第84話 フェニキア人による地中海域への植民とギリシャ人

 フェニキア人は当初、海外に移住しようとは考えていなかったようだが、交易の必要上次第に植民市を増やしていった。ミュケナイ人が活動した地域を引き継いだ場合もあり、最終的には地中海沿岸に約25のフェニキア人植民市が誕生した。最初の植民市はキプロス島のキティオンにBC9世紀に建設されたものだったが、その後ヨーロッパ大陸との接触が活発になっていった。いうなれば鉱物資源を求めて、「文明の地」の探検家たちが「未開の地」に進出し始めたというわけだ。

 フェニキア人は古代世界の王侯貴族たちに好まれたティロス産の紫染料をはじめ、レバノン杉、当時のガラス職人たちが求めたフェニキア海岸の砂などを携えて海外に出かけ、他の産物と交換した。彼らは何よりも中間商人として才能を発揮した。フェニキア船には絹、香料、象牙、貴石、高価な青銅製品、美しい陶器、ブドウ酒、塩、干し魚などが積まれ運搬された。

 金・銀・銅などの金属の供給が途絶えないように、フェニキア人は地中海沿岸各地に赴き、イベリア半島沿岸には常駐基地が建設された。彼らは南フランスのマッサリア(現在のマルセイユ)、シチリア、サルディニア、北アフリカのサプラタやカルタゴに植民市を築いた。これらの植民市はそれぞれ独立したフェニキア都市として発展していった。彼らはフェニキアの文化的伝統を保ちながら、政治的・経済的には互いに独立を保っていた。

 やがてカルタゴはテュロスやシドンとは比べ物にならないほどの大都市国家に成長し、自らが地中海西部のフェニキア系植民都市の間に強力な交易網を築くまでになる。こうして地中海西部の各主要港とその後背地をことごとく支配したフェニキア人は、最終的にローマと衝突することになる。


 フェニキア人の都市はBC1000年ごろから2~3世紀繁栄した後、さまざまな困難に襲われた。BC7世紀にはシドンが破壊され、テュロスの王女たちはアッシリア王のアッシュールバニパルの後宮に連れ去られた。その後、フェニキアの領土はほぼ植民地だけとなった。おそらくこうした事情からもフェニキア人は活発な植民活動に乗り出したと思われる。また、BC6世紀以降は、地中海西部で起こったギリシャ人による植民活動に刺激されたのかもしれない。彼らも鉱物資源を求めて当時未開の地であった地中海西部へ進出していった。彼らによって、ブリテン島の錫やイベリア半島の銀などの金属の供給が脅かされていたからである。


 BC9世紀~BC6世紀にかけてフェニキア人は地中海の覇権を握り、東はキプロス・エーゲ海・イタリア・北アフリカ、西はイベリア半島まで各地に交易拠点や植民都市を築いた。貴金属やブドウ酒、オリーブ油、染色料、陶器などの特産品、そして出身地の海岸の背後にそびえる山々から切り出されたレバノン杉の交易で富を築いた。アクキガイという貝から取り出す紫の染料は珍重された。フェニキア人は西アジアのアッシリアとバビロニアの思想・神話や知識をエーゲ海の寄港地に伝えた。それがギリシャ文化・文明、さらに西欧文化・文明の誕生につながった。

 エーゲ海地方から来たとみられる「海の民」はBC1200年ごろにレヴァント沿岸の主要都市をほぼ略奪し炎上させた。しかし、カナンの都市だけは攻撃しなかったようだ。カナン人が「海の民」と政治的取引をしていたからと考えられる。BC12世紀後のフェニキア文化の中には「海の民」がもたらした要素が多く見られる。港や係留施設、ドック、桟橋などの建設方法、地中海西方への航路などである。

 東地中海沿岸のカナン(現在のイスラエル・パレスティナ・レバノンの地)文化の流れを受け継ぐフェニキア人は、交易と航海術に長けた人びとで、遠くは大西洋沿岸までの各地に植民地や寄港地を築いた。フェニキアは、強弱はあったがお互いに交流のある個々の都市国家だった。やがてフェニキアの植民都市の一つカルタゴが勢力を拡大して帝国となった。


 西地中海、イベリア半島南部カルタヘナ近郊のマサロン湾では、BC7世紀のフェニキアの難破船2隻の船材が発見され、彼らの造船技術について多くのことがわかった。この船から、フェニキア人は「ほぞ接合」、すなわち木材をはめ込む方法を知っていたことが明らかになった。この構造のおかげで、彼らの船は、それ以前の厚板に穴を開けてひもで結わえつけて固定しただけの船よりも強度が高かった。また鉛を詰めていた木製のいかりも見つかった。これもフェニキア人の発明のようだ。船乗りが交易品を入れるのに使った両取っ手付の壺アンフォラや、コムギを挽くミルもあった。船に積んだ金属の塊が揺れ動いて船体に傷がつくのを防ぐため、船倉の内壁には緩衝材として細かい枝を敷いていた。こうした状況から判断すると、マサロン湾で見つかった全長8メートルの難破船は、ガレー船ではなくはしけだったようだ。フェニキア人は沖合に停泊するガレー船に船荷を運ぶのに、こうした小型船を使ったのかもしれない。そして大型のガレー船を操り大西洋に出て、アフリカ沿岸でも交易を行った。彼らが初めて大西洋に進出したのは、古代ローマの文献によると、BC1100年にはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島沿岸のカディスに入植したとされる。だが、BC8世紀以前の考古学的な痕跡は見つかっていない。フェニキア人はBC8世紀にはイベリア半島南岸全域に植民地を建設し、この地で収穫出来る特産品やイベリア地方の豊かな鉱物資源を手にした。


 遺伝学者スペンサー・ウェルズとピエール・ザルアは男性が受け継ぐY染色体のハプログループから、今のレバノン人とチュニジア人がフェニキア人の子孫かどうかを調査した。フェニキア人の血をひく男性は、ハプログループM89(4万5千年前)かM172(1万2千年前)のいずれかを持っているはずである。M89はアフリカからレヴァント地方へ、さらにアカバ湾からイラン北部、中央アジア、モンゴリアへとステップ草原に拡大している。M172は地中海からカフカス(コーカサス)、パキスタンまでに見られる中東の新石器時代の農民の遺伝子で、農耕が始まった1万2千年前に遡る。その結果、遺伝子的にはフェニキア人とカナン人は同じで、今のレバノン人の祖先である。「海の民」は遺伝的にはレヴァント地方の人たちに大きな影響を及ぼさなかった。チュニジアでは、中東起源のこれら二つのY染色体をもつ人は20%にとどまり、大半は北アフリカ先住民タイプのM96だった。中東から北アフリカには三波にわたって流入している。北アフリカで農耕が始まった時期、フェニキア人の流入、イスラム圏の拡大である。北アフリカでフェニキア人と現地の人たちとの混血はあまり進まなかったようだ。 



(フェニキア人による地中海域への植民)


 フェニキア人がいつ地中海域を商業的に開発しようと進出し始めたかについては、考古学的な証拠からと、古代の著作家たちからとの二つによる議論が続いてきたが、今日では考古学者よりも古代の年代記作家の方が有利となっている。古代の著作は北アフリカの植民地ウティカ(後のカルタゴの北西)の建設をBC1101年とし、他のもっと古い例にも言及しているのだ。この見解は、「海の民」がフェニキアに侵入した事実の重要性が新しく認識された結果、古代の著作家たちによる年代記の方が重要視されるようになったからである。


 BC1200年ごろ「海の民」による混乱の中でウガリトが滅亡し、ウガリトが覇を唱えていた現在のシリア・レバノン地方では、港湾都市ビブロス・シドン・テュロスなどを拠点としてフェニキア人が東地中海の制海権を獲得し、本格的に海洋に乗り出した。それは「海の民」がカナン人と合体して吸収され、フェニキア人となった姿だったと考えられる。この混血によって生まれた新しいフェニキア人の誕生こそ、地中海域での発展の契機となった。BC1100年ごろ、クレタの東地中海での海上支配権はもはや存在しなかった。海は自由に解放されていたし、フェニキア人の手には立派な船があり、勇敢な船長たちもいた。まず古くから関係が深かったキプロス島にはBC1100年以前に進出し、続いてエーゲ海に入り、ロードス島のカミロスとイアリュソスに定住すると同時に、タソス、キュテラ、テラ、クレタ、メロスの各島に拠点を築いた。紀元後の東ローマ帝国時代の著作家は、「フェニキア人はメロス島の最初の住民であった。彼らがフェニキアのビブロスか来たため、その島はビブリスと呼ばれた」と記す。実際ここはもともとミムブリスという名だったが、それはビブリスから出ているのかもしれない。それがミマリスと変わり、最終的にメロスとなったようだ。

 しかし、文明国である大国エジプトへの進出はエーゲ海のように簡単ではなく、エジプトの法律を尊重しなければならなかった。メンフィスには「テュロス地区」と呼ばれる一画があったことを、ヘロドトスは記している。そこには、他国であるテュロスの女神アフロディテの聖所と呼ばれるアシュラの神殿もあった。その他、ナイルデルタ地帯の多くの港からフェニキアの陶器が出土していることからフェニキア人がそこに船着場と倉庫を持っていたことが推測できる。それでもフェニキア人はエジプトではそれほど大きな役割を演じなかったと思われる。フェニキア人の植民地は本来政治的に未発達の土地で栄えたのであって、エジプトは先進文明国だったのだ。

 メンフィスの「テュロス地区」よりも有名になったのは、リビア西部での彼らの拠点レプティス・マグナで、ローマの歴史家サルスティウスはこの町はシドンの亡命者によって建てられたと主張している。さらに、テュロス人が建てたとされるチュニジアのハドルメトゥム、テュロスのイトバール王がBC9世紀に建てたと言われるアウザという町(場所は不明)、それからチュニジアのウティカ、現在のアルジェリアのヒッポ、そしてジブラルタル海峡の北西にありBC1110年建設とされるイベリア半島の大西洋岸のカディスと、その対岸に当る現在のモロッコにはリクススがあった。リクススはカディスより古く、今のところフェニキア植民地の中で最も古い町である。地中海にフェニキア人が建てた町は他にもたくさんある。当時の船はまだ小型船で海図もなかった、彼らは短い区間に区切って沿岸沿いに手探りで航海した。彼らが未知の地への航海に挑んだ動機は経済的なものだった。船を準備するのは相当なお金がかかり、その投資に対する見返りを得なければならなかった。キプロス島でと同じように、テュロス人とシドン人は地中海域のどこの海岸に船を着けても、主として銅、錫、金、銀を探した。


 考えてみると、セム族の中の滑稽なほど小さな民族の一員であり、断崖と岩の上に造られた海鳥の巣の住民、すなわちテュロスが、より大きな近隣の民族の誰もが夢にも思わなかった探検に乗り出したのである。彼らは、クルミの殻のような小舟に乗って、地中海に向けて出発した。彼らはこの海がどこで尽きるかも知らなければ、どれくらい深いのか、またどんな危険が待ち受けているのかも知らなかった。それにもかかわらず、彼らは出発したのだ。確かに船長たちは何世代にもわたって経験を積み、海に慣れていた。その上、短い距離に区切って、海岸沿いを手探りで航海した。彼らは海図を持たなかったから、特徴的な突出部や半島、あるいは河口を確認して、行く方向を定めなければならなかった。彼らが人並み外れた視覚的な記憶力を持っていたとしても、少なからずの数の乗組員たちが突然の嵐に見舞われたりして、命を落すことになったことだろう。母国の都市の豪商たちがこれらの航海でどれほど儲かったにせよ、これらの航海を遂行した人びとが単なる商人に留まらなかったことは確かである。彼らは自己を実現し、確証することを求めた男たちであったに違いない。歴史的に見て、フェニキア人による地中海の開発は、重要な文化的創造であったと評価できる。


 フェニキア人が冒した危険な賭けは、結局のところ割に合った。地中海を横断する長い船路の果て、イベリア半島で先住民が開発したシエラ・モレナの豊富な銀山を発見したのだ。その近くに、彼らが直ちに前進基地カディスを建設したのは当然だった。そこはフェニキア人が好んだ、海岸の前の小さな島に築かれた砦である。カディスはジブラルタル海峡の先、つまり西に位置しており、彼らはそこで無限の海、地中海よりも荒れて、潮の満ち引きによって動く海が広がっていることを知った。潮の満ち引きは地中海にはない現象である。

 ジブラルタル海峡の両岸に位置するカディスとリクススは、テュロスから最も遠いと同時に、また最も古い植民市であるが、この両市の建設とともに鉱石探しの重要な部分は終わったように思われる。次の問題は、そこへ行く航路を強化して確保すること、つまり発見者たちが往路に宿泊して休息をとった土地の多くに、根拠地、補給用倉庫、緊急避難港の設備を造ることである。この構想は次の拡張行動と密接に結びつけて進められた。このようにして、フェニキア人はBC600年ごろには、イベリア半島の西のイビサ島に砦を造り、その少し前には、シチリア島の南にあるマルタ島とその隣のゴッツォ島に定住している。シチリア島北西部には、モティア、パノルムス、ソレントゥムという少なくとも3つの集落が存在していたことはわかっているが、ギリシャのツキディデスによれば、テュロス人がシチリア全島をほぼ手中に収めていたと記している。今日では、それが考古学的にも証明されているようだ。サルディニア島は、西地中海北部とイベリア半島へ向かう第2の航路を開発するための島だが、フェニキア人はBC9世紀にはすでにここに植民していた。特に島の南部に多くの町を建てた。サルディニアの占拠によってフェニキア人の通商組織は完全なものとなった。そうして彼らの船は、イベリア半島を出て、北アフリカの海岸沿いにフェニキアに戻るか、あるいはサルディニアとシチリアを経てギリシャの海岸に向かうことができるようになった。そのギリシャにもしっかりとした根拠地があり、ボスポラス海峡を挟んだ、小アジア側のビテュニアと、その対岸のトラキアの両地方には金鉱があった。それから小アジア海岸、ロードス島、キプロス島を経て、故郷のフェニキアの港に着くという航路を取った。この航路網をまとめれば、驚くほど近代的な組織となる。大きな陸地ではなく、船隊、確保された系統的な中継地、顧客との営業権を拠り所とする一大海洋王国となる。特に、顧客との間の営業権はフェニキアにとって絶対不可欠のように思われた。なぜなら、フェニキア人は力づくで、要求を押し通すだけの強さが自分たちにはないことを感じていたからである。


[アフリカ周航]

 ヘロドトスによれば、BC609年にエジプト第26王朝サイス朝のファラオ、ネコ2世(在位:BC610年~BC595年)は、フェニキアの男たちに、「帰路にはヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を通って北の海(大西洋)にまで入り込み、そうしてエジプトに達するよう」命令した。当時、フェニキアの諸都市はエジプトの統治下にあった。つまり、ネコ2世は、リクススあるいはカディスから南下し、アフリカを周航して紅海に入り、ナイルデルタからエジプトに達することを彼らにのぞんだのである。この提案は極めて冒険的に聞こえるものの、フェニキア人はそれを実現した。ヘロドトスは、「彼らは紅海(ナイルデルタ)を発して南の海を航行した。秋になるのはいつもリビア(北アフリカ)だったが、必ずその地に上陸して種をまき、収穫期を待った。取り入れが終わると、また航海を続け、2年を経て3年目にヘラクレスの柱を周って再びエジプトに帰ってきた。彼らは「私には信じられないが、他に信じる人もあろう」、リビア(アフリカ)を周るとき、太陽が右側にあったと語った」。

 最後に述べられた太陽の位置が逆だという話をヘロドトスは疑っているが、実はそれこそ、この航海が本当に行われたことを示す最も明確な証拠である。北半球では常に天頂の南、つまり左側を運行する太陽が、南半球では天の極を通過するのはもっぱら北、つまり右側であるということを、地中海沿岸の住民が自分で見て知るはずがなかった。ということは、フェニキア人はヴァスコダ・ガマよりもはるか昔にアフリカ周航を成し遂げていたわけである。


 ギリシャ人による植民地の建設はフェニキア人より300年以上後のことで、最初はBC8世紀初頭のエウボイア人であり、東はシリアから西はナポリに近いイスキア島まで交易植民地を作り上げた。その後、他のギリシャ人も加わり、BC7世紀までには、小アジア、トラキア、黒海沿岸、イタリア半島南部、シチリア島東部に進出し植民地を建設した。



(フェニキアの黄金時代の終末)


 フェニキア人の黄金時代は300年という長きにわたった。BC1150年ごろに「海の民」とカナン人との融合から生まれたフェニキア人の黄金時代は、BC850年ごろに終末へと傾き始めた。レバノン山麓の諸都市、テュロス人、シドン人、アルワド人などは、一時的にエジプトの影響下にあったものの300年間ほぼ独立を保ち、富を蓄積した。それもこれも、いくつかの小さな港、約250キロの海岸線、無に等しい土地という土台に築き上げられたものである。この時代、彼らのところまで国境を推し進めてくるほど強力な大国がなかったのである。南方のエジプトは新王国最後の第20王朝のラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)の死後、なお末期的文化を光り輝かせていたとはいえ、政治的な野心を失い、軍事的に弱体化していた。北方のメソポタミアでは、BC12世紀からBC10世紀にかけて「海の民」などの民族移動による混乱期が続き、BC10世紀後葉にアッシリアが勢力の回復に成功したものの、BC8世紀後半になるまで、レヴァントに侵略しなかった。しかし、レヴァントの片隅の幸福を徐々に崩していったのはアッシリアの王たちだった。BC9世紀になると、征服王アッシュールナシルパル2世(在位:BC883年~BC859年)はフェニキアの海洋国家を服属させ、その征服地域は地中海に達した。その結果、フェニキアは一層海洋に活路を求めるようになった。それ以降、フェニキア人の幸福は遂に戻ってこなかった。新アッシリア(BC911年~BC612年)がBC669年に繁栄の峠を越すと、その間に強大になっていた新バビロニア(BC612年~BC539年)、次いでアケメネス朝ペルシャ(BC539年~330年)が後に続き、テュロス、シドン、ビブロスの誇り高い豪商たちは自治を保つために休む間もなく次々に変わる新しい権力の意を迎えなければならなかったからである。それは困難な道だった。彼らはアッシリアの権力をも、またペルシャの権力をも、エジプトの時のように平静に受け入れることをしなかった。多くの要求に対して仕方なく受け入れてはいたが、そのときの状況次第で、繰り返し新しい権力者に反抗した。この度重なる反抗により、フェニキア人の勢力は次第に衰え、地中海の海上支配権は中心を失ってバラバラになった。そしてBC332年にペルシャ人がいなくなったとき、フェニキア人は第3位の商業国民になっていた。少なくとも2つの他の国民、ギリシャ人とカルタゴ人には追い越されてしまったのだ。徐々に衰退していくこの時期は、BC850年ごろからBC350年ごろまで500年続いた。



(ギリシャ人にたたえられ、憎まれて)


 フェニキア人にとって、ギリシャ人は単なるライバルに留まらず、フェニキア人がギリシャ・ペルシャ戦争のペルシャ側に参加してからは、宿敵それも手強い敵となる運命にあった。つまり、フェニキア人はその記録のすべてが歴史の中で失われたため、寡黙とならざるを得なかったが、ギリシャ人は雄弁であったため、フェニキア人が歴史上、強欲で略奪的、詐欺師的な商人として生き続け、近代になってようやく再発見されるような事態を招くことなった。盲目の吟遊詩人ホメロス(BC8世紀の人)は「オデュッセイア」の中で悪いフェニキア人を描いていると同時に、フェニキア製の壺の品質の良さも記している。

 ギリシャ神話では、ギリシャの神々の王、ゼウスは自らを白い牡牛に姿を変えてフェニキアのテュロスの美しい王女エウロペを誘惑し、クレタ島に連れ去った。こうして「エウロペ」からヨーロッパの名が生じた。エウロペはセム語である。エウロペの父、テュロスの王アゲーノールは4人の息子たちにエウロペを探すことを命じた。長男ポイニクスはリビアを経てカルタゴに行き、それからレヴァントに帰ってきた。ギリシャの伝説によれば、レヴァントの隣人たちは、彼に敬意を表してフェニキア人と自称したという。次男のキリクスは小アジアへ行き、キリキア人の祖となった。彼もエウロペを見つけることができなかった。3男のタソスはオリンピアに行き、ギリシャ人が「テュロスのヘラクレス」と呼んだメルカルトの彫像を建立した後、彼の名を取ったタソス島を開拓した。ここには豊かな金鉱があり、ヘロドトス(BC484年~BC425年)は、彼の時代にはまだフェニキアの所有だったと述べている。4男のカドモスは、ロードス島に行って神殿を建ててから、妹がどこにいるかを神託に問うためにデルフォイへ旅を続けた。しかし、ゼウスがこの事件に絡んでいることを知っていたデルフォイの神託所の女神官ピュティアは、捜索を中止してボイオティアへ行き、そこに町を建てることを勧めた。カドモスはその助言に従って、後のテーバイの地に行き、そこをオンガと命名して、建設に取り掛かった。そのとき従者が数名、龍に殺されたので、彼はその怪物を打ち殺し、その歯を地面に播くと、新しい戦士が生まれてきて、たちまち争い始めた。そして生き残った5人を彼は新たに従者として、一緒に建設をやり始め、そして仕事を完成した。後のテーバイとは、ギリシャ人がエジプトのテーベに因んでつけた名である。美しいエウロペをめぐる物語は、これによって思いもよらない転換を成し遂げたのである。フェニキア人はギリシャ人に、悪漢、航海するジプシー、生活を脅かす争いを引き起こす張本人と思われる一方、ギリシャ人自身の伝統の共同創始者とされている。


 ドーリア人がBC1150年以降に占領したギリシャに住み着いたとき、彼らは新しい現実とだけでなく、土地固有の観念世界とも対決しなければならなかった。そこには独自の価値判断、風習、習慣、伝統を有する人間が付随していた。彼らはヘラス(ギリシャ)で、自分たちよりもはるかに優れた文化に接した。「海の民」と共に逃げ出さずに後に残ったアカイア人は読み書きができ、石のドームの建物を作り、船を建造することも、航海することもできた。ドーリア人はそうしたことは何もできず、おそらくそれを理解する力もなかっただろう。したがって、ドーリア人が来た後では、ミュケナイ時代の線文字Bと呼ばれるクレタ文字は使われなくなり、建物は木造ばかりになり、航海は沿岸航海に戻ってしまった。しかし、昔からエーゲ海域に伝わる神話や昔話、神の観念、そして切れ切れの形で残ったミュケナイ時代の船長たちの国外に関する報告などは残った。ドーリア人はギリシャ本土の海岸の彼方にあるエジプトなどの先進世界のことなど全く知らなかったが、ドーリア時代の初めにはこれらの情報や観念はフェニキア熱となって広まったもののように思われる。そして、エジプト人とともに、とりわけレヴァントの住民が文明の父と考えられるようになった。「オデュッセイア」では、フェニキア人は主として悪漢、奴隷商人として扱われているのに、「オデュッセイア」より古いと思われる「イーリアス」では、腕のいい職人、芸術家であり、その製品は争って求められた。BC8世紀ごろにドーリア人が自ら外海に乗り出し、その青い海がすでに遠くまでフェニキア人に占有されていることを知ったとき、このような賛美は敵意に代わった。しかしヘラス(ギリシャ)人は、その時代の前までに、レヴァントの民族から多くの物を借り、その人生観の多くを受け継ぎ、とりわけ最も重要な神々、アフロディテとディオニュソス、そしてヘラクレスもギリシャの神々として輸入した。


 ギリシャのオリュンポスに登った最も有名なフェニキア人女性は、愛と女性美の女神であると同時に、また売春婦の女神でもあるアフロディテだったと考えられている。アフロディテはギリシャの12人の主神の1人ではあったが、気に入った男ならば誰でも誘惑して、しばしばとんでもない禍をもたらす、小さくてかわいらしい売女に留まった。

 BC9世紀とBC8世紀は幾何学様式期と呼ばれる。これはこの時代の陶器の独特な文様、すなわち直線とシンプルな幾何学的モチーフによって構成された装飾の壺や甕などに由来している。特にアテナイのあるアッティカ地方において比類のない完成度に達している。ホメロスの叙事詩とアッティカの幾何学様式の陶器が表しているのがBC8世紀のギリシャ文化の最も華々しい側面である。ボイオティアの吟遊詩人ヘシオドス(BC700年ごろの人)は、複雑で瞑想的な「神統記」も中でアフロディテの誕生を描いている。


 ディオニュソスはブドウ酒とともにギリシャにやって来たのだが、ブドウ酒の発見者は西アジアの住民だった。ブドウ酒は、レヴァントからクレタ島を経てヘラス(ギリシャ)にもたらされた。ディオニュソスは常に酩酊していて、その様子は一種の狂気で、極めて不寛容な神である。オリュンポスの神々の列に加えられたのも、彼が暴力で強制したからにほかならない。ディオニュソスは根本的にはギリシャ人ではなかった。彼は遠い別の神々の世界からやって来て、ギリシャの古い神話の底に付着していた沈殿物を、その出現によって表面へ浮かび上がらせたのである。つまり彼は、先ミュケナイ時代のギリシャにおいて普通に行われていた忘我の春祭りや、人身供犠や暗い秘儀にまつわる記憶を呼び起こしたのだ。


 また、ヘラクレスはテュロスのメルカルトである。バァールの近親であるメルカルトは、長い間テュロスの守護神であったが、この町が権力と富と名声を獲得するにつれて有名になっていった。フェニキアの船は彼の名を「ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)」まで運んで行った。ここもおそらく、かつてはメルカルトの柱と呼ばれていたのだろう。ギリシャ人にもその名が伝わることは、元々避けがたかったのだ。メルカルトの父はデマルスという名だったと伝えられる。ギリシャ人はそれをあっさりゼウスに変えてしまった。そして母には、テーバイの王妃アルクメーネを当てた。それからヘラクレスを旅に出させ、諺にもなるほど有名な「12の功業」を成就させた上に、なお幾つかを付け加えた。ヘラクレスはギリシャのあらゆる神のうち最も活動的でありながら、永遠に光り輝く英雄ではなかった。彼は苦悩し、ばかげた失策をし、おそらくは大酒飲みで、ついには惨めな死を遂げる。その後でオリュンポスの神へ上らせはしたが、この逞しい男は、昔話と神話の語り手たちを何世代にもわたってつないでゆく役割を果たしたに違いない。彼の伝記には、冒険、情事、戦功、悲劇などがはち切れんばかりに詰め込まれている。あいまいな形で伝えられている半分歴史的なギリシャ初期の事件が全部、彼に押し付けられてしまったようだ。ヘラクレスはそれらを雄々しくも、がっしりした肩に担って、体現したのである。

 ギリシャ人は自分たちが文明化するためにフェニキア人の力を借りなければならなかったということからも、彼らがどんなにフェニキア人に対して文明伝達者として恩義を感じていたかが推察される。彼らは後に、ヘラクレスを崇拝するあまりに、この人気のある巨人がどこから来たかを忘れがちであったが、ヘロドトスをはじめとするギリシャの旅行作家たちがその素性を再発見した。

 ギリシャ人にとって、自分たちの競争相手であるフェニキア人に負うところが大きかったということは、彼ら自身が認めざるを得なく、それを完全に否定することはできなかった。ギリシャ人はフェニキア諸都市からこのような神の移し変えを行っただけでなく、書かれた文献の基本的な道具であるアルファベットをも手に入れたのである。

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