第80話 エジプト(第3中間期)古代エジプト王朝の黄昏

<年表>

第3中間期(第21王朝~第25王朝)

第21王朝(BC1069年~BC945年):王たちと司祭たちと

 エジプト第20王朝最後の王ラメセス11世が没すると、スメンデス(在位:BC1069年~BC1043年)という人物が王位に就き、都をデルタ地帯東部のタニスに定めた。この時代、エジプトは2つに分裂していた。下エジプトはデルタ地帯東部のタニスの王の権威の下に置かれ、上エジプトはピアンク将軍が支配していた。その後、テーベを都とする上エジプトはアメン大司祭らによって統治されたことから神権国家とも呼ばれている。これらの大司祭たちの権限は、エジプト中部のファイユーム地域の南に位置するエル・ヒバの北から、南の境界となるヌビア領内に少し入った辺りにまで及んだ。上下エジプト抗争の記録は見当たらず、婚姻関係さえ結んでいたらしい。しかし、名目上のエジプト王は下エジプトのタニスにいた王たちであった。タニスとテーベで、一方は王として、他方は大司祭として統治した。


第22王朝(BC945年~BC715年):リビア系シェションク王家の盛衰

 下エジプトのデルタ地帯東部のブバスティスにいた人物がシェションク1世となった。ここから始まるのが第22王朝で、その出自からリビア系王朝と呼ばれる。この新王朝は王による上エジプトのテーベ支配を回復した。初代のシェションク1世(在位:BC945年~BC924年)は少なくともパレスティナへの軍事遠征を二度行っている。その一つは旧約聖書の「列王記」に記されており、もう一つはカルナックのレリーフに描かれている。第22王朝は第3代タケロト1世とその後継者オソルコン2世の時代に内紛が続いて国家分裂の兆しが見え始め、第6代シェションク3世(在位:BC825年~BC773年)が約50年統治した後、内紛により王の権威は衰え、最終的に国は分裂して、下エジプト東部のタニス、西部のサイス、上エジプト北部のヘラクレオポリス、上エジプト南部のテーベなどの諸都市から成る小国家群に分かれた。


第23王朝(BC818年~BC715年):小国家の分立

 小国家分立状態の南部のテーベの王朝が第23王朝である。2代目のオソルコン3世(在位:BC777年~BC749年)は自らを王と宣言し、息子のタケトロをアメン大司祭に据え、娘のシェペンウェペトを「アメンの神妻」に任命した。その上、若きタケトロが中エジプトのヘラクレオポリスの知事として叔父の後を継ぎ、オソルコン3世は上エジプト全土に揺るぎない権威を確立した。


第24王朝(BC727年~BC715年):西の君主たち

 第23王朝の小国家分立の中からデルタ西部のサイスがテフナクトの下、国土統一に向けて最も強力に邁進した。このテフナクトもリビア系と思われる。テフナクトは少なくとも西デルタ地域を制圧し、第24王朝を樹立した。そして下エジプトの中心都市メンフィスも王朝の支配下にあったようだ。


第25王朝(BC747年~BC656年):ヌビア人のクシュ王国によるエジプト征服

 新王国時代末期、エジプト軍がヌビアから引き揚げた空白を埋めるかのようにクシュ王国が力を増していた。クシュ王国は最盛期にはアスワン以南にあたる下ヌビアから現在のスーダン中部まで勢力を拡大した。クシュ王国の首都はナイル川の第4急湍きゅうたんの少し下流に位置するナパタで、その背後にそびえる聖山ジェベル・バルカルにはアメン神が住むと信じられていた。クシュ王として完全な称号を持った最初の王はカシュタで、彼はBC760年ごろ勢力を北の下ヌビアにまで伸ばした。次のクシュ王ピイは、ナイル川を下り、上エジプトのテーベまでクシュ王国の影響下に置いた。こうして上エジプトに勢力を拡げたクシュ王国にとって、下エジプトのデルタ地帯で進撃を続けるテフナクトは大きな脅威となった。カシュタを継いだ第25王朝の創始者ピイは、テフナクトの南下に対抗して度々戦争を行い、BC728年、ついに全エジプトを支配した。ピイは勝利を収めるとクシュに戻ったが、彼の弟で後継者となったシャバカは、BC715年に全エジプト支配を確立した。これにより並立していた第22王朝と第23王朝、そして第24王朝もすべて滅びた。


 ***


 エジプトが没落していったのは、おそらく環境への変化に適応する能力がなかったからと思われる。混乱の時代の初めには、鉄器を使う「海の民の」攻撃を打ち負かすことができた。しかしそれはエジプトが新王国時代(BC1550年~BC1069年)に成し遂げた最後の偉業にすぎなかった。それ以降、国内で王と神官たちが権力争いを続ける間に、国境外でのエジプトの支配力は見る影もなく衰えていった。

 BC1069年ごろに第20王朝が滅亡すると、その時点で新王国時代も終わりを告げた。つまりエジプト史の中の「黄金時代」が終わりを告げたのである。政治的にはその後も衰弱しながらほぼ400年間続いたので、この時代のことを第3中間期と呼ぶが、いささかその呼称を裏切るような長さではある。この時代の大半は異国の支配下にあった。西方からはリビア人、南方からはヌビア人、北東からはアッシリア人が侵攻してきた。この次の時代には、デルタ地帯西部のサイスを拠点にした第26王朝(BC664年~BC525年)のような土着の王朝も出たが、新しい発展の時代は終わった。昔通りのエジプト文化は続いたが、それは後世へ伝承する遺産でしかなかった。

 新王国が崩壊したときからエジプトがローマに吸収されるまでの1000年間は古代エジプト史の3分の1の期間を占めており、極めて数多くの芸術・文化の発展が見られるが、エジプトが文化的に衰退しているという誤った印象がある。第3中間期と末期王朝時代(BC664年~BC343年)、第2次ペルシャ支配(BC343年~BC332年)、そしてマケドニア朝とプトレマイオス朝時代(BC332年~BC30年)は、ある程度までは古代エジプトの黄昏たそがれの時期として特徴づけることができるだろうが、それでもなお興味深い人物に満ちている。第3中間期は激動の時代であり、いくつかの王朝が覇権をめぐって争い、各地の首長や諸侯たちは絶えず寝返りを繰り返していた。


<第21王朝(BC1069年~BC945年)>

 第21王朝全体を見たとき、エジプトは実質上二つに分裂していた。下エジプトはデルタ地帯東部のタニスの王の権威の下に置かれ、上エジプトはテーベのアメン大司祭ピヌジェムらによって支配された。見た目にはエジプトの分割はうまくいったように見える。タニスの王スメンデスの出自は明らかではないが、第20王朝最後の王ラメセス11世の娘と結婚し、王位を正当化したようだ。第21王朝初代の王スメンデスの治績で有名なのは、第20王朝の首都ペル・ラメセスの多くの記念建造物を解体し、新都タニスの神殿や王宮に再利用したことである。今でもタニスにはラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)時代の神殿の壁やオベリスクが遺跡の各所に横たわっている。スメンデスの跡を継いだのはプスセンネス1世(在位:BC1039年~BC991年)で、テーベのアメン大司祭もピヌジェムの息子たちに引き継がれ、およそ50年にわたり、一方は王として、他方は大司祭として統治し、エジプトに何らかの繁栄の時代をもたらしたと思われる。プスセンネス1世は、タニスの未盗掘の王墓から発見された黄金のマスク、銀の棺など豪華な副葬品で知られている。但し、明らかに王権は衰退しており、実際にプスセンネス1世の石棺の一つは、テーベの王家の谷のメルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)王墓に納められた王の石棺を運び出し、再利用したものである。この頃、もはや王家の谷に王墓を造営することは無くなり、墓泥棒に対して警護の行き届いた大神殿の神域の中に王墓が造営されるようになった。

 その後、第21王朝に何が起きたのかは不明であるが、二人の王が即位した。その2番目の後継者はリビア系の大オソルコン(在位年は不明)と呼ばれ、次の第22王朝の創始者シェションク1世の叔父にあたることから第21王朝の家系にはリビア系の血も流れていたと思われる。第19王朝のBC13世紀を過ぎたころから数度にわたってエジプトに侵入を試みたリビア人は、やがてエジプトに傭兵として定住し、数世代にわたって勢力を伸ばし、その軍事力を背景に大きな脅威となった。こうしたリビア人の末裔は、第3中間期にはデルタ地帯や上エジプト北方のデルタ地帯に近いヘラクレオポリス周辺で一大勢力となり、その中の一つでメシュウェシュと呼ばれ部族の首長大オソルコンが王として即位した。

 次のサアメン(在位:BC978年~BC959年)の出自は不明だが、旧約聖書の「列王記」にエジプト王がパレスティナのゲゼルを攻略し、イスラエル王国のソロモン王の王妃となっていた自分の娘にゲゼルの町を贈ったという記述があり、このエジプト王とサアメンが同一人物であると考えられている。第21王朝最後の王はテーベのアメン大司祭だったプスセンネス2世(在位:BC959年~BC945年)である。これは南のテーベの支配者が北のタニスの王として南北を掌握しようとしたことを示している。しかしその後、リビア系の大オソルコンの甥にあたる将軍シェションクが第22王朝を樹立することになる。


<第22王朝(BC945年~BC715年)>

 下エジプトのデルタ地帯東部タニスのすぐ南に位置するブバスティスにいたリビア系の人物がシェションク1世(在位:BC945年~BC924年)となり、第22王朝を創始した。彼は第20王朝時代にエジプトが失ったパレスティナへ軍事遠征を行った。旧約聖書の「歴代誌」と「列王記」には、エジプト王シシャク(シェションク1世)がユダ王国に侵攻し、エルサレムの神殿とソロモン王の王宮の財宝を略奪したと記されている。シェションク1世の主要課題は中央集権体制の確立にあった。それは上エジプトのテーベにおける大司祭職の世襲を終わらせ、下エジプトの王の息子が大祭司になる制度に変えることである。最初に大司祭職に就いたのはシェションク1世の息子の一人イウプトだった。王によるテーベへの介入は、カルナックにおける新しい中庭の造営など大規模な建築活動によりはっきりと示された。シェションク1世の死により、王位は息子のオソルコン1世(在位:BC924年~BC889年)が継承した。王妃は第21王朝最後の王プスセンネス2世の娘である。オソルコン1世の即位後まもなく、イウプトが死に、大司祭職はオソルコン1世の長男が受け継いだ。このように下エジプトの王とその息子が上エジプトの大司祭職に就くことによりエジプトの中央集権化を図ったのである。

 ところが、オソルコン2世(在位:BC874年~BC850年)の治世中、国家分裂の兆しが見え始めた。同じ家系の中で王と大司祭職の取り合いが始まったのだ。上エジプトのテーベの大祭司がテーベ王としてタケトロ2世(BC850年~BC825年)を称し、二人の正式の王が並行して統治することになった。この出来事はエジプト分裂のニュースとして国外に伝えられ、旧約聖書の「列王記」が「エジプトの王たち」と複数形で言及している。下エジプトのタニスではシェションク3世(在位:BC825年~BC773年)がオソルコン2世の跡を継いだが、シェションク3世の権威はデルタ地帯に生まれた幾多の「侯国」や「首長国」からは認められたが、テーベは今や別国家になっていた。シェションク3世がおよそ40年統治した後は、さらに王の権威が失われ、名前だけの「デルタ緒侯国」の中のトップにすぎなかった。


<第23王朝(BC818年~BC715年)>

 第23王朝は第22王朝の途中から並立したテーベの王朝である。第22王朝のタケトロ2世の後継者として認められたパディバステト1世(在位:BC818年~BC793年)が創始者となる。しかしその他にも、タニス、ヘルモポリス、ヘラクレオポリスなどの首長が自治を主張した。2代目のオソルコン3世(在位:BC777年~BC749年)は、子供たちを大司祭や「アメンの神妻」に据えて王権の強化を図った。しかしながら、王朝後期になると、体制の力はヌビア人の第25王朝(BC747年~BC656年)によって大きく崩される。ヌビアのクシュにある第25王朝の創始者ピイはテーベの支配権を奪い、自分の姉妹を「アメンの神妻」の後継者とした。テーベの支配権を事実上奪われた第23王朝の最後の王ペフチャウアウィバストは、最初はヌビア人の封臣として上エジプト北部のヘラクレオポリスからエジプト中部を支配していたが、やがてその子供たちは、他のテーベ系の親族に吸収されていった。


<第24王朝(BC727年~BC715年)>

 第22王朝の上エジプト支配が次第に弱体化しつつあった時期に台頭してきた勢力の一つに、デルタ地帯の西にあるサイスに拠点を置く「西の侯国」があった。テフナクトという人物がその支配者になった。12年ほどと短いながらも、これが第24王朝と呼ばれ、第22王朝と第23王朝と並立していた。彼は支配の手を南のナイル河谷に向けての伸ばし、ヘラクレオポリスにいる第23王朝最後の王ペフチャウアウィバストを威圧した。その後、テフナクトはクシュ王ピイの侵攻の前に撤退を余儀なくされ、その途中で息子の一人を失い、さらにもう一人の息子も捕えられてしまった。下エジプトの中心都市メンフィスもヌビア人の手に落ちると、テフナクトをはじめエジプトのさまざまな地方の君主たちはピイに恭順の意を表明した。しかし、ピイがクシュへ戻るとデルタ地帯の西を再び制圧したが、彼の死後まもなく、クシュ王ピイの後継者シャバカにより征服された。


<第25王朝(BC747年~BC656年)>

 ヌビアは、現在のエジプト最南端のアスワンからその南の現在のスーダンまで深く入り込んで古代のクシュを形成していた。そのヌビア地方を如何に統治するかは、エジプトにとって初期王国時代からの重要な外交課題であった。ラメセス朝時代の第20王朝末、ヌビア総督に関わる諸問題は多年にわたる戦争へと発展した。テーベの大司祭たちは第21王朝を通じて副王の地位に対する権利を主張したが。実際に彼らが権力を南のどのあたりまで伸ばせたかは不明であり、どうやら北ヌビアの一部および南ヌビアの全土は、前副王政権に関係する支配者たちの統治下にあったらしい。これらの支配者たちの一部は、地方のファラオを称したらしく、彼らの称号やレリーフ様式は、終焉して間もないラメセス朝時代の王たちのそれを思わせる。彼らは第21王朝から第22王朝初期にかけて繁栄を享受し、エル・クッルに一連の貴族の塚や台形状のマスタバ墳墓を始めた。エル・クッルはヌビア南部奥深く、新王国時代以来クシュのナパタと聖山ジェベル・バルカルに近い場所に位置する。一帯はアメン神の聖地であり、クシュ王国の主要な象徴でもあった。ここからアララと呼ばれる支配者が登場する。アララについては何も分かっていないが、王ではなく、首長であったようだ。彼の後継者はカシュタで、彼はこの時代にクシュ王として完全な称号を持った最初の王としての称号を有し、勢力を北の下ヌビアにまで伸ばした。

 カシュタの娘婿で次のクシュ王となったピイ(在位:BC747年~BC716年)は、エジプト再統一を自らの神聖な義務と見なしていたように思われる。アメン神に対する彼の帰依は、土着のいかなるエジプト人にも引けを取らないほど強いものだったからである。ピイは、ナイル川を下り、上エジプトのテーベまでクシュ王国の影響下に置いた。ピイは自分の姉妹を「アメンの神妻」に任命し、自らテーベの王位に登った。下エジプトのサイスの諸侯たちの南下に対抗して、ピイは北に向けて侵攻した。その結果、エジプトの諸侯たちは彼に服従し、ピイを公式のエジプトのファラオとして受け入れた。対抗する諸王朝を打ち破って自らの主権を全土に行使したピイは、その後、エジプトの運営を彼の新しい封臣たちに任せると、すぐさま自分は母国のヌビアへ帰り、エジプトには再び戻ることはなかった。新しく任命した封臣たちにそれぞれの領域を法の下に統治することを許し、秩序と安定を回復したことは彼の永続的な業績である。

 しかし、彼の後継者シャバカ(在位:BC716年~BC702年)は、ピイがエジプトの封臣たちに任せた統治権の縮小を図った。彼は、エジプト・クシュ統一王国の完全な統治者として下エジプトの中心都市メンフィスに居住し、王冠の飾りに、二つの国の君主であることを表す、2匹のコブラをかたどった聖蛇「ウラエウス」を採用して統一王国の象徴とした。次の王シャバタカ(在位:BC702年~BC690年)は、東方のアッシリアの影響が増大しつつあったシリア・パレスティナの政策に深く関わった。エジプト・ヌビア軍はパレスティナに兵を進め、地元の王たちとともにアッシリアと戦ったが、兵力に勝るアッシリア軍の前に敗退した。シャバタカの後継者タハルカ(在位:BC690年~BC664年)はもっぱら内政に力を注ぎ、エジプトとヌビアの両方で大規模な建築活動を行った。しかしながら、クシュの王たちにとっての大敵が迫って来る。アッシリア王エサルハドンである。アッシリア軍の最初の攻撃はうまくかわしたが、相手はさらに攻撃を仕掛けてメンフィスに到達すると、それまでピイやシャバカに忠誠を誓っていたデルタ地帯の封臣たちをすべてアッシリアの封臣に任命した。タハルカはエサルハドンの時期尚早の死に助けられて反撃に出たが、エサルハドンの後継者アッシュールバニパルはエジプトの統治を片時も忘れておらず、新たな攻勢を仕掛けて、タハルカをクシュのナパタへ追いやった。



(第3中間期におけるエジプトと近隣諸国)


<エジプトと西アジア>

 エジプトが撤退した後のパレスティナでは、ペリシテ人都市国家やイスラエル王国が勃興した。エジプトは細々ながら通商関係を維持していたが、再び積極的に関わるようになるのは、第21王朝から第25王朝までの第3中間期(BC1069年~BC656年)となる第21王朝末期になってからだ。第22王朝の始祖でリビア系のシェションク1世(在位:BC945年~BC924年)はパレスティナに大々的な攻勢をかけた。これは単なる略奪行為ではなく、エジプトの恒久的覇権を回復するための挑戦だったが、第3代タケロト王の時代以降内紛が続き、さらに第23王朝と第24王朝とエジプトは小国に分裂していたため、レヴァント地方での影響力は弱まっていた。その後、エジプトはヌビア人の王による第25王朝の下で再統一を果たすと、西アジアの新興国新アッシリアの勢いを食い止めるため必死の努力を続けた。両国の戦いはタハルカの時代のBC671年に最大の山場を迎える。アッシリアの王エサルハドンがエジプトに侵入しメンフィスを落とし、デルタ地帯の小支配者たちを何人も支配下に収めたのである。その後、一進一退はあったもののヌビア勢力はエジプトを追われ、プサムテク1世(在位:BC664年~BC610年)がアッシリアによって全エジプトの支配者に任命され、第26王朝(BC664年~BC525年)サイス朝の初代ファラオとなった。


<エジプトと西隣のリビア>

 デルタ地帯東部の都市ブバスティスでは、リビア系のメシュウェシュ族の一門から出た将軍が、第22王朝初代の王シェションク1世(在位:BC945年~BC924年)になり、エジプト史の第3中間期後半にあたる時期に、いわゆるリビア朝時代を開いた。このリビア王朝は、全エジプトの中央集権体制を維持できなくなると、権力を地方の有力者に分け与え、南部はテーベの支配者に、北部デルタ地帯の東部と中央部は他のメシュウェシュ族の有力者に任せた。一方、デルタ西部の都市サイスでは、対抗者としてリブ族出身の一門が頭角を現わしていた。サイスのリブ族は、テフナクトとバクエンレンエフの時代に、下エジプトと中エジプトの大半を支配下に収め、そのためこの2人は、マネトの「エジプト誌」では第24王朝(BC727年~BC715年)に分類されている。この2王はエジプトの再統一を目指したが、ピイなど歴代のヌビアのクシュ王の抵抗に遭って頓挫した。クシュ王国の首都はナイル川の第4急湍きゅうたんの少し下流に位置するナパタである。その後、やはりリブ族の一門が、サイスから出て第26王朝(BC664年~BC525年)を形成する。

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