第72話 殷王朝後期(殷墟文化)

殷墟いんきょ文化(BC1320年~BC1023年)

第1期(BC1320年~BC1250年):第19代盤庚ばんこう洹北えんほく商城に遷都

第2期(BC1250年~BC1192年):第22代武丁ぶてい期、人口の急増と青銅器鋳造技術の飛躍的発展

第3期(BC1192年~BC1090年):第23代祖庚そこうから始まる

第4期(BC1090年~BC1023年):第30代ちゅう王で殷は滅亡


 ***


 殷は王が占いを行い、政治も行うという祭政一致の国家だった。人を生贄いけにえとした祭礼を行い、その生贄を獲得するための戦争を行っていたと思われる。そのため、殷墟にある王や貴族の陵墓の周りには膨大な数の犠牲坑が確認され、殷墟を特徴づけている。一方で、殷では食に対するこだわりも生まれた。石器時代からの焼肉にかわって、肉を煮る料理が始まった。殷墟で発見されたていなどにも当時の食文化をうかがい知ることができる。優れた青銅技術もこのとき発達した。殷王朝以前にも青銅器は発見されているが、その利用は極めて限定されていた。殷になると多様な青銅器が作られ、複雑な文様が付けられるようになる。この高度な青銅器技術も殷の特徴である。また、殷後期の第2期、第22代の武丁の時代から甲骨文字が使われるようになり、中国は歴史時代に入っていく。祭政一致という独特の文化を伝える殷、それは文字の誕生や発達した青銅器など今日の中華文明のルーツでもある。


 大量の甲骨文字は円形の穴に埋められていた。現在までに3ヶ所発見されている。その一つの穴には1万5000枚以上のカメの甲羅が納められていた。こうした文字の記録がまとまって発見された遺跡としては東アジア最古のものである。主な記録の内容は王や王一族による占いの結果である。古代中国で行われていた甲骨を焼く占いは西アジアから伝来したものとされ、当初はヒツジの肩甲骨が使われていた。その後、王の意向によりウシやカメが尊ばれるようになった。カメの甲羅が使われるのは殷が最古とされる。甲骨文字の内容で最も多いのは王室で行われた多様な祭祀で、それは頻繁に行われていた。祖先神が守護神で、これを祀ることがすなわち国の政治の中核だった。その他、外敵との戦争、農事、これと深くかかわる天候、狩猟などおそらく当時の政治や生活に密着していたあらゆることが、最高神であり「上帝」の意志を確認する目的で卜占ぼくせんの対象とされていた。例えば、当時の狩猟は土地支配という政治上の目的と、これに深く関係した土地支配のための祭祀に関係があったようだが、大勢の兵の戦闘訓練といった実質的目的もあったと思われる。殷の人びとはキビ・アワを主体とした農業を生産の中心としていたので、農民は当然、定住生活をしていたが、その周辺には狩猟・採集生活をしている異民族もたくさん混住していて、移動性に富む彼らとの間でしばしば略奪や戦争が繰り返されていたようだ。甲骨文中には、「某方」という語が30くらい出てくるが、これらの多くはこういった非定住の異民族だったと考えられる。


 殷墟には長方形の穴が整然と並ぶ地区がある。その穴の中には頭骨のない人骨が納められている。甲骨文字の記録によれば、少なくとも殷墟に都があった約300年で、1万人の捕虜の人たちがこうして虐殺されたようだ。こうした「犠牲坑」は千数百を超える。骨格の分析によると、犠牲者たちは成人男性が大半を占めるが、殷末期になると女性や子供が増えてくる。捕虜を奴隷として労働力にしていた西アジアやギリシャと違い、殷は血の祭事のために捕虜を捕えていたようだ。捕虜の多くは西方のきょうと呼ばれる遊牧民だった。こうした風習は殷独自のもので、後の周などでは殉葬はあるが、このような大規模な犠牲坑は見つかっていない。

 殷墟は12人の王が300年近くにわたって政治の拠点とした都市遺跡である。その広さは5キロ四方に及び、その北側に王陵区と呼ばれる区域が広がっている。王陵区では、長辺が100メートルを超えるものを代表格に、今日までに13基の巨大な陵墓が発見されている。殷に限らず、中国古代王朝の典型的な陵墓は概ね十字型である。縦の軸と横の軸の交差点が深く掘り下げられ、王や貴族はそこに安置された。そして四方にはスロープが作られ地上とつながっていた。入口から墓室までの奥行きは30メートルほどである。墓室の中央にはさらに深く掘られた長方形の穴があり、番犬や時には武器を持たせた番人を入れて、王や貴族の遺体を地下の悪霊から守ったと考えられている。王や貴族のひつぎはこの穴に蓋をして、その上に置かれた。殉葬された番人や番犬、さらに「犠牲坑」に葬られた捕虜たちの首は、こうしたスロープに飾られており、陵墓によっては200を超える頭蓋骨が発見されている。副葬品には、煮炊き用のてい、蒸し器、酒器などの青銅器、動物の骨を加工しトルコ石などをはめ込んだ装飾品などが出土している。また王の婦人の墓からは玉で作られた装飾品も見つかっている。



洹北えんほく商城と殷墟いんきょ


洹北えんほく商城>

 殷墟の北1.5キロ、河南省安陽市の郊外を流れる洹河えんが北岸の花園荘村にあり、1999年に発見されるまでその存在が知られていなかった。東西2150メートル、南北2200メートルの城壁で囲まれたほぼ方形の城址である。城内の中央部には宮殿区があり、主殿の前面や門付近には人間犠牲や動物犠牲の祭祀坑があり、中庭では宮廷儀礼として祖先祭祀などの儀礼が行われていたと思われる。また、別の場所からは殷墟文化第1期の階層標識を示す青銅彜器いきが出土している。ここで発見された土器型式は、殷中期(BC1390年~BC1320年)の小双橋しょうそうきょう遺跡の土器型に後続するものであり、殷墟第1期(BC1320年~BC1250年)の土器型につながる土器形式であった。すなわち殷中期から殷後期の中間にあたる土器型式であることが判明した。こうした年代から第19代盤庚ばんこうが遷都した都は殷墟ではなく、この洹北商城であるという説が有力である。


<殷墟> 

 殷後期の都城遺跡である殷墟は河南省安陽市の西北郊外を流れる洹河えんが南岸の小屯しょうとん村を中心とする面積30平方キロの範囲に拡がっている。1899年に発見された甲骨文字の出土地である。この甲骨文字により殷王朝の存在が同時代資料を通じて確認されたほか、この甲骨文字が現在使用されている漢字の祖形であることも確認されている。殷王朝はBC16世紀からBC11世紀まで600年近く続いた王朝で、殷墟は洹河の北岸の洹北えんほく商城とともにその後半にあたるBC1320年~BC1023年にかけての都であった。そこには宮殿や宗廟、墓地、金属の鋳造所などがあるが、主に宗廟と墓地から成るさながら祭祀都市の様相を呈している。第19代盤庚ばんこうが、洹北えんほく商城を含むこの安陽地区に遷都した後は、二度と遷都することなく、第30代ちゅう王で滅亡に到るまで殷王朝の都であり続けた。

 1928年に始められた殷墟の発掘作業は1937年の抗日戦争勃発によって中断されたが、1950年に再開された。現在調査が進んだ殷墟の範囲は東西6キロ、南北4キロの地域で、洹河えんがを挟んで北岸と南岸に分かれ、北岸には武官村など、南岸には小屯村などが位置する。武官村一帯には13基の大規模な墳墓が発見され、そのうち王墓の8基は密集している。それらは第22代武丁ぶてい以降8代の王の墓で、その中で遺物が発見されていない墓は、殷王朝最後の王であるちゅうのものであり、殷王朝滅亡により埋葬されなかったと推測されている。

 ここ40年間の重要な発掘成果は、大型宮殿基壇、甲骨坑、青銅鋳造遺跡、祭祀坑、骨器製作工房、などの発見がある。また、近年における重大な成果は、凹形宮殿遺跡と婦好ふこう墓の発見である。小屯村の東北一帯を中心とする宗廟宮殿区では、すでに53ヶ所もの版築基壇が発掘されているが、1989年に見つかった凹形宮殿遺跡は3つの建築遺構が連結して一体化したものであり、こうした構造の建物は初めての発見であった。洹河えんがの水際に位置する凹形の遺跡は、面積5000平方メートルで、殷墟文化早期に属する。南北に平行に並んだ2つの建築遺構をつなぐように西側の遺構が位置し、東が開いている。このように3つの建物が結合して凹形建築を構成していた。北の遺構は東西60メートル、南北14.5メートル、南の遺構は東西75メートル、南北7.3メートル、西の遺構は東西50メートル、南北7.5メートルの規模であった。殷墟は第22代武丁ぶてい以降に本格的に利用された王都であり、祭儀的な性格の遺構が目立つ。

 これまでに殷墟で発掘された墓は2000基近くに達するが、そのうち最大規模を誇るのが武官村大墓である。平面は「中」字形を呈し、面積は3400平方メートルで、殉葬者は41人を数えた。その他「甲」字形の大型墓も確認されているが、こうした大型墓はいずれも盗掘にあっていた。甲骨卜辞ぼくじ(占いの言葉)には「きょう」と呼ばれた人たちが捕獲され、犠牲にされたとある。羌とは牧畜を営む人たちであり、殷の西方の黄土台地に住む人たちである。人間犠牲とは、異民族を犠牲にすることにより、自らの集団の結束を図るものであり、同時に王の権威を高めさせるものである。殷代の手の込んだ占いや生贄いけにえの儀式は20世紀に入るまで知られていなかった。大規模な墓はすべて何世紀も前に盗掘にあっていたが、残酷な生贄の証拠は残っていた。ある墓では、首や手足を切り落とされた人骨が74個も出てきたし、37頭ものウマの骨が埋められていた墓もあった。


武丁ぶてい

 第22代の殷王である。殷の甲骨文字はこの武丁の代から始まる。在位期間は半世紀に及ぶが、それと同時にこれまで発見された甲骨の半数以上が武丁期のものである。その内容から、武丁期には西方の異民族を制圧するため抗争していたことがわかる。この武丁期に人口が急増し青銅器鋳造技術も飛躍的に発展した。婦好ふこうは武丁の妃であることが甲骨文字の内容から知られていたが、殷墟で1976年に発見された5号墓の発掘で出土した青銅彜器いきの銘文に同じ婦好の名があり、この墓が婦好の墓であることが判明した。歴史的な実名と考古学的な遺跡の内容が一致した珍しい事例である。


婦好ふこう墓>

 殷墟の墓はいずれも盗掘にあっていたが、小屯村北東部で1976年に発掘された婦好墓は、墓道を持たない小さな墓坑だが、盗掘を免れたため副葬品は極めて豊富であった。しかも、甲骨文の記載と照らし合わせて被葬者の身分と正確な埋葬年代を確認できる唯一の墓であり、殷王室の成員の墓でありながら盗掘を免れており、殷墟の考古学史上他に類例のない墓である。墓は、南北5.6メートル、東西4メートル、深さ8メートルの長方形の竪穴慕で、墓坑とほぼ同じ大きさの建築跡が見つかっているが、おそらく祭祀用の建物であっただろう。遺体は木製の棺槨かんかくに納められ、地下水に浸かり、棺槨ともに腐敗していたが、棺の上部に麻布と薄絹が付着していた。この墓からは合せて16人の殉葬者と6匹の犠牲の犬が確認されている。副葬品は、青銅器、土器、骨器、玉器、象牙製品、貝製品など合せて1928点にのぼり、他にタカラ貝6800点、ホラ貝2点が出土している。青銅器の総数は460以上あり、そのうち礼器が210点と最も多く、次いで武器、楽器、道具、銅鏡などがあった。「婦好」の銘文が鋳込まれた青銅器は109点にも達した。礼器は当時存在したすべての器種がそろっていた。被葬者の婦好の名は、BC13世紀後半の人物で、第22代武丁期の甲骨文字の記録である卜辞ぼくじに度々登場し、方国(地方の部族国家)を征討した輝かしい女性の英雄である。婦好という名は、武丁の妃であると同時に、彼女の出身豪族名であったと考えられている。


<中国における印章の起源>

 春秋時代(BC770年~BC470年)の中国で、西アジアの円筒印章のように粘土状の柔らかい物質に人物や立体物を押し当てレリーフ状にする肖形印が出現し一般化していくのは、西方から到来した印章文化の影響と考えられる。しかし、1998年に殷墟から2点の銅印が出土し、それ以前に知られていた5点も殷代の遺物であることが判明した。これら7点の銅印は、そのいずれもが円筒印章とは明らかに起源が異なり、むしろスタンプ印章に由来すると考えられる。西方からの物質文化の波が到来したとされる殷後期に、スタンプ型の印章がもたらされ、殷墟から出現したこれらの印章の祖形となったという仮説は、今回、殷墟から出土した2点の銅印の出現により十分に成り立つ。


<車馬坑>

 中国における二輪戦車の歴史は殷から始まる。殷墟で発見された車馬坑は中国最古のもので、発見された二輪戦車は西アジアのカフカス(コーカサス)地方のものと車輪、車軸など構造的に共通点が多く、中国には殷の時代に伝わったと考えられている。人の遺骨もともに発見されており、おそらく御者だと思われる。当時の二輪戦車は3人乗りで、御者を中央に、弓を持つ兵士と長柄ながえの武器を持つ兵士が左右に立っていたとされる。殷墟が築かれた時代は、歩兵主体の戦争から、貴族などの有力者が二輪戦車を使い、歩兵はそれについていく戦争へと変革した時期であったという。車馬坑ではウマも共に埋められた。車馬坑は1930年代に発見されていたが、土の中から木製の二輪戦車を掘り出すには高い技術が必要のため、全体像が明らかになったのは1950年代からである。



(青銅器)


 殷文化を代表する遺物といえば、甲骨と並んで青銅器がある。古代中国における青銅器時代の始まりは西アジアより1000年以上遅く、BC2000年ごろである。青銅器文化が本格化するのはさらに遅く、二里頭文化2期(BC1740年~BC1610年)が始まるBC1740年ごろからである。ところが、殷代後期(BC1320年~BC1023年)に入ると、急速に青銅器製造技術が発達し、その遅れを取り戻す。第22代武丁ぶてい期であるBC1200年ごろからは大型の青銅器を鋳造できるようになった。安陽で発見された青銅器で最大のものは、重さ875キロもあった。だが最も重要な特徴は大きさよりもむしろその様式にある。殷で発達した様式はそれから何世紀にもわたって中国芸術の基本になった。殷代のほとんどの青銅器には動物の顔を文様化した饕餮とうてつという模様が使われている。饕餮とうてつが見る者を捉えて離さず、渦を巻く模様が形づくる「目」が注意を引きつけるのだ。

 しかし1980年代に入り、安陽から1000キロ以上も南の長江(揚子江)流域で安陽のものとは全く異なる特徴を持つ大量の青銅器が発掘された。今から3000年以上前の中国で異なる文化圏だった河南省安陽の殷墟と四川省の三星堆さんせいたい、殷墟は黄河中流域、三星堆さんせいたいは長江上流域が勢力圏で、直線距離にして約1100キロも離れていたが、意外な共通点が見つかっている。両者とも同じ産地の材料を使って青銅器を鋳造していたようだ。「鉛同位体比法」の第一人者である平尾良光(別府大学教授)によれば、三星堆の青銅器の9割以上が非常に似た同位体比のものだった。これに似た鉛を産出したのは中国の約40か所の鉱山の中で、三星堆の南500キロにある雲南省の会沢鉱山だけだった。したがって、青銅の材料となる銅や錫も四川・雲南周辺で産出したものと推定した。一方、殷で出土した青銅器を調べると、四川・雲南周辺の青銅材料を使ったものが半数以上あった。なかでも都を殷墟に移した殷代後期の青銅器は8割近くが四川・雲南周辺の青銅材料だった。これは当時の殷王朝の広域支配を示している。ところが、殷末期の70年~100年間は、四川・雲南周辺の青銅材料を使った青銅器がまったく途絶えてしまう。殷王朝は黄河の西、現在の陝西せんせい省からやって来た周族に倒された。それはBC1023年のこととされる。殷の滅亡と前後して三星堆の文化も歴史から姿を消してしまう。殷に続く周では四川・雲南周辺の青銅材料はまったく使われていない。


 中国では古来「国の大事は祭祀と軍事である」と言われてきた。その祭祀のために使われたのが青銅礼器であり、青銅彜器いきと呼ばれた。新石器時代末期(BC2000年ごろ)に生まれた銅鈴などの銅器は、二里頭文化(BC2070年~BC1520年)段階になって銅と錫の合金である青銅器として鋳造されるようになった。二里頭文化2期(BC1740年~BC1610年)以降には銅やじり刀子とうすなどの青銅武器や工具も生産が始まる。特に、酒を飲むためのしゃくという青銅彜器いきが、殷王朝が始まる二里頭文化3期(BC1610年~BC1560年)から生産が始まり、二里頭文化4期(BC1560年~BC1520年)にはさらに酒を温めるという青銅彜器いきが加わる。二里頭文化期の青銅彜器いきは、しゃくという酒器と銅鈴という楽器から成る。酒器と楽器で祭儀が行われたのであり。その生産は二里頭遺跡内で独占的になされ、しかもその製品は二里頭遺跡の王や貴族層に独占されていた。そして二里頭文化4期(BC1560年~BC1520年)になると、これらの青銅彜器いきが二里頭文化領域内の多くの集団に配布され、同じ祭儀を行うことによる同祖同族関係の政治的な紐帯ちゅうたいを結ぼうとした。青銅彜器いきによる威信財システムが確立したのである。この段階こそ初期国家の始まりと位置付けることができるであろう。このような関係性の上に、殷人が北方から南下して黄河中流域河南の二里頭文化1期~2期の龍山文化(夏文化)と、東夷地域である山東の岳石がくせき文化を政治的に統合する形で、殷王朝がBC1600年ごろに成立する。


 殷前期(BC1580年~BC1390年)は、北方の殷文化と、河南の二里頭文化、山東の岳石文化の3つの地域を領域化するにあたって、それぞれの地域で行われていた祭儀や儀礼を統合することによって政治的にまとまることができた。この時期、二里頭文化のしゃくなどの酒器に加え、岳石文化のていげんといった炊器、さらには殷文化のなどの盛食器が青銅彜器いきに加わった。殷王朝はこれらの青銅彜器いきを、殷前期初期の二里崗にりこう下層文化1期には、二里頭遺跡内で二里頭文化の青銅器工人に製造させている。そして饕餮文とうてつもんといった特異な文様が青銅彜器いきに施されるのも殷代の特徴である。饕餮とうてつとは天上界に君臨する上帝であり、鳳凰ほうおうはその使いと考えられている。これらが儀礼に使用されたと同時に、墓葬の副葬品としても使われ、それらの器種や数量の多寡が階層構造に対応していた。殷は山東龍山文化(BC2500年~BC2000年)と岳石文化(BC2000年~BC1600年)に見られる竪穴木槨墓という山東地域の伝統的埋葬習俗を新たに採用し、階層上位者の墓とした。これもまた祭祀の統合とみることができる。さらに、このような祭儀のための青銅器の生産は鄭州ていしゅう商城を中心として進められ、支配下の各地域に配布されることとなった。その一方、一部の青銅彜器いきの生産が中国南部の湖北省盤龍城ばんりゅうじょう遺跡などの地方でも開始された。また、銅や銅斧、銅えつといった青銅武器が本格的に生産されるようになり、軍事においても青銅器の役割が高まっている。


 殷中期(BC1390年~BC1320年)と後期(BC1320年~BC1023年)は、殷王朝と銅原料などの交易関係にあった長江中流域や上流域の四川盆地に殷の青銅彜器いきがもたらされるとともに、青銅器生産技術が伝播し、その製品や技術を基に青銅器の地方生産が始まる。それらの地区の青銅彜器いきは殷のものとは異なったものとして、別の意味が付与されることになる。それらは長江中流域の呉城文化や四川盆地の三星堆さんせいたい文化に現れ、大型の青銅彜器いきが独自に生産されている。このように中国南部の農耕地帯に、中原と呼ばれる黄河中流域の殷の青銅彜器いきが広がり、さらにその周辺の銅資源提供地域との文化的なネットワークも形成された。こうして、殷の故郷である北方青銅器文化とは異なった、中原青銅器文化という文化・社会領域が東アジアに誕生したのである。


 殷後期には酒器を中心とした青銅彜器いきが王室の工房を中心に生産され、殷墟での生産活動が盛んとなる。特に、武丁ぶてい期である殷墟文化第2期(BC1250年~BC1192年)から、これまでの青銅彜器いきに加え、さかずきそん、壺などの盛酒器、双耳簋そうじきなどの盛食器に、どうという楽器が加わり、殷後期の青銅様式が確立する。また甲骨文字によって祭祀の内容を記すことがこの時期に始まったが、その甲骨文字と同じ文字が青銅器に鋳込まれた。これが金文きんぶんで、殷末には殷王の事績と製作者である氏族との関係を示すものも現れた。


 殷の時代、青銅器製造技術が大きく進歩し、鍋や蒸し器などの調理器具が発達した。それまでの「焼く」主体の調理法に「煮る」「蒸す」などが加わり、石器時代からの焼肉に代わって、肉を煮る料理が始まった。食文化が豊かになり、そして多様化した。酒池肉林しゅちにくりんという言葉は、池を酒で満たし、林に肉を吊るすという豪勢な酒宴を表わす言葉である。殷王朝最後の暴君として伝えられるちゅう王による宴を示す言葉として伝えられる。

 殷墟で発見されたていや酒器などから当時の食文化をうかがい知ることができる。殷墟からは陶器でできた下水管も発見されており、当時の排水処理施設や都市計画をうかがうことができる。中国における下水管の歴史は古く、BC3000年ごろの石器時代にはすでに登場していたようだ。1990年代になってから、銅鉱石には鉛が含まれていることから青銅器成分の中の鉛同位体分析が行われるようになり、その産地が同定された。この分析の結果、二里頭にりとう文化期(BC2070年~BC1520年)、つまり夏および殷早期の青銅器の原材料は華北や黄河下流域地域のものであるのに対し、二里崗にりこう文化期(BC1580年~BC1320年)と殷墟いんきょ文化期(BC1320年~BC1023年)の殷王朝のものは、華北や黄河下流域のもの以外に、長江上流域の四川省や殷墟から1000キロ以上離れた中国南西部の雲南省から運ばれてきたものということがわかった。このことからも、当時の殷王朝がいかに強大な勢力をもっていたかを知ることができる。

 また、同じことは青銅器と共に副葬されたタカラガイにも当てはまる。タカラガイは二里頭遺跡でも発見されているが、殷王朝期にはより広範な殷の墓にタカラガイが副葬されている。これらのタカラガイは中国東南の沿岸部で採集されたと考えられている。さらに殷後期の殷墟からは、殷墟周辺では生息していない禽獣きんじゅう類が集められている。例えば、ゾウ、ウスリーヒグマ、トラ、ヒョウ、サイなどの禽獣も地方から献上されたものが副葬されていた。


<青銅の鋳造技術>

 礼器や壺、酒器や武器など、数多くの素晴らしい青銅器は殷の時代の初期から製造され、その見事さは古代世界では並ぶものはない。突如として出現し、しかもその技法が極めて高度な段階に達していたため、外の世界から伝わったとする説が有力であるが、それを裏付ける証拠はまだ発見されていない。他の工芸品についても、例えば石や硬玉に彫刻をほどこした美しく繊細なデザインの工芸品が大量に作られている。同時代にこれほどの工芸品が中国以外で発見された例はほとんどない。


<青銅武器>

 殷墟では多量の青銅武器が副葬された墓が多数認められる。えつ・長刀・ほこやじりなどであるが、そうした墓から出土する青銅彜器いきとしての青銅容器には、「」という銘文が入っている。「亞」という文字は殷王朝の武官としての職名であると考えられている。殷王朝期に発展する青銅武器は、武力を統治手段とする王権の維持装置となっていた。

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