第87話 ギリシャ人の植民活動

 BC10世紀になると、人口も増加し始め、定住した人びとの土地を求める欲求が高まり、エーゲ海沿岸地域への植民活動を引き起こした。その後、都市国家ポリスの繁栄が進むと、人びとはより贅沢なものを求めて海外との交易に力を入れた。BC8世紀には人口の急激な増加に対して乏しい耕地による食糧生産では対応しきれなくなり、ギリシャ各都市は海外に植民地を建て、そこに市民を送り出した、ギリシャの植民地は、東はエーゲ海を越えてアナトリアに、西はシチリア、サルディニア、イタリア半島南部に建設された。植民活動はその後も続き、BC6世紀にその植民活動が終息したときには、ギリシャ世界はエーゲ海全域の沿岸地域に留まらず、北はクリミア半島を含む黒海沿岸地域、西はシチリア島、サルディニア島、イタリア半島南岸、ガリア(現在のフランス)南岸、イベリア半島南岸とバレアレス諸島、南は北アフリカのリビアにまで広がっていた。そうした植民地の一部は、基礎固めが済むと今度は自分たちの手で新しい植民地を建て、ラテン語で「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」と呼ばれたギリシャ植民都市群の増殖に力を入れた。

 数世紀に及ぶこの植民活動には人口の増加以外の要因もあった。一つは商業の拡大で、新しい耕作地を求めたギリシャ人がトラキア(現在のギリシャ北東部とブルガリア南部)に植民市を建設する一方で、交易を目的とするギリシャ人が地中海東岸や南イタリアなどに住みついていった。この第2次ともいうべき植民活動によって地中海世界の商業活動が一気に拡大した。その証拠として銀貨の流通量が増えたことがあげられる。一定の重量と刻印を持つ貨幣を最初に鋳造したのは小アジアのリュディアだったが、BC6世紀のギリシャでは、国内外で貨幣が広く用いられるようになっていた。農民や商人以外では、傭兵として他の国、例えばエジプト軍に入って、アッシリア軍と戦っていたことなどがわかっている。このような異文化との接触は、すべてギリシャ本土に大きな社会的影響をもたらしたことは間違いない。

 BC600年には、ソクラテスが「沼のほとりに住むカエル」と呼んだように、数百のギリシャ人都市が地中海と黒海沿岸を取り囲むように生まれた。植民地が広がると遠隔地との交易が可能になり、贅沢品や穀物、さらにイタリアのエトルリア産の金属など原材料が手に入るようになった。また交易によって豊かな中産階級が誕生した。経済力のある新しい階層が政治参加を強く求めて、ギリシャは僭主せんしゅ政から民主政へと変革を遂げていった。


 地中海全海域へのギリシャ人の四散は、彼らの特徴的なポリスを、ガリア南岸のマッサリア(現在のマルセイユ)やモノイコス(現在のモナコ)から、イタリアのネアポリス(ナポリ)やレッジョ、北アフリカのリビアのエウヘスペリデス(現在のベンガジ)、小アジアの沿岸、黒海へとほぼ至る所で創建させたが、この四散は2段階を経ている。

 第1段階は、計画的ではなく、BC12世紀からのドーリア人の侵略を避けるため、混乱の中での無秩序な純然な逃亡だった。人びとは命の危険を感じ、自由を得るために逃げたのであり、とりわけイオニア海やエーゲ海の島々に自分たちの避難所を探した。これらの島々はギリシャ本土に近く、しかもそこにはすでに先住民のペラスゴイ人が住み着いていたから移住先として適地だった。

 第2段階は、組織化された移住であり、BC8世紀中ごろから始まり、BC7世紀末まで続いた。これはポリスにおける人口増加や、それを収容するだけの後背地の欠如によるものでもあった。そしてこの第2段階の植民活動によって地中海世界の商業活動が一気に拡大する。ギリシャ人以外の世界との交易が盛んになり、新しい経済的な結びつきが次々と生まれていった。植民地はギリシャ語で「戸外の家」を意味する。この語からしていかなる征服の意図もなかった。したがって、母都市の属領や領土、保護領になったのではなく、母都市とは政治的・経済的隷属もなく感傷的な結びつきだけだった。

 ギリシャ人はずっと反中央集権的だったし、そうであり続けている。また、当時はギリシャ人を脅かすいかなる外敵もいなかった。小アジアでは大国ヒッタイトがBC1180年に崩壊していた。その代わりに台頭したのはリュディアやペルシャだったが、これらはまだ形成過程にあり、攻撃力を有してはいなかった。北アフリカのエジプトでは、新王国最後の第20王朝(BC1186年~BC1069年)から衰退が始まり、没落しつつあった。西ヨーロッパは先史の闇に包まれており、西地中海のカルタゴはフェニキア人たちの小さな港町だったし、ローマは誕生前だった。また北方のバルカン半島はほぼ無人地帯だった。こういう空白状態の中で、国家統一には全く無関心のまま、ギリシャの各ポリスは排他主義的で、分離主義的な意識でいられた。ギリシャの各ポリスの市民たちが結集するのは外圧が加わる時だけだった。


 エーゲ海の両岸に広がっていたギリシャ世界の一方の端である西側に、「社会的危機」という言葉がその結果によっても、ヘシオドスの証言によっても当てはまるのは、ボイオティアという一つの地域のBC8世紀末という一つの時代に関してである。そこでは何千人かの人びとが、その小規模な領土の資源を分け合いながらそれぞれの隅で生活していた。それぞれの政治的単位を構成していたのは、分散していた小集落または一つの町を核とする集落群であったが、いずれにしてもホメロスの詩が示しているような君主制組織を持っていて、世襲の王が有力な氏族の首長たちによって補佐されながら、この小国家の運命を司っていた。その結合力の源泉となっていたのは、土地または宗教の絆によって結ばれた「ゲネア」と呼ばれる氏族と、そうした氏族が共通の神への崇拝によって結合した「フラトリー」つまり部族であった。そして都市の権力は、富の源である土地を所有し、二輪戦車に欠かせないウマを飼い、高価な重い武器や武具を入手できる唯一の階層である貴族たちに握られていた。

 この土地所有貴族たちは、しばしば君主を同輩の一人という立場に後退させる。王とは、とりわけ宗教的性格を持った司法官の称号に他ならなかった。しかし、この社会的秩序の経済的基盤も時代とともに避けがたい進展によって変化する。なぜなら、一般的に土地所者たちの相続制度は、直系の相続人たちで財産を分け合うやり方が採られたが、土地所有者の息子が二人以上いる場合、遺産は分割されたから、世代を重ねるごとに細分化されていき、土地所有者の状況は惨めなものとなり貧弱化していく。その結果、借金をしたり、大きな資産家に雇ってもらったりせざるを得なくなり、細分化された土地は、より豊かな人間の下に吸収されていった。そこから全体的な傾向として、土地は幾人かの特権的な人びとである、より豊かな貴族の手に集中することになった。他方、ますます多くの自由市民が厳しい状況に陥って経済的自由を失ったり、かさんだ借金の返済のために自由そのものを失っていった。このような現象がアルカイック期初めのギリシャ世界のほとんど至る所で見られるようになった。このように、土地資産の配分法に起因する社会的危機が広がり、人口の絶え間ない増加と相まって、ギリシャ人たちを植民運動へ駆り立てる動因となった。当時の人びとは、移住しなければならない本質的原因をステノコーリア、すなわち「土地不足」と定義していた。これによりギリシャ人植民地がエーゲ海世界の境界を越えて、東は黒海から西はイベリア半島に至る広い範囲に展開されていった。もとより、実際に人びとが異国を目指した事情は極めて多様である。政治的首長と対立して祖国にいられなくなったとか、冒険を求めてとか、集団的に追放処分になったためとか、もっと時代が下ると、政治的または商業的帝国主義に鼓舞された起業精神からというのもある。しかし、ほとんど常にその基盤にあったのは、人口過剰問題であり、土地不足からくる危機を解決するために植民が行われたのであった。


 植民地創設をめぐる状況は、当時の人びと、とりわけ植民者とその後継者たちの創造力を刺激したため、この領域でたくさんの叙事詩が生み出された。一つの例を、BC7世紀の半ばを少し過ぎたころキクラデス諸島の一つで現在はサントリー二島と呼ばれている小さな火山島であるテラ島から北アフリカへ向けて出発していった遠征隊にとってみる。事態の大まかな経緯はヘロドトスによって語られているが、この話はヘロドトスが拠り所とした資料とは別の、もっと古い伝承を反映したBC4世紀のリビアのキュレネのある文書によっても裏付けられている。

 BC7世紀半ばのテラ島は相次ぐ凶作の結果生じた混乱期にあった。島を治めていた王はデルフォイの神託に伺いを立て、リビアへ遠征隊を送って植民地を作るようにとの助言を得た。テラ島の人びとは冷静にそれを実行した。王によって市民会議が招集され、決議によりバットス一族に遠征の命令が与えられた。そして植民の参加者として1家族につき若者1名を募った。指名された人びとは死を覚悟して船に乗り込んだ。この事業の参加者は、5年間にわたる忍耐強い努力を重ねた後でなければテラ島に帰還することはできないことになっていたからである。このようにして編成された徴募兵は2隻のペンテコントーレス、つまり50人の漕ぎ手による船に詰め込まれた。ということは人員はほぼ200人だったということである。船はまずクレタ島へ行き、その東岸のイタノスでクレタ人の水先案内人を雇い、リビアすなわちアフリカ大陸へ向かった。遠征隊がエジプトの西方にあるキュレナイカ地方の海岸に近づいたとき、まず沖合にあった一つの小島に上陸して、これをキュレナイカ探検の足がかりとすることにした。こうして、この前哨地から出かけては、危険を冒して内陸部を踏査し、土着民とも接触した。幸い土着の人びとが快く迎えてくれたので、東キュレナイカにおける6年間の仮住まいの後、最終的にキュレナイカの中心部を成す高原のへりの、豊かな泉が湧き、降水量も多く、農業開発に好適な土地に身を落ち着けた。この年代記によると、キュレネの町が創設されたのはBC631年のことであるから、紀元後642年にアラブ人たちが押し寄せてくるまで、約1300年にわたって繁栄を誇ることとなる。

 この町の歴史は、たまたま創設の事情が分かっている代表例であるが、そこには大部分の植民都市の創設物語に繰り返し現れるいくつかの本質的な要素が見出される。すなわち、経済的・社会的危機が人びとに移住を決断させたこと、デルフォイの神託の助言があり、それが植民の企てに論議の余地のない宗教的権威を付すとともに、多くの植民が神託に従って行われたことから、他の植民活動とぶつかり合わない移住先を選ぶのに役立ったに違いないこと、市民会議の命令という形で国家権力は介入して遠征隊が組織され、指導者が指名されて参加者が決められ、従わなければ厳罰を課すという条件で強制的に送られたこと、出発したのは少人数だったこと、さらに、未知の土地の内陸部に入る前に、まず安全な沿岸の島に拠点を作り、そこを避難所として確保したこと、そして最後に、耕作に適した土壌と水とに恵まれた土地をよく見極めて農業植民地が設立されたことである。なお、小人数での出発は、ギリシャの都市は狭かったので、移住させるといっても、数百人単位にすぎなかったからである。こうしたこと全ては、同様の必要性に迫られて同じような事態へ進んだ他の多くの植民地でも、その条件によって多少の違いはあるものの、どこでも見られる場景である。こうしてキュレネでも、他の植民地でも、ギリシャ人たちは少なくとも初めのころは、土着民の敵意にぶつかることはなかった。それは異国の人間が近くに来たからといって不安がらない部族と交渉したからである。

 しかし、どこででも平和的な入植に成功したわけではない。南イタリアのようないくつかの地域では、土着民たちの抵抗に遭ったため、長期にわたる厳しい戦いが必要だった。そうした最も顕著な例は、おそらくタレントゥム(タラス:現在のタラント)のそれで、これについては、ギリシャ人旅行家パウサニアスが伝えている。彼が書いたのは紀元後2世紀のことであるが、内容は古い資料によって伝えられていたものである。それによれば、タレントゥム(タラス)に植民したのはラケダイモンたちで、この都市の創設者はスパルタ人のファラントスであった。植民のために遠征を命じられたファラントスはデルフォイから神託を受けた。その内容は、晴れた空から雨が降ったときに、彼はふさわしい土地と町を手に入れるだろうというものであった。ファラントスは、そのときは神託の意味を自分で考えようとも、神官からの説明を求めようともしなかった。こうして船隊を率いてイタリアに着き、抵抗する原住民に対して勝利を重ねたが、町一つ手に入れることもできなければ、土地を確保することもできなかった。そのとき彼の脳裏に甦ったのがあの神託だった。そしてこの事業は不可能だという神のお告げだったのだと思った。晴れ渡った空から雨が降るなどということは、未だかつてないことだからである。すっかり落胆しているファラントスを、この遠征についてきていた妻が慰めようとして、彼の頭を膝の上に抱え、髪の毛をかき分けシラミを取り始めた。彼女はそうしながら、状況がよくならない夫の立場を思ったとき、心優しい彼女の目から涙が溢れた。そのこぼれ落ちた涙がファラントスの頭を濡らしたとき、彼は突如お告げの意味を理解した。というのは、彼の妻の名前はアイトラ、つまり「晴れた空」だったからである。その夜、ファラントスはこの沿岸一帯で最大にして最も栄えた町タレントゥム(タラス)を襲撃し、原住民の蛮族たちから奪い取ることに成功したのであった。この物語は逸話的・伝説的な性格にもかかわらず、BC8世紀末の植民地創設時代以来、イタリア半島南部のプーリア地方にギリシャ人たちが定住できるまでに、如何に原住民たちの強い抵抗と脅威にぶつかったかを示している。また、あらゆる植民地創設において、事業遂行のために指名された「長」が果たした役割の重要性についても示してくれている。「長」はオイキステース(創設者)との称号を持ち、神の庇護の下に移住者たちに試練を乗り越えさせなければならなかった。そこで分かることは、並外れた責任を背負わされたこれらの人物には、並外れた名誉が与えられるということであり、死後は英雄として称えられ、その墓の周りで祭儀が行われるのが普通だった。


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<エーゲ海北部と黒海周辺への植民活動>

 東地中海地域でBC8世紀の初めごろにギリシャ人に開かれていた自由な領域は北方だけだった。しかし、アナトリアの内陸部は山岳地であるため近づくことが難しく、海から離れることを好まないギリシャ人からは敬遠された。より東のキリキアやシリアは、アッシリア人とフェニキア人によって完全に侵入を阻まれていた。南方のエジプトはこの頃弱体化し分裂までしていたが、余りにも人口が稠密で、これを征服することは容易でなかった。そのようなわけで、組織化された多数の住民によってまだ占められていなかった地域がエーゲ海北方一帯で、ここに目を付け、BC8世紀前半から植民を始めたのがエウボイア島の人びとだった。この植民運動の先陣を切ったのが、カルキスとエレトリアという隣り合った二つの町である。詳しい年代は不明だが、こうして植民地の設立が相次いで行われ、特にカルキスの植民地が約30というかなりの数にのぼったことから、この地域は「カルキディケ半島」の名で呼ばれるようになった。その東では、トラキア沿岸部がキクラデス諸島のイオニア人たちを惹きつけた。BC7世紀前半には、パロス島から来た植民者がタソス島に1つの都市を建設する。この植民都市は、トラキア人たちの激しい抵抗に遭遇したが、結局はタソス島だけでなく、陸側でも金鉱を開発し、これによって財を成すこととなる。このようにしてギリシャ人は、トラキア沿岸と北エーゲ海の島々を支配するようになったが、それとともにBC8世紀末以降には、ヘレスポントス(現在のダーダネルス)とボスポラスの二つの海峡と、その間にあるプロポンティス海(現在のマルマラ海)を経て黒海にまで侵入した。しかし、原住民であるキンメリア人たちの抵抗に遭い、定住が始まるのはその半世紀ほど後のこととなる。黒海沿岸に多くの植民地を築いたのはミレトスの人びとで、次いでメガラの人びとだった。ビザンティオン(現在のイスタンブール)に拠点を築いたのはメガラ人だった。ミレトス人たちは極めて早い時期から黒海のヨーロッパ側の岸に沿って、ダニューブ川(現在のドナウ川)の河口にまで進出していた。これらメガラ人とミレトス人による黒海での植民活動は特殊な性格を持っている。彼らがこの広大な地域に点々と都市を設けたのは、その大部分はなによりも通商上の拠点としてであり、蛮族の世界の中で孤立していたので、蛮族の王たちに貢ぎ物を納めることを条件にする必要があった。しかし、この遠隔地からもたらされた種々の資源の取引きは膨大な利益を生み、ギリシャ本国を潤した。トラキアの鉱山から運ばれた鉄・錫・銅、バルカンの木材、各河川の河口付近で捕れた魚の干物や燻製、トラキア人やスキタイ人の奴隷、黒海の北の黒土地帯のコムギなどがギリシャ人の船によって運ばれた商品であった。これと引き換えにギリシャ人が彼らにもたらしたのは、宝石と金銀で細工を施した容器、陶器、ワイン、香水、油などで、蛮族たちはそうした品物をひどく好んだ。トラキアやスキタイの土着民の墓からはこうした品がたくさん出土しており、この取引が如何に盛んに行われていたかを証明している。


<イタリア南部とシチリアにおける植民活動>

 イタリアとシチリアにおける植民活動はエーゲ海や黒海とはかなり様相が異なる。ここでは植民都市は単なる通商上の拠点ではなく、独立した一つの国として繁栄し、ギリシャ文明の輝きに寄与した強力な居住地であり、この西方におけるギリシャ文明の冒険は、ギリシャ史の華々しい1ページを構成している。それはBC757年という非常に早い時期のイタリアのカンパニア地方のクマエ(現在のナポリ湾の北側の突端にある)の創設で始まる。エウボイア人たちはその20年前にすでにその沖合に位置するイスキア島を占拠し、そこからイタリア半島側へ移ったのだった。こうして、エウボイア島のカルキスの植民地クマエは、当初からイタリアにおけるギリシャ人都市の最北端に位置し、豊かなカンパニア平原の周辺部にあって、イタリア半島の北半分を支配していたエトルリア人との交易関係を打ち立てることができた。

 同じ頃、カルキスの別の人びとは、シチリア島の北東のナクソスに定住し、次いで、そこからもっと南にカタネとレオンティノイを分封した。さらにBC740年~BC730年ごろシチリア島でもイタリア半島の爪先に最も近い地にザンクレ(後のメッサナ)を、そしてその対岸にレギオンを建設した。こうして、ボスポラス海峡をメガラの人びとが抑えたように、イタリア半島とシチリア島から北側の海への道をカルキス人が押さえたのである。しかしメガラ人も、レオンティノイの南にメガラ・ヒュブライアを建設している。最後に、BC733年、一人のコリントス人アルキアスが、その地の利からシュラクサイを選び、原住のシチリア人を追い払って拠点を作った。後に、ここはシチリアで最も繁栄したギリシャ人都市となる。シュラクサイの人びとは勢力を内陸部へ拡大してアクライを建設、そこから島の南端まで支配下に収め、さらに南岸を西へ進み、BC6世紀初めにはカマリナを植民地化している。しかしこの西方への前進は、他のギリシャ人が先取りしていた。ロードス人とクレタ人の合同遠征隊はBC690年頃、周りに肥沃な平野が広がるゲラに拠点を建設していた。このゲラの人びとによって、100年後のBC580年にはアクラガスが建設されている。さらにメガラ・ヒュブライアの人びとはBC7世紀中ごろ、アクラガスの西にセンヌンテ(セリヌス)を設立している。シチリア島の北側で唯一重要なギリシャ人都市はヒメラで、これはセンヌンテと同じ頃にザンクレの人びとによって建設された。だが、シチリア島の最も西側は、原住民のエリュモス人とフェニキア人の手中にあった。フェニキア人はカルタゴからやって来て、この地にしっかり根を下ろしていた。ギリシャ人たちは幾度も彼らと戦ったが、彼らを追い払うことができないばかりでなく、BC5世紀末にはセンヌンテという大事な拠点を失っている。

 シチリアへの進出と並行して南イタリアでも植民地建設が進められていた。BC720年ごろ、ペロポネソス半島北部のアカイアから来た人びとがタラント湾の西側のシュバリスに上陸した。個々の平野はまもなく重要な価値を持つようになる。もっと南では、別のアカイア人たちがクロトンを設立した。しかしながら、この方面で最も有力な都市は、BC8世紀末にラケダイモン(スパルタ)人によって建設されたタレントゥム(タラス)であった。ここは港としても優れ、肥沃な後背地に恵まれて急速に繁栄への道を進んだ。こうして南イタリアは人口も多く活動的なギリシャ人都市に縁取られて「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」の名にふさわしい世界となっていった。ギリシャ本土からこの「マグナ・グラエキア」への道は、ギリシャ西部とその北のエペイロスの岸に沿って北上した後、ギリシャのコルフ島とイタリア半島の間のオトラント海峡を渡るものだった。この道筋に沿ってギリシャ人植民地が点々と配置されていったことはいうまでもない。その最も古いのがコルキュラ島(コルフ島)で、もともとエウボイア島のエレトリア人が入植したが、BC733年ごろにコリントス人に奪われてしまった。このときコリントス人たちはシチリアにシュラクサイを建設している。コリントスは、コリントス湾の出入り口を押さえるため、西方と北方へ勢力を拡大し、コリントス湾を出てすぐ北にあるレウカス島、その北のアナクトリオン、アンブラキア、さらに北ではイリュリア(現在のアルバニア)のアポロニアに次々と植民都市を創設していった。


[イタリア半島南部のギリシャ植民都市シュバリス]

 シュバリスのアクロポリスにかつてあったアテナ神殿の跡から出土した青銅碑文は、古代ギリシャのオリンピア競技に参加し勝利したある選手に関係するものだった。それはBC6世紀にギリシャ世界がいかに拡大し、オリンピア競技が人びとにとっていかに重要であったかを示している。

“デクシラオスの子クレオンブロトスは、オリンピアの競技で勝利したので、約束に従い栄誉の10分の1をアテナ女神に献納した”

 ギリシャの植民都市シュバリスの繁栄は目覚ましく、支配階級の市民たちは贅沢極まりない生活を楽しんだことから、今日英語で快楽主義者や放蕩者を「sybarite(シュバライト)」と言うほどである。イタリア半島南端のタラント湾に面したシュバリスは、南イタリアの古代ギリシャ植民都市群「マグナ・グラエキア(大ギリシャ)」の一部を成していた。そのためシュバリスの陸上界のトップ選手は海を渡り、ギリシャ本土で開催されるオリンピック競技に参加した。

 ギリシャ植民都市時代が、古代ギリシャの黄金期である古典時代(BC500年~BC322年)より前にあったのは驚きである。ギリシャ諸都市は、BC800年からBC600年にかけて海外に建てた植民都市と通じて経済的繁栄を築いていたのだった。イベリア半島南部から黒海北部のクリミア半島海岸まで、小アジアから北アフリカまでの地域にそうした交易目的のギリシャ植民都市が何百と建設された。特にギリシャ本土から一飛びで行ける肥沃な南イタリアとシチリア島には植民都市が集中した。これらの都市はギリシャ人にとって海外にある「我が家」であった。植民都市で発見された建築物や陶器は、それらの都市がギリシャ本土にあるそれぞれの母都市といかに密接であったかを示している。シュバリスは、他の植民都市より比較的早いBC720年ごろ、ペロポネソス半島北部のアカイア地方のヘリケを飛び出した進取の気性に富んだギリシャ人たちによって建設された。シュバリスは著しい発展を遂げ、同地域の他の植民都市に対し支配的地位にあった。


<イベリアとガリア(現在のフランス)南部沿岸での植民活動>

 地中海の西のイベリア半島へ向かって冒険したのはイオニア人たちである。彼らがイベリアの地で交易によって手に入れたものとして、とりわけ銀と銅がある。小アジアのフォッカイアのイオニア人たちはこの取引を専門とし、土着民たちもBC7世紀末からBC6世紀半ばまで喜んでこの取引に応じたようだ。西地中海では、カルタゴ人がすでにイベリアやシチリア、サルディニア、バレアレス諸島(マヨルカ島など)にいくつかの拠点を設け、各地の沿岸を頻繁に行き来しており、後発のギリシャ人にとっては手強い競争相手だった。それでも、フォカイア人たちは北側のルートでイベリアの拠点を確保しようとした。こうしてBC600年ごろ、彼らはフェニキア人の町だったガリア南部沿岸のマッサリア(現在のマルセイユ)に腰を落ち着け、彼らの一人プロティスは土地の王の娘ジプティスと結婚している。そこでは、一層豪華な外来の副葬品が見られる。これによっても、文字を持った地中海世界と北方の野蛮人の族長社会との間に交易があったことがわかる。この町は元々農業入植地というよりは、後背地との交易の拠点としての性格を持っていた。このマッサリアの人びとが、今度は自分たちでガリア南部の海岸に沿っていくつもの拠点を設けていった。

 さらにフォッカイア人たちは、イベリア半島の地中海沿岸に寄港地を作った。BC545年、本国のフォッカイアがペルシャ人によって占領されたとき、住民の一部はマッサリアに移住し、次いでコルシカ島の東海岸に定住地を求めている。西地中海へのこうしたギリシャ人の進出はチュニジアのカルタゴ人とイタリア中部のエトルリア人の反感を買った。BC540年、カルタゴとエトルリアの連合船隊がサルディニア沖でフォカイアの船隊と遭遇し、本格的な海戦になった。戦いの結末ははっきりしないが、フォカイア人たちはその3分の2に達する多くの船を失い、コルシカ島を放棄して南イタリアへ撤退せざるを得なくなった。フォカイア人たちはイベリアにおいてもカルタゴの勢力に押されてその拠点を放棄したが、マッサリアを中心としたガリア南部の沿岸とイベリアのカタロニアの拠点はかろうじて固守した。


<北アフリカにおける植民活動>

 地中海のアフリカ海岸の西半分のいわゆるマグレブは、ポエニ人(ポエニとはラテン語でフェニキア人を意味し、ローマ人はカルタゴ人をポエニ人と呼んだ)が確固たる勢力を確立していたから、とうていギリシャ人は入り込めなかった。ギリシャ人が入植したのは、東のエジプトと西のマグレブとに挟まれ、周囲を砂漠に囲まれた緑豊かな高地地帯のキュレナイカ(現在のリビア中部)であった。ここにテラ島の人びとがBC631年に最初に入植し、その後、ペロポネソス半島やキクラデス諸島、ロードス島などから移住してきた人びとのおかげで、豊かな農業植民地として発展し繁栄した。エジプト第26王朝サイス朝の王アプリエス(在位:BC589年~BC570年)に後押しされた近隣のリビア人たちが幾度か襲撃してきたが、無事撃退したばかりか、近辺に幾つかの植民都市を増やすことにさえ成功している。例えば、キュレネの100キロ西方のバルケ、さらに西方のエウヘスペリデス(現在のベンガジ)などがある。いずれも港を持っているが、リビアに住み着いたギリシャ人の本来の目的は、内陸部へ進出し、耕作できる土地を手に入れて農作物を作ることだった。実際、彼らは見事な成功を収め、キュレナイカは古代地中海世界の重要な穀倉地帯となっている。

 その東のエジプトとは、ミュケナイ時代に緊密な関係を結んでいたが、その後、疎遠となり、BC7世紀後葉からBC6世紀前葉、アッシリアがエジプトを征服した時期にも回復はしなかった。ギリシャ人が再びエジプトに接近するのは、第26王朝(BC664年~BC525年)のサイス朝時代が始まってからである。サイス朝初代、プサメティク1世はアッシリア王のアッシュールバニパルの忠実な臣下だった。しかし、アッシリアの勢力がその南のバビロニアの脅威の前に弱まるにつれて、プサメティク1世は独立したエジプト統一王国の支配者となった。ナイルデルタにあるサイスの第26王朝は、多くの小アジアのギリシャ人たち、つまりイオニア人やカリア人を傭兵として雇い入れたので、ギリシャとエジプトの交流が深まった。これら兵士としてファラオに仕えたギリシャ人たちの後、商人たちもやってきて、ナイルデルタの西側河口近くのナウクラティスを拠点に、エーゲ海世界とエジプトとの間の商業活動は再び盛んになった。このナウクラティスのギリシャ人植民地はBC525年のペルシャ王キュロス2世の息子であるカンビュセス2世によるエジプト征服まで驚くべき繁栄を示した。ギリシャの船は、シフノスやトラキアの鉱山から産出した銀を運んできて、帰りにはナイルデルタの穀物を積み込み、その両方で大きな利益を得た。但し、アルカイック期にギリシャ人がフェニキア人やアッシリア人によってシリアやパレスティナの沿岸から排除されていたことは明らかである。しかし、キプロスではギリシャ人が島の大半を押さえており、フェニキア人などのセム人たちが占拠していたのは東南部のみだった。


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 ギリシャ人がイベリアからカフカス(コーカサス)に至る各地に移住している間に、ギリシャ本国や小アジアのイオニアでも大きな変化があった。アルカイック期のギリシャ文明がエジプトやシリア・フェニキア・アナトリアとの接触のおかげで発展し豊かになった一方で、ギリシャ都市は驚くべき数に増殖した。それらはポリスと呼ばれる都市国家である。何百というそれらの都市国家、ポリスは一つの持続的なバイタリティーを示している。それぞれが占めていた土地はごくささやかなもので、例えば、フォキス地方の場合、総面積は1650平方キロで、その中に22の独立したポリスがあった。クレタ島の面積は8500平方キロであるが、100余りの小都市国家に分かれていた。ホメロスはクレタを「100の町を持つ島」と謳っている。面積880平方キロのコリントス、1400平方キロのアルゴリスは大国と見なされていた。特に、2500平方キロのアテナイや8400平方キロのスパルタに至っては並外れた超大国であった。植民都市においても、これらの規模を超えることはほとんどなかった。最も強大だったリビアのキュレネ、シチリアのシュラクサイも、その支配した土地は今のフランスの一つの県より狭かった。

 こうした極度の政治的細分化を考慮せずして古代ギリシャは理解できない。これらのポリスにとって連盟や同盟を作ることは一時的な応急策として行われただけである。ギリシャ人としての共通意識の表れであり象徴でもあったオリンピック競技がBC776年に始まったが、お互いの敵対関係や戦争を消滅させはしなかった。詩人たちによって高揚された地方的愛郷心はそうした抗争を支え、深刻化させた。ポリスの中にはエウボイアやコリントスのように商業活動で際立った繁栄を示すものもあるし、アルゴリスやスパルタのように軍事力で頭角を現すものもある。BC6世紀以降、中でも重要性を持ってくるのがアテナイである。同時に、エーゲ海を挟んで反対側の岸では、かつてあれほど繁栄したアナトリアの小アジアのギリシャ人都市が、まずリュディアの圧力に屈し、次いで進出してきたペルシャの下に屈服する。こうして外敵の脅威はギリシャ本土にも強まり、やがて「ペルシャ戦争」となる。内的危機と外国との戦争、これがアルカイック期のギリシャのイメージである。

 ギリシャ人たちは、かつてクレタ文明がもたらしたものに直面したミュケナイ時代の場合と同じく、今度も西アジアから来たものに自分たち固有の独創性を埋没させられることはなかった。西アジアに近いイオニアにおいてすら、例えば建築を見ても、本質的な部分はギリシャ的なままである。ギリシャ的アルカイズムはアジアとの接触の中から大いに吸収し、自らの豊かな才能を見出したのであって、そのために自らをアジア化しようとはしなかった。ところが、それまでは豊かさと美点の源泉であったこのアジアが突如恐るべき脅威として姿を現した。BC6世紀中ごろ、アケメネス家のキュロスによりイラン中央部に打ち立てられた強力なペルシャ帝国が勢力を西方へ伸ばしてきたのである。キュロス2世は現在のイラン西部にあったメディア王国を手に入れ、BC546年にはリュディアのクロイソス王(在位:BC560年~BC546年)を倒してアナトリアを制圧、小アジア沿岸とエーゲ海の多くの島々のギリシャ人都市を支配下に収める。次いでバビロンを服属させ、地中海からメソポタミアに至る古来の西アジア全土を平定した。キュロスの後、BC525年に息子のカンビュセスがエジプトを征服、BC522年からはその息子のダレイオス1世(在位:BC522年~BC486年)が更なる領土の拡大を目指す。ダレイオス1世はその征服戦途上でさまざまな機会にギリシャの本土人を目にしていた。スパルタはクロイソス王を支援してペルシャに敵対的態度を取っていたし、アテナイは追放されてペルシャに身を寄せていた僭主ペイシストラトスの息子ピッピアスの帰還を拒絶した。BC499年、ペルシャはキクラデス諸島のナクソス島に軍を派遣したが、この征服は失敗しただけでなく、イオニア人たちを抵抗へ駆り立てた。イオニア人たちはアテナイから20隻、エレトリアから5隻の軍船の援助を受けて防衛力を増強する一方、内陸のリュディアを攻撃した。この攻撃には小アジア沿岸のすべてのギリシャ都市が加わった。それに対するダレイオス1世の報復は苛烈だった。BC494年、ミレトスの沖にあるラデ島の海戦でイオニア船隊は敗北しミレトスも陥落し、ミレトス人たちは集団で追放された。

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