第76話 「海の民」

 1881年、フランスのエジプト学者でルクソール神殿の発掘者でもあるガストン・マスペロは、エジプトの第19王朝から第20王朝にかけてエジプトに侵攻してきた民族集団を呼称するのにふさわしい名称として、暫定的に「海のたみ」という概念を用いた。というのも、エジプト側の碑文では彼らのことを「大洋から」「海から」あるいは「海の中にある島々から」到来した者たちと書かれているからである。それ以来この概念は、北方からやって来てカナンとエジプトの地を脅かしたと言われる9つの民族集団の総称として用いられるようになった。


 エジプトのメルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)とラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)の治世に記されたエジプト側の記録には、海洋の敵との戦いが語られている。折に触れて徒党を組んでやって来た粗暴な集団は、シェルデンとイケウェシュ、ルッカ、テレシュ、ペレセト、チェケル、シェケレシュ、デネン、ウェシェシュなど9つの民族集団と称され、現代の研究者はこのような略奪者を「海の民」と呼んでいる。彼らの素性は解明の難しい謎の一つであるが、今日ではその内のいくつかの集団は、アナトリアの西部および南部の沿岸地域と関係があることが有力視されている。ルッカはリュキア人と同定されることに加え、イケウェシュはアッヒヤワ(アカイア)人、テレシュはリュディア、チェケルはおそらくトロイア(ホメロスはトロイアの人びとをテウクロイと呼んだ)、デネンはキリキア、また、シェルデン(サルディニア)とペレセト(ペリシテ人)、シェケレシュ(シキラ)もエーゲ海あるいはアナトリアが起源だと言われている。とはいえ、この中で確実に特定されている集団はペレセト人だけで、彼らはクレタ島から来たと聖書に記されているペリシテ人だと広く認められている。

「海の民」の中にはこの危機の時代の離散の中で、パレスティナ沿岸のアッコ、フィリスティア、ドルに定住した者たちがいた。この混乱の発生地はアナトリア西部であったと考えるのが合理的である。なぜならヒッタイトとアッヒヤワとの勢力争いで、当時の政治体制が最初に崩れ始めたのがアナトリア西部だったからだ。穀物の不作と供給路の遮断により食糧が不足したことで、この地域の政治的動揺はより一層加速していった。さらにカリアやリュキア、キリキアといったアナトリア南部の沿岸地域は早くもBC15世紀から海賊行為で悪名高く、たびたびキプロスとエジプトがその標的となっていた。アナトリアが飢饉に襲われたため、散発的に起こっていたこの種の略奪行為が、おそらく大規模な人口移動、つまり家族全体が新しい定住地を求めて略奪を繰り返しながら移動する生活へとその様相を変えていったのだろう、大部分は無秩序で、しかも異質な人びとの集団であった。彼らは中東の青銅器時代に終止符をもたらす状況を作った当事者であると同時に、時代の犠牲者でもあった。


 登場したと思うまもなく、戦士たちは世界史の舞台を嵐のように通り過ぎて、後に死と破壊を残していった。今ではまとめて「海の民」と呼ばれているが、彼らに襲撃されて記録を残したエジプト人は、そんな名称は一度も使っていない。複数の民族集団がつるんで襲ってきたと見なしていたからだ。エジプトの記録に書かれていることを別にすれば、この「海の民」についてはほとんどわかっていない。どこから来たのかもはっきりしない。シチリア、サルディニア、イタリアの辺りという説もあれば、エーゲ海域あるいは小アジア西部とも、キプロスや東地中海地域とも言われている。土地から土地へ絶え間なく移動し、その途上で出くわした諸国を片っ端から攻め滅ぼしていったとされている。エジプトの文献によれば、彼らはまずシリアに陣営を置き、そこからカナン地方の沿岸部を南下し、エジプトのナイルデルタに侵入したという。それがBC1177年、エジプトのラメセス3世の治世8年のことだった。

「海の民」と言っても全員が海路を取っていたわけではなく、一部は陸路でやって来た。そろいの軍服を着ていたわけでも、ぴかぴかの装備をそろえていたわけでもない。古代の図像を見ると、頭に羽飾りをつけた集団もあれば、ぴったりした帽子をかぶっている一派もある。つのつきのかぶとをかぶっている者がいるかと思えば、無帽の者もいる。短い顎鬚あごひげを尖らせて短いキルトを着ている者、上半身裸の者、チュニックを着ている者、髭をきれいに剃ってスカートのような長い服を着ている者もいる。こういう図像を見ると、「海の民」はさまざまな地域、さまざまな文化圏からやって来た多様な集団の寄り集まりだったのではないかと思われる。鋭い青銅の剣、光る金属の穂先をつけた木の槍、そして弓矢で武装して、船に乗り、荷車に乗り、牛車に乗り、二輪戦車に乗ってやって来た。この侵入者たちは、かなり長い期間にわたって、何度も波のように押し寄せてきた。戦士だけが来ることをあれば、家族を伴って来ることもあった。

 ラメセス3世の碑文によれば、雪崩のように襲来する侵入者の大群を前に、踏みこたえられた国はなかった。抵抗しても無駄だった。当時の大国、ヒッタイト、ミュケナイ、カナン、キプロスなどが次々に陥落していった。生き残った者は、虐殺から逃げたり、かつて繁栄を誇った都市の廃墟にしがみついた。また、侵入者の集団に加わった者もいた。そのため侵入者の戦列は一層厚みを増し、もともと統一性に欠けていた外見もますますバラバラになっていった。「海の民」を構成する集団は流動的で、行動を共にする動機も集団ごとに異なっていたようだ。戦利品や奴隷が目当ての者もいただろう。人口圧によって西方の故郷に住めなくなり、やむなく東方へ移住してきた者もいたかもしれない。

 エジプト軍が「海の民」と戦ったのは、これが初めてのことではない。30年前のBC1207年、メルエンプタハ王の治世5年に、正体不明の集団が同様の連合軍を作ってエジプトを襲っていた。「海の民」が三度エジプトに押し寄せることはなかった。勝ち誇るラメセス3世が書き残すところでは、敵は「彼らの土地で捕らわれ、打ち負かされた」、そして「心臓は奪い去られ、魂は逃げ去った。武器は海に流された」、しかし、勝利の代償は大きかった。ラメセス3世以後のファラオたちが治めたエジプト第20王朝は、勢力でも権威でも以前よりはるかに縮小し、エジプトは二流の大国に転落し、昔日の面影はもはやなかった。かつての勢威をある程度取り戻すのは、ようやく第22王朝の始祖となったシェションクの時代になってからで、BC945年ごろのことである。


 エジプト以外の西アジアおよびエーゲ海地域では、後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)と呼ばれる黄金時代に栄えた国や勢力のほとんどが衰退または消滅している。直後に滅びなかったとしても、1世紀と持ちこたえることはできなかった。それ以前の数世紀の間に達成された文明発展の成果は、その多くがメソポタミアからエーゲ海にかけての広大な地域で消え失せてしまった。そして次の文明が登場するまで、少なくとも1世紀、地域によっては3世紀以上もかかっている。以前は、この時代の破壊はすべて「海の民」のせいにされがちだった。しかし、エーゲ海・東地中海地域の青銅器時代の終わりを、すべて彼らのせいにするのは無理があるようだ。なにしろ「海の民」については今もよくわかっていないのだ。「海の民は」、比較的組織された軍隊だったのか、まともな組織とは言えないならず者の集団だったのか、それとも災害から逃れ、新天地を求めてやって来た難民の群れだったのだろうか。もしかしたら、どれも少しずつ当たっているかもしれないし、あるいはどれも的外れかもしれない。後期青銅器時代の末期に起こった破壊に関しては、確かに「海の民」もその一端を引き起こしたのかもしれない。しかし、人的・自然的な事象の連鎖、気候変動や干ばつ、連続的な地震、内乱、そして王朝国家システムや交易網の崩壊などが重なって、この時代に終止符を打ったという可能性の方がはるかに高いと現在では考えられている。

「海の民」は鉄製の武器を携えて、BC12世紀初頭から地中海東部を襲撃し、次々に都市を略奪していった。この「海の民」の実体はよくわかっていないが、おそらくその一部はミュケナイ文明の崩壊とともに難民となった人びとだったと思われる。これらの人びとはまずドデカネス諸島(エーゲ海南東部に点在する島々、最大の島はロードス島)に。続いてキプロス島にたどり着いた。その中の一派だったペリシテ人は、BC1175年ごろにカナンに定住した。つまり今日のパレスティナ人の祖先である。「海の民」は西アジア西部だけでなく、エジプトのデルタ地帯にもたびたび侵入を試みた。このようにして津波のように繰り返す異民族の来襲によって東地中海と西アジアの古い体制は少しずつ崩壊していった。



<エジプトにおける記録>


「海の民」のことがわかるのは主にエジプト人の記録からである。なぜなら、彼らはメルエンプタハ治世下のBC1207年と、ラメセス3世治世下のBC1177年の2度にわたってエジプトを襲撃したからだ。彼らはどこからともなく突然やって来ると広範囲にわたって破壊し、その地域の最強国と戦うと、また忽然と歴史から姿を消したように見える。「海の民」が北方から、つまり海の真っ只中の島々から来たと碑文に記しているのはエジプト人である。西テーベのメディネト・ハブにBC1170年ごろ建設されたラメセス3世の葬祭殿の北側外壁に刻まれた碑文にはこう記されている。


「異国の民は故郷の島々で陰謀を企てた。争いの中、たちどころに人びとは殺され、追い散らされた。彼らの武器の前で持ちこたえられる地はなく、ハッティ(ヒッタイト)からコーデ(アナトリア南東部のキズワトナ)、カルケミシュ(シリア)、アルザワ(アナトリア西部)、アラシア(キプロス島)に到るまでいちどきに切り取られた。アムル(シリア北部の沿岸部)のとある場所に陣営が築かれた。彼らはそこの住民を根絶やしにし、その地はかつて存在したことがなかったようになってしまった。彼らはエジプト目指して進んできたが、彼らの行く手には火炎が用意されていた。彼らはペレセト人(クレタ島)、チェッケル人(出自不明)、シェケレシュ人(シチリア島)、デネン人(ダナオス人と呼ばれるギリシャ人)、そしてウェシェシュ人(出自不明)の連合軍であり、地上のありとあらゆる地に手を伸ばし。その心には自負と確信があった。彼らは言った“我らが目論見は成功するであろう”」


 これらの文章には、後期青銅器時代末期を特徴づける戦争による破壊行為が表現されている。ここでは未知の民族の存在が言及されている。彼らは「島々」からやって来て後期青銅器時代末期の国家の城塞群を襲撃し焼き払った。ラメセス3世の書記たちはこれらの襲撃事件を王の治世8年目(BC1177年)にあたるものとしている。事実、この頃アラシア(キプロス)は異民族の手に落ち、何世紀も栄えた大国ヒッタイトも滅亡した。反乱と革命が地中海地域のいたる所で勃発していた。ただエジプトだけは、ラメセス3世がその後の経過の中で報告しているように最悪の事態からは免れていた。エジプトのテーベ西岸のラメセス3世葬祭殿の北壁には、大きく描かれたラメセス3世が数多くの船に乗って攻めてきた「海の民」を弓で射る様子が表現されている。このレリーフには初めてエジプト海軍も描かれており、海上で「海の民」と戦う様子が詳細に描かれている。「海の民」との戦いのためにラメセス3世は、レヴァントに駐屯していたエジプト軍を召喚して国境線に配備した。またデルタ地帯のナイル川支流の河口に軍船の壁を築いて「海の民」の進軍を水際で食い止めた。こうして、ラメセス3世の軍は陸戦、海戦ともに勝利し、エジプトは「海の民」の脅威から逃れた。


「海の民」は後期青銅器時代末期のBC1200年ごろに、ヒッタイト人、カナン人、ミュケナイ人、ミノア人などの文明世界の多くを終わらせたが、その後、彼ら自身もエジプト人によって終わりを迎えた。「海の民」の襲撃の波が西から東へと地中海地域を横切って行く間に与えた損害は取り返しのつかないものであった。しかし最新の解釈では、「海の民」は単なる奇襲部隊をはるかに超えた存在と見なされており、実際に民族全体の移住以外の何ものでもなかったかもしれないとされ、男も女も子供も帯同し、財産は牛などの家畜の牽く荷車に積み上げ携えていたようだ。彼らがなぜ移動を開始したかは議論の絶えない問題だが、長期的な干ばつや故国での地震のような自然災害が含まれる。後期青銅器文明末期に見られる破壊は、これまで考えられていたほどには「海の民」のせいではなかったかもしれず、「海の民」は地中海文明をこの時期に終焉させた多くの諸要因の一つにすぎなかったと思われる。



<シリア北部海岸の都市ウガリトの破壊>


 ウガリトのさまざまな文書保管所や住居から出土した文献資料によると、国際的な交易や交流が、この都市では最後の最後まで活発に行われていたように思われる。にもかかわらず、ウガリトは破壊された。それも明らかに無残に。アンムラピ王の治世、おそらくBC1190年~BC1185年の間のことと思われる。そしてその後は打ち捨てられ、再び住むようになったのは650年ほど後のペルシャ時代になってからのことと思われる。発掘報告によると、都市のいたるところに破壊と火災の形跡があり、瓦礫の層は場所によっては高さ2メートルに及んでいた。無数のやじりが落ちていたことから市街戦を含む激しい戦闘が行われていたようだ。8000人ほどの市民はあわてて逃げ出し、それっきり戻ってこなかった。それは、立ち去る前に貴重品を埋めていった住民もいたが、それが回収されずにそのまま残っていることからわかる。これが実際にはいつ起こったのか、最も決定的な証拠は、1986年にウルテヌの家で見つかった一通の書簡である。これはウガリト王アンムラピに宛てて、エジプトの宰相ベイが出したもので、それから推測すると、BC1190年~BC1185年となる。ウガリトの北縁に位置するウガリトの植民都市ラス・バッシットや、南の沿岸部に位置するウガリト王の離宮があったラス・イブン・ハニも同じころに破壊されている。



<シリア南部やカナンの破壊>


 BC12世紀初頭の同じ頃、シリア南部やカナンでもアッコ・メギッド・ラキシュなど多数の都市や町が破壊されている。但し、メギッドとラキシュはBC1150年~BC1130年ごろの破壊と推定されている。特に、カナン南部の遺跡には関心が高い。例えば、聖書に記される「ペリシテ人の5都市」、アシュケロン、アシュドッド、エクロン、ガト、ガザである。これらのカナン人の初期の都市は暴力的に破壊され、そこに新しい居住地が建設されたが、そのときには物質的な文化がほぼ完全に変化している。土器もカマドも、浴槽、台所用品、建築まですっかり変化している。このことは、カナンの崩壊およびエジプト軍のこの地域からの撤退の後で、新しい住民、おそらくペリシテ人などの「海の民」の大量流入があったことを示している。その時期はラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)の治世のすぐ後と思われる。



<メソポタミアにおける破壊>


 遥か東のメソポタミアでも、バビロンを含む複数の都市に破壊の跡を見ることができる、こちらは「海の民」以外の力によるものだ。シュトルク・ナフンテがイラン南西部のエラムの王座に昇ったのはBC1190年で、それからBC1150年まで国を治めた。後期青銅器時代を通じてエラムは概ね、西アジアの舞台で大した役割を演じてこなかったが、結婚を通じて大国、カッシート朝バビロニアの王家とつながっていた。シュトルク・ナフンテ自身も母はカッシートの王女だった。BC1158年、シュトルク・ナフンテはバビロニアに侵攻し、その都バビロンを占領して、カッシート朝の王を打倒し、自分の息子をその王座に据えた。しかし最も有名なのは、そのときにエラムの首都スーサにハンムラビ法典の刻まれた高さ2.5メートルの石碑や、アッカド王ナラム・シンの戦勝記念碑など莫大な戦利品を持ち帰ったことである。これらはその後、1901年にスーサを発掘したフランスチームに発見され、今はパリのルーブル博物館に展示されている。エラムのシュトルク・ナフンテ王の遠征は、バビロンおよびバビロニアの領土を奪うのが動機になっていたことは明らかだし、また彼が当時の東地中海地域の混乱に乗じたというのは大いにありうることだ。シュトルク・ナフンテの息子や孫によるその後のメソポタミア遠征もやはり、前世紀の大国がもはや存在しないか、あるいは大幅に弱体化していたからこそ可能だったと考えられる。しかし、彼らの軍事行動による破壊については、「海の民」は全くの無関係である。



<小アジアとアナトリアにおける破壊>


 BC1200年を少し過ぎたころに破壊された小アジアの都市のうち、とくに有名なのはアナトリア高原にあるヒッタイトの首都ハットゥシャと、小アジア西岸のトロイアである。しかしどちらの場合も、破壊をもたらしたのは「海の民」だと断言することはできない。ヒッタイトの首都ハットゥシャが陥落したのはヒッタイト最後の王シュッピルリゥマ2世(在位:BC1207年~BC1180年ごろ)の治世のことで、攻撃してきたのは、ヒッタイトの北西に位置するカシュカと思われる。この民族はBC13世紀前半にもハットゥシャを攻略したことがある。発掘調査から見る限り、ヒッタイトの支配地域で実際に破壊された都市はごくわずかで、大半は単に放棄されただけのようだ。しかもそれは、その他の要因、例えば干ばつ、飢饉、国際交易ルートの遮断などによって、ヒッタイトが大幅に弱体化した後のことだったのではないかと思われる。小アジア西部にある都市のうちBC12世紀前半に包囲攻撃を受け、火災で破壊された唯一の例はトロイアである。その破壊はミュケナイ土器の分析からBC1190年からBC1180年ごろと推定されている。この時期に、ここを破壊したのはホメロスの「イーリアス」にあるミュケナイ人ではなく、「海の民」だと考えられている。



<ギリシャ本土における破壊>


 ミュケナイ人がBC12世紀前半に、トロイアの破壊に関わっていなかったとすれば、それは彼らもまた同じころに攻撃を受けていたと考えられる。BC13世紀末からBC12世紀初めにかけて、ミュケナイ人の多くの都市、ミュケナイ、ティリュンス、メディア、ピュロス、テーバイなども破壊されている。近年の調査では、BC1225年からBC1130年にかけて、ギリシャ本土ではさらに多くの都市や町が略奪・破壊されたり、放棄されたりしていたことが分かってきた。この時期は、ミュケナイの歴史に嵐の吹き荒れた時期だったようだ。何かの動乱が起こったのは明らかだ。例えば、ピュロスの王宮はBC1180年ごろに破壊されたが、それが余りに壊滅的だったため、その後は王宮も共同体も二度と回復しなかった。実際、ミュケナイ文明の都市国家ピュロスの周辺では、1000年近くも人口が激減したままだった。



<キプロスにおける破壊>


 BC1200年前後にキプロス島で都市の破壊が起こったのは明らかだが、それを誰が引き起こしたのかは明らかではない。ヒッタイトかもしれないし、エーゲ海からの侵入者や「海に民」かもしれないし、それどころか地震のせいかもしれない。また同様に考えられるのは、考古学的な記録に見える物質文化を残したのは、単にこれらの破壊に乗じて、完全にあるいは部分的に放棄された都市や集落にちゃっかり住み着いた人びとかもしれないということだ。実際に破壊を引き起こした人びとの物質文化とは限らないのである。それはともかく、キプロスは実質的に無傷でこの試練を乗り切ったように見える。その後はBC11世紀に入るまで、この島が繁栄していたことをすべての資料が示している。しかしキプロスの場合は、政治経済体制のかなり劇的な構造改革があって、それによりにこの回復力が得られたわけで、ついに終焉が訪れるBC1050年ごろまで、この島とその政治形態が存続できたのはそのおかげだった。



<エジプトでの戦い>


 BC1207年、ラメセス2世の後継者メルエンプタハ(在位:BC1213年~BC1203年)の治世に「海の民」の第1波が来てそれを撃退した後だったこともあって、BC12世紀は穏やかに始まり、セティ2世、次いでタウセルト女王と代を重ねたが、ラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)が即位したBC1184年にはそろそろ雲行きがおかしくなりつつあった。その治世5年と11年に隣国リビアと二度にわたり大戦争をしている。その間の治世8年(BC1177年)には「海の民」と二度目の戦いを行い、その後のBC1153年、32年間の治世の後に、ラメセス3世暗殺された。ラメセス3世の死とともに、エジプト新王国の真の栄光の時代は終わりをつげた。その後のエジプト新王国第20王朝には見るべき業績を残したファラオはなく、BC1070年にエジプト新王国は滅びた。



(まとめ)


 BC13世紀末からBC12世紀末にかけて、エーゲ海および東地中海地域で大規模な破壊がったことは明らかだが、それを引き起こしたのは誰か、あるいは何なのかは、はっきりとはわかっていない。そもそも後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年ごろ)、すなわち青銅器王朝文化時代の終焉にしても、エジプト人の記録した流浪の略奪者、今でいう「海の民」による襲撃だけが原因でおこるものだろうか? この時期の広範にわたる文明の終焉について、初期の研究者は彼らのみの責任と考えてきたが、その彼らもまた、加害者であると同時に被害者だったのかもしれない。


「海の民」はミュケナイからエジプト沿岸にかけての各地にその影響を残しているが、彼らが本当に何者だったのかについてはまるでわかっていない。自分たちで記録を残さなかったからだ。彼らは明らかに血に飢えた侵略者であった。彼らが古代史の舞台で「悪役」として活躍したことも一般に歴史家たちが認めている。しかし、史料が不十分な中、彼らについての何を信じればよいのだろうか?「海の民」は謎めいた捉えどころのない存在だ。海の無法者と見るにしても、移民の集団と見るにしても、考古学的資料からも文献からも見て取れるのは、「海の民」という通称に反して、彼らはどうやら陸路も海路も使っていたらしいということだ。つまり、移動の手段は問わなかったということである。

 エジプトの文献ではただ一度の事件として記述されているが、「海の民」の移住には少なくとも半世紀かかっており、それも長い年月をかけて何段階にも分かれて行われたのであり、第1段階が始まったのはBC1177年ごろ、エジプトのラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)の治世初期で、最後の段階が終わったのはBC1130年ごろ、ラメセス6世(在位:BC1143年~BC1136年)の時代であるという説が最も妥当性が高いようだ。最初の集団はBC12世紀初め、フィリスティア北部を含むレヴァント地方の沿岸部を荒らしまわり、ラメセス3世によりその治世8年に打ち負かされた。その結果、彼らの一部はナイルデルタ地帯のエジプト守備隊の駐屯地に定住させられた。「海の民」の後期の集団は、BC12世紀後半、カナン南部を支配していたエジプトを駆逐することに成功した。エジプトの要塞都市を破壊した後、彼らはフィリスティアに定住して、アシュケロン、アシュドッド、テル・ミクネなどに主な都市を建設した。これらの人びと、後の聖書に記されたペリシテ人は、その物質文化にうかがえるエーゲ海地域由来の特徴によって、容易に識別できる。考古学的証拠が示しているのは、「海の民」の多くは主にエーゲ海地域の出身であって、シチリア・サルディニアなど地中海西部の出身ではないようだ。おそらく彼らは移動の途中で、小アジア西部や、キプロスなどの中間地点で留まった者も多いようだ。しかし、もし彼らがミュケナイ人を主体とした人びとであったにしても、入植者の物質文化が示しているのは、線文字Bを使う王宮文化の人びとではなく、その後のBC12世紀前半に現れた質素な文化に属する人びとであり、しかもその一部は略奪を働く戦士ではなく、新しい土地で今より良い生活をしようと望む農民で、家族全員で移動する集団だったと考えられる。

 ペリシテ人は一部の都市では、せいぜい支配階級の地域しか破壊していない。例えば王宮とその周辺のみということだ。そしてまた、ペリシテ人に関連するとされる要素は、折衷的なもので、エーゲ海、キプロス、小アジア、南東ヨーロッパなどさまざまな地域の特徴を含んでいる。ペリシテ人の文化には以前からあった地元のカナン文化と、新たに侵入してきた外来の要素の両方を含んでいるのだ。彼らは破壊だけを意図した軍事的な侵略者というより難民に近く、地元民に混じって住み着いてしまうことが多かった。いずれにしても、エーゲ海・東地中海地域において、彼らだけが原因で後期青銅器時代の文明が終焉を迎えたというのはいささか考えにくい。

 古代小アジアの歴史家の書いた記録の中に、「海の民」とそこから分かれた個々の集団とがさまざまな名のもとに現れる。エジプト人は、チェケル人と並んでシュケレシュ人、ウェシェシュ人、ペリシュティム人の名をあげている。ペリシュティム人は、聖書ではペリシテ人と呼ばれるが、その他にイスラエルのダビデ王の宮殿を守る一種の外人部隊あるいは親衛隊としてケレテ人とペレテ人がいる。これらすべての名のうちただ一つ、ペリシテ人だけが今に残った。ペリシテ人については、彼らが背の高い無骨な種族で、ユダヤ人には巨人のように見えたことが知られている。サムソン、サウル、ダビデが彼らと戦った。彼らが住んでいた地域は今日なおその名にちなむ呼び方をされている。現在のパレスティナであるが、それはギリシャ語のピリスタイアから出ている。ペリシテ人の5都市連合の主要な町は、カザ、アシュドッド、アシュケロン、ガト、エクロンである。

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