第91話 19世紀からの古代文字の解読ラッシュ

 14世紀~16世紀、ルネッサンスと啓蒙の時代に古代文明に対してかなり学問的な関心を寄せた西洋の人びとも、古代世界については19世紀になるまでごく限られた知識しかもっていなかった。ところが、19世紀にはエジプトの過去を秘めていたヒエログリフ(神聖文字)を解く鍵が発見されただけでなく、長年の謎となっていた楔形文字がついに解読され、失われた言語と民族と文化とが明るみにされた。それまで古代世界についての資料といえば、ギリシャ人が書き残したものと聖書だけという貧弱な状態だったが、この輝かしい学問上の功績により、それらの資料よりさらに約2000年におよぶ人類の歴史が付け加えられたのである。


 最古の粘土板はユーフラテス川下流のウルクから発掘されたBC3300年のものである。メソポタミアで発見された多くの粘土板には楔形文字の前身である絵文字が刻まれている。この最古の絵文字は省略の多い絵で、その多くに数を表す記号が付いている。これらは明らかに家畜や穀物などの財産を管理するための記録である。後の絵文字は描かれた内容と同時に、音声を表すようになっている。そして絵文字が楔形文字へと発展するにつれて、文字を中心とする文明社会の基礎が固まっていく。像や壺、聖なる石など神々に供えるものに、寄進者の名前や地位、業績が刻まれる。これが文字による歴史の第一歩である。BC2500年ごろには、土地の売買などの契約書が現れている。BC2335年、アッカドのサルゴンがシュメール地方の大半をその支配下に置いた。これ以降、アッカド語で書かれた楔形文字の記録が次第に増えていった。ところが、ウル第3王朝時代(BC2112年~BC2004年)になると、ものを書くことが盛んになり、シュメール語の学校は学識の中心地となっていった。その時代の文書は膨大な数出土しており、その中の一つが世界最古の成文法、シュメール王ウルナンムの法典である。その後、バビロニアの覇権を握ったバビロン第1王朝(古バビロニア時代)やそれに続く古アッシリアなどの王朝の文書の大半はアッカド語で書かれている。BC15世紀になると、楔形文字はメソポタミア以外のシリア、パレスティナ、さらにエジプトでも使用されるようになった。文書の多くはアッカド語で書かれたが、それは当時アッカド語が西アジア世界の国際語となっていたからである。しかし、この頃には、ヒッタイト人やフルリ人などの他の民族も自分たちの言葉を記すために楔形文字を借用し、ときにはそこに改良を加えて使っている。レヴァント地方にあった都市ウガリトでは、30の楔形文字からなる原始アルファベットが使われた。楔形文字文書についての最大の発見の一つは、アッシリアの首都であったニネヴェで、1850年代に発見されたBC7世紀の新アッシリアの王アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)の図書館である。ここから出土した2万5000にもおよぶ粘土板には、文学や宗教作品、書簡や呪文、天文学、医学、辞典などさまざまな分野の著述が、シュメール語とアッカド語を併用して記されている。この発見はシュメール語とアッカド語の解読と翻訳において測り知れないほど役立ったうえ、考古学者を刺激して、多くの遺跡の発掘に向かわせた。

 文明の成立を可能にした人間の発明品として、真っ先にあげなければならないものは文字である。それは人類にとって農耕牧畜の開始に匹敵するほどの大発明だった。文字がなければ歴史もなかったことを考えると人類最大の発明と言えるかもしれない。文字の発明ほど人間の生活に文明の光をもたらしたものはない。今から5000年以上の昔、人間はこの大きな一歩を踏み出して、思想や経験を有効に活かし、苦労して得た知恵を後世に伝えられるようになった。それは複雑な社会を維持していくためには不可欠のものである。古代世界において文字の重要性が高まると、書記という専門の職業が誕生し、学校も設立された。



(楔形文字とヘンリー・ローリンソン)


1)初期の解読者たち

 この忘れられたメソポタミアの地とその文字を最初に再発見したのは、スペインのラビでトゥデルのベンジャミンという人物で、ラビ仲間を訪ねて旅に出て、1160年ごろモスルに来てニネヴェの廃墟を発見した。彼はこのことを著述したが、それが関心を呼び起こすには至らなかった。その後、旅行者たちは少しずつニネヴェを訪れるようになり、メソポタミアばかりでなく、さらに足を延ばしてイランの南部、特に古代ペルシャの都だったペルセポリスにある壮大な遺跡に行き着くようになった。ペルセポリスはアケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)が建設に着手し、ペルシャ帝国歴代の王の都となってきた都市だ。1618年に発見したのはペルシャ駐在のスペイン大使ガルシア・シルヴァ・フィゲロアで、彼は古代ギリシャ・ローマの著述家たちの記述を基に、シラーズ近郊の素晴らしい遺跡群が古代都市ペルセポリスであることをつきとめた。その遺跡でいくつもの碑文を目にした彼は、それらが「現存する、あるいはかつて存在したことが知られているどんな民族にも属さないもの」と結論した。その文字は、アラム語でもヘブライ語でも、ギリシャ語でもアラビア語でもなかった。

 楔形文字に目を奪われそのいくつかを写し取ったのは、ローマの人ピエトロ・デッラ・ヴァッレで、それは1621年ごろのことだった。その時以来、ある種の関心を引き起こしたが、それは一般の人びとの間に広まることはなかった。しかし、1772年にデンマークの冒険旅行家で学者でもあったカルステン・ニーブールが、碑文の多くが同じ内容を写したものであることに気づき、それらを比べてみることにした。そして彼は楔形文字に3通りの書き方があることを明らかにした。本格的な解読が始まるのは1800年以降になるが、その土台を築いたのはニーブールだった。その後、研究者たちは最も印象的なペルセポリスの碑文が、同じ楔形文字でありながら3種類の文字、3つのタイプの碑文があり、記号の総数がそれぞれおよそ40、100、そして500ほどに分かれていることに気づいた。研究者たちは第1の種類のみがアルファベット文字の可能性があると考え、それに挑み始めた。1830年を過ぎたころ、メソポタミアの地そのもの、とりわけその地下から掘り出されるものについての関心が沸き起こり、遺跡の発掘が始められるようになった。

 1804年にペルセポリスの第1の文字の解読に挑んだのは、ドイツ中部のゲッティンゲンの若きラテン語教師ゲオルグ・グローテフェントだった。彼はこれらの碑文がアケメネス朝ペルシャの王たちの碑文であると確信し、ギリシャの文献に登場するキュロス、カンビュセス、ヒスタスパス(ダレイオスの父)、ダレイオス、クセルクセス、アルタクセルクセスなどの名がきっと含まれていると考えた。そして、彼が解読しようとしている碑文はクセルクセスのためのものであろうという仮説から出発して、ギリシャ語とヘブライ語、そしてアヴェスター語の綴りを調べて碑文の楔型文字と比較した。その中で一番近そうだったのがアヴェスター語だった。アヴェスター語はゾロアスター教の経典に用いられている言語である。そして、ついに何人かの王の名を同定し、読むに至ったが、王の名以外の言葉には応用できなかった。古代ペルシャ語の文字は純粋なアルファベットではなく、一部は音節文字だったからだ。彼は扉を少し開けて、解読作業を正しい軌道に乗せた。しかし、楔形文字の解読を前進させるにはもっと長い碑文が必要だった。この解読作業が終わりを迎えるまでにはなお半世紀という時間がかかった。


2)ベヒストゥーンの碑文から始まる古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語の解読

 楔形文字の解読は、古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語(バビロニア語)でベヒストゥーンの岩壁に刻まれたダレイオス1世の碑文を、イギリスのヘンリー・ローリンソンが1847年に解読したことによって果たされた。イラン高原の中央に位置するエクバタナの近く、「王の道」を眼下に見下ろすベヒストゥーン山の高さ60メートルの岩壁を削って滑らかに磨かれた巨大な壁面に、ダレイオス1世は反乱鎮圧の記録を巨大なレリーフと碑文にして残していた。1850年ごろは文書の解読や発掘調査の成果をまだ活用する段階にはなかったため、ただギリシャ語やローマ(ラテン語)の古典の書物と聖書が手近にあるのみだった。したがって、ヘブライ語やギリシャ語、その他の言葉に訳されている一握りのアッシリアやバビロニアの王たちの名が知られていただけだった。しかもそれらの王たちは新アッシリア時代(BC911年~609年)や新バビロニア時代(BC609年~BC539年)のBC10世紀以降の人物たちにすぎないことを、人びとはやがて知るようになった。

 楔形文字という暗号を解く手がかりをつかんだのは、イギリスの若い将校、ヘンリー・クレスウィック・ローリンソンであった。彼は1826年から1833年までインドに駐在し、その地でヒンドゥー語とアラビア語、そして近代ペルシャ語を学んだ。1835年に、次の赴任先としてペルシャのクルディスタン地方の総督の下に軍事将校として配属された。当時25歳だった彼は軍人であると同時に古典学者であり、ペルシャ語その他の古代語を研究していた。彼はイラン北西部のザグロス山脈の中にあるいわゆる「ベヒストゥーンの岩」に刻まれている長文の碑文に惹きつけられた。その520メートルの大きな岩山の垂直な断崖の下から120メートルの高さのところに巨大な男の像と、幅18メートル、高さ33メートルにおよぶ長文のメッセージが楔形文字で刻まれていた。彼はクルド人の少年を雇い、紙粘土を使って、12年をかけて断崖の文字を写し取った。これは勇気と決断によるとてつもない離れ業だった。そこには3種類の刻文が隣り合わせに並んでいた。それはBC500年ごろに古代ペルシャ王ダレイオスが刻ませた古代ペルシャ語とエラム語、そしてアッカド語だった。古代ペルシャ語はダレイオスの母国語であり、エラム語はペルシャ西部の高地に住む人びとの話し言葉であり、アッカド語はバビロニア人とアッシリア人が使っていたセム系の言葉であった。アヴェスター語とサンスクリット語の知識のあるローリンソンはまず古代ペルシャ語の解読に成功したが、その他の2つの解読は困難を極めた。古代ペルシャ文字解読の意義は、およそ半世紀にわたった天才たちの驚異的な努力の結果、ついに楔形文字という巨塊の入口を探し当てるきっかけを作ったことにある。多数の学者も加わり、まず音節文字であるエラム語が解読され、続いて音節文字と表意文字が混用された複雑なアッカド語も1851年までにはほぼ解読された。そして1857年になって3種ともその解読が公認され、古代文明の謎の一部が解き明かされた。この解読の成果によってその後、多くの楔形文字が矛盾なく読めるようになった。


3)シュメール語の解読

 ローリンソンはまた、ニネヴェから出土した数千枚の粘土板の多くには2種類の文字が書かれており、セム系のアッカド語はその横に書かれた非セム系の文章をただ単に訳しているに過ぎないと指摘した。1869年、パリに住んでいた言語学者、ジュールス・オッペールはこの未知の非セム系言語を使っていた民族の名称をつきとめ、彼らはアッカドに先んじてメソポタミアに住んでいたと発表した。この民族がシュメールと呼ばれる場所に住んでいたことを証明したのである。1877年、メソポタミア南部で初めて大規模な発掘が始まり、オッペールの説が正しいことが証明された。その後、メソポタミア各地でシュメール語が刻まれた粘土板、石碑、彫像、飾り板、土器の破片などが続々と出土した。シュメール人の存在とその言語の自立性、そしてこの地の歴史における彼らの真の地位について決定的な根拠をもたらしたのはフランス人のテュロウ・ダンジャンであった。1905年に刊行された「シュメール・アッカド碑文集」のなかで彼は表意文字、すなわちシュメール語で書かれた王碑文の正確な翻訳を提示した。ここにおいて実質上シュメール語文法の復元が実現したのであった。シュメール語の文法研究はそれ以来大きな進展を遂げた。現在知られている楔形文字文書の3分の1以上を占めるシュメール語文書は、人類史上最初の文明を出現させた時代の歴史の門戸を開いてくれたのである。

 19世紀半ば以前には、シュメール人とシュメール語の存在は全く知られていなかった。メソポタミアで発掘を始めた学識者や考古学者たちはシュメール人を探していたのではなく、アッシリア人やバビロニア人を探し求めていたのであった。彼らのことならギリシャ語やヘブライ語の文献の中にかなりの記述が残されていた。しかし、シュメールという名称そのものが、2000年以上の長きにわたって人類の記憶から消え去っていたのである。シュメール語の解明は、セム語族に属しシュメール語と同様に楔形文字で表記されるアッシリア語の解読を通して実現された。アッシリア語の場合、それはアッカド語のことであるが、ベヒストゥーンの碑文の中に解読の鍵が見つかったのである。それは、ベヒストゥーンという岩壁を削って滑らかに磨かれた壁面に巨大なレリーフが刻まれた碑文で、古代ペルシャ語・エラム語・アッカド語(バビロニア語)で書かれたダレイオス1世の即位宣言でもあった。まず最初に、古代ペルシャ語がイギリスのヘンリー・ローリンソンにより1847年に解読された。彼は先達の学者の成果とゾロアスター教の聖典「アヴェスター」の知識を基に謎を解いた。その後、ローリンソンに加え、アイルランド人エドワード・ヒンクスやドイツに生まれフランスに住んだユダヤ人ジュール・オッペールの手により他の二つの言語も1851年までにはほぼ解読された。しかし、完全に確かなものと認められたのは1857年になってからだった。これは1822年に古代エジプトのヒエログリフを最初に解読したフランスのジャン・フランソワ・シャンポリオンと同じように画期的な出来事であった。

 アッシリア語(アッカド語)はニネヴェ、ニムルドといった遺跡から発掘されて次々にヨーロッパにもたらされつつあった。アッシリア人をセム系人種と考えることにはいくつかの根拠があったことから、それはヘブライ語やアラビア語のようにセム語族に属する言語を表記しているとの結論が引き出された。実際、最初に解読されたアッシリア語は一人称の主格代名詞「anaku」であり、ヘブライ語でもこれに対応する語はほぼ同じである。この同一性と、いくつかの固有の人名や多くの詳細な内容が古代ペルシャ語の銘文から知れたことが、アッシリア語の解読を助けた。

 1851年から1852年にかけてのニネヴェの発掘で、2か国語併記の記録や、音節表音文字表を刻んだ多数の粘土板が掘り出された。その一つはアッシリア語(アッカド語)であったが、もう一つはどのようなものであれ、セム語系銀後の特徴を全く示さなかった。それはセム語のような屈折言語ではなく、膠着こうちゃく型の言語であった。さらに、メソポタミア南部のいくつかの遺跡から、地表を搔き取っただけで無数のレンガや粘土板が発掘され、それらにも楔形文字が刻まれていたが、言語はセム語系ではないことがわかった。したがって、楔形文字による表記法を発明したのは、この非セム語を話した人びとであり、アッシリア人は彼らから表記のシステムを借りたと考えるのが妥当に思われた。当時この未知の言語と民族に対し、さまざまな名前が提唱された。1869年、オッペールはいくつかの王の碑文の中に見られる「シュメールとアッカドの王」という称号を根拠に、アッカドとはセム系の人びとの住む国を指し、シュメールとは楔形文字による表記法を創始した非セム人の住む国のことであるとして見事に決着を下した。このように2000年以上にわたる埋没と忘却の後で、シュメール人とシュメール語とに再び日の光が当てられ始めた。しかし、それまでのシュメールに関する資料はすべてBC1000年紀のアッシリアの遺跡から得られたものだったため、学界に容易には受け入れられなかった。

 1877年、フランス隊がテルロー(古代のラガシュ)で発掘調査を開始し、まもなくBC3000年紀のラガシュの王たちの時代にさかのぼるさまざまなシュメールの記念碑、彫像、石碑、石板、そしてシュメール語の刻まれた何千枚もの粘土板やその破片が掘り出された。シュメール人の存在はもはや疑うべくもなかった。1889年、メソポタミアで第2の重要な発掘、ラガシュの北西100マイルに位置するニップールの発掘がアメリカのペンシルベニア大学によって開始された。この遺跡からは約3万枚の粘土板やその断片が掘り出され、その大多数はシュメール語で書かれており、年代的にはBC3000年紀後半からBC1000年紀後半までの2000年余りにわたっていた。この中に、神話、叙事詩体の物語、賛歌、哀歌、恋愛歌、格言集、争論詩、問答、随筆などのシュメール文学作品が記された3000枚を超える文書が含まれていた。


4)アッシリア学

 旧約聖書の背景にあるものを見通すためには、旧約聖書以前を見なければならない。そうすることによって聖書がより良く理解される。なぜなら、歴史においては常に何かが先行しており、物事はその源まで遡らなければ理解はできないからだ。聖書はセム人の宗教の歴史であり、同じセム人の言葉であるアッカド語で書かれたアッシリア学はその聖書の背景を知ることになる。

 アッシリア学はいつ誕生したのかは明確ではない。1165年ごろスペインのトゥデラの老ベンジャミンが、現在のイラク北部のモスルからティグリス川にかかる橋一つを隔てただけの場所に、すっかり廃墟となった古代アッシリアの首都ニネヴェを発見したときなのか? それともその500年後、ローマの貴族ピエトロ・デッラ・ヴァッレがペルシャからバクダードへと巡った旅行の帰途に、バビロンの廃墟でこれまでに知られていない文字が刻まれたレンガのかけらが散逸しているのを拾い集め、これについて報告したときなのか? 1802年、若きラテン語教師ゲオルグ・フリードリッヒ・グローテフェントがペルセポリスの楔形文字解読のための鍵を発見できたと思われると報告したときなのか? それはシャンポリオンが「象形文字構造概論」を著す20年も前のことだった。そして1856年にロンドンの王立アジア協会が、アッシリア語を理解したと当時自認していた4人の歴史学者に発見されたばかりの長文の碑文の解読を別々に委ね、その結果が大筋で一致した時点でアッシリア学は独立した学問として第1歩を踏み出した。

 アッシリア学の場合、過去の歴史を辿るに際して、考古学者が扱う遺跡・遺物資料と並んで、文献学者が扱う文字資料をも利用できるという計り知れない特典に恵まれている。これは古代史の分野においてそれほど頻繁にあることではない。1842年、モスル駐在フランス領事館の役人ポール・エミール・ボッタによってイラク北部で発掘調査が着手され、このときから考古発掘の時代が始まった。こうした熱気に包まれた発掘活動は、フランス・イギリス・ドイツ・アメリカ・イタリアなどおよそ10か国の調査隊によって、2度の世界大戦で中断されながらも続けられ、何万という無傷のあるいは断片的な大小の遺物を掘り出した。再び日の目を見た膨大な史料が明らかにしてくれる3000年にわたる歴史的事実の数々とその多様さは、想像をはるかに超えたものである。

 アッシリア学者の仕事は、数多くの文字が刻みこまれた粘土板の断片から出発して、文字を解読し、語を組み立て、内容を理解し、さまざまな検討を重ねて、我々の使う言葉を用いて理解可能な表現に移し替え、さらに、他の文書と対比させ、多くの文書とともに考察を重ねるという辛抱強い作業を行うというものである。

 今から約150年前の楔形文字文書の最初の解読以来、メソポタミアにおける多くの事柄の復元が可能となり、かくも長きにわたって我々の視野から外れていたこの古い土地の著しい重要性を、我々自身の歴史に関係づけて吟味することが現実のものになった。しかし、1872年にアッシリア学者ジョージ・スミスが、バビロニアの大洪水伝説が旧約聖書のそれよりも先行することを世に知らしめたとき、この発見が我々の過去に対する知識、とりわけ旧約聖書の内容にもたらした大転換を、当時理解したり予想したりした人はいなかったようだ。それは1920年代に偉大なアッシリア学者ベンノ・ランズベルガーがドイツ語で一篇の論文を書き、メソポタミアが文化的に完全に自立していること、メソポタミアは旧約聖書によって説明される必要はなく、それ自体で独自の明確な価値を持つことを、根拠を示しながら主張したときまで続いた。その時初めてアッシリア学は独立した学問となった。アッシリア学という名がつけられたのは、アッシリア以前の時代のことがまだ十分わかっていないまま、アッシリア語、アッシリア文字のことを研究対象としていたためだった。


5)ヒッタイト語、ウラルトゥ語、フルリ語の解読

 この解読ラッシュの最終局面は20世紀初めに実現した。1906年、ドイツの考古学者たちはトルコのアンカラから東へ約100キロの地にあるアナトリア高原の遺跡ボアズキョイの発掘に着手していた。そこからは古代エジプトのヒエログリフで書かれた文書と楔形文字で書かれた多数の文書が発見された。楔形文字で書かれた文書の一部はアッカド語であったが、別の文書は読むことはできたが未知の理解不可能なものであった。この言葉で書かれた文書が2点、すでにエジプトのアマルナで発見された楔形文字文書のなかに見つかっていた。1915年、アッシリア学者フロズニイは、この言語がインド・ヨーロッパ語で書かれたヒッタイト語であることを証明した。今日ではヒッタイト語の文法書も辞書も存在している。さらに、先ヒッタイトの独立言語ハッティ語の解読にも挑んでいる。楔形文字で書かれ、やはりいくつかの表意文字の存在や、アッカド語やヒッタイト語の文書と部分的な併記がなされていたことによって解読が可能となった言葉として、BC1000年紀に古代ウラルトゥ(アナトリア東部ヴァン湖周辺)で話され書かれたウラルトゥ語と、その祖のフルリ語である。フルリ語はBC2000年以降にカフカス(コーカサス)地方からメソポタミア北部・シリア・アナトリアに移住して、ユーフラテス川支流のハブル川上流域を拠点にミタンニを建国した人びとの言葉である。どちらも孤立した言語で、文書の数が限られ、種類も乏しいことから、エラム語の場合と同様にまだ部分的にしか解明されていない。


6)ウガリト文字の解読

 古代ペルシャ文字と同様、ウガリト文字の場合も実際はアルファベット文字で粘土板に刻まれ、その構成要素が釘形あるいは楔形であるが、その他にはメソポタミアの楔形文字との共通点はない。ウガリト文字は古代ペルシャ語の文字よりも1000年ほど古いもので、世界最古のアルファベット文字であると考える研究者もいた。最初の文書は1929年に地中海に面したシリアのラタキアの北方12キロに位置するラス・シャムラ、古代のウガリトの遺跡から発見された。そこには2種類の最古のアルファベット文字が使われていた。一つはフェニキアのアルファベットと同様文字数は22だが、もう一方はさらに8つの文字が付け加わっていた。

 フランスの考古学者シャルル・ヴィロローは当初からこの文字がアルファベットで書かれた書簡であると仮定して解読作業を始めた。彼は書簡の最初にある記号は、この地域の言語で「xxさんへ」の「へ」を意味する「l(ル)」の発音に相当するとした。ヴィロローから手書きのコピーを入手したドイツの言語学者ハンス・バウアーは、第1次世界大戦で暗号分析をしていた経験から、この地域の言語で単語の最初と最後に最も多く出てくる文字を統計的に調べ、それに相当する記号をそれぞれ「w」と「m」の発音を示す文字とした。フランスの言語学者で、暗号分析の経験を持つエドアール・ドルムが最終的に二人の成果の一部を訂正してまとめ上げ、発見からわずか1年後の1930年にはこの30字が1字1音の特徴があるということを解読した。ウガリトの楔形文字はアルファベットだったのだ。その後、その文字配列は1949年に30の完全な文字が連続して並んだ粘土板が発見されて明らかになった。この順番は一部に欠けている文字があるものの現在のアルファベットと同じである。ヴィロローやバウアー、ドルムたちの解読には間に合わなかったが、この粘土板の発見は彼らの解読が正しかったことを証明することになった。そして、この言語がカナン語の系統に入るセム系言語の一つであることがわかり、何千という文書を翻訳することができた。このようにして、BC14世紀ごろのシリア・パレスティナ地方北東部の人びとの歴史、日常生活、そして思想が解明されることになった。



(ヒエログリフとジャン・フランソワ・シャンポリオン)


1)初期の解読者たち

 今から2000年以上前、3000年続いた古代エジプトが衰退し、古代ギリシャと古代ローマが栄えた時代、ギリシャ人とローマ人はエジプトに対し、その未開性見下す一方で、古い歴史と知恵には敬意を抱くという二面的な感情を抱いていた。エジプトのオリベスクはローマへ持ち出され、ローマ帝国の権威の象徴となった。今日でもローマには13塔のオリベスクが立っているが、エジプトには4塔しか残っていない。ギリシャ・ローマ時代の著述家たちは、大体のところ文字の発明はエジプト人の手柄と考えていた。但し、ローマのプリニウスは楔形文字こそ文字の始まりとしていた。しかし、彼らは一人としてギリシャ語やラテン語を読むようにはヒエログリフを読めなかった。彼らはむしろ、エジプトの文字は「音節をつなぎ合わせることによってではなく、描かれた対象の持つ意味によって概念を表わすものと考えていた。つまり、タカの絵ならば、それは素早く起きることのすべてを示し、ワニの絵は、あらゆる邪悪なものを意味するというように考えていた。ヒエログリフ研究の一番の権威は、ニロポリス出身のエジプト人、ホラポロだった。彼の論文はおそらくギリシャ語で紀元後4世紀ごろに書かれていたが、長く失われており、1419年ごろになってギリシャのある島で写本が発見された。1505年に始めて出版されて以来、30もの版ができた。ホラポロの解釈は正しい部分もあったが、ほとんどが想像だった。

 14世紀~16世紀のルネッサンス期になって古典文化への関心が復活すると、ヒエログリフが古代エジプトの知恵を伝えているというギリシャ・ローマ時代の信念も復活した。1666年、イエズス会士アタナシウス・キルヒャーはローマのデラ・ミネルヴァ広場のオリベスクの碑文を解読し公表する仕事を委ねられ、あるカルトゥーシュ(楕円形の王名枠)を次のように読んだ。

“敵タイフォの暴虐をかわし、ナイルによって常にもたらされてきた繁栄の喜びを確保するには、正しい儀式祭式に従い、生贄いけにえを奉げ、三界の守護神ジーニーに訴えて、オシリスをタイフォの暴行から護らなければならない”

 この部分は、今日認められている読み方では、単に「プサメティコス」というファラオの名前が発音通りに綴られているにすぎない。しかし、キルヒャーには別の手柄があった。古代エジプト末期に使われたコプト語を絶滅から救うことには真に貢献している。コプト語は紀元ごろエジプト・キリスト教会の公式語だったが、アラビア語に押されて衰退し、17世紀後半には消滅しかかっていた。しかし、18世紀に数人の学者がコプト語を修得するようになり、そのことが後にヒエログリフの解読に決定的な役割を果たすのである。コプト語アルファベットの標準形は、24のギリシャ文字と、古代エジプトのデモティック(民衆文字・省略化文字)から借りてきた6文字で構成される。それら6文字はギリシャ文字では表せないコプト語の音を表わす。

 同じ頃、後にグロスターの英国国教会主教となるウィリアム・ウォーバートンは、ヒエログリフをはじめ、すべての文字は絵から発展したという説を初めて提唱する。そして19世紀を迎える直前には、デンマークの学者ゾエガが、ヒエログリフのいくつかは少なくともある程度は音声記号であると、当時としては画期的な見解を書き残している。ヒエログリフ解読への道はこうして開かれつつあった。


2)ロゼッタ・ストーンの発見

 ロゼッタ・ストーンはおそらく世界一有名な碑文である。エジプトのヒエログリフが解読されたのは、1799年にエジプトでロゼッタ・ストーンが発見されたおかげだった。カルトゥーシュという言葉を最初に使ったのは、1798年にエジプト遠征したナポレオン軍のフランス兵士たちだった。ヒエログリフの碑文に見られる、いくつかの文字を取り囲んだ楕円形が、銃の弾薬筒(カルトゥーシュ)を思わせたからだ。1799年7月の中頃、フランス爆破部隊の兵士たちが海から数キロ入ったナイス支流の河口地帯の村ラシード(ロゼッタ)でロゼッタ・ストーンを発見する。おそらくラシード村の大昔の壁に利用され、はめ込まれていたものだろう。その石板の重要性に気づいた隊の上官がすぐさまカイロへ運ばせた。翌年には碑文の写しが取られ、ヨーロッパの学者たちに配られた。1801年にはイギリス軍に取られるのを恐れてアレクサンドリアへ移送されたものの、結局はイギリスに引き渡され、以来大英博物館に展示されている。

 ロゼッタ・ストーンは重さ762キロ、高さ114センチ、幅72センチ、厚さ28センチのきめの細かい黒色玄武岩の石板である。発見された時から碑文が3種類の異なる文字で記されていることは明白だった。下の層にはギリシャ文字、一番上の層にはヒエログリフ(損傷がひどかった)が刻まれており、カルトゥーシュが見てとれた。中間の層は見たこともないような文字だったが、後にそれはデモティック(民衆文字・省略化文字)であることがわかった。

 文字の解読は学者たちによってすぐに始まった。当然ながら、初めにギリシャ語の文章が翻訳された。それは法令の布告だった。エジプト全土の王、プトレマイオス5世エピファネス(在位:BC205年~BC180年)の即位1周年記念日(BC196年3月27日)に、エジプト全土からメンフィスに集まった神官たちによって総会が持たれ、そこで決議された内容が書かれていた。ギリシャ語が使われたのは、当時エジプトを支配していたプトレマイオス朝はマケドニア出身のギリシャ人だったからだ。したがって、碑文中にはプトレマイオス、アレクサンドロス、アレクサンドリアなどの名前があった。

 ヒエログリフの部分の損傷が激しかったので、学者たちが次に取り組んだのはデモティック(民衆文字・省略化文字)だった。3種の文書は一言一句忠実に訳されているわけはないにしても、同じ意味を表わしていることがわかっていた。プトレマイオスという名前を捜すため、繰り返し現れる記号のグループを抜き出していくと、それら一連の記号が、ギリシャ語と同様に音声記号であるらしいことがわかった。「デモティック・アルファベット」を試しに作ってみると、「ギリシャ」「エジプト」「神殿」などにあたる記号も見つけ出せた。まるでデモティック全体がアルファベットのような音声記号であるかのようだった。だが残念ながらそうではなかった。彼ら最初の学者たちはそこから先へは進めなかった。デモティックはアルファベットだという考えにしがみついてしまったからだ。それとは反対に、ヒエログリフの方は、音声ではなく、概念を表わす記号だと信じ切っていた。ヒエログリフとデモティックの見た目の違いと、ヒエログリフへの伝統的な見方が、この2種類の文字の原理を全く異なるものと思い込ませたのである。ヒエログリフとデモティックの解読までさらに20年以上かかった。


3)ヒエログリフの解読

 1814年、光の波動説などで知られるイギリスの物理学者トーマス・ヤングがロゼッタ・ストーンの解読に乗り出した。ヤングはギリシャ文字の部分に「プトレマイオス」という王の名が繰り返し出てくることに注目した。そしてヒエログリフの部分にも繰り返し登場する綴りがあることにも気づき、それが「プトレマイオス」と書かれていると推測した。プトレマイオスという名前には、エジプトにとって外来語にあたる響きがある。そう考えたヤングは、固有名詞に使われているヒエログリフに限り、アルファベット的に使われた当て字ではないかと考えたが、ヤングもその先には進めなかった。

 ヒエログリフを最初に解読したのはフランスのジャン・フランソワ・シャンポリオンだった。シャンポリオンは幼い頃からギリシャ語とラテン語を家庭教師から学び、9歳ですでにホメロスやウェルギリウス(BC1世紀のラテン語詩人)を読んでいたといわれる。1807年、17歳にも満たない若さでギリシャ語とラテン語の書物に残されたエジプトの地名をめぐるコプト語の語源研究の論文を発表する。それから3年後、パリでコプト語に加え、東洋の言語を学び、ファラオ統治下のエジプトについて熱心に研究し始める。

 シャンポリオンを前進させる鍵となったのは、1822年1月ごろにイギリスのウィリアム・バンクスから送られてきた2か国語で刻まれたエジプトのアスワン近郊のフィラエ島のオベリスクの碑文の写しだった。台座にギリシャ語が刻まれ、柱の碑文はヒエログリフで記されている。ギリシャ語の碑文にはプトレマイオスとクレオパトラぼ名前が登場し、ヒエログリフの方にはカルトゥーシュが二つだけあった。多分その二つが二人の名前だ。おまけにその一つは、ロゼッタ・ストーンに刻まれたプトレマイオスを表わす2種類のカルトゥーシュの中の一つとほとんど同じだった。ロゼッタ・ストーンには、同じくプトレマイオスを表わすもっと短いカルトゥーシュもあった。シャンポリオンはカルトゥーシュ内のヒエログリフの音価を推測することに乗り出した。問題は、他のカルトゥーシュにこの新しく推測した音価を当てはめたときに妥当な名前になるかどうかだったが、アレクサンドロスやカエサル、そしてベレニケ王妃といった非エジプト人支配者の名前や、オートクラトール(ローマ皇帝の称号)と言った言葉も見つけ出して読むことができた。この段階でシャンポリオンは、少なくともヒエログリフの固有名詞はアルファベット的に書かれていることを明らかにした。

 1822年9月、まだ32歳のシャンポリオンはアブ・シンベル神殿に残るヒエログリフの精密な複写を手に入れた、しかし、未だ読み解けないカルトゥーシュも出てきた。例えば、「○」や「鳥の絵」に当てはまる音価はわからなかった。そこで、まず「○」は、コプト語で太陽を意味する「ラー(RA)」ではないかと考えた。すると「ラメセス」が読めた。同時に「鳥の絵」は、コプト語でトキを意味する「トト(TOTO)」である。すると「トトメス」になる。いずれもエジプト王の名だった。この時シャンポリオンが気づいたのは、ヒエログリフには単純に1字1音の音価だけではなく、文字の意味をそのまま読ませるものもあるということだった。こうして、ラメセス2世とトトメス3世を示すカルトゥーシュ、そしてプトレマイオスとその称号「永遠なる命のプトレマイオス、プタハに愛されし者」も読むことができた。それと同時に、彼はヒエログリフに母音が含まれていないことにも気がついた。子音を示す文字がヒエログリフには24個あり、これがアルファベットと同じように音を示していたのだ。翌年の1823年、彼はヒエログリフの部分的な解読に成功し、その後6年かけて完成させた。シャンポリオンが成し遂げた成果は、フランス学界によって「フランスの名誉」と讃えられた。そしてルイ18世やローマ教皇レオ12世の謁見を受けることになる。しかし、部分的解読から10年後、シャンポリオンは42歳の若さで他界する。

 シャンポリオンによって初めて明らかになったヒエログリフの基本構造は、簡単に言えば、意味のシンボルと音声の記号の混在である。すなわち言葉や概念のシンボルである表語文字と、単音や多重子音を表わす表音文字が併用されている。鳥やヘビなど何が描かれているかがはっきりわかる記号もあるが、必ずしもそれ自体を意味するわけではない。例えば、クレオパトラのカルトゥーシュにある「手」の記号は、”t”の音価示す表音文字であるだけで、手とは何の関係もない。つまり、絵文字がその文脈によって表音文字としても表語文字としても使われるわけで、一つの記号が両方の機能を持つのである。

 シャンポリオンの解読にはいくつかの間違いがあったが、その後、イギリス人のジョン・ガードナー・ウィルキンソンたちによって修正され、完全に解読された。



(線文字Bとヴェントリス)


1)アーサー・エヴァンズとクノッソスの発掘

 クレタ島北側のクノッソスを発掘したのはアーサー・エヴァンズである。クノッソスで発掘を開始したのは1900年だった。すぐに王宮の政治記録の粘土板が多数見つかった。書体は3つあるいはそれ以上に分かれていた。BC2000年ごろに派生した絵文字はクレタ象形文字で、BC1600年ごろにそれ以前の絵文字に取って代わった線文字A、さらにBC1450年ごろに類似の文字が現れた。これは線文字Bとアーサー・エヴァンズは名づけた。線文字Aは粘土板に刻まれており、主としてクレタ島の南にある宮殿で見つかったが、クノッソスではほとんど見られなかった。一方、線文字Bはクノッソスだけで見つかった。40年近く後の1939年にギリシャ本土のピュロスの宮殿跡からBC1200年ごろのものと思われる線文字Bの粘土板が発見されたときには誰もが驚いた。それら3つの文字はエジプトのヒエログリフにも、シュメールの楔形文字にも、後のギリシャ・アルファベットにも似ていなかった。

 線文字Bに的を絞ったエヴァンズはそれからの40年間ひたすら線文字Bの解読を試み続けたが、結局その願いは叶わなかった。これを解読したのはイギリスの建築家マイケル・ヴェントリスで、1952年のことだ。これは1823年のシャンポリオンによるエジプトのヒエログリフ解読に次ぐ偉業だろう。どちらの解読もそのほとんどは、ただ一人の才能ある人間の手柄だった。シュメールやエジプトの最初の文字より1500年ほど遅れて誕生しているが、最古のギリシャ・アルファベットの碑文より700年も前からあった文字である。


2)線文字Bの解読

 1941年にエヴァンズが世を去ったとき、線文字Bの研究についてまとまったものは何も残されていなかった。発掘された粘土板は3000個を超えていたが、公表されたものは200個に満たなかった。そのため1940年代に解読に挑戦した人びとは十分な資料を持てなかった。そんな中でアメリカの古典学者アリス・コーバーは、エヴァンズの線文字Bには語形変化の形跡があるという見解に基づいて調査した。彼女はラテン語とギリシャ語の語形変化に精通していた。名詞の語尾は格によって変わるし、動詞の語尾も活用する。コーバーはクノッソスの線文字Bの中から5グループの言葉を見つけ出した。どのグループも3語が組になっている。後にヴェントリスが「コーバーのトリプレット(三つ組)」と呼んだ3語だった。これらの音節の発音はまだわからなかったが、その相互関係はまるでクロスパズルのマス目が埋まるかのように定まった。この分析原理はヴェントリスから「格子表」と呼ばれ、線文字Bという素材を解読に向かって整理する画期的な方法となった。

 ヴェントリスが線文字Bに興味を持ったのは少年時代だった。1936年、古典の教師パトリック・ハンターに連れられてヴェントリスたち生徒は、エヴァンズ主催のミノア文明展を見学に行った。当時85歳のエヴァンズも会場にいて、少年たちに線文字Bが記された粘土板を見せた。このときハンターは、ヴェントリスがエヴァンズにとても礼儀正しくこう質問したのを聞いている。「これはまだ解読されていないっておっしゃってましたよね?」、この年からヴェントリスは新たな粘土板を手にするたびに線文字Bへの理解を深めていった。そして分析の結果、線文字Bは「表語文字+音節文字」で構成され、また音節文字が基本的に「子音+母音」で構成されていると考えた。1951年からは自分の研究ノートを作り始め、他の学者たちに配布している。彼は線文字Bの記号の相互関係を引き出すためにトリプレットの比較以外にも多くの分析テクニックを使った。特定の文脈に現れるいくつかの記号の頻度と規則性が有力な手掛かりとなって、1952年2月には有望な格子表をまとめることができた。しかし、これらの記号の音価はまだわからなかった。ヴェントリスは、かつてエヴァンズが注目した線文字Bとキプロス文字が似ているという点と、コーバーのトリプレットにはクレタ島の町の名前なのではという推測を基に、格子表に母音と子音の音価を推測し、加えていった。その結果、解読した言葉の多くがギリシャ語の古体であるように見えた。その後、1952年から1953年にかけて古代ギリシャ語の専門家ジョン・チャドウィックの協力を得て、線文字Bはついに1953年の中ごろに何の疑問もなく古ギリシャ語であることが判明した。それはホメロスのギリシャ語でもなく、ましてやギリシャ3大悲劇詩人の一人であるエウリピデスの古典ギリシャ語でもなかった。ヴェントリスはこの3年後、車の衝突事故により34歳の若さで他界した。

 一方、クレタ象形文字と線文字Aは未解読のままである。線文字Aはギリシャ語とは認められず、表音は線文字Bに似ているが、今のところどの言語に当てはめても全く読めない。



(未解読の文字)


 多くの古代文字は全く未解読のままでもないし、かといって完全に解読されているわけでもない。部分的に解読されている文字もある。未解読の文字はその文字と言語が既知か未知かで分けることができる。


           場所        年代    文字    言語

原エラム文字    イラン      BC3000年頃   未知    未知

インダス文字    インダス川流域  BC2500年頃   未知    *

疑似ヒエログリフ  ビブロス     BC1700年頃   未知    未知

線文字A      クレタ島     BC18世紀   一部既知   未知

ファイストスの円盤 クレタ島     BC18世紀    未知    未知

エトルリア文字   イタリア     BC8世紀     既知   一部既知

メロエ文字     スーダン     BC200年頃    既知   一部既知

ラモハーラ文字   中央アメリカ   紀元後150年頃   *    *

ロンゴロンゴ    イースター島   紀元後19世紀   未知    未知


 *は学者の間で意見が一致していない



(文字の伝播)


 インダス文字はこれまでに約400字が発見されているが、残された長文が少ないことから、まだ解読されていない。漢字の祖形である殷の甲骨文字はシュメールの楔形文字より約2000年遅れてBC14世紀~BC13世紀ごろに登場している。楔形文字やヒエログリフが表意文字から表音文字へと転化したのとは異なり、漢字は表意文字のまま進化している。現在認められている数多くの考古学的証拠は西方からの影響を示唆している。完全な文字がどこからともなく出現することなどありえない。古代メソポタミアのように、不完全な文字が長く続いて、完全な文字に発展していったのであり、突然完全な文字が現れたのは、借用されたとしか考えられない。記憶を助ける絵文字の長い歴史を経て、最終的に完成された文字として出現したのがメソポタミアだけであった。そこから近隣の言語に適応し、次第にその他の地域に広がっていった。最も遠い地域が最も新しい文字形態を示していることを考えれば、完全な文字がゆっくりと世界中に広がったと考えるのが自然である。

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