第83話 新アッシリアと新バビロニアによるレヴァント支配

(BC9世紀のフェニキア人と新アッシリア)


 フェニキアから新アッシリアの王、アッシュールナシルパル2世(在位:BC883年~BC859年)へ贈られた品々のなかでも、粗銅と銅製の器類は実際目を引くのに十分だった。BC870年ごろ、アッシュールナシルパルが初めて地中海へ赴いたときのことだ。アッシリアの王による訪問は実に200年ぶりのことだった。公式の記録では「貢ぎ物」となっているが、それは明らかに「贈り物」だった。それは交易の権利が確保できるようにと自主的に提供された。この地中海沿岸へのアッシュールナシルパルの遠征が半ば「商用」であったことは、その旅程からわかる、ユーフラテス川上流域のシリアの商都カルケミシュにも立ち寄っている。フェニキアの差し出したもの、すなわち金・銀・銅・錫といった貴金属、上質の亜麻布で仕立てた衣類、ツゲ材、黒檀、象牙といった貴重な品物、そしてサルという西アジアには珍しい動物は、明らかに相手を感心させるためのものだった。BC879年、新アッシリアの新首都カルフ(後のニムルド)で行われたアッシュールナシルパルの宮殿の落成式にテュロス人とシドン人がどちらも賓客として名を連ねているのは、そういうフェニキア人の外交術が功を奏していたと言えるかもしれない。

 このアッシュールナシルパルの地中海遠征は、単にユーフラテス川を越えてシリアの地を突っ切っていっただけだった。しかしその息子で後継者のシャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)の時代には、その政治的環境はすっかり変わってしまう。シャルマネセルは早くも即位の年に、北シリアとアナトリア南部へ向かって侵略を開始し、それらの地域の地中海海岸では、「海岸の王たち」からたっぷりと「貢ぎ物」を受け取っている。その王たちの名前はわかっていないが、おそらくフェニキアの君主たちも含まれていたと思われる。コルサバードにあるシャルマネセルの宮殿を飾る「青銅門」には、テュロスの貢ぎ物が船で本土へ運ばれてくるところが描かれている。哀願するかのようなテュロスの高官2人に付き添われて、運搬人の長い列がアッシリア王とその側近たちのところへ貢ぎ物を運んでいく。テュロスの岩壁に王妃とともに立ち、一部始終を見守っているのは年老いたテュロス王イトバール1世(在位:BC887年~BC856年)である。

 初回とその後の遠征から明らかなように、シャルマネセルの第1の目的は西のアラム人と旧ヒッタイト王国の残存勢力の征服だった。記録にある34回の遠征のうち19回はユーフラテス川を越えてシリアに入っている。即位から5年目、戦略上重要なユーフラテス川西側の渡河地点を確保すると、彼はシリアのアレッポを経由して、南のシリア・パレスティナへ兵を進める。その軍をオロンテス河畔の町カルカルで待ち受けていたのは、シリア南部のハマト、ダマスカスという強力なアラム人国家に率いられた連合軍だった。イスラエル、ヨルダンのアモン、エジプトが名を連ねたこの連合軍には、アルワドやアルカなどシリアやフェニキア北部の海岸都市から派遣された兵隊も少数ながら加わっていた。シャルマネセルはBC853年のこのカルカルの戦いで大勝利を収めたと公式の記録には残しているが、実際には引き分けに終わったらしい。それから15年の間にシャルマネセルは5回以上ダマスカスを攻撃したが、陥落させることはできなかった。ダマスカスは、初めはハマトに助けられたが、後には援軍なしで戦った。アルワドとフェニキア北部の海岸都市がアラム人の同盟国側についたことは理解できるが、その南に位置するテュロスやシドン、ビブロスといったフェニキアの主要な都市国家が不参加なのはなぜだろう? これらの都市の中立的な態度は、前王のアッシュールナシルパル2世時代の友好関係から説明できるかもしれない。これらの都市はその商業的重要性のおかげで、アッシリア領内ではすでに「特恵的従属国」という立場を享受していたようだ。


 BC9世紀末からBC8世紀前半は、フェニキアがかなりの政治的自由を手にした時期だった。おそらくその間は交易も外部の力に邪魔されず自由にできただろう。シャルマネセル3世の新アッシリアはアナトリア北東部のウラルトゥが兵力を増大させているのに気を取られ、国の北方ばかりを警戒して、シリア・パレスティナを放置していた。一方のエジプトはリビア系シェションク王家の第22王朝中期に、政権は南北二つに分裂し、その後も内乱に苦しめられ、国外に目を向けるゆとりはなかった。内紛により王の権威は衰え、最終的に国は分裂して、下エジプト東部のタニス、西部のサイス、上エジプト北部のヘラクレオポリス、上エジプト南部のテーベなどの諸都市から成る小国家群に分かれた。BC818年にはついに第22王朝の途中から、テーベが第23王朝として独立し、二つの王朝が並立することになった。

 この政治的空白期に勢力を拡大したのが、シリアのアラム人都市国家ダマスカスである。BC9世紀の第4四半期にはハザエルの下で国力はピークに達していた。この時期にはフェニキアとダマスカスが強力な通商関係を結んでいたようだ。汎ヨルダン地方を属領にしていたダマスカスが、紅海沿岸のヒジャズ地方経由で、アラビア南部との香料取引を握っていたからで、さらにダマスカスはテュロスにワインや羊毛も提供していた。羊毛は染色した衣類の生産というテュロスの主要産業の素材だった。しかし、BC8世紀初頭にはテュロスの内陸交易の優先順位はダマスカスからイスラエルへ移動していたかもしれない。なぜなら、ダマスカスは新アッシリアのアダド・ニラリ3世(在位:BC810年~BC783年)に介入され弱体化していたからである。一方のイスラエルはヤロブアム2世(在位:BC782年~BC753年)の下でダマスカスに奪われていた汎ヨルダン地方の属領も一部を取り戻し、その領土はBC10世紀のダビデとソロモン王による統一王国以来の最大規模に達していた。この時期のダマスカスとイスラエルの主要都市ではフェニキア商人や職人たちが盛んに活動していた。フェニキアの海岸植民地、キプロス島、北アフリカ、サルディニア島、イベリア南部に見られる最も古い建築物もこの時代のものである。こうした植民活動はテュロスが先頭に立った商業拡大が地中海全域に急速に展開されていたことを物語っている。



(BC8世紀後半からの新アッシリアによる支配)


 フェニキアがわりあい政治的独立を保てたこの時代も、アッシリアでティグラト・ピレセル3世(在位:BC744年~BC727年)が王位に就くと、いきなり終わりを告げる。この新しいアッシリア王は、レヴァントのすべての都市国家とその属領を根こそぎ征服することを目指して直ちに侵略的な軍事行動を開始する。BC738年ごろには、北シリア海岸も含めたレヴァント地方全土がアッシリアの支配下に入った。ビブロスの北方に位置するフェニキア海岸の都市は直接併合され、シミュラを中心とするアッシリアの新しい州になった。その南のビブロスとテュロスは、イスラエル王国や、シリアのダマスカスやハマトとともに属国になることに合意した。ところがその数年後、ティグラト・ピレセル3世が北と東へ遠征に出かけ、レヴァントを離れていたその隙に、テュロスは反アッシリア同盟に参加することを選択する。ダマスカスやイスラエル、それにフィリスティア(ペリシテ人地域)のアシュケロンなどが名を連ねるその同盟は、アッシリアの攻撃に対抗する西部統一戦線の結成が狙いだった。アッシリアの報復は素早かった。ティグラト・ピレセルは一番南に位置するフィリスティアへ向かってフェニキア海岸の掃討作戦を展開する。まず北のアルワドが陥落し、アッシリア軍がテュロスの属領マハラブの町へ攻め入ったのを見ると、ときのテュロスの君主ヒラム2世は直ちに降伏し、貢ぎ物をして許しを請い、テュロスをアッシリアの攻撃と併合から救っている。

 このシリアからパレスティナにかけての反アッシリア同盟が打破されると、レヴァントの政治地図は大きく塗り替えられた。アラム人のダマスカス王国は消滅し、アッシリアの州へ転落する。イスラエル王国はしばらくの間自治は保てたものの領土は著しく縮小され、北部と汎ヨルダンはアッシリアに併合された。その後、10年を経ずしてイスラエルの首都サマリアは攻め落とされ破壊され、イスラエルもまた州の地位に落ちている。こうしてイスラエルが事実上消滅すると、フェニキアの商人たちはより南方のユダとフィリスティアに交易先を求めることになる。

 BC734年にテュロスが降伏したときにティグラト・ピレセル3世が見せた寛大な態度は、思いやりからではなく、テュロスがアッシリアの商業にとって大事だと踏んだからっだった。しかし、テュロスの交易にもはや自治はなかった。反乱を見張るためと、儲けの大きい木材取引への課税を監督するためにアッシリアから総督が送り込まれたことが、この時代のアッシリアの二つの文書に示されている。この時代のテュロスがどれほど儲かっていたかは、ティグラト・ピレセル時代の末期に、テュロスのヒラム2世の次のマッタン2世から取り立てられた法外な租税から推し量れる。金150タラントというのは、属国への金による課税額としては実にアッシリアの記録にある最高額なのだ。


<テュロスとシドン>

 テュロスの国際交易にアッシリアが気をもんでいたことは、その後のサルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)の行動からはっきり分かる。イアトナナ(キプロス島)の7人の王のところへ乗り込み、服従と貢ぎ物を誓わせている。このサルゴン2世の前例のない海外遠征は、キプロス島にテュロスが建設したキティオンにおける銅取引の管理が目的だったに違いない。実際、フェニキア人が地中海中の金属取引を一手に握っていたことは、アッシリアをやきもきさせずにはおかなかっただろう。それでも、サルゴン2世の時代まではアッシリアに服従を示している限り、フェニキア南部の都市とその領地は安泰だった。服従の印はときどき課される租税の支払いと、タマルトゥと呼ばれる貢ぎ物である。

 しかし、次のセンナケリブ(在位:BC704年~BC681年)の代になると、フェニキアの都市にも新アッシリア王国の他の属領と同様に、忠誠の証として毎年必ず租税を納めることが求められるようになる。テュロスはルリ王のとき、何らかの理由でセンナケリブの怒りを買い、BC701年に報復として領土を侵略されている。ルリ王はキプロスへ逃亡し、その後センナケリブはシドンの王位とテュロスの陸側の領地の全てをツバルという名のシドン人に与えている。島であるテュロスの町自体が攻撃されたという記録はない。陸側の領土が無くなってしまえば、もはやその島の都市はアッシリアにとって差し迫った脅威ではなくなったらしい。未だに自治は保っていたものの、テュロスはもはやその経済を海外の領土に頼るしかなくなった。財政的打撃は少なくともしばらくの間はテュロスの町を荒廃させただろう。

 一方、シドンはテュロスの陸側の領土を受け継ぎ、またアッシリアの支援を受けて経済力を増大させていった。領土拡大による経済的繁栄とアナトリア南部のキリキア王サンドゥアリとの同盟に自信をつけたシドンはセンナケリブが暗殺されたのを好機と見るや、アッシリアの宗主権を拒絶する。アッシリアの応答はまたしても断固として厳しかった。センナケリブの末息子エサルハドン(在位:BC680年~BC669年)は即位して3年に満たなかったが、BC677年にシドンに出兵し、シドンを攻め落としてその領土を没収する。シドンの都市と城壁は破壊され、宮殿は略奪され、財宝はアッシリアへ持ち去られた。翌年、反逆の首謀者は海上で捕えられて首をはねられている。王族も官僚も市民とともに追放され、その場所には他国人が住み着いた。シドンの町はアッシリア人の手で再建され、カル・エサルハドン(エサルハドン港)と新たに命名されている。理由が述べられた資料はないが、サレプタを含むシドンの南部地域はそのときテュロスに与えられている。テュロスはすでに南のアッコ平野沿岸のかつての領地も取り戻していた。エサルハドンがテュロスに寛大だったのは、多分テュロスが少し前から忠誠心を見せていたのを認めたからと思われる。ルリ王の次のバアル1世は毎年の租税の割り当てに殊勝な態度で応じている。しかし、テュロスの忠誠心はうわべだけで、実際には政治・経済の勢力再建にひたすら励んでおり、何とかしてアッシリアの支配から逃れようとしていた。その甲斐あってテュロスは、今や明らかにレヴァント地方の小さな独立国による連盟のトップに立っていた。新アッシリアの年代記には、それら小国の君主のことが、「ハッティ(シリア)の海岸と島の22王」と記されている。ユダ王国と大シリアの10都市と、それにキプロス島を含んだこの連合のリーダーの地位にあるなら、テュロスはなかなかの地域勢力ということになる。


<クシュ王国のヌビア人によるエジプト第25王朝>

 当時のテュロスの取引き先には、エジプト第25王朝のタハルカ(在位:BC690年~BC664年)を王とするヌビア人のエジプトも含まれていた。スギや青銅などのフェニキアからの輸入品と引き換えに、ヌビア人の王はヌビアの金などの鉱物資源をテュロスへ送り出していたと思われる。エジプトはこれより少し前の第22王朝最後の王オソルコン4世(在位:BC730年~BC715年)の時代からすでに西アジアの政治勢力として復活していた。イスラエル最後の王ホセアがBC726年かBC725年に反新アッシリア同盟のために軍事支援を願い出たのも、このオソルコン4世のところである。BC8世紀の最後の20~30年間、エジプトは表立つことを巧みに避けながらパレスティナ南部の国々の反アッシリア行動に支援と励ましを送っていた。しかし、第25王朝2代目の王シャバカは、BC701年にアッシリアが現在のイスラエルにあたるユダ王国に侵攻するに及んで、ユダとフィリスティアの連合軍に加勢してエルテケでアッシリアと戦っている。やがてアッシリアの脅威が増大するのを目の当たりにしたとき、タハルカは政治的な賭けに出た。エサルハドンに敵対するテュロスとそのレヴァント連合と同盟し、迫りくるアッシリアを迎え討つべく地中海防衛戦線を立ち上げたのだ。BC671年、エサルハドンは2度目のエジプト討伐に出発する。タカルカと同盟を結んだテュロスを罰する必要もあったので、途中でテュロスを包囲する準備を整えておいてから、南のエジプトへ兵を進めた。下エジプトの中心都市メンフィスは攻め落とされ、タハルカはヌビアへ逃亡した。エジプトから戻ったアッシリアにテュロス王バアル1世はおとなしく降伏し、重税の要求も受け入れ、陸側の領土も失った。エジプトとレヴァント連合のリーダーであるテュロスの両国に勝利したアッシリアのエサルハドンは、これを記念して一連の石碑を建てている。描かれているのはバアル1世とタハルカの息子でヌビア皇太子のウシャンクウルがエサルハドンに縛り上げられている場面である。テュロスの海上交易が一方的に規制される不利な条約がアッシリアとの間で結ばれたのも、おそらくこの時だった。テュロスはまたしても新アッシリアという強大な広域国家に平伏したのである。

 著しく弱体化してはいたが、それでもテュロスはアッシリア領内でビブロス、アルワドとともに自治を保った。BC668年にアッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)が即位すると、これらフェニキアの3都市の王はそろって貢ぎ物をし、新王の最初のエジプト遠征に軍艦を送って支援するが、これも一時的な恭順の態度を示すためだった。このときアッシュールバニパルはエジプトに侵攻し、下エジプトを占領すると、アッシリアの支配に反抗しそうな下エジプトのデルタ地帯の豪族たちを首都ニネヴェに連行している。その数年後、エジプトでBC664年にタハルカの後継者タヌタマニ(在位:BC664年~BC656年)が即位すると、彼は下エジプトのメンフィスまで兵を進めた。このときテュロスはアルワドや他のシリア連合の都市とともにアッシリアに反旗を翻した。しかしBC662年、アッシュールバニパルは再びエジプト入りし、今度は上エジプトのテーベをも占拠すると、続いてテュロスを封鎖し、ここに到ってテュロスのバアル1世はついに降伏する。テュロスの町と王は残ったものの、陸側の領地は剥奪され、BC640年にはテュロスの陸側の領土はアッシリアの一つの州の中に組み入れられてしまった。かつてのテュロスの領地のウシュもアッコも、もはやアッシリアの町になってしまった。そして、BC656年にタヌタマニはヌビアに引き揚げ、エジプト第25王朝は滅びた。その後、アッシリアのレヴァント地方に対する支配力はゆっくりと弱まっていった。アッシリアは東方のバビロニアとエラムの反乱と社会不安に苦しめられ、アッシリアはもうフェニキア海岸には戻らなかった。BC626年には新バビロニアに破れている。テュロス本土へ最後に遠征したのが、BC 644年あるいはBC643年だから、それから30年余りのBC609年、ついに新アッシリアは滅亡した。

 そうしたわけで、BC7世紀の第4四半期には、フェニキアの海岸は南のフィリスティアとともにエジプトの支配下に入っていたようだ。ナイルデルタ地帯の有力者プサムテクはアッシリアのアッシュールバニパルの忠実な臣下だった。しかし、アッシリアの勢力がその南のバビロニアの脅威の前に弱まるにつれて、プサムテクは独立し、さらにBC656年、上エジプトの第25王朝の残存テーベ政権と協定を結び、エジプト統一王国の支配者となった。下エジプトのサイスにエジプト第26王朝を開いたプサムテク1世(在位:BC664年~BC610年)は、レヴァントに訪れた政治的空白に乗じ、エジプトとのつながりを復活させている。エジプトがレヴァントに政治的な力を振るっていたことを示す歴史資料は少ないながら極めて雄弁だ。BC613年のあるエジプトの文書によると、フェニキア海岸はエジプトの属領になっており、ファラオから直接派遣された地方官吏が治めていた。交易に関してもプサムテク自身が、フェニキアの木材の切り出しと輸出は自分の下の役人が監督していると自慢している。一方、テュロスもこの頃にはエジプトの大都市メンフィスに交易のための「飛び地」を定着させている。BC605年、シリア・パレスティナの覇権を求めたエジプトはバビロニアの皇太子ネブカドネザルにシリアのカルケミシュで大敗する。バビロニアによる支配の種がレヴァント地方に蒔かれたのはこのときだった。



(6世紀初頭からの新バビロニアによる支配)


 新バビロニアの王となったBC605年、ネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)はシリアに進軍し、自らが支配者であることをシリアの王たちに知らしめた。このときフェニキア諸都市もしかるべく貢ぎ物を差し出している。しかし、揺るぎない支配体制はそう簡単には築けない。ユダ王国やフェニキア人都市をはじめとするレヴァント地方の国々が、エジプトの支援の下、たちまちバビロニアに反抗の態度をみせている。ユダ、テュロス、シドン、それにアモン、モアブ、エドムといった汎ヨルダンの国々の間で早くから連合が結成されていたことにバビロニアは反応したのは明らかだ。BC587年にエルサレムを包囲し破壊すると、翌年にはそのその地方の服従を確実にするためフェニキア海岸へ侵攻する。BC585年ごろ、前回の遠征の際に抵抗したテュロスをネブカドネザルは包囲する。これが世に云われる「13年攻城」の始まりだった。長期にわたるこの作戦は実際にはテュロス本体の島と陸側との交通遮断だった。つまりずっと攻撃していたわけではなく、封じ込め作戦だった。この包囲が史実だったことは同時代のバビロニアの文書で裏づけられており、その作戦のいくつかの局面にはネブカドネザルが自ら参加したことも明かされている。結果はどうだったかはわかっておらず、どうもバビロニアが勝ったわけではなさそうだ。おそらく和睦に到り、テュロスはバビロニアの宗主権を認めたうえで自治を保つことを許されたと思われる。テュロス王家が命脈を保ったことは、ユダヤ人の歴史家ヨセフスが記したテュロスの歴代君主の名簿から確認できる。ただ、降伏という成り行きから、ときの君主イトバール3世が更迭されて、バアル2世に代替わりしたようだ。以前に反旗を翻したユダのゼデキア王のように、この時のイトバール3世もバビロンに送られたのかもしれない。バアル2世の後、ヨセフスの記録によれば7年の空位期間がある。町はその間、毎年任命される裁判官または執政官に治められていた。その後王となったマハルバアルとヒラム3世は、最終的には王位に就いているものの、王朝再開にあたってそれぞれバビロニア宮廷から召喚されており、どちらも抑留された期間があったことがわかる。テュロスが実際に自治を失ったのがいつかはわかっていない。しかし、ネブカドネザル2世の即位40年目のBC564年には、もうバビロニアのカデシュ州に組み込まれている。

 新バビロニアの支配下に入ってからフェニキアの経済はどん底まで落ちたようだ。バビロニアに併合された地域、すなわちパレスティナ南部(フィリスティア、サマリア、ユダ)と汎ヨルダン(アモン、モアブ)、それにアナトリア南部のキリキアが、南アラビアとアナトリア南部という利益のあがる通商網につながる道を邪魔していた。フェニキアとバビロニアとの間に通商があったことは、フェニキア人職人に関する詳しい記録がバビロニアの宮廷にたくさん残されていることから十分うかがえる。しかし、この世界でフェニキアがどれほど主導権を持てたかはわからない。ネブカドネザルのバビロニア政府は、フェニキアが何より大事にしてきたスギ取引きを当然のように支配していた。バビロニア北部の岩に刻まれた碑文の中で、ネブカドネザルは木材を陸路ユーフラテス川まで運び、そこからバビロンへ送るために山々を越えて道路を建設したり、造船所を作ったりしたことを自慢している。その時代の建造物の碑文からわかるのは、ネブカドネザル自身の王宮をはじめ、国家的な建築事業に如何にたくさんのスギ材が使われていたかである。

 ネブカドネザル2世がBC562年に死去した後、フェニキアや、フェニキアと新バビロニアの関係がどうなったかはっきりしないが、ナボニドゥス(BC556年~BC539年)が最後の王となった新バビロニア末期には、バビロニアは本国の問題で手いっぱいで、西方の領土に構っていられなかったため、フェニキアの緒都市はだいぶ自治あるいは独立を取り戻していたのかもしれない。BC556年にバビロニアがテュロス王朝の復活を決めたのは融和策とも受け取れる。情勢が不安定だからこそ、テュロスの忠誠心を確保しておきたかったのだと思われる。史料はないが、シドン、アルワド、ビブロスの追放されていた王たちもこの時期に復位がかなっていた可能性がある。いずれにせよ、BC5世紀の初頭には、これらの王たちは皆故郷の町に戻っていた。新バビロニア最後の6世紀後葉、フェニキア諸都市が、内部の問題が大きくなっていたバビロニアとその王に忠実であり続けたのは、一つにはこうして自治が許されていたからだろう。

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