第74話 青銅器から鉄器への移行期の混乱の時代(BC1200年~BC1000年ごろ)

 古代世界で最も活発に変化が起こり続けたのは西アジアの「肥沃な三日月地帯」である。BC2000年を過ぎるとまもなく、さまざまな民族の移動がきっかけとなり、西アジアの歴史は新しいページを開くことになった。なかでも、世の中を大きく変えたのは、肥沃な三日月地帯に東西から押し寄せてきたインド・ヨーロッパ語族の動きだった。そこにはヒッタイト人やギリシャ人の祖先も含まれていた。その結果、西アジアの先住民であるセム語族はメソポタミアのティグリス・ユーフラテス両河流域ではインド・ヨーロッパ語族と衝突し、シナイ半島や地中海東岸では「海のたみ」という謎の民族とも戦闘を繰り広げることになった。インド・ヨーロッパ語族の別の一派はイラン高原にも侵入し、後の時代に西アジア最大の帝国、ペルシャ帝国を築くことになる。さらに、インド・ヨーロッパ語族はインドにも侵入した。BC2000年からBC1000年までの時期に、各地で王国が盛衰を繰り返しているが、その背景にはこうした大規模な民族の移動があったことは間違いない。

 もとは中央ユーラシア・ステップ地帯で発展した遊牧民だったインド・ヨーロッパ語族が使用したウマに牽かせた二輪戦車と騎兵は、西アジアの平野部での戦闘に革命的な威力を発揮した。シュメールの絵画を見ると、そこに描かれているのはロバに牽かせた四輪馬車で、それは荷物や人を積んで移動する荷車に過ぎなかった。ところが、インド・ヨーロッパ語族が操っていたのは本物の戦車で、御者と射手の二人が乗り、走りながら攻撃することができた。BC1000年を過ぎると、鎧を着た騎兵が登場し、その重量とスピードで歩兵を圧倒するようになった。これ以降、重騎兵が戦争の主役となっていった。


 後期青銅器時代(BC1600年~BC1200年)の青銅器王朝文化の時代、文明発祥の地である西アジア、エジプト、東地中海地域は国際化社会にはなったが青銅器時代は終盤に近づいていく。鉄がいろいろな道具や武器の製作に優れた材質であることが分かり、その鉄の技術が新来の民族の手に渡ると、旧来の王朝国家の運命は決してしまった。新来の民族の中でも特にエーゲ海の彼方から現れ、BC13世紀ごろに西アジアとエジプト世界に侵入してきた混成民族集団は、後にひとまとめに「海の民」という名で知られるようになる。BC1250年ごろのトロイアの滅亡も民族移動の連鎖が地中海沿岸全域に到達して、その結果生じたことかもしれない。「海の民」は新天地を求めて、既成の勢力が衰弱して彼らに太刀打ちできなくなった土地を征服して居住するようになっていった。こうして彼らの名前は地中海沿岸地域や島々にまき散らされ、東はレヴァント南部のパレスティナやフィリスティア、アナトリア南部沿岸のシリアとの国境地域のキリキア、西はイタリア半島のエトルリア(現在のトスカーナ地方)やサルディニア島に至るまで今日もその名残を留めている。

 彼らは足がかりが得られる所ならどこへでも移住していった。彼らの到来によって各地住民の移動が誘発され、その動きは連鎖的に拡大していき、ついには反対側からやってきた類似の移住集団と出くわすまでになった。こうしてキリキアのフルリ人たちは北東に避難して、ヒッタイトの本拠地であるアナトリア中央部に侵入し、ヒッタイト王国を終焉させる一因となった。ヒッタイトの難民は逆に南東方面に向かい、シリア北部の旧ミタンニ領に移動した。ここで彼らはシリア砂漠から北上してきたセム系のアラム人と遭遇し、一体化していく。代わって、ミタンニのフルリ人たちは北東方面のヴァン湖地方に移動して、ウラルトゥ人の祖先と合体することになる。遥か南方のレヴァントでは、カナン地方のアムル人その他の民族が、海岸地方を占拠したペリシテ人たちや南方や東方から移住してきたイスラエルの民に押しつぶされ隷属させられた。同じころ、シリア砂漠方面からアラム系部族がメソポタミア北部へ侵入してきた。



(西アジア)


 BC12世紀ごろから始まる、レヴァント北部とシリア地方のアラム系諸部族によるメソポタミア各地への移住は、メソポタミア北部を見舞った気候条件の悪化による飢饉と相まって、メソポタミアの政治的秩序と人口動態に大きな影響を及ぼした。ヒッタイトは飢饉による社会不安に加えて、王位継承問題から王族間に不和が起こり、シュッピルリゥマ2世(在位:BC1207年~BC1180年ごろ)の時代のBC1180年に、首都ハットゥシャは、おそらくヒッタイトの弱体化を待ち構えていた宿敵カシュカによって焼き払われてヒッタイト王国は崩壊した。一方、一度はティグリス川上中流域とその西方に広がる地域に確立されたアッシリア(中期アッシリア)の領土は、アラム系諸部族の侵入を受けて縮小した。アラム系諸部族はティグリス川下流域とユーフラテス川中流域にも進出し、メソポタミア南部にイラン高原から定住したカルディア系諸部族とともに、以後のメソポタミア世界の重要な要素になっていった。

 ユーフラテス川以西のシリア諸都市は、ミタンニ滅亡後、ヒッタイトの勢力下に置かれたが、BC1200年ごろにアナトリア南部やエーゲ海からレヴァントに移住した「海の民」やシリア砂漠の外縁から北シリアに入ったアラム系の人びとの影響を受けて崩壊した。その後BC10世紀ごろには、ヒッタイト系、アラム系、その他の北西セム語系の小王国によって新たなシリア世界が再編された。ヒッタイト系はカルケミシュを拠点に小王国を築いていた。この時代に多くのアラム人のメソポタミアへの流入により、その後、アラム語は新アッシリアと新バビロニアの公用語となった。アラム語は粘土板より朽ち易い羊皮紙に書かれることが多く、そのためアラム語のアルファベット文字についてはほとんどが謎である。かつてシュメール語がアッカド語に取って代わられたように、アッカド語は死に瀕し、至る所でアラム語に取って代わられた。



(レヴァント)


 BC1200年ごろ「海の民」による混乱の中で、前期青銅器時代(BC3100年~BC2100年)から栄えていたシリア北部海岸に位置するウガリトが滅亡し、ウガリトが覇を唱えていた現在のシリア・レバノン地方では、港湾都市ビブロス・シドン・テュロスなどを拠点としてフェニキア人が東地中海の制海権を獲得し、本格的に海洋に乗り出した。それは「海の民」がカナン人と合体して吸収され、フェニキア人となった姿だった。「海の民」はこの融合過程の中で航海技術を持込み、それによってフェニキア人が生まれたと考えられる。この混血によって生まれた新しいフェニキア人の誕生こそ、地中海域での発展の契機となった。BC1100年ごろ、クレタの東地中海での海上支配権はもはや存在しなかった。海は自由に解放されていたし、フェニキア人の手には立派な船があり、勇敢な船長たちもいた。BC1100年ごろに地中海全域への植民活動が始まり、ジブラルタル海峡にまで達した。こうした展開を主導したのはフェニキア南部の都市、テュロスとシドンであった。テュロスとシドンは対照的な都市で、テュロスは島の港町だが、シドンは海岸平野を有し、現在のレバノンとイスラエルの境界に位置するベッカー渓谷南部に通じる通行路の要衝の地でもあった。そして、フェニキア独自の言語や文化とともに、22の子音字を持つ文字、アルファベットの原形が生まれるBC11世紀の後半には、フェニキアは活発な取引と商圏拡大の時代に入り、さらなる発展の基礎が築かれたことが考古学的に裏付けられている。


「海の民」はウガリト文書ではシキラ(船上で暮らす民)の名で呼ばれる人びとである。ウガリト王アンムラピから、より高位の王であるキプロス王に宛てた粘土板の手紙が残っており、その緊迫した恐怖の様子がうかがうことができる。


「わが父よ、とうとう敵の7隻の船団がやって来ました。彼らは我が国の各都市に火を放ち、国土に損害を与えてきました。父上はご存じないのでしょうか、我が国の歩兵と(二輪)戦車はすべてハッティ(ヒッタイト)に駐屯、我が軍船はすべてルッカの地に終結しており、まだ戻ってきておりません。我が国は完全に無力です。父上、どうかこの問題をお心に留めてくださるように。現在、敵の船7隻がやって来て我が国に害をなしています。これ以外にも敵の船が現れましたら、何とかご連絡をたまわり、私にお教えくださるようお願い申し上げます」


 大きな火災のあった証拠が2メートル近い地層となってウガリトの遺跡に残っている。たくさんの鏃や武器や道具の貯蔵所が出土したが、人骨は一つも出てこない。町が火に包まれる前に身一つで逃げ出すのがやっとで、貴重品を運び出す余裕がなかった証拠だ。ウガリトの復活はなかった。


 ウガリトの南方に位置するフェニキア人の町は生き残り存続した。特に、ビブロス、シドン、テュロスといった主要な都市は、それぞれに脅威となる相手と折り合いをつける術を持っていたに違いない。BC1177年ごろにエジプトが「海の民」に勝利したのに助けられたのは間違いないが、「海の民」の後期の集団は、BC12世紀後半、カナン南部を支配していたエジプトを駆逐することに成功した。エジプトの要塞都市を破壊した後、彼らはフィリスティアに定住して、アシュケロン、アシュドッド、テル・ミクネなどに都市を建設した。これらの人びとは聖書に記されたペリシテ人である。また、内陸のカナンの地には地元部族の間にイスラエル人も移住してきたために、フェニキア人としては自分たちの領土が縮小してきた感があった。あとは海に目を向ける以外の選択肢はなかった。そこでフェニキア人はこれまでより精力的に地中海の西側や、その先の西アフリカやブルターニュ、ブリテン島まで資源や市場を求めて足を延ばした。BC10世紀までに彼らは至る所に拡がって行ったが、その実体ははっきりしない。おそらく彼らには民族としてのアイデンティティがなく、自分たちを内陸に住むカナン人の仲間とは考えていなかったと思われる。フェニキア人は偉大な職人で、その工芸品は至る所で取引されたが、彼らの記録は全く残っていない。歴史家も詩人も作家も名前が残っていない。彼らが記録媒体として使っていたのはパピルスであったことや、古代フェニキア都市は街づくりには好適な場所だったため、現在もその上に市街が拡がり、古代の都市はその下に埋もれていることが、彼らの歴史を分かり憎くしている。


 BC13世紀の最後の四半期からBC12世紀初頭にかけては東地中海全域が大変動に見舞われた時期だった。一つには「海の民」と総称される異国人の侵入が引き金となって、ミュケナイ文明の都市国家群とヒッタイト王国が崩壊し、地域勢力のアッシリアとエジプトも衰退する。その一方で、パレスティナの初期イスラエル人やシリアのアラム人といった半遊牧民が小さいながらも勢力を拡大していく。今日の研究では、BC12世紀初頭の東地中海と西アジアに起きた政治的・経済的地図が一変するほどの変化は、内外のさまざまな要因が複雑に絡み合った結果とされている。地質学的には環境と気候の変化が指摘されており、気温と海面が徐々に上昇している。社会経済的な面では、青銅器時代後期の都会的な「宮廷」体制の崩落が、地域全体の生活・交易・交通のパターンの大きな変化につながった。パレスティナとシリアでは牧畜が出現し、社会的な力を拡大していったことが居住地のパターンの変化、すなわち集落が海岸平野から徐々に内陸の草原や山岳地帯へ移動していったことに示されている。後期青銅器時代には支配的だった都会的な都市国家体制が、今や村落的な居住地という新しいパターンに取って代わられたのである。

 こうした変化はフェニキアの周辺地域にはどう表れたのか? レヴァント北方ではアララクとウガリトがBC12世紀初頭に劇的な滅亡を遂げている。ウガリトでは大規模な破壊の跡が見つかっており、町がその後放棄されていることも破壊の大きさを物語っている。その直前にウガリト最後の王アンムラピとアラシア(キプロス)王の間で交わされた手紙には、北シリアの海岸に敵の船が現れたことが記されており、「海の民」の来襲という解釈は適切だろう。キプロス島の考古学調査でもウガリトと同様に、エーゲ海から新来者のあったことが明らかにされている。おそらくキプロス島はレヴァント本土を海から襲撃する際の足場に使われたと思われる。フェニキアの北端の港町テル・スカスも破壊されたが、壊滅的な被害は受けなかったようだ。後期青銅器時代の建物が再利用された明らかな証拠があり、引き続き居住者があったことがわかる。その北のラス・イブン・ハニについても考古学資料から同様の結論が出されている。南方では、イスラエル北部海岸沿いのテル・ドルとその北側のいくつもの都市について、やはり継続的に人が住んだことが証明されている。しかし、物質文化には著しい変化があり、「海の民」の定住と結びつけられている。但し、それらの都市、アブ・ハワム、アッコ、アクジヴの鉄器時代初期の住居跡には建物はほとんどなく、地域の生活に使われた産業設備、炉、窯、内側を石で覆ったサイロなどが見られるにすぎない。

 では、フェニキア本土の地域ではどうだったのか? 考古学的資料は完全とは言えないが、海岸沿いのどの都市についても大きな破壊や崩壊があったことは示されていない。テュロスの発掘調査では、後期青銅器時代末期のBC13世紀からBC9世紀まで絶え間なく建築工事が行われていたことが明らかになっている。それに加えて破壊や放棄を示す明確な層位学的証跡は発掘調査では見つかっておらず、逆に鉄器時代にも引き続き使われたらしいファイアンス(ガラス質の光沢を持つ陶器など)の製造地区が発見されたことによって、都市が存続したことが証明されている。テュロスの北のサレプタでもテュロスと同様に層位学的証跡から、後期青銅器時代から鉄器時代初期にかけて切れ目なく人が住み、文化的にも断裂がないことが示されている。両時代の土器に連続性があり、建築物や産業設備が継続的に利用されている。但し、どちらの遺跡でも近隣の遺跡と同様に、BC12世紀の居住跡からは貯蔵用のサイロや窯といった明らかに地域の産業に使われた極めて質素な建築物が発見されているだけである。また、どちらの遺跡にもある程度の文化的衰退が見られ、輸入品の土器類が明らかに減ったり無くなったりしている。ずっと北のアッカル平野のエレウテロス河畔にあるテル・カツェル(古代のシミュラ)の発掘でも、鉄器時代初期まで継続的に定住者があったという証拠が見つかっている。ここでも大きな破壊や放棄の時期があったことを示す考古学的証跡は見つかっていない。南のアッコから北のアルワドに到るフェニキアのすべての都市が青銅器時代後期の地名を残していることは、ずっと人が住み続けてきた証しかもしれない。フェニキアの諸都市は生き残ったのだ。

 さらに、フェニキアの都市には、パレスティナ南部や中部の海岸に位置するフィリスティアからテル・ドルまでとは対照的に、「海の民」の流入や定住に関する記録や伝承が全く残されていない。このように、フェニキア海岸には何らかに混乱はあったにしても、永続的な影響は残らなかったということになる。考古学的資料はむしろ、フェニキア本土地域には継続的な居住者があったことを示しているが、経済的なレベルは明らかに低下していた。このときフェニキア人を見舞った経済的衰退を招いた最大の要因は、ミュケナイ文明とヒッタイト王国の滅亡、キプロスの破壊、エジプトの衰退により国際交易を失ったことである。


 フェニキア人が西アジアで営んでいた交易もエジプトとの交易と同様に、BC12世紀には急速に衰退した。それまでの市場が力を無くし通商路が消えたからである。メソポタミアでは凶作と政治不安、それに南東のエラム人に侵入され、アッシリアとバビロニアの両方がその長い歴史の中で最も弱い国に転落する。バビロニアでは金本位制がBC13世紀には機能しなくなり、BC12世紀中ごろにはしばらくの間、銅本位制に代わっている。これは明らかにエジプトとの長距離交易の著しい衰退が引き金になった変化である。このアッシリアの勢力低下とヒッタイトの滅亡から、シリアではユーフラテス川の向こう側との通商路が深刻な妨害にさらされた。遊牧民のアラム人の集団に対してまるで無防備な状態に陥ったからである。内陸交易の激減はベッカー渓谷のカミド・エルローズのような要衝の都市が消滅したことでもはっきりとわかる。後期青銅器時代にはエジプト交易の通過点として繁栄した町だった。その時代に同様に商業センターとして栄えたライシュとハツォルの衰退も、とりわけテュロスやシドンといった同じ商圏にあった港町には大きな痛手だっただろう。しかしながら、もう一つの重要な交易のパートナー、北のウガリトが突然滅亡し姿を消したことは、フェニキアのその後の商業発展に道を開いたのかもしれない。後期青銅器時代のウガリトは、内陸・海上どちらの交易にも、レヴァント海岸のすべての港町の中で明らかに一番力を振るっていた。そのウガリトが国際的な舞台から消えたことで、東地中海の商業的な勢力バランスが明らかに変化し、新しいビジネスチャンスが生じた。それをつかむのに理想的な位置にいたのがフェニキアの諸都市だった。内陸の市場が著しく縮小されていたために、フェニキア人はキプロス島へと交易の方向を転換した。そのキプロスは「海の民」による破壊からの急速な経済復興の最中にあった。



(エジプトの衰退)


 エジプトではエジプト第19王朝のセティ1世(在位:BC1294年~BC1279年)の時代にはパレスティナに対する大規模な軍事遠征が行われ、続いてパレスティナ奥地からシリアにまで軍を進めたが、それは一時的な成功だった。その後もパレスティナを舞台に領土争いが長期にわたって繰り広げられ、また次のラメセス2世(在位:BC1279年~BC1213年)はヒッタイトの王女を妃に迎え、ヒッタイトと友好関係を結んだりもした。しかし、まもなく新たな敵が登場し、ヒッタイトとの同盟関係も安全を約束してくれるものではなくなった。エーゲ海地方で起こった動乱は「海の民」と呼ばれる複数の種族によってもたらされた。「海の民」は後に鎮圧されるが、彼らとの戦いは過酷なものだった。この動乱の時代に、エジプト人がヘブライ人と呼んだセム語族系の小集団が、それまで暮らしていたナイルデルタ地帯を去り、彼らの伝承によればモーセに従ってシナイ半島に入っている。彼らが信仰した一神教、つまりユダヤ教は後に世界の歴史に大きな影響をもたらした。


 フェニキアの最大の市場だったエジプトは、BC12世紀に財政的、環境的要因が重なり国力をひどく低下させている。北東アフリカが慢性的な干ばつに見舞われ、ナイル河畔に凶作が続いた。激しいインフレと労働不安に追い打ちをかけられ、エジプトの経済は弱体化する。

 エジプト新王国、最後の第20王朝(BC1186年~BC1069年)の時代の始めは「海の民」との戦いであった。ラメセス3世(在位:BC1184年~BC1153年)はパレスティナ南部に防衛ラインを築き、地上・海上いずれの戦いでも敵の撃退に成功した。新たな民族が登場したことで、近隣諸国に対するエジプトの統制力は弱まり、それと同時に国内経済も衰えたようだ。民衆の暮らしは困窮し、労働者たちのストライキも起こった。テーベにある王墓は次々に盗掘され、ファラオの権威は失墜し、代わって神官と役人が権力を握った。また、エジプトだけでなく、かつてエジプトが支配したレヴァントやシリア地域もすっかり勢いを失っていた。第20王朝のラメセス3世の後は無力で無能な支配者が続き、国内の問題は少しも解決されなかった。ラメセス3世の死は、事実上エジプトの西アジア支配の終焉を意味した。結果として、戦利品と租税という国外からの収入の基礎が失われ、すでに疲弊していた経済は衰退の一途をたどる。フィリスティア人(ペリシテ人)と他の「海の民」であるチェケル人やシェルデン人などがパレスティナ海岸に住みついたことによって、エジプトと南部アナトリアやレヴァントとの交易に甚大な影響が及んだことも疑えない。エジプトは南部アナトリアの鉱物資源にも手が届かなくなった。交易の著しい衰退は、ラメセス3世時代を記録したハリス・パピルス(パピルスの巻物)にうかがえる。地中海交易の商船が建造された記録はたった2隻分しかない。エジプトとフェニキアとの間の海上交易は、おそらくラメセス6世(在位:BC1143年~BC1136年)の時代には消滅している。



(ギリシャとエーゲ海沿岸地域)


 BC13世紀から続いたギリシャの暗黒時代は10世紀まで続いたようだ。ギリシャの暗黒時代は移動の時代である。ミュケナイ文明のアカイア人国家の凋落とドーリア人の侵入は、およそ300年間にわたって人びとのさまざまな移動を引き起こし、そのためエーゲ海域でのギリシャ人の分布もすっかり変わってしまった。特に、BC1200年の前後数十年間に東地中海全域を襲った大変動による移動は顕著だったようだ。この一連の移動はBC9世紀にはほぼ終了するが、エーゲ海地方におけるBC1100年からBC1000年にかけての人口減少は顕著だった。それは特に工芸品の衰退という形ではっきりと現れている。宝石の加工、フレスコ画の政策、土器作りなどは、このときにみな完全に止まったようだ。時代を超えて継続したのは、歌や神話、宗教など、主に無形の文化だけだった。BC10世紀になると、人口も増加し、定住した人びとの土地を求める欲求が高まり、エーゲ海沿岸地域への植民活動を引き起こした。この時代に独立した都市国家、すなわちギリシャ社会のその後1000年にわたる安定をもたらすポリスを形成した。再び読み書きが登場したとき、それはもはや古い形態の線文字Bではなく、フェニキア人から借用した全く新しい書字法だった。しかし、この期間ギリシャ文化がすべて消えてしまったわけではなく、口承の形をとるようになったのだ。後に文字に定着するホメロスによる「イーリアス」と「オデュッセイア」はどちらもこの時代のものだ。


 ミュケナイ文明はBC1400年までにギリシャ本土全域と多くの島に広まった。それは全体として一つのまとまりを持った文化だったが、ギリシャ語にはいくつかの方言があり、それによって種族が分かれていた。やがてミノア文明に代わってミュケナイ文明が地中海交易を支配するようになった。ミュケナイはBC15世紀からBC14世紀にかけて最盛期を迎えた。ミュケナイはアナトリア西部の小アジアの沿岸に一連の植民地を建設し、他の町との交易、特にトロイアとの交易を通じて繁栄した。ところが、BC1300年ごろからミュケナイ文明の繁栄に陰りが見え始めた。有名なトロイア戦争はBC1250年ごろに起こっている。こうした戦争を戦う一方で、ギリシャ本土の諸都市では支配者たちが権力争いを続けていた。

 そしてエーゲ海の暗黒時代ともいうべき時期がまもなく始まる。BC13世紀末からBC12世紀初めにかけて、ミュケナイ人の多くの都市、ミュケナイ、ティリュンス、メディア、ピュロス、テーバイなども破壊されている。近年の調査では、さらに多くの都市や町が破壊されたり、放棄されたりしていたことが分かってきた。何かの動乱が起こったのは明らかである。さらにBC13世紀の終わりに主要な都市がおそらく地震によって破壊され、ミュケナイ文明は終わりを迎えた。このとき都市のすべてが廃墟となったわけではないが、生き残った都市もかつての繁栄を取り戻すことはついにできなかった。王たちの財宝は消え去り、王宮も二度と再建されなかった。

 このとき新たにやってきたのが、14世紀中ごろからすでに移動を開始していたインド・ヨーロッパ語族だった。この暗黒時代を抜け出すきっかけとなったのは、ドーリア人とイオニア人の活躍だった。ツキディデスによれば、、鉄器を携えたドーリア人の侵入は、トロイア戦争から数えて80年後なのでBC1170年ごろとなる。ドナウ川流域からやってきたドーリア人は、ギリシャ半島西部のイリリアからエペイロス、あるいはギリシャ半島東部のトラキアとマケドニアを通ってギリシャ南部に下り、最南端のペロポネソス半島に到達した。さらに、エーゲ海からクレタ島にまで達したようだ。ドーリア人は勇猛で武力に優れていたため、後にヘラクレスの子孫と考えられるようになった。ドーリア人が建設した町からはスパルタやアルゴリスなどの都市国家が誕生した。一方、イオニア人はアッティカ地方に定住し、その後キクラデス諸島と小アジアのエーゲ海沿岸地方に進出した。海賊でもあったイオニア人は既存の町を占拠したり、新しい町を建設したりして、後の都市国家の基盤をつくった。彼らが選んだ場所の多くはミュケナイ時代の植民地だった。この時期のエーゲ海地方は混乱していたため考古学的な史料や文献はあまり残されていない。このとき起きたエーゲ海地方の衰退ぶりは古代の文化生活がいかに脆いものであったかを教えてくれる。BC1100年からBC1000年にかけて急激に人口が減少している。何が原因かはよく分かっていないが、その様子は特に工芸品の衰退という形ではっきりと現れている。フレスコ画の制作、土器造りなどは完全にストップしている。

 やがて東方貿易の再開に支えられて、12世紀から8世紀初頭まで400年以上続いた混乱の中からようやく新たな文明、ギリシャ文明が起こった。そのときまでに古代ギリシャ人がエーゲ海の島々と小アジア沿岸地域の両方に移住していたことが非常に重要な意味を持つことになる。なぜなら、彼らによってギリシャ本土を含むヨーロッパと西アジアを結ぶ接点が数多く誕生し、文明の基礎を築くことになるからである。但し、西アジアとヨーロッパの橋渡しをしたのは古代ギリシャ人だけではなかった。新しい文明の種は他の偉大なる商業の民、フェニキア人によっても広められていた。


 ミュケナイ文明の発達した時代には、ギリシャ本土とカナン(レヴァント)の海岸を隔てる1300キロの海を渡って広い範囲で交易が行われており、そこにエジプト、クレタ島、ヒッタイト、アッシリアの人びとを結ぶたくさんの海路が出来ていた。そういった交易の多くはBC13世紀からBC10世紀の間に衰退してしまった。「海の民」がエーゲ海とエジプトの沿岸地域を脅かしたためである。

 鉄器の出現と、土葬に代わって火葬という新しい葬儀方式が現れたこととは、おそらくドーリア人の到来以前に起きている。BC13世紀からBC12世紀を通じて、東地中海を取り囲む地域の全域で非常に複雑な民族移動が起きており、そのことはエジプトの資料に「海の民」と呼ばれる混成民族による襲撃事件が繰り返し述べられていることによって裏づけられる。これにはギリシャ人が加わっていたことも確かである。これらの襲撃は、初めは撃退されたが、次第に侵略者のほうが優勢になり、西アジアとエジプトの政治的均衡に重大な影響を与えることになる。ヒッタイトは消滅し、エジプトも西アジアにおける領地を放棄し、ナイルデルタにまで後退した。地中海東部の海域で商業に有利に働いていた諸条件は海賊行為の横行のまえに姿を消した。特にミュケナイ人は交易によって利益を得ていただけに、この変化から大きな苦しみを受けた。ミュケナイ人たちは互いに相争い、仲間同士の争いの中で次々と部分的破壊を被り、彼らの国家は大部分が瓦解していった。文化も急速に衰退し、ついには「線文字B」の筆記慣習も含めて先祖たちの豊かさの源泉は忘れられ、不毛化して再生能力の全てを失ったのである。この頃ドーリア人たちはギリシャ世界に広がって行ったが、彼らが見出したのは輝きに満ちた文明などではなく、滅びゆく社会の瀕死の文明でしかなかった。BC10世紀になると、人口も増加し、定住した人びとの土地を求める欲求が高まり、エーゲ海沿岸地域への植民活動を引き起こした。

 この時代に独立した都市国家、すなわちギリシャ社会のその後1000年にわたる安定をもたらすポリスを形成した。現代の町くらいの小さな単位のポリスが山脈で隔てられた小さな平地のそれぞれを統治していた。おそらくポリスというのは野蛮な民に対抗する必要から発生したもので、生活圏と市場を砦で囲んだものだった。アクロポリスというのは「高い場所にある町」という意味である。このポリスという単位は、畑、果樹園、河川が全体に拡がった田園地帯で自給自足するにはちょうど良い規模だった。こうした生活の必然から、ギリシャ人は「小は美なり」という価値観を生み出した。アリストテレスはBC4世紀の著作で、ポリスの人口は一人の指導者が管理できるくらいの少ない人数であるべきだと言っている。市民の数は5000人が理想で、それに女、子供、奴隷を合せて総数2万5000というのが好ましいとする。奴隷は主に異民族(バルバロイ)の戦争捕虜で、鉱山や畑で働かされていたようだ。しかし、アリストテレスの時代にはすでに理想と現実はかけ離れていて、アテナイとその近隣におよそ4万人の市民がいて、総数では20万人ほどだった。確かにドーリア人の到来はギリシャの貧困化を加速したが、それがより豊かなアナトリア沿岸の土地に向かっての移動を引き起こし、ギリシャ文明はそこで力と輝きを取り戻すこととなる。しかし、外部世界との交易が復活し、西アジア・エジプトとの接触により本来のギリシャが豊かになり、少しずつ息を吹き返すのはBC9世紀以降のこととなる。


 BC13世紀から続いたギリシャの暗黒時代は10世紀まで続き、アカイア人国家の凋落とドーリア人の侵入は、およそ300年間にわたって人びとのさまざまな移動を引き起こし、そのためエーゲ海域でのギリシャ人の分布もすっかり変わってしまった。その間には、BC1250年ごろのトロイアの町の破壊もあった。新しくやってきたドーリア人がギリシャ半島の大部分と、ペロポネソス半島を占めていったのに対し、先住のアカイア人は東方のキクラデス諸島やアナトリアの沿岸へ向かい、特にエーゲ海に面した小アジアの周縁部全域にギリシャ人植民地として定着することになった。これらの植民地の大部分ではイオニア方言が話されたので、これを「イオニア人の移住」と呼んでいる。この一連の移動はBC9世紀にはほぼ終了する。アナトリア西部の中央部にリュディア王国という新しい強国が出現し、ギリシャ人の小アジア内部への拡大に終止符を打った。これ以降、エーゲ海の大部分はギリシャ人が占有し、いわば「ギリシャの湖」となる。古代人は、ギリシャ人を方言による違いで区別し、それは民族的な違いに対応していると考えていた。今ではそうした対応関係は否定されているが、言葉がある特定地域の支配的要素を特徴づけ、しばしば国家システムと一致していたことは認められている。アテナイがあるアッティカ、エウボイア、キクラデス諸島、小アジア沿岸の中央部では、イオニア方言が使われていた。スパルタのあるラコニア、コリントス、アルゴス、南キクラデスのミロ島とテラ島、クレタ、ロードス、小アジア沿岸の南部では、ドーリア方言が使わられた。このことは、アテナイとスパルタが敵対し、イオニア都市やドーリア都市を自分の陣営に引き込んで争いあったBC5世紀の戦争のときや、それ以前のBC10世紀からBC9世紀にかけて、小アジアのイオニア諸都市が一つの軍事同盟を作って結束したときにも見られた。また、BC6世紀に確定された建築における柱の基本的様式の二つのタイプ、ドーリア式とイオニア式のどちらが採用されるかは、ギリシャ世界では重要であった。しかし、やがて同じ記念建造物の中で両者が入り混じりようになった。こうように建築様式の多様性が文化を豊かにすることに貢献し、それがギリシャ人共通の財産となっていく。


 ホメロスがギリシャ人全体を呼ぶときに使う3つの名は、アルゴス人、アカイア人、ダナオス人だった。当時はまだ「ヘレネス」という語がギリシャ人全体を意味するものとして一般化しておらず、後にギリシャを意味することになる「ヘラス」という語も、もともとはギリシャ北部のごく狭い地域を意味していた。汎ギリシャ的(パンヘレニック)という形容詞は、最も古いものでBC7世紀半ばの使用例が確認されている。つまり、共通のギリシャらしさ、ギリシャの民族性という概念は、暗黒時代からアルカイック期にかけての数世紀(10世紀~7世紀)の間にゆっくりと広まっていった。


 アルゴスはギリシャで最も長期にわたって人が居住している町であるが、BC11世紀の暗黒時代に台頭してきたのは、単に地誌学的・建築学的に新しいだけでなく、民族的にも新しい都市だった。中部ギリシャ(テッサリア、エペイロス地方など)からの移民と考えられているドーリア人を自称する民族集団がペロポネソス半島に定着した際、ドーリア方言群と呼ばれるギリシャ方言を話す人びとが、この地で獲得した三大拠点の一つがアルゴスだった。他の二つはスパルタとメッセネだった。ドーリア人はさらにクレタ島まで南下した結果、クノッソスもドーリア系の都市になった。これを建設したのはおそらくアルゴスからの移民と思われる。ドーリア人はまた、ギリシャ南部からエーゲ海を越えて東へ散らばり、アナトリアの小アジア沿岸の南西部とロードス島などの島々にも到達している。ドーリア方言が十分に発達した形で登場したのは、初期鉄器時代(BC9世紀~BC8世紀)のことである。ギリシャの重装歩兵戦術が登場し発達したのはBC750年~BC650年ごろで、戦争はもはや傑出した戦士個人の英雄的な武勇に頼るものではなくなった。

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