第82話 海洋交易都市国家フェニキア

<年表>

BC10世紀

 フェニキア南部の港湾都市テュロスはBC10世紀初めのヒラム1世(在位:BC971年~BC939年)の時代から海上交易で急速に利益を上げ始めたことが歴史資料に示されている。テュロスの経済を押し上げたのは銀、銅、後には鉄などの鉱物を扱う国際交易だった。BC10世紀の間に、レヴァント北部、シリア地方そしてメソポタミア北部の広い地域がアラム人の支配下に入った。これらの地域では行政的混乱と穀物不足に苦しめられて経済は沈滞していた。ところが、BC10世紀の最後の20年~30年でエジプトとアッシリアの経済・軍事の情勢は劇的に変化した。このときフェニキア諸都市はエジプト側(第22王朝)についたようだ。BC10世紀にテュロスはイスラエルと協力関係を結んだ。これは平等な立場に立った互恵的なものだったようだ。


BC9世紀

 フェニキアの中心都市テュロスはイトバール1世(在位:BC887年~BC856年)とその後継者の下でさらなる発展を遂げ、植民地建設にも乗り出した。BC879年、アッシリアの新首都カルフ(現在のニムルド遺跡)で行われたアッシュールナシルパル2世の宮殿の落成式にテュロス人とシドン人が賓客として名を連ねている。BC877年、新アッシリアの王、アッシュールナシルパル2世(在位:BC883年~BC859年)の訪問(侵略ではなく商用)を受け、諸都市が金・銀・銅・錫などの貴金属、銅の器、亜麻布の衣類、ツゲ材、黒檀、象牙、サルなどの貢ぎ物をアッシリアに送り始める。このときアッシュールナシルパル2世はシリアの商都カルケミシュにも立ち寄っている。BC858年、新アッシリアのシャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)は即位の年に、北シリアとアナトリア南部へ侵略を開始し、最後はレヴァントに侵入し、フェニキア海岸の王たちから貢ぎ物を受け取っている。シャルマネセル3世の宮殿を飾る「青銅門」にはテュロスの貢ぎ物が船で本土へ運ばれてくるところが描かれている。BC814年にテュロスが地中海西方に勢力を拡大、アフリカ北部沿岸(現在のチュニジア)にカルタゴを建設した。カルタゴは「新しい都市」の意味である。最初の植民者はテュロスから来たのだが、多くの伝説の証言するところによれば、確たる委託を受けて船出してきたのではなく、反徒もしくは何らかの不満分子たちだった。テュロスによって、そしてテュロスに反抗して建設された新しい植民市カルタゴは、自分たちの持っている古いフェニキアの体質を、後には故郷の町よりもはるかに強調するようになった。ここには厳しい植民地住民が育ち、彼らは一方では王権を廃棄しながら、他方ではバァール神殿の要求するもの、すなわち人身供犠を捧げたのである。


BC8世紀

 BC9世紀末からBC8世紀前半は、フェニキアがかなりの政治的自由を手にした時期だった。シャルマネセル3世の新アッシリアはアナトリア北東部のウラルトゥが兵力を増大させているのに気を取られ、シリア・パレスティナを放置していた。一方のエジプトは第22王朝中期に内紛が続き、外政に目を向けるゆとりはなく、BC773年以降は分裂して、小国家群に分かれてしまった。BC8世紀初頭、ダマスカスとイスラエルの大都市ではフェニキア商人や職人たちが盛んに活動していた。そして、フェニキア人の海外進出はBC8世紀半ばにはすでに本格化していた。フェニキアの海外植民地であるキプロス島(キティオン)、北アフリカ(カルタゴ)、シチリア、サルディニア島(モンテシライ)、イベリア半島南部に見られる最も古い建築物もこの時代のものである。こうした植民活動はテュロスが先頭に立ってBC8世紀中ごろには本格化し、商業拡大が地中海全域に急速に展開されていたことを物語っている。


BC7世紀

 フェニキア人の都市はBC1000年ごろから2~3世紀繁栄した後、さまざまな困難に襲われた。BC7世紀には新アッシリアの王エサルハドン(在位:BC680年~BC669年)によってシドンが破壊され、テュロスの王女たちはエサルハドンの次の王アッシュールバニパルの後宮に連れ去られた。


BC6世紀

 BC573年、新バビロニアのネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)は、先代の王のアッシリア征服に続いてテュロスの島も13年間も包囲したが攻略できなかった。しかし、最終的にテュロスからの譲歩を受け入れ、支配下に置くことができた、


 ***


 フェニキア人という名前には、その不明瞭な過去を反映して、いろいろな相矛盾するイメージがつきまとう。古代社会の大きな謎の一つとされる彼らは、昔から毀誉褒貶きよほうへんの激しい人びとだった。第1に彼らは博学な書記であり、今日にアルファベットを伝えた人たちだった。名うての船乗りでもあったし、勇敢な冒険者でもあった。そして古代の地中海世界の境界線を引きかえた立役者だった。すばらしい港や都市を建設した腕利きの技術者でもあり、職人としての天分もあって、その見事な作品は王侯貴族の垂涎の的だった。ギリシャの盲目の吟遊詩人ホメロスはBC8世紀の叙事詩で、シドンの卓越した技能を褒めたたえている。しかし、それほど称賛されたフェニキア人が、一方では軽蔑とあざけりも浴びている。彼らは信頼できないペテン師で、あこぎな商人で、平気で悪いことをする金の亡者だった。策略家や陰謀家といったフェニキア人のマイナスイメージは、現代の俗語の中にも残っている。「イゼベル」というのは心底恥知らずな性悪女という意味だが、実はテュロスの王女の名前なのだ。

 古代社会はしばしば記録を残すことに異常なまでの情熱を示した。各社会の書記集団はあらゆることを丹念に記録した。その結果、エジプトの祭儀用語、ギリシャの法律、ローマの国庫収入関連文書などの多くの史料が現存する。一方、フェニキア人は寡黙な民族で、自らの歴史を喧伝するような著作を残さなかった。いや、何らかの著作や記録はあったはずだが、その中心都市テュロスやカルタゴは徹底的に破壊されたため、今はその競争相手で、敵ともなった多弁なギリシャ人やローマ人の著作からしか彼らを知ることができない。したがって、陰気で、ずる賢いフェニキア人というイメージしか今に残らなかったのだ。


 BC1200年ごろ「海の民」による混乱の中でウガリトが滅亡し、ウガリトが覇を唱えていた現在のシリア・レバノン地方では、港湾都市ビブロス・シドン・テュロスなどを拠点としてフェニキア人が東地中海の制海権を獲得し、本格的に海洋に乗り出した。それは「海の民」がカナン人と合体して吸収され、フェニキア人となった姿だった。「海の民」はこの融合過程の中で航海技術を持込み、それによってフェニキア人が生まれたと考えられる。「海の民」の流入がレヴァント海岸沿いのすべての都市に同じ利益をもたらしたのではない。例えば、ビブロスは逆に不利益を被った。指導的な商業地としての役割を失い、若い二つの共同体、シドンとテュロスが新しいフェニキアの主要な町へと発展していった。

 近隣の諸民族はこれ以降、フェニキア人のことを言う場合には、これまでのようにゲバル人とは言わず、シドン人あるいはテュロス人と言うようになる。聖書もホメロスもこの商業民族のことを記すときには常にこの二つの名前を使った。テュロスとシドンがどのような商品を取引したのかは伝わっていないが、本質的にはビブロスを富ませたのと同じ商品だったと考えられる。すなわち、近くにあるヘルモン山塊(現在のシリアとレバノン国境にある山脈)から切り出す木材、エジプトからのパピルス、それに自国産あるいは他国産の陶器、そしてもちろん食料品、布、金属などである。より北にあるビブロスに比べると、テュロスとシドンはいくらか不利だった。レバノン杉とイトスギの木材を門前に森をひかえるビブロスよりも遠い距離から荷車で運搬しなければならなかったし、ナイルデルタからメソポタミア北部に到る道の中間点にあたるが、ビブロスのように終点ではなかったからである。しかし、「海の民」によってクレタ流の外洋航海術が定着してからは、このような情勢が根本的に変わった。ギリシャ、イタリア、イベリアへ向かう西ルートが新しく出来ると、沿岸ルートは重要性を失った。新ルートの最も重要な出発点はもはやビブロスとその近隣の港ではなくなり、シドンとテュロスに移ったのである。

 BC10世紀初めのテュロス王、ヒラム1世(在位:BC971年~BC939年)は町を海岸から海上の島へ移した。ヒラムが即位するまでテュロスの大部分は陸側にあった。ウシュというカナン名を持つ集落で、海岸から600メートル離れた島には避難用城塞といくつかの港湾設備があるだけの海草の生えた岩礁にすぎなかった。それにもかかわらず、ヒラムはそこに町を建設しなければならないと考えた。周到な計画の下、何千もの人が何年もかけて工事が実施されたと思われる。当時のテュロスの住民は自分たちをソールと呼んだ。フェニキア語で岩を意味する言葉である。テュロスは岩礁の上の町、海の中に人工的に造られた避難所だったのだ。それは攻撃されたら海へ逃げ、陸を信用しないという、後の時代のベネチア人が追及した志向をBC10世紀の時代に具現している。その根拠は明白である。一つには、「海の民」の侵攻以後エジプトが衰えて、レヴァントの海岸諸都市は頼るべき唯一の保護勢力を奪われたからであり、もう一つは、「海の民」の一派であるケレテ人との合体によって、海上交易で富を蓄積する機会が生まれてきたからである。

 テュロスを除けば、わずかにビブロスの北方約50キロに位置するアルワドだけが、海岸の前の島に入植する可能性を持っていたが、シドンは海岸の平たい突出部を集落地とすることで満足していた。しかし、どの場合にも町があったのは海岸地帯で、それも険しい丘の横腹とか、滑り易い岩の上とか、岩礁だらけの湾沿いとかだった。もちろん海上での安全のために支払わなければならなかった代価は高かった。例えば、テュロスは海上の岩礁に泉を持たず、井戸を掘ることもできなかったので、雨水に頼ったが、雨水が無くなると、水をボートで対岸から運ぶしかなかった。アルワド人は別の方法を思いついた、海底の湧き水をボートから漏斗ろうとを逆さにして海中から吹き上げる淡水の上にかぶせ、皮のホースを通じて採取したのだ。フェニキア人が「海の民」から得た最も重要なものは竜骨船、つまりキールを持つ船だった。「海の民」はそれをクレタ人から受け継いだようだ。さらに船の漕ぎ方も受け継いだ。フェニキア諸都市では3種類の船が発達した。


 1)戦争用ガレー船は、漕ぎ手が2列に並び、船尾は地中海様式の反り返った曲線を描く形で、船首には鋭く突き出た衝角が付き、小さな四角帆を上げた1本マストの細長い船である。全長は27メートル、幅4.3メートル、深さ1.8メートルほどである。BC700年ごろの戦闘用2段櫂船は、巨木の幹を刳り出した船体にスウォート(漕ぎ座)を構築している。さらに武装した兵士を収容する簡略な回廊風のアッパーデッキ(上層甲板)を装備している。船体が刳り船構造かどうかに疑問視する研究者もいるが、原画は刳り船であることを示唆している。

 2)商船は、短くて幅が広く、漕ぎ手の数は少ないが、その代わり大きな四角の横帆を上げていた。これは速い必要はないが、船倉が大きく、安定が良く、水深が浅くても何とか切り抜けられる船だった。

 3)ミュオパロネス、すなわち貝殻型ボートは、漕ぎ手の数は戦闘用ガレー船ほどではないが、普通の商船よりは多かった。たいてい帆がなく、艦隊の補助船として、あるいは海賊船として、または海賊の出そうな海域では武装商船として用いられた。


 これらの船は小形ではあったが、その当時としては海上支配権を振うのに十分な道具となり得た。しかし、小型だったため、嵐に堪えることはできず、まだ直接外洋にむけて出帆することはめったになかった。彼らは適切な間隔を置いていくつかの拠点を必要とした。例えば、テュロスからキプロス島へ行き、そこからアナトリア南岸沿いにロードス島まで進んだ。そこから西はエーゲ海であり、後は苦も無く島伝いに進むことができた。さらにギリシャ本土のペロポネソス半島、あるいは北上してヘレスポントス(現在のダーダネルス)海峡の入口に達するのである。波との戦いがすべてだった当時としては優れた船々であり、適切な航海方法だった。

 テュロスとシドンがフェニキアの指導的都市にのし上がった時が、フェニキア商業帝国建設の道標になる。エジプトに対してほとんど搾取される臣下であった木材供給業者が、大商人になったのである。主な需要者であり主な供給先であったエジプトの他に、地中海の島々と海岸が新たな顧客として加わった。ヘロドトスは、あるカルタゴ人の言葉を引用して、航海してきた商人が他国の海岸で商品の荷下ろしをして、浜辺にそれを並べて置くのが慣わしであったことを述べている。

「それから彼らは再び船に戻って火を焚き、烽火のろしをあげる。地元民はそれを見て海岸に出てくる。そして商品に見合う金品を置いて、またそこを離れる。すると商人が船から出てきてそれを調べる。金品が商品の価値とつりあっていると思えばそれを取るが、足りないと思うとまた船に乗って坐って待つ。すると相手はまた近づいてきて、十分になるまで金品を追加するのである。こういう風にして最初の接触が行われた。不正はどちらの側も相手に行うことはない。なぜなら、売り手は商品の価格につりあうまでは金品に手を付けないし、買い手も彼らが金品を取るまでは商品に手を付けないからである」

 しかし、ときには海賊的と思われる方法も用いた場合もあったようだ。フェニキアの商船はせいぜい10トンから20トンまでの荷しか積めなかった。そのため木材のような重くてかさばる商品ではなく、少量でも引き合う高価な産物を積む方がよかった。純粋な商品の交換で利益をあげるより、原料を輸入して加工したほうが利益は多い。さらに生産と輸出を一手に行う、自国産の商品を売るのが一番儲かる。


<「海の民」後の経済復興>

 考古学的資料からは、鉄器時代初期のBC12世紀、パレスティナ、フェニキア、キプロスが文化的に密接に結びついており、お互いに平行して発展していたことがわかっている。キプロス島東岸の港町エンコミとキティオンは「海の民」に侵略されたが、その後、BC12世紀中に目覚ましい経済復興を遂げたことが考古学的に実証されている。どちらの町も大規模な建築事業が展開されるほどの繁栄に到っていたことが発掘調査で判明している。エンコミでもキティオンでも銅の精錬を中心とする金属精錬が盛んに行われた。BC13世紀に始まった金属精錬はBC12世紀に最盛期を迎えている。地元の鉱山で採掘された銅は、おそらくこの時代にはキティオンとハラ・スルタン・テケの港からエジプトとシリア、パレスティナへ送り出された。キプロス島とレヴァント地方が商業的・文化的に密接に結ばれていたことは、エンコミやキティオンの建築物や神殿の奉納品にはっきり西アジアの影響が見られることや、BC12世紀にキプロスへ持ち込まれた土器にシリアやパレスティナのものが圧倒的に多いことによって照明されている。つまり、キプロスの復活は、レヴァントとの取引の復活と連動していたと考えられる。キプロスと同様に、アシュケロンからアッコに到るパレスティナ海岸の主だった都市も、「海の民」の侵入の後、BC12世紀後半に急速に発展している。その世紀の終わりには、フィリスティア(ペリシテ)地方の主な都市、アシュケロン、アシュドド、エクロン、テル・カシレはすでに防備の堅固な都会になっていた。これらの都市の経済発展も大部分は新たに出現した内陸交易と海上交易によるものだった。フィリスティア(ペリシテ)地方がキプロス島およびフェニキア海岸と強い文化的つながりを持っていたことは以前から注目されていた。そういう文化的つながりから取引のネットワークが生まれ発展し、BC11世紀の後半にはフィリスティアとフェニキアの間で盛んに取引が行われるに至っている。そのことがテル・カレシの土器にはっきり出ている。後期青銅器時代にはウガリトがパレスティナの主要な港との海上交易を独占していたが、ウガリト滅亡後にはフェニキアが取って代わった。



(フェニキアの商業的発展、テュロスとシドン)


 青銅器から鉄器への移行期の混乱の時代(BC1200年~BC1000年ごろ)から世界が立ち直ったとき、レヴァント地方のフェニキア人やイスラエル人にとって、それはまさに新時代の幕開けであり、成長の新たな機会の訪れだった。この混乱の中でエジプトの黄金時代を創り出した新王国時代(BC1550年~BC1069年)の王朝は衰退し、大国ヒッタイト(BC1650年~BC1180年ごろ)は滅亡した。エジプトと西アジアにおける大国の沈黙は、フェニキア海岸諸都市の自律的な海外発展を促し、地中海はやがて「フェニキアの海」へと変貌を遂げていく。


 フェニキア人には後背地は全くないも同然であった。彼らの生活領域は海岸、すなわち山腹と地中海の間の細長い地帯であって、ここでは海が最も重要な交通路だった。もし海がなかったら、彼らはお互いに往来し合う機会がほとんどなかっただろう。フェニキアの都市国家のほとんど全てが二つの急流に挟まれた狭い地域にあった。すべての町を結び、すべての川を越える街道は存在しなかった。それが建設されたのは、BC30年にヘレニズム時代が終わり、ローマによる支配が始まってからである。

 背後に山々がそびえ、眼前には海が広がる。フェニキア人は、現在のレバノン、シリア、イスラエルの沿岸部のそのような地形の場所に入植した。なかでも指折りの強大な都市テュロスは、フェニキア人が沿岸部に住み着くにあたって求めた条件がそろっていた。防御しやすい島という地形で、安全な停泊地があり、本土の畑に簡単に行けるという3つの条件だ。テュロスの島には2つの港があった。北の「シドン人の港」と南の「エジプト人の港」である。一方、テュロスと並ぶ港町シドンは、フェニキア人の画期的な発明の痕跡を留める。それは世界最古のアルファベットの発明だ。BC6世紀にタブニトという王はエジプトの石棺を入手し、自分で使えるようにとフェニキア文字を彫り込んだ。


 BC11世紀の後半には、フェニキアは活発な取引と商圏拡大の時代に入り、さらなる発展の基礎が築かれたことが考古学的に裏付けられている。この時期にはフェニキアの物質文化に色々な特徴が現れた。その一つがバイクローム土器と呼ばれる二色で装飾された土器である。この時期には本来のフェニキア都市の拡大の始まりも見られる。テュロスで破壊された城壁の建て直しや都市の再開発が行われている。フェニキア都市の経済成長はその商業圏の拡大を南のガリラヤやイスラエル北部海岸へと押し広げていった。こうした展開を主導したのはフェニキア南部の都市、テュロスとシドンであった。

 テュロスとシドンは対照的な都市で、テュロスは島の港町だが、シドンは海岸平野を有し、現在のレバノンとイスラエルの境界に位置するベッカー渓谷南部に通じる通行路の要衝の地でもあった。したがって、始めはシドンの勢力の方が優勢だった。ところが、BC11世紀も終わり近くになるとテュロスとシドンの勢力バランスが逆転し始める。キプロス島、ギリシャのエウボイア島、クレタ島、さらにサルディニア島との交易という、初期の地中海交易においてフェニキア側の主導権がテュロスの手にあったことはほぼ確かである。BC10世紀初めのヒラム1世(在位:BC971年~BC939年)の時代から海上交易で急速に利益を上げ始めたことが歴史資料に示されている。テュロスの経済を押し上げたのは銀、銅、後には鉄などの鉱物を扱う国際交易だった。このような交易によってフェニキアは国内の産業に必要な金属材料を十分確保できるようになり、また地元のレバノン杉などを輸出することもできた。ちなみに、旧約聖書の物語では、青銅工芸の専門技術をソロモン王に提供し、エルサレムの神殿を完成させたのもテュロスだった。このような「前植民地時代」の交易は恒久的な入植地がなくても順調に行われていたようだ。その後、BC9世紀後葉からBC7世紀にかけてテュロスはフェニキア人の海外植民地のほとんどを建設することになる。フェニキア人がBC8世紀からBC7世紀に植民活動に励んだのは、ギリシャ人の入植地と張り合うことになったために、長く定着していた通商関係を守ろうとして努力したうちの一つであったといわれる。


<ソロモンとヒラム>

 ソロモン神殿の建設はテュロスと新興のイスラエル王国との通商協定の産物だった。イスラエル王国はダビデ(在位:BC1000年~BC961年)によって南のユダ族と北のイスラエルの10の部族を統合して創建された。旧約聖書によれば、この通商関係はダビデの時代にすでに確立されていた。テュロスが、多分ヒラムの父アビバアルの時代に、戦勝国イスラエルの王に使者とともに杉などの贈り物を送り、平和と友好関係を申し出ている。ダビデのイスラエル王国はアッコ海岸平野とガリラヤの主な都市とその領地をすべて包み込んでいた。すなわち、フェニキア南部の後背地が、テュロスやシドンのまさに境界線まですっかり含まれていたのである。こうした領土によって、イスラエルはテュロスの内陸通商路も事実上支配していた。したがって、テュロスが商業上の利益から力のある隣国へ自ら友好関係を申し入れたとしても何の不思議もない。ソロモンはBC961年に即位してまもなく、ヒラムが挨拶の使者を送ったのも明らかにこの関係の永続を願ってのことだった。ソロモンの依頼でテュロスはヤハウェに奉げるイスラエルの神殿とエルサレムの宮殿の建設についての商取引に合意する。テュロスは材木と専門技術を提供し、ソロモンはテュロスに毎年かなりの量のコムギとオリーブ油を提供し、さらに銀で支払いを補うことを約束している。ソロモンの即位4年目に結ばれたこの最初の協定は20年間存続した。その期限が切れたとき、イスラエルの土地に関する第2の取り決めが結ばれる。相当な量の金と引き換えに、ソロモンはテュロスにガリラヤとアッコ平野の20都市を譲渡する。こうした豊かな農地を獲得することで、テュロスは農作物を輸入に頼らずに済んだ。

 BC10世紀にイスラエルと協力関係を結んだことで、テュロスは明らかに西アジア内に重要な通商路を獲得している。アラビア南部はスパイスと貴重な鉱石の宝庫だった。また、イスラエルによるフィリスティア(ペリシテ人地域)の征服はフェニキアとエジプトの海上交易から邪魔者が消えたことになった。テュロスとイスラエルの関係は平等な立場に立った互恵的なものだったようだ。


<BC10世紀のフェニキア人とアラム人>

 この時代、周囲のシリア地方の政治的環境の変化を考えると、おそらく経済は沈滞していたと思われる。古い記録から確かなのは、BC10世紀の間に広い地域がアラム人の支配下に入ったことである。アラム人は西セム系遊牧民族の混合集団で、この時代にはシリアとメソポタミア中部の広範な地域を占領していた。こうした部族が東へ向かって大規模な移動に出たことによってアッシリアとバビロニアが甚大な被害を受けている。内陸の交通は妨害され、ユーフラテス川中流域から地中海へ向かう古くからの通商路も遮断された。行政的混乱と穀物不足に苦しめられて、これらメソポタミアの二つの国の経済は見る影もなく衰退し、幾度か崩壊の危機にさえ直面した。こうしたことが西側との通商を妨げたのは明らかで、おそらくは停止にさえ追い込んだと思われる。この通商の落ち込みがアルワド、ビブロスといったフェニキア北部の海岸都市の経済に痛手を与えたのは当然であった。シリア北西部やアナトリア南部との通商も同様に妨害されていたかもしれない。加えてビブロスの経済はエジプトとの交易を失ったことにも打撃を受けた。第3中間期の上下2つに分裂していた第21王朝という政治的混乱期にあったエジプトには国際交易に精を出すゆとりはなかったはずである。

 ところがBC10世紀の最後の20年~30年で、エジプトとアッシリアの経済・軍事の情勢は劇的に変化する。メソポタミア北部では、アッシュール・ダン2世(在位:BC934年~BC912年)率いるアッシリアがアラム人に乗っ取られた領土の奪還を狙って一連の侵略的軍事行動を開始する。次のアダド・ニラリ2世(在位:BC911年~BC891年)は前王の戦果を受け継ぎ、ユーフラテス川上流沿いにアラム人の領土へ深く攻め入って、次のBC9世紀のアッシュールナシルバル2世(在位:BC883年~BC859年)とシャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)によるさらなる侵攻の足場を築いた。エジプトではBC945年にリビア系のシェションク1世が第22王朝を開き、上エジプトと下エジプトを再統一し、ヌビアとの通商も再開された。このときエジプトはレヴァント南部のユダ王国とイスラエル王国を征服するため本拠地のデルタ地域のタニスから進軍し、エルサレムを陥落させ、イスラエル北部にまで兵を進めた。アッシリアの脅威に脅え、エジプトの軍事力復活を目の当たりにしてフェニキア人都市はエジプト側についたようだ。ビブロスから10世紀末のエジプト王の彫像がいくつか発見されているのは、エジプトとの国交再開の証かもしれない。シドンとテュロスからもエジプト王の名が刻まれたアラバスタ―(方解石)の器が見つかっている。


<テュロスの発展>

 BC9世紀になると、テュロスはイトバール1世(在位:BC887年~BC856年)とその後継者の下でさらなる発展を遂げる。この時代には貨物の増大に対応するため南部に人工の港が建設された。その港が「エジプトの港」と呼ばれたのはエジプトのナイル河畔との取引が再開された証しである。フェニキアの通商網はこの頃にはアナトリア南部へも広がっていた。活動の中心はアレクサンドレッタ湾とキリキア海岸で、タルススとミュリアンドロスの港はタウルス山脈の向こう側への玄関口だった。フェニキア人が北シリアの奥地にまで赴いていたことを示す考古学的資料が、旧ヒッタイトのシリアでの中心都市だったカルケミシュとジンジルリで見つかっている。テュロスとイスラエルとの関係は王家同士の縁組によって強化された。イトバール1世は娘のイゼベルをイスラエルのアハブ王(在位:BC874年~BC853年)に差し出している。旧約聖書によれば、このイゼベルはやがてイスラエル王宮でアハブ王の妃として絶大な文化的・政治的影響力を振るっている。当時、テュロスはシリア中部のアラム人都市国家の中で最も有力だったダマスカスとの同盟も求めていたようだ。パレスティナの対立する二つの王国、北のイスラエルと南のユダもダマスカスとの同盟を求めていた。特に、ユダはダマスカスのベン・ハダト1世に金銀を捧げて、イスラエル北部の都市を襲撃させた。それらの緒都市はベッカー渓谷経由でテュロスとダマスカスを結んでいた重要な通商路沿いに並んでいた。テュロスの北に位置するシドンがテュロスの手に落ちたのもイトバール1世の時代だった。イトバール1世は自らをシドン王と呼んだ最初のテュロス王で、その称号はBC8世紀の終わりまで使われた。イトバール1世が率いるテュロスの経済力と商才を何より雄弁に物語っているのが2つの植民地建設に乗り出したことである。1つ目はリビアのアウザ(場所は今も不明)、2つ目はビブロスの北のフェニキア海岸のバウトロンである。アウザは地中海西部との長距離交易の拠点として、バウトロンはアッカル平野経由のユーフラテス川の向こう側との交易の足場として建設された。また、銅取引に参入するためにキプロス島の東南にもキティオンを建設した。BC814年、テュロスは地中海西方に勢力を拡大、アフリカ北部のチュニジア海岸沿いにカルタゴとウティカを建設した。

 フェニキアの諸都市は王によって統治されていたが、その王たちは自分を地上における神々の代理人と理解していた。良く知られているビブロスの王アヒラム家の最後の王が王位にあったBC880年までは少なくともそうであった。しかしその後、事情が変わったことをテュロスの歴史から読み取ることができる。ヒラムの孫アブダストルスの死後、宮廷闘争が起こって、その結果、神官が権力の座に就いた。このようにして獲得された王座の下の秩序は推測でしかないが、ここには古典的な意味での貴族はいなかった。広大な土地を所有できるような土地がどこにもなかったからである。したがって、フェニキアには封建主義的な時期がなく、市民的であったといえる。豪奢な暮らしをしていた名門の商人が町の運命を定め、下働きは雇い人に、下賤の仕事は奴隷に任された。神々の代理人である王はいたが、長老会議による寡頭政治がかれていた。これが同時に商業活動の監督機関としての役割をも果たした。生活の基盤は商売だったからである。フェニキア最大の植民市カルタゴではそれがよりはっきりと表面に出た。おそらく一度も王を持たず、後世の商人共和国(例えばベネチア)と同様、少数の支配者たちによる寡頭かとう政治によって統治された。フェニキアの商人国家は、戦争には余りにも多くの金がかかるから戦争を好まなかった。例外は、キプロスの銅鉱山の権益を守るためにテュロスのヒラムが討伐隊を送ったことだけである。キプロス島の東南部にあるキティオンはテュロスの植民地だが、ほとんど母国の一部と考えられていたと思われる。



(フェニキア人、その商業と産業)


 フェニキア人たちの権力は強力な都市や大きな領土よりむしろ目の細かな網のように張り巡らされている商業路線にあった。これらの路線のうちのあるものの終点には根拠地があったが、大半は風の来ない入江に造られ、市璧を巡らせた見栄えのしない集落に過ぎなかった。船でそのそばを通れば、倉庫、兵営、防備の塔、一番立派な建物としては基地司令官の官舎、それに場合によっては神殿なども見えたが、それらを全部合わせても、ギリシャの商業中心地とは到底比較にならなかった。大理石のファサードもなければ、柱廊も、多彩に色取られた神々の立像もなかった。フェニキア人自体はギリシャ人にはおなじみの存在だった。どの港町に行っても彼らに出くわすし、彼らの西アジア的な物腰、雄弁さ、鷲鼻の細面はどこででも知られていた。しかし、それはあくまでも類型としてだけであった。フェニキア人はボスポラス海峡沿いに、イタリアに、シチリアに、イベリアと北アフリカの海岸に住み着いていた。彼らの代理人は、顧問となってエジプトの支配者の玉座の背後に立ち、新アッシリア、新バビロニア、ペルシャの王たちの耳に助言をささやいた。

 フェニキア人はどこに腰を据えようと、陸というよりむしろ海の中に生きていた。彼らの集落は海に向き、彼らにとって陸はいわば土台としての役割を果たすものにすぎず、彼らはいつでも陸から離れることができた。海の変わり易さ、その危険と無限とが、彼らの抱く生活の観念には、堅固な陸によって与えられる確かさよりもぴったりしているように見えた。しかしまた、それが弱みとなったことも確かである。

 ガラス産業と紫の衣服産業の他にも、フェニキア諸都市には一連の産業はあったが、造船は別として、その重要性と規模とでこの2つに匹敵し得るものはなかった。フェニキア人は自分自身に関して頑固に沈黙を守り、自分では歴史を書かなかったと言われるが、実際は何らかの記録は残したはずだ。ただ、それらは石碑や粘土板ではなく、パピルス紙に書かれ、しかも敵によって徹底的に破壊されたため残らなかっただけである。したがって、彼らについてわかっていることはすべて他の民族の記録、すなわち古代ギリシャ人とユダヤ人によるものである。

 キプロスの銅は、フェニキア人が植民を開始したBC10世紀よりはるか前から採掘されていた。フェニキア人にとって銅は生活のかてであった。それを手に入れるため彼らはキプロス島に少なくとも5つの鉱山都市(タマッソス、イダリオンなど)とその積出港(キティオン、アマトス、ラピトス)を建設した。その中で最も重要な港はキティオンだった。


 フェニキア人の都市は海洋経済を土台とした。海は交易の主要な通路になっただけでなく、造船・漁業・紫の染料の生産など重要な産業の源にもなった。また海はフェニキア人の商業の発展を決定づけてもいた。彼らが大手の海運業者あるいは交易の請負人としてエジプト、エーゲ海、そして地中海の中部や西部と交易をすることになったのは海を前にしていたからだ。さらに海は商機を求める探検の旅にも有利な道を提供し、はるか遠くから貴重な原材料を大量に調達し運んでくることも可能にした。

 BC5世紀に貨幣が採用される前のフェニキアでは、外国との取引は概ね交換条件を定めた取引契約あるいは通商協定に基づいていた。エジプトやバビロニア、キプロス島という大きくて複雑な市場を相手にするときはそのような協定を結んで、鉱物などの原材料物資の等価関係を予め設定しておくことがとりわけ必要だった。旧約聖書の「エゼキエル書」の有名な預言「テュロスの船」は、BC7世紀のテュロスの広範な通商網を興味深くのぞかせてくれる。地中海交易の相手はキプロス島、ロードス島、アナトリアの南と西海岸、それにイベリア半島南部のタルシシュという謎の王国であり、内陸交易の相手はイスラエル、ユダ、ダマスカス、エドム、アラビア、それにメソポタミアの諸都市である。注目すべきはテュロスの輸入品の数々が、自分たちで消費するものが中心だった鉄器時代初期のころとは違い、テュロスは明らかに国際市場を相手にしていた。主な仕入れ品は貴金属、鉱物、象牙、染めや刺繍が入った豪華な布地や衣服、エジプト産の上質な亜麻布、スパイス、ワイン、家畜などで、それらは国内の需要を満たすためだけでなく、外国へ輸出するするためにも買い入れられた。仕入れ品の中で真っ先に名前が挙がっているのが金属と鉱物である。この鉱石や金属の調達がフェニキアの海外進出の動機になったことは疑えない。初期にはキプロス島やサルディニア島など地中海の島々への植民活動を促進し、最終的にはカルタゴとカディス(イベリア半島の大西洋岸)という大商業都市を海外に建設することにつながった。全商品の中で鉄だけは名前が二度挙がっている。BC10世紀以降、鉄の市場は目覚ましい成長を遂げ、BC8~7世紀にはアッシリアの需要によってピークを迎えていた。もう一つ重要な商品は、豪華な衣服の取引と紫の染料の生産で、この二つはフェニキアの経済を支える二本の大黒柱だった。紫の衣服はフェニキアの特産品でもあり、アクキガイから抽出される紫の染料で染められた衣服は、主にダマスカス経由でシリアから輸入されたウールで作られていた。


[レバノン杉]

 BC2613年~BC2600年の間にエジプト古王国第4王朝のファラオ、スネフェルは、レバノン山脈の麓の町から、船40隻分の杉材を取り寄せて、それで船や王宮の扉を造らせている。レバノン山脈はエジプト人の間では「杉の高原」と呼ばれていた。森に乏しい中東では当時、木材、特に建築用木材が決定的な不足物資だった。水の豊富なエジプトでさえ、生えるのはアカシヤや油ヤシばかりで、家の建築に必要な長い角材を切りだせるような木はなかった。したがって、ナイル河畔の人びとが古王国時代よりもはるか昔から、金の出るスーダンや、銅やトルコ石の採れるシナイ半島だけでなく、巨大な森を持つレヴァント地方へ遠征隊を送っていたことには何の不思議もない。レバノン杉は、地中海の東側の沿岸地域の山脈にのみ生育し、針葉樹のマツ科の特殊な種類は単に有用というだけではなく、甘酸っぱい匂いがとりわけ印象的な木でもある。広々とした土地でなら高さ40メートル、太さ4メートルにもなることがある。その枝は曲がる傾向にあるが、外へ向かっては平らで、ほとんどパゴダの屋根のような形になる。エジプト人がこの木を貴重視する第2の理由はその匂いにあった。彼らは木材を建築用材料に使っただけでなく、淡褐色をした芳香のある濃い油も利用した。彼らは布をこの油に浸し、ミイラにする予定のファラオの遺体をそれで包んだ。レバノン杉は単なる材料ではなく、祭祀の一要素へ格上げされていた。


[ガラスの発明]

 砂にはかなりの量の石英が含まれている。石英は結晶形の純粋な珪酸で、それはガラスの最も重要な成分である。エジプト人はガラスの製造過程をBC3000年より前にすでに知っていた。彼らは砂、植物の灰、硝酸、アルカリ土の混合物を700℃~800℃に熱して、オパールのような不透明なガラスを造り出し、それを小さな液体容器の形にして、高価な贅沢品として輸出していた。フェニキア人はエジプトが国家秘密にしていたこの製造方法を盗んで、それを基に独自の製造方法を作り上げた。青銅器時代後期(BC1600年~BC1200年)のテュロスではファイアンスという山砂を原料としたガラス質の陶器の一種も製造し輸出していた。その後、彼らはミルク状のガラスを透明にするよう試行錯誤し、そしてついにBC10世紀ごろまでに成功した。テュロスとシドン、特にシドンには小さなガラス工房が開かれ、その窯の中から史上初の透明なガラスが誕生した。フェニキア人は後にガラス吹きの技術も発達させた。彼らはガラスを贅沢品として高値で販売しただけでなく、販売網を構築し大量生産して売りまくった。その後、溶融し、プレスあるいはカットしたガラスがシドンとテュロスから安価に売り出されたため、比較的裕福な一般の人びとでも買うことができるようになると、金属や陶器で造られた容器やカップは次第に駆逐された。フェニキア人はびん、釉薬をかけたたまや瓦を地中海全域に販売し、それによって大量生産の元祖ともいわれることもある。


[特産品の貝紫]

 ギリシャ人は、フェニキア人が輸出する特産品である赤色を帯びた紫色の布にちなんで、「赤い人びと」を意味する「フォイニケス」と呼んだ。この言葉が転じて「フェニキア人」となった。フェニキア人と呼ばれる前のカナン人は目の細かい亜麻布の生地を織る技術をエジプトから習い覚えた。紫の衣服はフェニキアの特産品でもあり、アクキガイという巻貝の分泌腺から抽出される紫の染料で染められた深い艶のある紫色の衣服は、主にダマスカス経由でシリアから輸入されたウールで作られていた。フェニキア人はその原料となる貝をフェニキア海岸の浅い海の中から採取することができたが、わずか数グラムの染料を得るために数千個の貝が必要だったため、その紫の染料は珍重された。紫の染料を抽出していた青銅器時代後期(BC1600年~BC1200年)の設備がアッコとサレプタで発見されている。テュロスとシドン産の紫の布は高価な贅沢品だった。古代では王や貴族の衣服にのみ使用されたため、紫色は高位のシンボルであった。しかし、紫染料を最初に開発したのは彼らではない。その元祖はおそらくシリア海岸に位置するウガリトの住民で、この都市には、BC16世紀にミタンニを建国したフルリ人が、シリア砂漠の外縁地域から移住してきたセム系のアムル人とカナン人とともに住んでいた。BC1200年ごろ、「海の民」がウガリトを略奪し破壊したしたときに紫染料の秘密を知り、後に生活を共にするカナン人にそれを伝えたのではないかと推測される。

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