第86話 ギリシャのアルカイック期

 BC8世紀中ごろ、新たな政治情勢に強く促されて人びとの活動はさまざまな面で急に活発になる。地方の集落の住民や、貴族の支配下のあった人びとは都市に集まり始めた。都市は独自の政治システムを持っていたが、それより重要なのはそれぞれが個性的な存在だった点だ。ギリシャ語で「ポリス」と呼ばれた個々の小さな都市国家と周辺の領地は、各ポリスの法律で治められていた。最も有名なポリスはアテナイだが、隔絶された山中や島々、谷など、ギリシャ各地にあったポリスでは住民がそれぞれのポリスに忠誠を誓っていた。都市は互いに戦火を交え、平時にもオリンピア競技会などで競い合った。競技会に出場する選手はポリスの代表として参加した。所属する都市国家の努めに加わることで、自分の意見を持つ積極的な市民が生まれた。こうした市民の誕生は、当時「ヘラス」と呼ばれた古代ギリシャの大きな強みの一つだった。

 アルカイック期(BC8世紀前葉~BC6世紀)は活気あふれる時代だった。人口が増え、交易が盛んになり、独立した都市国家ポリスが誕生した。各ポリスは独自の法律や慣習、政体を持った。暗黒時代を脱したギリシャの人びとは、土地の所有に熱意を燃やした。人口が増えて階級格差も明確になり、貴族階級は一番良い土地を手に入れようと争った。多くの主要都市は住民の土地を求める声に応え、交易を押し進めた。地中海周辺の商業活動の高まりは、貴族や平民の企業家にとって新しいビジネスチャンスとなり、中産階級が生まれた。交易のための原材料や土地を求めて出身地のポリスを後にした移民たちは、海外に数多くの植民市を築いていった。西は現在のイタリアやフランス、そしてイベリア半島に、東はエーゲ海北部や黒海地方に植民市が設けられた。これらの植民市を通じてギリシャ文化はさらに広まった。

 古代ギリシャの黄金時代の基礎が形成されたのは、BC8世紀前葉からBC6世紀のアルカイック期だった。この時代、ギリシャの都市国家とイベリア半島東部から黒海周辺にかけての植民市では、ギリシャ人の誇りと勢力の拡大を象徴する神殿が建てられた。外国文化に触れたギリシャ人はフェニキアからアルファベットを、小アジアからは異国風の美術様式を取り入れて豊かな文化を築いていった。しかし、それ以上に著しかったのはギリシャ文化の国外進出である。美しく洗練されたコリントス式陶器や、ドーリア式円柱、そして叙事詩が、船で何日もかかる遠方へと広まった。自分たちの文化を汎ギリシャ的祭礼や運動競技会で称え始めると、彼らはギリシャ語を話さない異民族を「バルバロイ」と呼んで、見下すようになった。


[オリンピア競技祭]

 競技を伴うオリンピア祭が初めて開催されたのは、BC776年のことだった。そこで人びとは運動、詩、音楽などの競技を通して平和的に競い闘う道もあるのだと言うことを知った。西暦がキリスト生誕の年を元年としたように、その後数世紀経つと古代ギリシャ人は、この最初のオリンピア祭が開かれた年をギリシャ歴の元年とするようになった。多くのポリスはかつてミュケナイ文明の栄えた地に生まれた。最初のオリンピア競技祭に集まった人びとは、自分たちが一つの文化を共有しているという意識をすでに持っていたようだ。その土台にあったのが、共通の言語だった。ドーリア人、イオニア人、アイオリス人は皆、同じギリシャ語を話す人びとだった。彼らが長い間言語を共有した結果、この時点でギリシャ語は大きな能力を獲得していたようだ。単に事実を述べるだけのレベルから、ホメロスの作品に代表される壮大な叙事詩を口誦ではなく、記述するだけの描写力を獲得していた。

 オリンピア競技祭はゼウスを称えたものでギリシャ南部のオリンピアで開催された。最初の競技祭はBC776年に開かれている。4年毎に開催されていたこの競技祭は次第に一番大きな宗教祭となっていき、ギリシャ全土から参加者が集まってきた。5日間にわたるこの祭りは夏に開催されていた。そのとき1ヶ月間の神聖なる休戦というものが宣言され、その間は都市国家間の戦争は停止されたので、2万人という数の神官や競技者や観客たちが競技祭を目指して旅することができた。旅人のほとんどがテントの中で寝起きしていたが、後の時代になると、身分の高い人たちはレオニダイオンと呼ばれる巨大な建物に滞在するようになった。また、大理石の大神殿も建設され、今日、古代世界の7不思議の1つとして知られる、金と象牙でできたゼウスの巨大な像があった。競技祭は祈りと宗教的儀式で始まり、その後、競技が行われた。競技は、競馬、ボクシング、5種目からなるペンタスロンなどがあった。ペンタスロンの5種目とは、180メートル走、やり投げ、円盤投げ、幅跳び、レスリングである。レスリング競技には他にもパンクラティオンと呼ばれるものがあり、この競技では選手はかみつくことと相手の目をえぐること以外は何をしてもよいことになっていた。審判は棒を持ち、不正を働いた選手を叩いた。また演説や詩を競い合うコンテストもあった。オリンピアでの勝者は名士となった。BC415年、アルキピアデスというアテナイ人が軍の将軍に任命されたが、その任命理由は、彼が1つのレースに7台のチャリオット(二輪戦車)を出走させ、1位、2位、4位を獲得したからというだけのことだった。スパルタでは、オリンピアの勝者は次の戦争の時、戦場の第1線で戦えるという名誉を与えられた。古代ギリシャでは裸は恥ずかしいことではなかった。BC530年ごろのアンフォラに描かれた選手たちは、裸で競技を行っている。選手たちは誰もが勝者のリボンを切望する。賞品は月桂樹の冠だけなのだが、家に戻ったとき彼には山のような贈り物が届くだろうし、税金も払わなくて済むのだ。あるいは死ぬまでただで肉を得られるだろう。


 BC750年ごろの壺の刻まれたアテナイ最古のギリシャ文字はフェニキア文字にわずかに改良を加えたものである。このことから推測すると、ギリシャの貿易商人がフェニキアからアルファベットを持ち帰るまで、ギリシャ人は文字を持っていなかったと思われる。ギリシャ文明がどのように誕生したかは依然として謎のままだが、その背景に西アジア世界との接触があったことは、まず間違いない。

 ギリシャ人という名称は後世のローマ人がつけたもので、当時はヘレネスと呼ばれたと思われる。これはもともとギリシャ本土に侵入してきた人びとを先住民と区別するために使われた言葉だったが、次第にエーゲ海周辺でギリシャ語を話す人びとすべてを指すようになっていった。つまり暗黒時代の中から生まれた新しい概念であり名称だったが、重要なのは、その「ヘレネス」と呼ばれた人びとが、自分たちをはっきりと新しい存在として意識していたことである。BC8世紀にギリシャ語を話していた人びとの中には、13世紀のミュケナイ時代末期の大混乱の中でルーツがわからなくなった人びともいれば、もっと後になってからエーゲ海周辺に移住してきた人びともいた。彼らは最初からヘレネス、すなわちギリシャ人だったわけではなく、エーゲ海周辺に定住したことでギリシャ人になった人びとであった。信仰や神話の共有と並んで、言語の共有がギリシャ人であるための最も重要な資格証明となった。つまりギリシャ人はその成立当初から、「文化の共有」ということを最も重視した民族だったというわけである。

 しかしその一方で、こうした文化的な結びつきはギリシャ人を政治的に統合させる原動力にはならなかった。この文明はかなり広範囲に広がっており、その地理的要因からも政治的統合は難しかった。青銅器時代にクレタ島のミノア文明やギリシャ半島のミュケナイ文明が広い範囲に影響を及ぼしたのは、エーゲ海の島々と周囲の沿岸部が船で簡単に行き来できたからだった。同じ理由からギリシャ文明もエーゲ海全体に広がって行った。その地理的環境が原因となって、エーゲ海沿岸部には経済的に自立した小さな共同体が数多く成立することになった。言語を共有するそれらの共同体は互いに行き来するだけでなく、文明の先進地である西アジアやエジプトの各地とも交流することができた。メソポタミアやエジプトが大河の流域に文明が栄えたように、エーゲ海沿岸部も文明が誕生する条件には恵まれた場所だった。古代ギリシャ人の多くが本土を出て、エーゲ海沿岸部に植民市を建設するようになるのは、本土が恵まれた自然環境になかったからだ。ギリシャ本土で耕せる土地は岩山や丘に囲まれた狭い平野部だけで、乾燥農業にしか適していなかったため、大量の農産物を生産することは難しかった。鉱物はほとんどなく、鉄や錫、銅などは全く産出しなかった。さらに谷間が直接海へと切れ込んでいるため、本土内でもお互いに行き来するのが難しかった。こうした理由からギリシャ本土の住民たちは陸よりもはるかに移動が楽な海に目を向けるようになった。結局、ギリシャ本土では海から60キロ以上離れた内陸部に住んだ人びとはいなかったようである。


 ギリシャ人は仲間同士で激しく争い、同じギリシャ人でも、ボイオティア人、ドーリア人、イオニア人など、それぞれが持つ慣習や気質の違いを重視した民族だった。しかしその一方で、彼らは自分たちが明らかに他の民族とは異なった存在であるということをはっきりと意識していたようだ。これは観念的な問題だけでなく、現実の社会でも重要な意味を持っていた。例えば、戦争捕虜にしても、捕虜がギリシャ人の場合は異民族(バルバロイ)とは違って、奴隷にはできないとされていた。また、多くの都市から人びとが集まるギリシャの宗教祭儀にはギリシャ語を話す人しか参加を許されなかった。

 言語と並んで、宗教もまたギリシャ人のアイデンティティにとって非常に重要な意味を持っていた。ギリシャの神々の世界は驚くほど複雑である。なぜなら、それは広い地域にわたるさまざまな共同体の神話を統合したものだからである。ギリシャ人の宗教の根底にあったのは、地方に伝わる迷信や信仰だったが、神を限りなく人間に似た存在として位置付けた点で、他の宗教とは大きく異なっている。ギリシャ人が信仰した神や女神は超自然的な力は持っているものの、極めて人間に近い存在なのである。ここにもまた、ギリシャ文明の特質とされる「人間中心」という性格を見ることができる。よく考えてみると、これは宗教の歴史上革命的なことだった。なぜなら神が人間に近いということは、逆に言えば人間も神に近い存在だということを意味するからである。そうした特色はホメロスの叙事詩の中でも描かれている。ホメロスの描いたトロイア戦争では、神々が敵対する二つの国のそれぞれの側に立って、人間と同じように争っている。オデュッセイアでは、海神ポセイドンがオデュッセウスを攻撃すると、女神アテナがそれを助けるというようになっている。後世のギリシャの批評家の中にはホメロスについて、盗みや姦通、詐欺などの人間としても非難されるべき行為を神々に行わせたと不平を漏らしている。ギリシャ人にとっての神々の世界はそれほど現実の世界に近かった。ギリシャ文明といえば、古典期(BC500年~BC322年)にエリート層が成し遂げた業績、理性と論理に支えられた輝かしい業績が強い印象を与えるが、その一方で、ギリシャ社会の基盤には、常に理性的でない側面が存在したことを忘れてはならない。アルカイック期(BC8世紀前葉~BC6世紀)には、その理性的でない側面が、より大きな姿を現している。


 ポリス(都市国家)が成立したBC8世紀には、そのほとんどの都市で権力は王たちから貴族たちの手に移っていたと考えられている。支配階級のエリートたちはそれぞれ領地を持ち、土地からの利益で高価な武器やウマを購入して戦争においても指導的な立場に立っていた。古代ギリシャのポリスとは、土地を私有すると同時に戦闘の権利と義務を持つ貴族(後には市民)の共同体として発展していったと推測される。つまり、ギリシャ文明では他の文明のような強大な王権が確立されないまま集団指導体制に移行していったと思われる。ホメロスが描く貴族たちもかなり王から独立した行動を取っているが、そうした姿はホメロスが生きた時代、BC8世紀の実情を反映していると思われる。ポリスを集団で運営する貴族たちの最大の関心事は如何に自己の存在を主張するかにあったようだ。その結果、ギリシャ人はついにローマのような息の長い帝国を樹立することはなかった。帝国を維持するには、人びとが小異を捨て大同につき、それぞれが与えられた役割を進んで受け入れる必要がある。結局、ギリシャ人たちは統一国家さえ形成することができなかった。

 エーゲ海に再び文明が登場した後も、ギリシャ人はさまざまなルートを通じて西アジアやエジプトからの影響を受け続けていた。外国人居住者や奴隷の多くもおそらく同じルートでやってきたものと思われる。ホメロスはギリシャの都市に外国の技術や様式を持込んだデミウルゴイ(外国人の職人)について触れている。その後の時代になると、逆にバビロンに移住したギリシャ人の職人や、傭兵として他の国に雇われたギリシャ兵などが登場した。BC525年にペルシャの王カンビュセスがエジプトを破ったとき、ギリシャ兵はどちらの陣営にも存在していた。この戦いの結果、エジプトはペルシャ帝国の一部に編入され、エジプト第27王朝(BC525年~BC404年)はペルシャ人ファラオの時代となった。彼らの中には戦いの後、エーゲ海地方に戻って新しい考えや文化をギリシャ文明にもたらした人たちもいたと思われる。また、小アジアにあるギリシャ植民市やその近隣地域であるフリュギアやリュディアとの交易はいつの時代も途切れることなく続いていた。このようにギリシャ人は外国と非常に活発な交流を行っていたため、アルカイック期のギリシャ文化はどれが独自のもので、どれが外国の影響によるものかを見分けることが難しくなっている。


<自由と奴隷>

 初期のポリス(都市国家)では、貴族の下には「その他の階層」があるだけで、社会はそれほど複雑ではなかった。自由人と呼ばれる人びとは自分の土地で働くか、ときには他人の土地で働くこともあったと思われる。通貨が登場するまで財産の基本は土地だったため、地主が簡単に変わることはなかった。ホメロスは牡牛の数で財産を表現しているが、金や銀はまだ交換の手段ではなく、奉納の儀式で使われるものと考えていたようだ。そうした貴族社会の伝統の下、後に商売は品のない仕事と考えられるようになり、アテナイなどの都市でも商業はメトイコイ(外国人居住者)の手に委ねられることになった。ギリシャの市民権を持たない彼らが市民のやりたがらない仕事を引き受けていたのだ。

 奴隷の存在も当然のものとされていた。ホメロスが描いたアルカイック期のギリシャ社会では奴隷のほとんどは戦利品として略奪された女性たちだった。男の捕虜は後に奴隷とされるようになったが、当初は殺されていた。古代ギリシャでは、ローマ帝国や近代ヨーロッパの植民地とは違って、大規模な農場で奴隷を働かせることは稀だった。BC5世紀の古典期(BC500年~BC322年)になると、平均的なギリシャ人は皆、奴隷を1人か2人所有しているという状況だった。アテナイが最盛期を迎えた時には、人口の4人に1人が奴隷だったという推計もある。BC4世紀には銀行家として成功した奴隷も出ている。また、「イソップ物語」の作者アイソポスのように社会的に有名になった奴隷もいた。農作業から商業、そして教育まで、奴隷はギリシャ人のためにあらゆる仕事を行っていた。それでもやはり奴隷は自由を奪われた存在であることに変わりはなかったが、古代は奴隷制に問題を感じるような時代ではなかった。


<重装歩兵と民主政>

 アルカイック期に起こった重要な変革は、BC700年ごろによく訓練された重装歩兵の軍隊が誕生したことと、ギリシャ人が「政治」を発明したことである。ギリシャの重装歩兵は兜をかぶり、鎧を着け、盾を持っていた。主な武器は槍で、それは投げるのではなく、隊列を組んで突撃をした後、密集戦で相手を突き刺すためのものだった。こうした訓練された集団による戦闘形態を編み出したことで、その後3世紀にわたりギリシャ軍は西アジア世界の軍隊に勝つ続けることができた。

 ギリシャ人は公の場で集団の利益を図るために議論を行う「民主政」という政治形態を思いついた。英語のポリティックスはギリシャ語のポリスに由来している。ポリスに対するギリシャ人の考えは彼らの言葉づかいによく表れている。ギリシャ人はアテナイが何をするとか、テーバイが何をするとは言わず、アテナイ人が何をするとか、テーバイ人が何をするという言い方を好んだ。つまり、あくまでも主体は国家ではなく、市民にあるというわけである。ポリスが利益と目的を共有する人びとの集まりであることは強く意識されていた。こうした市民の直接参加による民主政は各都市国家の内部に強い結合力をもたらしたが、その一方で政治的な限界も生むことになった。ギリシャ人の意識は長い間、国内自治のレベルから抜け出すことができなかった。ギリシャの都市国家は本質的に外の世界を疑いの目で見ており、やがてそれぞれの守護神や祭儀、神に奉納する劇などが、市民を過去の歴史と強く結びつけ、市民に伝統と決まりを教え込んでいくようになる。

 都市国家を運営するための理念は、基本的には重装歩兵の精神と同じだったと考えるとわかりやすい。つまり、人びとは共通の目的のために協力し助け合い規律のとれた行動をとらなければならなかった。実際、政治に参加できる初期の市民たちは重装歩兵だけに限られていた。つまり、都市国家の防衛を担う者だけが市民としての権利も手にすることができたのである。

 ギリシャには150以上もの都市国家があったが、都市国家ごとに運営の方法が違っていた。アリストテレスはBC4世紀に、158にのぼるギリシャの都市国家の制度とその歴史的変遷について資料を集めたとされるが、制度に違いがなければ、わざわざそのようなことをする必要もなかったはずだ。しかし残念なことに、アリストテレスの調査結果は、アテナイの制度以外、そのほとんどが失われてしまった。また多くの資料が残されているアテナイやスパルタなどについても、具体的な制度についてはよくわかっていない。


僭主せんしゅ

 ギリシャの歴史時代が幕を開けた時、すでに都市国家は存在し、それを統治していたのは貴族たちだった。しかし商工業者を中心とする新しい富裕層は、自分たちを市民として認めさせるため、次第に既存の支配者層を攻撃するようになった。かつて王から権力を奪った貴族たちが、今度は攻撃の対象となった。新しい富裕層はすでに時代に合わなくなっていた貴族政に代えて、新しい行政の形を作ろうとした結果、「僭主」と呼ばれる支配者たちの時代が訪れる。僭主たちのほとんどは裕福な貴族階級出身の人物だったが、民衆と結んで貴族政を打倒した場合が多かったようだ。当然のことながら市民たちには人気があり、その当時、僭主(tyrant)という言葉には、後世のようなある意味、「暴君」はなかった。おそらく多くの僭主は、情け深い独裁者といった存在だったと思われる。土地を求める圧力から社会的な危機が生まれ、貴族と平民の間の闘争が激化していったギリシャ社会に、僭主たちは平和をもたらすことに成功したようだ。平和の訪れとともに経済成長もうながされ、僭主同士の関係も安定していったものと考えられる。BC7世紀は僭主政の黄金期だったようだが、それも長くは続かず、ほとんどの僭主が一代限りで消えていった。そして6世紀になると、ほぼすべての都市で集団統治への動きがはっきりと現れてくる。こうして寡頭かとう政や立憲政、さらには民主政の萌芽が見え始めてくる。


<アテナイの直接民主政>

 アテナイはBC6世紀に民主改革を行い、都市国家群の中で指導的地位に立った。古代アテナイの民主主義は、BC590年代から約300年かかった改革の過程で生まれた。女性と奴隷には選挙権がなかったとはいえ、現代の民主主義国家でさえ、女性に投票権が与えられるようになったのは紀元後19世紀末になってからだった。アテナイの民主主義の確立に誰よりも尽力したのは、ソロンとクレイステネスだ。この2人が直接民主政を確立した。BC6世紀、すべての男性自由民に、国の政策決定や日々の政治活動を行う役人を選ぶための直接的な発言権を与えたのだった。

 BC594年、執政官ソロンはこの改革の手始めに、旧来の貴族層を一掃し、BC594年には中小農民の権利を守るとともに、財産により市民を四階級に分け、納税額と公職とをリンクさせた。そして、すべての負債を帳消しにし、異なる階級に議会での発言権を与えた。しかし、改革はスムースに進まず、BC560年、僭主せんしゅペイシストラトスが権力を握り、BC542年には僭主政を確立した。彼は独裁者だったが専制君主ではなかった。ペイシストラトスはその独裁的権力を用いてアテナイを計画的に美しく飾った。アゴラ(広場)の創設も彼のプロジェクトの中に含まれていた。彼はBC552年に追放されるが、11年後に地位を取り戻し、BC528年に死没すると息子が跡を継いだ。

 BC510年、アテナイ市民は市政を自分たちの手に取り戻すと、直ちに新たな僭主が現れる可能性を取り除いた。彼らはクレイステネスを指導者にして、市民の市民による市民のための政治体制を樹立した。但し、女性や外国人や奴隷は市民と見なされなかったが、それは何千人もの市民が日々の市政や裁判に責任を持って関わると言う画期的な改革であった。そうしてクレイステネスがBC508年からBC507年にかけて、民主政治制度を完成させた。アテナイの男性市民は誰でも500人評議会に選出される機会が平等に与えられることになった。この評議会が、全市民が参加する議会の主導の下で、国家の日々の政治を監督する。これがやがて、統治機関という形を取り、アテナイの民主主義を発展させ、その後の古典期の繁栄した黄金時代を築いた。クレイステネスはオストラコン(陶片)による追放を考えたとされる人物でもある。古代アテナイの市民はだれでも年に一度、町の中心部で広場や市場の役割を果たすアゴラに足を運び、オストラコンと呼ばれる陶器の破片に追放したい人物の名前を刻み、投票壺に入れることができた。アテナイの約3万人の市民のうち6000票が集まれば、その人物をアテナイから追放できた。それによって、アテナイでどれだけ地位が高く、どれだけ権力を握っている者でも追放できてしまう。つまり陶片追放は、市民の直接的な権利行使だった。しかしときには、革新的で有能なペルシャ戦争の英雄でもあったテミストクレスを、汚職の嫌疑で追放したりしたこともあった。また、クレイステネスの実の甥が追放されている。これらはアテナイの民主主義の自由さを示すよい例である。

 このように試行錯誤を繰り返しながらも、アテナイは人類史上初の民主政を誕生させた。現代の民主主義は、アテナイ人が持っていた政治に大きな影響を与える権利をかなり踏襲している。それでも絶対に真似できないことがある。確かに現代の国家は投票権を全国民にまで広げたが、古代アテナイ時代に享受されていた規模で民衆の力を行使するには、人口が余りにも増えすぎてしまったのだ。

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