第78話 新アッシリアによる西アジアにおける覇権

<年表>

新アッシリア時代(BC911年~BC612年)

 BC10世紀後葉に入ると、アッシリアは失われた固有領土を回復すべく、西方を中心に精力的な遠征を繰り返し、それに成功した。さらにBC9世紀になると、その征服地域は地中海に達した。BC8世紀後半には、シリア・パレスティナの小王国の多くが征服され、アッシリアの行政州として再編された。征服地では、強制的な住民の入れ替えが行われ、東はイランのザグロス山脈から西はアナトリア高原、地中海沿岸、エジプトに至る広域に、異なる言語と文化を持つ多様な民族集団を内包する新アッシリアが形成された。また、メソポタミア南部の主要国家としてBC13世紀以降アッシリアのライバルであったメソポタミア南部にイラン高原から定住したカルディア系のバビロニア王国もBC8世紀後半から新アッシリアに征服された。BC8世紀後半以降には、アッカド語とともにアラム語が共通語として用いられるようになった。BC669年、新アッシリアの王エサルハドン(在位:BC681年~BC669年)は、その王位を継承させるにあたり、国をアッシリアとバビロニアに二分して二人の息子に与えた。しかし、バビロニア側の息子が反乱を起した。BC648年に鎮圧されたが、以後、新アッシリアの国力は衰退していき、アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)の死の翌年(BC626年)、バビロンでナボポラッサル(在位:BC626年~BC605年)が自立した。新バビロニア(カルデア王国とも呼ばれる)の誕生である。そして、ナボポラッサルと、エラムの地を継いだメディア王キャクサレス(在位:BC625年~BC585年)の連合軍は、BC612年に新アッシリアの首都ニネヴェを陥落させ、ここにほぼ1400年、BC2000年ごろからの伝説の王を含めて117代続いたアッシリアは事実上滅亡した。アッシリアが完全に滅亡したのは、その数年後のBC609年である。


 ***


 西アジアはBC12世紀~BC10世紀の民族移動による混乱期を経て、聖書にも登場する新アッシリアそれに続く新バビロニアの時代が訪れた。最後は、BC6世紀後半にキュロスが西アジア全域を統一し、史上初の帝国アケメネス朝ペルシャが樹立された。このアケメネス朝こそ真の統一国家といえる。この西アジアにおける一連の段階的に発展した文明社会の思想や技術そして芸術は、周辺の地域のエジプト、東地中海、そして中央アジアへと伝播し、さらに遠くインドや西ヨーロッパ、そして中国にも影響を与えたことは周知の事実である。BC10世紀の西アジアは、いくつもの小国家に分裂していた。BC16世紀~BC13世紀に繁栄していたヒッタイト、カッシート朝バビロニア、ミタンニ、中期アッシリアの多くは富も秩序も失われ、政治の実権はシリア北部から移ってきた部族が握りつつあった。それがもともと遊牧民から始まったアラム人である。都市住民はアラム人を恐れ、嫌ったが、その影響力は明白で、主に西アジア西部の辺鄙な土地から一部の都市まで支配下に収めるようになった。彼らは他の部族と協調して古い都市部の周囲に小さい国を建設したのだ。一方、西アジア東部にはアッシリアとバビロニアの旧王国がまだ存在していた。ただバビロニアは不安定で、王朝が頻繁に入れ替わっていた。アッシリアは同じ一族が何世代にもわたって王座を占めていたものの勢力範囲はごく限られていた。アッシリアがそうした状況を打開したのはBC9世紀半ばのことである。



(アッシリアの1400年に及ぶ長い歴史)


<古アッシリア>

 メソポタミア諸王国の衰退の中で、ある一つの都市国家がかろうじて生きのびた。それが都市国家アッシュールである。アッシュールはBC3000年紀末には既にサルゴンのアッカド王朝やシュメールのウル第3王朝の辺境の属国として存在しており、BC2000年紀初頭には独立し、商業を営む君侯の根拠地となっていた。それに続く約500年間(BC1850年~BC1350年)はよく分からない時代で、メソポタミア北部を支配する近隣の強国たちに従属していた。都市アッシュールの名前はアッシュール神に由来する。また西方や南方に拡がる列強国の支配者たちとの抗争ばかりでなく、北方や東方からアッシュールを征服しようとする好戦的な山岳部族との抗争でもアッシュールの人びとは固く結束していた。


<中期アッシリア>

 アッシリア人(アッシュールの人びと)を世界の表舞台に登場させた最初の有能な指導者はアッシュール・ウバリト1世(在位:BC1365年~BC1330年)である。彼とそれに続く王たちはBC1200年ごろまでにティグリス川中流域まで手中に収めた。その後、トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:BC1244年~BC1208年)がカッシート朝バビロニアの首都バビロンを攻略してカッシート朝終末期の王たちの一人を捕虜にしたこともあった。彼の死後、BC1158年にイラン南西部を本拠とするエラム人にバビロンは攻略されてしまったが、中期アッシリアは鉄器時代初期に徐々に頭角を現していった。

 中期アッシリアを再び隆盛に導いたのは、ティグラト・ピレセル1世(在位:BC1115年~BC1077年)で、王位に就くとすぐに、アナトリアの遊牧民を征服して、そのころから普及し始めていた鉄の交易の要路をおさえた。次に、北と東の国境の安全を確保するため、北のアララト山の南のヴァン湖周辺と、その向こう側の諸部族、そして東のザグロス山地の山岳民族を平定した。西はシリアから地中海沿岸まで軍を進め、交易で栄えていたフェニキアの諸都市、ビブロス、シドン、アルワドなどに貢ぎ物を納めるようにさせた。また、アラム人というセム系の遊牧民をユーフラテス川の向こうのアナトリア方面へ追いやった。こうしておいて、ティグラト・ピレセル1世はメソポタミア南部へ進撃し、バビロンを攻略した。この征服活動はアッシリアにかつてない繁栄をもたらし、首都アッシュールのジッグラートと大神殿は往年の輝きを取り戻し、図書館も設けられた。さらに、ニネヴェでは緑豊かな公園を造った。他のアッシリアの都市も整備され、農業改革も実施された。しかし、ティグラト・ピレセル1世は力で征服地を抑えたため、BC1077年に彼が没すると、抑圧されていた人びとが反乱を起し、広大な領土は元のアッシュールを中心とした地域だけに戻ってしまった。


<新アッシリア>

 アッシリアが復興するのはその150年後のBC10世紀の終わりごろで、アダド・ニラリ2世(在位:BC911年~BC891年)の時代になってからとなる。まず初めに、アラム人がティグリス川の河谷地帯から追い払われた。次に、イランのザグロス山地の諸部族を鎮圧し、さらにバビロニア北部のかなりの領土を奪い取った。彼の息子トゥクルティ・ニヌルタ2世(在位:BC891年~BC884年)も領土を広げ、メソポタミア北部一帯を占める王国にまで発展した。これが歴史学者によって新アッシリアと呼ばれることになる。

 トゥクルティ・ニヌルタ2世の息子、アッシュールナシルバル2世(在位:BC883年~BC859年)はティグラト・ピレセル1世以来初めてユーフラテス川を西へ越えた王で、メソポタミアの境界を越えて地中海沿岸にまで進軍し、シリアやフェニキアの諸都市を支配下においた。彼は今日の現在のモスルの南30キロのところに壮麗な都カラを建設し、その周囲の地域に大規模な灌漑施設を造った。アッシュールナシルバル2世の息子、シャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)もBC858年に王位に就いてすぐ、BC858年からBC831年にかけて一連の西への軍事遠征を実施した。そこから戻ると、シリア北部のユーフラテス川東岸のビート・アディニにアッシリアの前線基地を置き、西の諸国を監視した。彼は即位してから35年におよぶ治世のほとんどを戦場で過ごした。その外征は北のヴァン湖周辺の山岳地帯から南のペルシャ湾岸まで、東のイランのザグロス山地から西のアナトリア南東部のキリキアまでにわたっている。さらにレヴァントのフェニキアからイスラエルまで遠征している。その後、アッシリアは80年ほどの間、衰退した時代があった。そのころ台頭してきたのは、アナトリア東部ヴァン湖周辺のウラルトゥと、イラン高原南西部のエラムだった。8世紀中ごろ、旧約聖書ではプルと記されるティグラト・ピレセル3世(在位:BC744年~BC727年)は、地方の総督や高官の権限を縮小し、総督領の広さも制限するなどの改革に乗り出すとともに、一連の軍事遠征を開始した。まずは、北のウラルトゥ連合軍に対して決定的な勝利を収めるとともに、西のシリアやフェニキア諸都市による反乱も抑え込み、住民たちの一部を強制移住させたうえ、貢納を課した。アッシリアは再び強盛となり、それから100年以上にわたって西アジアの大半を支配する広域国家となった。

 新アッシリアは以前の西アジアの王国と異なり、その領土の大半を属国でなく属領とし、王直属のアッシリア人の総督が統治し、総督に法と秩序の維持、公共事業の実施、徴税などを義務として課していた。アッシリアは各地の支配者を一掃しただけでなく、そこの住民たちの一部も強制移住させた。そして、駅逓えきてい制度を設け、領土内のどこでも絶えず連絡が取れるようにした。また、ティグラト・ピレセル3世の下で軍の再編成が実施され、それまでの、緊急時にアッシリア本国の招集された農民主体の兵士から常備軍へと変更した。軍の中核はアッシリア人であるが、外国人傭兵や属州から徴収された兵士を加え、強力な軍事機構を編成した。二輪戦車に乗ったティグラト・ピレセル3世は軍隊の先頭に立ち、アッシリアの勢力を、イラン高原のエラム地方からアナトリア高原東部地方、シリアからレヴァント地方のエジプトの国境近くのパレスティナのガザまで、さらにバビロニア全域にまで拡大した。その年代記の碑文には次のように記されている。

「余、アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、日の出(東)から日没(西)までのあらゆる国々を自ら征服し、かつて我が父祖たる王たちの戦車が横切ったことのない地に総督を任命した」

 交易で栄えていたレヴァント地方のフェニキア諸都市をアッシリアに押さえられたエジプトはフェニキア諸都市の反乱を策動するようになった。BC721年、サルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)が跡を継ぎ、そのフェニキアの反乱を鎮圧したが、アッシリア国内では反乱が相次ぎ、その対応に追われた。BC705年、サルゴン2世はアナトリア中央部のタバルに軍事介入し、その北方のキンメリア人たちに対峙したが、そこで戦死してしまう。サルゴン2世の突然の死により、アッシリアは北部地域の大部分の支配を断念せざるを得なくなった。また、パレスティナとフェニキアはエジプトと同盟を結び、バビロニアは再びカルディア人の支配下に入った。サルゴン2世の息子、センナケリブ(在位:BC704年~BC681年)はニネヴェを建設したことで有名であるが、パレスティナとバビロニアの反乱を鎮圧し、パレスティナには莫大な賠償金を課し、バビロニアは徹底的に破壊した。センナケリブは息子の一人に暗殺されたが、別の息子エサルハドン(在位:BC680年~BC669年)が王位を継いだ。エサルハドンはBC679年に再びアナトリア中央部のタバルに侵攻してきたキンメリア人と対決し、この時は成功を収めた。彼の治世は11年と短かったが、その業績は素晴らしかった。バビロンを再建したほか、武力と外交によって領土内に平和な時代を到来させた。そしてBC671年、エサルハドンはエジプトに侵攻し、1ヶ月足らずで首都メンフィスを占領した。それから16年間、エジプトはアッシリアの属州となった。彼が後継者のアッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)に残した広大な広域国家は、エジプトのナイルの谷からカフカス(コーカサス)山脈まで、なんと1600キロにもおよぶ広大なものだった。ティグリス川上流域沿いの本国へは属州から多くの貴重で豪華な貢納物が運び込まれた。エジプトからは金と象牙、アナトリアからは武器用の鉄、シリア北部のアヌマス山脈からは銀、イラン高原方面からはラピスラズリその他の貴石や半貴石、レバノンからは貴重な木材、そして広域国家となった王国全土から珍しい植物や動物、などさまざまなものがもたらされた。アッシュールバニパル治世下の新アッシリアは世界最強の国だった。アッシュールバニパルはアッシリアの王の例にもれず、自ら軍を率いて戦場におもむき、平和なときはライオンを狩って武勇のほどを示した。当時はまだメソポタミアの沼沢地にはライオンがいた。同時に彼は神官でもあり、学者でもあった。彼の残した刻文はニネヴェにあった宮殿の遺跡から発掘された力強いタッチの浮き彫りとともに、彼の偉業の数々を堂々とそして得意げに述べている。

 アッシリアが直面した最大の難問は、南部の隣国バビロニアへの対応である。ティグラト・ピレセル3世から始まったアッシリアの最盛期には、アッシリア王がバビロニア王に即位したことも何度かあった。しかし、アッシュールバニパルが、BC652年からBC649年にかけてバビロニア王だった自分の兄弟とバビロニアの覇権を争った結果、国土は荒廃し、王国内でバビロニアを含む一連の大暴動が起き始めた。幾度となく行われたバビロニア平定の試みも成果はなく、アッシュールバニパルが死去した年の翌年のBC626年、カルディア人のナボポラッサルが自立し、バビロニアに新しい王朝を開いた。アッシュールバニパル以後、それを鎮圧する力を持つアッシリアの王は現れなかった。人類の歴史を通じて支配される側は常に支配する国に反抗し、異国の統治者に従うことを拒否してきた。抵抗はさまざまな形で起こる。支配者側の人間を暗殺するといった暴力的なもの、住民の不服従、同化への拒絶などだ。こうなると、征服地の住民との関係改善を模索するのは当然の流れである。アッシリアはバビロニアの住民の懐柔に心を砕いた。バビロンを破壊した先王の息子エサルハドンは神殿や宗教組織の再建資金を出し、良きバビロニア王としての存在を印象付けようとした。さらにバビロニアのマルドゥク神の像をバビロンの神殿に返還することしたが、彫像を運ぶ道すがら大勢のバビロニア人が像の周りに集まってきて、返還計画は遅々として進まなかった。こうした抵抗が最終的にアッシリアの滅亡を招いたとしても不思議ではない。

 新アッシリアの繁栄は西アジアの歴史にとって重大な意味を持つ出来事だった。このことによって、西アジア全域に同一の統治体制と法体系が行きわたった。被征服民が別の場所に強制移住させられたり、徴兵された兵士が各地に派遣されたことも地方の独自性を弱め、帝国内を均一化する効果があった。また、アラム語が共通語として広まったことも重要だった。こうして新アッシリアの下で西アジア全体の国際化が進んだ。当時の新アッシリアの強大な国力は見る者を圧倒する数々の記念建造物にも示されている。サルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)はニネヴェ近郊のコルサバードに宮殿を建設した。広大な敷地を持つこの大宮殿は全長1キロ半以上におよぶレリーフで飾られていた。そこでは各地から略奪した富で豪華な宮廷生活が繰り広げられていた。有名なアッシュールバニパルも記念建造物を造ったが、学問と古物に関心のあったこの王が残した最大の遺産は、粘土板のコレクションだった。実はメソポタミア文学に関する我々の知識の大半はこの王のコレクションから得たものである。その中にはシュメール語から翻訳されたギルガメシュ叙事詩の完全版も含まれている。


[ニネヴェの文書館あるいは図書館]

 アッシュールバニパルはニネヴェの宮殿内に体系的に築き上げた文庫を作った。それまでにもすでにいくつかの神殿が記録文庫や文書庫を保持してはいたが、それらは概ね神官階級や廷臣たちの教育や行政上の必要を満たすための実用的なものだった。そうしたものとは異なり、アッシュールバニパルは直接的な効用を求めることなく、バビロニアとアッシリアの文学的伝承のすべてを1ヶ所に集めようとした。そこで彼は全国に全権委任者を派遣して、粘土板に記された価値の認められる文学的遺産を探し求めさせた。こうしてニネヴェの文書館は誕生した。アッシュールバニパルは次のような文を記し記名までしている。

「余は、楔形文字で示されたナブー神の叡智を粘土板に書き留めて吟味し、また文書を比較対照し、余の宮殿に所蔵した。これは、余がそれらを見たり、繰り返し読めるようにするためである」

 王はこの文書館によってアッシリアとバビロニアの文化と歴史に関する教本を創り出したのだった。それは、神話的・歴史的物語、諸王の伝記、書簡、行政文書から、祈祷、夢判断の書物、医学ハンドブック、呪文、占い、占星術、天文学、詳細な数学書に到るまで、あらゆるテーマを包括していた。それは自分たちが偉大な文化を受け継ぐ末裔であり、そしてその文化を守り、それを新たに開花させるべき者であるという自覚だった。


 新アッシリアは残酷な征服と強圧的な支配の上に成り立っていた。それを可能にしたのが史上最強の軍隊だった。男子は全員徴兵された。アッシリア軍は鉄製の武器に加え、城を攻撃する工作隊まで持っており、それまで難攻不落だった城壁も破ることができた。鎖帷子かたびらで武装した騎兵隊もあった。

 アッシリアの偉大な王たちは聖書にも登場している。というのは、イスラエルは度々アッシリアの標的にされたからである。BC890年~BC610年の約300年間、アッシリアは西アジア世界を支配した。長期にわたって支配できたのは最強の軍隊のおかげばかりではなかった。鉄器時代の初めごろ、都市人口は増加し、それにつれて食糧も日常の必需品の需要も高まった。そのため、アッシリアは基本的に略奪を目的とした遠征を毎年行った。主として、西方の都市に対して服従か攻撃かの二者択一を迫り、前者を選択した都市には貢納を義務付け、後者を選択した都市には容赦のない略奪を行った。その後、シャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)のころになると、新しく征服した土地にアッシリア人の総督を王が任命し治めさせた。総督たちは、各地を巡る王直属の長官により監視された。中央政府の巨大組織は地方に目を配る一方、軍や国庫の管理を行った。複数ある首都や地方都市で発掘された書庫からの文書は、国家と地方の適切な利益の均衡を保つこの行政制度がいかに有効だったかを示している。アッシリア王国が大きくなると統一された暦法が必要になった。彼らは自分たち古来の暦法、高官の名前を取って毎年の年名を定める暦法で、すなわちエポニュム制を採用した。

 後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)には平等条約、つまり国同士が対等の立場で条約を結ぶようになっており、その最たるものがBC1259年のヒッタイトとエジプト間の条約締結、いわゆる「銀の条約」だったが、アッシリアは宗主権条約を結ぶほうを好んだ。つまり、隷属関係を強要して、違反に対しては酷い報復を加え、従順な国々に対しては名目上の独立国として認めた。アッシリアの王たちの中には首都を遷した王たちもいた。ニネヴェ、カルフ(ニムルド)、ドゥル・シャルキン(サルゴンの砦の意、コルサバード)などである。定住農耕の都市文明の魅力に吸い寄せられてくる人びとの中にアラム人もいた。彼らは幅広い商業活動を武器とし、また楔形文字に代わるより簡便な書写法を考案して、まもなくアッシリア行政でなくてはならない存在になっていった。

 BC626年までに新アッシリアが衰退すると、カルディア人たちは土着の王朝としてバビロン第10王朝、すなわち新バビロニアを樹立した。しかし、とどめを刺したのはイラン西部のメディア人だった。BC612年のアッシリアの滅亡は急激だった。属州や属国からの貢納が途絶え、巨大な水利事業に配備された隷属移住民の労働力の供給も途絶えると、アッシリアの都市は生計手段を奪われ、そのほとんどが跡形もなく消え失せてしまった。新バビロニアで最も偉大な王、ネブカドネザル2世(在位:BC605年~BC562年)は新アッシリア領の大半を継承し、エルサレムを占拠して、BC586年にユダ王国も占領などして、短期間とはいえ西アジアを統合した。しかし、BC539年には新しい征服者としてバビロンに入城したメディア王キュロスは歓迎され、それがアケメネス朝ペルシャ成立の先駆けとなった。キュロスはBC6世紀中葉にイラン高原においてメディアを破りメディア王となっていた。



(新アッシリアの主要な王たち)


<アッシュールナシルパル2世>

 新アッシリアの王、アッシュールナシルパル2世(在位:BC883年~BC859年)は広範囲に及ぶ帝国の基盤を築いた。その政治的・行政的中心は、いわゆるアッシリアの三角地帯、つまりティグリス川とその支流の一つであるザブ川の間の土地にあった。首都はカルフ(現在のニムルド遺跡)に移された。カルフは中期アッシリア時代に小都市だったが、アッシュールナシルパル2世が再建拡大し、装飾を施して最も壮麗なアッシリアの都の一つにした。王宮の広間を飾るため、新アッシリア芸術に特有の叙事的・物語的なレリーフの作品群が生み出された。王宮の装飾壁画は、長い一連の王の称号(強い、精力的な、重要な、称賛に値する、力のある、まばゆいばかりの)と共に、戦場での勝利になくてなならない王の精神的・体力的美点を視覚的に表現するものだった。例えば、王は二輪戦車の正面に立ちふさがるライオンを殺すため弓を引く姿で描かれている。王座の間の壁面レリーフには英雄的行為を称賛するような出来事が系統的に繰り返し描かれており、これはプロパガンダの手段として非常に有効だったに違いない。


<シャルマネセル3世>

 シャルマネセル3世(在位:BC858年~BC824年)は父アッシュールナシルパル2世の政策を引き継ぎ、軍事的には主にユーフラテス川を越えて西に向かい、建築事業では特にカルフとアッシュールに専念した。王はカルフにシャルマネセルの砦として知られる壮麗な王宮を築いた。この王宮には4つの大きな庭が配置され、新たな遠征に出発する前に大勢の兵士たちをここに集めたものと見られる。さらに、戦争の神であり、新しい都の守護神でもあるニヌルタ神の神殿を何度も改築し、下の町と城塞をつなぐ唯一の通路である「ライオンの門」を「支配者の王宮」がかつて建っていた場所の隣に建造した。


<ティグラト・ピレセル3世>

 ティグラト・ピレセル3世(旧約聖書ではプル)(在位:BC744年~BC727年)はおそらく王族の内紛の結果として即位したが、アッシリアの軍国主義に勢いをつけ、アナトリア、ウラルトゥ、北シリアの緒王国の同盟を打ち破り、領土を拡大し、アッシリアの行政・官僚制システムを革新・再編し、王国全領域を厳格な直接支配の下に置いた。また新しい王宮複合体を建築し、いくつかの神殿を再建した。特にカルフに4つの中庭の周囲に配置された4区画から構成される巨大な中央宮殿を建てた。彼は戦争で勝利を収める王としてだけではなく、彼の高官たちを新たに行政州の総督に任命し、王国全域の行政機構を再編した王としてのイメージを打ち立てた。


<サルゴン2世>

 サルゴン2世(在位:BC722年~BC705年)は出自がはっきりせず、簒奪によって即位したと考えられている。彼はシャルマネセル5世(在位:BC726年~BC722年)がBC722年に北王国イスラエルの首都サマリアを攻略中に倒れて息を引き取ると、間髪を入れず自ら王位に就いたのだった。サルゴン2世はキプロス島の海岸地域およびエジプトの勢力下にあったパレスティナに到る広大な広域国家を築き、バビロニアの反乱を収め、ウラルトウの領土だった北東地域を侵略した。彼はまた、ニネヴェ近郊のコルサバードに新しい王宮と神殿を持つ新しい首都をつくるため野心的な建築計画に精力的に取り組んだが、彼自身の突然の戦死により、新都は完成することなく建設途中で終わった。サルゴン2世は、その1600年前にメソポタミア史上初の統一王国を築いたアッカドのサルゴン大王の伝説的な人物像に自らを重ねようとした。


<センナケリブ>

 センナケリブ(在位:BC704年~BC681年)はその努力のほとんどをバビロン制圧に費やした。彼はバビロンを包囲し、最終的には破壊した。神々の住まう都として敬意を払うことが求められたバビロンを包囲し破壊するするのは無謀な行いであったが、センナケリブは父サルゴン2世が戦死という普通でない死を遂げたことに対して神経質になっていた。それは王が関与した何らかの罪、つまり王位簒奪や新都の建設、のむくいと考えられるからである。センナケリブは自分を戦場における英雄としてだけではなく、偉大な建設者としても記録に残したかったようだ。首都を古都ニネヴェに遷し、新しい街路や「比類なき王宮」の建造で壮麗な都とした。この「比類なき王宮」はそれまでに建てられた中で最も大きな王宮建築である。さまざまな区画に分けられた通路には壁面いっぱいにレリーフがはめ込まれ、洗練されたシンメトリーのレイアウトを持つ壮麗な王宮は、新しい空間設計の概念を導入したものであり、各部屋が機能別に明確に配置されたそれまでの王宮の建築様式を打ち破るものだった。


<エサルハドン>

 エサルハドン(在位:BC680年~BC669年)は即位するとすぐに父センナケリブが行った冒瀆的振る舞いの後始末に専念した。センナケリブはバビロンを破壊・略奪し、宮廷内の陰謀により息子の一人に暗殺されるという不幸な死を遂げていた。エサルハドンの関心は特に信仰と呪術に向けられ、内政政策はそれによって左右された。彼はバビロンを全面的に再建し、バビロンの市民に所有物を返し、センナケリブがアッシリアに運んできた神々の像を戻して、再び神殿に安置した。さらにセンナケリブが断念したアッシュールの都市建造計画に再び着手した。対外政策としては、エサルハドンはレヴァント遠征を盛んに行い、シドンを征服し、とりわけエジプトに介入した。彼はエジプトがパレスティナ諸都市のアッシリア統治に対する反乱を扇動していると考えていた。彼はエジプトのメンフィスまで侵攻し、ヌビア人の第25王朝の王タハルカを破ったが、エジプト人やリビア人の抵抗に遭い、エジプトデルタ地帯の支配を確実にすることはできなかった。彼の早すぎる死によってエジプト支配はかなわなかったが、彼の後継者アッシュールバニパルが再度立ち向かうことになる。


<アッシュールバニパル>

 アッシュールバニパル(在位:BC668年~BC627年)は勇猛なアッシリアのイメージとはかけ離れた、文学に通じ多才な人物像で知られる。彼は戦果あるいは行政・官僚機構を統括する力量よりも、自らがシュメール語とアッカド語の文書を読み解くことのできる優れた書記であること、数学や天文学に秀でていることを誇っている。彼はニネヴェに王宮の図書館を作ることによって自分の学術的関心の高さを示した。美術面では、彼の軍事遠征に関する諸事が渾然一体とした形で描かれた。そこでは王はもはや戦いの担い手として戦場にあるのではなく、戦闘の勝利を確信する超然たる観察者であった。アッシュールバニパルは王国をまとめ、統御し続けた最後の王となった。彼の治世の後には危機が訪れることになったからである。実際、キンメリア人、スキタイ人、マンナエ人、メディア人といった諸部族が新たなパワーゲームを始め、それにバビロンの復活も加わり、アッシリアの危機をより深めていくことになった。

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