第73話 中国の文字体系

 殷の支配者層は儀式や軍事、文字の使用を独占していた。中国初の王朝である殷の文字体系は、主語(S)-動詞(V)-目的語(O)の統語法であり、これが後の中国語の基本として残ることになったことから、シナ・チベット語族のルーツはユーラシア草原地帯にあるという説が有力である。大半のインド・ヨーロッパ語族はSVOであり、それに対して、モンゴル語や朝鮮語、日本語などのアルタイ語族系はSOVである。

 中国の文字「漢字」は、絵や表象として始まった。それは象形文字を基礎とし、表音的要素も採用している。結果として、大部分の漢字は簡単な文字の組合せとなった。組合せの一部分は一般に語源を示し、他の部分は音声に関するものを示している。殷の文字は、意味を示した「部首」をすでに使っていた。文字は交易の業務からではなく、支配層の宗族による組織や政治の業務から現れたと推測できる。西アジアからいくつかの基本的な文化や技術を取り入れたとはいえ、ユーラシア大陸の東端に位置する中国の地理上の孤立は、地中海世界や西アジア、中央アジアとは異なる独自の発展を促したといえる。

 中国で「書」が芸術の中で特に重んじられていることも、古代中国で甲骨文字が神聖視されていた伝統を受け継いでいるのかもしれない。現代でも中国では、書はそれを書いた人の人格を映し出すとさえ考えられている。文字が少数エリートの占有物だったことは、エリートの威光を高めただけでなく、中国語を方言や時代による変化から守るという結果をもたらした。このことは中国の統一と政治的安定にとって、大きな意味を持っていた。広大な中国において、文語、つまり書き言葉は公用語・共通語としての役割を果たし、方言や地域的な境界を越えて、各地に文化を伝達することができたからである。エリート層が難しい漢字を使い続けたおかげで、広大な中国が一つにまとまっていたともいえる。



(甲骨文字)


 1899年、金属器や石碑に刻まれた銘文や画像を研究するある金石学者が、漢方薬店で購入した龍骨(大型哺乳類の化石)に金文に類似した古文字「甲骨文字」を見つけた。彼はこれを解読すべく龍骨を大量に購入したと伝えられる。彼の死後、収集した龍骨は他の考古学者に譲渡され、その友人で金石学者の羅振玉らしんぎょくは、1910年に「殷商貞卜文字攷(考)」を著し、その中で初めてこれらの甲骨が安陽県城外(現在の河南省安陽市)の洹河えんがの畔に位置する小屯しょうとん村から出土することを述べた。「てい」は問いかけるの意で、「卜」はぼくする、すなわち占うである。また、「史記」項羽本紀に「洹水南殷墟上」と記されていることを挙げて、ここが「殷墟」(殷の都の滅んだ跡の意)であるとした。その後、羅振玉の弟子、王国維おうこくいは甲骨卜辞に書かれている王名が「史記」殷本紀に出てくる王名とほぼ一致し、王系も合うことを指摘した。また彼は、殷墟は殷第19代盤庚ばんこうが遷都した殷の都である説を唱えた。


 甲骨文字で書かれた甲骨文は1899年に発見されて以来、すでに100年という時間がたち、この間、殷墟で出土した甲骨は約15万点に達する。こうした甲骨文発掘の歴史の中で、一度の出土数が最大で、刻字内容も極めて豊かだったのは、1936年6月に小屯しょうとん村の東北で発掘された127号抗で、刻字甲骨が1万7000点出土し、その大部分が亀甲だった。また墨や朱で書かれた簡単な文章も発見された。これによって、当時すでに書写用の顔料と筆があったことがわかる。さらに特大の亀の甲羅がいくつか出土し、最大のものは長さ44センチ、幅35センチで、鑑定の結果マレー半島産であることが明らかとなり、殷代には南方から運ばれてきた亀の甲羅を卜占ぼくせんに用いたことが証明された。


「向こう10日間災害はないだろう」「(王妃)の婦好ふこうは安産になるだろう」、甲骨は戦乱や収穫、病気や出産について語る。王の歯痛から都に迫る災厄まで、その範囲は広く、人間や生贄いけにえに関する記述も豊富だ。自然の力は恐れられ、敬われていた。未来を予言する占い師たちは、それが実際に起こるかどうかを確かめるために骨を使った。主な材料は亀の腹甲(甲羅の下側)や家畜の肩甲骨だ。骨の裏面に窪みを入れて薄くしておいてから、表面を熱してひび割れをつくる。ひび割れを解釈した内容は、元の予言とともに同じ骨に記録された。さらに予言が当たったかどうかを刻みつけることもあった。例えば、「(婦好ふこうは)出産した。生まれたのはあいにく女の子だった」。甲骨には、歴史書に記された名前も見られ、古くからの言い伝えが作り話でないことを証明している。特に殷の第22代の王武丁ぶていとその妃婦好ふこうはたびたび登場する。


 甲骨文は卜占ぼくせんの内容を記録したものであるから「卜辞ぼくじ」とも呼ばれる。卜辞の内容は殷王朝の公私の生活全般にわたっている。王朝の運命をほとんどその卜占にかけているかと思われるほどである。古代社会には、神託などによって氏族の運命を決することもよく見られるが、これほど日常的にすべての行為が卜占によって営まれている例は稀である。しかもそれは多くの「貞人」、つまり問いかける人を擁する神聖者の集団によってなされており、その頂点に王がある。卜辞の世界は独自の精神世界であった。


 卜占を記した甲骨文字は初期の中国社会の実情を教えてくれるだけでなく、中国語の成立過程も示してくれる。甲骨文字は基本的には漢字の祖先であるが、殷の時代に使われていた約5000の甲骨文字のうち、今日まで連続して用いられているのは、そのうち千数百字で、残りは使われなくなったため、まだその全てが解読されていない。しかし、それらの文字が中国文明の持つ驚異的な継続性を示していることだけは確かである。他のあらゆる古代文明は、初めは象形文字を使っていても、やがてそれを捨てて表音文字に移っていったが、中国の文字、すなわち漢字は現在に至るまで一貫して象形文字として発展してきている。しかも、殷の時代にはすでに現代中国語と同じ言語構造、つまり単音節語で語尾変化ではなく語順によって意味を表すという特徴が出来ていた。そのため、他の古代文字の解読に比べて、甲骨文字は比較的簡単に解読することができた。

 現在我々が知っている中国で一番古い文字は甲骨文字である。これは亀の腹甲(甲羅の下側)や牛の肩甲骨などに細い線で刻んだ文字である。それはBC1300年ごろに始まる殷の後半に用いられたことがわかっている。しかし、この文字は中国において最初に用いられた文字ではない。というのは、この甲骨文字は原始的な絵画文字ではなく、かなり抽象化された文字であり、これより以前にすでになんらかの形の文字が使用されていたことが認められる。ただ、それが未だ発見されていないだけである。甲骨文字は現在の漢字とは形においても意味においても直接的に結びつけることが困難なものが多い。ところが、殷の末期、BC1100年を過ぎると、青銅器に文字を鋳込むようになった。これを金文きんぶんと呼んでいる。この文字の構成はほぼ現在の漢字と同じであるから、それだけ複雑なところもある。当時すでに筆が使用されていたので、おそらく筆記の文字には、金文よりももう少し簡単な字体ものがあったと推測される。金文は殷の次の周時代を通じて見られるが、BC771年に周が東西に分裂し、翌年のBC770年に本来の周である西周が滅亡し、諸侯争覇の春秋時代(BC770年~BC470年)に入ると、地方的な特色を持つようになる。 



(東アジアにおける文字の「再創造」)


 BC2000年紀の東アジアにおける文字の「再創造」は単独で起こった、いや西方の影響によるものだ。この論争は今に始まったものではない。「文字の歴史」を書いたスティーヴン・フィッシャーは次のように述べている。

 “現在認められている数多くの考古学的証拠は西方からの影響を示唆している。完全な文字がどこからともなく出現することなどありえない。古代メソポタミアのように、不完全な文字が長く続いて、完全な文字に発展していったのでなければ、突然完全な文字が現れたのは、借用されたとしか考えられない。記憶を助ける絵文字の長い歴史を経て、最終的に完成された文字として出現したのがメソポタミアだけであったこと、そこから近隣の言語に適応し、次第に他地域に広がり、そして最も遠い地域が最も新しい文字形態を示していることを考えれば、完全な文字がゆっくりと世界中に広がったと考えるのが最も自然だろう。多くの学者はそう確信している”


 2000年もの間、メソポタミアやその東方地域において実践されてきた完全な文字の概念は、そこから中国の黄河中流域へ拡散したとみられる。中国語はそれを書き表す独特な方法を必要としていたため、文字は東アジア独自の特色を帯びて発展していった。ひとたび発展すると、中国文字は中国文化を東アジア全体に伝える主な媒体の役割を果たした。東アジアでは他に競合する文字がなかったので、中国語の書法と漢字はそのまま借用され、中国語とはまったく異なるいくつもの言語を書き表すようになった。中国文字は読むことが困難なだけでなく、意味もあいまいだった。やがて各地域で中国文字への適応が起きた。体系上両極端の次の二つの例は世界的に類を見ないものである。朝鮮のハングル文字はおそらく最も効率的に人間の発話を再現する方法である。それと対照的に、3種類の文字を同時に、そのときどきで変わる規則によって使用する日本の2つの表記法は世界で最も複雑なものだ。東アジアで圧倒的優位に立つ中国文字は極東のラテン文字と呼ばれることがある。確かに仏教と中国語、そして中国文字が東アジアを席巻した有様は、同時期にキリスト教とラテン語、そしてラテン文字が西欧に果たした役割と同様である。ラテン文字の普及はラテン語を話さないゲルマン人やケルト人などにもキリスト教を広める媒体となった。同様に、仏教と中国文字は中国語を話さない日本人・朝鮮人・ベトナム人などの間に広まっていった。ローマ帝国は崩壊したが、中国の緒王朝はますます権力を強め、中国語と中国文字は東アジア全域に浸透した。こうして中国語と中国文字は、西洋におけるラテン語のように過去の理想にとどまることなく、文化そのものとなった。東アジアの文字の歴史は、中国文字の栄華の歴史であるとともに、時として中国文字では表記できない言語を持つ民族が、中国文化の圧力を受け、好むと好まざるとに関わらず表記法の転換を強いられた苦難の歴史でもあった。


 東アジアの最古の表記システムである中国文字は、一見どこからともなく出現したかのように見える。BC2000年紀の後半、殷後期(BC1320年~BC1023年)の殷墟いんきょ文化の時代にほぼ完全に発達した形で中国の黄河中流域に現れた中国文字は、3000年以上も引き続き使われており、個々の漢字の形には大きな変化があるものの、そのシステムにはほとんど変化が見られない。最古の中国文字は牛の肩甲骨や亀の腹甲(甲羅の下側)に刻みつけられた神の神託などで、立証されている中国最古の文明である殷王朝後期のものである。これら中国初期の甲骨文字の銘文はすでに様式化されているように見える。西洋の学者の多くはほぼ完全に発達した文字の突然の出現は文化の借用が起こった証拠であると主張している。古代エジプト文字と同様、中国の文字にも発展段階の欠落が見られ、原型が外部からもたらされたものであることを示唆している。最古の中国の碑文も縦に並べるという特徴を持ち、上から下へ、右から左へ読む。これはBC1500年ごろまでのメソポタミア遺物の裏側に刻まれた銘文と共通する特徴である。また、中国文字には一つの記号が話し言葉の一音節を表すというメソポタミア文字の原則も見られる。初期の中国文字もまた、標準化されていない表語音節文字だったのである。また中国文字は「判じ絵」の原則を用いている。文字表現の可能性の広さを考えると、このような基本的な類似点がいくつもあることは偶然だとは考えられない。この事実は総括的に見ても、限定的に見ても、BC14世紀の後葉、メソポタミア文字の借用が起こったことを示している。実は、学者たちはすでに20世紀初めに、中国文字がメソポタミア文字の原型の影響を受けて生じたと、次のように主張していた。


「中国文字の漢字は、初期にシュメール語の楔形文字から発展し、BC2200年~BC1500年ごろの内モンゴルの夏家店下層文化の担い手が中国に伝えたと思われる。夏家店下層文化は殷の文化と類似しており、夏家店下層文化の人びとが乾燥化と寒冷化が進んだため南下し殷文化を形成したと推定される。彼らは後のチュルク(突厥とっけつ)文化(紀元後552年~779年)の担い手ともなる。すなわち、短音節であることの相似や、シュメール語の表意文字の形式は、漢字では「表意+音標」の形で発達していることが見られる。特に、シュメール語のアクセントである六格六声は、現在でも中国に残っており、長江流域では六声を、黄河流域では四声を使用している。六格六声とは名詞の後につく助詞のことで、ガ・ノ・ニ・カラ・ヲ・マデの助詞六格のことである。この六格にアクセントの六声(六つの声の変化)を配して言葉を表現する。テュルク(突厥)を母体とした現在のトルコ語も六格六声を備えている相似点など、多分に影響を受け継いでいる。「史記」にその名がある「四嶽」は「緒嶽」とも書かれる「スメル・スミル」族は東部アフガニスタンに住む民の総称である」


 だが実際のところは、最古の表記システムの中国文字は、「判じ絵」方式によって中国語しか表すことができず、文字自体は明らかに他の地域から入ってきたものではない。借用が実際に起こったのであれば、古代エジプト・エーゲ海・イースター島の文字と同じように、中国文字は最初から外国産の骨格の上に自前の外套をまとっていたことになる。中国文字の元々の形は「文」、つまり「単体字」である。メソポタミア文字やエジプト文字の場合と同じく、誰でも知っている形の単純なスケッチが読みを喚起する。古代エジプト語は復音節語だったので、いくつかのヒエログリフから一つの言葉を作るのに「判じ絵」方式で分離した音を組み合わせた。しかし単音節語である古代中国語の場合は、音節は「文」であり、ほとんどの場合それだけですでに一つの完全な言葉となっていた。異なる語を同音化することで語彙を増やしたので、一つの発音がいくつもの違った単語を表すようになった。その一方で多音化も行われ、意味上関連する単語が一つの「文」で表された。例えば、「口」という「文」は、「叫ぶ」という意味にも使うことができた。同音化も多音化も古代中国文字に文字の多義性を与えた。すなわち、一つの「文」が、使われる文脈に応じて違った意味を持つようになった。これによって、古代中国文字はさまざまな使い方が可能となったのである。

 しかし、これは同時にあいまいさを生むことになった。「文」のどの読みが正しいかを判断するのに、文脈だけでは不十分なので、このシステムは大雑把過ぎた。殷王朝時代の文字にも、標準化された一揃いの「文」があったわけではなく、その形も意味もさまざまだった。中国の黄河中流域は、急激に中央集権化が進んだので、ひとたび文字の必要条件と可能性が認められると、その標準化が必要となり、文字のあいまいさをなくすためには「文」を合成語にすればいいという発見がなされた。

 BC13世紀ごろに使われ、すでに筆と墨で書かれていた2500を超す「文」のうちの1400字ほどは、後代の標準的中国文字の原型と見なしうる。殷時代の文字は一つの文字が一語を表す表語音節文字、つまり単音節の形態素(それ以上意味のある部分に分解できないもの)の状態からは発展しなかった。このように、殷の文字は表語文字であり、その表記システムには2つのタイプの表語文字がった。まず「文」、これはあいまいさが多すぎると考えられる。そのあいまいさを解決するために作られたのが「字」である。つまり合体字で、二つ以上の「文」を組み合わせて作られた記号である。ここに中国文字のユニークな特徴がある。やがて合成語である「字」にも「文」と同様にいろいろな意味と音が与えられた。さらに合成語同士が合成されると、表記システムに第3レベルの複雑さが加わった。この新しい問題に対する解決策として、意味や読みを判断するために、さらに文字の構成要素が付け足された。このようにして標準的な漢字1字の中に多いものでは6つもの要素が含まれていることがある。

 古代中国文字は大変わかり易かった。単純な文字なので、大概は一見して分かるし発音もできる。しかし、中国語文字は時代とともに変化し、次第に表音文字としての地位を失い、中国文字は完全に表語文字(意味と音声を示す)となった。中国語文字はその表語文字的本質、つまり「文字が単語を表す」という本質が表記システムを支配しており、話し言葉の一つ一つが文字で再現される。中国文字は単語を伝えるのであって、観念や具体的な事物を指し示すのではない。中国文字は、言語学的には「形態音節文字」、つまり形態素を音節が再生する文字である。

 中国文字は、意味を表わす一つあるいは複数の記号と、音を表わす一つあるいは複数の記号が組み合わされて作られ、その各部分はさまざまに読まれるが、組み合わせて出来上がった文字もまたさまざまに読まれるという、動きのある特性を示す。単一な形であるサインではなく、色々な組み合わせができるキャラクターだけが、そのような多次元的な運用が可能である。アルファベットは、語彙を無制限に「開放」する鍵を与えてくれるが、形態素・音節文字である中国文字は、表記システムの中で「記号化」されていて、一つ一つ解読作業をしなければならない。そのプロセスは実際に人間の脳のある特定に領域を使うが、それはアルファベットを読む脳の領域とは別の場所であるようだ。

 BC3世紀までには字体の多様化が進み、早くも互いの文字が読めないという事態が生じてきた。統一中国最初の皇帝である秦の始皇帝は、異種の人びとを統合するのに文字が役立つことに気づき、それを政治権力の道具として利用した。始皇帝は中国の行政的・軍事的統合を行うにあたり、それを達成するための手段として中国文字の標準化を行った。BC221年の文字の大改革において、秦の宰相李斯りしは「大篆だいてん」を簡略化し、「小篆しょうてん」を作って新しい規範文字とした。これは政治的・社会的中央集権化を目的とした意識的な文字改革としては、古代世界で最大規模のものである。「小篆しょうてん」は後に続くすべての中国文字の祖となった。

 殷代の「甲骨卜辞ぼくじ」に現れた文字の数は2500余りだったが、後漢の時代の紀元後120年ごろ、許慎きょしんによる「説文解字」、それは「文」を説明し、「字」を分析するということだが、その字書には9353字が載っており、紀元後12世紀までには約2万3000字が使われるようになった。1716年にできた淸王朝の「康熙字典」には4万7000を超す漢字を擁している。現在では6万になっている。これは中国文字が「開放的」で、いくらでも自由に作ることのできる文字だからである。これと対照的に、アルファベットの表記システムは「閉鎖的」で、一定数に限られるが、このわずかな文字を使って、すべての新しい言葉を発音通りに再生することができる、ちなみに、一般の中国人が読める漢字の数は2000~2500ほどである。ということは、中国語の事典にある漢字の大半は、たとえ使われるとしてもごく稀である。


 なぜ中国の文字体系が今に生き残ったのか、その一番の理由は中国の文字体系の奥深さと幅広さだろう、つまり文化的慣性力、言い換えれば、文化的な勢いだ。純粋に、その途方もない規模、文書量、人口、地理的な広がりだけを取ってみても、中国が他のどんな国よりも強い文化的な勢いを持っていることを証明している。その安定性と持続性においても中国文化は稀有な存在といえる。しばしば分裂し、戦いを繰り返してきたにもかかわらず、戦っているそれぞれの国が拠って立つ価値観は、中国全土から抽出されたものであり、新しい王朝を築いた者たちは、みな等しく「天命」を主張する。すべての統治者は文字に支えられた官僚政治に頼ってきた。成功は成功を生み、中国以外の文化、朝鮮、日本、ベトナムも中国の文字を採用した。東アジアの民族はすべて中国文化の勢いに呑まれてしまったのだ。


<日本の文字体系>

 日本の文字の原型は、日本語に借用された漢字、つまり形態素・音節文字である。その後、日本人は独自の「仮名」音声表記システムを作りだした。それが、異なる用途に使う2つの音節文字「平仮名」と「片仮名」である。さらに近年には外国語を書き表すためにローマ字が使われるようになった。以上の表記システムと文字に加えて、さらに種々の記号も文章中に散りばめられている。

 日本語の表記システムと文字はその複雑さのせいで、おそらく歴史上最も不当にけなされてきた文字である。しかし、日本の文字表記は完全に習得可能であるばかりでなく、明らかに成功であった。何世紀にもわたってこの表記システムを使ってきた日本人は、高い読み書き能力をもち繁栄を築いてきた。確かなのは日本の文字がどういう点においても、人びとの知的成長の妨げになっていないということである。世界で最も複雑に見える文字をもつ国が、世界で最も技術的に進んだ国であるということは、全くの偶然ではない。日本文字から二つの教訓が得られる。一つは、表記システムと文字は使う人びとの便宜だけでなく、要望に沿ってどのような形態もとり得るということ。もう一つは、文字の複雑さは最終的な達成の妨げにならないということである。話し言葉は非常に意味があいまいで不完全であり、文字という媒介を通してのみ完全に明らかになると東アジアの人びとは考えている。中国語や日本語は著しい数の同音異義後を含むから特にそうである。西洋言語学の公理によると、言語というのはそもそも話し言葉のシステムであり、文字は話し言葉を視覚的なものに変える補助的な媒体であるが、書き言葉は話し言葉の補助的な地位にあるものではないことを東アジアの文字は教えてくれる。

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