第81話 エジプト第25王朝、「黒いファラオ」の物語

(エジプトとヌビア)


 エジプト新王国最後の第20王朝(BC1186年~BC1069年)時代にエジプトによるヌビア支配が崩壊してからの300年間は、ヌビアの歴史で非常に謎の多い時期の一つである。この時期上ヌビアでは土着国家が誕生したが、その実態が考古学的資料や銘文によって明らかになるのは、BC8世紀になってからだ。やがて上ヌビアを支配していた土着の諸侯たちが築いた基礎の上にヌビア人の独立王国が成立する。この王国は1000年以上にわたって続き、一般に「クシュ」の名で呼ばれている。クシュ王国は瞬く間に大勢力に成長したらしく、その支配者たちはエジプトが政治的に弱体化し分裂いていた状況につけ込むことができた。クシュ王ピイ(在位:BC747年~BC716年)は、デルタ地帯西部のサイス王テフナクトの領土拡張の野望を打ち砕くという名目で、BC730年ごろにエジプトへの侵攻を開始した。ピイは勝利を収め、エジプト各地の諸侯たちを服従させるとヌビアへ帰還した。

 ピイの跡を継いだ彼の弟のシャバカ(在位:BC716年~BC702年)は、再びエジプトに侵攻して、800年前にエジプトがヌビアを屈服させたのとは正反対に、今度はBC715年に全エジプト支配を確立した。シャバカとその後のシャバタカ(在位:BC702年~BC690年)、タハルカ(在位:BC690年~BC664年)、タヌタマニ(在位:BC664年~BC656年)の3代の王は、エジプトの正当なファラオを名乗り、後世に第25王朝(ヌビア朝)として認められた。この王たちは、ファラオの衣装を身に着け、ファラオの称号を名乗り、エジプト式に王を埋葬する葬祭習慣も取り入れたほか、自分たちの記念碑の銘文をエジプト語で刻ませている。この王朝で最も大きな特徴の一つにアメン神崇拝を一貫して強調し続けた点が挙げられる。シャバカからタハルカまでのクシュ王が統治した50年間、エジプトには誰もが望んでいた平和と安定が訪れた。強力な統治体制を敷き、積極的な外交方針を取ったほか、美術や建築、宗教的慣習などの分野で、古王国時代・中王国時代・新王国時代の記念建造物を模範とした文芸復興も推し進めた。王の主要な宮殿は下エジプトのメンフィスにあったようだが、それに対して宗教上の中心地である上エジプトのテーベは、「アメンの神妻」という称号を持つ独身の王女の支配下に置かれた。この職は、第25王朝で重要度が著しく上昇した。各代の「アメンの神妻」は、後継者として王族から若い女性を1人養女とし、それによって政治権力を第25王朝が確実に握り続けられるようにしたからである。さらに、エジプトを掌握する手段として、クシュ王は同じクシュの人間を宗教組織や行政組織で重要な役職に就けた。

 クシュ王タハルカの時代、第25王朝は最盛期を迎える。この王の治世に神殿の造営がテーベを中心に積極的に進められ、ヌビアでも立派な神殿が、ジェベル・バルカル、サナム、カワ、タボ(アルゴ島の町)で次々と建設され、小規模な神殿がブヘン、セムナ、カスル・イブリムに建てられた。こうした建築物はすべて建築設計も建物の配置も装飾も純粋にエジプト式で、王朝時代エジプトの作品を手本にしたレリーフと彫像で飾られていた。その一方で、この時代の最高級の彫刻にアフリカ的な要素も見ることができる。例えば、タハルカをモデルとした花崗岩製のスフィンクスがカワから出土しているが、そこには王のヌビア人的特徴が力強く表現されている。

 BC674年からBC663年にかけて新アッシリアから断続的に侵攻を受けると、クシュの支配者たちもついにエジプトから撤退を余儀なくされた。タハルカはBC664年にヌビアで没し、跡を継いだタヌタマニがエジプト回復を試みるも、すぐに失敗に終わった。タヌタマニとその後継者たちは、母国であるクシュ王国を統治し続けたが、「上下エジプトの王」という称号を使い続けることで、自分たちこそエジプトの正統な支配者だとの主張を崩さなかった。しかし、次の第26王朝(サイス朝)のプサムテク2世(在位:BC595年~BC589年)の時代に歴代のクシュ王の名はエジプトの記念物から削除され、BC593年にはエジプト軍がヌビアに侵攻し、第3急湍きゅうたん周辺での戦いでクシュ王の軍を破っている。

 その後のBC6世紀からBC4世紀までのヌビア事情はほとんどわかっていない。アンラマニ(在位:BC623年~BC593年)からナスタセン(在位:BC335年~BC315年)までの何人かの王が建てた碑文には、下ヌビアを中心に遊牧民の集団と紛争のあったことが記されている。おそらく下ヌビアはまだ人口が少なく、政治的にも不安定だったのだろう。エジプトとの交易は、第26王朝のプサムテク2世の時代に一時的に関係が悪化したものの、第26王朝と次の第27王朝(ペルシャ人ファラオ)の時代にも続いていたようである。


 新王国時代を通じて、ヌビアに埋蔵されていた莫大な量の金はエジプトの国庫を満たし、ファラオが糸目をつけず行う大規模な建築事業を支える財源となった。当時のエジプトの墓には、ヌビア人がエジプトの王に貢ぎ物を納める姿が表されている。神殿の壁面に刻まれたメッセージはよりあからさまだ。そこでは、ヌビア人すべてを表す1人かそれ以上の人間を王が打ちのめしており、ヌビアがエジプトの力の前に完全に隷属していることが象徴的に表現されている。こうした状況が500年間も続いた。エジプトが政治的に分裂し、国土の分割に汲々としていた第3中間期に、ヌビアはエジプトの支配から抜け出しつつあった。第3急湍きゅうたんのかなた肥沃なナイル川流域に土着のヌビア人支配者たちからなる王統が出現した。彼らはかつて強大だったクシュ王国を再建する。その中心のジェベル・バルカルにはアメン・ラー大神殿があった。エジプトによって創建されたものだったが、この神殿の日々の儀礼はクシュ人によって続けられていた。クシュの王朝はいくつかの点でエジプト人よりもよほどエジプト的な存在となっていた。

 BC747年、クシュの王座はピイという名の人物に引き継がれた。BC727年、北部デルタ地帯西部のサイスを拠点にリビア系と思われるテフナクトが西デルタ地域を制圧し第24王朝を樹立した。そして中エジプトにも勢力圏を広げた。BC728年、ピイはテフナクトに対抗するためエジプト史の表舞台に躍り出た。この軍事遠征の詳細は、ピイがヌビアのジェベル・バルカルのアメン神殿に奉げた戦勝碑に記されている。

 それによれば、ピイは軍を派遣し、テフナクトの南への勢力拡大を食い止めた。翌年、ピイはエジプトに出撃する決断を下し、まず上エジプトのテーベでファラオの流儀に従い、オペト祭に参加した。その後、中エジプトのヘルモポリスを攻略し、続いて下エジプトの中心都市メンフィスをも攻略した。メンフィスが陥落すると、ピイはメンフィスのプタハ神、ヘリオポリスのラー神を参詣してエジプト王としての戴冠式を行った。こうしてエジプト全土とその首都がヌビア人の支配下となり、デルタ地帯に残っていた王侯たちも順次降伏した。ピイのエジプト再征服は完了し、彼はクシュへの帰国の旅につく。この南に向かう旅の途中で、彼は上エジプトのテーベに立ち寄っただけだったが、それは戦利品をアメン神殿に捧げ、親族のアメンイルディス1世を現職の「アメンの神妻」の養女とさせ、その後継者にするためだった。これはテーベ地域に対するクシュの支配が続くのを保障するするとになる。それからピイはクシュ王国の首都ナパタへ向かった。彼自身はエジプトに再び足を踏み入れることはなかった。ピイがかつて相続したのは上ヌビアの小国だったが、今やヌビアの南端にあたるナイルの第4急湍きゅうたんから地中海沿岸まで1600キロ以上も広がった王国を後継者に譲ることになったのである。ピイのエジプト再統一の遠征は、300年に及んだエジプトの政治的分裂を終わらせることとなり、末期王朝時代(BC664年~BC343年)として知られる最後の文化隆盛の時代の先がけとなる。

 母国のクシュに戻ったピイは聖山ジェベル・バルカルのアメン神殿の改修・増築を行い、テーベやカルナックのアメン大神殿を模倣して建設した。また彼は、上ヌビアのアル・クッルの墓域に自分と家族ための小型のピラミッドを造営した。

 ピイの後継者で第25王朝2代目のシャバカと、4代目の王タハルカも、アメン神はもちろん、それ以外のエジプトの神々も讃えるエジプト風の記念物、小型ながらピラミッドやスフィンクス、神殿などを大量に残している。クシュ王国がエジプトを支配したことで、新王国時代の領域をはるかにしのぐアフリカ最大の古代王国が生まれた。3代目の王シャバタカは、東方のアッシリアの影響力が増大しつつあったシリア・パレスティナの政策に深く関わった。4代目の王タハルカの時代のBC671年、新アッシリアの王エサルハドンがエジプトに侵入し、メンフィスを占領した。アッシリアはいったん引き揚げたが、BC667年にはアッシュールバニパル王が再びエジプトに侵攻し、下エジプトを占領すると、アッシリアの支配に反抗しそうなデルタ地帯の豪族たちを首都ニネヴェに連行した。BC664年にタハルカの後継者タヌタマニが即位すると、彼はメンフィスまで兵を進めたが、アッシュールバニパルが再びエジプト入りし、今度は上エジプトのテーベを占拠した。BC656年、タヌタマニはヌビアに引き揚げ、クシュ王国を母国とするヌビア人による第25王朝は滅びた。BC571年、クシュ王国は首都をヌビアのナパタから、さらに南の奥地の第5急湍きゅうたんと第6急湍きゅうたんの間にあるメロエに遷し、実質上クシュ王国も滅びた。メロエ王国ではエジプトに倣って多くのピラミッドが造営された。


 ***


以下は「National Geographic(2021年11月号)」の3人の“黒いファラオ”の物語である。


 紀元前8世紀頃、ほぼ現在のスーダンにあったヌビア地方に、エジプトの伝統をひたむきに守り続けた王たちがいた。彼らはいかにして古代エジプトを支配し、第25王朝を築いたのか。これは3人の“黒いファラオ”ピイ、シャバカ、タハルカの物語である。


 堕落したエジプトを救うには、我々が攻め入るしかない――。BC730年、ピイという名の男がそう決断し、血なまぐさい戦闘の火蓋が切って落とされた。「厩舎からえりすぐりの馬を引き出し、鞍をつけろ」。ピイは配下の指揮官たちに命じた。

 当時のエジプトは小国が割拠して混乱に陥り、大ピラミッド群を建設した偉大な文明は往時の輝きを失いつつあった。ピイはそれまで20年ほど、ほぼ現在のスーダンにあったヌビアを治めてきたが、自分こそはエジプトの真の支配者であると確信し、ラメセス2世やトトメス3世ら歴代のファラオが行ってきた宗教儀式の正統な継承者を自任していた。おそらくピイはそれまで下エジプトを訪れたことがなく、古代エジプトの王ファラオの後継者を名乗っても、今一つ説得力を欠いただろう。だが、ピイはこの後、みずからに服従するエジプトをその目でしかと見届けることになる。敗軍の将たちは、命を助けてもらう代わりに、自分たちの神殿をピイの手に委ね、秘蔵の財宝や名馬を差し出した。エジプトとヌビアの君主となったピイは、願いを受け入れた。そして、足下でおののく敗者たちを前に、驚くべき行動をとった。兵士たちに出発の準備をさせ、戦利品を船に積み込むと、南の故郷ヌビアに向けて船出し、二度とエジプトに戻らなかったのである。

 BC716年、ピイが死去し、32年に及ぶ統治に幕を閉じると、臣下の者たちは遺志に従って、エジプト式のピラミッドに埋葬し、4頭の愛馬を遺体のそばに埋めた。エジプトで500年以上も前にすたれたピラミッド埋葬の慣行を、ピイは復活させたかったのだ。こうした偉業を成し遂げたピイは、どんな顔をしていたのか。残念ながら、手がかりは残されていない。エジプト征服を記録した石碑は見つかっているが、ピイの姿を描いた部分は削りとられている。ヌビアの首都ナパタの神殿にある浮き彫りには、ピイの脚しか残っていない。ピイの容貌について今わかっているのはただ一つ、肌が黒かったということだけだ。ピイは、黒いファラオと呼ばれるヌビア人の王たちの一人で、70年あまりエジプト全土を支配したエジプト第25王朝の初代の王だ。黒いファラオは、群雄割拠していたエジプトを再統一して、南は現在のスーダンの首都ハルツームから、北は地中海沿岸部までを版図に収める一大帝国を建設し、数々の壮麗な建造物を残した。アッシリアと戦い、聖都エルサレムを救ったのも、彼らの功績とみられている。

 最近まで、黒いファラオの歴史が語られることはほとんどなかったが、ここ40年ほどで考古学的な調査が進んだ。ヌビア人の王が台頭した背景には、少なくともエジプト第1王朝の時代から2500年間もナイル川の南の流域に栄えた、活力あふれるアフリカ文明があった。現在、スーダンのヌビア砂漠に残るピラミッドは、エジプトよりも数が多く、壮大な遺跡群を成している。スーダン西部のダルフール地方では今も紛争が続き、南部でも内戦後の混乱が続いているが、ナイル川流域はそうした地域とは別世界のように静かで、遺跡群を一人でゆっくり見て回ることもできる。だが今、ようやく日の目を見たこの古い文明の跡が、再び失われようとしている。スーダン政府は、ナイル川のアスワンハイダムから1000キロほど上流で新しい巨大ダム、メロウェダムの建設を進めている。1960年代にアスワンハイダムができたときには、ヌビア北部が広範囲にわたって、ナセル湖(スーダンではヌビア湖と呼ばれる)の底に没した。2009年にメロウェダムができると、長さ170キロの人工湖が生まれ、ナイル川の第4急湍(ナイル川で流れが急な難所の一つ)周辺の地域が、何千という未発掘の遺跡とともに水没する。ヌビアの歴史の宝庫がまたもや湖底に沈むとあって、考古学者たちはこの9年間、精力的に発掘作業を進めてきた。


<軽視されたヌビアの歴史>

 古代世界に人種差別はなかったようだ。ピイがエジプトを征服した時代には、肌の色は問題にされなかった。古代のエジプト、ギリシャ、ローマの彫刻や壁画には、人種的な特徴や肌の色がはっきりと表現されているが、黒い肌が蔑視されていた様子はほとんどない。肌の色を気にするようになったのは、19世紀に欧州列強がアフリカを植民地化してからだった。かつてヌビアのあったナイル川中流域に足を踏み入れた欧州の探検家たちは、優美な神殿やピラミッドを見つけたことを興奮ぎみに書き残している。これは、クシュと呼ばれている古代文明の遺跡だ。米ハーヴァード大学の著名なエジプト学者ジョージ・レイズナーは、1916年から1919年までの発掘調査で、ヌビア人の王によるエジプト支配を裏づける考古学的な証拠を初めて発見した。だが、遺跡の建設者は肌の黒いアフリカ人であるはずがないと主張し、自身の業績に汚点をつけた。クシュの王たちは白人だったのか、それとも黒人だったのか。歴史家たちの見解が二転三転する時期が何十年も続いた。権威あるエジプト学者、キース・シーレとジョージ・ステインドーフは1942年の共著書の中で、ヌビア人の王朝とピイ王の征服についてわずか3行ほどしか触れておらず、「だが、彼の支配は長く続かなかった」とあっさり片づけている。ヌビアの歴史が軽視された背景には、19世紀から20世紀にかけての欧米人の偏見にとらわれた世界観だけでなく、過熱気味のエジプト文明礼賛と、アフリカの歴史に対する理解不足があった。「初めてスーダンに調査に行ったときには、“なんでそんなところに。歴史はエジプトにしかない”と言われたものです」と、スイスの考古学者シャルル・ボネは振り返る。それは、ほんの44年前のことだ。そうした見方が変わり出したのは、1960年代にアスワンハイダム建設で水没する遺跡群を救う運動が始まり、多くの遺物が発掘されてからである。2003年には、ボネがヌビア人ファラオの大きな石像7体を発見。ナイル川の第3急湍周辺の古代都市ケルマで何十年も続けてきた発掘調査が、ようやく国際的に認められるようになった。だが、ボネはそれよりもずっと前に、ケルマよりも古く、人口密度が高かった都市遺跡も見つけていた。「それはエジプトの影響がない、独自の建築様式と埋葬の習慣をもつ王国でした」。この強大な王朝は、エジプトの中王国が衰退した紀元前1785年頃に興隆した。ヌビアの歴代の王たちの物語からわかるのは、アフリカ内陸部に独自の古代文明が栄えていただけでなく、一時はそれがナイル川流域の支配的な勢力となり、北のエジプトと交流し、ときには縁戚関係も結んだという事実だ(ツタンカーメンの祖母にあたる、エジプト第18王朝の王妃ティイには、ヌビア人の血が混じっていたという説もある)。西アジアに覇権を広げるための軍資金をヌビアの金鉱に頼っていたエジプトは、南のヌビアが強大な力をもつのを嫌った。そのためエジプト第18王朝(BC1550~BC1295年)の王たちは、軍隊を派遣してヌビアを征服し、ナイル川に沿って要塞を建設した。ヌビア人の首長を行政官に据え、従順なヌビア人の家の子どもをテーベの学校に送り込んだ。エジプトに支配されていたこの時期、ヌビア人の特権階級は、エジプトの文化的・宗教的な慣行を採り入れ、エジプトの神々、とりわけアメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、エジプトの埋葬方式を採用して、後にはピラミッドを建設するようになった。まるで、19世紀に欧州で巻き起こったエジプト文明礼賛ブームを、数千年前に先取りしていたかのようだ。19世紀末から20世紀初めのエジプト学者は、ヌビアが弱小勢力だったために、エジプト文明を採り入れたと解釈した。しかし、この見方はまちがっている。ヌビア人は時代の趨勢を読むのに長けた人々だった。BC8世紀頃になると、エジプトは小国に分裂し、北部はリビア人の首長たちが支配した。彼らは、正統な王位継承者であることを示そうと、ファラオの伝統を形式的にまねたが、権力基盤が固まってしまえば、その必要はなくなり、アメン神崇拝の神権政治の色合いは薄れた。カルナック神殿の神官たちは、神を畏れぬ統治を嘆き、天罰が下るのを恐れた。そして、強大で神聖なかつてのエジプト王国の再興を願い、新たな指導者を求めて、南に目を向けた。そこにはエジプトに足を踏み入れずに、エジプトの宗教的な伝統を守ってきた人々がいた。考古学者ティモシー・ケンドールの言葉を借りれば、この時点でヌビア人は「エジプト人よりもエジプト人らしかった」のである。


<アッシリアとの戦い>

 ヌビア人の王の支配下で、エジプトはエジプトらしさを取り戻した。BC716年にピイがこの世を去ると、弟シャバカがエジプトの都メンフィスに居城を移し、第25王朝の支配基盤を固めた。ピイと同様、シャバカも古いファラオの伝統を忠実に守り、エジプト第6王朝のペピ2世の名を継承した。シャバカは捕らえた敵を殺さずに、労働に駆り出し、ナイル川の氾濫からエジプトの村々を守る堤防を築いた。シャバカはテーベに次々に新しい建造物を建て、カルナック神殿にはピンク色の花崗岩で自身の彫像を造らせた。この彫像のかぶっている王冠には、二つの国の君主であることを表す、2匹のコブラをかたどった聖蛇「ウラエウス」がついている。シャバカは、軍事力だけでなく、建築物や彫像によっても、ヌビア人の王がエジプトにとどまり続けることをエジプト全土の人々に知らしめたのである。この頃、東方ではアッシリアが急速に覇権を拡大していた。BC701年、アッシリアが現在のイスラエルにあたるユダ王国に侵攻するに及んで、ヌビアの軍勢が出陣した。両軍はエルテケで会戦。アッシリアのセンナケリブ王は、「我が軍が敵を木っ端みじんに打ち砕いた」と勇ましく豪語した。だが、当時おそらく20歳前後だったヌビアの若き王子は、この負け戦の中でもどうにか戦死をまぬがれた。アッシリア軍はエルテケを出発して、エルサレムを包囲。エルサレムのヒゼキア王は、同盟国であるエジプトが助けにきてくれると期待した。このとき、アッシリアの王がそれをあざ笑って述べた言葉が、旧約聖書の「列王記下」に記されて、今に伝えられている。

「今お前はエジプトというあの折れかけのあしの杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ。エジプトの王ファラオは自分を頼みとするすべての者にとってそのようになる」

 旧約聖書などの記録によると、その後に奇跡が起きた。アッシリア軍が撤退しはじめたのだ。理由は定かではない。兵士たちが疫病に見舞われたのか、それとも、ヌビアの若き王子がエルサレムに向けて進軍しているとの知らせに恐れをなしたのか。いずれにせよ記録にあるのは、センナケリブが包囲を解いて、逃げるようにアッシリアへと引き返したことだけだ。

 一方、センナケリブの角柱碑文によると、センナケリブはエルサレムを包囲し、住民が一人も抜け出せないようにした。その間にユダ王国の他の都市を攻撃し陥落させた。結局、ユダの王ヒゼキアは金30タレント、銀800タレント、宝玉、アンチモニー、宝石、紅玉、象牙製の寝椅子や椅子、象皮、象牙、黒檀、ツゲ材、その他の宝物、彼の娘や妻たち、男女の楽師を貢ぎ物として差し出した、センナケリブはそれらをすべてニネヴェに持ち帰ったと記されている。

 その事の真偽はともかく、その18年後に、センナケリブは自分の息子たちに殺されたとされている。こうした大きな出来事の中で、中東の文明世界の片隅にいた肌の黒い人物のことは、これまで見過ごされがちだった。その人物とは、ヌビアの若き王子、ピイの息子タハルカである。


<野心家タハルカの治世>

 タハルカはBC690年、31歳のときにメンフィスで戴冠し、26年間エジプトとヌビアを支配した。父のピイはエジプトに伝統的な慣行をよみがえらせ、叔父のシャバカはメンフィスとテーベでヌビアの覇権を確立した。だが、この二人の野望も、タハルカの壮大な野望に比べたら、色あせて見える。彼の勢力はエジプト全土に及び、敵たちも、その足跡を完全にはかき消せなかった。タハルカの治世に、ナパタからテーベまでナイル川を下って旅した人々は、川岸に次々に現れる荘重な建造物に目を奪われたことだろう。タハルカはエジプト全土に、自分の姿や名を刻んだ彫像や石碑を造らせた。それらの多くは今、世界中の博物館にある。だが、彫像のほとんどは、敵に顔を削りとられている。死後によみがえる力を奪うために、鼻をへし折られた彫像も多い。二つの国の君主の証しを消すため、ひたいにつけた聖蛇「ウラエウス」も壊された。王位に就いて6年目、豪雨でナイル川の水かさが増し、低地が水浸しになったことがあった。だが、村々が流されることはなく、作物は大豊作に恵まれた。後にタハルカが4つの石碑に刻ませた記録によると、洪水のおかげでネズミやヘビまで姿を消したという。どうやらアメン神は、みずからが選んだ王タハルカに特別の寵愛を与えたようだった。タハルカは手にした富を眠らせておく気などはなかった。惜しげもなく資金をつぎ込んで、エジプトが版図を拡大した新王国時代(BC1550年~BC1069年)以来、最も野心的な建築計画を押し進めた。タハルカの関心は当然ながら、二つの聖なる都テーベとナパタに向けられた。今日、テーベ近郊のカルナック神殿を訪れると、荘厳な遺跡群の間に、高さ19メートルの柱が1本だけそびえている。アメン神をまつったこの神殿にタハルカが増築させた巨大な柱廊の10本の柱のうち、復元された1本だ。タハルカは、既存の建造物にいっさい手をつけずに、テーベの都を自分のものにしてみせたのだ。何百キロも上流のヌビアの都市ナパタにも、同様に足跡を残した。ここには、聖なる岩山ジェベル・バルカルがある。突き出した岩が男性器を連想させ、古来から豊穣のシンボルとされていた。新王国時代のファラオたちも、この岩山に心奪われ、アメン神の誕生の地と信じた。ファラオとなったタハルカは自分の王位を示すため、岩山の下に二つの神殿を建てた。さらに、岩の頂の一部を金箔でおおい、自分の名を刻ませた。帝国建設の壮大な事業が進むなか、治世15年目を迎える頃には、タハルカはみずからの権勢に酔いはじめたのかもしれない。

「彼は非常に強力な軍隊をもち、当時の世界で最も強大な権力をもつ指導者の一人となっていました」と、ボネは話す。「自分が世界に君臨する王だと考えたのかもしれません。少々慢心して、権勢におぼれるようになったのでしょう」。

 建築熱にとりつかれたタハルカに、ビャクシン(ひのき)やレバノン杉といった木材を提供していたのは、レバノン沿岸部の交易人だ。アッシリアの王エサルハドンが、この主要な交易路を押さえようとしたため、タハルカはアッシリアに抵抗する勢力を支援すべく、地中海東岸レヴァント地方の南部に軍隊を派遣した。エサルハドンは抵抗勢力を鎮圧し、報復としてBC674年にエジプトに侵攻したが、タハルカの軍隊に撃退された。この勝利でタハルカはさらに慢心しただろう。アッシリアに抵抗していた地中海沿岸の国々も強気になり、エサルハドン打倒を誓ってタハルカと同盟を結んだ。BC671年、アッシリア軍は抵抗を鎮圧するため、ラクダの群れを率いてシナイ砂漠に侵入し、あっという間に勝利を収めた。この勢いに乗じて、エサルハドンは一気にタハルカを倒そうと、ナイル川デルタ地帯に軍隊を差し向けた。タハルカの軍勢はアッシリア軍に抗戦し、15日間の熾烈な戦闘を繰り広げた。「血で血を洗う」戦いになったと、アッシリアの記録にも記されている。だが、ヌビアの軍勢はメンフィスまでじりじりと撤退を余儀なくされた。5回も負傷しながら生き延びたタハルカは、メンフィスを放棄して敗走。エサルハドンは、残酷なアッシリアの流儀で、通過する村々の住民を皆殺しにし、「村民の首塚を残して去った」という。タハルカの屈辱的な敗北を後世に伝えるため、エサルハドンは、首に縄をくくりつけられたタハルカの息子ウシャンクウルがひざまずいて命乞いをする様子を描いた石碑を造らせた。だが、結局長生きしたのはタハルカのほうだった。エサルハドンはBC669年、エジプトに向かう途中で死亡。その知らせを受けて、ヌビア勢はメンフィスを奪還した。しかし、アッシリアは新王の下で、再びメンフィスに攻撃をしかけてきた。このとき、アッシリア軍は捕虜にした抵抗軍の兵士を自軍に組み入れ、戦力を増強していた。タハルカはまったく歯が立たず、南のナパタに逃げ延び、二度とエジプトに戻ることはなかった。メンフィスから2回も敗走しても、ヌビアに戻れば王の座は安泰だったという事実から、ヌビアでのタハルカの権力基盤がいかに強固だったかがうかがえる。タハルカが晩年をどう過ごしたかはわからない。ただ一つ明らかなのは、その生涯の最後に、伝統の復活という使命を果たす選択をしたことだ。タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル・クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する。古代エジプトの元日にあたる日の夜明けに、ジェベル・バルカルの山頂から見ると、タハルカのピラミッドは昇る太陽と一直線に結ばれる位置にあるからだ。だが、本当のところはわからない。多くの謎を残したまま、黒いファラオのかすかな足跡は今、ダム建設で失われようとしている。

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