第89話 アルファベットの誕生

 ABCで始まる26の文字から成る「アルファベット」。それは英語を母国語とする人びとはもちろん、我々日本人を含めた世界の数十億人が使用する世界文字だ。今日ではEメールのアドレスなどにも使用され、アルファベットなしでの生活は考えられなくなっているくらいである。どうしてアルファベットはここまで普及できたのだろうか? その背景にはローマ帝国や古代ギリシャ、古代エジプトといった古代文明や、さまざまな民族の移り変わりがあった。ABCはいつ、どこで、誰によって生み出されたのか? この問いかけは4000年にわたる人類の文明史を辿ることにもつながっていく。

 アルファベットとは、ABCという文字を指すのではなく、1字1音の「表音文字」で単語を作るシステムの名前である。表音文字には音以外の意味はない。文字には他にも「音節文字」「表語文字」がある。音節文字とは、母音とその前後に子音が組み合わさった文字である。日本の「かな」はその代表例だ。一方、表語文字は、文字自体が意味を持ち、しかも音も持っている文字を指す。漢字がその例となる。


 BC2170年のアッカド王国の滅亡後、メソポタミアとエジプトの間にある地中海東部沿岸レヴァント地方の西セム系民族の人びとは慣れない自由を与えられ、次には突然の富を手に入れ、発展を重ねていった。彼ら、すなわちカナン人たちはエジプトとカナンの地を行き来する新しい交易路を確立し始めるとともに、新しいエジプトの思想を取り入れた。これが急速にそれまでのメソポタミアの習慣と入れ替わっていった。カナンは、ウル第3王朝(BC2112年~BC2004年)によってメソポタミア南部が復興するまで、さらに密接にエジプトと文化的つながりを持つようになっていた。当時、エジプト中王国の第12王朝(BC1985年~BC1795年)の影響力はレヴァント地方全域に広がり、エーゲ海にも及んでいた。センウセレト3世(在位:BC1874年~BC1855年)の治世にはシナイ半島とカナン南部は事実上エジプトの統治下にあった。それは国際経済と外交の統合体系を持ったカナン文化の時代、つまり大きな富と活発な交易の時代であった。


 BC2000年からBC1200年ごろまで、二つの主要な文字体系がこの地域を支配した。一つは「メソポタミアの音節文字」で、そこから音節・表語文字が生まれたが、メソポタミアの楔形文字はカナンの言語体系に適合しなかったので、代わりにエジプトのものとよく似た絵文字記号を使い、単語を音節ごとに区切って綴った。もう一つは、これも絵文字を元とした「エジプトの子音文字」で、そこから原始アルファベットが誕生した。当初、文字は神官や占い師、そして神格化された王や君主に仕える書記のような少数グループが独占する道具だった。文字は社会の支配的勢力にとって完璧な道具であり、少数エリートのイデオロギーの表出だった。だが、特に子音文字の改良を受けて文字が広がると、もはや文字は裕福な権力者たちの独占物のままではなくなった。読み書きは短期間のうちに多くの人に学ばれ、文字は誰にでも使えるようになった。さらに、この単純な文字体系は、エジプトやメソポタミアのような当時の文明国以外の国々の人びとにとって、非常に借用しやすく、最低限の変更を加えるだけですむ場合が多かった。


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(エジプトの子音文字)BC2000年ごろ


 一つの子音のみを示す個々の記号である単子音記号を26個ほど頻繁に使うということが、古代エジプトにおける最も顕著な発明であることは疑いない。これこそが世界初のアルファベットである。とはいえ、これには母音が含まれておらず、エジプトのヒエログリフの他の表音記号とこれら単子音記号とは、用法が異なるわけでもなかった。この単子音記号は、表語文字、表音文字、決定詞とともに使われた。エジプトの書記たちは、BC2000年より少し前に、子音アルファベットの原理、つまり子音だけで書くことを理解していたが、エジプト人たち自身はその文字を、ごくまれに、建造物などへのき絵として使っただけだった。ヒエログリフ(神聖文字)とヒエラティック(神官文字)では、あくまで伝統が重んじられていたので、根本的な転換を許す機運は生まれなかったのだろう。こうしてエジプト最大の偉業となり得る可能性を秘めたアルファベットは、そのままエジプトにおいて頓挫した。



(エジプトのワディ・エル・ホル碑文の文字)BC1750年ごろ


 新しい文字体系は若くて希望と野望に満ちた新興社会においてのみ出現する。これは仮説である。現在の西洋アルファベットの母体となったギリシャ・アルファベットは、フェニキア・アルファベットの借用であるというのがほぼ定説となっている。しかし、言語を視覚的に記録する道具としてこれほど単純で、これほど完璧なものが、一つの地方の文明から自然発生的に生まれたとは考えられない。それに先行するもっと未熟で原始的な文字体系が間違いなく存在していたはずだとされる。過去150年にわたるメソポタミア、エーゲ海、エジプトでの古代文明の大発見からうかがえるように、それはメソポタミアの楔形文字、ミノア文字、ヒッタイト文字、古代クレタ文字、古代キプロス文字、エジプトのヒエログリフから見出されると考えられる。特にエジプトのヒエログリフはかねてからアルファベットの起源として有力候補にあげられていた。


[ワディ・エル・ホル碑文]

 1990年にルクソール(テーベ)の北西30キロに位置するワディ・エル・ホル遺跡から発見されたエジプト中王国の第13王朝時代(BC1795年~BC1650年)の二つの碑文は原シナイ文字のような28文字(重複があるので14の文字種)が記されていた。これらの文字はヒエログリフと、それを簡略化したヒエラティックに起源があると考えられているが、それを考案したのは戦争捕虜でエジプトに連れてこられたレヴァント地方のセム系の書記だったかもしれない。一つの音に一つの子音記号を対応させ、アクロフォニー(頭韻書法)、つまり言葉の最初の文字だけを使用する方法を使った表記システムを考え出したのだ。



(原シナイ文字と原カナン文字)BC17世紀~BC16世紀ごろ


[原シナイ文字]

 そして、BC17世紀~BC16世紀ごろとされるシナイ半島のサラービート・ル・ハーディムというトルコ石の鉱山から出土したスフィンクスの台座に、絵文字に近い原シナイ文字が刻まれた碑文が発見されている。続いてパレスティナのシェケム、ゲゼル、ラキシュでも同様な例が見つかった。時を経て、これらの原始的なアルファベットはセム系の一般の商人、兵士の間にも拡がり、採鉱や軍事遠征の最中に岩の表面に刻みつけられたりするようになっていったのだろう。それらの原シナイ文字の文字数は27であり、BC13世紀ごろには22に減っている。絵文字ということもあって、書字方向は左方向、右方向、牛耕式、さらには縦書も見られるが、縦書はBC12世紀ごろに消滅している。また、原シナイ文字からフェニキア文字の他に原アラビア文字が分かれた。さらに、原アラビア文字はイエメンなどから出土している南アラビア文字(その子孫がエチオピア文字)、および北アラビア文字に分かれた。


 ワディ・エル・ホル碑文にせよ、原シナイ文字にせよ、エジプトのヒエラティックを、そこに働きに来ていた西アジア人たちが自分たちの言語で読んだ上で、その頭音の単子音だけを取って30字以内で自分たちの言語を表記した子音アルファベットは、実に画期的な発明であったといえよう。


[原カナン文字]

 1934年に考古学者たちはエルサレムの32キロ南西にあるラキシュの墳墓を発掘した。出土した陶器からBC1750年ごろのものと思われた。遺物の中には青銅の短剣があり、そこには4つの文字が書かれていた。まだ文字らしいとしか言えないのだが、そのうちの1つが原シナイ文字の「n」に似ていた。その後、他の遺跡からも文字が彫られた21の遺物、短剣、道具、土器片、鏃、瓶などが出土した。これらの文字は原カナン文字として知られる。これらの文字はBC1800年~BC1200年に書かれたと推定されていたが、現在では、原シナイ文字と同年代のBC17世紀~BC16世紀ごろのものと考えられている。


 おそらく子音アルファベットの知識は、西アジア人のヒクソスがエジプトを支配したエジプト第2中間期の第15王朝(BC1650年~BC1550年)の時代に、レヴァント地方に徐々に広まっていったと思われる。そのときにアルファベットという発想も広まったようだ。ちょうどそのころ、青銅器時代後期のBC1550年ごろに、古くからあったビブロスを除いて、現在のシリア、レバノン、イスラエルがあるレヴァント地方の海岸沿いに初めて都会的な港湾都市としてベイルート、シドン、テュロスなどが出現している。但しそこは、南にはエジプト、東にはアッシリア、北にはヒッタイトと3つの大国に挟まれた危うい場所だった。海岸沿いの町は、エジプトとヒッタイトの間でしばしば変わる国境線上にあり、商業、宗教、文字表記の面で両国から影響を受けていた。エジプトのヒエログリフはベイルートを越えて北に広まり、ビブロスまで伝わった。ビブロスはBC1700年ごろには、エジプトの文字システムを作り替えた文字表記体系、「疑似ヒエログリフ」を持っていた。一方、楔形文字は南へ広まり、シリアまで伝わった。



(ウガリトの楔形アルファベット文字)BC14~13世紀ごろ


 アルファベットの創造において、別の試みがほぼ同時期に北シリアとパレスティナ(カナン)で進んでいた。このことについてはいくつかの発見物からわかっているが、主に北シリアの古代都市ウガリトの記録から判明している。


 計数は文字に先行していた。その計数は粘土製のトークンというものを使って行われ、BC9000年ごろには西アジア全域に出現した。トークンは種類と数によって特定の事物を数えるための計算具として使われていた。つまり新石器革命、すなわち「農業革命」の直後にその結果として出現したといえる。その後、何千年にもわたってトークンはただ単純なひとまとめのものでしかなかったが、やがてBC4000年紀末ごろには紐でトークンをつなぐとか、その紐の先端をブッラと呼ばれる粘土塊で包むとか、トークンを丸くて中空の円球内部に封入するという方法が発明された。こうしたブッラや封球に乾燥する前にスタンプ印章が押されたものがあった。後代になると、印章は所有権や拘束力を表したり、権威づけなどに使われた。やがてその押印は粘土板にアシの尖筆で書くようになり、その後、楔形文字となっていった。メソポタミアでの楔形文字の発明から程なく、メソポタミアからの刺激を受けて、エラムやインダス川流域、エジプトでそれぞれ独立して文字体系の発明が相次いだ。楔形文字と同じく、これらの文字体系はすべて単語文字記号(物の意味を明示する記号)と音節文字記号(音を明示する記号)との組み合わせでできていたから、全体で何百という文字記号が必要となり、必然的に書く技術は訓練を受けたほんの一握りのエリート書記たちだけが習得した。


 メソポタミアとエジプトという二つの大河流域に栄えた高度な文明に挟まれたレヴァント地方では、その後、音節文字(子音と母音とが組み合わさった文字)だけの書法を編み出した。それは大衆も習得できるものだったので、それが完全なアルファベットへと発展して、結局は全世界で便利に使われることになった。その最初の例は、エジプトのシナイ半島から出た「原シナイ文字」で、BC17~16世紀ごろに位置づけられる。「音節正書法」として知られるその形体は古代エジプトのヒエログリフに由来すると考えられている。その次がBC14~13世紀ごろの北シリアのウガリト・アルファベットで、その外見はメソポタミアの楔形文字に類似しており、それを発展させたものである。その当時、メソポタミアの楔形文字の学問的な伝承とその文学はウガリトやその他のレヴァント地方の書記たちには知れ渡っていたと思われる。


[ウガリト遺跡]

 1928年、北シリアの小作人が東地中海の海岸から800メートル入ったのラタキアの北方の農地で墳墓を見つけた。そこはBC1200年ごろの共同墓地だった。当時シリアはフランスの統治下にあったので、翌年の1930年にはフランスの調査隊が派遣され発掘が行われた。そこからは後期青銅器時代にあたるBC1400年~BC1200年ごろの青銅の武器や道具、陶器などが出土し、そのほとんどに同じ文字が書かれていた。さらに、神殿、住居、楔形文字が記された粘土板を収蔵した書庫も現れた。あるものはアッカド語で書かれ、またあるものは未知の文字表記で書かれていたが、その表記体系がおよそ30という少ない文字でできていて、音節を記録するには少なすぎた。その後、言語学者が解読を試みて、アルファベットに間違いないことが確認された。そこは古代のウガリトの町だった。


 ウガリト語は解読され、そこには2種類の最古のアルファベット文字が使われていた。一つはフェニキアのアルファベットと同様に文字数は22だが、もう一方はさらに8つの文字が付け加わっていた。その文字配列は1949年に30の完全な文字が連続して並んだ粘土板が発見されて明らかになった。この順番は一部に欠けている文字があるものの現在のアルファベットと同じである。ウガリトのアルファベットを基にした文学、「ケレトの物語」の最後に自分の名前を「王の生贄いけにえ、イルミルク」と記すことは、一般的な文学の伝統の一部になり、300年から400年後にはヘブライ人にまで受け継がれた。ウガリト語とヘブライ語は近親関係にあることから旧約聖書のルーツがウガリト文化にあるとする学者は多い。ウガリトにおける神バァールへの賛歌と、ヘブライ人の神ヤハウェへの賛歌の内容はよく似ている。


 ウガリトは西の地中海、東のメソポタミア、南のエジプト、北のアナトリアの各文化圏を相手にする海洋都市国家であった。そのウガリトではユニークな「楔形文字アルファベット」が使用されていた。このために見かけはアッカド語の楔形文字ようだが、個々の記号はアッカド語の記号とは違っている。基本的な書字の技術はメソポタミアの規範に従っていたことには疑いがないが、実際の文字の形は少なくとも部分的には原カナン文字、あるいは原シナイ文字碑文の線文字アルファベットに感化されていたように見える。楔形文字は古くから西アジアで広く使用されていたが、簡易な楔形文字アルファベット文字の発明は港湾都市ウガリトで生活し働く内外の人びとに計り知れない恵みをもたらした。ウガリトで発見された1000枚以上の楔形文字アルファベット文字文書の中に、初心者が学ぶために楔形文字アルファベット文字をギリシャ語のα(アルファ)、β(ベータ)、γ(ガンマ)・・・と同じ順に並べて記した粘土板が数点あった。ギリシャ人はフェニキアのアルファベット文字をモデルに自分たちのアルファベット文字を考えた。おそらくウガリトの楔形文字アルファベット文字とフェニキアのアルファベット文字は、現在失われて存在しない原カナン・アルファベット文字のようなものを共通母胎にして発展したと思われる。


 現代の我々への遺産として直接伝えられたウガリト文字の順序(英語のABC順など)は、ヘブライ語やギリシャ語、さらに英語などのアルファベット順の先祖である。ウガリトの「楔形文字アルファベット」は、シリア・フェニキア・キプロス・パレスティナ、さらに南アラビア・エチオピアへと拡散していった。ウガリトの「楔形文字アルファベット」は唯一よく知られているアルファベットの楔形文字である。楔形文字のアルファベットが消滅して、アルファベットの伝統のうち別の分派で原シナイ文字あるいは原カナン文字の子孫がそれに取って代わったことは疑いない。ウガリト自体はBC1200年ごろに「海の民」によって滅ぼされ、それとともにウガリトの楔形アルファベットも姿を消した。



(フェニキア・アルファベット)BC11世紀ごろ


 原シナイあるいは原カナン文字のアルファベットの主な証拠はレヴァント南部のパレスティナ(カナン南部)であり、楔形文字アルファベットの主な証拠はレヴァント北部の北シリアであるにもかかわらず、フェニキア・アルファベットの発展の中心地はレヴァント中部のビブロスだった。


 カナンの絵文字的な原始アルファベットはBC12世紀に入るまで発達しながら使われ続けてきた。この原カナン文字も原シナイ文字と同様に、最初は縦書きにも横書きにもされたが、やがて横書きが優勢になった。これらの文字そのものも次第に単純化され抽象化されて、BC11世紀にはフェニキアの線文字的なアルファベット文字を生み出す下地が整ってきて、22個の文字によるシステムにたどり着く。それらはBC13世紀から紀元後2世紀までのさまざまな碑文に刻まれた文字で証明されている。


 フェニキア・アルファベットとして最も古い史料は東地中海沿岸都市のビブロス出土の「アヒラム王の石棺の碑文」である。このBC1100年ごろのビブロスの王の棺の蓋にはフェニキア・アルファベットで人物の名前が書かれていた。「この棺はビブロスの王アヒラムの息子、イトバールが父の永遠の休息所として造ったものである・・・」とある。

 アヒラム王の石棺の碑文発見の後からも、ビブロスから他の碑文が出土している。どのような経緯で発生したにせよ、右から左に書かれたフェニキアの22文字のアルファベットはうまく機能した。楔形文字あるいはヒエログリフを使用する大国に隷属しなかった多くの文化はこの文字に利便性を見出した。その後フェニキア文字は広がり、シリアのすぐ北に位置するアナトリア南部出土のBC9世紀とBC8世紀の碑文が明らかにしているように、レヴァント北方の諸都市国家で使われるようになった。

 さらにフェニキア・アルファベットは海外へ移住するフェニキア人とともに西へ伝播し、北アフリカやギリシャ沿岸、イタリア南岸、ガリア(現在のフランス)南岸などからも碑文が発見されている。北西アフリカのチュニジアではカルタゴの文字となってBC146年に町が滅びた後も生き延びた。カルタゴは、フェニキアの都市テュロスがBC814年に創立した植民地でローマと3度にわたるポエニ戦争を行った。ローマ人はカルタゴのことをポエニと呼んでいた。BC146年のカルタゴの完全破壊以前に用いられたポエニ文字とそれ以降の新ポエニ文字(紀元後2世紀まで)がある。ポエニ文字や新ポエニ文字では母音字が発達し、新ポエニ文字では母音表記まで試みられている。

 フェニキア文字の碑文は地中海の島々から遠くナイル川流域までの方々の町で見つかっている。そして1000年の間、しばしば手書き書体から派生した流れるような書体で命を長らえ、紀元後3世紀になってようやく滅びた。これはその後アルファベットが世界中に拡がって行く過程の初期段階であった。フェニキアの文字表記に利点を見出したギリシャの商人たちによって、ここからまたアルファベットはさらなる躍進を遂げるとになる。 


 22個の子音で構成されたフェニキア・アルファベットはフェニキア人の民族的な文字だったが、国境を越えて、BC9世紀までには近隣の6つの民族が自分たちの言葉を書き表すのにこれと同じ文字表記システムを使っていた。それらはアラム語、ヘブライ語、汎ヨルダン諸語である。そしてそれぞれの言語の中で独自の変化を遂げている。そういう変化の中で一番大きいのが、いくつかの文字が母音を表すのに使われたことである。アラム語とヘブライ語はフェニキア・アルファベットを取り入れ、それにいくつかの子音を追加して使用した。

 一方、フェニキアの文字は発音が示されないままだった。フェニキアの商人が地中海へ進出するとアルファベットも一緒に輸出された。BC900年までにキプロス島とクレタ島へ、その1世紀後には地中海西部のサルディニア島やイベリア半島南部へも伝わった。


 フェニキア人はアルファベット文字の最初の発明者ではなかったが、彼らが文字の歴史において果たした役割は大きい。ヨーロッパにアルファベット文字を紹介し、ヨーロッパの文字文化の扉を開けたのは、この海上交易の民フェニキア人であったからである。フェニキア人は地中海からさらにその先の大西洋にまでおよぶ世界を縦横に動いて活動し、北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に入植地を築いた。しかし、彼らが残した資料は戦いの中で失われ、彼らが果たした功績についても不明な点が少なくなく、彼らの文化も大部分が謎に包まれたままだ。しかしながら、現代人は毎日読み書きの作業をしながら、それはみな古代フェニキア人のおかげであることを知らされるのである。

 フェニキア語のアルファベットが最初のアルファベットではない。ある特定の文字が一貫して特定の音素を表わすアルファベット的要素は、間違いなくBC3000年紀以来のエジプト語ヒエログリフにも見られたが、エジプト文字がそこから一気にアルファベット式に飛躍することはなかった。そもそもヒエログリフは、聖職者たちによる統治が何世紀もの間ほとんど変わることなく続いた社会に必要な文字だったので、それを根本から変える理由はなかったのだ。学者たちが最初の本物のアルファベット文字と呼んでいるものが、北シリアのウガリトで発達したのはBC14~13世紀ごろである。フェニキアのアルファベット文字が発達したのはそれより少し後になってからだが、BC10世紀~BC9世紀ごろにはそれはすでに地中海世界全体で使用されていた。

 ギリシャ人はフェニキアのアルファベット文字を採り入れて自分たちの言語に適応させ、それが基になってヨーロッパのアルファベット文字が出来上がった。このようにフェニキア文字は今日のヨーロッパ文明の誕生にとって大きな貢献を果たした。例えば、フェニキア語のベート、ダーレト、カフといった文字の呼び名は、そのままギリシャ語のベータ、デルタ、カッパに受け継がれている。フェニキア語のアーレプは、ギリシャ語のアルファ、ラテン語のAの先祖であるが、実際にはアーレプは声音閉鎖音である。事実、フェニキア語やヘブライ語のアルファベットには母音がない。それは英語の「text」の母音を抜いて「txt」と書くようなもので、記憶術には役立つが、意味や言葉の明確さに欠けるという点では劣る。

 しかしながら、そうしたアルファベット文字の簡略性は同時に長所でもある。象形文字に比べ、アルファベット文字は明らかに融通が利く。ウガリト語アルファベットと同じく、フェニキア語アルファベットも海洋貿易に従事する人びとの必要から生まれた。職業柄、彼らは常時あまり言葉の通じない人びとを相手に取引きしたり、雇用を考えたりしなければならなかった。彼らは何事も素早く書き留める方法を身に着ける必要があったのだ。

 アルファベット文字が世界に広まり使用され続けたのは、何よりも通商に便利だったからにほかならない。言語は人びとが話し言葉として生活していれば生き続けるように、アルファベット文字も人びとがそれを筆記に用いる限り生き続ける。多くの学者は、ウガリト語アルファベットもフェニキア語アルファベットも共に、今や失われた原カナン語アルファベットから派生したと考える。しかし、エトルリア人やギリシャ人を含む地中海世界の人びとの間に広く受け入れられたのは、広い交易ネットワークに乗って運ばれたフェニキアのアルファベット文字であった。フェニキア人やエトルリア人は歴史的に忘却の彼方へ追いやられてしまったが、ギリシャ人はヨーロッパの文化史の基礎を準備する上でより直接的貢献を果たした。それはアルファベット文字を持っていたからこそである。


 フェニキア人は小形の帆船で、北極星を頼りに海を渡り交易を行った。彼らの生活についてはわずかな手がかりしか残っていない。それは金メッキされた神の像のような工芸品や敵がつづった歴史である。フェニキア人はBC1200年以前にはカナン人と呼ばれていた。ギリシャ人は彼らを特産品である赤色を帯びた紫色の布にちなんで、「赤い人びと」を意味する「フォイニケス」と呼んだ。この言葉が転じて「フェニキア人」となった。カナン人は目の細かい亜麻布の生地を織る技術をエジプトから習い覚えた。BC12世紀まではレヴァント北部の商業都市ウガリトでのみ生産されたが、「海の民」による混乱の中でウガリトが滅亡した後、次第にその南のビブロスをはじめとするフェニキア海岸都市へと伝わっていった。フェニキア人とは、ビブロス、テュロス、シドン、アルワド、アッコなどの交易都市の住民のことである。しかし、フェニキアという国はなかった。彼らは自分たちの間に政治的な共通点があるとは思っていなかったし、ましてや一つの国としてまとまろうなどとは考えもしなかったからだ。お互いに張り合うフェニキア人の港があるだけで、彼らの共通の関心事は交易だった。そうはいっても、カナン人という同じ祖先を持つために、言語や習慣や文字では共通点があった。彼らはメソポタミア、ヒッタイト、エジプト、キプロス島、クレタ島、ギリシャ本土といった大きな市場を結ぶ中間商人として名をはせた。東には山々が迫り、内陸部は巨大な大国が占領していたから、地中海東岸のレヴァント地方に散らばる港町は海に目を向けるしかなく、南はエジプト人、クレタ島近海はミノア人とその後を継いだミュケナイ文明のギリシャ人が仕切る市場の隙間を狙って活躍した。フェニキアの都市国家はそれぞれに世襲制の王を擁していた。彼らは避けられない場合は敵に従い、可能な場合は抵抗した。敵の軍隊が退去すれば、また自分たちの組織を立て直し、小競り合いの後に融和した。それはすべて生き残りへの強い欲求の為せるわざだった。このような交易都市で暮らす人びとには文字表記が必要だったが、その用途は商取引を支障なく記録するという一点に絞られた。ヒエログリフも楔形文字もそれぞれに欠点があった。一方は複雑であり、もう一方は時の支配者や同盟国の違いや、拮抗する文字表記の影響によって一つの形に定まらなかった。結果から言えば、この交易都市で暮らす人びとには新しい文字体系を受け入れるのに適した二つの重要な素地があった。まずその溢れる野心、そして巨大で保守性の強い文化の周縁での生活である。



(アラム文字とカナン文字)BC10世紀ごろ


 BC10世紀に、さらに二つの北セム文字が現れた。アラム文字とカナン文字(古ヘブライ文字)である。アラム語はペルシャ帝国の興隆とともに増大し、帝国のアラム文字は西方地域の主要な文字形態となった。それはアッシリアの楔形文字に取って代わった。アラム文字は後にヘブライ文字やアラビア文字となった。フェニキア人はアラム文字が生まれるきっかけを作り、アラム文字は南アジア・東南アジアの多くの言語が生まれるきっかけを作った。さらに、遠縁のインド系諸文字の二次的影響を経て、モンゴルや満州帝国の文字を生むきっかけをも作った。


[アラム文字]

 シリアでいくつかの都市国家を形成していたアラム人は、BC11世紀ごろにフェニキア人から文字を採り入れていたようだが、独自の発達が見られるようになったのはBC8世紀からである。フェニキア文字と同じく22文字から成り、横書きで左向きに書いた。BC10世紀末、メソポタミアを中心にシリアとレヴァント地方まで支配するようになった新アッシリア(BC911年~BC612年)と、続いて新バビロニア(BC612年~BC539年)、さらにアケメネス朝ペルシャ帝国(BC539年~BC330年)が、その広大な領土とそこに住む多様な民族を統治するために、文字数が600を超える自分たちの楔形文字ではなく、わずか22文字で済むアラム文字を共通文字として使った。特にペルシャ帝国は、西はエジプトから東はインダス川流域まで支配したため、その広大な領土の各地から均質化したアラム文字の史料が広範囲にわたって出土している。そしてペルシャ帝国崩壊の100年後には、各地方独自のアラム文字が発展していた。各地方では、アラム文字を使い、アラム語で綴りながらも、実際に読むときには自分たちの言語で読んでいたことが、各自の言語の接尾語が付いていたことなどから判明している。


[カナン文字(古ヘブライ文字)と現在のヘブライ文字]

 フェニキア文字を採り入れたのが、南に接していたヘブライ人で、BC12世紀~BC11世紀ごろとされる。最初期のヘブライ語碑文はフェニキア文字を使っている。これがゲゼル出土のBC950年ごろの農事歴で1年の農業活動の短い目録を持つ小さな石板である。2010年にそれより古いBC10世紀のヘブライ語碑文が発見された。

 BC9世紀ごろにフェニキア文字とは異なる字形を発達させてヘブライ文字となったが、その史料は古代イスラエル王国の地からではなく、死海を挟んで東側のモアブの碑文である。モアブ人は旧約聖書でヘブライ人と祖先を同じくすると記されている。言語としては、ヘブライ語とモアブ語は方言程度の違いしかない。ところが、このヘブライ文字をヘブライ人は捨ててしまった。そもそもヘブライ文字は一地方の文字であり、BC597年とBC587年の2度にわたる新バビロニアによるバビロン捕囚と、70年にわたるバビロン滞在、およびその後のペルシャ帝国により支配の間、広く使われていたのはアラム語だった。祖国に帰還したヘブライ人は、やがてこのアラム文字を「アッシリア文字」として神聖な文字と見なし、BC3世紀からの死海文書はその大半がアラム文字で書かれた。但し、神の名「ヤハウェ」のみヘブライ語で書かれている。その後、この文字は「ヘブライ角文字」「方形ヘブライ文字」などと言われるようになり、現在では「ユダヤ文字」と命名されている。現在ヘブライ文字と言えば、アラム文字起源のこちらを指すようになり、元々のヘブライ文字は「古ヘブライ文字」と呼ばれるなど、いささか奇妙なことになっている。この両者は字形が非常に異なっている。但し、古ヘブライ文字は絶滅したわけではなく、現在イスラエル北部に少数住んでいるサマリア人が、装飾の多い独自のサマリア文字を発達させて今に伝えている。


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 アルファベットはほとんど例外なく、文字自体には何の意味もない。文字の意味が発生するのは、一つあるいはそれ以上の文字が組み合わさって一つの単語を生み出すときだけである。数詞、数学記号、句読点、その他の記号を含んではいるが、どのアルファベットでも音素が優位に立っている。また、アルファベットは単に話し言葉を再生する一方法にすぎない。最古のアルファベットは4000年以上前にエジプトで作られた子音アルファベットだった。その理由は、ほとんどのハム・セム語族と同様に、エジプト語もその単語構造において子音が優先されるからである。東アジアのいくつかの文字体系を除くと、現在の文字はすべてエジプトおよびカナンの最古のアルファベットに由来している。エジプトの原始アルファベットからセム語の子音アルファベットへの移行において中心的な役割を演じたのはBC17世紀~BC16世紀ごろごろの原シナイ文字である。この文字は原始西セム語の子音を伝えるために考案された。古代北セム文字であるフェニキア文字・カナン文字・アラム文字は、すべて30字に満たない子音アルファベットの典型である。


 BC1225年~1175年の50年間に、青銅器時代の社会は300年以上の繁栄を終えた。ヒッタイト、トロイアなどのエーゲ海文明の中心都市、クレタ文明、タルスス・ウガリト・アララク・アシュケロンなど交易の中心となった都市は全滅した。エジプト新王国の繁栄も衰退した。これはすべてエーゲ海の「海の民」、すなわちエーゲ海方面から来た素性不明の民族集団に起因した。この民族の主力はバイキングに似たミュケナイ人と思われるがまだよくわかっていない。「海の民」はカナン・エーゲ海・アナトリア・キプロス・レヴァント海岸地域を一変させた。ウガリトの楔形文字のアルファベットは一夜にして棄て去られ、最終的にビブロスの西セム系民族が使ったアルファベット、フェニキア文字のみが生き残った。青銅器時代にカナン人だった人びとは、鉄器時代にはフェニキア人になっていた。フェニキア人は突然現れたのではなく、ビブロス・テュロス・シドン・ベイルート・アシュケロンなど海岸都市に住んでいたセム系の人びとである。彼らはBC1050年ごろまでに「海の民」である異民族集団の勢力が衰えると、代わって地中海沿岸の港を支配するようになった。彼らは隊商を送り出し、地中海東部沿岸に商業中心地を確立した。このような商業中心地には新しい子音アルファベットが必要だった。フェニキア文字は西セム文字そのものである。フェニキア人はビブロスの音節文字の代わりに、青銅器時代のカナン人が使っていた絵文字風のアルファベットを線形のアルファベットに変えた。西洋のアルファベットはすべてこのフェニキア文字から派生したものである。しかし、フェニキアの人びとは文字の数を必要最小限の数に減らし、それぞれの記号をその言語にとって基本的な音に正確に対応させるという極端な改良の結果、子音を表示する文字以外のものを破棄してしまった。そのため言葉とその構造を知っている書記によって母音を補って読まなければならない。この場合においても、書かれた文書はすべてのことを語っているわけではなく、この点からすれば、常に忘備録としての意味しかないといえる。


 *ギリシャ・アルファベットについては次の「90話」で述べる。

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