第93話 旧約聖書の世界

 旧約聖書は体系的な歴史書である。イスラエルという国が単一国家を形成した時期は、旧約聖書の全時代のうち、ほんの短期間にすぎなかった。旧約聖書において、ある種の国民国家的理想が強烈に明示されていることは確かだとしても、国民国家が聖書における共同体の支配的な形態ではなかった。ユダヤ民族が長い年月をかけてまとめ上げたこの壮大な物語は、基本的にはユダヤ民族の歴史を語ったものである。そしてユダヤという共同体をその中心に据えて、神の真実を意義深く語ろうとしている。後のキリスト教会が引き続き旧約聖書を保持し、これを研究してきた理由は、旧約聖書が法と正義の思想を鮮明にしてきたからに他ならない。


 旧約聖書は1冊の本ではなく、さまざまな異なった複数の書物の集成なのだ。それぞれの部分はBC1100年~BC900年ごろの間に成立している。旧約聖書はイスラエルの人びとの宗教文学の集成に相当する。イスラエルの宗教は、民族的宗教あるいは原始宗教とは異なり、歴史宗教である。すなわち、ある特定の判明している時点において、特別の宗教精神を持つ偉大な人物によって興されたものだ。この人物は超自然についての固有の概念を自らいだき、自らの眼から見てその概念が求めると思われる振る舞いを考え出し、周囲の人びとにそれを広め強要した人物だ。その手段は必ずしも書き物である必要はなく、弟子か後継者によって書き留められればよく、彼らは師が築き上げた成果を支え、擁護し、広めるのだ。こうしてできた書物はさまざまな経緯を経て内容が豊かになり、何度か改編され、さらに内容が追加されることになった。こうしてやがて「正典」としてまとめられていった。旧約聖書は1000年にわたるこのイスラエルの宗教の歴史を映し出し、また我々にイスラエルの宗教史の復元を可能にする資料を提供してくれる。歴史資料と捉える読み方と、信者の立場からの読み方と、二つの読み方は同じ一人の人物の中でも両立は可能である。歴史学者の立場から言えば、教祖はモーセである。


 旧約聖書において、アブラハムから始まるイスラエルの起源に先行しているすべての話は神話の一部であり、メソポタミアの神話に同様の話があることがそれをよく物語っている。明らかなことは、イスラエルの民の祖先が、遊牧または半遊牧のセム系民族であって、また彼らは他のセム人たちと同様の宗教心、すなわち多神観と神人同形観を持っていたということだけなのだ。重要なことは、イスラエルの宗教がある状況下で、また「出エジプト記」に語られているいくつかの主要な過程を経て、モーセによって開かれたと考えなければ理解不可能となる。この明らかに深い宗教的精神を持った人物は、二つの目論見をその心に抱いていた。一つは、奴隷のように扱われていた同胞たちをエジプトの地から連れ出し、パレスティナの辺境地帯で多少とも遊牧的な生活を送っていた親族の傍らに導くことで、こうして再び合流した民族は自分たちのための領土を獲得することを目指した。これは政治的視点からの目論見であるが、同時にモーセはこの民を新たな宗教心へと導こうとした。それはモーセの思索の結実であり、政治的な計画にこの宗教的実りを結合させたのである。

 モーセは彼自身がイスラエルの民と結び付けたいと思った神を、イスラエルの伝統にあったある一人の神の新しい名前という形で提示した。モーセは人びとにこの名前が神の本質を示しており、その本質は名前の中にあらかじめ組み込まれているとさえ説明した。"Ya" あるいは"Yau"、それと同様の音はカナン語で「存在する」を意味する動詞の三人称単数を喚起する。すなわち"Yahue/Yahwe"、ヤハウェあるいはヤーヴェである。この謎めいた名前はもっぱらヤハウェの「存在」、ヤハウェの「在ること」を示唆する。ヤハウェはそこにいるものであり、ヤハウェがいることさえわかれば十分であり、ヤハウェはそこに在る。このようにモーセは自分の民をヤハウェとした神に結びつけることを考えた。そして、当時のセム人の間で行われていた慣習に従って、無関係であった個人や共同体を、「契約」によってこの結びつきを実現することにした。イスラエルはそれ以来もっぱらヤハウェのみと関わるようになった。モーセは「単一神論」、すなわち他の神々の存在を否定はしないが、唯一の神を信奉するため他を退ける多神教の一形態を創始した。この「単一神論」こそが、その後の何世紀にもわたる進展の後、BC7世紀ごろにイスラエルが絶対的一神論に到達することを可能にしたといえる。


 旧約聖書は、エズラ記とダニエル書のようなアラム語で書かれている一部の書物を除いては、すべてヘブライ語で書かれている。BC12世紀からのアラム系(レヴァント北部とシリア地方)諸部族のメソポタミア各地への移住は、メソポタミア北部を見舞った飢饉と相まって、メソポタミアの政治的秩序と人口動態に大きな影響を及ぼした。彼らの言語はメソポタミアに浸透し、必須の言語となり、それまでのアッカド語に取って代わる勢いを見せ、その後の新アッシリア、新バビロニアは公用語をアラム語とするまでになった。新しい時期に属する若干の部分がアラム語で書かれているのは、このような事情によるものだ。

 旧約聖書の大洪水の話の原型はギルガメシュ叙事詩の最も古い伝本とほぼ同じ時期に属する別の古バビロニア(バビロン第1王朝)の作品「最高賢者叙事詩」である。この叙事詩は人類の創造について物語った後、さらに話を進めている。結局、筋立てと展開が合致していることから、大洪水の話ばかりでなく、「最高賢者」全体が、旧約聖書の「創世記」の最初のいくつかの章のモデルを提供している。こうした古バビロニアの原型を参照することなしには「創世記」全体を理解することはできない。また、旧約聖書にはギルガメシュ叙事詩との関わりを考えさせるいくつかの節が見受けられることから、旧約聖書の一部の著者たちはギルガメシュ叙事詩を読んでいた可能性は大いにある。旧約聖書の記述がメソポタミアに多くを負い、さまざまに合致するすることに議論の余地はない。旧約聖書の著者たちは古バビロニアの文書や成果を租借し、単一神論を基盤にして、精神性そして倫理性を特色とする独自の宗教システムにそれらを採り入れた。



(旧約聖書:Old Testament)


 旧約聖書とはイスラエルの民の歴史である。この民族がどのようにして神に選ばれ、どうように神に反抗し続け、どのように神によって救われてきたかを綴った物語である。旧約聖書は39もの書物を集めたものであり、さまざまな著者によってさまざまなスタイルで書かれている。誕生・結婚・死にまつわる詳しい記録を含む家族の話、敵を打ち破った勝利の記録、良い王と悪い王の話をまとめた国の民の歴史が収録されている。詩・律法・説教・劇的事件に加え、預言者の警告や励ましの言葉も含まれている。詩篇には知恵の詩(知恵文学)として知られるものもあり、それは人生についての良識ある見解を集めたものである。また、イスラエルの宗教儀式や祭りのやり方、行動の規範を示している。さらに礼拝の方法、宗教的建造物の仕様、宗教にまつわる税金、奉げ物の規定、などが記されている。

 モーセはヤハウェ神から授けられた「十戒じっかい」をイスラエルの民にもたらした。このときシナイ山において、ヤハウェ神とイスラエルの民との間に新たな契約が結び直されたとされている。「十戒」は律法の要約である。律法の他の部分は十戒を詳しくしたもので、十戒がさまざまな状況下でどのように適用されるかを解説している。契約はイスラエルの民と神との関係だけでなく、人間相互の関係にもかかわっている。同じように十戒も神と人、人間同士の関係を取り上げている。

 神がイスラエルの民に語る最も重要な方法の一つが、預言者の口を通して語るということである。預言者の役割は人びとにそれぞれの状況下で神の民であることの意味を理解させることである。預言者は占い師というより、説教者で、詩人で、政治と道徳に対する批評家ともいえる存在だった。預言者の働きの主な5つの要素は次のようなものである。


 ①現在の状況を分析する

 ②神がその状況をどう見ているかを民に語る

 ③変化をもたらす

 ④未来を予告する

 ⑤神について語る


 旧約聖書の39巻の文書からなる物語は人類最古の文明の発祥地ティグリス・ユーフラテス川の黄土色の風景を原郷としている。一族の定住地を求め、家畜を連れて遊牧する青年アブラハムの旅が物語の始まりなのである。物語の作成年代もまちまち、作者もほとんど不明である。というよりも本来が作者不詳の口承文学あるいは物語伝承のような膨大な文書群であった。伝承は長い時間の流れの中で、それを生みだした始祖たちの地を離れ、ディアスポラ(離散の民)のユダヤ人社会を経由し、地中海を隔てたギリシャ・ローマ世界に伝えられてゆく。伝承から透けて見えるのは、はるかに遠い古代メソポタミアやパレスティナの地であったのだが、その東方の国に人びとの心は吸い寄せられていったのだ。創世記の天地創造神話と古代メソポタミアのシュメール、アッカド神話との間には深い関連がある。正典としての成立年代は、BC7世紀前半から紀元後1世紀末まで、およそ700年の年月をかけて現行の形に編集され、ユダヤ教の正典として確立された。この正典をキリスト教もイスラム教も信仰の規準として継承している。旧約聖書の原典には3種類がある。ヘブライ語聖書は、最も古い原典で、BC5世紀~BC4世紀の成立。ギリシャ語聖書は、BC3世紀にエジプトのプトレマイオス2世の依頼によってギリシャ語に訳されたもので、通常「70人訳聖書」と呼ばれる。サマリタン版聖書は、BC2世紀~BC1世紀に成立した聖書で、サマリア人と呼ばれるユダヤ教の1グループによって伝えられた。


<天地創造>

“初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水面を動いていた。そして神は言った。光よ、あれ。こうして光が創られた”

 旧約聖書創世記、第1章の巻頭の言葉である。「混沌の闇」はヘブライ語でトーフーヴァボーフーと呼ばれる。それは飄々と広がる暗闇の無限空間、底なしの淵、その深い淵の表面を「神の霊」が動いている。ここでいう霊とは、ヘブライ語でルーアッハと呼ばれ、気・息・嵐を意味し、それは人間の眼には見えない風のような動きであり、時々刻々休みなく変化し、しかも身じろぎすることのない不動の生命力である。そのような不思議な生命力の中に、聖書の作者は混沌や暗闇を区分し、構造化し、秩序を創り出す創造者を直観し、それを神と名付けた。聖書において世界が「光あれ」という神が発した言葉によって始まっていることは、聖書の本質的な特徴を最初に明解に言い表している。つまり、神であるヤハウェの言葉がもし発せられることがなければ、すべては混沌としたまま昼も夜もなく、生を育むこの世界の全てが存在しなかったのだと聖書は語っていることになる。神の言葉を最重要視するこの考え方は、旧約聖書の全編を通じて脈々と流れている。聖書はこのような神が、人間だけでなく、日月星辰じつげつせいしん(天空)からすべての動植物におよぶ宇宙万有の支配者であることを、そして創造の始原から終末に到る全歴史の支配者であることを冒頭において宣言する。第1日目の光と闇の区分に続いて、第2日目は大空と水の区分である。3日目には陸と海とが区分され、原初の暗闇の混沌は次第に完成に向かって形を整えてゆく。4日目、昼と夜のめぐり、季節のめぐり、日月星辰の動きが決まる。5日目、水に群がる生き物と空飛ぶ鳥を創造した。6日目、地上の動物と神にかたどって人間が創造された。土(アダマ)のちりで人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。このようにして、神は天地万物を完成し、第7日目に安息する。


<エデンの園>

 神は東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。エデンは世界中の全ての川の源流だった。神はアダムをエデンに連れてきて園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされた。神はアダムを深く眠らせ、そのあばら骨の一つから一人の女(イシャー)をつくった。アダムは女をエヴァ(命)と名づけた。通称イヴである。エデンはヘブライ語では「楽しみ」、シュメール語やアッカド語では「楽園」を意味する。禁断の果実を食べた二人はエデンの園から追放された。それは生きることが「苦役」である、「罰」であるような人生の始まりであった。救い以外にこの苦役から脱出できる道はない。人間の創造についてシュメールの神話とアッカドの神話は物語の筋や運びは似ているが、微妙なところ、例えば労働という夫役についてはかなり違っている。


<アダムとエヴァの子、カイン(農耕者)とアベル(羊飼い)>

 二人は神に捧げる供え物で競争した。カインは農耕者、弟のアベルは羊飼い。運命のくじでカインは敗北した。その後、カインは屈辱からの怒りでアベルを殺害した。カインは追放され、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。シュメール神話にも二人の若者、牧羊神(ドゥムジ)と農耕神(エンキムドゥ)が争う物語があるが、結末は和解となる。農耕民を悪と断じるヘブライ神話の視点はどこからくるのか?


<大洪水とノアの箱舟>

 旧約聖書には、アダムから数えて10代目、ノア(慰めの意)のときに神は大洪水を起し、アダムの末裔をことごとく地上から一掃した。神がノアを選んだのは、悪が跳梁する世の中でノアだけが神に従う無垢な人だったからである。ノアは糸杉の木で箱舟を造った。長さが150メートル、幅が25メートル、高さは3階で15メートルという巨大な舟である。箱舟に乗り込んだのは、ノアとその妻、三人の子のセム、ハム、ヤベテとその妻子たち、他にすべての野の獣、家畜、鳥である。その7日後に大洪水がやってきた。雨は40日40夜降り注ぎ、洪水は山の高い峰にまで達し、地上のすべての命をことごとく拭い去った。箱舟は漂い続け、150日後、アララト山の上に止まった。それから40日たって、ノアはカラスとハトを放ったが戻ってきた。それから7日後、再びハトを放つと、ハトは夕方になってオリーブの若葉をくわえて戻ってきた。それから7日後、ハトを放った。もう箱舟には戻ってこなかった。大地から水が引いたことを知ったノアは箱舟を出て大地を見た。原初の暗闇の混沌で始まった天地創造物語は、アダムの末裔ノアがアララト山の雲の峰にかかる輝く虹を、洪水の爪痕も生々しい廃墟に立って望見するところで終わっている。セムはヘブライ語やアラビア語などセム系言語を話す民の始祖、ハムはエジプト・リビア・クシュ(エチオピア)などアフリカ北部一帯に住む民族の始祖、ヤベテはパレスティナの西方や北方のヒッタイト・ペルシャ・ギリシャなどインド・ヨーロッパ語族の始祖である。

 これと同じ型の物語はメソポタミアの「ギルガメシュの叙事詩」の大洪水神話が広く知られている。そこでは、神々が大洪水を起こすのだが、知恵の神エアに教えられた老人ウトナピシュティムが、箱舟を造り、それに乗って洪水の難を免れる。老人は7日目にハトを、次いでツバメ、カラスを放ち、カラスが戻ってこなかったのをみて、洪水がひいたことを知る。現在のトルコとイランの国境にそびえるアララト山は標高5165メートルの高峰である。

 双方の物語の背景には、明らかに核となる出来事、つまり大洪水があり、それは西アジアの多くの民族に語り継がれた記憶の一部になっていた。それは基本的に、自然の大いなる力は人間をあまり好まない神々によって支配されており、神々にとっては「力が正義」なのだと語ることだ。そこへ聖書が登場して、同じ話を再び語ることになったが、その方法は異なっていた。神が洪水をもたらしたのは、世界が暴力に満ちているからだとした。その結果、この物語は道徳となった。これは多神教から一神教への飛躍であり、権力は公正で、ときには情け深いものでなければならないとする聖書の主張への移行だった。

 洪水の物語が語り手たちによって世界初の大叙事詩であるギルガメシュの叙事詩に織り込まれたのは、ギルガメシュ王が実在したBC28世紀~BC27世紀ごろから800年~700年後のことだ。西アジアでは、筆記は数を記録することから始まった。基本的には役人が記録を残すために考案され、国家の実務のために使われた。一方、物語は暗誦するものだった。しかし、BC2100年ごろからギルガメシュ叙事詩のような物語が文字に書き残され始めた。書かれた文章は翻訳できるので、物語の特定の形式が容易に多くの言語へも伝えられるようになった。このように文字で書かれた文学は世界の文学になりうる。今日、ギルガメシュ叙事詩を読むことの素晴らしさは、はるか昔にさかのぼれば、中東と西洋の間に文明の衝突などなかったことがわかることにある。ギルガメシュ叙事詩には共通の文化の起源を見ることができる。そこから派生したものが、ホメロスや千一夜物語や聖書となった。だから現在の我々のグローバルな文化には実際に一つの共通テーマがあるわけだ。ギルガメシュ叙事詩とともに、筆記は事実を記録する手段から、考えを研究する手段へと変わった。筆記の本質が変わったのだ。そして、それは我々の本質も変えた。というのも、ギルガメシュのような文学は自分の思考を探求するだけでなく、他の人びとの思考の世界に住むことも可能にするからだ。

 洪水伝説は古バビロニア時代の言い伝えであったが、それがそっくりヘブライ人によって受け継がれて旧約聖書に記され、またアッシリア人によって語り伝えられて、ニネヴェから出土した粘土板に記されている。その起源はシュメールのウルにあったと思われる。ウル王墓の最下層から発見された粘土の堆積が特別な規模での洪水の残滓ざんしであることは疑う余地のないところである。 


<バベルの塔>

 大洪水の後、東方から移動してきた人びとは、シンアルの平野に住みつき、石の代わりにレンガを用い、漆喰の代わりにアスファルトを使って、天まで届く巨大な塔の建設を夢み、その大工事に着手した。ところが、それが完成に近づいたとき、神は天から降りてきて、この巨大な塔を見て呟いた。彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは彼らが何を企てても妨げることはできない。我々は直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。そこで神は、互いの言葉が通じないように人びとを散り散りばらばらに全地に散らせた。人間は混乱し、巨大な都市の建設は放棄された。その都市の名がバベル(混乱)と呼ばれるのはそのためである。

 この寓話は古代メソポタミア文明の中心地、ユーフラテス川の河畔に建設されたバビロンの町を指している。巨大な塔、ジッグラートの建設はシュメールの王によって着手され、セム族の侵入によってしばしば中断、また放棄されながら、新バビロニアのネブカドネザル2世のときについに完成したことが碑文に記されている。それは7層からなる高さ100メートルほどの巨大な塔で、最上階には月の女神ナンナ(エンリルの娘)を祀る神殿が設けられていた。しかし、イスラエル人から見れば、それはまさに異教の神の聖所であり、神を恐れぬ人間の傲慢の象徴である故に、弾劾されるべきものと見なされた。なお、ジッグラートはメソポタミア一帯ですでに30基以上発掘されている。


<アブラハムの旅の始まり>

 箱舟を出たノアとその子らがアララト山の頂に見た虹の祝福は、ノアの長子、セムの流れをくむアブラム(後に改名してアブラハム)によって引き継がれ、その子イサク、イサクの子ヤコブへと代を重ね、半遊牧的、寄留民的生活を通して、定住地の獲得という願望は次第に大きく膨らんでいった。アブラム一族の旅はユーフラテス川の岸辺から始まる。アブラムは、父のテラに従い、住み慣れたウルの町を後に、長い旅に出た。妻のサライ(後に改名してサラ)、すでに世を去った弟の子ロト、それに大勢の羊飼いたちが従っている。アブラム一族はウルでは、ブドウを栽培する農耕民であったが、旅においてはヒツジやロバを連れて移動する遊牧民の生活であった。アブラム一族、つまり族長たちの神は誰だったのか、旧約聖書は明確にしていないが、まだヤハウェではなかったことは確かである。

 ウルはペルシャ湾の現在のバスラにバスラに近いシュメールの古代都市であるが、長い間、深い泥土に埋もれ、その存在は伝説で知られるだけだった。それが1922年から1934年にかけて数度にわたる発掘によって、女神イナンナを祀る100段から成る三つの階段を持つ巨大な塔の建造物が見つかった。塔の下層にはおそらくBC4000年に遡るシュメール王朝の居住跡と、その上を覆う厚さ2.4メートルに達する大洪水の痕跡が観測された。

 アブラムが父と一緒に歩いたユーフラテス川下流のウルから上流のハランへは1000キロを超す行程だった。ハランは肥沃な三日月地帯の重要な隊商路の拠点であった。ハランとはアッカド語で「街道」を意味する。そこで父のテラは亡くなった。ある日アブラムは神のお告げを聞き、約束の土地を目指した。そこはカナンの地であった。しかし、アブラムの旅物語は弱い小さな遊牧民の哀しいエピソードに満ちている。甥のロトとの争いと別れ話や、飢饉を避けてはるばる下ったエジプトでは寄留の許可と引き換えに妻のサライを王に差し出さねばならなかった。その後のロト一族の滅びの物語は、アブラムの正統性の強調と結びつき、やがてユダヤ民族の選民思想へと収斂していく。アブラムの子にはエジプト人の側女そばめハガルとの間のイシュマエル、と妻のサライとの間のイサクという二人の男の子がいた。しかし、二人の子の間に争いが起こり、アブラムはハガルとイシュマエルを追放した。二人は荒れ野をさまよいながら旅を続けた。歳月が過ぎ、イシュマエルは成長し、強い弓を射る者となった。ハガルは故郷のエジプトから息子のために嫁を迎え、12人の子供が生まれた。

 イスラム教の伝承によれば、イシュマエルは長じてメッカに住み、後のアラブの始祖となったとされる。ちなみに、イスラム教はユダヤ教の「モーセ五書」、ダビデの「詩篇」、キリスト教の「福音書」を、「コーラン」に並ぶ啓典(神の啓示の書)として信奉する。また、ユダヤ教徒が彼らの始祖として仰ぐアブラハムは一神教の開祖であり、モーセやイエスもムハンマドと並ぶ預言者として崇められている。こうした多くの共通点においてイスラム教・ユダヤ教・キリスト教は、互いに兄弟関係にあるが、それだけに近親憎悪もまた激しいのだろうか。


<ヨセフの物語とモーセ>

 アブラハムによって始められたイサクからヤコブへと引き継がれたイスラエル一族の旅は、ヤコブの子ヨセフのときに寄留地のエジプトで結末のない終わりを迎える。紅海に近いナイル川下流のデルタ地帯であった。ヨセフは父ヤコブの残した家族と共にエジプトに住み、エジプトの地で生涯を終えた。アブラハムやヤコブ、ヨセフは族長であった。また、彼らは半遊牧民であり、寄留民でもあった。そうした生活を続けるためには遊牧民や農耕民との共生のための契約が不可欠であった。エジプトの農耕地帯での生活は寄留民であり、定住農耕民の側からすれば、収穫期における季節労働者、あるいは遊牧民からの襲撃に対する戦闘員としての役割も期待されていた。このような相互依存の共生原理が寄留民の生活を可能にしていた。ヨセフの一族がナイル川下流のデルタ地帯に寄留したのは、BC1620年ごろで、その後、彼ら一族のエジプト滞在はおよそ400年にわたって続いた。かつてはエジプトの名宰相として知られたヨセフの名も長い年月の間に人びとの記憶から薄れ、やがて忘れ去られてゆく。イスラエル人は次第に人口が増加するにつれ、エジプトでは疎ましい存在となり、騒乱を起こしかねない不穏な外国人集団ヘブライびととして警戒されるようになっていった。こうした中で、彼らはいつしか奴隷のように強制労働の苦役を負わされ、石切り場の採石や日乾レンガの製造や石塊の運搬にと酷使されるようになった。英雄モーセによるイスラエルびとのエジプト脱出は、こうした不穏な状況を背景に展開する。


<出エジプト>

 エジプト脱出の出来事については、エジプト側にそれを傍証する史料がないので、本当にあったのかという疑問がある。一説によると、ラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)の時代とする説もあるが、推定の域を出ない。この物語の制作年代はBC9世紀からBC8世紀、出来事との間に400年~500年もの開きがある。物語の主題は、イスラエルの人びとが彼らの神ヤハウェによって救出され、エジプトから導き出されたというものである。この主題に、モーセによるあしの海の奇跡というドラマが添加されて、スケールの大きなエジプト脱出劇が完成したとみられる。出エジプト記は、祭りの折に神殿においてドラマとして上演されたという説がある。その祭りは、ユダヤ三大祝祭の一つの「過越の祭り(ペサハ)」で、春分から数えて最初の満月の夜にあたる。この夜は、もともと遊牧民が冬営地から夏の幕営地に向かって、いっせいに移動を開始する日であった。いずれにせよ、それはイスラエルの奇跡的勝利の記憶であり、民族の救いの記憶の再現である。伝承によると、モーセは40年の間、イスラエルの民の荒野の旅を導き、ヨルダン川を眼下に見下ろすネボ山の山頂でその波乱に満ちた生涯を終えた。

 旧約聖書の記述の中には、他の証拠から判明した歴史的事実に関連のある物語も数多く含まれているが、考古学史料によって旧約聖書の物語が裏付けられるのは、イスラエル人がカナンに到着してからのこととなる。カナン人の文化と宗教についてわかっている事実も、旧約聖書の中でイスラエル人が戦った土着の信仰や多神教の内容と一致する。つまりBC12世紀ごろから、二つの宗教的伝統と二つの民族が、カナンという豊かな土地をめぐって争い続けたということである。


 *「出エジプト」については次の「94話」でより詳しく述べる。


<ヨシュア記>

 モーセのための30日間の悲しみの日が終わったとき、神はモーセの従者ヨシュアに、あなたとすべての民はヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人びとに与える地に行きなさいと告げた。ネボ山に立つと、眼下に流れるヨルダン川西岸にエリコの城郭がかすんで見える。エリコはオアシス地域につくられたカナンの都市の中でも最も堅固な城郭都市だった。その町はBC7000年に遡る世界最古の集落である。激しい攻防の末に、ヨシュアはエリコの城郭を落し、町を占領した。知略を尽くしたエリコの攻防は、ヨシュアの名声を高め、カナンの王たちは雪崩を打つようにヨシュアの軍門に下った。勢いづいたイスラエルの民兵は、次々とカナン地方の町を攻略し、地中海の海岸に拡がるシャロンの平野を目指して突き進んだ。ヨシュア記はイスラエルがエリコの城郭を足がかりに、12部族の連合軍を結成し、いかにして神の約束の地カナンへの侵入を達成したかの詳細な記録である。ヨシュアは12部族すべてが、ただ一人の神を選び、その神に服従を誓うというあり方を求めた。それはモーセ十戒の第1条「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」という戒律である。ヨシュアはイスラエルすべての部族をアブラハムゆかりの地シケムに集め、この戒律に基づいてイスラエル12部族は、ヨシュアの下に、「ヤハウェ共同体」を結成した。時代はBC1250年ごろで、これがやがてイスラエル王国建設の軍事的基盤となった。これらの記述はBC12世紀ごろにカナンのいくつかの都市が破壊されたとする考古学的事実と一致する。つまり、イスラエルの12部族連合軍は土着の信仰や多神教の人びとと戦い続けたということである。その背景にはエジプト第19王朝(BC1295年~BC1186年)ラメセス王家末期の衰退があった。エジプトにとって重要なこの地域をセム語族に占領されるままにしておくしかなかったという状況にエジプトは陥っていた。イスラエル人はカナンの地を征服後、積極的にカナンの文字や建築技術など優れたカナンの文化を取り入れた。


士師ししたちの時代>

 シケムの集会の後、12部族はそれぞれに分配された土地に分かれて住み、ヨシュアが世にいる間、唯一神ヤハウェを拝み、結束して主に仕えた。ヨシュアの死に続く次の時代を士師たちの時代と呼んでいる。士師とは「裁きのつかさ」の意味で、部族のおさではなく、人びとに推されて12部族の宗教連合を監視し、その契約の履行を人びとに促す使命を負った宗教的指導者を指している。しかし、時として外敵が攻めてくれば士師は民兵を組織して立ち上がり、その陣頭に立って戦闘の指揮を取った。この時代はBC1200年からBC1000年ごろにあたる。それはエジプト第20王朝(BC1186年~BC1069年)の時代で、近隣諸国に対するエジプトの統制力は弱まり、それと同時に国内経済も衰えた時期だった。モーセからヨシュアへと続いた解放闘争は終わり、イスラエルに平和がよみがえった。寄留民としての屈折した放浪と移動の時代からすると、この時代はペリシテびととの衝突はあったものの、比較的安定し、平和に恵まれ、定住農耕に専念できた時期である。この時期、イスラエルの民は12部族に分かれて、カナンの占領地に住んでいたゆるやかな部族連合の時代である。先住民との混血が進み、その結果として宗教も混交する。先住の人びとの神は、カナンの豊穣の女神、男神バァールの配偶神で、ウガリト神話ではアナト、シリアではアシュタロテと呼ばれる愛と豊穣の女神であり、地中海の春の女神アフロディテ、エジプトの創造と愛の女神イシスの原型であった。イスラエルの士師や預言者たちが終始一貫、執拗なまでのバァール批判を試みたのはこうした大地母神崇拝に支えられた農耕文化の基本原理に対する挑戦であった。そこでは豊穣の神のセクシャリティは徹底的に悪とみなされた。荒野と砂漠の神である天の父ヤハウェを唯一の神として信じ、一切の偶像の拒絶を誓い、その破壊を叫んだ士師たちの信仰は、カナンの大地母神を賛美する信仰圏とは、真っ向から対立するものであった。


<イスラエル建国物語:サムエル記>

 サムエルが士師として知られるようになったとき、イスラエルはペリシテ人の攻撃を受け、町は占領され、多くの人びとが死んで、悲しみの声が巷にあふれていた。ペリシテ人とは、イスラエル人がカナンの山岳地帯に定住し、農耕生活を開始したちょうど同じ時期に、東地中海の海岸平野一帯に勢力を拡大し、沿岸部の都市を拠点としてイスラエルの前に立ちはだかった強敵であった。彼らはエーゲ海一帯に栄えたミュケナイ文明の人びとであると推定されるが、13世紀から10世紀まで続いた暗黒の時代に、東地中海沿岸地域に侵攻、移動した「海の民」の一部であった。エジプト侵入を阻止された後、カナンの沿岸地域に5つの都市国家、アシュケロン、アシュドッド、エクロン、ガテ(ガト)、ガザを建設した。彼らは鉄の武器と二輪戦車を使って内陸部へ進出を図った。ゆるやかな12部族の連合体にすぎないイスラエルは存亡の危機にさらされた。怪力サムソンや勇者ギデオンの活躍の物語はこうした対立を背景に生みだされた。この危機を乗り越えるため、士師サムエルの下にイスラエル人は結束し、ペリシテ人を討ち破り、奪われた町や村を奪回した。その後、イスラエルの人びとの要望もあり、王を立てることになった。年老いたサムエルはサウルを推挙し、サウルは王位につき、3000人の常備軍を組織し、ペリシテ人やアマレク人に対抗した。しかし、この王制は、サウルのおごりや私欲による人望の失墜と彼の部下による殺害により、わずか2年で終わりをつげた。次にサムエルは勇敢なダビデを探しだした。その後、ダビデは推挙されて、BC1000年ごろに南イスラエルのユダ族の王となり、さらに北イスラエルの10の部族を統合し、BC993年に統一イスラエル王国を誕生させた。統一イスラエル王となったダビデは、宿敵ペリシテの首都ガテを占領し、地中海域を制圧した。次に、エブス人を攻めて、要害の地エルサレムを奪取し、ここを新しい首都と定めた。さらに、南はエドム、東のモアブ・アモンを討って、カナン南部の町々を征服し、北はオロンテス河畔から南はアカバ湾に至る統一王国を創りあげた。旧約聖書によると、気高い精神を持ちながら欠点もある、実に人間味にあふれたダビデは30歳で王位につき、40年にわたってイスラエルを統治した。この時期のエジプトは強国で華やかだった新王国時代が終焉し、混乱の時代である第3中間期(BC1069年~BC656年)が始まり、その最初の第21王朝(BC1069年~BC945年)の時代で、栄光は過去のものとなっていた。


<列王記:ソロモン王と預言者>

 ダビデの後継をめぐる骨肉の争いの結果、後を継いだのはソロモン(在位:BC965年~BC926年)だった。ソロモンの栄華として国外にまでその名を知られた最初のイスラエル王であった。ソロモンは二輪戦車部隊を導入し、南に位置するエドム人と戦い、さらにフェニキアと同盟を結んで海軍を創設するなど、ソロモンの下でイスラエルは征服と繁栄の時代が続いた。列王記では次のように記している。

「ソロモンはユーフラテス川からペリシテ人の土地、そしてエジプト国境に到るまで、すべての王国を支配した。ソロモンの治世の間、ユダとイスラエルの人びとは皆、ブドウの木やイチジクの木の下で明日や課に暮らした」

 この時のイスラエルの繁栄は、エジプトや西アジアの強国の衰退によってレヴァントの弱小国に発展の可能性が巡ってきた良い例だったといえる。

 シバの女王がアラビアから謁見を求めてエルサレムの宮殿に来たとき、その豪華さに驚嘆したと記されている。また、ソロモンは箴言や詩歌を何千も作ったとされるが、そのころエジプト、バビロニア、アラビアなどに知恵の教えをとく文学が流行し、人びとの間に人生観や死生観への関心が高まっていた時代でもあった。いわゆる「ソロモンの知恵」もそうした時代の風潮のなかで編纂されたと思われる。モーセ以来、イスラエルの神ヤハフェは幕屋の中で礼拝されてきた。それはエジプト、バビロニア、カナンの神々が壮大な神殿内で礼拝されていたことに比べて大きな違いであった。それがソロモン王の代になってから、フェニキアの神殿をモデルとした神殿を建築し、神殿礼拝へと移行した。ソロモン王は外国からも妃を迎えたため、彼女たちが信仰する異国の宗教が入り込んできた。そうした状況に警鐘を鳴らしたのが預言者たちだった。彼らは他国の神を信じる者たちを激しく非難し、次第に豊かになっていく社会の中で、社会的な問題についても活発に発言するようになった。

 王の死後イスラエルは北王国と南王国に分裂した。北のイスラエル王国には10部族が集まり、サマリアを首都とし、南のユダ王国ではベニヤミン族とユダ族がエルサレムを首都とした。国力の分散したイスラエルは周辺の大国の餌食となり、滅亡の坂を転げ落ちていった。預言者(ナービー)と呼ばれる一群の人びとが最も活躍するのはこうした動乱のただ中である。ナービーとは「語る者」を意味するヘブライ語だが、それは神に代わって人びとに語る者の意味であり、神によって召命され聖別された者を指している。彼らは説教者であり、詩人であり、政治と道徳に対する批評家ともいえる存在だった。人はみな神の前で平等であり、王といえども好き勝手はできないことを繰り返し説き、神から与えられた法を人びとに繰り返し示し続けた。後にイスラエルは歴代の王が成し遂げた偉業ではなく、この予言者たちがつくり上げた倫理基準によって人びとの記憶に残るようになった。その倫理基準をユダヤ教だけでなく、キリスト教とイスラム教も受け継ぐことになる。この時代に活躍した予言者には、エリヤ、エリシャ、ホセア、イザヤがいた。


<エルサレムの陥落:預言者エレミヤ書>

 BC722年に北のイスラエル王国の首都サマリアを攻略し、東地中海沿岸を制圧した新アッシリア帝国(BC911年~BC609年)は、その後も勢力を拡張し、一時その支配はエジプトにまで達した。滅亡した北イスラエル王国には異民族が移り住み、アッシリアの一州としてその支配に組み込まれた。こうした中で、南のユダ王国が独立を保ち続けることができたのは、北のイスラエル王国と違って反アッシリア連合に加担しなかったからである。しかし、BC8世紀末にユダ王ヒゼキアがアッシリアに反乱を起こした。これは大きな間違いだった。アッシリアのセンナケリブ(在位:BC704年~BC681年)は軍を進め、ユダ王国のラキシュの町を包囲して守備隊を抹殺し、住民を強制移住させた。

 この出来事を記したアッシリアの記録が現在、大英博物館にある。そこには、「ユダ王ヒゼキアは我が支配に属するのを拒んだゆえ、彼と一戦を交えることにし、武力と我が権力によって、守備を固めたユダ国の46の都市を制圧した。地方に点在する小さい町も数え切れないほど攻撃し略奪した。これらの場所から老若男女を問わず20万156人を連行し、おびただしい数のウマ、ラバ、ロバ、ラクダ、ウシ、ヒツジとともに連れ去った」と刻まれている。

 この物語は旧約聖書の列王記にも記されている。そこには、「主は彼(ヒゼキア)と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に歯向かい、彼(センナケリブ)に服従しなかった」と書かれている。

 アッシリアの軍事作戦が圧倒的な勝利であったことは、高さ2.5メートルほどの浮き彫り(レリーフ)に記されている。ニネヴェにあったセンナケリブの宮殿でこれらは一室の周囲を床から天井まで覆う連続した壁面彫刻を成していたようだ。レリーフの中に描かれた人びとは戦争の犠牲者であり、自分たちの支配者が叛乱したツケを払わされている。荷を高く積んだ荷車とともに進む人びとは国外に追放され、一方のアッシリア兵は略奪した戦利品を覇者となったセンナケリブ王のもとへと運んでいる。

 その後、西アジアの情勢の変化は目まぐるしく、BC650年ごろにはそれまでアッシリアの支配下にあったバビロニア(新バビロニア)が勢力を盛り返し台頭してきた。情勢の推移は複雑だった。新興のバビロニアに対抗して、エジプトはアッシリアと同盟を結び、東地中海世界に勢力を拡張し始めた。ユダ王国はエジプトとバビロニアの間で政治的選択を迫られた。BC609年にアッシリアは滅亡した。BC605年、エジプトのファラオ・ネコ2世は北方へ侵攻し、ユダ国を撃破し、さらに北上しシリアに攻め込んだ。新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)も大軍を率いてシリアへ侵攻した。両者はユーフラテス川上流のシリアのカルケミシュで直接対決することになった。戦闘はネブカドネザル2世の勝利に終わり、新バビロニアの軍隊はレヴァント地方に雪崩を打って侵入した。フェニキアやペリシテの町は占領された。ユダ王国のエホヤキム王はこの有様を見て、ネブカドネザル2世に隷属を誓った。ところが、数年後にエジプトが反撃に出て新バビロニア軍を破った。これを見て、ユダ王国は寝返ってエジプト側についた。この判断がユダ王国を滅亡へ向かわせた。体勢を立て直したネブカドネザル2世は反逆を理由に、BC598年年にイスラエルの首都エルサレムを攻略し、翌年すべての貴族層や勇士、木工や鍛冶職人1万人をバビロンへ強盛連行した。これが第1回バビロン捕囚である。この時期以降、イスラエル人を指す言葉としてユダヤ人となった。このときユダ王国はかろうじて存続はしていた。イスラエルの古い伝統を引き継ぎ、それを今日に到るまで伝えたのがこのユダ王国の人びと、つまりユダヤ人だからだ。そして後に民族が離散しても、イスラエル人(ユダヤ人)のアイデンティティはその宗教のおかげで、長く続くことになった。

 第1回バビロン捕囚後のユダ王国には、バビロニア支配を受け入れようとする一派とバビロニアに反乱を試みる武闘派が対立していた。エホヤキム王の後を継いだゼデキヤ王は、当初バビロニアの忠実な属国の王に留まっていたが、最終的にはエジプトの援助を期待してシドン、テュロス、モアブ、アモン、エドムなど、フェニキアと汎ヨルダンの隣国に同調してネブカドネザル2世に反旗を翻した。ネブカドネザル2世は速やかに軍をユダ王国に送り、ゼデキヤ王の治世9年の10月までにはユダ王国各地を破壊し、首都エルサレムを包囲させた。エルサレムの落城に先立って陥落したラキンからは、バビロニア軍の攻勢にさらされた当時の緊迫した様子を伝える一連のヘブライ語書簡が発見されている。エジプトの軍事介入はバビロニア軍を一時的にエルサレムから撤退させたものの、エルサレムはまもなく再包囲され、延べ1年半を超える長期間の包囲戦の末、BC587年の夏に落城した。ヘブライ語聖書によると。ゼデキヤ王は捕らえられ、シリア・パレスティナでの軍事作戦の拠点であったエブラにいたネブカドネザル2世の前に引き出されて裁きを受け、両眼を潰されてバビロンに連れ去られた。その後、エルサレムはその神殿もろとも破壊され、嘆きの町となった。住民は捕囚としてバビロニアに連れ去られた。この時にバビロンに連行された兵士や上流市民層の数は1万人とも2万人ともいわれる。これが第2回捕囚(BC586年)である。ここに300年に以上継続したダビデ朝のユダ王国は滅亡した。もはや国家的形態を喪失し、離散の民となったイスラエルが、その後の長い歴史の中でユダヤ教徒という強力な民族主義的宗教集団として再生し、苦難の歴史を歩み続けることができたのは、なぜだろうか?


<イザヤ書>

 バビロン捕囚期の預言者イザヤ(第二イザヤ:BC549年~BC538年ごろ)の言葉には、苦難を神の試練としてとらえる見方がある。イスラエルの選民思想がここで大きく変わる。なぜなら、苦難は選ばれた民であるが故に、耐えねばならない神の愛のむちと見なされているからである。預言者とはナービー(語る人)であるが、同時にローエー(透視する人)とも呼ばれた。預言者イザヤが透視した救い主は、敵を蹴散らすダビデのごとき万軍の王ではない。勇ましいラッパの音とともに、もろものの悪と不義に立ち向かい、それらをつまびらかにする聖戦の神ではない。イザヤの予見した救い主には、威厳もなければ、美しさもなく、ほふり場に牽かれゆく子羊のように首をうなだれ、身に着けていたすべての飾りものをはぎ取られている。彼は病者の悲しみを知り、それを自らに負うている。亡国の民イスラエルが、絶望の中に待ち望んだ救い主が、このようなメシアであったことが、どれほど大きな意味をもったか。イスラエルの失われた栄光を取り戻し、苦難の民を救うメシアはいつやってくるのか? 新約聖書ナザレのイエスの物語はまさにここから始まる。

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