第94話 エジプト人モーセと「出エジプト」

モーセに率いられて実行されたとされる「出エジプト」は本当の出来事だったのだろうか? またその年代はいつだったのだろうか?


 ヘブライ人(ユダヤ人)は最初のころ、戦争の勝利を神に祈るなど、伝統的な部族宗教としての性格も色濃く残していた。ところがやがて、ヘブライ人の伝承の中で「出エジプト」のエピソードが強調されるようになる。モーセという名の指導者が率いたエジプトからの脱出に、民族の起源があると考えられるようになっていった。エジプトを脱出してから長い放浪を経てカナンの地に到着したとき、ヘブライ人はすでに自分たちを、ヤハウェ神を信仰する同一民族であると認識していた。ヘブライ人たちがシナイ半島でさまよう様子が旧約聖書に記されているが、おそらくそのような苦難を共有することで民族意識が出来上がっていったのだろう。但し、これも旧約聖書の記述の他に証拠はなく、その旧約聖書もかなり後になってから完成したものなので確かなものではない。確かなのは、ヘブライ人がエジプトでの過酷な生活からようやく脱出できたという事実だけなのだ。旧約聖書によると、モーセは、ヤハウェ神から授けられた「十戒じっかい」をヘブライ人にもたらした。このときシナイ山において、ヤハウェ神とイスラエル人の間に新たな契約が結び直されたとされている。しかし、偉大な宗教改革者であり、民族の指導者であったモーセが果たした役割は、いまだに解明されていない。また「十戒じっかい」の存在もはっきりとその存在を確認することができない。


 1822年にロゼッタ・ストーンに刻まれていた3種類の文字からエジプトのヒエログリフを解読したフランス人ジャン・フランソワ・シャンポリオンは、「エジプト語の文法」の中で、「古代エジプトの実際的知識は聖書の研究にとっても重要であり、宗教的な考証は数多くのことを明らかにするにちがいない」と記している。また、エジプトのモーセに熱中した精神科医のジークムント・フロイトは、新王国時代の遺跡エル・アマルナで発掘作業をした後、「モーセがエジプト人であって、特有の宗教をユダヤ人に伝えたとすれば、それはアクエンアテンの宗教であり、太陽神アテンの宗教だということである」と述べている。

 聖書はエジプト学を構成する要素として研究されたことがなかった。聖書物語の大部分はエジプトで起きたことだが、アブラハム、ヨセフ、モーセの痕跡はまだ見つかっていない。これまで歴史学者たちは、セム族の一派であるヘブライ人をエジプト社会の周縁で暮らした半遊牧民であるベドウィンと見なしてきた。「ヘブライ」という言葉は、多分BC6世紀の新バビロニア時代の書記たちがつけた名称であり、彼らは聖書学者たちを混乱させてきた。「創世記」や「出エジプト記」に書かれたような民族がいたという考古学的な証拠はないのだ。古代エジプトではファラオの下に210の地方が隷属状態にあった。そのエジプトで430年も暮らした住民が、エジプトの軍隊の裏をかいてこの地方から脱出することができたのだろうか? エジプトがその王朝の歴史を通じてカナンの地を治めていたことが知られているのに、彼らはファラオの権力の反撃も受けずに、カナンの地に定住することができたのだろうか?


 紀元後200年ごろ、ギリシャ人の神学者だったアレクサンドリアのクレメンスは、「不思議なことといえば、エジプト人の文字がヘブライ人の文字に似ていることである」と主張している。イエスの時代である紀元後1世紀に広く使われていた言葉はアラム語で、ヘブライ語は典礼用の言葉となっていた。聖書の神聖な文章が広く理解されるために、ヘブライ語の原典はアラム語に翻訳された。それはヒッタイト語やヘブライ語で翻訳を意味する「オンケロス・タルグム」と呼ばれ、唯一の公認された訳である。現在のイスラエルにあたるカナン(南部)という新しい地方に到着した彼らは、エジプトの慣習を捨てずに、先祖伝来の伝統を維持し、フェニキア文字に適応しながら、ヒエログリフ的ヘブライ文字という新しいアルファベットを作りだしていったと思われる。

 ハワード・カーターが古都テーベの廃墟に面した王家の谷で、アクエンアテンの息子のトゥトアンクアメン(英語名:ツタンカーメン)の墓に続く階段の最初の石段を発見したのは、1922年のことだった。BC1327年に亡くなった王の墓が発見されたというニュースは、あっという間に世界に拡がり多くの人を熱狂させた。ところが、トゥトアンクアメンの墓は研究され尽くされたのに、すべての秘密が明らかにされたわけではなかった。例えば、玄室の東側の壁に描かれた9列の宗教的な碑文である。碑文の中の1文字で、「大神」あるいは「おお、神よ」を意味するヒエログリフは、まさにヘブライ語のアルファベットの5番目の「へー」という文字を連想させる。それはまた、ヘブライ語では「神の息」という記号になる。また、トゥトアンクアメンの人形棺は赤みがかった亜麻のより糸で覆われていたが、聖書も同じように聖櫃せいひつを覆う布と緋色の覆いのことを語っている。他にもいろいろあるが、こうした王で神であるアクエンアテンの一神教に対するアプローチからユダヤ人の一神教との関係が明らかになる。

 ヒエログリフで書かれた文章はヘブライ語の文章と同じく、普通は右から左へと読むことになっている。どちらの言葉にも母音はなく、ヘブライ語の聖書では母音を使った文章は見られない。但し、言葉の記録であるヘブライ語の口承伝承のおかげで、読み進むにつれて母音を構成する子音の間に、母音を挿入することができる。ヒエログリフについても同じことがいえる。エジプト学者たちは発音しやすく分かり易くするために、慣習にしたがって母音を導入してきた。しかし、古代エジプト人の実際の言葉は、彼らの口承伝承が失われたため、二度と発見されることはない。したがって、現在行われている単なる慣用的な翻訳は、ほとんどの場合ファラオたちが話した実際の発音とは違っている。ヘブライ文字とヒエログリフを比較して研究すれば、古代エジプトから脱出した人びとがカナンとフェニキアの文化の影響を受けたことが裏付けられるだろう。彼らはヒエログリフの重要な性格を失わずにアルファベットの原則を学び、書き方という大きな問題を簡略化した。ヒエログリフの文字の種類が約3000だったのに対し、フェニキアのアルファベットは22文字で出来ていた。フェニキアのアルファベットを読み書きできるようになるには数週間もあれば十分だったのに、ヒエログリフの書き方を学ぶには10年が必要だった。かつて古語法と言われたフェニキア文字が、少しずつヘブライ文字になったという語変化の理論はまだ証明されていない。また、フェニキアとヘブライの記号はごくわずかしか一致しない。その反対に、ヘブライ文字とヒエログリフの間に密接な関係があることは、音声学と字形と、たびたび数に結びつく象徴的意味と、エジプトの神々と信仰とで明らかになっている。ヘブライ文字はエジプト文字の応用形にあたる。それはヒエログリフ的なヘブライ文字のアルファベットであり、変わらなかったいくつかの文字は本物のヒエログリフである。


 アメンヘテプ3世(在位:BC1391年~BC1353年)の神格化はアメンヘテプ4世(在位:BC1352年~BC1338年)が擁護した新たな太陽崇拝、つまりアテン崇拝に結びついたと考えられる。アテンは長い間、太陽円盤を指す言葉として使用されていたが、第18王朝時代(BC1550年~BC1295年)に独立した神としての地位を得るようになり、アメンヘテプ4世の下で、アテンは「最高の神」に高められ、最終的には「唯一の神」となる。祝祭に合わせカルナックに神殿を造営したアメンヘテプ4世は、14世紀半ば、治世5年に荒涼としたエジプト中部に移住し、新しい首都アケトアテン(太陽円盤の地平線の意)を建設してアテンに捧げた。アメンヘテプ4世の妻がその胸像で有名なネフェルティティである。アメンヘテプ4世は自分の名もアクエンアテンと変え、新首都の発展を見守った。アクエンアテンはその治世中、弟子に対する師のように教育を施し、その教育は神の考え方と神の観念について、当時としては革命的な観念を伝える手段となった。唯一神を称賛するこの教育は、後に抽象的で目に見えない、そして超越的で偏在する全知の神というイデオロギーの基礎となった。また、それは像と偶像の古い信仰を消滅させようとする意思に結びついた。アテン神の単一性と排他性は明白であり、この概念はアクエンアテンの詩篇と賛歌で何度も反復される。それらは、世界の創造者である唯一神の崇拝という聖書の宗教の基礎を含んでいる。古代世界におけるエジプトと周辺諸国との関係は、アケトアテン(現在のエル・アマルナ)で見つかったユニークな書簡のおかげで明確に浮き彫りにされた。それらの書簡、アマルナ文書は、粘土板に楔形文字で記されており、内容はファラオと同時代の封臣や大国の王たちとの間で交わされた外交文書であった。アクエンアテンの死後、王妃であったネフェルティティがネフェルネフェルウアテン(在位:BC1338年~BC1336年)としてがしばらく王となった後、アクエンアテンの息子のトゥトアンクアテン(在位:BC1336年~BC1327年)が9歳で王に即位した。少年王の下で徐々に復古政策が進められ、治世当初の2~3年はアケトアテンで過ごしたが、かなり早い段階で名前をトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)に変え、王宮をメンフィスに移した。トゥトアンクアメンが16歳か17歳で没すると、その後継者として、まずトゥトアンクアメンを補佐していた老臣アイが立ち、次いで、シリアに対する軍事遠征の後に将軍ホルエムヘブが王となったが、アケトアテンは打ち捨てられた。


 聖書の物語と歴史上の伝承との類似性には困惑させられる。アケトアテンの町からの民衆の脱出の物語と、聖書の出エジプト記の物語は、同じ物語かもしれない。シャンポリオンは、「エジプト語の文法」の序文で聖書の神聖な考証を強く望んでいた。「古代エジプトについての実際の知識は、聖書の研究にとっても重要であり、聖書の考証は古代エジプトの知識から数多くの解明を引き出されなければならない。エジプトでのユダヤ人の長い捕らわれの身の状態や、かれらの最初の律法制定に及ぼしたエジプトの影響のすべては、イスラエルの子らの政治的・宗教的な組織化に痕跡を留めているに違いない」と記している。

 エジプト学に呼応する聖書の研究の必要性を十分に理解していたシャンポリオンは、ユダヤ人をエジプトの伝統の本物の継承者だと考えた。フロイトは、「人間モーセと一神教」の中で、「BC1350年以後の空位時代をエジプト脱出の時期と見なければならない。これに続く、脱出からカナンの地への最終的な入植までの時代は実に不明瞭である」と明言している。フロイトが言うこの時代は、アメンヘテプ4世(在位:BC1352年~BC1338年)すなわちアクエンアテンの死の直後に続く時代に当てはまるので、実際はBC1338年以後となる。シャンポリオンは、アクエンアテン以後に即位したトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)はテーベに移住させられた後、アケトアテンの町を捨てて戴冠した。つまり、出エジプトは若いファラオ、トゥトアンクアメンの初期に起きたと推測でき、それは一神教の首都からの離脱と一致するとする。

 バビロン捕囚の時代(BC597年~BC538年)に聖書は書き換えられ、出エジプトの物語も手直しされた。聖書では、モーセが民衆に、モーセ五書の一つである申命記しんめいきに書かれた12の呪いのそれぞれにアーメンと答えるよう命令する。アーメンはエジプトのアメン神に由来することは明らかである。一神教の民衆によるアーメンという宣誓は明らかに大きな矛盾である。この矛盾はその後、聖書の書記たちによって修正された。書記たちはアーメンという語に、現在のような伝統的な意味を与えた。「ほんとうに」を意味する「アーメン」という発音は、呪いと祝福と同時に、一神教の全ての祈りで一般化された。アメン神はファラオと同一視される牡牛の頭部を持つ人間で表現される。このエジプトの古い伝統は、聖書のアブラハムの物語に反映され、彼の息子イサクの代りに牡牛が生贄いけにえになる。つまり、イサクの代りに生贄にされるのはアメン神なのだ。角の形をした古代イスラエルの角笛ショファールは忌まわしいものになったアメン神に対する放免を象徴する。ちなみに、一神教のアテン信仰を創始したアクエンアテンは、カルナックの牡牛の頭を破壊し、自分自身の肖像と取り換えている。

 老臣アイは、アクエンアテンの跡を継いだネフェルネフェルウアテン(ネフェルティティ)の死後、権力を確保できたただ一人の人物だった。エジプト学者は彼を優れた外交官であり、首都に閉じこもったアクエンアテンの治世の後半期を通じて、エジプトの統一を確保することに成功した比類のない戦略家だと考える。アメン神の正統への回帰は、おそらく若いトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)を指導した老臣アイの影響下に行われたのだろう。トゥトアンクアメンは宗教を修復する政令を出した。それはアクエンアテン(アメンヘテプ4世)の悪習、すなわち宗教が、民衆に悲惨さと苦しみを引き起こし、エジプトを追い詰めたからだった。アイはアクエンアテンの治世の間に、何人もの自分の兄弟姉妹や子や孫を失っていた。最後に王アクエンアテンの死がやってきた。アクエンアテンはアメン神をなおざりにして打ち据え、エジプトの民衆と先祖の神々を放棄した。今やこの過失に気づき、アメン神の怒りを完全に鎮めなければならなかった。ファラオとなったアイは治世4年で死去した。あとを継いだホルエムヘブはアメン神への復帰を情熱的に再開した。彼は石碑のトゥトアンクアメンの名前のあるカルトゥーシュ(ヒエログリフで刻んだファラオの名前を楕円形の王名枠で囲んだもの)を改変して自分の名を彫り込んだ。聖書には、ユダヤ人たちがエジプトを出発するときのことを次のように記している。

「イスラエルの人びとはモーセの言葉通りに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主はこの民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうしてエジプト人の物を分捕り品とした」

 つまり、出エジプトを実行した人びとは一神教の信仰を捨てなかったアケトアテンの神官や技能者などの住民だったと推測できる。彼らはカナンの地にたどり着き、ユダヤ人となった。


 以上は「出エジプト記の秘密」を書いたモロッコ出身のユダヤ人のエジプト学者、メソド・サバとロジェ・サバ兄弟の説であるが、はたして年代的にも正しいのだろうか?


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次に、旧約聖書における出エジプト物語と、マネトの「エジプト誌」やその他の歴史家が描くエピソード(挿話)を比較してその動機と理由を探ってみる。


1)強制的に1ヶ所に収容して奴隷化し、労働に従事させ抑圧する。これが神の怒りを呼ぶ。これはマネトの2番目のエピソードと同じである。

2)神罰。そのためにエジプト人は「異邦人」と別れることを余儀なくされる。これはBC300年ごろの歴史家である古代ギリシャの都市アブデラのヘカタイオスの1番目のエピソードと同じで、この話は聖書では「10の災い」となって出てくる。

3)分離。これは聖書では、初めは拒絶されるが最終的にはしぶしぶ容認される国外移住として描かれており、追放としては描かれていない。つまり、モーセに率いられた脱出(エクソドス)として描かれている。これはマネトの5番目のエピソードに追放の形で登場する。

4)モーセの律法。この場合、他の神々の崇拝を禁止することが最初の位置を占める。これはマネトの3番目の動機に言及される。


 マネトの「エジプト誌」と旧約聖書の最も目に付く共通点は、物語が情動(感情)で色濃く染められていることだ。どちらも憎しみに支配されており、異邦人排斥の感情形成を促す。聖書版では、エジプト人は拷問者、抑圧者、魔術師、邪神礼拝者として描かれている。エジプト版では、ユダヤ人を癩患者、不浄の者、無神論者、人間嫌い、聖像破壊者、狂暴な野蛮人、神を冒瀆する者として描いている。一方、相違点は、相手をちょうど反転させるという形で、互いに参照しあっていることだ。聖書以外のエピソードは異邦人あるいは不浄の者たちがエジプトから追放されるという点で一致している。聖書では、ヘブライ人は彼らの意に反してエジプトに押し留められ、神が災いを通じて介入してはじめて、国外に出ることを許される。しかし、この話も追放のモチーフの痕跡をまだいくらか留めている。


 アテン信仰が頓挫したがゆえにエジプト人モーセは自分の国を去り、新たな宗教と法体制を土台にして新しい民族を創造するためにユダヤ人を選び出したとフロイトは考えた。モーセはファラオの近くにいた高貴な人物で、もしかしたらユダヤ人が寄留していたゴシェン地方の州侯だったかもしれない。モーセはアテン信仰の信奉者であり、余りにも誇り高かったので、アテン信仰の頓挫後、エジプトの伝統宗教に戻ることはできなかった。モーセはユダヤ人を見出した。エジプトからの脱出は難なく行われた。なぜならアクエンアテンの死後、エジプトは無政府状態に陥っていたからである。モーセはユダヤ人の諸部族を率いてエジプトを脱出し、彼らにその一神教を教え、そしていくつかの律法を授けた。聖書にはモーセが異民族出身であることを示す痕跡がある。そこには、モーセの「舌が重い」こと、そのため兄のアロンに依存していることが述べられている。エジプト人モーセはヘブライ語を話さず、通訳を介して意思を疎通させなければならなかった。

 モーセは当時、途方もない存在と思われたに違いなく、そして死後に神性にまで高められて人びとの記憶の中に回帰してきたのだとフロイトは述べている。また、「モーセという男」という呼び方は、宗教の創唱者にして民族の創建者としての偉大なる男という概念から来ていると考える。フロイトがユダヤ民族の創造を帰したモーセは、生きているあるいは歴史上のモーセだけではなく、生きているモーセと死んでいるモーセ、歴史上存在し、抑圧され、そして記憶の中に回帰するモーセをすべて合わせたものだった。


 フロイトはアクエンアテンを啓蒙者として提示しているが、同時に、民衆に自らの普遍主義的な一神教を暴力と迫害によって無理やり押し付ける不寛容な独裁者としても提示している。フロイトは聖書の一神教が振るう暴力のすべてを、アテン教とその布告者たち、すなわちアクエンアテンとエジプト人モーセに凝集している。フロイトはその最初の論文で、モーセがエジプト人だったという仮説を新たな論拠によって立証しようと試みる。モーセという名はエジプト語であり、子供を意味する。これはトゥトモーセ、アハモーセ、ラモーセ、プタハモーセ、アメンモーセなどのように神名を戴いた名前の短縮形である。フロイトはモーセがエジプト人だったら、アテン神の崇拝者だったに違いないと結論づけた。そしてエジプト人の宗教と聖書の宗教を念頭に置いて、一方の宗教は、他方の宗教ではびこっているものを断罪すると推測し、次の5点にまとめる。

1)魔術の拒否

2)像の拒否

3)来世および魂の不滅の断念

4)神々が多数あることを否定し唯一の神しかいないという主張

5)礼拝の純粋性に対して道徳上の純粋性を強調


 同じ時期に全く同じ対象を扱ったトーマス・マンがそうしたように、フロイトはアクエンアテンの革命的な理念が、下エジプトの古くからの宗教都市ヘリオポリスとその古い太陽信仰(ラー神)に由来すると考えた。実際にアマルナには、最も聖なる崇拝の対象である古代エジプトの創世神話で天地創造の地である原初の丘を象徴する四角錐の石、ベンベン石や、ヘリオポリスの聖獣である太陽神の化身として崇められた聖なる牡牛ムネヴィスのように、ヘリオポリスから借用してきたことがはっきりわかるものがある。トーマス・マンやフロイトの記述は、20世紀初頭の歴史学者J.H.ブレステッドの著作に依拠している。ブレステッドは、発見されたばかりのアクエンアテンとその宗教が、聖書の一神教の発展史にとって途方もなく重要であることを認識した最初の人間の1人だった。ブレステッドは、1つの普遍的な神という考えが、エジプトでまさにファラオがその時代の全世界から貢ぎ物を受け取っていた時期に誕生したのは偶然ではありえないと述べている。ヘリオポリスの神官たちは太陽神を至高の創造神として崇拝した。それに対してアクエンアテンは太陽神を唯一の神に変えた。「汝、唯一の神よ、汝の他にいかなる神もいない」、フロイトにとってこれらのことから導き出し得る結論は1つしかなかった。もしもモーセがエジプト人だったとすれば、そしてもしも彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたのだとすれば、それはアクエンアテンの宗教、つまりアテン信仰だった。

 モーセは割礼を優越性、純潔性、差異化の印と考えた。割礼を受け入れた民族は、割礼によって高められ、高貴な存在になったように感じ、他の者たちを軽蔑して見下す。他の者たちは彼らには不純に思われるとフロイトはいう。この差異化をモーセは自ら率いるユダヤ人に施さずにはいられなかった。いかなることがあろうとも、ユダヤ人はエジプト人に劣れる者であってはならなかった。これはモーセがエジプトの儀式を取り入れたことを支持する論拠である。このしきたりの由来をアブラハムに帰すことで、それがエジプトから借用されたということは、モーセがエジプト人であることを示す他のすべての痕跡と同じく、後から目に見えなくされた。


 以上が、ドイツのエジプト学者であるヤン・アスマンが「エジプト人モーセ」で描いた説である。


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では、「出エジプト」が本当にあったとすれば、それはいつの時代なのだろうか?


 聖書の物語にはあらゆる面でエジプト的要素が顕著にみられる。例えば、ヘブライ人のエジプト入りのそもそもの動機は飢饉からの脱出にあった。ヨセフは自分の身分を兄弟たちに明かしたとき、「飢饉はまだ5年は続くので、すぐにエジプトに移住した方がよい」と忠告した。この忠告は当時の半遊牧民の移住傾向を反映している。移住したエジプトでは奴隷としてレンガ作りに従事させられた。

 旧約聖書によると、とあるエジプトのファラオの治世に、イスラエル人はモーセに導かれて奴隷の身分を脱した。ヤコブが生きていた時代、おそらくBC17世紀ごろに初めてエジプトに移住してから、イスラエル人は400年間住み着いていた。数世紀間は自由民であったが、そのころには奴隷にされていたという。これが本当であれば、

 第15王朝(BC1650年~BC1550年)のヒクソスによるエジプト支配時代にエジプトに来て、アメンヘテプ4世(在位:BC1352年~BC1338年)のアマルナ時代を含め後期青銅器時代の最盛期をエジプトで過ごしたことになる。そしてヘブライ人はモーセに率いられて急いでエジプトを後にした。ヘブライ人の神によってエジプトに送られた10の災厄のせいでファラオはこの少数民族を引き留めても仕方がないと考えた。その後、イスラエル人は40年間旅を続け、最後にカナンの地にたどりつき自由を得たとされる。「出エジプト」が本当にあったとすれば、それはBC13世紀中ごろのことのはずである。当時ヘブライ人たちはデルタ地帯東部のピトムとラメセスという物資貯蔵の町をファラオのために建設していると、「出エジプト記」に書いてあるからである。これらの古代都市の発掘調査によれば、その建設が始まったのはBC1290年ごろ、セティ1世の時代である。そして建設が終わったのはラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)の時代のBC1250年ごろである。

 聖書の記述によると、出エジプトはBC1450年ごろになるが、BC15世紀にもBC14世紀にも、カナンの地域にヘブライ人またはイスラエル人がいたという痕跡は全くない。したがって、ほとんどの考古学者は、「出エジプト」の年代としてBC1250年の方がふさわしいと考えている。聖書の年代には合わないが、考古学・歴史学的に見ればより条件に近いからだ。この年代ならラメセス2世の治世のことになり、ラメセス2世は聖書の町ピトムとラメセスを完成させたファラオだからである。ヘブライ人のエジプト滞在の場所については、聖書には一貫してそれがゴシェンであったと記されている。ゴシェン地方はナイルデルタ地帯の東部にあったことは確かであり、そこにはピトムとラメセスの町もあった。

 また、原因不明ながら多数のカナンの都市が破壊されたおおよその年代とも一致しているから、カナンに入って征服するまでヘブライ人が荒野を40年もさまよっていてもおかしくはない。さらに、エジプトのラメセス2世の次のファラオ、メルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)の治世5年に建てられたルクソールにある碑文によれば、メルエンプタハはカナンの地にいたイスラエルという民族を征服したとか書かれている。それは聖書以外で初めてイスラエルの名が登場する文献であるが、そのころにはイスラエルの民はカナンに到着していたことを証明する。

「出エジプト」が実際の出来事だったのか、それとも単なる神話伝承にすぎないのかの答えはまだない。考古学的資料によって、今のところ確実に言えるのは、ヘブライ人という明らかに他と異なる集団が、BC13世紀末には確実にカナンに存在していたということであり、またBC12世紀のある時点にカナンの文明が崩壊した後、その灰の中から立ち上がってきたのは、ペリシテ人やフェニキア人、そしてヘブライ人の文化だったということだ。この時代に後期青銅器時代は混沌のうちに終わるが、その混沌を抜け出して新たな世界秩序を作り上げる大小の民族集団の一つ、それがヘブライ人なのだ。

「出エジプト」から3ヶ月目に人びとはシナイ山に到着し、その山の前でキャンプを張った。ここにおいて神と全イスラエル共同体の間の契約締結の準備がなされた。モーセは神の声を聴き、十戒を授けられた。人びとはモーセに自分たちと神の間に立つ仲介者になってくれるように頼んだ。イスラエルと神との関係は以後、生活の前側面にわたるこの契約によって支配されることなった。刑法、市民法、宗教法の主要条項は「契約の書」と呼ばれる文書の中で公にされた。



(モーセによる区別)


 ヤン・アスマンによれば、文化は内側に向かって結束性とアイデンティティを形成する一方で、自己の周囲にある他の文化に関しては異者性を産出する。しかしそればかりでなく、文化は翻訳のテクニックをも発展させる。ここで問題となっているのは、我々が我々自身の反対像として構築する、いわば紋切型としての他者のことである。異教や邪神礼拝、あるいは偶像礼拝は、他なるものを表すそのような紋切型である。文化の他者性が構築されるのは避けがたいことだが、これはある程度まで翻訳という文化のテクニックによって相殺される。翻訳とは、文化における諸々の区別によって設けられた境界をいくらかでも通行可能にするための試みなのである。古代の多神教はそのような翻訳のテクニックに属している。それらの多神教は、政治的に絡み合った諸国家から成る一つのまとまった世界としての旧世界が成立していく過程には欠かせない。多神教はさまざまな神々を、名前、姿、役割あるいは管轄に応じて区別することで、部族宗教の自民族(文化)中心主義を克服した。名前は当然ながら文化ごとに異なる。なぜなら言語が異なるからだ。神性の姿や、それを崇める儀式もまた、非常に異なっていることがある。それに対して、神々の役割に関しては大きな類似点がある。とりわけ宇宙論の場合はそうだ。そして大抵の神々には宇宙的な側面と役割があった。ある宗教の太陽神は、別の宗教の太陽神と容易に同一視することができた。この機能上の等価に基づいて、異なった宗教に属する神々の名前は相互に翻訳することができたのだ。多神教の神々がこうして相互に翻訳され得たということは、偉大な文化的成果と見なさなければならない。神々は国際的だった。なぜなら神々は宇宙的だったからだ。異なる民族は異なる神々を崇拝した。しかし、よその神々の現実性や、それらを崇めるよその形式の正統性を否定する者は誰もいなかった。偽りの宗教という概念は、全くなじみのないものだった。それは宇宙即神論と呼べるものだ。

 一方、「モーセによる区別」、すなわち真の宗教と偽の宗教を分かつ行為は、この区別が設けられた世界を著しく変えた。何か根本的に新しいものだった。この区別によって裁断あるいは分割された空間とは、単に宗教一般の空間ではなく、全く特定の種類の宗教の空間、すなわちユダヤ・キリスト・イスラムの一神教の空間である。それは自らに先行するものや、自らの外部にあるものすべてを異教として除外する。多神教あるいは宇宙即神論が、さまざまな文化を透明で互換可能なものにしたのに対して、一神教は文化間の翻訳の可能性を封じた。偽りの神々を翻訳することはできないのである。「モーセによる区別」は、イスラエルの子らのエジプトからの脱出の物語に表現されている。こうようにしてエジプトは除外されたもの、忌まわしいもの、宗教的に偽りのものを表す象徴、そして異教の典型となった。また、エジプトの最も目に付く実践である神像崇拝もまた、最も恐ろしい罪になった。偶像を崇拝することは、真と偽の区別によって構築されるこの新たな宗教空間では、迷妄と虚偽の典型的な表現となる。多神教と偶像崇拝は宗教的誤謬(誤り)の同一形式として互いに結びつけられる。


[モーセの十戒じっかいの掟]

1.あなたには私の他に神があってはならない。

2.あなたはいかなる像も造ってはならない。


 像とはおのずと他の神々のことである。なぜなら真の神は描くことができないからだ。偶像崇拝の概念、そして偶像崇拝に対する嫌悪は、ユダヤ人の歴史が経過するうちにどんどん強くなっていった。この憎しみは双方の側からのものだった。エジプトの神官マネトは、BC3世紀の前半にプトレマイオス2世の下で「エジプト誌」を著したが、モーセのことをらい者のコロニーの指導者となって反乱を起したエジプト人の神官として描いている。ユダヤ人が偶像崇拝を一種の精神錯乱あるいは狂気として描いたのに対して、エジプト人は聖像破壊を、感染性が高く、外貌を歪める疫病のイメージに結びつけた。

 自らアクエンアテンと名乗ったアメンヘテプ4世(在位:BC1352年~BC1338年)は、BC1338年に没するとすぐに、その名は王名表から消され、その建造物は取り壊され、彼の描写や碑文は破壊され、彼がこの世に存在していたことを示す痕跡はほとんどすべて消された。数千年の間、アクエンアテンが実行した途方もない革命のいかなる思い出も失われていた。19世紀に再発見されるまで、この人類史上最初の宗教創唱者にして神性破壊者の名は記憶から消えてしまっていた。モーセの場合は逆で、彼がこの世に存在していたことを示す痕跡はこれまで何一つ証明されていない。モーセは律法、解放、一神教に関連するすべての伝承をその身に吸収することで、もっぱら想起の形象として成長し展開した。アマルナ時代の碑文が再発見され、初めて公にされるとすぐに、モーセが行ったとされる事柄と非常によく似たことを、アクエンアテンが行っていたことが明らかになった。つまりアクエンアテンは、エジプトの多神教の祭儀や神像を破壊し、彼がアテンと呼んだ新しい光の神を崇める、厳格に一神教的な礼拝を創唱したのだ。1894年、アメリカ人エジプト学者ジェイムズ・ヘンリー・ブレステッドはアクエンアテンによる一神教革命が、聖書の一神教を理解する上でいかに重要かを示した。また、ジークムント・フロイトは、モーセを一神教のアテン教信者とし、アクエンアテンその人とは同一でないにせよ、王の近くにいた人物と考えた。

 多神教と一神教という根本的に異なり、相容れない宗教が、人類の歴史上初めて衝突したのは、BC14世紀のエジプトにおいてだった。この衝突は、それが同一の文化の枠内で起こり、外部からのいかなる攻撃的な働きかけもなく進行しただけに、なおさら尋常ではない。アクエンアテンによる一神教革命は、伝統を徹底的に否定し、暴力的なまでに非寛容だった。その治世の最初の6年間にアメンヘテプ4世は上からの革命によって、エジプトの全文化体系を徹底的に変えた。それまでの宗教儀式の中断は、社会と宇宙の秩序の崩壊を意味した。恐ろしい、取り返しのつかない罪を犯しているという意識に、エジプトの住民の大多数が襲われたに違いない。さらに別に事情が重なって、この経験のトラウマ的性格を強めた。アマルナ時代の終わりにエジプトとヒッタイトの間で争いが生じた。ヒッタイトはシリアにあったエジプトの駐屯地を襲撃し、捕虜を連れ帰った。この捕虜たちがヒッタイトに疫病を持込み、その後20年にわたってアナトリアと西アジアの広い地域で猛威を振るった。それは古代にこの地域を襲った疫病の中でも最もひどいものだった。エジプト自身もこの疫病の被害を受けずいたとは考えられない。神の恐ろしい怒りの現れとしか解しようのなかったこの経験は、新しい宗教による神性破壊の経験をさらに強烈にし、最終的には自分たちの宗教上の敵というトラウマあるいは幻想を呼び起こしたのである。

 アクエンアテンの子であるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)(在位:BC1336年~BC1327年)の復興碑に刻まれた言葉はこの苦難の時代をほのめかしている。

「エレファンティネ島からデルタの沼地に到るまで、神々の聖殿は打ち捨てられ、まさに崩壊せんとしていた。神々の聖なる場所は朽ちかけ、瓦礫の山となって、アザミに覆われていた。神々の聖域はまるでなかったかのようであり、神々の住まいは踏みならされて道になっていた。国はひどい病に襲われ、神々はこの国に背を向けていた。エジプトの国境を広げるために、兵士がシリアに送られたが、勝利を収めることはなかった。人びとが願い事をするために神に祈っても、その神は来なかった。女神を拝んでも、同じく、その神は来なかった。人びとの心はその体内で弱くなってしまった。「かの者たち」が、創られたものを破壊してしまったのだから」

 人びとにとってアマルナ時代の経験がトラウマとなった。公式記録の王名表からアマルナの王たち、アメンヘテプ4世(アクエンアテン)、ネフェルネフェルウアテン(ネフェルティティ)、トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)、アイの名は消され、彼らが統治した期間は、それ以前のアメンヘテプ3世と、それ以後のホルエムヘブに割り振られた。一つの時代全体が公式の命令によって集団の記憶から排除されたという事実は、それだけでも注目に値するが、その後、さらにその抹消の事実も消された。あとには、何か極度に不純で、神に対して冒瀆的で、破壊的な事柄についての漠然とした記憶だけが残った。アマルナ時代を抑圧することで生み出された空白は、エジプト人がアジア人と呼んだヒッタイトや「海の民」との、その後数世紀にわたる戦いの経験で満たされていったが、それらの経験の中で、「神をも恐れぬアジア人」という敵のイメージが形づくられていった。宗教上の敵というエジプト人の幻想、すなわち根拠のない空想は、初めは西アジア人全般に、その後は特にユダヤ人に結びつけられた。この幻想は西洋の反ユダヤ主義の多くの特徴を先取りしていた。

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