第85話 ギリシャ文明の発展

<年表>

ギリシャの暗黒時代(BC13世紀後半~BC10世紀)

 この時代はギリシャの初期鉄器時代であり、暗黒時代でもある。ギリシャにおいては移動の時代であり、北方からドーリア人によるギリシャ半島への南下があった。ギリシャ半島から東方の小アジア沿岸地域への植民活動はBC12世紀からBC9世紀ごろまで続いた。BC1000年~900年ごろキプロスのギリシャ人はフェニキア人のアルファベット文字のアイデアを借用した。その後、BC850年~775年ごろからアルファベット文字は、ロードス島とクレタ島へ伝播し、その後、エウボイア島を経由してエーゲ海のギリシャ人の間に広がった。 


幾何学様式期(BC9世紀~BC8世紀前葉)

 BC9世紀からBC8世紀前葉は幾何学様式期と呼ばれる。これはこの時代の陶器の独特な文様、すなわち直線とシンプルな幾何学的モチーフによって構成された装飾の壺や甕などに由来している。特に、アテナイのあるアッティカ地方において比類のない完成度に達している。ホメロスの叙事詩とアッティカの幾何学様式の陶器が表しているのがBC8世紀のギリシャ文化の最も華々しい側面である。


アルカイック期(BC8世紀前葉~BC6世紀)

 BC800年を過ぎたころから、ギリシャ文明が発展し始めた。製鉄技術が普及し、美しく装飾を施した壺の製作も始まった。そして人口が増加し、文字が広まり、古代ギリシャ文明が花開いた。ホメロスはこの時代の8世紀の人と伝えられる。ギリシャのエウボイア人はBC8世紀初頭、商業的拡大の先頭を切り、東はシリアから西はイタリア半島のナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げ、ギリシャ・アルファベットを伝えた。ギリシャ人は史上初めて母音音素を系統的に一貫して表した民族である。それは話し言葉を忠実に再現できた。彼らはフェニキア文字を使って独自のギリシャ語方言を伝えようとしただけだが、キプロスの書記が新しい方法を思いつき、どのような言語も伝えられるようになった。このようにしてギリシャ人はアルファベット文字を完成させた。


<主な出来事>

BC1150年~BC950年 ドーリア人の侵入

BC800年頃 ギリシャ・アルファベットの考案

BC776年 オリンピア競技祭の創設(第1回)

BC750年 エウボイア人がイスキア(イタリア中部)とキュメ(小アジア)に植民

BC735年~BC715年 スパルタが西側のメッセニアを征服

BC733年 コリントスがシチリア島にシュラクサイを建設

BC708年 ラコニア人が南イタリアにタレントゥム(タラス)を建設

BC700年 ヘシオドスが活躍、重装歩兵戦術の導入、エウボイア人がカルキディケ(エーゲ海に面したギリシャ北部)に植民

BC669年 アルゴスがスパルタを破る

BC660年 メガラがビザンティオン(現在のイスタンブール)に植民

BC650年頃 アイギナ、アテナイ、コリントスで通貨鋳造

BC621年 アテナイでドラコンが成文法を定めて、家族の復讐権を取り去った。

BC600年頃 小アジアのフォッカイア人がフェニキア人の町だったガリア南部(南フランス)のマッサリア(現在のマルセイユ)に新たな町を建設

BC594年 アテナイでソロンの立法。ソロンは国政の改革に取り組み、中小農民の権利を守るとともに、財産により市民を四階級に分け、納税額と公職をリンクさせた。

BC582年 デルフォイで第1回ピュティア祭を開催

BC559年 テュロスによるアケメネス朝ペルシャの誕生

BC545年 小アジアにペルシャが進出。フォッカイアの住民がコルシカ島に移住

BC542年 アテナイでペイシストラトスが僭主せんしゅ政を確立した。僭主は独裁的ではあったが、暴君ではなかった。ペイシストラトスはディオニュソスに捧げる第1回の悲劇の競演会を催した。これが後のギリシャ悲劇を生みだした。

BC534年 アテナイで第1回悲劇コンクール開催

BC511年 トラキアがペルシャの勢力下に入った

BC510年 エトルリアの支配的な名門タルクィニア家が滅び、ラテン人のローマがイタリアの支配権を握った。

BC508年 アテナイでクレイステネスが民主改革を結成。内部対立が続いた僭主政に懲りたアテナイは人類史上初の民主政を誕生させた。その後、陶片追放制を始めたが、この制度は衆愚政治に恰好の武器を与えた。

BC505年 スパルタがペロポネソス同盟を結成


 ***


 “驚く心を持つこと、それが哲学者の証だ”ソクラテスはこう話したが、古代ギリシャが実に長い時代にわたって繁栄し続けたのは驚きだ。「ヘラス」と呼ばれた古代ギリシャは広くはなく、孤立した都市国家が山間部や島、海岸沿いに点在していた。独立心旺盛な諸都市は独自の法律や軍隊、植民地、貨幣を持ち、一つの国としてまとまることはなかった。互いに激しく競い合い、外国人であろうと同じギリシャ人同士であろうと、ときには残忍な戦いを繰り広げた。しかし、ギリシャ人に共通していたのは、活力にあふれ、その文化と言語を地中海世界に広めていった点である。西洋の美術や建築、文学、科学、哲学の多くは、この古代ギリシャの世界に根ざしている。ギリシャ文化は現代文明を支える、まさに輝ける柱と言えるだろう。



(ギリシャの自然環境と後期青銅器時代までのギリシャ)


 本来のギリシャはバルカン半島の南部を形成している地域で、北限であるテッサリアのオリュンポスの山塊から、南端であるペロポネソス半島の端のタイナロン岬まで約400キロしかない。しかも、この小さな国土は山だらけの自然と出入りの激しい海岸線のために、極度に細かく仕切られている。こうした大陸の半島部分のギリシャを補完しているのが、島嶼とうしょ部分のギリシャである。重要なのはエーゲ海の島々だ。南は標高2490メートルのイダ山がそびえるクレタ島の細長い障壁に塞がれ、北はマケドニアとトラキアの海岸に囲まれたこのエーゲ海には無数の島々が散らばり、船で航行していても視界から陸地が消えることはめったにないほどである。エウボイア島からロードス島まで、キクラデス諸島(エーゲ海中部)とスポラデス諸島(エーゲ海北西部)が、ギリシャと小アジアの間を水面に浮かぶ陸地を数珠のようにつないでいる。これらの起伏にとんだ島々は船乗りにとっては格好の避難所になり、そのおかげでエーゲ海全体がギリシャの属領となってきた。島のほとんどは岩石から成っていて、真水の流れはなく、植物の生育には向いていない。キクラデス諸島では雨水を貯めるやり方が普通である。その中でもやや良好な条件を備えているのが、レスボス島・キオス島・サモス島という小アジア沿岸の比較的大きな島々で、これらの島は大陸とごく狭い水道を隔てているのみで、当然アナトリアの生活圏に属している。それに対してロードス島は、少し南にあって独特の位置を占めている。このように多様な各地には際立った相違があるが、すべては地中海性気候の中に在る。古来この地中海性気候は、他には見られない快適さをもたらしている。ヘロドトスは「最も穏やかな四季を天から授かった」と言っている。長い夏を凌ぎやすくしているのが、北風である。冬は全般的に温和で、雨の季節であるが、美しく晴れる日もある。要するに、ギリシャの気候は人を健全に刺激し、野外での生活を快適にしてくれる。

 土壌はオオムギ・コムギなどの穀物、ブドウ・オリーブ・イチジクなどさまざまな作物に適している。大型の獣が飼育されているのは山地やテッサリアの平野だけで、テッサリアのウマは古来有名であった。反対にヒツジやヤギ、ブタなどは、灌木が密生する林の中でも易々と育つ。古代には狩猟の獲物がたくさんいた。ウサギ・野鳥・イノシシ・シカなどだけでなく、クマやオオカミ、さらにはライオンなどの猛獣もいた。湖にはウナギ、海にはアンチョビやイワシなどの小魚からマグロなどの大型魚も漁の対象だった。ギリシャ人は古くからミツバチの養蜂を知っていた。地下資源では、石灰岩や大理石などの建築用石材、焼き煉瓦用の粘土、金属では銅・銀・金・鉄鉱石、さらに黒曜石も採掘されていた。このようにギリシャの国土は人が住むのに好適な条件を備えていたが、いくつかの難点もあった。地震の脅威があり、耕作可能な土地は全体の18%にすぎず、農民は侵食や旱魃に対処しなければならなかった。山地が多いことによる国土の細分化は小規模な行政単位の誕生と発展を促したが、大きな国家の形成には支障となった。いたるところに侵入してくる海は外部との交流を容易にした。ギリシャが輸出できるのはワイン・オリーブ油・香水・陶器・金属製品という技術を要する製品で、コムギは輸入に頼らざるを得なかった。したがって、ギリシャ人は飢饉の脅威に立ち向かうため、活動性と知性を奮い立たせて外に向かって拡大を目指さすしか道はなかった。


 ギリシャ人がどこから来た民族なのかはよくわかっていない。エーゲ海とギリシャ半島の周辺地域であるアナトリア、レヴァント、エジプト、東ヨーロッパなどから来たと考えるのが自然と思われる。後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)になると、新しい埋葬方式である火葬が中央ヨーロッパと東ヨーロッパに見られる。そして、BC1000年ごろにギリシャと南東ヨーロッパに鉄器が大規模に現れる。少し遅れてヨーロッパのその他の地域にも出現する。鉄器時代の南フランスとドイツの族長社会の出現と同時代である。この時代には、傑出した個人の豪華な墳墓がある。ギリシャ人が最初の文明人だったわけではない。クレタ島ではミノア人と呼ばれる人びとがBC2000年ごろに豪華な宮殿文化を花開かせていたし、BC1600年ごろにはギリシャ本土のミュケナイで同じような文明が起こっている。ミュケナイはBC1200年ごろに滅亡した。その後の400年間は戦争に明け暮れた暗黒時代で各民族による侵略と移動が続いた。

 BC1250年ごろと推定されるトロイアの崩壊に関わったかどうかは別にして、ミュケナイ文明はトロイアの陥落からしばらくして衰退している。繁栄していたはずのミュケナイ文明がなぜ滅んだのか、これは後期青銅器時代の大きな謎だ。BC1200年ごろにはピュロス、ミュケナイ、ティリュンス、ミデアといった大きな宮殿がほとんど陥落した。トロイア第6市を崩壊させた地震のような自然災害、あるいは気候変動が原因とみる学者たちもいる。ミュケナイ文明の経済の中央集権化や官僚化が行き過ぎて自ら破綻したという見方もある。その頃、エーゲ海と東地中海一帯の多くの都市も同じ運命を辿った。外部からの侵略があったという考古学的な裏付けはないが、戦闘技術に革命的な変化が生じ、異国からの侵入者が有利に戦えたのかもしれない。ほとんどの歴史学者は、衰退が徐々に進み人口がゆっくりと減少していったと見ている。ミュケナイの莫大な富の秘密は交易にあったが、同時にそれはこの都市の衰退の原因にもなったとされる。アナトリアの大国ヒッタイトが滅んで、東方の大都市が略奪に遭うと、何世紀もエーゲ海一帯の経済を支えてきた複雑な交易網はバラバラになってしまった。交易からの収入を失ったミュケナイは、その政治体制を維持できなくなった。



(暗黒時代)


 ミュケナイ文明がBC1200年ごろに崩壊すると、エーゲ海周辺は400年にもおよぶ各民族による侵略と移動が続いた「暗黒時代」に入った。人口が減少し、文化も衰退する時代だ。色とりどりのフレスコ画や輸入品に飾られた豪華な宮殿は姿を消し、巨大な建築物や絵画、金属工芸、文学表現といった洗練された芸術が失われた。しかし、世界の文学史上に残る2編の傑作、「イーリアス」と「オデュッセイア」を後世に伝える橋渡しをしたのは、文化的に明らかに空白だったこの暗黒時代である。「イーリアス」にはミュケナイ時代に生まれた証拠があるが、この偉大な叙事詩を育んだのは、記された史実より何世紀も後に生きた無名の詩人たちだった。話を受け継いだ語り部たちが、アナトリア地方などで起きた交易上の小競り合いを、小アジアのトロイアとギリシャ連合軍との壮大な衝突物語へと仕立て上げた可能性もある。

 BC8世紀後半、様相は一転した。人口はどの地方でも増加し、孤立していた集落は小さな都市国家へと発展した。独立心あふれる英雄アキレウスの性格設定や、「イーリアス」に描かれているさまざまな指導者たちは、おそらくそんな政治の変化を反映しているのだろう。この時代に交易は復活し、植民地建設も盛んになる。そして何よりも、ホメロス作とされる大叙事詩が完成したのだった。「イーリアス」のさまざまな場面で、英雄たちは栄光への熱い思いと、自分たちの名前を後世に残したいと言う望みを語っている。“易々と手にかかり、不名誉な死に方をするのだけはいやだ。何か大きな事をして、後の世に名を残すのだ”ヘクトルはこう語って、アキレウスとの最後の対決に臨む覚悟を固めた。

 暗黒の時代は、ギリシャでは地方の領主や武将たちがわずかな領土を奪い合い、要衝の岩山に要塞を築いた混乱の時代である。城塞の周囲には保護を求める農民やその他の人びとがやって来て集落を築き、保護の代償に貢ぎ物を差し出した。軍事的支配者たちの富と権力が増すと、彼らは自分たちの威厳を高めるために贅沢な品々を求めるようになり、商人たちは高価な輸入品を運んできた。その頃には職人階級なども生まれ、社会の複雑化が進む。こうした過程で形成された「中産階級」は、支配者である貴族階級にとって脅威ではなくても農民のように簡単に押さえつけられる存在ではなかった。「民主政治」が誕生するのはまだ先のことであるが、ギリシャ人の社会は少しずつその方に向かって歩み始めた。

 BC1200年ごろにミュケナイ世界が崩壊し、その後およそ350年続く暗黒時代に、ホメロスの叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」は詩人たちに語り継がれ、独特の幾何学文様の陶器がギリシャ各地で作られた。そしてBC10世紀のエウボイア島のレフカンディ遺跡で発見されたような長さ50メートルという大規模な建造物を作り、時に英雄にふさわしい方法で死者を埋葬していた。納められた遺骨より200年も古い青銅の壺が大切にされてきたように、人びとの考え方、つまり文化も、その間ずっと伝承されていたのだ。



(幾何学様式期)


 BC9世紀からBC8世紀前葉は幾何学様式期と呼ばれる。ギリシャ史の年代設定のために陶器が重視されるのは、それが直接情報をもたらしてくれる唯一の資料だからである。幾何学文様の陶器は、コリントス、アルゴス、ボイオティア、キクラデス諸島、そして特にテラ島、ロードス島、キプロス島、さらにはイタリア南部など、ギリシャ世界の多くの地で見つかっている。しかし、その発展を最もよく辿れるのはアッティカで、アテナイ近郊のケラメイコスの墓地遺跡から発掘された陶器である。ここにたくさんの陶工が住み着いて仕事をしていたことから、陶器(ceramique)という語が生まれたのだった。

 初めは粘土の地色の上にワニスで装飾文様が描かれていたが、その後、容器のほぼ全面を黒色ワニスで覆い、壺の首と肩のところに幾何学的な文様が施されるようになる。描かれている文様は、同心円や円弧、波形の線、三角形あるいは菱形の線の帯、碁盤しまあるいは格子縞の長方形などで、その造形美は、印象的な黒と明色との強いコントラストと、簡潔な優美さとにある。メアンダー紋(雷紋あるいは卍紋)のモチーフが現れるのもこの頃からである。この文様はすでにエジプトやクレタでも知られていたが、ギリシャ美術で盛んに用いられたことから「ギリシャ雷紋」と呼ばれている。

 装飾レパートリーはますます豊かになり、生き物の世界へも向かう。黒いシルエットで図式的に描かれた動物たちは、純粋に幾何学的モチーフのそれと同様、いわばフリーズという建物の壁の上部などの帯状装飾を構成しているだけである。描かれている鳥や獣たちは、生きた姿というよりは、タペストリーの題材の一つのようにむことなく繰り返し再生されていく「印」でしかない。とはいえ、こうしてレーパトリーが拡大したことによって陶工たちは、装飾のためにより大きい表面を割り当てるようになり、ついにはアンフォラなどの容器のほとんど全表面が装飾文様で埋められるまでになっていく。人物像の導入も大きな意義を持っている。その様式化の手法は、動物の場合と同じであるが、人間を表現するようになると、今度は一つの場面を構成したいとの気持ちが強くなっていく。例えば、死の床に横たわる人を囲んで嘆き悲しむ人びとの様子が描かれているアンフォラがある。その描き方には様式化の傾向がまだ強いが、坐っている人もいれば、立ちすくんでいる人もあり、両腕を頭にあてて悲嘆を表わしている様子は、いかにも人間的で、この人間的要素が純粋に抽象的な全体の中に差し込まれることによって、分解酵素の働きをしているだけでなく、それはやがて個性化へと進む萌芽にもなっている。人物が登場する場面の発展は、アッティカの幾何学様式に固有の特徴であり、早くからすでに彼らが他のギリシャ人に比べて抜きんでた芸術的天分の持主であることを示している。


 ギリシャにおいてBC1400年ごろにアカイア人の到来と共に始まった侵入と収縮の時期はBC800年にまで及び、およそ600年間の拡がりがある。600年間は約24世代である。この24世代の間に、ギリシャ人の心性、習慣、風習が形成されたのだ。それはギリシャ人特有のポリス精神ともいう、ポリス内部で起きることに対してはひどく敏感にし、その外部で起きる一切のことにはひどく無関心にさせる凝結力をこの600年間に不屈のものと化したのである。いったい何が起きたのか? ギリシャ全土で農民たちは、遊離した農家では一人で自衛することができなくなり、これらの家を捨てて、丘の頂上に集合し始めたのだ。丘の頂上では、皆が一緒になって、また自然の地形の助けもあって、よりうまく敵に抵抗することができた。こういう頂上はアクロポリスと呼ばれ、要塞化され、城壁に囲まれた都市の中心となった。後のギリシャの黄金時代の大哲学者たちですら、直接支配する周辺の田園部を有するこのような都市、すなわちポリスに優るようなものを考えることができなかった。プラトンによれば、ポリスは5000人の住民を超えるべきではないと言い、アリストテレスはどの市民も少なくともお互いに顔見知りでなくてはならないと主張していた。当時は敵の侵入に備えた人口全体の10分の1にあたる市民だけが人として数えられていた。ギリシャ人の社交性とその派生物である陰口、嫉妬、他人事への介入をも含む、共同体的で排他的なこのような感覚、これらはこの600年にも及ぶ長い潜伏期から生まれたのである。 


 ギリシャ人たちは自分たちのことをヘレネスという統一民族だと考えていた。そして外国人のほとんどをバーバリアンと呼んでさげすんでいた。しかし、古代においてギリシャが1つの国家に統一されることはなかった。ギリシャ本土は岩だらけの山脈で分け隔てられているし、ギリシャ南部はコリントス湾によって北部と切り離されている状態である。そして、エーゲ海にはたくさんの小さな島が浮かんでいる。そうしたことから、古代ギリシャというのは多くの小さな都市国家、すなわちポリスに分かれ、それぞれの国家が都市とその近郊に農耕地を所有していた。その中でもアテナイは比較的大きなポリスだった。コリントス、テーバイ、スパルタも重要なポリスだったが、その他のポリスはずっと小さな規模だった。こうしたポリスの間では争いが絶えなかった。各ポリスはそれぞれ異なる制度を取っていた。民主制を取るポリス、また専制君主制を取るポリスもあった。スパルタは他のどのポリスとも異なり、2人の王が政権を運営し、60歳以上の男たちで構成される議会が王に助言を与えるという体制を取っていた。しかし、ほとんどのポリスでは裕福な地主や貴族たちの小グループが権力を握っていた。

 ギリシャのほとんどの地域で経済の中心となっていたのは自給自足のための農業だった。アテナイや、毛織物の産地として有名なミレトスのように、高度な産業で知られる都市国家もあったが、平均的な共同体の経済は、国内市場で消費される穀物やオリーブ、ブドウなどを生産する小規模な農業に依存していた。当時の典型的なギリシャ人男性といえば小さな農場で働く農夫だった。農業以外の生産活動はギリシャ市民にふさわしくないという思想があったため、商業やその他の事業は主としてメトイコイ(外国人居住者)が行っていた。メトイコイは社会的にかなりの地位を築いていたようで裕福な者も多かったとされている。例えば、アテナイの場合、彼らは特別な許可がなければ土地を所有することができなかった。その一方、メトイコイにも軍役は課せられていた。ペロポネソス戦争開始時に重装歩兵として従軍できるだけの武器・甲冑を購入する余裕があったメトイコイは約3000人だった。その他のアテナイの住民で市民権を持っていなかった男性は、奴隷たちと奴隷身分から解放された自由人(解放奴隷)たちだった。女性は市民権を与えられていなかったが、女性の法的権利についてはよくわかっていない。国政の場で活躍した人はたいてい地主たちだった。商人が政治の世界で出世することは少なく、職人の場合はもっと少ないのが現実だった。ギリシャの上層市民は所有地から得られる収入をもとに、教養人として労働とは無縁の生活を送るのが理想の姿とされていた。このような考え方は、後にヨーロッパの伝統に引き継がれ、後世に大きな影響を及ぼすことになる。古代ギリシャ人は政治活動を何よりも重視した人びとだった。


<アルファベット文字の採用>

 この時期のギリシャは、もう一つ別のものによって、幾何学様式の陶器が成したよりもはるかに大きな人類文明への貢献をしている。それはアルファベットとホメロスを生み出し遺したことである。

 BC10世紀末になると、完全に途絶えていたわけではなかったエーゲ海とエジプト沿岸地域の海路が再興された。フェニキア人として生まれ変わったカナン人が、再び西に船を漕ぎだし、商船に乗って東へ向かうギリシャの商人たちとすれ違う。双方ともに旅先にいくつかの根拠地を作り、最終的にはそこを故郷にもした。ギリシャ人がアルファベットを手にしたのは、フェニキア人とのこうした接触によるものだった。神話では、ゼウスがフェニキアのテュロスにいたエウロペ(Europe:ヨーロッパの語源)に恋したのがギリシャ・アルファベットの始まりとされている。エウロペはセム語の名前である。BC5世紀にアテナイで活動したヘロドトスの説では、アルファベットはエウボイアに住んでいたフェニキア人によってもたらされたという。エウボイアとは東地中海でクレタ島の次に大きな島で、ギリシャ本土と狭い海峡で隔てられていて、本土側の南はアテナイのあるアッティカ地方である。もともとその一部にはイオニア人が住んでいた。イオニア人は船乗りとして有名で、BC10世紀ごろまでにはギリシャ本土にも拡がり始め、また主要なフェニキア人の都市であるテュロスとも密接なつながりがあった。交易が発展するにつれ、フェニキア人はエウボイアの小さな町、レフカンディに根拠地を築いた。ヘロドトスによると、ここからエウロペの弟の一人カドモスは西に向かって旅に出て、海峡を渡ってボイオティアに入植し、テーバイを建設する。カドモスと一緒にやってきたこれらのフェニキア人たちがもたらしたもの、さまざまな学問や自分たちの文字など、それらはすべてフェニキア人がやってくるまでギリシャ人には縁のなかったものだった。この話はある種の真実を含むものとして広く受け入れられている。というのもエウボイアの工芸品がテュロスの近辺で、またフェニキアの工芸品がレフカンディで見つかっているからだ。ギリシャ文字はカドミアン、そしてエウボイアの首都カルキスからとったカルキディックの両方の名前で呼ばれるようになった。ヘロドトスはまた、島や海岸に住むイオニア人がアルファベットを授業によって受け継いだとしている。今日では、その授業が主にメロス島、テラ島、クレタ島で行われていたと推測されている。これらの島々にはフェニキア人が植民しており、フェニキア都市とは密接な関係にあった。

 ギリシャ人がフェニキアのアルファベットを採用したのは、BC9世紀~BC8世紀初めのころである。現在残っている最古のアルファベット文字の文書はBC8世紀後半のものだ。ギリシャ人はセム系のフェニキア人によって考案された音声表記体系を自分たちの言葉に適合させるため、母音表記法という重要な新機軸を導入した。おそらくいにしえのミュケナイの音節文字が寄与したと思われるが、この新しい文字の記述法は急速に発展し、細部ではいくつかの変異を伴いつつギリシャ世界全体に拡がり、さらにそこから、後にラテン語のアルファベットが作られ、近代の各種言語のアルファベットの母体となった。小アジアのイオニア都市出身のホメロスによる「イーリアス」と「オデュッセイア」という最初の長編文学である叙事詩がBC9世紀、つまりギリシャ人たちがアルファベット文字を使い始めたころにできたと推定されているのは、おそらく偶然ではない。


<ポリス>

 BC800年を過ぎたころになると、各地に都市国家、つまりポリスが成立し、400年もの間ほとんどわからなくなっていたギリシャの歴史の流れが少しずつ見え始めてくる。都市化が進むにつれ、市民は丘陵上に築かれた城塞、つまりアクロポリスを戦時に逃げ込む場所としてだけでなく、精神的により重要な「聖域」および自分たちの威信を公に示す中心的建物と見なすようになる。市民意識が芽生え、皮肉にも都市、すなわちポリス間の対立や闘争が繰り返されるうちに、より大きなギリシャ人としてのアイデンティティが形成されていった。

 BC10世紀からその後の1000年にわたって古代ギリシャを特徴づけていた典型的な社会共生形態は、ギリシャ人がポリスと呼ぶものだった。アリストテレスは「政治学」の中で、人間は政治的な動物であり、ポリスという政治的な枠組みの中でのみ、十分に能力を発揮できるように設計された生命体なのだと規定している。人口の過半数が中心市街地としての都市ではなく、町や村、つまり田園に住んでいたにもかかわらず、古代ギリシャ社会の主役である自由身分の成年男子市民は、ポリスと呼ばれる政治共同体の運営に参加する正規の構成員だった。この意味では、ポリスとは市民国家であるといえる。古代ギリシャにおける貴族政、寡頭かとう政、僭主せんしゅ政、そして民主政などの用語は、ギリシャ文明独特のこの政治共同体から生まれている。古代ギリシャにはギリシャという民族国家は一度も存在したことがなく、そこにあったのは同じ文化を共有しているという意識で結ばれたギリシャの都市や集落のネットワークだけであり、その文化の共通性を示すうえでは、宗教が重要な役割を果たしていた。ヘロドトスは、BC480年からBC479年にかけての冬に行われたギリシャ人と異民族のペルシャ人との間の運命を決する戦い(第2次ペルシャ戦争)の中、アテナイ人がある重大な局面で同盟者であるスパルタ人に述べた言葉として、ギリシャ人らしさを次のように定義している。

「アテナイ人がギリシャの人びとを裏切るようなことは許されない。我々はみな同じ血と言葉を持ち、共同で神々のやしろを建立して生贄いけにえを捧げ、生活様式も共有する同胞だからである」

 しかし、ここでも政治的協調には全く言及していない。ギリシャ文明が他に類を見ない独特のものになっているのは、おそらくギリシャのそれぞれのポリスが極めて個性的な存在だったからにほかならない。

 後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の非ギリシャ系(クレタ島のミノア文明)またはギリシャ系(アルゴリスのミュケナイ文明)の宮殿と、暗黒時代(BC13世紀~BC10世紀)後の歴史時代のギリシャのポリスの間には埋めることのできない確固たる溝があり、両者の違いは政治文化という比較的狭い分野だけでなく、物質文化・思想文化にもおよんでいる。


*アルカイック期は次の86話で取り上げる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る