第88話 アルカイック期の美術と宗教・神話の世界

(アルカイック期の美術)


 アルカイック期に続くBC5世紀らBC3世紀の後葉までの古典期には、ギリシャの諸都市は創造性に溢れ、政治や芸術、科学の分野で目覚ましい革新を遂げて、西洋文化の基礎を築いた。この古典期に先立つ時代は「アルカイック(古いの意)」の名で知られ、古典期に劣らず豊かで重要だと考える人は多い。エーゲ海東部のイオニア地方、小アジア沿岸近くに浮かぶサモス島からアルカイック後期の数百体におよぶ石製のクーロス(青年の裸体立像)やコレー(少女像)が発見されていてアルカイック期のシンボルとなっている。彫像のなかには稀に青銅製もある。なかでも注目されているのが、高さ5メートルの黒い縞目入りの大理石製のクーロスで、背筋を伸ばして立つ姿はエジプトの彫像を思わせるが、その滑らかな美しさとモナリザのような不思議な微笑みは独自のものだ。新鮮で生気にあふれ、楽天的な表情のこれらの像は若さの象徴だが、当時の活発で新しい時代をも反映しているのかもしれない。サモス島では無名の彫刻家たちが自由に新しい試みに挑み、巨大像を製作した。こうした実験的精神はこの時代に特徴的なもので、より自由な個人の表現を許した政治的風潮が美術や文学にも影響していたかのようだ。実際、詩人たちが自らの言葉で明確に語り始めたのもこの時代だった。

 暗黒時代の抒情詩人で正体不明のホメロスとは違い、アルカイック期の詩人たちはその情熱と思いつき、愛と嫌悪といった個人的な感情を抒情詩で激しく歌い上げた。同じくエーゲ海東部のレスボス島生まれの女流詩人サッフォーのBC6世紀初頭の作品には、彼女の愛する女性が男と話しているところを見て嫉妬に燃えた心情が記されている。

 BC8世紀には初めて陶芸家の署名入りの陶器も登場する。有名な古代ギリシャの陶器は古典期のものと思われがちだが、実際は最も優れた作品はアルカイック期に作られている。コリントスの陶工たちは当初、自然な素地の色を背景に、人物像の優雅なシルエットを黒く塗る黒像式技法で描いた。しかしBC530年ごろ、新しい技法がアテナイで生まれた。これは色遣いが逆で、背景を光沢のある黒で塗り込み、人物は塗り残した素地の赤い部分で表現した。この赤像式技法は、細部をより生き生きと表現できるため、急速に広まった。BC510年~BC500年ごろに活動した陶器画家エウフロニオスは初めて、人体を解剖学的にとらえた。彼とその仲間たちは先駆的画家で、明らかに筋肉に興味を持っていた。さらに遠近法や瞬間的な動きの表現も試みている。赤像式で描いた陶器画家たちが、写実主義へと向かっていた様子がうかがえる。

 ヨーロッパでは18世紀以来、古代ギリシャの彫刻、陶器、メダルあるいは硬貨は、常に好事家たちの垂涎の的となってきた。今日では、それらに値をつけようがないほどだ。このような熱狂ぶりは、ギリシャ芸術が今も我々の好みや感受性に如何に強く訴えかけてくるかを示している。しかし、こうした芸術作品は一つの意味を持っており、単に審美的満足ためではなく、まず第一義的には、宗教的目的に捧げられたものなのである。したがって、この製作の本来の意図を捉えないと、まるで反対の意味に解釈してしまう恐れがある。アルカイック期および古典期のギリシャ芸術の製作者は、予定されている目的に適うようにその製品を作ったのである。神殿は記念建造物であるより前に神の家であり、彫像は美の造形物である前に奉納物であった。盃はまず飲むための容器であり、使われている素材と施されている装飾は単に付加価値にすぎない。その意味で、スタンダールが“アテナイ人にあっては、美は有効性の突起物でしかない”と言っているのは的を射ている。「芸術のための芸術」というのは、ギリシャ人の意識においては無縁の理論なのである。



(ギリシャの宗教)


 我々現代人のほとんどの人にとって、ギリシャの宗教とは本質的にはルネッサンス以来、詩人や芸術家がギリシャ・ローマの人びとを模倣して題材として利用してきたさまざまな伝説の総体であり、これらの神話的思い出にデルフォイやアテナイのアクロポリスなどはるか昔に見捨てられながら今も美しさをたたえている建造物がそびえ立つ、悲壮で壮大な聖域の廃墟が喚起するイメージが加わる。


[ギリシャ人の自然観]

 古代ギリシャの初期にあたるアルカイック期前半(BC8世紀前葉~BC7世紀前半)まで、自然に対するギリシャ人の理解はメソポタミアと余り変わらなかった。メソポタミアにおいて文字言語が発明されてから何千年もの間に残された膨大な文章の中からは、この世界がどのようにして誕生し、どのような力に支配されているかに関するありとあらゆる物語が見つかる。そのすべてに共通しているのが、人智の及ばない神が形のない何らかの空虚の中から荒れ狂う宇宙を創造したという記述である。Chaos(混沌)という単語自体、宇宙創成以前に存在していたとされる「無」を意味するギリシャ語に由来している。万物創造以前に全てが混沌だったとしたら、ギリシャ神話の神々は世界創世後に精力を注ぎ込んで秩序をもたらそうとしなかったらしい。雷・暴風・干ばつ・洪水・地震・火山・寄生虫・事故・病気など気まぐれに起こる数々の自然の厄災が、人間の健康や命を脅かした。わがままで不誠実で移り気な神々は、怒りや単なる不注意で常に災害を引き起こしていると考えられていた。この原始的な宇宙論はギリシャで世代から世代へ口伝えられ、ギリシャ文化にアルファベット文字が広まってから100年ほど経ったBC700年ごろに、ホメロスとヘシオドスの手で文章に残された。それ以来この宇宙論はギリシャの教育の中心テーマとなって何世代もの思索家に知識として受け入れられた。自然に対する新たな合理的取組みは、アルカイック期後葉のBC6世紀に、エーゲ海の東方、小アジア沿岸のイオニア地方に住んでいた革新的な思索家集団によって始められた。アリストテレスより数百年前、彼ら最初期のギリシャ人哲学者はこの宇宙を無秩序でなく秩序立ったものとして、すなわち「カオス」でなく「コスモス」としてとらえるというパラダイムシフトを引き起こした。彼ら革新的な思索家を生んだ地域は、ブドウやイチジク、オリーブが実り、繁栄した都市国家が点在する魅力的な土地で、海に流れ込む河口や湾に面して、内陸には道が延びている国際都市ミレトスだった。イオニア地方はヘロドトスいわく、「世界中で最も美しい雰囲気と風土」の楽園で、当時そこはギリシャ文明の中心地だった。ヘロドトスによると、BC10世紀に入るまでミレトスはクレタ文明のミノア人の末裔であるカリア人が住む小さな町だったという。しかし、BC1000年ごろアテナイやその近郊の兵士がこの地域を侵略した。BC600年にはミレトスはより良い生活を求める移民がギリシャ全土から集まるようになり、ミレトスの人口は10万にまで膨らんで富の中心地へと発展し、イオニアひいてはギリシャ世界全体で最も豊かな都市国家となった。


 ギリシャはポリスという数々の小国家から成り、それらがまとまり一つの国家を形成したことはなかった。それでもギリシャ文明と呼ばれるようになったのは、一つには個別の方言を超えた共通な言語、すなわちギリシャ語、もう一つにはさまざまな信仰や各地方特有の崇拝を超えた民族的宗教、という二つの要因があったからである。実際、各ポリスには自分たちの守護神あるいは女神を敬う神殿から成る中心部がそびえ立っていた。アテナイはアテナを、エレウシスはデメテルを、エフェソスはアルテミスをというようにそれぞれの守護神があった。但し、神殿に入ったり、そこで行われる儀式に参加する権利があったのは市民だけだった。これは市民たちの特権であり、彼らの生涯で最も重要な出来事である出生・結婚・死は、その神殿で神の名において儀式が行われた。そしてギリシャには、あらゆる美徳、悪徳、地上および天上のあらゆる現象、成功、不幸、聖務、職業を擬人化するための神々が存在していた。これほど多くの神々を創出したり、呪ったり、崇拝したりした民族はかつてなかった。「これらを全部思い出せるような人はこの世に皆無だ」とはヘシオドスの言である。これほど多くの神々がいたのは、ペラスゴイ人、アカイア人、ドーリア人というギリシャに数次にわたり侵入して、定住した民族混合によるものである。彼らはそれぞれ固有の神々を持込んだが、先住の土着の神々を破壊しなかった。最初の神々はペラスゴイ人のもので、天上ではなく地上の神々として知られている。その筆頭はガイア(大地そのもの)であって、いつも妊娠し、乳母として授乳に没頭している女神である。その後に続くのは少なくとも1000の神々で洞窟や樹木や河川に住んでいる。当時のある詩人はこう嘆いている、「一升のコムギを隠す場所がわからない。どの窪みも一柱の神で占領されているからだ」。どの風ですらも一柱の神で擬人化されていた。アルテミスのように純潔な女神もいたが、デメテル、ディオニュソス、ヘルメスのような破廉恥な神々もいた。

 オリュンポス、つまり神々の居場所が地上ではなく、天上だという考え方をギリシャにもたらしたのはアカイア人である。征服者であるアカイア人がガイアの神殿がそびえていたデルフォイに到達したとき、彼らはこの神をゼウスに替えてしまった。そして彼らは徐々に、すでに崇拝されていた地上の神々の上に、彼らの天上の神々を押しつけた。こうして二つの信仰が出来上がったのだ。ホメロスが我々に語っているのはオリュンポスの、つまり天上の神々についてだけだが、それは彼が金持ちたちに雇われていたからで、彼はこの支配者たちの信仰に属しているのであり、ゼウスは王なのだ。とはいえ、ゼウスは世界を創造したわけではなく、全知全能でもなく、部下たちからよく欺かれているし、女神や普通の女性たちにも激しい情念を抱き多くの子を産ませた。ゼウスの息子たちも同じように無秩序な一群の子孫をゼウスに与えた。パンテオン(万神殿)が如何に言い争い、落ち着かず、陰口に満ち、明確なヒエラルキーのないものだったにせよ、それでもそれはギリシャ全土に共通していた。また各ポリスがそれぞれの神や女神を選んだにしても、いずれのポリスもゼウスの優位を認めていたし、しかも重要なことは同じ儀式を行ったという点である。エジプトでは神官が国家の支配者だったが、ギリシャでは国家の支配者が神官に聖務を行わせていた。聖務は、生け贄、頌歌しょうか(壮麗な合唱歌を伴う抒情詩の形式)、行列、祈祷、そしてときには祝宴から成っていた。そして各ポリスが毎年その守護神を祝う大祭礼には、他のポリスがすべてそれぞれの代表者を派遣した。このことは、反中央集権的で、争い好きで、分離主義的なギリシャ人どうしの間に、わずかな強固な絆の一つとなっていた。

 ギリシャに神学校はなかったが、儀式や神託の専門家はいた。ギリシャの宗教は道徳的内容のない、単なる手続きの儀式にすぎなかった。信者に対していかなる信仰も求めなかったし、また信者に幸福が提供されることもなかった。いくつかの形式的な慣行を遂行することしか要求されなかった。とはいえ、ギリシャの宗教は基本的な義務は果たしており、これなくしては、いかなる社会も存立し得なかった。それは結婚を神聖なものとし、離婚を認めなかったし、子供の出産を義務化し、また家族・部族・国家への忠誠を極めて大切で必要なものとしていた。ギリシャ人の愛国心は宗教と緊密に結びついていたのであり、自国のために死ぬことは、自分たちの神々のために死ぬのに等しかった。



(ギリシャ神話の世界)


 ギリシャ人たちは、神話の分野では「恒久不変のドグマ(教義)」といったものを全く知らなかった。崇拝の場はたくさんあり、人間の分散と都市の独立主義のために、伝承は増殖し多様化した。こうした多様性に気づいていた詩人たちは、神についての自分たちの感情に抵触しない限り、機会があればさらにさまざまなものを遠慮なく付け加えた。悲劇作家たちも同じである。彼らは誰はばかることなく自分の空想に任せて伝説をアレンジした。このため古い神話も、その内容は驚くほど柔軟性を持つものになった。

 本来の意味で考古学的な宗教に関する資料は二つある。建物の遺物と図像表現の遺物である。建物の廃墟は、破壊状況によって程度の違いはあるが、その聖域の平面図とそこにどんな建物がどのように配置されていたかを教えてくれる。神殿本体と宝物庫、祭壇、秘儀用の特別な建物、柱廊、奇跡の泉などである。古き物の再現にひと際貢献しているのが、図像表現の遺物である。奉納の儀式に関係したものであれ、有名な図像作品の模造であれ、発見された彫刻は我々に神のイメージを蘇らせてくれる。祈りのために奉納されたレリーフは神の前に詣でた信仰厚き人びとの姿を描き、弔いのためのレリーフには死によって永遠の安らぎの世界に入った亡き人を囲む遺族の様子が示されている。また、宗教的建造物の装飾や人物場面、かめに描かれた絵などとともに、文献から得られた情報がこうした考古学的資料と照合することによって、生き生きした生命を持つようになる。

 これらの資料からわかることの一つは、古代ギリシャの宗教が社会的集団と密接に結びついていたことである。古代のギリシャ人は自らを孤立した個人とは考えていなかった。彼らにとって、所属している社会的集団から離れて救いがあるなどということは、想像も出来ないことであった。彼らはすぐれて社会的な存在、アリストテレスの言葉を借りて言えば「ポリス的動物」であり、自分の運命は他者とつながっていて、この結びつきによってのみ真に救いが実現されるとの意識を持っていた。しかしだからと言って、ギリシャ人には個人的・自発的な形での宗教的感情がなかったということではない。それどころか、彼らは神秘的で超自然的な一つの力を前にしたときに人間が抱く尊敬と畏怖との入り混じった気持ちを表現する一つの語彙を持っていた。それは「タンボス」で、ギリシャ人たちはそれを頻繁に感じていたようだ。それは神の存在を直に感じることで、荘厳な風景とか秘密の場所、光と影、静寂と騒音、鳥の飛翔、獣の通過、美しい樹木の持つ威厳、岩の形、泉の水の清澄さ、力強い川の流れ、アシのそよぎ、肌を撫でていく風、雷鳴の轟き、月の光線、真昼の熱さ、絶え間ない波のざわめき、などがそれである。繊細で不安定なギリシャ人の魂は、これらのさまざまな光景からの影響を貪欲に受け入れた。そしてそこに、我を忘れてある神の仕業と思われる一種の甘美な心のときめきを味わった。そのため神々はかくも多く、いたる所に見出されるのだ。その多神教は自然全体が神的存在に浸透されているという非常に強い感情を根源に持っているのである。根底において宗教的なこの人びとが、また同時に、論理的合理性に取りつかれてもいたのであり、この二つはどちらも互いに妨げ合うことはない。彼らを合理性の方へ引き入れたのが、社会的生活への志向性と論議好きとであった。その後、古典文化(BC500年~BC322年)の最盛期に到るまでギリシャ文化を導く自然主義への発展は、ギリシャ宗教の「神人同形」の傾向をますます強めていき、それが原始的信仰や動物を神として崇める原始時代の宗教の仲間からギリシャ人が抜け出るのを助けたのだった。神人同形の宗教においては、崇拝は神がどのような姿をとるかということと密接に結びついており、そこから芸術家に対しても注文がつけられた。つまり、ギリシャ人たちがその神について作り上げている想像上のイメージに具体的な形態を与えることが彼ら芸術家の仕事だった。こうして彼らは、神は人間に似ているので人間をモデルとして研究せざるを得ないし、自分の芸術を媒介にして、これこそ神にふさわしいと思われる完璧な美しさをその像に付与しなければならない。したがって、ギリシャ芸術にあっては自然主義的探求と理想化とが互いに拮抗するのではなく、相補う二つの志向性となっている。


 古代ギリシャ人は多くの神々を崇拝していた。神々はギリシャ北部のオリンポス山に住んでいるといわれた。またギリシャ人は、神々は不死身だと信じていた。神々の王であるゼウスは、雷と稲妻、黄金と王たちの神だ。彼の息子アポロンは太陽と純潔の神であり、音楽、医療、予言をつかさどる。アテナイの女神であるアテナは、戦い、手工芸、知恵の女神だ。デメテルは収穫の女神、そしてアフロディテは愛の女神、その他にも、「咲き初めた花のような初々しい若者」ディオニュソスはブドウ酒、行動、破壊の神、ポセイドンは海の神、ハデスは死の支配者などがいる。アテナイの人びとは、アテナイの女神「灰色の瞳のアテナ」が男たちにオリーブと女たちを与えてくれたと信じていた。アテナは鍛冶の神ヘファイストスがゼウスの頭を斧で割ったときに生まれたと言われている。

 ギリシャにはたくさんの神話があったが、その多くは暴力と残忍性に満ちている。ある神話では、龍の翼と100の頭を持ち、それぞれの口からそれぞれの声で唸り、吠え、叫ぶ、獰猛どうもうな怪物テュポーンが登場する話がある、ゼウスがテュポーンの上にシチリア島を投げつけ打ち負かしたのだ。テュポーンはその下でもがき苦しんだ。こういった多くの神話の中で、古代ギリシャ人は当時科学的に解明のつかなかった事柄に答えを出そうとしていた。テュポーンの物語は、シチリア島にあるエトナ山の噴火の原因を説明してる。我々人間はどこからきたのだろうか。神話では、プロメテウスが粘土から人間を作ったとされている。火はどこから来たのだろうか。プロメテウスがゼウスから火を盗み、人間に与えたのだという。この神話の中で、ゼウスがプロメテウスを罰するために彼を岩に括り付けている。毎日ワシがやって来ては彼の肝臓を食べるのだが、一晩経つと肝臓はまた再生してしまうのである。

 ギリシャ人は、神々は強いが、同時に残酷で、嫉妬深さからさまざまな問題を引き起こすとも信じていた。だから、苦しみや病気や災害がもたらされると考えたのだ。神話の中に、神々がアテナにアテナイを与えたとき、ポセイドンが怒って大津波を起こし、陸地に水をあふれさせたという話がある。歴史家は、そういった数々の物語は人々の記憶にある実際の出来事だったと考えている。地質学者たちがBC1700年ごろサントリーニ島で起こった火山の大噴火の証拠を発見している。その噴火のために大津波が起こったと考えられる。

 ギリシャ神話の中で描かれる人間の英雄たちの話も、遠い昔に起こった実際の出来事に基づいているという。その中には、テーバイの英雄ヘラクレスの物語がある。彼は数々の難業をこなしていった。例えば、ネメアの巨大なライオンやミノス王の牡牛といった動物たちを打ち負かす物語があるが、おそらくかつてテーバイに狩りを得意とする支配者、あるいはネメアやミノスという国を打ち破った支配者がいたのだろう。また、テセウスという英雄もいた。彼は半人半牛のミノタウロスを殺し、アテナイの支配者になった。歴史家によると、この物語はミノア文明時代のクレタ島で牡牛の犠牲となった人間の話が人びとの記憶に残っていて、それが暗黒時代のアテナイの名高い王の話と一緒になったものだという。また叙事詩人ホメロスは「イーリアス」の中で、小アジアのトロイアとの戦争の話を語っている。これはギリシャの海賊たちがトロイアを急襲したという実話を基にして創作されたという。

 ヘシオドスはホメロスと並んで、ギリシャ神話の神々の姿形、役割と活動範囲について古典的な概念の基礎を築いた功労者とされている。それらの概念は主に、神々の系譜を詠った「神統記」の中で示されたが、もう一つの代表作「仕事と日々」も全体としては農夫の暦でありながら重要な政治的・宗教的メッセージを含んでいる。


生贄いけにえと迷信]

 古代ギリシャ人は、神々ははるか遠くにいても、その天の恵みや天罰は即座に成功や災害をもたらすと考えていたので、人びとは迷信深かった。例えば、ネコが目の前を横切ったら、道の向こうに石を3個放り投げるまでは決して動こうとはしなかった。フクロウがホーホーと鳴いているのを耳にすると、彼らは「アテナが女王だ!」と叫んだ。神々を喜ばせる一番の方法は生贄を捧げることだった。たいていはヒツジかブタが生贄に捧げられた。まず彼らは生贄の動物の上にオオムギをまき、それから喉を切り裂いた。そして大腿骨を火にかけ、最後は残った肉を料理して食べた。そのような儀式がギリシャの家庭でよく行われていた。家長が神々に健康と富を願って祈りを捧げている間、儀式に参加している者は全員手をその生贄の上に載せていた。家長は立って、両腕を持ち上げた姿勢で祈った。ソクラテスの祈りの言葉は、「我が土地の神々よ、我が心を清めたまえ」というものだった。


 宗教は国民的行事だった。アテナイの住民は皆、パンアテナイア祭に参加していた。「我らが都市の守護神、1国の女王アテナは、戦いに強く、我らに勝利を運んでくださる」と人びとは歌いながら町を行進した。祭りのほとんどは農作に関する儀式だった。初収穫の祭りタルジェリア祭では、少年たちが家の玄関に木の枝を吊り下げた。ブドウ酒の神ディオニュソスの祭りであるアンテステリア祭では、男たちが一言も口を利かずに酔っぱらうまで酒を飲み、やがて「死の魂よ、出ていけ!」と叫ぶのだった。夏の終わりに収穫の女神デメテルを称えて行われるエレウシスの大密儀という祭りは、21日間続き、最後にアテナイからエレウシスまでの23キロを歩いて終わりとなった。ギリシャ人たちは神々がこれらの祭りを見守っていると信じていた。神々を喜ばせるために、彼らはスポーツ競技会を催し、ランナーたちが燃える松明たいまつを手にレースを行った。また役者・弁論家・合唱隊などの間でもコンテストが行われた。


[神託所]

 ギリシャには約250ヶ所の神託所があった。最も有名なのがデルフォイにあるアポロンの神託所である。人びとは何か新しい冒険を始める前に、そこを訪れてアポロンの助言を求めた。彼らはまず自分の体を洗い、生贄を捧げる。それから最も神聖な場所アデュトンへと向かうのだ。アデュトンの真下には洞穴があり、小川が流れている。ピュトネスと呼ばれる巫女みこがその小川の蒸気を吸い込みながら、酔いしれて乱心するまで月桂樹の葉を噛み続ける。彼女の叫び声と狂乱の言葉は、アポロンからの伝言だと思われている。神官が彼女の言葉を聞き、それを訪問者たちに伝える。謎かけのような言葉であることが多い。


 ギリシャの宗教は多神教で、神々はしばしば人間と同じような感情を持つ男女として描かれた。ギリシャでは古典期を通じて、オリンポスの12神が最も重要な神とされていたが、それぞれの神に複数の性格が与えられることも多かった。その12神とは、ゼウス、ヘラ、アポロン、アルテミス、アテナ、アレス、アフロディテ、デルメル、ヘファイストス、ポセイドン、ヘルメス、ヘスティアである。


・アテナイの守護神アテナ

 オリンポス12神の他にもさまざまな神が信仰され、都市国家にもそれぞれ守護神がいた。例えば、アテナイの守護神は、知恵と芸術と戦争の神アテナだった。アテナはゼウスの娘で戦いや都市の攻略を好んだ。アテナイの人びとはアテナが男たちにオリーブと女たちを与えてくれたと信じていた。アテナは鍛冶の神ヘファイストスがゼウスの頭を斧で割ったときに生まれたといわれている。その美貌に惹かれて言い寄る男神は数多くいたが、彼女は厳格なまでに処女を貫いた。またアテナは自身の逸話もさることながら、ペルセウスやヘラクレス、オデュッセウスといった名だたる英雄たちに助言や援助を与える存在として神話の各所に登場している。神を祀る儀式は普通、屋外の祭壇で行われた。祭壇は神像が安置されていた神殿の中ではなく、神域の入口の正面や、集会所、共同体の首長の家に設けられていた。


・愛の女神アフロディテ

 アフロディテは、ヘファイストスの妻で、軍神アレスの愛人で、美しい青年アドニスを愛人にし、愛の神エロスの母でもあった。またこの女神は、スパルタ王の妻ヘレネを誘拐してトロイア戦争の原因を作ったトロイアの王子パリスの守護神でもあった。愛と美の女神アフロディテは、官能的な美しさを誇り、性格は奔放で移り気で、良くも悪くも女性そのものを体現しているかのような存在だ。夫がいても感情のおもむくままに恋愛を楽しみ、不実の子供を何人も生んでいる。その浮気性なところから娼婦の守り神ともされている。アフロディテはオリンポス12神の中で、彼女だけがゼウスの血縁者ではない。彼女は海の泡から生まれた。実はもともとアフロディテは、メソポタミアの女神イナンナが起源で、その後、テュロスの女神アフロディテとなり、海上交易の中でギリシャに渡来したと言われている。アフロディテはいろいろな意味で異色の女神だが、その華やかな雰囲気と派手な男性関係がギリシャ神話にある種の彩りを添えているのは間違いない。


・最高神ゼウス

 ゼウスは天界の支配者であり、ギリシャの最高神の地位に就いている。その名の語源はインド・ヨーロッパ語に由来し、「天」「昼」「光」を意味する。この神は、嵐と雷を使って激しい怒りを現わし、地上と天上の正義を司る役割を持っていた。ゼウスには妻であり、妹でもある女神ヘラがいたが、その他の多くの女神や人間の女性と関係を持ち、数え切れないほどの英雄の父親となった。このようにゼウスが好色で、多くの女性たちとの間に子供を成した神とされているのは、古代ギリシャの王族や貴族たちが、自分の系譜を最高神ゼウスに結び付けたいと願ったことが背景にあると見られている。


・海の支配者ポセイドン

 海の神として知られるポセイドンは、海だけでなくあらゆる泉の支配者でもあり、さらに地震の神でもあった。最高神ゼウスのすぐ上の兄で、オリンポス12神の中ではゼウスに次ぐ第2位に位置している。ポセイドンはゼウスに立てつくほど気性が荒く、気分を害すると海を荒らさせたり、地震を起こしたりすることが多々あったという。また執念深い一面もある。例えば、トロイア戦争終結後、帰国の途に着いたオデュッセウスが自分の息子ポリュぺモスの目を潰したことを根に持ち、海神としての力を振るって、オデュッセウスの航海を10年にわたって妨害している。さらに、たくさんの女神やニンフ(精霊)、女性と恋愛を楽しんだ。その中にはかつて絶世の美女と謳われ、後に怪物と化したメドゥーサも含まれている。たくさんの子供がいるが、半身半魚のトリトンや天馬ペガサス、狩りの名人オリオン、一つ目のポリュペモスなど、人間か獣か怪物のいずれかで、神となった者はいない。このあたりに最高神ゼウスとの差が出ているようだ。


・美形を誇る太陽神アポロン

 アポロンはゼウスとレトから生まれた子で、狩猟と純潔の女神アルテミスとは双子の姉弟である。オリンポスの神々の中でも一番の美形を誇り、太陽神にして音楽や医学、予言などを司る神として知られる。ローマ神話ではアポロと呼ばれ、ユピテル(ゼウス)と共にローマ神話界の中心的な神と考えられていた。容姿も力も家系も完璧で、欠点を見つけるのが難しいほどだが、あえて挙げるとすれば、ギリシャへの移入経路が不明な点だろう。加えて、恋愛がことごとく悲恋に終わっていることも欠点といえるかもしれない。


 古代ギリシャの人びとは、天上や冥界の神々が世界の万物に力を及ぼすと考えていた。死後の世界観は時代とともに変化し、個人の内面に根ざした神秘主義的な信仰が盛んになった。古代ギリシャの人びとにとって世界は神々で満ちていた。オリンポス山に住むというゼウス、ヘラ、アポロン、ポセイドン、アテナといった神話でお馴染みの偉大な神々や英雄たちへの信仰に加えて、各地域ではその土地固有の神々や英雄たちの崇拝も盛んに行われていた。健康や家内安全、繁栄、豊作、航海の無事など神に祈る理由は昔も今も変わらない。共同体に属する人びとは皆で祈り、供物や生贄いけにえを捧げて自分たちの運命を支配する神々を喜ばせようと努めた。ホメロスの詩に登場するオリンポスの神々は、ときには情欲や怒りに駆られ、嫉妬心を抱き、裏切りを働くなど、人間くさいところがあった。一方で、こうした神々には不死という強みがあった。オリンポス山はいくつもの頂が連なる山だ。嵐の中で輝くミティカスの山頂には、天空と気象を司る主神ゼウスをはじめ最も偉大な神々が住むと古代ギリシャの人びとは信じていた。

 導きを求める古代ギリシャの人びとにとって、神託は神々と直接対話できるホットラインのようなものだった。神々の答えは漠然とした謎かけや、鳥のさえずり、雷鳴、木の葉のすれ合う音など、さまざまな形で伝えられた。ギリシャ中部のデルフォイにあるアテナ・プロナイア神域とトロスと呼ばれる円形建造物。巡礼者たちはここでヒツジなどの生贄いけにえを捧げた後、近くのアポロン神殿で神託を受けたと見られる。

 女神アテナが祭られたエレクティオン神殿は、アテナイのアクロポリスで最も神聖な聖域に建てられた。古代の人びとはここで祭りや競技会、生贄の儀式や神に捧げる行進を行った。当時の公の行事には珍しく、宗教儀式では女性が一定の役割を担っていた。ギリシャでは複数の村や地域が共同で宗教儀式を執り行うことで一体感がもたらされていた。信仰は、当初は共同体全体の営みだったが、人生の意味や死後の平安を人びとが求めるようになると、個人と神のつながりを重視する宗教団体が人気を集めた。サモトラケ島にある偉大な神々の聖地などでは、こうした教団が新たな入信者を迎える儀式が行われたが、その詳細はわかっていない。

 古代ギリシャの人びとは、死者たちが死後の世界から現世の運不運を左右すると信じていた。そのため祖先を称えて供物を奉げ、死者を味方につけようとした。多くの人びとは、しかるべき宗教への入信が自分の死後の運命に直結すると信じていた。現世と死後の世界では、どちらが暮らしやすいのだろう。ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」では、戦死した英雄アキレウスが「すべての死人の王になるよりも、生きて、土地など持たず資産も乏しい男に仕えて働きたいものだ」と、冥界から答えている。ギリシャ北西部を流れる「嘆きの川」アケロンを往来する渡し守のカロンが、死者の魂をハデスの冥界に送り届けると、古代ギリシャの人びとは信じていた。


 ギリシャ神話とは古来、口承で語り伝えられたものが、BC8世紀~BC7世紀ごろにホメロスやヘシオドスといった叙事詩人たちによってまとめ上げられ、それらを拠り所にさまざまな解釈や加筆がなされて、いわばエピソードの寄せ集めのような膨大な神話体系となったものだが、基本的には、感情豊かで非常に人間的な神々と、たくましく勇敢な英雄たちの波乱と冒険に満ちた物語である。古代ギリシャという東地中海地方で発生したこれらの神話は、古代ローマからヨーロッパやその周辺地域に広まり、やがて西洋文化の重要な基礎となっていった。その影響は、文学や美術、哲学、さらに医学などさまざまな分野におよび、数々の芸術作品も生み出されていった。そしてそれは現代においても変わらず、ギリシャ神話は欧米の文化や生活に深く根付いている。

 ギリシャ神話は、BC21世紀~BC14世紀にクレタ島で栄えたミノア文明の中で生まれ、その後ギリシャ本土のミュケナイ文明(BC16世紀~BC13世紀)へと引き継がれたといわれる。他の国々の神話と同様、ギリシャ神話に特定の作者は存在していない。またギリシャ神話は歴史書や伝記のように一冊にまとまった物語ではなく、古代ギリシャ人が生み出したさまざまな物語が語り継がれた伝承文学なのである。その中でも今日、ギリシャ神話の基本的文献とされているのは、BC8世紀ごろにホメロスによって語られた「イーリアス」と「オデュッセイア」、そしてBC700年ごろのヘシオドスが記した「神統記」と「仕事と日々」である。

 ホメロスの「イーリアス」は、10年に及んだトロイア戦争のうち、最後の50日間の出来事を描いたもので、トロイアの町を包囲したギリシャ軍と、それに応戦するトロイア軍、そして両軍に加勢した神々のドラマが繰り広げられる。「オデュッセイア」は、トロイア戦争で活躍した英雄の一人オデュセウスが故郷に凱旋する際に、海の神ポセイドンを怒らせたことから、10年にわたる苦難の帰国の旅の冒険の数々と、帰国後に妻に言い寄ってきた求婚者たちを打倒すまでの物語が綴られている。そこには「不死の存在たち」を生き生きと喚起させるものだけではなく、最高神であるゼウスの権威によって促された道徳的規範も見出される。

 一方、ヘシオドスの「神統記」はカオスに始まる天地創造と神々の誕生を記したもので、ギリシャの神々の系譜をまとめた最初の書といえる。そして「仕事と日々」では、祭式に関する決まりが細かく挙げられており、それがかなりのスペースを占めている。まずエリス(争いの女神)には2種類あることを簡単に述べた後で、「プロメテウスとパンドラ」の神話を語り始める。その後、今度は全く違う神話「5つの種族の神話」に話が移る。どちらも、人間たちが何の憂いもなく、病気も死も知らずに暮らしていた古い時代からやがて災難がやってきて、それが人間の条件そのものとなる所以ゆえんを歌っている。もともとこれはヘシオドスが、怠惰な生活を送っていた弟に、誠実と勤勉の大切さを説くために書かれた作品と伝えられている。

 この二人の詩人が練り上げたものだけでなく、芸術家とりわけ彫刻家たちの介在もギリシャ宗教にとって決定的な役割を果たした。「神の人間化」においては、文学作品よりもずっとこの方が拠って力があった。実際、詩が人びとの想像力にある種の相対的可能性を保ち、自由の領域を残しているのに対して、彫刻など具象的に創造されたものは、不変で重々しく三次元的に具体的な実在感を具えている。神的なものの観念は、非常に早い時代から礼拝の対象としての像と緊密に結びついていた。ギリシャ人は礼拝という行為が必要とする確たる支えを彫像に見出したのであった。彼ら以上にさまざまな像を創り出した宗教は他にはない。

 やがてBC6世紀~BC5世紀には、アテナイに造られた酒神ディオニュソスに捧げる劇場で、ギリシャ神話を題材にした悲劇が上演されるようになる。それによって、ギリシャ神話には文学としての新たな性格が加えられ、さらに発展していった。



(ローマ神話に吸収されたギリシャ神話)


 BC2世紀にギリシャは共和政ローマの属州になるが、その文化は消え去ることなく、むしろローマの文化に大きく影響を与え、両者は融合していった。宗教も同様で、もともとローマ人はギリシャ人とは違う宗教を持ち、ギリシャ神話に登場する神々とは違う神々を信仰していた。ところが、ギリシャ文化の影響を受けるようになると、ローマ人はギリシャ文化に傾倒していく。当時のローマ人は、ローマ文化よりもギリシャ文化の方が高尚で素晴らしいものであるという認識を持っていたのだ。いつしかローマ人は、自分たちが信じていた神々は、大昔にギリシャからもたらされたものと解釈し、それを信じるようになった。そして神の呼び名が異なるのは、ギリシャ人はギリシャ語で、ローマ人はラテン語で名前を付けたからだと考えた。その結果、ローマ神話の最高神ユピテルは、ギリシャ神話の最高神ゼウスと同一神となり、その他の神々も同一視されることになった。


[オリンポスの12神のローマ名と英語名、(関連付けられる天体)、役割]

 ・ゼウス:ユピテル、ジュピター(木星)、最高神で天空と雷の神

 ・ヘラ(女神):ユノ、ジュノー(天の川、小惑星)、結婚・出産の女神

 ・アポロン:アポロ、アポロ(太陽)、美形の神

 ・アルテミス(女神):ディアナ、ダイアナ(月)、狩猟と純潔の女神

 ・アテナ(女神):ミメルウァ、ミネルヴァ(小惑星)、知恵と戦いの女神

 ・アレス:マルス、マーズ(火星)、軍神

 ・アフロディテ(女神):ウェヌス、ヴィーナス(金星)、美と愛の女神

 ・デルメル(女神):ケレス、セリーズ(おとめ座)、大地と豊穣の女神

 ・ヘファイストス:ウルカヌス、ヴァルカン(小惑星)、火と鍛冶の神

 ・ポセイドン:ネプトゥヌス、ネプチューン(海王星)、海・地震・馬の神

 ・ヘルメス:メルクリウス、マーキュリー(水星)、神々の使者として働く有能な神

 ・ヘスティア(女神):ウェスタ、ヴェスタ(小惑星)、家庭の安泰を象徴する炉の女神

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