第90話 ギリシャ・アルファベット

“そもそも「アルファベット」という呼び名は、ギリシャ文字の「アルファ(α)」と「ベータ(β)」に由来する”


 ギリシャ人はフェニキア人からアルファベットを習得したという見解は広く受け入れられている。これは、フェニキア文字と初期のギリシャ文字を比べることではっきりと示すことができる。例えば、「A」は絵文字の要素を保ってさえいる。「A」を逆さまにすると、牡牛の頭を描いている。現在の「A」は目もついていない。この文字のギリシャ名はアルファ(α)で、ギリシャ語では無意味だが、フェニキア語を含む西セム語では「牡牛」という意味の単語である。このことはほとんどすべてのギリシャ・アルファベットに当てはまる。

 フェニキア文字とギリシャ文字の文字順は基本的に同じであるものの、補充された文字がいくつか加わってアルファベットの順番が変わった。Τ,Φ,X,Ψ,Ωがそうである。ギリシャ・アルファベットをフェニキア人に帰すことは、BC5世紀の歴史家ヘロドトスの著作に記されている。その文字はポイニーケーイア・グランマタ(フェニキアの文字)と呼ばれており、伝説上のテュロスの王子カドモスによってギリシャにもたらされたとされていた。

 しかし、フェニキア・アルファベットとの出会いがどこで起こったかについては、議論の余地がある。それがギリシャ本土だったという必然性はなく、背景に商業活動があるという可能性は十分にある。接触点はウガリト地方だったかもしれない。というのは、BC9世紀後半、そこにギリシャ人の入植地があったからである。またBC9世紀の東アラム文字には初期ギリシャ文字との類似点がある。例えば、多くのギリシャ文字の名前、アルファ、ベータ、ガンマ、デルタには、アラム語の接尾辞「a」がある。アラム人の故国である北東シリアには、アナトリアを通り抜けるルートがあった。それはフェニキアを巻き込まずにギリシャ世界と接触するルートである。これが初期ギリシャ文字の出所である可能性がある。

 ギリシャ人は、フェニキア人を含む西セム人のアルファベットに新たな要素を加えた。特定のギリシャ方言の子音にとって必要でなかったフェニキア文字のいくつかは、母音を表わすために利用された。最初はギリシャ語のイオニア方言に限られていたが、最終的に母音を表す文字となったのは、A,E,H,I,O,Ω,Yである。このことは、真のアルファベット、すなわち子音だけでなく、母音をも表わすアルファベットが初めて用いられたことを意味する。また、古いキプロス文字から採ったと思われるΦ,X,Ψという3つの固有の記号を創造してアルファベットに付け加えた。


 最初期のギリシャ文字はフェニキア文字と同じく22文字であり、ギリシャ古典期(BC500年~BC322年)以降のものとは異なる。書字方向は、BC6世紀以前は左向き、右向き、牛耕式で書かれたが、BC500年ごろからすべて右向きに書かれるようになった。フェニキア文字は他のセム系文字と同じくすべて子音を表わしていたが、その中のいくつかの文字を、ギリシャ語では改変し、母音文字にしたというのはよく知られている。それらはA,E,O,I,Yであるが、ギリシャ人の創出というよりも、すでにセム系文字でも行われていたことをギリシャ文字において再解釈したともいわれる。

 ギリシャ・アルファベットには東型と西型があった。東型で重要なのはイオニア型で、小アジアや東ギリシャのさまざまな文字を含んでいる。その後、発展段階における標準化の過程で東型の小アジアのミレトスのイオニア式アルファベットが採用され、いくつの文字の取捨選択が行われた結果、24文字となり、BC403年にアテナイにおいて正式に採用された。それが24文字の古典ギリシャ・アルファベットである。


 ギリシャ人はセム系のフェニキア人によって発案された音声表記体系を自分たちの言葉に適合させるため、母音表記法という重要な新機軸を導入した。おそらくいにしえのミュケナイの音節文字の記憶が、このアルファベット文字体系を豊かなものにすることに寄与したと思われるが、それが一つの普遍的価値をこれに付与することとなった。この新しい文字の記述法は急速に発展し、細部ではいくつかの変異を伴いつつギリシャ世界全体に広がり、さらに下ると、そこからラテン文字が作られ、近代の各種言語のアルファベットの大部分の母体となる。「イーリアス」と「オデュッセイア」という最初の長編文学が、今ではほとんどの学者によってBC8世紀、つまりギリシャ人たちがアルファベット文字を使い始めたころにできたと推定されるのは、おそらく偶然ではないだろう。ホメロス以前の文学作品が消滅してしまったのは、文字に記す適切な手段がなかったためである。ミュケナイの音節文字は未だ使われ続けていたとしても不完全だったし、読むのに何日もかかるような長い作品を永続させるための手段としては役立たなかった。アルファベットが使われるようになったことで、ホメロスは助けられたに違いないし、逆に、彼の作品が現れたことによって、それより以前にあった作品はすべて忘却の彼方に投げ捨てられたのだ。


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 東ヨーロッパの平原出身で、インド・ヨーロッパ語を話す最初のギリシャ人が北方からやって来てギリシャの土地に拡がったのはBC2000年紀初頭である。北部のマケドニアやテッサリアにはそれ以前にすでに浸透していたと思われる。彼らはそこで新石器時代から定住していた人びとと混合し、初期のミュケナイ人、すなわちペラスゴイ人となった。彼らが最初にギリシャ語を話した人びとである。ミュケナイ人に3~4世紀遅れて北方からギリシャ本土に侵入してきて、BC14世紀からBC13世紀にかけてペラスゴイ人と融合したのがアカイア人で、彼らは文化的には先住のペラスゴイ人より劣っていたが、ウマと二輪戦車という強力な武器を持っていた。そして後期青銅器時代のBC1600年ごろからペロポネソス半島のミュケナイを中心として栄えたのがミュケナイ文明(BC1600年~BC1200年)である。

 ヨーロッパで最初の高度な文明はクレタ島のミノア文明(BC3000年~BC1200年)である。クレタ島の最盛期である後期ミノア時代の前半期(BC1580年~BC1450年)の豊かなクレタとの接触は戦士的なミュケナイ人となったアカイア人たちが高度に洗練された古代文明と関わることを意味し、重大な意義を持っている。


 BC2000年~BC1200年の間に、別個だが関係のある3形態の音節表語文字がエーゲ海に現れた。ミノアのヒエログリフ風文字の「線文字A」、後のミュケナイの「線文字B」、キプロスの「線文字C」である。追加的な表語文字を別にすれば、エーゲ海とキプロスの文字はすべて表音文字である。線文字Bは線文字Aと同様、約120の記号からなり、その半数は音節文字(母音が5個、12の子音によるCV(子音・母音)結合が54)、残りは表語文字である。線文字Bはエーゲ海社会が今なお原因不明で崩壊したBC1200年ごろまで、ミュケナイ人の影響力が及んだ地域で存続した。キプロスの線文字Cは、ギリシャ語の話し言葉を十分に伝えられない文字体系ではあったが、音節を表す55の記号からなり、現在も未解読であるが、線文字Bよりは習得するのが簡単だったようだ。それはギリシャ・アルファベットに先立つ各ギリシャ音節文字の中で最も曖昧さの少ない文字になった。

 キプロスは別として、東地中海の暗黒時代(BC13世紀後半~BC10世紀)にギリシャ人は自分たちの文字「線文字B」を失い、その1~2世紀ほど後に、カナンのフェニキア人から文字を借用した。フェニキア・アルファベットである。ギリシャ人がフェニキア人の文字に目をつけたのには他にも理由があった。ギリシャ人もフェニキア人も富裕な人びとは境界標識や建造物、墓碑などに献辞を刻むのを好んでいた。自分の名前を一篇の詩とともに石に刻んでおけば、後の世にまでその名をとどろかせることができるからだ。


 ミュケナイ時代の「線文字B」は複雑で扱いにくい道具だった。それは67に及ぶ音節文字と、相当数の表意文字、すなわち一定の概念を表す記号から成り立っていた。これを扱うことができるのは職業的な書記に限られ、平均的な市民にはそれを修得し、使いこなすことはほとんど不可能だった。もしギリシャ人がこの文字を使い続けたとすれば、わずかな専門家しか楽しむことができない学問や文学に留まっていただろう。民族の学問や文学の創造とその伝播には容易に理解できるアルファベットが必要だった。フェニキア人はそのアルファベットを発明した。ヨーロッパ文化に対する彼らの最も大きな、そして最も重要な貢献はおそらくフェニキア・アルファベットだった。まずギリシャ人が、次にローマ人が、最後にヨーロッパの全民族が彼らから受け継いだこの天才的に単純な音標文字システムがなければ、我々は今なお、中国人と同じく新聞一枚読むのに何千もの文字を覚えなければならないだろう。

 フェニキア人は子音の文字表記を使ってそれが簡単にできた。書かれていない母音は読む者の判断に委ねればいいからだ。しかし、ギリシャ語ではフェニキア人のセム語以上に母音の果たす役割が大きく、類推される母音に多数の候補が発生してしまう。また、フェニキア文字の中にはギリシャ語では不要な文字があり、またギリシャ語にしかないいくつかの音を表す文字が存在しない。したがって、ギリシャ語を記録するにはフェニキア文字をそのまま借用するだけでは決してうまくいかない。フェニキアのセム語とギリシャ語の2か国語に通じた学者たちが議論して改良したと推定される。それで彼らは、自分たちの使うどの音とも一致しない記号から、α(アルファ)とο(オミクロン)を作り、セム語の2つのHの1つからε(イプシロン)を、フェニキアのイオトからι(イオタ)を作りだした。それでもまだ欠けているものを付け加えて、φ(ファイ)、χ(カイ)、Ψ(プシー)、Ω(オメガ)を考え出した。彼らがこの適用から引き出した利益は大変なものだった。子供たちは1年以内に読み書きできるようになり、文盲はほとんど克服された。


 フェニキア人はBC1100年ごろにはフェニキア・アルファベットを使っていたが、ギリシャ人がフェニキアのアルファベットを採用したのは、おそらくBC9世紀からBC8世紀初めのころである。アルファベットの伝来を最も明瞭な形で受けとめたのがエーゲ海の諸都市である。その事実は初期のギリシャ文字の名前、形、音価、そして文字の並び順にもはっきり見て取れる。現在に残っている最古のギリシャ・アルファベット文字の文書はBC8世紀後半のものである。その一つが「テラ島の岩石碑文」で、牛耕式(1行目は左向きに、2行目は右向き)で書かれている。どうして300年もの遅れが出たのか? ギリシャはミュケナイがBC1200年ごろに滅亡した後、無教養で野蛮な暗黒時代に突入したからだというのがこれまで広く受け入れられている説だが、その当時のキプロスの状況も大きな要素である。

 BC2000年ごろクレタ島のミノア系ギリシャ人はビブロスの音節文字のアイデアを借用した。そして、BC1000年~900年ごろキプロスのギリシャ人はフェニキア人のアルファベット文字のアイデアを借用した。その後、BC850年~775年ごろからアルファベット文字は、ロードス島とクレタ島を経由し、後にはギリシャ本土とは海峡を挟んだだけのエウボイア島を経由して、エーゲ海のギリシャ人の間に広がった。この音節文字からアルファベット文字への発展は、ギリシャ文字に母音表記が増えたことことを物語っている。

 後のエウボイア島を経由による二回目の借用によって全く新しい形の文字が生まれ、やがてそれがギリシャ語を話す人びと全体に広がった。アルファベットが各地に適応されたことは、主としてエウボイア人を通じて、ギリシャが再び勢力を伸ばしたという歴史的事実と偶然にも一致している。BC8世紀初め、エウボイア人はギリシャの商業的拡大の先頭を切り、東はシリアから西はナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げ、それと同時に独特の形をしたギリシャ・アルファベットを伝えた。エウボイア文字はBC8世紀になって作られたもので、フェニキア文字の原型により近いクレタ島、テラ島、メロス島などで使われていたもっと古い時代の各種ギリシャ・アルファベットのずっと後の子孫である。

 その時代のギリシャには、若くて別々の都市国家に分かれており、健全な意味での競争意識があり、異国からの侵略はなく、経済の発展力があり、数世紀をかけてアイデンティティを確立して行けるだけの複雑さと安定性を持った文化があった。そして既存の文字表記体系にあからさまな忠誠を誓うこともなかった。それはBC800年ごろまでには読み書きの革命を起こすに十分なほどに成熟を遂げていた文化だった。


 BC8世紀には文字は学問や文学にも使用された。アルファベットが拡がって行く過程で、誰かが、あるいは多数の誰かがそれまでの口承の物語をホメロスの作とされる叙事詩に変換した。その当時、色々な所を流浪する吟遊詩人はそらで詩を吟ずるのが常だったが、いつでもメモを携えていた。偉大な叙事詩もアルファベットがなければ成立しなかっただろう。もっと重要なのは、もうギリシャでは書記階級の存在が必要ではなくなったことだった。知識階級はその職業上の独占的性格を失ったのだ。多少とも頭のある人は誰でも文化的生活に関与することができ、それによって、自分の存在、つまりギリシャ民族の一員であることを初めて実感することができた。

 アルファベットの西洋世界への伝播に弾みをつけたのがこのときに生み出された偉大な筆写なのだ。いついかにしてこれが起こったのかはわからない。BC5世紀にヘロドトスは、ホメロスは自分の時代より400年前、およそBC825年に生きていた人物だという説を発表した。BC750年からBC550年にかけて口承文学は文字で書かれた文学になった。初めはさまざまなヴァージョンが存在し、正式として認められるヴァージョンが現れるのはBC2世紀のことである。BC5世紀末にはアテナイのほとんどの男性市民は読み書きができていたようだ。文字がなければ、ギリシャ人は民族意識を養うことも、大掛かりな行動を起こすときには常に勇気づけてくれる反西アジア的なイデオロギーを育てることもおそらくできなかっただろう。それはフェニキア人のおかげだったが、文字を知ったギリシャ人はフェニキア人を地中海域から追い払うことに全力を傾注した。


 BC550年ごろ以降、文化の主要部分が次第に分離し、独立した分野として追及されていった。音楽と言葉は分離し、それぞれ独自の伝統を築いていく。アリストテレス(BC384年~BC322年)の多岐にわたる関心の対象、論理学、物理学、天文学、心理学、形而上学、神学、倫理学、政治学、弁論、詩学、生物学などはその縮図である。それまで歴史はホメロスの物語に埋め込まれていた。しかし、今やヘロドトス(BC484年~BC425年)、ツキディデス(BC460年~BC399年)が初めて現代の歴史家になり、歴史的事実の記録と解釈に物的証拠を使うようになった。正義はかつて行動、社会的身分、宗教、欲望の調和だったのが、今や成文法や判例とともに法廷で扱う問題となった。普遍の原理、事実に即したもの、分析的なものが持つ魅力に惹かれて人びとは非常に強大な知的ツールを生み出し、それがまた実用面でも並外れた成果を生み出す源になった。シュメール人やエジプト人は、排水溝、ジッグラート、ピラミッドの創作というように、実生活に多大な関心を向けていた。それがここでは現実世界において実質的な形を持たないものへ関心の目が移った。非常に大きな飛躍である。ピタゴラス(BC580~BC500)が直角三角形の隠れた秘密を見出す、アルキメデス(BC287年~BC212年)が円周率を突き止めようとする、彼らの研究対象にはいずれも現実世界では実体がない。

 アルファベットを手に入れてからというもの、かつてないほどに次から次へと知識を積み重ねていくことができた。アリストテレスの有名な学校リュケイオンは後継者のテオフラストスに受け継がれたが、2人ともに万巻の書を集めたアレクサンドロス大王に教育を施した人物である。大王はエジプトにアレクサンドリアを建設し、図書館を建設せよと命じた。大王の死後、彼の将校の一人プトレマイオスはアレクサンドリアをエジプトの首都にし、アリストテレスの弟子の一人だったデメトリオスに町の中心として図書館を建てることを委任した。それは古代世界において最大のものとなり、それまでに書かれたあらゆる書籍が原本または複写本のどちらかで続々と流入して、研究の中枢として機能した。図書館、博物館、神殿をすべて一ヶ所に集め、数学、哲学、政治、歴史、芸術に関する著作を集め、また庭園、獣舎、天文設備なども備えていた。そこには一時に100人の学者が集まって研究することができたという。ここでアルキメデス(BC287年~BC212年)は「アルキメデスの螺旋」について調べ、地理学者エラトステネス(BC276年~BC194年)は、イベリア経由でインドに行くことが可能だと発表した。またアリスタルコスは、地球は太陽の周りを回っていると主張した。書庫には50万の巻物や冊子が集まったという。しかし、ローマ時代になるとアレクサンドリアも次第に歴史の陰に隠れていき、紀元後3世紀に図書館は焼け落ちた。


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 文字の三つの形態である表語文字・音節文字・表音文字は特定の言語・社会・時代によってそれぞれ最大限に活用される。一つの体系が生き残るには優秀であることではなく、適応性に富むことが必要である。このような状況は、文字の歴史における最後の大革新へとつながっていった。ギリシャ人の贈り物、それはアルファからオメガまでの明らかにあらゆるものに適応し得る表音文字で単語を作るシステム、完全なアルファベットである。

 ギリシャ人がフェニキア人の子音アルファベットを借用し、見事に適応した結果、母音と子音に対等な地位を与える完全なアルファベットが出現した。ギリシャ人はフェニキア文字を「海の民」が没落した後に地中海貿易を支配していたテュロス・シドン・ビブロス・アシュケロン、その他レヴァント地方の豊かな港町の交易商人から直に受け取ったという。しかし、借用した時期、場所については意見の一致をみていないが、時期についてはBC10世紀、遅くともBC850年頃だと多くのギリシャ古典学者はとみている。したがって、ギリシャ人はレヴァント地方からBC2000年ごろに文字を取り入れて以来、暗黒時代(BC13世紀後半~BC10世紀)の混乱はあったにせよ、文字を完全に失ったことはなく、ずっと書き続けていたのである。他のインド・ヨーロッパ系の民族で、これほど長い間文字を持ち続けている民族はいない。

 ギリシャ人は史上初めて母音音素を系統的に一貫して表した民族である。さらにギリシャ人は、ギリシャ語の各母音に子音と同じような符号を与え、その符号を単独で書いたり、子音一つ抱き合わせても書いた。このように子音と母音を一緒に使うことにより、それ以前に考案されたどの文字体系よりも話し言葉を忠実に再現できた。彼らは新しいフェニキア文字を使って、独自のギリシャ語方言を伝えようとしただけだが、キプロスの書記が新しい方法を思いつき、わずかな調整を行うだけで、どのような言語も伝えられるようになった。

 キプロスのギリシャ人は、アルファベット文字を借用するに際し、アルファベットのアイデアと、フェニキア文字の符号も引き継いだ。というのは、それらは絵ではなく、文字だったからだ。つまり、符号の音が重要なのであって、意味は重要ではなかったのである。そのようなわけで、ギリシャ人は各符号の古代フェニキア語の名称も、伝統的なセム文字の配列までも取り入れた。セム文字では、alep(アーレプ)、bet(ベート)、gimel(ギーメル、dalet(ダーレト)・・・と言ったが、ギリシャ語ではalpha(アルファ)、beta(ベータ)、gamma(ガンマ)、delta(デルタ)というように言った。各名称の意味は重要ではなく、文字の名称であることで十分だった。言い換えれば、ギリシャ人も多くの民族が何千年も前に、同じような状況下でやったのと同じことを行ったのである。つまり、どこかの他人の文字体系を借用し、現地語の差し迫った必要性に合せて適応させたのである。それより500年くらい前に、ウガリトの書記は、3つの長母音と短母音のa,i,uを用いて子音アルファベットを完成していた。ギリシャ人の子音・母音アルファベットはこれのもう一つの変種にすぎない。フェニキア人自身は自分たちの必要性からすれば「完全」といえるアルファベットをすでに使っていた。したがって、その意味では進んだアルファベット文字だったといえる。しかし、簡単で、適応性があるという点で、キプロスのギリシャ人が行ったことは文字の歴史上、最後の重大な革新だったと見なさなければならない。

 なぜギリシャ人は変更を加えることになったのだろうか? フェニキア人のセム系言語と異なり、ギリシャ語は母音と子音とを対等に使用した。母音はギリシャ人の初期の音節文字にはすでに備わっていて、キプロスの書記はその価値を認識していたのだろう。フェニキア文字の再解釈は、非セム系の音韻体系を持った言語を話す人びとが文字の名称と頭音法(単語の最初の子音だけを表す方法)の原則を学んだ結果として自然に起こったのだろう。セム語の音韻体系は確かにギリシャ語とはまるで違っていた。フェニキア語の単語はすべて子音で始まるが、ギリシャ語の単語の多くは母音で始まる。BC1000年ごろに話されていたギリシャ語には必要のなかった子音の何文字かは、借用されてからは母音として使われるようになった。こうしてフェニキア文字の「弱子音」、すなわち「半母音」は、純粋な母音として使われるようになった。


 初めのうち、ギリシャ・アルファベットはそれだけの文字数で概ね完全だった。それでも書き方は相当に原始的なままだった。何世紀もの間、ギリシャ文字の標準的な書法はなかった。また、大文字と小文字の区別もなく、句読点も、語の分かち書きもなく、地域ごとに土地の習慣に従い、ときにはその土地独自の文字を使ってたこともあった。最初期のギリシャ文字の銘文は、セム文字式に右から左へ書かれていたり、一行ごとに書く方向を変える「牛耕式」で書かれていたりする。しかし、BC6世紀には、ほとんどの書記はどの行も左から右に書く方式を好むようになった。この方式が結局、他のすべての書き方に取って代わった。

 初期ギリシャ・アルファベットの3大グループは、クレタ、テラ、メロスの古典的なアルファベットと、エーゲ海、アッティカ、小アジア西部沿岸の東ギリシャ型・アルファベットと、ギリシャ西部、シチリア植民地の西ギリシャ型・アルファベットだった。この時代のほとんどを通じて、ギリシャは王国でも統一国家でもなく独立した多様な都市国家の集合体だった。しかし、BC4世紀中葉までにはギリシャ・アルファベットの全ての変種がイオニア(小アジア西部沿岸)からもたらされた東ギリシャ型文字の一つであるイオニア・アルファベットただ一つに取って代わられた。彼らは当時、アテナイの言葉を基本としたアッティカ方言である古典ギリシャ語を書いていた。イオニア文字は、主としてイオニア人ホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」のおかげで、すでにアテナイの古典ギリシャ語(アッティカ方言)を書き記す格式ある文字になっていた。BC403年あるいはBC402年にはイオニア・アルファベットをすべてのアテナイ人の文書に使用するよう義務づけられた。ヘロドトスの時代(BC5世紀)には、書物はパピルスの巻物になっていて、20メートル以上の長さのものもあった。

 これまで一般に文字の歴史というと、正式な文字、すなわち「書物体」よ呼ばれる文字を中心にして論じられてきた。しかし結局は、エジプトのヒエログリフがそうだったように、正式な文字からより早くより簡単に日常的な事柄を書く方法が生まれ、「書物体」は特別の目的のためだけに使われるようになる。このより簡単に書ける文字は流れるような文字、つまり筆記体である。ギリシャ語の筆記体は遅くともBC3世紀から使われ始め、ほとんどはパピルスに書かれていた。筆記体のギリシャ文字は、パピルス、ろう板、陶片、壁の落書きなどに使われる日常的な文字になった。石の記念碑や各種の金属や粘土の物品に書かれる銘文は、ほとんど例外なく「書物体」で書かれた。このようにしてギリシャ人はアルファベット文字を完成させた。

 ギリシャの軍事的・経済的・文化的影響のため、ギリシャ・アルファベットは後世にヨーロッパに出現した母音を伴った完全なアルファベットの原型となった。このアルファベットが、ラテン・アルファベットとキリル・アルファベットを通じて、最終的には全世界に広まった。この過程は2000年以上経った現在でも未だ続いている。


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 ギリシャが借用したフェニキア・アルファベットは古代世界の文字文化に革命をもたらした。セム語とギリシャ語を仲立ちとしてアルファベットを使う書き方は地中海のいたるところへすぐに広がった。アナトリアのフリギア人にも、イタリアのエトルリア人にも、そしてイベリア半島のイベリア人にも拡がった。そのエトルリア人と後のラテン語を話す人びとを通じてアルファベットはやがてヨーロッパ南部の種々のロマンス語へ浸透していく。ロマンス諸語は、フランス語やルーマニア語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語をはじめ主にローマ帝国時代の領域の地域の言語である。


<エトルリア文字>

 ギリシャ・アルファベットの最も重要な借用が行われた地域はイタリア半島だった。BC8世紀の中央イタリアは植民地開拓者にとって理想的な場所だった。アシで屋根をいた家々に鉄器時代の生活をする農民が住み、大きな勢力を誇る町はどこにもなく、考古学者の推測によると、宮殿、要塞、神殿、石造りの建造物、これらのものすべてがなかった。フェニキア人は西への進出に夢中でイタリアにはほとんど興味を示さなかった。フェニキア人の関心はもっぱらカルタゴやウティカなど北アフリカの海岸(現在のチュニジア)に港や交易の基点を設立することにあった。その地はシチリア島の西端に築いた他の植民地から南西に160キロの距離にある。BC775年ごろ、ギリシャ本土からエウボイア島に移住していた人びとは現在のナポリの西のピテクサイに植民都市を建設した。これはギリシャ人がイタリアに築いた最初の足がかりだった。その後、その北東にクマエが建設され、この二つの都市を拠点としてギリシャ文化はイタリア中部と北部のエトルリア人に影響を与え始めた。そしてエトルリア人はギリシャ民族と他の西ヨーロッパ民族との主要な橋渡し役になった。エトルリア人は借用したギリシャ・アルファベットを使って自分たちの言語を書き記したが、今日なおエトルリア語はほとんどわかっていない。なぜならエトルリア語は今までに分かっているどの言語とも関係がないからである。アルファベットを後世のヨーロッパにもたらしたのはローマではなく、それは遠い昔に失われたエトルリア人であるが、その実体は今もよくわかっていない。ヘロドトスによると、彼らはもともとアナトリア西部、小アジアにあるリュディアにいたが、飢饉のため伝説の王子ティレノスに率いられてスミルナの港から国を出た。そしてギリシャの向こう側にあるイタリアに新しい故郷を見出したとする。そこには鉄の鉱山があった。一方、ツキディデスは、彼らはエーゲ海北部にあるレムノス島からやって来たとしている。そこからはエトルリア文字で書かれた墓碑が発見されているが、年代が移住後と考えられ、真相はわからない。確かなのはエトルリア人の墓が出てきたことから、エトルリア人はBC750年ごろにはイタリア中部にいたということだ。家のように堅牢な墓には後世の丸天井の原型のような天井があり、その副葬品から豊かで洗練された文化だったと思われる。ギリシャ人もこの文化についてはよく知っていて、ホメロスの作品にも記述がある。その後、エトルリア人は都市国家を今のローマも含むイタリア中部に築いた。彼らはギリシャ人だけでなく、フェニキア人とも交易を行っていた。エトルリア人は音楽好きであったようで、特にフルートの音で野生動物を罠に導くことができたといわれる。彼らの軍用ラッパはローマ人も取り入れトゥーバになった。古代ローマのアトリウム(開口部付き中央大広間)は入り口を意味するエトルリア語からきている。エトルリアはBC396年に始まるローマ人の抵抗から戦争が起こり、100年余にわたる戦いの末、BC264年に滅亡した。エトルリアの町は徹底的に破壊され、住民たちは殺されたり、奴隷にされた。家も城壁も倒され、その町がどこにあったかも忘れ去られた。

 エトルリア人はBC8世紀までにはイタリア半島中部のトスカーナ地方に定住して古代ローマ文明の基礎となる文明を築き、イタリア半島で最初に文字を使った民族である。この文字を採り入れたのがラテン人、すなわちローマ人である。エトルリア人はイタリア半島中部、現在のナポリ近郊のクマエ辺りに入植したギリシャのエウボイア人からギリシャ文字を借用したようだが、そのギリシャ文字は、よく知られている東型ではなく、より古い西型で、それをそのまま受け継いだ。エトルリア文字は26文字で左向きに横書きする。但し、ラテン文字のB,D,S,Oにあたる文字は、エトルリア語は閉鎖音において有声無声の区別をしないなどのために文書には全く現れない。さらに、BC5世紀になると、「f」を表わすために、WとHの文字を組み合わせ、後には「8」のような形として追加された。


<ラテン文字>

 BC753年のローマ建設から1世紀ほどたったころ、この頃にはエトルリア人とローマ人は共住していたという説もあるが、ローマ人は北部で栄えていたエトルリア文化から文字体系と文字を借用した。エトルリア文字はギリシャのエウボイア語を基盤として出来上がっているが、この過程で生まれた23文字のエウボイア=エトルリア・アルファベットはローマ人に借用され、彼らはこれを自分たちのラテン語を書き表すのに用いた。

 ラテン文字そのものは、西型のギリシャ文字とエトルリア文字の流れを汲んでいる。書字方向は、BC750年~BC500年ごろには牛耕式(例えば1行目は左向きに、2行目は右向きに書く)、または左向きに、さらに横書きではなく縦書きでも書かれる。字形に膨らみがあればそちらに向かって書かれているので、読む場合には問題はない。現在のように右向きに書かれるようになったのは、BC4世紀以降のようだ。文字数は、最初はABCDEFHIKLMNOPQRSTVXの20文字であり、文字とその音価はエトルリア文字と同じである。ローマ人の発音に便利なように、Cに短い横棒が追加されてGが生み出されたのはその1世紀後のことである。ZとYはギリシャ語を表記するためにBC50年ごろ、J,U,Wの登場は非常に遅く、さらに1400年以上後のことのようだ。こうして26文字となった。イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、フィンランドなど西欧の文字はすべてラテン・アルファベットに由来する。徐々に発達したのは異なる書字のスタイル、とりわけ大文字と小文字の区別で、小文字は特に通常の手書きにその特徴が現れている。

 現在の文字数は、イギリスでこそA~Zの26文字だが、ドイツでは30字、フランスでは40字が日常的に使われている。こうした各国に共通しているのは、やはりA~Zの26文字である。その他の文字は、この26文字に後から追加された文字である。この26文字は「Roman alphabet(ローマ字)」と呼ばれ、古代ローマ帝国で使われた文字なのだ。言語学では、ローマ帝国を築いたイタリアの民族ラテン人に因み、ローマ字は「Latin alphabet(ラテン文字)」と呼ばれる。

 ローマ人は軍事と政治に長けており、それゆえ文字が必要だった。エトルリア文字は少し改良を加えるだけでローマ人にも利用でき重宝だった。BC2世紀にはローマ人のラテン語とラテン文字が広まったためエトルリア文字は使われなくなった。BC2世紀にローマがギリシャを征服すると、ギリシャ文化やギリシャ語の言葉がローマ人の日常生活の中に入ってきて、ラテン語になかったYとZの借用を促進した。さらに文字のデザインもギリシャ文字の簡潔さと装飾性を真似た。簡潔さは肉細で均等な線と方形に整然と整った書体に、装飾性は終筆に見られる少し突き出た線、つまり髭飾りに表れている。紀元後の数世紀までに読み書きはローマ帝国に広まっていった。しかし、ラテン・アルファベットは借用したエトルリア文字体系から構造的に進歩することはなかった。つまり、ラテン・アルファベットもまた母音と子音とを伝える対等な文字を保持していた。これはセム系フェニキア文字や、ブラーフミー文字から生まれたインドからインドネシアにかけての諸文字ともまったく違っていた。ラテン文字から派生した文字はどれも著しい特徴を持っている。つまり一文字一音(母音または子音)である。この一文字一音をどう具体的に表すかは言語によって異なる。アルファベットは規則ではなく、道具だからである。ラテン・アルファベットはギリシャ文字を除いて、イタリア半島のすべての文字に取って代わり、その後、ローマ帝国の西半分の公用文字になった。ギリシャ文字は東半分の公用文字であり続けた。さらにラテン・アルファベットは後に世界の主たる宗教の一つであるキリスト教の伝道手段となった。一方、アラビア・アルファベットはスペインからインドネシアまでの地域でイスラム教を伝える手段になった。ラテン・アルファベットは、最初はキリスト教、次いで植民地拡大、さらにはグローバル化により、それ以前・以後に生まれたどの文字よりも遠くまで、そして多くの言語にまで広がった。


<スラブ文字>

 スラヴ・アルファベットは二つある。キリル文字とグラゴール文字である。ビザンティン帝国の皇帝の命令でキュリロスがマケドニアのスラヴ語のために当時すでに存在していたスラヴ文字を用いて聖書を古代教会スラヴ語に翻訳したという説が有力である。グラゴール文字は40、キリル文字は43である。音価はほとんど同じだが、字形は異なる。キリル文字は9世紀末のビザンティン帝国で使われていたギリシャ語のアンシャル体(大文字書体)から派生した。一方、グラゴール文字はそれより古いビザンティン帝国のギリシャ語の筆記体から派生した。字形の大きな違いを別にすれば、二つの文字はほとんど同じ文字体系をしている。キリル文字はその一部をグラゴール文字から借用したようだ。グラゴール文字は紀元後7世紀には存在していた。860年代のグラゴール文字はコンスタンティヌス(聖キュリロス)によって形式化・改良された。その後、890年代にブルガリアの聖職者が聖書を記す文字としてギリシャ語のアンシャル体(大文字書体)を選び、キリル文字が誕生した。グラゴール文字はセルビアとボスニアに伝播し、さらにチェコとポーランドのいくつかの地域で典礼書に使われたが、その後、クロアティア以外の地域では衰退した。キリル文字はブルアリア・セルビア・キエフ朝ロシアで使われ、現在では、ロシア・ウクライナ・ブルガリア・セルビアで、彼らの信仰するギリシャ正教を伝える文字として採用された。紀元後1453年にビザンティン帝国がトルコ人によって陥落したとき、東方正教会の覇者となったのはロシア正教会だった。その後、キリル文字は最終的にロシア・アルファベットとして認められている。ラテン文字は西ヨーロッパ、キリル文字は東ヨーロッパというように二つの文字システムは今も互いに勢力範囲を維持している。


 ***


 文字は社会があったから生まれたのであり、文字があったから社会が生まれたのではない。ギリシャ人の母音を加えたアルファベットが人びとの考え方を変えたわけではない。人びとが考えたことを書き記す方法を容易にしただけである。こうしてギリシャ・アルファベットは、より高い読み書き能力、より多くの議論、より複雑な思考領域を育んだ。しかし、ギリシャ文字が民主主義・理論科学・形式論理学を生んだのではない。ギリシャ文字はそのような事柄を考えた人びとの思想を保存し、他の人びとがそれと同じか、あるいは似た思想を発展させる訓練の手助けをしたのである。中国には完全なアルファベットはなかったが、それでも偉大な哲学的伝統がある。なぜなら東アジアの文字はまったく違った道を辿ったからである。


以上のようなアルファベットの進化過程を時系列で見てみると次のようになる。


1)エジプトのヒエログリフ(BC30世紀ごろ)

 ヒエログリフには表音文字もあるが、表語文字や音節文字で構成されており、アルファベットではない。


2)ワディ・エル・ホル碑文の文字(BC18世紀ごろ)

 エジプトテーベの近郊で発見されたこの文字は、史上最初のアルファベットの可能性がある。


3)原シナイ文字・原カナン文字(BC17世紀~BC16世紀ごろ)

 原シナイ文字の文字数は27で、ヒエログリフやワディ・エル・ホル碑文の文字と類似した文字が多い。フェニキア・アルファベットの祖先とみられている。


4)ウガリトの楔形アルファベット文字(BC14~13世紀ごろ)

 その文字配列は1949年に30の完全な文字が連続して並んだ粘土板が発見されて明らかになった。この順番は一部に欠けている文字があるものの現在のアルファベットと同じである。ウガリトの「楔形文字アルファベット」は唯一よく知られているアルファベットの楔形文字だが、この楔形文字のアルファベットが消滅して、アルファベットの伝統のうち別の分派で原シナイ文字あるいは原カナン文字の子孫がそれに取って代わったことは疑いない。


5)フェニキア・アルファベット(BC11世紀ごろ~)

 原シナイ文字・原カナン文字の発展形として考えられている。フェニキア・アルファベットは海外へ移住するフェニキア人とともに、北アフリカやギリシャ沿岸、イタリア南岸、ガリア(現在のフランス)南岸など地中海を通じて西へ伝播した。フェニキア人はアルファベット文字の最初の発明者ではなかったが、彼らが文字の歴史において果たした役割は大きい。ヨーロッパにアルファベット文字を紹介し、ヨーロッパの文字文化の扉を開けたのは、この海上交易の民フェニキア人であったからである。


6)ギリシャ・アルファベット(BC8世紀ごろ~)

 当初は21文字だったが、Φ,X,Ψという固有の記号を付け加えて24文字となった。但し、文字数は時代や地域によって異なる。フェニキア文字からできたとされるが、ウガリトの楔形アルファベット文字の影響も受けていると考えられている。小文字も作られた。


7)エトルリア・アルファベット(BC8世紀後葉~BC7世紀ごろ)

 エトルリア人は借用したギリシャ・アルファベットを使って自分たちの言語を書き記した


8)ラテン・アルファベット(BC6世紀~)

 ギリシャ文字からできたアルファベット。当初20文字で始まったが、時代とともに26文字まで増加した。現代でも使用されている。小文字も作られた。


9)ラテン文字から派生したアルファベット(現在)

 現在、主にヨーロッパで使われているアルファベットには、基本の26文字の他に地域ごとの文字が追加されている。

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