第72話 殷王朝後期(殷墟文化)
第1期(BC1320年~BC1250年):第19代
第2期(BC1250年~BC1192年):第22代
第3期(BC1192年~BC1090年):第23代
第4期(BC1090年~BC1023年):第30代
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殷は王が占いを行い、政治も行うという祭政一致の国家だった。人を
大量の甲骨文字は円形の穴に埋められていた。現在までに3ヶ所発見されている。その一つの穴には1万5000枚以上のカメの甲羅が納められていた。こうした文字の記録がまとまって発見された遺跡としては東アジア最古のものである。主な記録の内容は王や王一族による占いの結果である。古代中国で行われていた甲骨を焼く占いは西アジアから伝来したものとされ、当初はヒツジの肩甲骨が使われていた。その後、王の意向によりウシやカメが尊ばれるようになった。カメの甲羅が使われるのは殷が最古とされる。甲骨文字の内容で最も多いのは王室で行われた多様な祭祀で、それは頻繁に行われていた。祖先神が守護神で、これを祀ることがすなわち国の政治の中核だった。その他、外敵との戦争、農事、これと深くかかわる天候、狩猟などおそらく当時の政治や生活に密着していたあらゆることが、最高神であり「上帝」の意志を確認する目的で
殷墟には長方形の穴が整然と並ぶ地区がある。その穴の中には頭骨のない人骨が納められている。甲骨文字の記録によれば、少なくとも殷墟に都があった約300年で、1万人の捕虜の人たちがこうして虐殺されたようだ。こうした「犠牲坑」は千数百を超える。骨格の分析によると、犠牲者たちは成人男性が大半を占めるが、殷末期になると女性や子供が増えてくる。捕虜を奴隷として労働力にしていた西アジアやギリシャと違い、殷は血の祭事のために捕虜を捕えていたようだ。捕虜の多くは西方の
殷墟は12人の王が300年近くにわたって政治の拠点とした都市遺跡である。その広さは5キロ四方に及び、その北側に王陵区と呼ばれる区域が広がっている。王陵区では、長辺が100メートルを超えるものを代表格に、今日までに13基の巨大な陵墓が発見されている。殷に限らず、中国古代王朝の典型的な陵墓は概ね十字型である。縦の軸と横の軸の交差点が深く掘り下げられ、王や貴族はそこに安置された。そして四方にはスロープが作られ地上とつながっていた。入口から墓室までの奥行きは30メートルほどである。墓室の中央にはさらに深く掘られた長方形の穴があり、番犬や時には武器を持たせた番人を入れて、王や貴族の遺体を地下の悪霊から守ったと考えられている。王や貴族の
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殷墟の北1.5キロ、河南省安陽市の郊外を流れる
<殷墟>
殷後期の都城遺跡である殷墟は河南省安陽市の西北郊外を流れる
1928年に始められた殷墟の発掘作業は1937年の抗日戦争勃発によって中断されたが、1950年に再開された。現在調査が進んだ殷墟の範囲は東西6キロ、南北4キロの地域で、
ここ40年間の重要な発掘成果は、大型宮殿基壇、甲骨坑、青銅鋳造遺跡、祭祀坑、骨器製作工房、などの発見がある。また、近年における重大な成果は、凹形宮殿遺跡と
これまでに殷墟で発掘された墓は2000基近くに達するが、そのうち最大規模を誇るのが武官村大墓である。平面は「中」字形を呈し、面積は3400平方メートルで、殉葬者は41人を数えた。その他「甲」字形の大型墓も確認されているが、こうした大型墓はいずれも盗掘にあっていた。甲骨
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第22代の殷王である。殷の甲骨文字はこの武丁の代から始まる。在位期間は半世紀に及ぶが、それと同時にこれまで発見された甲骨の半数以上が武丁期のものである。その内容から、武丁期には西方の異民族を制圧するため抗争していたことがわかる。この武丁期に人口が急増し青銅器鋳造技術も飛躍的に発展した。
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殷墟の墓はいずれも盗掘にあっていたが、小屯村北東部で1976年に発掘された婦好墓は、墓道を持たない小さな墓坑だが、盗掘を免れたため副葬品は極めて豊富であった。しかも、甲骨文の記載と照らし合わせて被葬者の身分と正確な埋葬年代を確認できる唯一の墓であり、殷王室の成員の墓でありながら盗掘を免れており、殷墟の考古学史上他に類例のない墓である。墓は、南北5.6メートル、東西4メートル、深さ8メートルの長方形の竪穴慕で、墓坑とほぼ同じ大きさの建築跡が見つかっているが、おそらく祭祀用の建物であっただろう。遺体は木製の
<中国における印章の起源>
春秋時代(BC770年~BC470年)の中国で、西アジアの円筒印章のように粘土状の柔らかい物質に人物や立体物を押し当てレリーフ状にする肖形印が出現し一般化していくのは、西方から到来した印章文化の影響と考えられる。しかし、1998年に殷墟から2点の銅印が出土し、それ以前に知られていた5点も殷代の遺物であることが判明した。これら7点の銅印は、そのいずれもが円筒印章とは明らかに起源が異なり、むしろスタンプ印章に由来すると考えられる。西方からの物質文化の波が到来したとされる殷後期に、スタンプ型の印章がもたらされ、殷墟から出現したこれらの印章の祖形となったという仮説は、今回、殷墟から出土した2点の銅印の出現により十分に成り立つ。
<車馬坑>
中国における二輪戦車の歴史は殷から始まる。殷墟で発見された車馬坑は中国最古のもので、発見された二輪戦車は西アジアのカフカス(コーカサス)地方のものと車輪、車軸など構造的に共通点が多く、中国には殷の時代に伝わったと考えられている。人の遺骨もともに発見されており、おそらく御者だと思われる。当時の二輪戦車は3人乗りで、御者を中央に、弓を持つ兵士と
(青銅器)
殷文化を代表する遺物といえば、甲骨と並んで青銅器がある。古代中国における青銅器時代の始まりは西アジアより1000年以上遅く、BC2000年ごろである。青銅器文化が本格化するのはさらに遅く、二里頭文化2期(BC1740年~BC1610年)が始まるBC1740年ごろからである。ところが、殷代後期(BC1320年~BC1023年)に入ると、急速に青銅器製造技術が発達し、その遅れを取り戻す。第22代
しかし1980年代に入り、安陽から1000キロ以上も南の長江(揚子江)流域で安陽のものとは全く異なる特徴を持つ大量の青銅器が発掘された。今から3000年以上前の中国で異なる文化圏だった河南省安陽の殷墟と四川省の
中国では古来「国の大事は祭祀と軍事である」と言われてきた。その祭祀のために使われたのが青銅礼器であり、青銅
殷前期(BC1580年~BC1390年)は、北方の殷文化と、河南の二里頭文化、山東の岳石文化の3つの地域を領域化するにあたって、それぞれの地域で行われていた祭儀や儀礼を統合することによって政治的にまとまることができた。この時期、二里頭文化の
殷中期(BC1390年~BC1320年)と後期(BC1320年~BC1023年)は、殷王朝と銅原料などの交易関係にあった長江中流域や上流域の四川盆地に殷の青銅
殷後期には酒器を中心とした青銅
殷の時代、青銅器製造技術が大きく進歩し、鍋や蒸し器などの調理器具が発達した。それまでの「焼く」主体の調理法に「煮る」「蒸す」などが加わり、石器時代からの焼肉に代わって、肉を煮る料理が始まった。食文化が豊かになり、そして多様化した。
殷墟で発見された
また、同じことは青銅器と共に副葬されたタカラガイにも当てはまる。タカラガイは二里頭遺跡でも発見されているが、殷王朝期にはより広範な殷の墓にタカラガイが副葬されている。これらのタカラガイは中国東南の沿岸部で採集されたと考えられている。さらに殷後期の殷墟からは、殷墟周辺では生息していない
<青銅の鋳造技術>
礼器や壺、酒器や武器など、数多くの素晴らしい青銅器は殷の時代の初期から製造され、その見事さは古代世界では並ぶものはない。突如として出現し、しかもその技法が極めて高度な段階に達していたため、外の世界から伝わったとする説が有力であるが、それを裏付ける証拠はまだ発見されていない。他の工芸品についても、例えば石や硬玉に彫刻をほどこした美しく繊細なデザインの工芸品が大量に作られている。同時代にこれほどの工芸品が中国以外で発見された例はほとんどない。
<青銅武器>
殷墟では多量の青銅武器が副葬された墓が多数認められる。
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