第92話 ヘブライ人(ユダヤ人)とその国家

<年表>

BC15世紀~BC13世紀(遊牧時代):後期青銅器時代

 古代にはレヴァントの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめさまざまな民族が住んでいた。ユダヤ人の祖先となるヘブライ人もアラビアの砂漠地帯から移住してきたが、その子孫たちの一部はエジプトに移住させられてエジプト人の奴隷となっていった。聖書には、イスラエル史に先だって、「創世記」にメソポタミアにおける人類の太古の物語から、シリア・パレスティナを放浪した族長たちの物語を経て、エジプト移住までを取り上げている。そしてモーセ五書に記されている「出エジプト」「シナイ山でのお告げ」「荒野放浪」の伝承へと続いていく。


BC12世紀~BC11世紀(国家形成以前の士師ししの時代):青銅器から鉄器への移行期の混乱の時代

 長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人はこの地を征服し、紀元前11世紀ごろにイスラエル王国が成立した。「ヨショア記」に記された「カナン征服」は、後期青銅器時代のカナン南部のパレスティナ地方で、共通の宗教と伝統を持った部族集団がお互い同士、あるいは辺境の地から来た無法者たちと呼ばれるハビルの一部と結びついて一団となり、協力し合ってこの地を自分たちのものだと主張し始めた。この征服は完了するまでに200年(BC1200年~BC1000年ごろ)を費やして、ヨルダン川の両岸を手に入れた。この時期には各部族は宗教的指導者である士師ししの下で独自色を持ちながら、軍事的・宗教的に緩やかな連合を形成していた。


BC1000年~BC926年(統一王国時代):完全な鉄器時代

 土着の住民との戦いもあれば、ペリシテ人との戦いもあって、挫折や成功もあったが、最後の士師サムエルは王を立てるという民衆の要求に応じて、ベニヤミン族のサウル(在位:BC1020年~BC1000年ごろ)を初代の王に指名した。しかし、サウルがギルボア山での戦いでペリシテ軍に敗北すると、部族連合の人びとはユダ族のダビデ(在位:BC1000年~BC960年ごろ)の下に結集した。ダビデは推挙されて、南イスラエルのユダ族の王となり、さらに北イスラエルの10の部族を統合し、BC993年に統一イスラエル王国を誕生させた。ダビデとその子ソロモン(在位:BC960年~BC920年ごろ)は従来の部族組織や部族間の忠誠心を目立たなくした。そしてカナン南部の町々を征服し、北はオロンテス河畔から南はアカバ湾に至る統一王国を創りあげた。


BC926年~BC722年(王国分裂)

 リビア系のエジプト第22王朝初代のショシェンク1世(BC945年~BC924年)はカナン南部のパレスティナへ侵攻して、再びエジプトの支配下に置こうとした。そのためダビデ朝のイスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、それは約200年間(BC926年~BC722年)続いた。BC732年ごろ北のイスラエル王国は、旧約聖書ではプルと記される新アッシリアのティグラト・ピレセル3世(在位:BC744年~BC727年)に屈辱的な敗北を喫し、領土の大半を失う。


BC722年~BC598年(南王国ユダだけの時代)

 新アッシリアのサルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)がBC722年に北のイスラエル王国を領土に組み入れた時、南のユダ王国の預言者イザヤは国を正しく導くために召命された。BC701年、新アッシリアのセンナケリブ(在位:BC704年~BC681年)はユダ国の反乱を鎮圧し、莫大な賠償金を課して属国とした。このとき、ユダ国と同盟関係にあったエジプト第25王朝ヌビア朝の軍勢が出陣したが、エルテケでの会戦で敗れている。その後、BC622年には「律法の書」を公布してユダ国の基本法とした。その目的はいにしえのモーセの律法制定を権威付け、国家責任に対する預言者の教義を聖典化し、またユダ王国の政治的独立を表明することであった。つまり、それまで新アッシリアと結んでいた臣従の誓いをそのまま用いて、新アッシリアの代わりに「神」と臣従の誓いを立てたのである。実際、アッシリアはこの時は既に西方を支配する力を失っていたので、ユダ国は改革を遂行し、支配権を広げて元の北王国の領土まで回復することができた。BC7世紀後半にアッシリアの勢力が減退するなか、BC612年に新バビロニアが新アッシリアに代わり西アジアの主導権を握った。このバビロニアにおける混乱に乗じてエジプト第26王朝のファラオ、ネコ2世(在位:BC610年~BC595年)は北方へ侵攻し、BC609年にユダ王国のヨシュア王をメギッドで攻め滅ぼし、次はバビロニア軍とカルケミシュでBC605年に直接対決することになった。


BC598年~BC538年(バビロン捕囚)

 BC605年、新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)は、シリア・パレスティナの覇権を求めたエジプトをカルケミシュの戦いで打ち破り勝利すると、BC598年にエルサレムを攻略し、翌年のBC597年に貴族層を捕囚とした。これが第1回バビロン捕囚である。このとき国外追放を免れたユダ地方の住民は新しい指導者たちの下に団結した。その後、反乱が起きた首都エルサレムをネブカドネザル2世は2年間にわたって包囲し、BC587年には陥落させ、ソロモン神殿を含めてエルサレムを破壊し、今度は上流市民層すべてを捕囚とした。これが第2回バビロン捕囚である。新バビロニアの後、西アジアの支配者となったペルシャのキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)はバビロンに居住する捕囚民を許し、エルサレムに帰郷して神殿を再建するように励ましさえした。捕囚の民の多くはバビロンに留まったが、忠誠心の強い者はBC538年に帰還して国家と神殿の再建を始めた。キュロス2世はメシア(救世主)と呼ばれた。旧約聖書のエステル記は、そのときに帰還した一部の捕囚者たちによって完成したようだ。


 ***


(BC1200年以前)


 長い間、多くのヨーロッパ人にとってキリスト教が誕生する以前の歴史は、ユダヤ人の歴史と彼らが語る他民族の歴史に他ならなかった。つまり旧約聖書の記述が、すなわち歴史を意味していた。ユダヤ人は抽象的な神という概念に最初に到達し、偶像崇拝を最初に禁じた民族だった。特に目立つ存在でもなかった民族が、これほど後世に大きな影響を及ぼした例は他にない。ユダヤ人の起源は、さまざまな学者が研究を重ねたにもかかわらず、まだあいまいな点が数多く残されている。

 BC2000年紀、主として楔形文字文書の中にアッカド語でハビル、シュメール語でサ・ガズと呼ばれる人びとのことが言及されている。後者は「追い剥ぎ、街道の盗人」を意味する蔑称で、ハビル「辺境の地から来た無法者たち」も同様に蔑称である。彼らは流浪民で、群れを作って居住地を定めずに生活する人びとだった。彼らは時には山賊行為を働き、時にはどこかの都市の人びとに奉仕していた。また傭兵として活躍したり、あるいはよりおとなしい仕事に従事するため、市民の居住域からやや離れた所に小集落を作って住み着いたりしていた。BC14世紀中葉の国際外交文書の中で、彼らのことは頻繁に問題にされている。そのころ彼らはシリア地域に単独で、あるいはさまざまな小国の王に仕える形で姿を現し、この地の宗主国であったエジプトのファラオと敵対したと思われる。研究者たちはその名前から推測して、ヘブライ人の先祖ではないかと疑っていた。事実、音声面からはハビルは容易に「イブリ」あるいは「へブル」と結びつけることができる。イスラエルの人びとは旧約聖書の中では、ヘブライという名を外国人の前でしか使用せず、内輪では決して自分たちを指すために使おうとはしなかったが、実際にはかなり早い時期からこのような名称で外部からは呼ばれていたようだ。

 ヘブライ人はアラビア半島で遊牧生活を行っていたセム語族の一派で、セム語族は先史時代から歴史時代にかけて、「肥沃な三日月地帯」に何度も侵入を繰り返している。彼らの社会は族長制であり、その伝統は旧約聖書の中のアブラハムとイサクとヤコブに関する物語からうかがうことができる。この3人の族長に実在のモデルがいたとすれば、彼らが生きた年代はBC1800年ごろであり、その物語はBC2000年ごろのウル第3王朝の滅亡に続くBC20世紀からBC18世紀初頭にかけてのアムル人の時代と呼ばれるメソポタミアの混乱期の中で進行したことになる。この時代は、シリア砂漠の外縁地域からメソポタミアとシリア各地に定住したセム系のアムル系の人びとがいくつかの王朝や都市国家を建てた時代で、移動せざるを得なかった状況に置かれた人びとも多かったと思われる。そうした人びとの中に、後にヘブライ人として知られるようになる一群の人びとがいた。彼らが歴史に登場するのはパレスティナ地方と呼ばれるカナン南部の地に定住してからずいぶん後のBC13世紀ごろの出エジプトであるが、エジプト脱出の出来事については、エジプト側にそれを傍証する史料がないので、本当にあったのかという疑問がある。一説によると、ラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)の時代とする説もあるが、推定の域を出ない。彼らは自らを3代目の族長ヤコブの別名に由来するイスラエル人と呼ばれることを好み、また後にはユダヤ人と呼ばれることも多くなった。ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人、この3つの名称はほぼ同じものである。

 旧約聖書でアブラハムの子孫が最初に登場するのがカナンの地で、彼らは遊牧民であり、部族ごとに別れて暮らしていた。井戸や牧草地をめぐってしばしば先住民ともめ事を起し、干ばつや飢饉が起これば、暮らしの糧を求めて中東各地を転々とする生活だったようだ。そのうちの一つの部族がBC17世紀の前半にエジプトのデルタ地帯に移住した。旧約聖書によれば、それはヤコブの一族であり、ヤコブの息子ヨセフがファラオの宮廷で宰相になったという話が出てくるが、それを裏付ける方法がないないので事実かどうかわからない。ヨセフの一族がナイル川下流のデルタ地帯に寄留したのは、BC1620年ごろで、それはアヴァリスを本拠とするエジプト第14王朝(BC1750年~BC1650年)から第15王朝(BC1650年~BC1550年)の時代で、当時のエジプトはパレスティナと、さらにその先の地域を支配していた可能性がある。その後、ヨセフの一族のエジプト滞在はおよそ400年にわたって続いた。


 BC1200年以前のヘブライ人の歴史はすべて伝承によるもので、それを裏付ける史料はない。旧約聖書が現在の形に編集され始めるのはBC7世紀からで、ヨセフの物語から約900年も後のことである。当時のヘブライ人はメソポタミアやエジプトの大国の支配者から見れば取るに足りない存在だった。ところが、この小さな部族の宗教がやがて世界を揺るがすことになる。そこから発展したキリスト教とイスラム教が人類の歴史で屈指の大宗教となったからである。当時のヘブライ人はメソポタミアやエジプトの大国の支配者から見れば、まさに取るに足らない存在だった。しかしそのヘブライ人が、やがて独自の宗教観を生み出し、歴史に大きな足跡を記すことになる。

 ユダヤ教以前にも西アジアやエジプトには常に一神教的な思想を育む土壌が存在していた。バビロン第1王朝の崩壊後、この地域を頻繁に襲った災害や動乱を思えば、伝統的な神々に対する疑念が生まれたとしても不思議ではない。エジプトのアクエンアテンの宗教改革や、バビロニアのマルドゥク信仰は、いずれもそのような社会不安を背景に起こったものと思われる。しかし多神教と土着の信仰を乗り越えて純粋な一神教を確立したのはヘブライ人だけだった。これは世界史上特筆すべき大事件となった。

 ヘブライ人の宗教は、もとは多神教だったが、同時に一神崇拝でもあった。つまり他のセム語族と同様に、多数の神々の存在を認める一方で、自らが崇拝する神は一つだけだった。一神教になるきっかけは、おそらくエジプトで奴隷的な身分にあったとき、部族神であるヤハウェだけを崇拝すれば、ヤハウェ神との契約によって約束の地カナンに連れ戻してもらえると信じるようになったことと思われる。この「ヤハウェ神と交わした契約」という概念が、その後のヘブライ人の信仰の基本となった。ヘブライ人は、神と契約を交わした自分たちが神のために何かを行えば、それは必ず望ましい結果を生み出すと信じるようになった。これはメソポタミアやエジプトの宗教には全く存在しなかった考えだった。


[ヤハウェ神]

 ヤハウェは万物の創造主であり、全能で不滅の神だった。また、信仰心のない者には死をもたらし、敵を滅ぼす一方で、信心深い人びとには恵みを与えてくれる神でもあった。ヤハウェはヘブライ人に、彼らを勝利に導く救世主を送ることを約束したと信じられていた。BC8世紀以降、予言者たちは、ヘブライ人を襲った数々の不幸は、神との契約を尊重しなかったためにヤハウェから下された罰だったと説いた。さらに預言者たちは、苦難を通してヘブライ人は清められ、来たるべき栄光に向けて準備をしており、その栄光が最高潮に達したとき、ヤハウェは人びとの前に姿を現すだろうとも説いた。ヤハウェ神は他の神を信じることを許さない神であったため、ヘブライ人は他の民族の神々を軽蔑するようになり、一神教の成立に大きく近づいて行った。さらに、ヤハウェ神の偶像を作ることを一切禁じた。これも他の部族神とは異なっていた。そして、ヘブライ人の神は万物の創造者であり、人間を自分に似せて作ったとした。神にとって人間は奴隷ではなく、友人のような存在であり、また人間は神が作った最高の作品であり、神と同じように善悪を判断することができると考えられていた。そして、ついに彼らは神以外に正しいものはないと信じるようになった。人間が作る法律は、神の意志を表している場合も、そうでない場合もある。しかし、神は常に正しく、神だけが正義を定めることができる。さまざまな苦難に見舞われたイスラエルの民はそう信じるようになった。こうして始まったヘブライ人の宗教思想ははっきりとした形になるまでに数世紀を要し、その世界史上の重要性が明らかになるまでには数千年を要した。



(BC1200年以後)


 イスラエルという名前を記した最も古い碑文は青銅器時代の最末期(BC1200年ごろ)のものである。アッシリアの歴史家たちがさまざまな手段でアッシュール神を中心とする社会の状況を記述したと同じように、聖書の記述者たちもイスラエルの神に対する信仰と信者たちの面からイスラエルの歴史を書き記したのである。聖書には、イスラエル史に先だって、「創世記」に記録された出来事、つまりメソポタミアにおける人類の太古の物語から、シリア・パレスティナを放浪した族長たちの物語を経て、エジプト移住までを取り上げている。そしてモーセ五書に記されている「出エジプト」「シナイ山でのお告げ」「荒野放浪」の伝承へと続いていく。特に「出エジプト」は後代のイスラエル人たちの信仰や思想に非常に大きな影響力を持っている。なお、ユダヤ教を始めたとされる伝説の人モーセはエジプト風の名前であり、モーセがアテン神やマアト(真理・正義・秩序)の影響を受けていた可能性が指摘されている。

 また「ヨショア記」に記された「カナン征服」は、後期青銅器時代のパレスティナ地方で、共通の宗教と伝統を持った部族集団がお互いに協力し合ってこの地を自分たちのものだと主張し始めたということである。この征服はBC1200年ごろに始まり、完了するまでに200年を費やし、BC1000年ごろになって初めて、ヨルダン川の両岸を手に入れたのであった。この時期には各部族は、その時々の士師ししの下でそれぞれ独自の個性を保っていた。士師たちは時にはたくさんの部族を束ねることもあったが、世襲の王権については仮に提供されたとしても頑なに拒否してきた。その代わりとなる政治の基本原理は、ある意味で軍事的な、ある意味で宗教的な面を持つ緩やかな連合を形成することであった。

 こうした緩い部族連合はデボラやギデオン、そしてサムソンといいったカリスマ性のある指導者の下ではある程度うまく機能していた。土着の住民との戦いもあれば、同時期にこの地に足がかりを求めてやって来た他の新参者たち、特にペリシテ人との戦いもあって、数々の挫折や成功もあったが、結局はもっとうまくいく政治組織を求めるようになった。そこで最後の士師サムエルは、「今こそ他の全ての国々のように我々のために裁きを行う王を立ててください(サムエル記)」という民衆の要求に応じざるを得なくなってしまった。サムエルが初代の王に指名したのは、ベニヤミン族出身のサウル(在位:BC1020年~BC1000年ごろ)だった。しかし、サウルがギルボア山での戦いでペリシテ軍に酷い敗北を喫すると、部族連合の人びとはユダ族のダビデ(在位:BC1000年~BC960年ごろ)の下に再び「連合王国」を形成し、ダビデとその子ソロモン(在位:BC960年~BC920年ごろ)は、北はオロンテス河畔から南はアカバ湾に到るまでの広大な王国を創りあげたのである。軍事的な征服や外交的な同盟、海上交易などを駆使して国際社会で指導的立場を築き上げ、内政では行政区を王に直結させるという新しい組織によって、従来の部族組織や部族間の忠誠心を目立たなくしてしまった。ダビデのエルサレム攻略やソロモンの第1神殿建設にはそうした意図があったのであり、同時にそれは聖職者階級を王権に従属させることになり、政治権力と宗教的な信仰心とを一元化したのである。イスラエル人たちが海外交易や対外戦争で得た富で潤うと、都市化が始まった。そして士師時代には持ちこたえていた他のカナンの町々を征服したのである。

 こうしたイスラエルの隆盛はバビロニアやアッシリア、そしてエジプトも皆同時期に衰退していたからこそ実現できた。南北に分裂していたエジプトの第21王朝(BC1064年~BC940年)はダビデ朝の諸王に暗黙の支持を与えて満足していた。なぜなら、沿岸地方のペリシテ人やヨルダン地域のシャス人など近隣からの攻撃の防波堤になってもらいたかったことがあり、また伝統的なフェニキア連合の良きパートナーでもあったからである。シリア・カナン地域でエジプトの支配権が急速に衰退したことは「ウェンアメン航海記」に鮮明に描写されている。ところが、第22王朝(BC945年~BC715年)と第23王朝(BC818年~BC715年)と相次いで興ったリビア系王朝の下で、エジプトが短期間ではあるが国力を回復し、第22王朝初代のショシェンク1世(BC945年~BC924年)はカナンに対するエジプトの権利を再主張するようになり、カナン南部のパレスティナへ侵攻してきた。この時、イスラエル統一王国北部の10部族が別の王国を樹立した。こうして、BC926年、ダビデ朝のイスラエル統一王国は南北に分裂し、それは約200年間(BC926年~BC722年)続いた。そうはいっても、この国家分裂で二つの部族集団に分かれた者たちが永遠に袖を分かったというわけではない。両者は共通の遺産を引き継ぎ、ある程度似通った祭礼を行っていたし、また両国の王家は婚姻政策や条約提携などで結びついていることが多かった。

 エジプトのリビア系王朝は、次のヌビア系の第25王朝(BC721年~BC656年)に追い払われたが、その第25王朝もアッシリアのエサルハドン(在位:BC680年~BC669年)によるエジプト征服(BC671年)で従属国になっている。エジプトのデルタ地帯西部のサイスに本拠を置く第26王朝(BC664年~BC525年)はアッシリアのアッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)に臣従することでやっと存続していた。


 この時代に、堕落した多神教の祭式に侵されない厳格な一神教への思い、経済的発展と都市化に伴う社会的不正義や経済的搾取に反対する気持ち、などを代弁してくれる預言者といわれる人びとが登場した。彼らは、もともとは「奇跡を行う人」であり、教師でもあったが、最後は王にとっても聖職者にとっても反対勢力に回った。BC8世紀のアモスやホセアに始まる彼らの説教は「預言文学」という形式でまとめられている。こうした預言の書に記された高い道徳志向、預言者たちの政治的実行力、彼らが唱えた新しい普遍主義といったものから聖書の宗教性や聖書から派生したさまざまなものすべてが形成されていった。新アッシリアのサルゴン2世がBC722年に北のイスラエル王国を領土に組み入れた後、南のユダ王国の王ヒゼキア(在位:BC715年~BC689年)は預言者イザヤの提言を受け入れた。それは国を正しく導くために宗教改革を行うことだった。その後、紆余曲折があったものの、BC622年には「律法の書」を公布してユダ国の基本法とした。その目的はいにしえのモーセの律法制定を権威付け、国家責任に対する預言者の教義を聖典化し、またユダ王国の政治的独立を表明することであった。つまり、それまでアッシリアと結んでいた臣従の誓いをそのまま用いて、アッシリアの代わりに「神」と臣従の誓いを立てたのである。実際、アッシリアはこの時は既に西方を支配する力を失っていたので、ユダ国は改革を遂行し、支配権を広げて元の北王国の領土まで回復することができた。


 BC669年、アッシリア王エサルハドン(在位:BC681年~BC669年)は、その王位を継承するにあたり、王国をアッシリアとバビロニアに二分して二人の息子に与えた。しかし、バビロニア側が反乱を起した。BC648年に鎮圧されたが、以後、アッシリアの国力は衰退していった。アッシリアの衰退はユダ国に有利だったばかりでなく、エジプトやバビロニアにも有利であった。さらにより遠方に姿を現した大国メディアやペルシャ人たちにとっても有利に働いた。

 BC7世紀後半にアッシリアの勢力が減退すると、エジプト第26王朝のファラオ、ネコ2世(在位:BC610年~BC595年)は北方へ侵攻し、ユダ国を撃破し、次はバビロニア軍とカルケミシュでBC605年に直接対決することになった。新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)はカルケミシュで勝利すると、BC598年にエルサレムを攻略し、翌年のBC597年に貴族層を捕囚とした。これが第1回バビロン捕囚である。このとき国外追放を免れたユダ地方の住民は新しい指導者たちの下に団結した。その後、反乱が起きた首都エルサレムをネブカドネザル2世は2年間にわたって包囲し、BC587年には陥落させ、ソロモン神殿を含めてエルサレムを破壊し、今度は上流市民層すべてを捕囚とした。これが第2回バビロン捕囚である。


 しかし、バビロンでの捕囚生活はエルサレムに取り残された人びとの困窮生活に比べれば楽であったようだ。ネブカドネザル2世の治世が終わると、政情不安となり、新バビロニアは100年足らずで没落した。その代わりにメソポタミアの支配者となったのは、BC6世紀中葉にイラン高原においてメディアを破り、急速に台頭したアケメネス朝ペルシャのキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)であった。キュロス2世はメディアに続き、アナトリアのリュディアを征服し、BC539年にはバビロンに入城して、イラン高原とアナトリアも含めた西アジア全土を手中に収めた。キュロス2世は捕囚民を許し、エルサレムに帰郷して神殿を再建するように励ましさえした。しかし居心地の良いバビロンに留まったものは多くいたようだ。次に、キュロス2世の息子であるカンビュセス2世(在位:BC530年~BC522年)はBC525年にエジプトを征服して、第26王朝を滅亡させ、ナイル川をずっと遡ったヌビアとの国境付近のアスワン近くのエレファンティネ島にイスラエル人傭兵を配備した。こうしてアケメネス朝ペルシャはユダ国の住民も離散民も共に支配下に置き、事実上初めて西アジアとエジプト全域を領有し、大帝国を創りあげた。その次のダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)はペルシャ帝国の絶頂期を築き、ベヒストゥーンの岩壁に後世に残る記念碑を刻ませた。この碑文は19世紀に解読された楔形文字の鍵として役立った。



(ユダヤ教と旧約聖書)


 壮大な旧約聖書のストーリーは、ユダヤ人の現実の歴史体験の中から生まれたものだった。BC10世紀に繁栄したソロモン王の治世を最後に、ユダヤ人は大国のはざまで翻弄され、さまざまな苦難を強いられることになる。そうした体験を経ることで、異国人に対する不信感と、困難に打ち勝って生き延びようとする強い意志が培われていった。実際、ユダヤ民族の歴史において最も驚嘆すべき点は、彼らが今日まで存続したという事実にほかならない。BC587年、ユダ王国は新バビロニアの攻撃を受け、神殿を破壊された後に多くの住民が捕虜として連れ去られた。この過酷な体験、バビロン捕囚が民族のアイデンティティを形成する上で決定的な要因となり、同時にユダヤ人の歴史観も形成されることになった。

 捕囚として連れ去られた人びとは、バビロンにいる間にエゼキエルなどの預言者たちから、神との契約が復活することを告げられる。神殿の破壊と捕囚という悲劇は、信仰を疎かにした彼らユダヤ人に対して神が下された罰であった。しかし今、神が再びユダヤ人を許されるときが訪れようとしていると、予言者たちは説いた。遠い昔にイスラエルの民がエジプトからの脱出に成功したように、自分たちもいつかバビロンを抜け出してエルサレムに帰り、神殿を再建できるときが訪れる。つらい異国での生活を送るユダヤの人びとは、そのことを信じたのだった。預言者たちの話に耳を傾けたのは、おそらく一部のユダヤ人だけだっただろう。しかし、その中には有力な指導者が含まれていたのである。

 捕囚の経験はユダヤ人の思想に大きな影響を与えただけでなく、日々の生活にも変化をもたらした。なかでも重要だったのは、従来のような神殿における祭儀ではなく、「聖典」を読むことが信仰の中心に据えられたことだった。旧約聖書が最終的に完成するのは、捕囚から解放されてから300~400年後のことだが、「律法」と呼ばれる最も重要な部分は、バビロンからBC538年に帰還した後、まもなく完成したようだ。神殿が破壊されていたので、人びとは神殿で祭儀を行う代わりに、週に一度集会を開き、聖典の朗読と説教に耳を傾けるようになった。こうした集会の中から、シナゴーグ(会堂)、つまりユダヤ教の礼拝所における礼拝の制度が確立し、信仰が神殿における祭儀の束縛から解放されるようになる。その結果ユダヤ教は、ユダヤ人が集まって共に聖典を読むことのできる場所なら、どこででも信仰を続けることできるようになった。ユダヤ人は「聖典」を持った最初の民族であり、その伝統の上にやがてキリスト教とイスラム教という二つの世界宗教が誕生する。聖典をもったおかげでこれらの宗教は、神を高度に抽象化し、地域性の束縛から逃れて世界中に広まっていくことができた。



(ウガリトとイスラエルの類似性)


 北シリアのウガリト遺跡から発見されたウガリト文書は、ごくわずかの奉納碑文、大量ながらもそのほとんどが短い経済文書、比較的少量の法的文書や手紙に加えて、大量の宗教文書群だが、その中で意外に高い割合を占めたのが、神話や叙事詩の詩文文書だった。その中でも最も重要なのは、次の以上の3つである。

 ・天候神バァールをめぐる神話的物語群

 ・伝説上の王ケレトを主題とする叙事詩

 ・同じく伝説上の王ダニイルとその息子アクハトを主題とする叙事詩

 この神話と叙事詩が物語るのは、魅力的であると同時に残酷でもある神々の世界であり、人間と神々の関係であり、王でさえ手に入れることのできない人間の不死性の追求の挫折だ。内容だけでなく、文書の形式も魅力的で、これらは韻律規則に則った詩文で書かれている。その詩文は形の整った詩の単元から成り立っていて、それを構成する最小単位はコロンと呼ばれ、その文体はコロン全体あるいはその一部の語句を異なった語彙をもって同意反復する表現法である。

 ウガリトの文学と宗教の魅力は、それを通して古代レヴァント、つまり古代カナン地域全体に広がっている伝統、それはある意味において旧約聖書文学の先触れと見なしうるとできるという点にある。ヘブライ人の起源問題、そして旧約聖書の宗教の起源や展開の問題も、ウガリトの発見を通して明らかになったカナン世界の再発見と密接に結びつけられた。そして驚くべきことに、ヘブライ人は民族的にも言語的にも多かれ少なかれカナン世界の完全な構成要素であったということ、また旧約聖書の中に行きわたっているイスラエルとカナンの対立は、比較的新しい宗教的視点であるヤハウェ信仰に基づく意図的主張であったということがわかってきた。イスラエルとカナンの関係に関するこれらの議論は、聖書学の全く新しい段階の開始を促し、それによってイスラエルと古代メソポタミア文化との関係がより強調されるようになった。

 北西セム語の研究者であるドイツ人ヨーゼフ・トロッパーによれば、ウガリトとイスラエルは言語、民族、そして文化宗教においても類似性があると分析している。そして、それはBC2000年ごろに始まるウガリトから、長い時間にわたって影響を受け続けたイスラエルの民ヘブライ人がBC6世紀のバビロン捕囚期以降に一神教へと至る要因ともなったと述べている。


<ウガリト語とヘブライ語の類似性>

 ヘブライ語はセム系言語系統の一つである、いわゆるカナン語に属する。フェニキア語やカルタゴのポエニ語、東ヨルダン方言であるモアブ語・エドム語・アモン語もそこに属する。ウガリト語はカナン語の近接言語で、北カナン語と見なされる。ウガリトは中期青銅器時代(BC2100年~BC1600年)には存在していた。言語の文法体系から見れば、最も古いカナン語の一つであるウガリト語と、ヘブライ語などのカナン諸言語は北西セム語という言語系統にまとめられる。また、民族的にもウガリト人は概ねイスラエルのカナン人と同じと考えられていることから、文化的にも類似性があると思われる。


<ウガリトの神々の世界と聖書の神々の世界との関連性>

 ウガリト文書に登場し、独特の個性を持った存在として描写されているほとんどすべての神々は、旧約聖書の中に同じ名前と機能を持って言及されている。


[ウガリトの神]

 エル:世界の創造者、人類の父、パンテオン(万神殿)の最高神

 バァール:祭儀において天候神であり、雨をもたらす神

 モート:冥界の神

 ヤム:海を支配する神

 シャプシュ:太陽神

 ヤリフ:月神

 アシュラ(女神):エルの妻であり、神々の創造者

 アナト(女神):バァールの愛人

 アシュタロテ(女神):戦いと愛の女神


[旧約聖書の列王記下23]

 王(ヨシュア)は、ヤハウェの神殿からバァール、アシュラ、天の万象のために作られた全ての者を取り除くように命じた。・・・また彼は女たちがアシュラのためにヴェールを織っていた神殿、男娼の家を破壊した・・・彼はアシュタロテやシドンの神々の高き所を汚した。


 反対に聖書の神ヤハウェは、ウガリトの文書にも、他のカナンの都市国家の神々のリストにも現れない。それはヤハウェの神格が、カナンにその範例を求められるべきではないことを意味している。ウガリトの文書と聖書の本文には、多くの共通した宗教的モチーフ(題材)や言葉遣いがあり、その中で最も重要なモチーフの一つは、神々のモチーフ、すなわち天の会議である。


[旧約聖書の詩篇82:1]

 神は神々の会衆の中に立つ。

 神は神々の真ん中で裁きを下す。


 ウガリトにおいてはエルが、聖書においてはヤハウェが、この神々の集会の主宰神として機能している。聖書の中に頻繁に出てくるこのモチーフは、一般に古代シリア・カナン神話、その中でも特にウガリト神話と聖書との密接な関係に対する明白な証拠である。ウガリトと聖書の神々の世界が多くの点で一致する一方で、ウガリトにおいてはエル神が重要な位置を占めることから、次のような推測がなされている。つまり、聖書に独特な唯一神信仰の発達は次のように説明される。イスラエルでは、イスラエル固有の神ヤハウェが、古くからのカナンの最高神エルの地位を踏襲してその宗教的特質を受容し、その結果としてパンテオンの他の全ての神々からもそれぞれの機能と意味を奪い取ったのだということが、広く受け入れられている宗教的理解である。

 しかしながら、BC10世紀以後の状況は異なっている。フェニキアの宗教においてもアラムの宗教においても、もはやエルは最高神の位置を占めていない。バァールでさえこの機能を引き受けていない。フェニキア語やアラム語の古い文献においては、最高神は地域によって異なった現れ方をしている。ところが、その後また状況が変わり、全く新しい最高神が登場して、フェニキアやアラムのほとんどの都市国家のパンテオンの頂点に立つことになる。それが「天のバァール」で、普遍神としてさまざまな神々の特徴を自らに集中させていく。この神は古いエル的伝統やバァール的伝統を最終的に解き放ち、徐々に地域神的伝統に集中することによって、後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の多神教自体を駆逐していったのである。イスラエルにおいてヤハウェが最高かつ唯一の神へと上り詰めた経緯は、初めは徐々に、そして2回におよぶバビロン捕囚期(BC597年~BC539年)、およびそれ以降の時代に決定的になったのであり、そのことはBC6世紀以降になってから、「天のバァール」の普遍的な特質と神観念から影響を受けて形成されたと考えられる。

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