第75話 青銅器王朝文化の崩壊

 エーゲ海・東地中海地域における後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の青銅器王朝文化は、古代文明時代において経済の国際化が進んだ時代だった。300年以上も続いたその時代が、ついに劇的な終焉を迎える。BC12世紀を彩るのは悲嘆と破壊の物語であり、交易や外交の話ではない。

 エーゲ海におけるクレタ人の絶対的海上支配権はBC1400年ごろにアカイア人(ミュケナイ人)の手に移り、BC1150年ごろまでの250年間、アカイア人のものだった。ミュケナイ文明の最盛期はBC1350年ごろで、ギリシャ・エーゲ海地域の交易の一大中心地だった。その後、ミュケナイ文明はBC1200年ごろ、あるいはそのすぐ後に終焉した。当時、東地中海全域で諸文明が全体として崩壊し、ミュケナイ文明も例外ではなかった。その原因は今なお正確には明らかになっていないが、干ばつ、地震、内乱あるいは外部集団による侵略などの複合要因が組み合わさったためだったと考えられている。その文明衰退の原因の一つであるBC1200年ごろの地震によって、ミュケナイ世界の文化の中心地だったペロポネソス半島のアルゴス平野にあった3つの都市、ティリュンス、アルゴス、ミュケナイが甚大な被害を受けたという可能性が指摘されている。その後の400年間は戦争に明け暮れた暗黒時代で各民族による侵略と移動が続いた。

 もう一つの原因である内乱あるいは外部集団による侵略の可能性について、ペロポネソス半島西部のピュロスには火で焼かれて崩壊した跡が見られる。もしそれが外部集団であれば、それはドーリア人と考えられている。一部の学者の見解によれば、ミュケナイ文明は東地中海沿岸を荒らしまわった「海の民」の攻撃にあって滅んだという。それに続く時代は、明確に伝える歴史資料が少ないことから「暗黒の時代」と呼ばれる。


 後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の安定した国際的体制が数世紀も続いた後に、なぜ突然の終わりを迎えたのか? そこにはいくつかの災厄があったはずである。「BC1177(古代グローバル文明の崩壊)」の中でエリック・クラインはそれらの厄災の可能性について次のように考察している。


1)地震

 シリア北部海岸のウガリトで地震があったのはBC1250年ごろかその少し後とされている。地震は被害を与えはしたが、完全に破壊されたわけではなく、その後ウガリトは復興している。地震考古学の最近の研究によって明らかになったのは、エーゲ海・東地中海地域と同じように、ギリシャもまた度々地震に見舞われていた。始まりはBC1225年ごろで、それがBC1175年ごろまで50年間も続いている。ウガリトの地震はそれ単体で起きたわけではなく、この頃に頻発した多くの地震の一つだったのだ。このように頻発する地震を、今では「地震の嵐」と呼んでいる。これは活断層が度々ずれて、数年から数十年にわたって連続的に地震を発生させるというもので、断層にかかる圧力が完全に解放されるまで終わらない。この時期に地震に見舞われたと思われるのは、ギリシャ本土含めたエーゲ海地域、東地中海地域、小アジアとアナトリア、キプロス、レヴァント地方である。しかし、地震の被害が深刻だったのは間違いないとはいえ、それだけで社会の完全な崩壊が引き起こされるとは思われない。なかには明らかにその後にまた人が住み、少なくとも部分的には再建されたところもあるのだ。例えばミュケナイやティリュンスがそうだ。したがって、エーゲ海・東地中海地域における後期青銅器時代の終焉に関しては、これとは異なる別の説明を他に探さなくてはならない。


2)気候変動・干ばつ・飢饉

 フランスやアメリカの気候学者のチームによると、BC13世紀末からBC12世紀初頭、地中海地域に気候変動と干ばつがあったことを示す、直接的で科学的な証拠が見つかったという。彼らはシリア北部やキプロスの遺跡から採取した花粉のデータを調べた結果、BC13世紀末またはBC12世紀初頭からBC9世紀まで、シリアの地中海沿岸では気候が乾燥化したことが考えられるという。これが正しいとすれば、後期青銅器時代の危機は、BC1200年ごろに始まっておよそ300年続いた干ばつと同時に起こっているということだ。この気候変動は、不作・食糧不足・飢饉を引き起こし、その結果として、後期青銅器時代末に東地中海および西南アジア全域で人口移動が引き起こされたことを強く示している。

 また別の研究者も酸素同位体、湖底コアの花粉分析、地中海の海底コアの分析から、同様の時期に気候が乾燥化したと指摘している。それらの分析結果によれば、ミュケナイの主要都市の崩壊直前、北半球の気温は急激に上昇し、おそらくこれが干ばつを引き起こしたが、それだけではなく、これらの主要都市が放棄された時期には、逆に気温の急激な低下も起こったという。このような気候の急激な変化、具体的にはBC1190年に地中海の海面温度が低下し、降水量が減少すれば、ミュケナイ時代のギリシャのように高い農業生産性に依存していた場合、主要都市に甚大な影響を及ぼした可能性がある。確かにこれらの発見は刺激的ではあるものの、歴史を通じてこの地域では干ばつは頻繁に起こっているし、それが必ずしも文明の崩壊につながっていないのも確かである。


3)内乱

 内乱を引き起こしたのは飢饉や地震などの自然災害かもしれないし、あるいは国際的な交易ルートの遮断さえ原因になるかもしれない。いずれも問題の地域の経済に深刻な影響を及ぼしかねず、それが貧農その他の下層階級の不満につながり、支配階級への反乱を引き起こすことは考えられる。ミュケナイのさまざまな主要都市やレヴァント地方のカナンの諸都市で破壊の跡が見られるのは疑いようもないが、それが貧農の反乱のせいだったかどうかは判断のしようがない。したがって、これは説得力はあっても証明不可能な仮設の域を出ない。内部の反乱をうまく乗り切った文明は少なくないし、体制が刷新されたおかげで以前より発展することも多いものだ。したがって、エーゲ海から東地中海にかけて、後期青銅器時代の文明が崩壊した理由はやはり内乱説だけでは十分に説明できるとは言えない。


4)侵略者と国際的な交易の崩壊

 外部の侵略者によって国際的な交易ルートが遮断されるというのは、国外の原材料に過度に依存する脆弱な経済にとっては悪夢である。また、内乱が起こらなかったとしても、交易ルートが遮断されれば、ピュロスやティリュンス、ミュケナイなど、ミュケナイ文明に属する都市国家には直ちに深刻な影響が及んだだろう。これらの都市国家では、青銅を製造するために銅と錫の両方を輸入しなければならなかったし、しかもそれだけでなく、黄金や象牙、ガラス、黒檀、香水原料のテレビン樹脂などの原材料も大量に輸入していたと思われる。地震などの自然災害は一時的な交易の中断を引き起こし、価格の上昇を引き起こす恐れがあるが、より永続的な遮断となれば、それは問題の地域を狙う外部の侵略者の仕業である可能性が高い。しかし、その侵略者とは誰だろうか? 最近の研究でわかってきたのだが、ミュケナイ世界が衰退している間も、さらに鉄器時代の初期でさえ、ギリシャ本土と東地中海との交易は絶えてはいなかったようだ。もっとも、その交易を支配していたのは、もはやかつて青銅器時代の宮殿に住んでいた王侯貴族ではもうなくなっていただろう。

 一方、この時期にシリア北部のウガリトが海からの侵略者から攻撃されていたことは間違いない。それを証言する文献が大量に存在するからだ。この侵略者がどこかから来たのか、それを示す確固たる証拠はほとんどないが、それに「海の民」が含まれる可能性は否定できない。それに加えて、東地中海地域の都市国家の多く、特にウガリトでは、国際交易ルートの崩壊によって大打撃を受けた可能性がある。そしてこのようなルートは、海上の侵略者に略奪されたらお手上げだっただろう。長距離交易への過大な依存が後期青銅器時代末に見られる経済の不安定化を助長したのではないかと考えられる。発掘調査の結果、ウガリトは焼け落ちたことがわかっている。瓦礫の層は場所によっては厚さ2メートルにも達し、無数のやじりが遺跡全体に散乱していた。また数多くの貴重品が埋められていたのも見つかった。持主は取りに戻ってこなかったのだ。ウガリトは破壊された後、二度と再建されなかったが、それは交易ルートの断絶によって国際的な交易システム全体が崩壊したためと考えるのが最も論理的な説明だろう。


5)地方分権と民間商人の台頭

 青銅器時代に存在した古い中央集権的な政治経済体制が、鉄器時代の新しい地方分権型経済体制に変化していく過程において、その最後の一歩として登場したのが「海の民」だったという説だ。「海の民」による破壊よりも、社会政治的および経済的変化の方がはるかに重要であるとするものである。しかし、地方分権と民間商人の台頭が文明崩壊を引き起こしたということは、遺跡で見つかる文献にも、またその遺跡それ自体にも、それが破壊と滅亡を引き起こしたという証拠は全く見られない。彼ら民間商人は単に崩壊の混沌の中から現れてきたと見るべきだろう。


 これらのうち、「気候変動・干ばつ・飢饉」と、「侵略者と国際的な交易の崩壊」は間違いなく大きな要因となり得たと考えられる。「世界の歴史」シリーズの著者であるJ.M.ロバーツは、この混乱の時代を大局的に、「鉄の広まり」と相まった「富をめぐる争い」と捉え次のように述べている。


「ミュケナイ文明の崩壊から数百年の間、東地中海と西アジアは非常な混乱期にあった。この時代に起こったことは、一言でいうなら「古代世界最大の農耕地帯で次第に増加してきた富」をめぐる争いだった。周辺の砂漠や草原地帯や山岳地帯では富を見つけることができなかったいくつもの民族が西アジアの文明地帯に勢力を拡大しようとして争いが繰り返された。一般の人びとにしてみれば、ある日突然、家が焼かれ、人びとが奴隷として連れ去られたのだった。より穏やかな場合でも、突然新しい支配者が現れて、それまでより高い税を徴収し始めた。しかしその一方で、村に初めて鉄製の武器や農具がもたらされたことは、多くの人びとにとって大きな変化だった。もちろん何世代にもわたり、組織も習慣も変化しない町や村も多くあった。青銅器から鉄器への転換期に西アジアと東地中海の地域は混乱の真っ只中にあったが、古くから長期間続いてきた体制や、複雑な組織を持つ行政機構や、宗教や学問は存在し続けた。この地域の文明とすでに長い接触を持っていた侵略者たちは、既存の文明を破壊するのではなく、その成果を積極的に取り入れようとした。このような状況下で、西アジアでは文明化の波がさらに広まっていった」


 エリック・クラインによれば、「海の民」がラメセス3世の治世8年のエジプトを襲撃したBC1177年がターニングポイントとなり、「海の民」やレヴァント北部とシリア地方のアラム系の人びとによる侵略と移住によって後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の青銅器王朝文化は崩壊し、同時に鉄器時代が本格的に始まり、西アジアもエジプトもギリシャも混乱の時代に入っていった。この時代に歴史の転換点となるような重要な出来事が、古代文明の発祥地である西アジア、エジプト、エーゲ海、インド、中央ユーラシア、中国において、ほぼ同時に起こっていた。BC12世紀~BC10世紀の混乱の時代は、青銅器王朝文化を発展させていた国々にとって「暗黒の時代」となった。

 12世紀に「混乱の時代」あるいは「危機の時代」が到来するまでは、強大な王国であったエジプト、ヒッタイト、アッシリア、そしてカッシート朝バビロニアの間に政治的、経済的、軍事的バランスがほど良く保たれており、その結果、東地中海世界の国々は急速に文化的発展を遂げていった。これらの国々は貴族層を持ち、細分化された封建制社会であったが、国家構造が安定していたため、工芸や建築の分野においてまさに爆発的と言ってよいほどの発展を見せただけでなく、工業製品の大量生産も行われていた。海に陸に張り巡らされた通商路を通り、はるか遠くの地にある国々とも品々が交換された。キプロス、シリア、フェニキアの港湾都市では、東地中海、エーゲ海、黒海、中央ヨーロッパ、そしてエジプトや西アジアからもたらされた商品の交易で活気が満ち溢れていた。青銅器王朝文化が咲き誇ったこの13世紀といえば、60年以上にわたる支配を行ったエジプト第19王朝のラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)がルクソールとアブ・シンベルに壮大な神殿群を造営し、黒海への入口ヘレスポントス海峡に位置する伝説の都市トロイアはその文化的絶頂期にあり、アナトリアの中央部ではヒッタイトの首都にして西アジアの最も重要な政治的中心地であるハットゥシャが栄華を誇り、ギリシャではミュケナイやティリュンスの強力な要塞が建設されていたのである。

 この青銅器王朝文化が崩壊し始めたのはBC1200年ごろのことだった。しかしそれ以前から、ある種の政治的な不安定要因が目立ち始めていた。ギリシャやアナトリアでは、おそらく間近に控えた戦闘行為を予想して大要塞が次々と建設され、古くからの宮殿には防御施設が施された。そしてエジプトのラメセス王家に統治の危機がやって来た。国内には混乱が生じ、その直後に破壊の波が広がっていった。宮殿も含めたほとんどのナイル川下流域のエジプトデルタ地帯の都市の中心部がその犠牲となった。アナトリアの大国ヒッタイトは首都ハットゥシャと共に一夜にして消滅した。トロイアは炎の中に滅び去り、それ以後は部分的な再建が行われたものの、かつてのような重要性を持つことは二度となかった。シリアとパレスティナでは数多くの交易都市が破壊された。ギリシャ本土のミュケナイ、ティリュンス、ピュロスなどの王宮が荒廃の波に飲み込まれた。ミュケナイ時代のギリシャは、それから2~3世代のうちに多かれ少なかれ方向性を失い、徐々に衰えていき、結局は滅び去ってしまうのである。

 BC1200年ごろのこの大変動の中で破壊された宮殿や植民市が、その後再建されることはなかった。攻撃側の諸勢力もこれらの地域におけるその破壊行為から何の利益も引き出せなかった。またギリシャの王宮を破壊した者たちは封建社会の維持など一顧だにしなかった。その結果、この戦争は地中海世界を無意味な経済的・政治的混乱の中に陥れることになったのである。混乱は数世紀にも及び、後にこの時期は「暗黒時代」と呼ばれることになる。悲惨な状況の中で、人びとの生活は生きるか死ぬかという生存を賭した闘いと化してしまう。そしてこのような人びとにとって、高らかな目標を追求する文化的・芸術的業績などもはや問題外の代物でしかなかった。かつてなかったほど大規模な民族移動が政治的崩壊に伴って発生していた。

 青銅器時代(BC3100年~BC1200年)の経済的隆盛を築き上げた一つの前提あるいは産物は、文字に関する知識が広範囲に普及していたことである。エジプトでは王たちが自らの秀でた行為や徳などに対する果てしない賛辞を、後世のために書き留めるよう書記たちに指示を下していた。ヒッタイトではエジプトとは異なり、複雑な宗教的慣習を細部にわたって書き留めることが重視されていた。一方、封建社会のギリシャでは諸税や関税のリスト作成といった実用的な用途にのみ集中して文字が使用されていた。とりわけこれらの文字による記録文書のおかげで、青銅器時代末期の黄金時代の記憶がおぼろげながらも今日まで保存されてきたのである。しかしギリシャでは、鉄器時代の始めに起こった社会の没落が余りにも徹底的なものだったため、文字の知識すらほぼ400年もの間失われてしまった。この時代、ギリシャの住民は偉大なミュケナイ時代の宮殿の陰に簡素な家を建て、祖先の残してくれたある特定の金属製の道具や陶器などを使用していたが、自分たちはそれらの品々を生産する知識すら持ち合わせていなかった。



(西アジアにおける後期青銅器時代から鉄器時代への移行の様相)


 最初に鉄を使用したのはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトだった。BC16世紀に登場したヒッタイトはこの貴重な金属を独占し続けていたが、13世紀に彼らが衰退すると、製鉄技術は他の民族にも一気に広まった。その背景には、鉄は武器として強力だっただけでなく、銅や錫より豊富に存在したという事情もあった。特に錫は産地が限られ貴重だった。但し、世の中が一気に鉄器時代に移行したわけではなく、銅と青銅が最初は石器を補う存在であったように、鉄も最初のうちは青銅を補うものとして用いられていた。また、地域によっても鉄器への移行時期には差があった。一般的に西アジアにおける鉄器への移行は12世紀からといわれる。キプロス島では11世紀、エーゲ海では10世紀からとなる。東地中海における青銅器から鉄器への移行はBC12世紀からBC10世紀にかけての数百年の間に行われたことが、その出土数から実証されている。量的に鉄器が青銅器を上回るのはBC10世紀になってからである。


 BC1200年ごろに西アジアで起こった事象の一つとして青銅器時代から鉄器時代への転換が挙げられる。鉄製品は西アジアにおいて青銅器時代にはすでに出現していたが、BC1200年ごろを境として急激に出土数が増加し、また技術的な進歩が見られ、それまでは主に装身具や祭儀器に利用されていたものが、武器や道具など利器への利用に転換する。青銅器から鉄器への移行の度合いを測る目安としては次の3つが挙げられる。


① 武器や道具などの利器における青銅器に対する鉄器の割合

② 鉄器が使われている器種の構成:鉄製の装身具は青銅器時代の「貴金属としての鉄」の性格を継続している。農工具など日常の実用品への鉄器の使用は一定の鉄器の生産量があったことを示す指標となる

③ 鉄製品そのものの技術的進歩:利器としての鉄器には欠かせない鋼の登場。浸炭、焼き入れなどの加工技術の存在。また一つの製品を、一部を青銅、一部を鉄で製作する技術。


 アナトリアで後期青銅器時代に栄えたヒッタイトは、主に文字資料から「鉄を生み出した国」として広く知られている。しかし実態は、文字資料・考古資料双方からも、ヒッタイトで使用されていた金属器は主に青銅器であり、鉄製品の使用は限られていた。とはいえ、BC1200年ごろという比較的早い時期から鉄製品を使用していた事実に変わりはない。


[東地中海世界の交易網の軸としてのキプロス]

 キプロス島はBC12世紀~BC11世紀の鉄器が最も多く報告されている地域である。キプロスは後期青銅器時代に銅の産地として東地中海世界の交易網の軸として繁栄しており、銅生産の副産物としての鉄をすでに知っていた。BC1200年ごろに始まる初期鉄器時代の大激変の中においても、交易の軸としての地位を維持しようとして積極的に鉄器の開発と流通に乗り出したことが、東地中海世界を起点とする鉄器時代の始まりの一因であると考えられる。BC12世紀にパレスティナで出土する鉄器や、BC11世紀以降にクレタ島やギリシャで出現する鉄器はその活動の結果である。



(後期青銅器時代崩壊の要因とその後)


<後期青銅器時代崩壊の要因>

 あらゆる社会にはいつか必ず崩壊が訪れる。反乱が鎮圧され、原材料が発見され、新しい市場が開かれ、価格管理が実施され、商人の財産が没収され、禁輸措置が敷かれ、そして戦争が起こる。このように中核国の指導者たちは、たいてい不安定の原因ではなく症状に対処しがちである。エーゲ海・東地中海地域において後期青銅器時代末に王宮中心文明が暴力によって破壊させられたことは、文献からも考古学的資料からも明らかである。その王宮中心の社会システムを崩壊へと導いた要因には、地震、気候変動による飢饉や干ばつ、内乱、外敵の侵入、交易ルートの断絶があった。これら個々の要因が重なり、王宮中心の社会システムが崩したと考えられる。元をたどれば、王宮に権力と支配が集中し過ぎたのが原因だといえる。後期青銅器時代の崩壊の原因は、予測不能な気候変動によって引き金が引かれ、さらに地震や敵の侵略によって早まったと考えるのが最も妥当ではないだろうか?

 エジプトのハトシェプストが共同統治者として即位したBC1490年ごろからBC1200年以後に全てが崩壊したときまで、300年を超える後期青銅器時代に東地中海地域は国際化された複雑な世界の舞台となっていた。そこでは、ミノア人、ミュケナイ人、ヒッタイト人、アッシリア人、バビロニア人、ミタンニ人、カナン人、キプロス人、そしてエジプト人すべての相互作用によって、それ以前には存在しなかったような、きわめて国際主義的なグローバル化された世界システムが生みだされていた。まさにその国際化こそが、青銅器時代を終わらせたと言えるかもしれない。西アジア、エジプト、ギリシャの文化は、BC1177年ごろにはきわめて複雑に絡み合い、相互依存を強めていた。そのため、一つがつまずくと他も引きずられて倒れる結果になってしまった。繁栄する文明が一つまた一つと、人の手で、自然災害で、あるいはその致命的な外交・商業・輸送・通信のネットワーク(組み合わせ)が断たれたことによって、破壊されていったのだ。

 後期青銅器時代の終焉は、数十年、おそらくは1世紀にもわたって流れる水のように絶え間なく進展してきた事件である。それに続く鉄器時代への移行も事情は同じだ。つまり、その崩壊と移行は段階的に進行し、およそBC1225年からBC1175年まで、また場所によってはBC1130年までかかっている。確実に言えるのは、エーゲ海および西アジア、エジプトでは、BC1225年には広域にわたる文明がいまだ繁栄を誇っていたのに、それがBC1177年ごろには消滅に向かい始め、BC1130年にはほぼ完全に消えていたということだ。強大な青銅器時代の王国やその周辺の国々は、その後に続く前期鉄器時代(BC12世紀~BC10世紀)の間に、徐々に小規模な都市国家に置き換わっていった。その結果、BC1100年ごろの地中海・西アジア世界の景色は、これまで見てきたBC1200年のそれとはかなり変わってきているし、BC1000年ともなればまるで別世界である。


<後期青銅器時代崩壊の後>

 ギリシャ本土におけるミュケナイ、テーバイ、ティリュンス、ピュロスをはじめとする多くの王宮の破壊は、予期しない災厄などではなく、BC13世紀半ば以降にミュケナイ世界を悩ませてきた長い騒乱の時代の総決算だったといえる。ミュケナイ文明の崩壊がすべて終わった後には、明らかに王宮はなく、文字もなく、また行政組織もすべて崩れ去って、王という概念は古代ギリシャの政治制度の枠内にはもはや存在しない状態になった。後期青銅器時代に東地中海で繁栄したウガリトその他の都市についても、読み書きに関しては同じことが言える。都市が終わると同時に、レヴァントでは楔形文字も終わりを迎え、別のより便利で使いやすい文字に置き変わっていたのだ。

 後期青銅器時代の崩壊から世界が立ち直ったとき、それはまさに新時代の幕開けであり、成長の新たな機会の訪れだった。特に大きかったのはヒッタイトの滅亡とエジプトの衰退だ。この2国は自国領土を治めていただけでなく、後期青銅器時代の大半の期間、シリアとカナンの大部分を分け合って支配していたからである。地域によってはある程度の継続性は保たれており、例えばメソポタミアの新アッシリアなどがそうだが、しかし全体として見れば、それは新たな強国の時代であり、新たな文明での出直しの時代だった。

 古い世界の灰の中から、アルファベットその他の新機軸が生まれてくる。いうまでもなく鉄の使用が劇的に増大し、それが新たな時代、鉄器時代の到来だ。後期青銅器時代は青銅器王朝文化と呼ばれ、古代の黄金時代として国際経済が花開いた時代だった。しかしその華やかだった文化も、地震、干ばつや飢饉、内乱、移民や侵入者によって終わりを迎え、一からやり直しを迫られた。そしてその結果として、東地中海ではイスラエル人、アラム人、フェニキア人、そして後のギリシャのアテナイやスパルタのような新しい民族や新しい都市国家が自己を確立することができた。そこからは新たな発展と革新的な思想、一神教や民主主義が生まれてきた。

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