な土器様式によって設定されたものだが、その内容は、インダス文明期のハラッパー式土器の要素を色濃く継承するもの、インダス文明以前のそれぞれの地域の土器様式の伝統を継承するもの、またハラッパー式土器とインダス文以前の土器様式の融合を示すものなどさまざまである。



(前期ヴェーダ時代)BC1500年~BC1000年ごろ


 こうした多様な地域文化が共存する社会は、BC1500年ごろになると、大きく変化する。考古学的にはパンジャブ地方東部とガンジス川上流部の「彩文灰色土器」と、ガンジス川中流域からヒマラヤ山脈南麓の「黒縁赤色土器」という2種の土器の出現をもってこの変化の画期と捉えることができる。このようにBC1500年ごろからBC650年ごろに始まる16大国の時代にかけての北インドでは、大きく東西に分かれる形で土器、そして土偶にも地域性が現れ、その間の地域間交流のもとで地域性が消失して北インドを統一する物質文化が形成されていく過程を見ることができる。それはBC1500年ごろのアーリア人のインドへの侵入、BC1200年ごろの「リグ・ヴェーダ」の成立、BC10世紀~BC8世紀ごろの後期ヴェーダ時代におけるアーリア人の拡大、そしてBC650年ごろの16大国の時代の始まりと続く時代と重なる。

 中央アジア方面から南下し、インドやイランに侵入した民族が、自ら「アーリア」と称していたことは、言語学的・文献学的に確認されている。インド・ヨーロッパ語族のうち、インド語派とイラン語派に分かれる以前の人びとをインド・イラン語派という。アーリアという概念は、この時代の一部の人びとの間で芽生え、インドに定住する過程を通じてより広く自覚され確立していったものであると考えられる。すなわち、アーリアとは主として言語学的・文化史的なカテゴリーに属する概念なのであり、民俗学的な人種の概念とは必ずしも一致するものではない。アーリアは「きよめる」を意味する動詞から派生した言葉で、「自らの種族に生まれた」「高貴な」「聖なる」などの意味があり、具体的にはカースト制度における上位3カースト、神官・司祭階級のバラモン、王侯・貴族や戦士階級のクシャトリア、一般の農民・庶民階級のヴァイシャ、を意味する。

 インドにおけるアーリア社会の成立に伴い、非アーリア諸族は非常に特徴的な方法でインドの階層性の中に組み込まれていくことになった。これが今日にまで及ぶインド社会独特の血族と職業別による世襲的社会階層制度、すなわちカーストである。カーストという言葉は、ラテン語カストゥス(血・純血)に由来するポルトガル語カスタ(家系・血統)を語源としてインドに伝えられたこの言葉が、イギリスのインド進出を通じてアングロ・インディアン語として一般化したものである。インド語では「色」を意味するヴァルナがカーストに相当する言葉である。この「色」とは皮膚の色を指し,征服民であるアーリア人の白い皮膚と被征服民である非アーリア人の黒い皮膚の差に基づく社会差別を示すものであったが、やがてカースト制度の原型である4つの階級を意味する語となった。また、やや後代になって、このヴァルナとは異なった性質を持つ、「ジャーティ」という出生に基づく集団の概念が成立した。ジャーティ集団はヴァルナ集団より小単位で、理論上ヴァルナのいずれかから枠組みされており、インドのカースト制度はヴァルナとジャーティの二重構造を持つ形で発展してきた。カーストは、族内婚をし、伝統的な職業を世襲し、食卓を共にするという3つの特質によって自他を区別する極めて閉鎖的な性格を持っている。カースト制度の成立は社会的・歴史的な事実であるが、アーリア人はこれを神学的に根拠付けようとした。彼らの最古の神々への賛歌であり神話的史書である「リグ・ヴェーダ」の中の「原人の歌」において、巨大なプルシャ(原人)から宇宙が展開した経路の一つとして「四ヴァルナ」発生の由縁が説かれている。

 カーストの起源は定住農耕社会の基本的な身分区別に遡る。神官・司祭階級のバラモン、王侯・貴族や戦士階級のクシャトリア、一般の農民・庶民階級のヴァイシャの3つがごく初期のアーリア人社会の階級だった。といっても初期のそうした階級は、決して絶対的なものではなく、ある階層から別の階層へ移動することも可能だったようだ。しかしそこには一つだけ越えられない壁が存在した。非アーリア人とアーリア人の間の壁だった。アーリア人はインドの先住民を指して「ダーサ」という言葉を使っていたが、これは次第に「奴隷」を意味するようになり、まもなく先の3つの階層に、非アーリア人が属する第4の階層が加えられることになった。この「シュードラ」と呼ばれる階層は、ヴェーダの宗教に参加することは固く禁じられた。その後、社会が複雑化し、最初の3つの階層間で移動が起こるようになると、制度に手が加えられ、さらなる区分や下位区分が現れた。この過程で、地主や商人が実際に畑を耕す人びとと区別されて、ヴァイシャ(平民)と呼ばれるようになり、一般の農民たちはシュードラと呼ばれるようになった。さらに、結婚や食事に関する決まりやタブーも法典に組み込まれていった。やがてカースト制度によって定められた決まりごとがインド社会そのものを規定するようになった。このようにアーリア文化が先住民に浸透していくにつれ、インド・アーリア人はその生活の重心を次第にインダス川上流域のパンジャブ地方からガンジス川流域へと移していった。


 ヒンドゥークシュ山脈を越え、北西方面からインド亜大陸に侵入したアーリア人は、先住文化の保持者であるインダス文明の人びとや、先住民であるドラヴィダ人と覇を競い、BC1200年ごろにはインダス川上流域のパンジャブ地方に定住したと考えられる。インド定住後、アーリア人の宗教的思索は「リグ・ヴェーダ」として結実した。「リグ・ヴェーダ」はインド・アーリア人の手になる最古の文献であるばかりでなく、インド・ヨーロッパ語族の文献としても最も古い文献の一つで、インド文化の根幹をなすものとして今日まで伝えられてきた。ヴェーダとは、動詞ヴィッドから派生した言葉で、知識、特に宗教的知識を意味し、またその知識を集成した文献を総称して「ヴェーダ」という。「リグ・ヴェーダ」はおそらくBC1200年ごろからBC1000年ごろにかけて原型が成立し、BC800年ごろまでに現在のような形になったものと考えられる。但し、これが文字で記されるようになったのはずっと後代の紀元後14世紀になってからといわれる。それ以前は、驚くほど正確な暗誦と口伝によって受け継がれ学習されてきた。

「ヴェーダ」の中心となるのは、祭祀の場において祭官の唱えるマントラ(賛歌や呪文)を集成したサンヒター(本集)と呼ばれる部分である。これが狭義の「ヴェーダ」で「リグ・ヴェーダ」と言えば通常、リグ・ヴェーダ・サンヒターを指す。「ヴェーダ」は4種類に分かれ、それぞれ異なった祭祀上の職能を持つ祭官に帰属する。「リグ・ヴェーダ」は神々に対する賛歌の集成、「サーマ・ヴェーダ」は祭式における歌詠の集成、「ヤジュル・ヴェーダ」は祭詞の集成、「アタルヴァ・ヴェーダ」は攘災じょうさい・招福・呪詛など主に呪法に関する句を集成したものである。



(後期ヴェーダ時代)BC1000年~BC650年ごろ


 BC1000年ごろからBC650年ごろにかけて、インド・アーリア人はインド亜大陸の東方に進出し、インド北西部のパンジャブ地方から、インド北中部のガンジス・ヤムナー両河に挟まれたクル地方と呼ばれる広大で肥沃な土地へと活動の場を移した。この新しい地域における農業生産の発展と商業活動の活発化は、鉄製品の増加や手工業の進歩を促したが、一方で貧富の格差が生じた。当時の富者の財産として、金・銀・宝石・土地・家屋・馬車・奴婢・家畜などがあったことが記録されている。また手工業の職種は、当時すでに60種の職業が身分化されていた。このように、社会階層の文化が進み、民族的性格から発したカーストに経済的・社会的性格が加えられていった。政治の上でも新しい動きが起こり、後期ヴェーダ時代末期までには。ガンジス川流域を中心として、16大国をはじめとする多くの共同体や部族連合体が成立した。

 このような背景の下に、インド・アーリア人たちの宗教と思想に新たな傾向が現れてきた。それはヴェーダ・サンヒターの内容に考察を加え、新たな行動規範と宗教・思想を生み出さんとするものであり、こうした思索は、まずヴェーダの行為論、つまり祭儀に関する記述を摘出して考察し体系づけた「ブラフマナ(祭儀書)」文献として集成された。これは、サンヒター(本集)を第1次とすれば、第2次のヴェーダの成立である。ブラフマナとはマントラ(賛歌や呪文)に対する解説・解釈のことで、個々の解説の章句およびそれらを集成した文献をブラフマナと呼ぶ。ブラフマナとは「ブラフマンの書」の意味に解せるが、それは祭祀の実行を通じてブラフマン(宇宙の根本原理)を得るという思想によっている。漢字の「ぼん」はサンスクリット語のブラフマンを音写するために作られた文字である。また、「知恵論」に関する思索は、「ウパニシャッド」に結実した。ウパニシャッドは奥義書あるいは哲学書とも言われるが、形式的にはブラフマナの末尾に付随する形で伝えられている場合が多い。



(16大国の時代)BC650年~BC364年ごろ


 BC12世紀~BC8世紀の神話とも歴史ともつかないおぼろげな「ヴェーダ時代」を抜け出ると、インド北部には統一された文化が出現していた。BC7世紀、ガンジス川流域はすでに人口密集地となっていた。おそらくコメの栽培がそれを可能にしたと思われる。インドのコメは8500年前ごろまでにはガンジス川中流域のラフラデワでインディカ型野生イネのコメが食べられていたことがわかっている。その後、ガンジス川流域で開拓が進み、BC1000年ごろには水田が出現し、BC800年ごろから鉄器がインドに普及し始めたこともあり、BC7世紀には水田が広がっていた。BC6世紀ごろになると、インド・アーリア人と古くからいた先住民との間に盛んに混血が行われ、事実上、今日のインド人の母体が出来上がった、アーリアの実態は薄れ、観念的、権威的なものに変わっていった。アーリアの実態が薄弱になった現れはいろいろな処に見られる。


1)まず社会的な面では、「ブラフマナ(祭儀書)」、つまり神官・司祭階級のバラモンの優越性の根拠であり、権威の証しであるヴェーダ聖典の権威を懐疑視したり、否定する者が現れるようになった。これはこの時期以前には到底考えられることではなかった。そして、ヴェーダの不滅性を支えるサンスクリット語の使用を否定し、俗語を用いる者が増え、インド北部と中部の全域で日常俗語が使われるようになった。こうした俗語の一般化はバラモンの権威を大きく揺るがすものであった。


2)次に、それは政治的にも大きな変化をもたらした。前代のバラモン中心の寡頭かとう政治(少数指導制)は、貴族や戦士階級のクシャトリアによる王あるいは部族長統治へと変わっていき、ガンジス川の上流域にはクル、パンチャーラ、中流域にはコーサラ、ヴリジ、カーシーのいわゆる5大国が誕生し、ガンジス川流域にはこの他、アンガ、マガダ、マッラ、チェーティ、ヴァツァ、マツヤ、シューラセーナ、アヴァンティ、さらに北西部のカシュミール地方にはガンダーラ、カンボージャ、そしてデカン高原北部のアシュマカ、以上16国が興って互いに抗争する状勢となり、徐々に王族の力を高めつつ、統合への緩慢な歩みを進めていた。これら諸国で採用された政治形態については不明な点が多く、また国家の名に値する組織を持つかどうか疑わしいものも含まれているが、ほぼ確実に言えるのは、それらがマガダ、コーサラに代表される専制王国を一方の極として、マッラ、ヴリジに代表されるガナ・サンガ(集団・共同体)をもう一方の極とする直線上に位置することである。ガナ・サンガを代表するヴリジ国はリッチャヴィ族を中心としヴィデーハ族やヴリジ族などを加えた諸部族の連合体であった。16大国には入らないが、ブッダの出身部族であるシャーキャ(釈迦)族の国もヒマラヤ山麓の小ガナ・サンガである。これらガナ・サンガには、王に相当する権力者は存在せず、支配部族の有力者による共同統治が行われていた。彼らはしばしば集会を開き多数が集まり、共同で行動し、伝統的な法を破らず、いたずらに新たな法を定めず、聖者を迎え入れ保護した。また、地方での土着の有力部族の長が、社会的に公認され、自称クシャトリアから公認クシャトリアへと変わっていった場合も多かったと推測される。後の4大国、コーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサの王たちの出自も一様ではない。


3)さらに、経済的にも大きな変化があった。インド中部の肥沃な平原は、農産物の豊富な収穫とその流通、商工業の勃興を促し、かなりの規模の手工業やそれらの組合、経済上の実力者まで生み出した。古来のインド・アーリア人は、インダス川上流域で半農半牧だったが、この時代にはほぼ完全に農耕文化の担い手となり、生活文化の上でも今日のインドの原型を形成するに到った。これらの経済的変化はまた、ガンジス・ヤムナー両河沿いにいくつかの都市を創り出すことになった。この時代から数世紀の間に、マトゥラー、プラヤーグ、ヴァーラーナシー、パトナ、ナーランダーなどの大都市が形成され、それは今日にまで及んでいる。両大河からやや離れた地方にも都市ができた。


4)そして、文化・思想にも大きな変化があった。バラモンの権威が否定され、唯物論・懐疑論・快楽論なども唱える新しい思想家たちが登場した。これらの思想家たちは、仏教経典をはじめとする種々の文献において、六師外道げどう(6人の仏教以外の代表的な思想家)および、その他の仏教以外の思想として三十大外道、六十二見、三百六十三見などにまとめられている。この時代に登場した新しい思想家たちは、前代の伝統的思想家とは異なるいくつかの特色を持っていた。

 ・従来の思想および思想家の権威を破壊する

 ・その数は極めて多く、一種の百家争鳴だった

 ・彼らは階級的・思想的にいかなる拘束も受けなかった

4つのいずれの階級からもその出自が見られるし、思想的にも全く自由であり、時には自己すら否定し、思想すらも否定した者もいた。このため彼らの思想は多くの場合、体系化されるに至らず、後継者によってその体系が後世に伝えられるということがなかった。彼らの哲学は、形而上学的には虚無論、認識論的には不可知論、実践学的には快楽主義に陥ることが多かった。しかし、このような新しい思想家の中から、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ、そして仏教の開祖ゴーダマ・シッダールタが生まれている。


 ガンジス川流域の広大な平原は大規模な軍隊を出現させるとともに、より大きな社会単位への統合を促進した。その結果、BC7世紀末にはインド北部に16の王国が成立した。これを16王国時代と呼び、その成り立ちや王国間の関係を神話から解明するのは難しいが、すでに硬貨の鋳造や文字の使用が始まっていたことから、かなりしっかりした行政機構が整いつつあったことがうかがえる。


 王国成立の事情を語ってくれるのは、インドの二大叙事詩とされる「ラーマーヤナ(ラーマ王子の行状記)」と「マハーバーラタ(バーラタ族の二つの王族間の大戦争)」であるが、現存するそれらの原典はBC400年から紀元後400年ごろに書かれた後、改定を繰り返しているため、そこから歴史的事実を汲み取るのは容易ではない。やがて、16王国の中でガンジス川下流域の南岸に本拠を置くマガダ国が強盛となり、ライバルであった中流域のコーサラ国を滅ぼして領土を拡大し、BC364年にガンジス川流域は、インド史上初めてマガダ国ナンダ朝(BC364年~BC317年)のマハーパドマによって統一された。文献に基づく古代インドの歴史はほとんど北部の歴史でもある。インドという名称はインダス川から取られていることからもインドの歴史は北部から始まっているといえる。古代を通じてインダス川流域と他の地域とでは、大きな文化的格差があった。

 アーリア人はインダス川流域から次第に東のガンジス川流域やベンガル地方へと進出し、さらに西海岸をグジャラートへと南下してインド亜大陸の中央高地へ勢力を伸ばしてきた。しかし、南部にインド・ヨーロッパ語族とは全く別系統に属するドラヴィダ語が生き残っているという事実は、インド南部がアーリア人の活動から一貫して孤立した状態にあったことを示す証拠といえる。南部が孤立した原因は主にその地形にある。南部のデカン高原は密林に覆われたヴィンディヤー山脈によって北部と切り離されている。さらに南部の地形は高地によって土地が分断されているため、北部の開けた平原とは違って大きな国の建設にはむいていなかった。南部の民族の中には孤立していたおかげで部族時代の狩猟採集文化を長く守った部族が存在していた。


[古代インドの推定人口]

 古代インドの人口は、BC400年ごろで約2500万人と推定されており、この数は当時の世界の総人口のおよそ4分の1にあたる。しかし古代インド文明の重要性は、その時代に成立した行動様式がいかの多くの古代人に影響を与えたかというよりも、むしろそれが現在でもなお多くの人びとの生活に影響を与え続けているところにあるといえる。


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<マガダ国>

 16大国時代(BC650年~BC364年ごろ)からマウリヤ朝(BC321年~BC185年)の成立の時代にかけて、ガナ・サンガ(集団・共同体)の国々は近隣の専制王国に相次いで滅ぼされた。それらの専制王国の中で最も強力な王権を発達させたのは、ガンジス川南岸の下流域に興ったマガダ国である。後期ヴェーダ時代(BC1000年~BC650年ごろ)に始まるアーリア人のガンジス川流域への進出はその後も着実に進展し、BC6世紀半ばにはガンジス川下流域に強力なマガダ国を出現させた。マガダ国の都ラージャグリハはガンジス川の南方に位置し、四方を丘陵で囲まれた難攻不落の城塞都市として知られていた。マガダ国の興隆はこの地方の南部丘陵地帯が鉄鉱石の最大の産出地であったことによって促された。また森林資源にも恵まれ、広大で肥沃な土地は豊かな農業生産をもたらした。さらにガンジス川とそれに南と北から合流する緒支流は、交通の便を提供した。移住してきたアーリア人はこの辺境の地で、バラモン教の保守的な教理やヴァルナの緒規則の束縛をあまり受けることなく活動し、この地の先住農耕民と混住・混血し、彼らのアーリア化を促進した。マガダ国の起源について確かなことはわからないが、ブッダ(推定生没年:BC566年~BC486年)と同時代にあたるビンビサーラ(推定在位:BC546年~BC494年)、アジャータシャトル(在位:BC494年~BC462年)という父子2代の王の時代にこの国は飛躍的な発展を遂げた。アジャータシャトルの時代には西方のガンジス川中流域に位置する強国コーサラ国との争いに勝利した。その息子のウダーインの時代に首都をラージャグリハからガンジス川に面した交通の要衝パータリプトラに遷された。帝国建設に向けて発展を続けるマガダ国にとってこの遷都は不可欠であった。その後におけるマガダ国の領土拡大策の詳細は明らかではないが、BC364年にこの国のナンダ朝がガンジス川流域全体の統一に成功している。マガダ国の王たちは即位式などをバラモン教の伝統に従った儀式で形式的には行ったが、自己の王権の正統性を主張する手段としては、そうした儀礼よりも行政的・軍事的能力の誇示を優先させた。また自己の敬虔な信仰を広く知らしめるため、バラモンや仏教教団、ジャイナ教教団などに莫大な寄進を行っている。マガダ国の徴税制度は、同時代の他の諸国に比べてかなりよく整備されていたようで、安定した歳入が強力な軍隊を支えた。その軍隊は、象、騎馬、二輪戦車、歩兵の四軍から成り、それを軍司令官が率いた。軍隊の強化を目指した王は、しばしば出身地や出身ヴァルナに関係なく戦士を採用している。アジャータシャトルは大型の(石弓)やほこ付戦車といった大量殺傷用の新兵器を戦場で使ったといわれている。こうした新戦法も旧来の伝統から自由なマガダ国であったから可能だったと思われる。


<ガンダーラ国>

 ガンジス川流域でマガダ国が発展を続けていた頃、北西インドでは16大国の一つガンダーラ国が栄えていた。ガンダーラ国の都タクシャシラー(タクシラ)はインドと中央アジア・西アジアを結ぶ交通路上の要衝であるとともに、学問の中心としても知られていた。BC6世紀後半、このガンダーラ国はアケメネス朝ペルシャの支配下に入った。またBC6世紀末にはその南のインダス川流域が征服され、ペルシャ帝国の属州に加えられた。


<クル国とパンチャーラ国>

 ガナ・サンガ国と専制王国の中間に位置したのが、王権の強化を果たし得なかったクル国とパンチャーラ国である。この両国は後期ヴェーダ時代(BC1000年~BC650年ごろ)に政治と文化の中心地域であったガンジス川上流域に位置していた。当時の北インドにおける最大勢力であったクル族は、都をガンジス川に面したハスティナープラに置き、今日のデリー近郊でヤムナー川に面したインドラプラスタを副都としていた。この時代、ガンジス川上流域はバラモン文化の中心地であり、この地で後期ヴェーダ文献が編纂され、ヴェーダの祭祀が発達し、ヴァルナ制度が成立した。バラモンはまた、身分制度における最高位を確保するため王と手を組み、王権強化を目的としたさまざまな儀礼を創出した。こうしてガンジス川上流域は古代インドにおける初期王権の誕生の地となった。名高い「マハーバーラタ戦争」は、クル族の有力王家間の王位と領土をめぐる争いに端を発したものである。クル族の勢力はやがて衰退した。次の時代にクル国は16大国の一つに数えられているが、小国の域を出ず、その活動についてはほとんど知られていない。クル国の南に位置するパンチャーラ国の支配部族であるパンチャーラ族も後期ヴェーダ時代の有力部族であり、早くから王制を採用し、王権強化のための緒儀礼を盛んに行ったと伝えられている。しかし、クル族と同様にその後に王権の発達を見ず、16大国の一つに数えられてはいるが、際立った活動を展開することはなかった。そして両国とも、BC4世紀半ばまでにマガダ国の支配下に入っている。初期王権誕生の地であるガンジス川上流域で王権の発達が見られなかった原因は、この地域とガンジス川中・下流域との政治的・経済的・社会的・文化的な環境を比較することによって知ることができる。すでに見たように、マガダ国が専制王権を発達させたのは豊かな資源に恵まれた新興地域であった。またアーリア世界の東方辺境に位置し、ヴァルナ制度の身分秩序(バラモン(神官・司祭)、クシャトリア(王侯・貴族や戦士)、ヴァイシャ(農民や庶民)、シュードラ(隷属民))や、保守的なバラモン教の伝統からも比較的自由だった。都市では商人がヴァルナ制度の規則に妨げられることなく経済活動を通じて富の蓄積を図り、王は部族制度やヴァルナ制度をなかば無視して権力の強化と富国強兵に努めた。そうした商人や王たちは自由な個人としての活動を正当と認める仏教など新興諸宗教に心の支えを求めることができた。これに対し、ガンジス川上流域では、正統派バラモン思想が依然として有力であり、ヴァルナ制度の伝統も比較的よく維持されていた。正統派バラモンの立場から四ヴァルナの義務を定めた「ダルマスートラ(律法経)」が成立したのはこの時代である。そこに見られる諸規定は、後世「マヌ法典」に代表されるヒンドゥー法典の中で集大成されることになる。こうした保守的な地方において、限度を超えた王権の強化は、自己の優越的地位に固執するバラモンたちによって押しとどめられた。また部族的結合を維持しつつ政治・軍事における独占的地位を守ろうとするクシャトリア階層によっても、突出した王権の発達は阻止された。「実利論」や「マヌ法典」といった後世の文献によると、それらの編纂当時となる紀元前後においても、ガンジス川上流域にはクル族、パンチャーラ族などクシャトリア身分を誇る集団が残存していたという。こうした政治的・宗教的な保守性に加え、王権発達の経済的基盤としての都市の発達が、商人とその活動を差別するヴァルナ制度の緒規則によって抑制された。これらすべての結果として、この地方では一定の限度を超えた王国の発達は見られず、結局、東方の新興王国マガダの軍門に下ることになった。16大国時代の諸国は、マガダ国の発展に伴い次々に独立を失い、最終的には、全体がマガダ国が築いた土台の上に次のマウリヤ朝(BC321年~BC185年)の版図に入ることになる。


[マハーバーラタ]

 マハーバーラタはバーラタ族の二つの有力な王族、パーンダヴァ家の5人の王子と、そのいとこにあたるカウラヴァ家の100人の王子との18日間にわたる大戦争をテーマとしている。後期ヴェーダ時代(BC10世紀~BC8世紀)に北インドで起こった現実の部族内の争いが、次第に大規模な戦いとして伝えられるようにものと思われる。マハーバーラタは、BC8世紀ごろに口承叙事詩として生まれ、聖職者、語り部などが朗唱し、広まっていった。文書として初めて登場するのはBC4世紀ごろだが、インドの古典言語であるサンスクリット語で書かれたのは、それから700年以上経った紀元後350年になってからだった。この叙事詩は約10万の二行連句や散文で構成されており、その内容は多岐にわたる。歴史、哲学、精神的な思想が、敵対するパーンダヴァ家とカウラヴァ家の戦いの中に織り込まれている。ロマンス、陰謀、騎士道精神、道徳的な葛藤が次から次へと描かれ、挿話も満載されている。

 マハーバーラタの中核にあるのは、ヒンドゥー教で最も崇拝されている「ギーダー」と呼ばれる700連の詩だ。ギーダーができたのはマハーバーラタの他の作品よりも遅く、おそらくBC3世紀以降だと考えられている。不安定な時代で、人びとは戦争の倫理について悩んでいた。パーンダヴァ家の王子アルジュナの御者クリシュナは、対話の中で王子に自分が神であることを徐々に明かしていく。アルジュナはいとこや友人を殺すことにふと疑問を抱き、クリシュナにどうしたらよいかと尋ねる。クリシュナは自分の「ダルマ」をまっとうしろ、つまり、戦士としての義務を果たせと助言する。「ダルマ」とは、法・義務・正義を意味するインドの宗教・思想・仏教・哲学の重要な概念で、「苦しみから完全に解放される唯一の道は心を鍛えて現実をあるがままに経験すること」とされる。クリシュナはアルジュナに、いったん戦争が始まったら、それが大義のためであれば戦うべきだと説く。また、人生の目的や輪廻転生、その他多くの哲学的・宗教的な事柄についてもアルジュナに洞察を与える。

 最終的にはパーンダヴァ家が勝つ。しかし、余りにも多くの命が失われ、勝利を祝う雰囲気は全くない。戦争や暴力の無益さをテーマにしたこの叙事詩は、何世紀にもわたってインドの指導者たちの心をとらえてきた。20世紀初頭から半ばにかけて、イギリス支配に対する非暴力の独立運動を主導したマハトマ・ガンジーにも大きな影響を与えた。

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