第79話 新バビロニアとバビロン

<年表>

新バビロニア時代(BC612年~BC539年)

 新アッシリアの滅亡後の西アジアは、イラン高原のメディア、バビロニア、エジプトとアナトリアの新興国リュディアの4つの国に分割された。新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)は、度重なる遠征の結果、エジプトを退けてバビロニアのシリア・パレスティナ支配を決定づけ、バビロニアはかつての新アッシリアの支配領域をほぼ継承した。しかし、ネブカドネザル2世の治世が終わると、政情不安となり、新バビロニアは100年足らずで没落した。最後の王はナボニドゥス(BC556年~BC539年)である。その代わりにメソポタミアの支配者となったのは、BC6世紀中葉にイラン高原においてメディアを破り、急速に台頭したアケメネス朝ペルシャのキュロス2世(在位:BC559年~BC530年)であった。


 ***


 鉄器時代初頭のBC12世紀はエジプトでもメソポタミアでも比較的安穏な時代だった。しかし、程なくエジプトは長い第3中間期(BC1069年~BC656年)に落ち込み、その間にシリアやパレスティナではアラム人やヘブライ人が独立した諸王国を創って、アッシリアの侵入を食い止めようとした。絶頂期にあった新アッシリアは新バビロニアとメディアとの連合軍に敗北し、やがてメディアはアナトリア東部からイラン高原、さらにはアフガニスタン方面まで統合したが、それは後のアケメネス朝ペルシャによるより長期にわたる西アジア世界統合の先駆けとなった。


 古代からアッシリア人とバビロニア人の王朝は長らく残虐と退廃の象徴だった。歴代の王たち、特にバビロン捕囚を行ったことが旧約聖書にも記録されているネブカドネザル2世は、被害者や敵の視点で下された評価が定着しており、豊かな文学世界と都市文化、洗練された官僚制度といった側面はほとんど見向きもされなかった。しかし、考古学的な調査と、何より19世紀に楔形文字が解読されたことで、我々は王自身の言葉を聞き、アッシリアとバビロニアが到達した文化を等身大で評価できるようになった。

 BC722年、新アッシリアのシャルマネセル5世(在位:BC726年~BC722年)とそれを引き継いだサルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)はサマリアを陥落させ、南北に分裂していたヘブライ人の国の一つである北のイスラエル王家を滅ぼした。BC587年、新バビロニアのネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)もエルサレムを征服して南のユダの王家を断絶させた。この2人の王にとっては、さして珍しくも重要でもない出来事だったが、後年この地域の歴史観に決定的な痕跡を残すことになる。なぜなら、これらの出来事は、世界有数の文学作品とも言えるヘブライ語聖書の中で、敗者の視点から記述されたからだ。新アッシリアと新バビロニアによる征服は何世紀にもわたって読み継がれ、聖書以外の情報を知ることができなかった人びとは、侵略者を忌むべき存在として嫌悪した。さらにBC5世紀以降には、ギリシャの作家たちがアッシリアとバビロニアの王と王妃について、歪曲された逸話や、ほとんど想像による物語を書いている。

 そうした状況が大きく変わったのは、19世紀半ばに入り、考古学者が古代遺跡の調査に乗り出してからである。当時オスマントルコの領土だったメソポタミア地域で、アッシリアの都アッシュール、カルフ(現在のニムルド)、ニネヴェと、バビロニアの都バビロンの遺跡が発見された。堂々たる建物群と数え切れないほどの美術品や、楔形文字を石板に刻んだり、粘土板に型押ししたりした文書も多数見つかった。まもなく、楔形文字が解読されたことで、アッシリア人やバビロニア人自身が記した無数の文書を直接読めるようになり、さらに古代の都市や建物といった遺跡、それに遺物は古代国家を研究する上で重要な情報源となった。こうして豊富な史料が入手できるようになって150年経ったが、いまだにアッシリアとバビロニアについては、他の古代国家にはない否定的な印象が付いてまわる。BC10世紀後葉からBC539年までのおよそ400年間、新アッシリアと新バビロニアが西アジアの歴史の黎明期に重要な役割を果たしてきたことは明白である。

 新アッシリアも新バビロニアも、軍事行動を通じて広大な地域を支配下に置き、税を課すという行動で語られることが多く、力の行使に容赦はなかった。特にアッシリアは征服した国や町の惨状を文章や画像で伝えることに熱心だった。支配と懲罰のためにアッシリアとバビロニアが用いたある手法は、征服された土地とその住民の様相をがらりと変えてしまうものだった。それが大量の人びとを支配領域の端から端へと移動させる強制移住である。それには利点があった。征服地の反乱抑制と、本国での労働力調達である。新アッシリアの300年余りの歴史の中で強制移住の憂き目にあったのは450万人ともいわれる。この時代にしては驚くべき数である。バビロニアが行った強制移住の数は記録が少なく不明である。こうしてBC900年ごろからBC539年までの間に、それまで多様だった西アジア地域はアッシリアとバビロニアによって均質化されていった。住民は混ざり合い、いくつもの属州は似たような行政機構で運営された。強制移住という手段は、その国の中心地域のみならず、併合した周辺地域にも多大な影響を及ぼしたのである。

 王国拡大の最大の目的は資源確保だった。アッシリアもバビロニアも豊かな農業国だったが、自国では貴重な、あるいは手に入らない製品や素材を占領地から調達していた。例えば、アナトリア南部は鉱石資源、レバノン山地は木材、ザグロス山地は馬の産地だった。さらに、その土地の人びとが大切に守ってきた財宝も魅力的だった。アッシリアでは占領した国の宮殿から奪った品々の詳細が記録されている。金・銀、宝石、織物、家具、彫像、器、武器などである。負けた国の中にはエジプトのように桁外れに裕福な国もあった。エジプトの都テーベで略奪を行ったアッシュールバニパルは得意げに語った。


「アッシュール神とイシュタル神のご加護によって、余はこの町のすべてを両手に収めることができた。宮殿を満たすほどの銀、金、宝石、美しい色の亜麻の衣装、立派なウマ、男女の住民、そして純銀でできた2本の高い柱、その重さは2500タラント(7万5000キログラム)もあり、神殿の門に建っていたものを外してアッシリアに持ち帰った」


 歴代の王たちは必ず略奪品の一覧を作成した。侵略が富の流入をもたらし、さらに毎年の貢ぎ物や租税が資産増加につながっていたことは明らかだ。また住民の強制移住によって、国の中核人口をはるかに上回る労働力も確保できた。最盛期の首都の神殿や宮殿、庭園の壮麗さは容易に想像できる。郊外でも灌漑のために運河網が整備された。アッシリアではニネヴェなどの都市に山から水を引くために運河網が整備され、バビロニアではメソポタミア南部全域に運河網を張り巡らせた。これによって、バビロニアが滅びてからも農業は長く栄えることになった。また多くのアラム人の流入により、アラム語は新アッシリアと新バビロニアの公用語となった。アラム語は粘土板より朽ち易い羊皮紙に書かれることが多く、そのためアラム語の文字についてはほとんどが謎である。並んで作業する2人の書記を描いたアッシリアの浮き彫りでは、1人が粘土板にアッカド語を刻み、もう1人は羊皮紙におそらくアラム語を記していると思われる。バビロニア中心部で見つかったBC6世紀の文書は、ヘブライ風の名前を持つ大勢の人(ユダ王国からの追放者)と、アナトリア人、アラブ人、フェニキア人の村について言及している。しかし、大きく異なる人びとが混在していたにもかかわらず、アッシリアもバビロニアも多文化社会ではなかった。支配者たちは驚くほど伝統的だった。それはBC18世紀初頭~BC16世紀初頭のバビロン第1王朝(古バビロニア)時代のバビロニア文化で、どちらの国も占領した地域の伝統や文学には全く関心を払っていなかったが、日常的な読み書きのためにアラム語は採用した。その当時の首都バビロンはメソポタミア地域の政治的・文化的中心だった。

 新バビロニアの最後の王はナボニドゥス(在位:BC556年~BC539年)である。彼はメソポタミアの歴史の中でも特筆すべき変人だった。彼はネブカドネザル2世の子孫による短命の治世が3代続いた後に即位している。バビロニアの北部のアッシリアの中心地の近くの出身とされる。王になった後、バビロニアのマルドゥク信仰に従わなくなり、月神シンに深く傾斜し始める。そしてアラビア砂漠にあるオアシス都市テイマに都を遷した。「マルドゥク神はナボニドゥスに天罰を下すため、ペルシャのキュロス2世を呼び寄せてバビロンを陥落させるだろう」というマルドゥク神の怒りを予言する文章も書かれた。はたして、BC539年、キュロス2世は難なく新バビロニアを征服した。実際にはナボニドゥスに幻滅した伝統主義の人びとがキュロス2世をけしかけたのかも知れない。



(新バビロニア)


 ナボポラッサル(在位:BC626年~BC605年)が創立したバビロンを都とするカルディア人の血を引く王朝はその後90年近くにわたってメソポタミア全土の支配権を握る。これが新バビロニアである。BC612年、それまでほとんど無名の新興民族、イラン高原のメディア人がバビロニアのカルディア人ナボポラッサルに合流し、ニネヴェ、アッシュールなどアッシリアの都市を侵略し、そしてついにBC609年、アッシリアは滅亡した。BC605年には、新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)がユーフラテス河畔のカルケミシュでついにエジプト軍と対決した。戦闘はネブカドネザル2世の勝利に終わり、新バビロニアの軍隊はレヴァント地方に雪崩を打って侵入した。

 新アッシリア帝国の滅亡後の西アジアは、イラン高原のメディア、バビロニア、エジプトとアナトリア西部の新興国リュディアの4つの国に分割された。メディアは長らく北方のスキタイ人の侵略に悩まされていた。スキタイ人は馬上から矢を射る軽騎兵軍団でメディア人を手こずらせていたが、BC7世紀に和平が実現していた。新バビロニアはめざましい復興を遂げ、1000年以上前のハンムラビ王の時代を思い起こさせるような権力と栄光にあふれる時代を迎える。新バビロニアの2代目のネブカドネザル2世は、アッシリアの崩壊によって失われた西方の土地、シリア、フェニキア、パレスティナの富裕な交易都市を再びメソポタミアの支配下に収めた。BC587年に反乱を起したエルサレムを破壊して、ソロモン宮殿を焼き払い、ユダヤ人を捕虜としてバビロニアに連れ去ったのは彼である。またBC582年、バビロニアの総督が暗殺されたときも軍事介入を行った。ネブカドネザル2世はバビロンを美しい町として、当時の文化的中心というだけでなく、国際色豊かな都市にもしている。


[バビロン]

 バビロンはギリシャ語に由来する名称であり、古代メソポタミアのアッカド語では「バビル(神々の門の意)」と呼ばれ、これはヘブライ語聖書の「バベル」、現在のアラビア語の現地名「バビル」にあたる。古代都市バビロンはユーフラテス川の河岸に位置し、河川と運河が運ぶ水を利用する農業生産地域にあり、イランからメソポタミアを経てシリア、アナトリアへ至る交易路の要衝であった。バビロンは栄光の時代を二度経験している。ハンムラビ王の治世で始まったBC1792年からBC1594年までの約200年間と、BC609年からBC539年までの100年足らずの間だが、その間も常にメソポタミアの政治的、経済的、宗教文化的な中心であり続けた。二度の栄光の狭間の時代には、アッシリアをはじめとする近隣諸国が次々とバビロンを侵略した。ネブカドネザル2世がバビロンを再建し、宮中庭園やイシュタル門など、大規模な建築事業に物資を投じた新バビロニア時代は、その最大の繁栄期であったが、都市バビロンはその後もアケメネス朝ペルシャ時代からヘレニズム期を通してメソポタミア地域の中心都市として不動の地位を保った。

 ネブカドネザルは首都バビロンの威信を高めるため、都市の多くの建造物に壮麗な改築を施し、都市の規模は、周辺地区も合わせると10平方キロに迫り、その半分の都市の内域には10万人ほどの住民が住んでいたと考えられている。ユーフラテス川の両岸にまたがり、二重の内壁に囲まれた都市の中心部は10の街区に分かれており、川には長さ120メートルほどの焼成レンガ造りの橋が架けられていた。城壁には8つの門が設置され、王の門を除きメソポタミア伝統の神々の名が付けられていた。その一つのイシュタル門は往時のバビロンの繁栄を伝える建築物として、現在ベルリンのペルガモン博物館に復元されている。

 バビロンの中心部は長方形で、高さ3.7メートルと6.5メートルの二重の城壁に囲まれている。城壁の間隔は7メートル、建設者は「混沌とした世界の中の秩序の聖域としてバビロンをつくった」という銘文を残している。自分たちは秩序を保ち、住民に平穏をもたらす力であるというのが基本理念だった。バビロンの城門、宮殿、神殿では、赤・青・黄・クリーム色などの釉薬をかけられたレンガ装飾が明るい光を放っていた。市内には43もの主要な神殿があり、道路沿いには多数のほこらや祭壇が設けられ、神々のシンボルが置かれていた。バビロンはメソポタミア中の神々が集まる世界の中心としての機能を果たしていた。したがって、1年を通していくつもの祭礼が催された。行政の中心である王宮群はユーフラテス川東岸の町の北部に位置し、内壁の内側に南王宮があり、そのすぐ外側に主王宮であった北王宮が建てられていた。イシュタル門は北王宮の道路を挟んだ東側にあった。これら内壁と一体となった主要王宮群に加え、さらに内壁のはるか2キロ北に外壁に守られた北の離宮が築かれた。南王宮は、すでに父ナボポラッサル時代には再建されており、ネブカドネザルはこれを拡張した。5つの中庭を持つこの南王宮には、執務の中心である王座の間と接見の間があり、王の執務が行われ、王の一族や宮廷人が居住していたものと思われる。また、ネブカドネザル2世が建設したとされる人工の空中庭園は、古代の世界の七不思議の一つに数えられている。しかし、そうした庭園をネブカドネザルが建設した証拠は、同時代の文献史料には存在しない。メソポタミアの主要都市に庭園が設けられていたという記述は散見されるから、バビロンの宮殿に付属した豪華な庭園が設けられていたとしても不思議ではないが、新アッシリアの首都ニネヴェのテラス状庭園には、同時代の文書とレリーフに十分な証拠があり、それが誤ってバビロンの威容を伝える伝承と混同されたとする研究者もいる。

 この時代のバビロンは、富と権力においてメソポタミアの他の都市の追随を許さない存在だった。堂々たる神殿、空高くそびえ立つ塔、光沢レンガで飾られた壁など、その壮麗な建造物は、BC5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスをして、“壮大さにおいてバビロンの右に出る都市はない”と書かせたほど素晴らしいものだった。当時の繁栄はマルドゥク信仰によって余すところなく表現されている。ヘロドトスによると、マルドゥク神殿の神像は2トン以上もある黄金で作られていたと記されている。これは誇張と思われるが、豪華な像であったことは間違いない。長い間この廃墟は砂漠の下に埋もれたままだったが、1899年から10年以上かけて、ロベルト・コルデヴェイという名のドイツの考古学者が、現在のバクダードの南80キロ、ユーフラテス川沿いにある一群の丘を発掘し発見した。


[バビロンのエサギル神殿とジッグラート]

 バビロンの主神マルドゥクの大神殿エサギルは、BC18世紀のバビロン第一王朝のころからバビロンの中心聖域であった。当時バビロンはメソポタミアの主要勢力として台頭し、バビロンの最高神マルドゥクは文化を異にするいくつもの民の間でも広く崇拝されていった。歴代のアッシリアの王たちはマルドゥクに対する信仰と忠誠を表明した。新アッシリアの王エサルハドンが自分とマルドゥク神の親密な関係をことさら強調した背景には彼の巧みな政治的計算があったと思われる。バビロンのエサギル神殿は正方形で、内庭と外庭があり、神殿内にはマルドゥクとその配偶女神ズルパニトゥムの像を安置した至聖所があった。神殿の北にはエテメンアンキと呼ばれる7層から成る大きなジッグラートがそびえ立っていた。。その高さは90メートルにおよび、「バベルの塔」の伝説の元になったと思われる。


 しかし、ネブカドネザル2世の43年にわたる治世が終わると、彼の死後、王位は息子のアメル・マルドゥク(在位:BC561年~BC560年)に継承されたものの、宮廷内に反乱が起こり、6年間に4度も王が交代する政情不安となり、ネブカドネザル直系の王統は継続しなかった。そして、異端的な月神崇拝の導入によってバビロンの伝統勢力からの支持を失ったナボニドゥス(BC556年~BC539年)の治世を最後に新バビロニアは100年足らずで没落した。その代わりにメソポタミアの支配者となったのは、BC6世紀半ばにイラン高原においてメディアを破り、急速に台頭したアケメネス朝ペルシャのキュロス2世であった。キュロス2世はメディアに続き、アナトリアのリュディアを征服し、BC539年にはバビロンに入城して、バビロン市民の支持を失ったナボニドゥスに代わりバビロニアの王として迎えられ、イラン高原とアナトリアも含めた西アジア全土を手中に収めた。シュメールから始まった長いメソポタミア文明の伝統がこの時点でついに消滅した。以後、BC334年からBC330年にかけて行われたマケドニアのアレクサンドロスの東征によってアケメネス朝が滅び、西アジアにヘレニズム時代が到来するまで、アケメネス朝ペルシャはほぼ2世紀もの間、西アジア全土に帝国として君臨した。アケメネス朝の西アジア全域における帝国支配は、新アッシリアと新バビロニアの行政州分割と道路・通信制度に基づく中央集権の仕組みを継承し発展させた完成形と見なすことができる。



(新バビロニアの主要な王たち)


<ナボポラッサル>

 ナボポラッサル(在位:BC626年~BC605年)はメソポタミア南部の出身と考えられ、かつてバビロニアに侵入したアッシリアを全面的に打ち破るため、新たにイランに勃興したメディアとの同盟関係を巧妙に利用した。2年の間に、彼はアッシリアのアッシュールとニネヴェを包囲し、これらの都市を占領し破壊した。アッシリア王シン・シャル・イシュクン(在位:BC622年~BC612年)はエジプトに助けを求めざるを得なくなった。エジプトはアッシリアが混乱している隙にパレスティナ・フェニキア・シリアを再び手中に収め、ユーフラテス川まで到達していた。ナボポラッサルの攻勢は続き、メディアの助けを得て、3ヶ月の包囲の後、ニネヴェは陥落し、そしてついにBC609年、アッシリアは滅亡した。アッシリア最後の王となったシン・シャル・イシュクンは彼の都ニネヴェで死んだと年代誌は伝える。その後、ナボポラッサルはバビロンをはじめバビロニア諸都市の建築事業に着手し、それは息子のネブカドネザル2世によって完成されることになる。なかでも神々の指示に従ってマルドゥク神に捧げられたバベルの塔のモデルといわれるバビロンのジッグラートであるエテメンアンキの建設は特に有名である。マルドゥク神の他、ナブー神、エア神もバビロニアでは主要な神々であった。


[バビロニア歴代記]

 初代ナボポラッサルの治世の始めから、その王位を継承したネブカドネザル2世の治世11年まで、つまりBC626年からBC594年までの33年間の新バビロニアの軍事行動は、3点の粘土板に刻まれた編年体の歴史書「バビロニア歴代記」に記されている。それによれば、バビロニア軍とアッシリア軍はメソポタミア各地で、ナボポラッサルの即位後10年以上戦いを重ねたが、バビロニアとメディアの攻勢により、BC614年にはアッシリアの古都アッシュールが、BC612年には首都ニネヴェが陥落した。アッシリアは西方のユーフラテス川東岸近くのハランを拠点にバビロニアの攻勢に対して抵抗を試みるが、BC610年にハランが陥落すると、アッシリアの支配領域は事実上ほぼ消滅し、政治上空白状態になったシリア・パレスティナにおける覇権をかけてバビロニアとエジプトが軍事的に対立する情勢になった。このようにメソポタミアとシリアが大きな動乱の最中にあった時代、ネブカドネザルは、ナボポラッサルの皇太子として父親の存命中から軍事作戦と執政を助ける立場にあった。BC607年には、王ナボポラッサルと皇太子ネブカドネザルは、それぞれ別個に部隊を率いて山岳地域、おそらくイランのザグロス山地に遠征に出ており、ネブカドネザルは自ら軍の指揮を取って戦っている。その2年後のBC605年の西方遠征においては、王はおそらく老齢で遠征に出られなかった見られ、皇太子ネブカドネザルがバビロニア軍を指揮し、ユーフラテス川の中・上流域の拠点であるカルケミシュに駐留していたエジプト第26王朝サイス朝のファラオ、ネコ2世(在位:BC610年~BC595年)率いるエジプト軍と戦い、これを退け、南進してオロンテス川沿いのハマト地域を制圧した。同年の夏、ナボポラッサルが没すると、シリアの遠征先にいたネブカドネザルは速やかに帰国し、約20日後にはバビロンで即位式を行った。その後すぐにシリアの「ハッティの国(ヒッタイトの残存地域)」に軍を率いて戻り、その冬まで軍事行動を継続し、シリアからの戦利品をバビロンに持ち帰っている。

「バビロニア歴代記」の記録は、即位後のネブカドネザル2世にとって、シリア・パレスティナの覇権を賭けた戦いは必ずしも容易でなかったことを示している。治世1年から4年まで、ネブカドネザルは毎年シリアに遠征した。BC604年にはシリアを通過して南方深く軍を進め、パレスティナ南部の港湾都市アシュケロンを占領して凱旋した。その後もシリア・パレスティナ支配を確立するために繰り返し遠征を重ね、BC601年には、エジプト軍と激しい交戦の結果、双方に多くの犠牲者を出した。治世5年(BC600年)の1年間の軍事作戦中断後、治世6年から8年までシリア・パレスティナ諸国ならびにアラブ遊牧民に対する遠征を継続した。治世7年(BC598年)には「ユダの都市」エルサレムを包囲・占領し、ユダの王を捕らえて、新しい傀儡かいらいの王を立てた。ヘブライ語聖書の「エレミヤ書」は、この出来事に詳しく言及している。それによると、バビロニアに一度は服属していたユダの王ヨヤキム(エホヤキム)がエジプトを頼って反乱を起したが、首都エルサレムはバビロニア軍によって包囲された。またヨヤキムに代わりその子ヨヤキンが王になったが、3ヶ月後にエルサレムは落城し、ヨヤキンはエルサレムの貴族、兵士、職人などとともにバビロンに捕囚として連れ去られたと記している。これがBC597年の「第1回バビロン捕囚」である。この年に建てられたバビロンの南王宮の建設を記念するネブカドネザルの角柱碑には、建設事業に貢献した60人ほどの人物が記されており、そこにはバビロンの宮廷官僚、バビロニアの族長、地方行政官、地方都市の君主たちとともに、テュロスの王、ガザの王、シドンの王、アルワドの王、アシュドドの王が含まれており、この時期に達成されたネブカドネザルのシリア・パレスティナ支配を裏付ける。

 治世9年(BC596年)には、バビロニア軍の矛先は東方のエラムに向けられ、翌年にはバビロニアで1ヶ月に及ぶ内乱があったが、ネブカドネザルはこの内乱を鎮圧した後、治世10年と11年(BC595年~BC594年)に再びシリアに遠征している。「バビロニア歴代記」の記録はこの治世11年(BC594年)を最後に失われており、以後30年続いたネブカドネザル2世の治世に関する編年記史料は存在しない。そのため、以後の活動については、ヘブライ語聖書の列王記、歴代誌、エレミア書と、複数のアラム語とヘブライ語の文書がこの欠落を部分的に補っている。それらの史料によると、ネブカドネザルの治世中にバビロニア軍が、モアブ、アモンといったユダの隣国を征服し、フェニキアのテュロスを13年間にわたって包囲したことを示している。BC574年~BC564年に年代づけられる10点以上の粘土板文書が、南メソポタミアのウルク近郊のツッル(テュロスの意)という町に言及しており、この町はテュロス包囲の結果、バビロニアに強制移住させられたテュロスの人びとの居住地であったと推定される。また「エレミヤ書」はカドネザル2世の進軍がエジプトのデルタ地帯にまでおよんだことを示唆している。


<ネブカドネザル2世>

 ネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)は、現代の人びとにとって最も著名なメソポタミアの王だろう。彼の43年の及ぶ長い治世は、87年間続いた新バビロニア王国の最盛期であり、旧約聖書の原典で最も古いヘブライ語聖書や、西洋古典の叙述者たちの伝える「バベルの塔」や「バビロンの宮中庭園」といった伝説に始まり、今日の芸術や文学に到るまで、驚嘆すべき繁栄と非難すべき退廃と滅亡という相反する対照的なイメージとなった大都市バビロンが歴史的に成立していた時代であった。ヘブライ語聖書では「ネブカドネツァル」と表記されている。ネブカドネザルは英語読みである。ネブカドネザル2世はエルサレムやテュロスを包囲し降伏させ、東地中海沿岸地域を支配下に収め、これらの地の住民をバビロニアに強制移住させたことが知られている。いわゆる「バビロン捕囚」である。しかし碑文では、軍事的業績ではなく、熱心な建築活動が主に強調される。

「余はバビロンを囲む城壁を大きく拡張した。深い濠を掘り、レンガやセメントを用い巨大な塁を築き、その一部に山のように高い塔を建てた。大城門はすべて杉材で作って銅板で覆い、バビロンを難攻不落の城塞にした。余は町の前に海のように深い水を引き、敵が渡れないようにした。このようにしてバビロンの防御を固め、バビロンを宝物の都市の名にふさわしいものにした」

 彼はマルドゥク神の神殿を壮麗に改築し、主神殿のジッグラートであるエテメンアンキを完成させ、またバビロンの南宮殿を改築し、北宮殿、夏の王宮、城壁、そしてイシュタル門をはじめとする都市の城門の建造を行った。バビロンの城壁は、長さ18キロにおよぶ堅固な外側の壁と、長さ8キロの内側の二つの壁から成る。エテメンアンキの建設を記念する円筒碑文には、建設事業に動員された労働者の出身地として多数の地名を列挙しており、ネブカドネザルの王国の広がりを示している。そこにはメソポタミア全域、アッシリアの本拠地だったティグリス川上・中流域、ユーフラテス川の向こう側のシリア、アナトリア東部、つまり上の海(地中海)から下の海(ペルシャ湾)までの地名が記されており、新バビロニアの広域支配を誇っている。こうした建築事業は、天地創造神話「エヌマ・エリシュ」で語られるように、混沌を打ち破り都市を創造したマルドゥク神の行いをなぞるものととらえられた。バビロンは古代の聖都ニップール、とりわけシュメールの主神エンリル神の神殿エクルのレプリカとされ、バビロニアにおける政治的首都であるだけでなく、ニップールに代わり神学の中心地ともなる。そこは神々の領域と考えられた。こうした世界観において、王は神の領域と人間の世界の仲介者として神学的宇宙を守る存在と自認していたかもしれない。

 BC522年~BC521年にアケメネス朝ペルシャ全土で反乱が発生したとき、バビロニアにおいてダレイオス1世に対して反旗を翻した二人の有力者が「ネブカドネザル」を名乗ったことは、新バビロニア王国没落後もなお、ネブカドネザル2世が理想のバビロニア王として記憶されていたことを物語っている。


<ナボニドゥス>

 新バビロニアの最後の王ナボニドゥス(在位:BC556年~BC539年)は前王ラバシ・マルドゥクを倒して即位した。バビロニア各地の神殿を修繕・再建し、即位の際はマルドゥク神から王権を授与されたとしているが、一方でアラム系の母親の月神信仰の影響を強く受け、月神シンを重視しようとしたため、マルドゥク神の神官たちの支持を失った。ナボニドゥスがバビロンを離れ、アラビア砂漠にあるオアシス都市テイマに都を移し10年間滞在した。マルドゥクの祭りは王が祝うことが不可欠なのだが、遷都によって祭りは開かれなくなった。こうした行動の数々によって王とマルドゥク神官との間の関係悪化は決定的となった。こうした内政問題の結果、ペルシャのキュロス2世がバビロンに入城し、ナボニドゥスの暴政から解放したとき、バビロンの市民たちはキュロスを歓迎したという。一方で、ナボニドゥスは「考古学の王」としても知られ、古代の建築遺構を探査し、それを修復・再建すらしようとして何回か発掘を行った。彼は古代アッカドの都市アガデのイシュタル神の神殿エウルマシュの近くで、ナラム・シンの定礎碑文を発見したと誇っている。

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