第71話 中国の歴史時代の始まり殷王朝

<年表>

殷早期(BC1600年~BC1520年):二里頭にりとう文化3期~4期

 いん王朝が誕生したのがBC1600年ごろなので、二里頭文化3期(BC1610年~BC1560年)から4期(BC1560年~BC1520年)は殷早期の時代といえる。二里頭遺跡では近年、殷代早期にあたる2つの宮殿の基壇が発見されている。両者は互いに60メートル隔て、西側の基壇は東西360メートル、南北200メートル、東側の基壇は東西250メートル、南北150メートルの規模であった。面積は殷のとう王が夏を滅ぼした後に造営した二里頭晩期の宮殿遺構をはるかに上回っている。その北側には青銅器製作工房跡が数千平方メートルの範囲にわたって残っていた。このほか数十基にのぼる大小さまざまな墓が発見されている。二里頭遺跡出土の青銅礼器にはしゃくの2種類あるが、複合鋳型による鋳造、仕上げの粗さ、表を飾る文様が皆無あるいは簡略であることなど、青銅器製作における初期段階の特徴を示している。その他の青銅器には象嵌ぞうがんが施されたものもあり、象嵌工芸には優れたものがある。土器には記号が刻まれていることもあり、甲骨文の同類の文字と似ており、文字の範疇に入ると考える歴史学者もいるがまだ定まっていない。以上のように、二里頭における殷代早期の遺跡からは、壮大な宮殿、宗廟、精美な青銅器、玉器、土器などが出土している。この文化が後の殷周文化の発展をもたらす確かな基礎となった。


殷前期(BC1580年~BC1390年):二里崗にりこう文化

 二里崗下層文化1期・2期と二里崗上層文化1期(河南省鄭州市二里崗遺跡)。BC1650年ごろに築かれた鄭州ていしゅうは、城壁で囲まれた広さ335ヘクタールのほぼ長方形の都市(鄭州商城)と、面積が25平方キロの郊外地域から成っており、重要な連絡路である2本の川に挟まれた立地は戦略的な意味をもっていた。鄭州商城は第10代の王、仲丁ちゅうていが遷都した都城、ごうであると考えられる。


殷中期(BC1390年~BC1320年):二里崗にりこう文化

 二里崗上層文化2期(BC1390年~BC1320年)の鄭州白家荘文化を標識として殷中期とする考え方もあったが、現在では、同時期の小双橋しょうそうきょう遺跡を代表として中期としている。


殷後期(BC1320年~BC1023年):殷墟いんきょ文化

 洹北えんほく商城と殷墟から成る。洹北商城(河南省安陽市)は、第19代盤庚ばんこうが安陽の小屯しょうとんに遷都して以降の殷の最後の都が置かれた殷墟の北1.5キロにある都城である。殷墟文化は1期~4期に区分されている。殷墟には城壁がないため、そこは、実際は都に付随した宗教的施設であり、都は城壁のある洹北商城である。殷墟は甲骨文字が出土することでも有名であり、甲骨文による文字の使用はBC1300年ごろの殷で始まったと考えられている。BC1023年、周の武王が、殷王朝最後の王となるちゅうを「牧野の戦い」で破って周王朝(BC1023年~BC770年)を開き、殷は滅んだ。


 ***


 中国の歴史時代の始まりは殷という王朝から始めるのが通説になっている。BC1600年ごろ内モンゴル地方にいた殷と呼ばれる二輪戦車を持った部族が軍事力で近隣の部族を圧倒し、黄河流域にまで勢力を伸ばした。やがて殷はその勢力を河南省北部一帯の約6万4000平方キロにおよぶ範囲を占拠することになった。殷の王たちはかなりの権力を持っており、死後には深く掘られた豪華な墓に生贄いけにえとして供えられた人びとや奴隷とともに埋葬された。殷はまたメソポタミアより東で文字を持った最初の王朝であり、王の宮廷には公文書係や書記もいたようだ。しかし、殷はまだ領域国家ではなく、ゆうと呼ばれる都市を中心とした一種の都市国家であった。殷王朝はそうした各地の都市国家の連合体として成立していたと思われる。それでも、殷の王たちは書記を仕えさせ、統一貨幣を製造するほどの力を持っていた。最盛期には大量の労働力を動員して都市や要塞を建設するだけの力があった。

 殷は軍事国家だった。例えば、チャンという将軍の墓は副葬品であふれていた。青銅の斧や槍、人骨とイヌの骨がそれぞれ15体、大量の玉器、それに謎めいた青銅の手、安陽にある殷代の祭室で見つかった記録によると、軍事国家だった殷では兵士の地位はとても高かったという。但し、最終的な決定権は王にあった。殷の初代とう王は戦いを控えて臣下に言った、「お前たちの力を貸してほしい。もし嫌と言うなら、子供もろとも殺す」。


 殷は実在が証明された中国最古の王朝である。「史記」殷本紀によれば、初代とう王による夏の征服と滅亡から、周の武王による殷の滅亡までの間、17代30人の王によって統治されたとされ、その存続年代はBC1600年からBC1023年までと推定されている。殷は、外的な構造としては王族および諸氏族によって構成された大小のゆうと呼ばれる町が累層的に重なり合ったものであり、内的構造としては殷王とその「子」とされる諸氏族とが擬制的親族関係を結んでおり、両者の関係は各氏族が王の祖先を祀る祭祀を実行することで確認され保たれていたと理解されている。その際に祭祀道具として用いられたとされるのが青銅器である。このことから、殷代における青銅器とは殷王と諸氏族を結びつける社会的紐帯ちゅうたいの役割を担っていたと理解できる。そうであるならば、青銅器の生産・流通もまた政治的な意図を有したことは明らかであり、殷代社会の解明に重要な手がかりを提供すると期待できる。青銅器は甲骨文字ともに殷代を代表する物質文化である。

 殷の実在が証明されたのは、今から100年ほど前である。それまで殷は、前漢の司馬遷しばせんがBC104年ごろ編纂に着手し、BC91年ごろに完成させた「史記」、中国戦国時代(BC470年~BC221年)の魏王の墳墓から出土した竹簡に書かれていたと伝えられる「竹書紀年」などの古典文献上に現れる伝説上の王朝にすぎなかった。しかし、19世紀末の北京で甲骨文字の存在が確認され、宋代以来蓄積されていた金石学の知識を基礎として、まもなく解読が進められた。そして、その記述から復元された殷王の系譜が、「史記」殷本紀に記されるそれと大枠に置いて一致することが判明したため、実在が認められることになった。


 メソポタミア文明が発明した文字や金属の冶金技術、美術・工芸などの都市国家文化を、中央ユーラシア草原の遊牧民が東方の中国東北部へ伝えた。中国の歴史時代の始まりとなる殷王朝の支配者はインド・ヨーロッパ語族の遊牧民であった。だが、そのインド・ヨーロッパ語族の侵入の規模はまだ分かっていない。その集団はウラル山脈の東の中央アジアのステップで発展した後期青銅器時代のアンドロノヴォ文化(BC1800年~BC1200年)の人びとであったことは、内モンゴル東部の夏家店下層文化(BC2200年~BC1500年)がアンドロノヴォ文化の強い影響を受けていることから容易に推測できる。西アジアあるいは中央アジアから中国へ伝播したものとしては、キビ、アワ、コムギ、ヒツジ、甲骨を焼く占い、絵文字という発想、彩陶土器、青銅器製造技術、家畜化されたウマ、二輪戦車、冶金などの新技術、銅や錫、金・銀・鉛などの金属材料、鏡などがあり、これらは文明の誕生には欠かせないものである。中国の黄河文明は中央アジアの遊牧民の強い影響の下で生まれたと推定される。ユーラシア草原地帯の東端の内モンゴル東部や中国の東北地方には、夏家店下層文化と呼ばれる先商(殷)青銅器文化遺跡が多数発見されている。そこから華北の二里頭にりとう文化(夏と殷早期)、その次の二里崗にりこう文化(殷前期・中期・後期)へと伝わったと考えられる。


 西アジアの技術はいくつかの点で中国のそれより先行していた。後に続く鉄の使用がそうであるように、彩陶、青銅の使用、車輪は中国よりも西アジアで早く出現しているのであり、この時間的に先であるということは、もちろん西アジアの文化的要素が中国に伝えられたと推論できる。しかし、古代中国と西アジアとの正確なつながりは今なお不明瞭であり、論争中である。また、西アジアから伝えられなかったものもいくつかあった。例えば、メソポタミア、エジプト、インダスの先例にもかかわらず、華北平原に灌漑網をつくるのに黄河は役に立たなかった。夏と殷の農民は金属製の農具を使用せず、また動物で鋤を引かなかった。殷における二頭立て二輪戦車の使用は、西北部や北方ステップ地帯からの二輪戦車による侵入の証拠を伴っていない。これはまだモンゴル高原や中国のオルドス地方での発見がまだないからだけかもしれない。しかし、西アジアからの重要な影響は、大変動を起こすような劇的ではなく、あたかも浸透によるもののようであったいえる。中国文明は華北のたった一つの中核地域から拡大したのであり、特に、夏末期から殷にかけての発展は独自のものであった。古代中国における海運の欠如は商人の力を強くせず、一般的に商人を軽蔑さえしていた。それは、権力者が商人に対して統制力を行使し易くすることになった。このことは、西アジアや東地中海では古代都市は交易ルート上に発生し、王国や帝国は商業、特に海上交易の支配によって大きくなったという歴史に比べて全く異なる状況であった。



(殷早期(BC1600年~BC1520年):偃師えんし商城)


 河南省偃師えんし県にある城址である。偃師商城は小規模な城址の段階から大規模な城址へと拡大しており、小城と大城に区別される。小城は殷初代の王とうによって建設されたと文献にある西亳せいはくと考えられている。殷の初代とう王は夏を滅ぼし、殷を建国し、夏の中心地であった伊河・洛河地域に偃師商城を築いた。1983年に発見された偃師商城は、夏文化の中心集落であった二里頭遺跡の北東約6キロに位置する。まさにその都城とは占領地におけるくさびであったとともに、夏の旧都で青銅礼器を作らせながら、夏の旧都を管理監督していたのである。偃師商城の東西南北の壁は版築工法で築かれており、城壁の幅は17~20メートル、その規模は西が1710メートル、北が1240メートル、東が1640メートル、南が740メートルである。城内の中央南よりに3つの小城があり、そのうち中央が宮城で、平面はほぼ正方形で一辺が約200メートル、年代はC14測定法でBC1680年~BC1636年である。



(殷前期(BC1580年~BC1390年):二里崗にりこう文化、鄭州ていしゅう商城)


 二里崗遺跡は河南省鄭州市にあり、殷墟期に先行する殷の遺跡である。殷前期に当る二里崗文化(BC1580年~BC1320年)は、太行山脈東麓、モンゴル高原の東南の内モンゴル中南部から山西省北部に位置する三足器の煮炊き土器であるれきを基本土器構成とした先商(殷)文化を母体として生まれた。殷人の発祥の地は河北省南部を流れる漳河しょうが一帯である。殷人は遊牧民であったので、都を頻繁に遷していた。土器は灰陶で、三足器土器のていは重要な祭器であった。殷は現在の洛陽辺りにあった夏の東北に位置し、その南東(現在の山東省)には東夷の民族がいた。

 二里崗文化期には、階層標識を示す青銅彜器いきとして、山東龍山文化の獣面文の系譜をひく饕餮文とうてつもんと呼ばれる獣面像が鋳だされた。それは新たな精神基盤による社会秩序を形成するためだったと思われる。この文様が殷周社会の中心的な神的意匠となった。また、殷王朝の墓制は棺槨かんかく構造である。地下に木製のかくという部屋を作り、その中にかんを安置する棺槨構造は新石器時代の山東地域で採用されていた墓制であった。これらのことからも、殷は王朝成立以前から山東地域とのかかわりを持っていたことを暗示している。殷王朝は多元的な精神基盤を吸収することにより、領域支配を可能にしたともいえる。


鄭州ていしゅう商城>

 1952年に黄河中流域の河南省鄭州市二里崗にりこうで発見された殷代の遺構は、安陽の殷墟より古く、BC1620年ごろである。1954年には遺跡発見地の地名を冠して「二里崗文化」と命名された。その後1955年にほぼ正方形で周囲約7キロの都市遺跡が発見され、鄭州商城と呼ばれている。町の内側に城壁があり、東と南はともに1700メートル、西は1870メートル、北は1690メートル、城壁内は宮殿区と一般居住区とに分かれ、手工業の工房や墓地は城外に点在していた。内城の北側と南側には青銅器工房址、内城の外側には骨角器や土器工房址などが発見されている。また、内城の外側3ヶ所で青銅彜器いき埋納遺構が発見され、巨大な方ていなど青銅彜器いきが多数出土した。城址の衰退に伴って、埋納遺構が作られたと考えられている。

 現在の河南省の省都である大都市鄭州の中心部に現在でも壮大な城壁が残っている。3600年前の都城が現在でも間近に見られることは驚くべきことである。宮殿区は城内の東北部にあり、これまでに20ヶ所以上の版築基壇が発見されている。最も大きな基壇は東西65メートル、南北13.6メートルで、長方形の柱礎が2列に並び、復元すれば二重屋根で9室を備え、回廊も廻らせた大型建築であったと思われる。宮殿と共に園池があり、宮殿と園池は東アジアにおける都城構造の原点であり、確立された王権を物語る。城外にある銅器製作工房からは坩堝るつぼや土製の鋳型が出土している。また、土器製作工房、骨器製作工房もあった。卜占用の甲骨も相当量出土している。文字の刻まれたものはわずか2片だったが、広口陶尊とうそん(酒用の甕)の口縁部にはしばしば文字が刻まれている。鄭州商城は第10代の王、仲丁ちゅうていが遷都した都城、ごうであると考えられる。「史記」によれば、第10代の王、仲丁ちゅうてい以降の殷中期には王位継承問題で兄弟が争い、9代にわたって乱れたという。現在でも河南省の省都である鄭州の中心部に壮大な城壁が残っている。都城の大きさからいえば、鄭州商城の方が偃師商城より大きく、鄭州商城こそが殷前期の中心地であり王都といえる。さらに鄭州商城は、現在に残る城壁の外側にさらに外城壁を築いている。南城壁から南へ約1キロのところで、東西約5キロにわたって外城壁が発見されている。この外城壁の築造は、偃師商城が小城段階から大城段階へと拡大するのと同じ動きといえるが、その規模はさらに大きいものである。


 ところで、殷早期から殷前期にかけて、偃師商城、鄭州商城以外に、さらに偃師商城の北から北西に、府城、垣曲えんきょく商城、東下馬、そして中国南部の長江のすぐ北に盤龍城ばんりゅうじょうが築かれる。その規模は、鄭州商城を第1ランクとすれば、偃師商城が第2ランク、その他が第3ランクに位置づけされる。これらの第3ランクの城址は二里頭にりとう文化期(BC2070年~BC1520年)の集落の上に築かれており、次の二里崗にりこう文化期の間は存続し、殷中期の時代(BC1390年~BC1320年)にその機能を失うという、ほぼ鄭州商城が城址として機能した時期に対応して動きを示している。それはまさに殷人が植民地的に移住して拠点を築いた前線基地の様相を呈しており、殷王朝の領域支配の広がりを示している。



(殷中期(BC1390年~BC1320年):小双橋しょうそうきょう遺跡)


 殷王朝は、殷中期には王権が不安定となり遷都を繰り返した。遺跡としては鄭州ていしゅう商城から殷中期(BC1390年~BC1320年)の小双橋しょうそうきょう遺跡、そして洹北えんほく商城(河南省安陽市)と殷墟遺跡へと都が移っていく。第10代の王、仲丁ちゅうていが遷都した都城、ごうは、殷前期の鄭州商城ではなく、殷中期の小双橋遺跡であるとする説、あるいは小双橋遺跡は鄭州商城の副都であると指摘する研究者もいて、小双橋遺跡の位置づけは未だ確定できていない。


小双橋しょうそうきょう遺跡>

 鄭州商城から西北約20キロに位置する。総面積150万平方メートルにもおよぶ大遺跡であり、大規模な版築基壇、青銅器鋳造遺構、人身犠牲坑や動物犠牲坑といった多くの祭祀遺構が発見されている。王権の力を誇示する犠牲祭祀は殷王朝の王権の要である。小双橋遺跡から出土する土器は鄭州商城が衰退した後のものである。近年、小双橋遺跡で、極めて特殊な造りで、精緻な加工が施された青銅製建築用材が出土した。銅と錫の合金で、重さは6キロ、正面は正方形、平面は凹字形をしていた。さらに1点の土器のかめと3点の甕の破片とに書かれた朱書き文字が発見された。毛筆を用い、合せて8文字が書かれており、殷墟の甲骨文字に先立つ文字として注目されている。毛筆で書かれた殷代の文字としては最古の例である。



(殷後期(BC1320年~BC1023年):殷墟いんきょ文化)


 中央ユーラシア文化複合体のうち、戦車として使用される二輪戦車などいくつかのものがBC12世紀より少し前に中国に出現した。それは殷後期第2期(BC1250年~BC1192年)の武丁ぶてい期に当る。長く乱れた王統を統一し、殷を再興させたのが第22代の殷王武丁である。この段階から甲骨文字が使われ、まさに中国の歴史時代に入っていく。武丁の墓はまだ推定の域を出ていない。しかし、いずれにしろ殷墟文化2期を武丁期とすることができ、殷代前・中期の青銅器様式とは異なり、ここに大きな画期を設定できる。この段階から双耳簋そうじきという青銅礼器と、さらにはどうといった楽器が新たに導入され、新たな殷後期の青銅器様式が確立する。武丁は殷を再興するにあたって、祭祀儀礼も新たに整える必要があったのだろう。このような殷後期の青銅器様式は周前期まで続くことになる。このことは封建制を確立したとされる周王朝においても、その始まりには祭儀国家の制度を基盤としていたことを示している。


 殷末期の黄河北岸の首都安陽で発見された王家の墓の埋葬品には多くの二輪戦車とそれを牽くウマが含まれ、馬車戦士と彼らの武器が一緒に発見されることもよくある。それらの二輪戦車には車輪のスポークが多数あり、古代の西アジアにおいて典型的な4本や6本しかないものとは違っていた。それらは同時期のカフカス(コーカサス)のものに極めて類似している。そして、それらはステップ地帯によく見られる北方タイプのナイフとともに見つかることもよくある。その二輪戦車は、車輪付きの乗り物の先駆けとなるものが何もなかった中国の殷王朝に、北あるいは西北方面からもたらされた文化財であることは明らかである。二輪戦車とそれを牽くウマ、そしてその戦車に乗っていたと思われる若者を武器とともに埋葬することは、ウラル山脈南麓のシンタシュタから中央アジアのペトロフカへ、そしてアンドロノヴォ文化へと続く一連の中央ユーラシア文化複合体に独特の特徴で、当時はまだインド・ヨーロッパ語族にしかないものであった。そのような埋葬は殷の遺跡ではよく見られるもので、高貴な貴族の埋葬と関連している。また、最初に書かれた甲骨文字の刻文が同じころに書かれ始めたということにも意味がある。二輪戦車を中国にもたらしたインド・ヨーロッパ系の人びとが物を書くという発想ももたらした可能性は高い。安陽にある殷墟の二輪戦車を伴う埋葬は、BC12世紀ごろから北方の人びととの交流がかなりあったことを示している。当時の二輪戦車戦士で知られているのはすべてインド・ヨーロッパ系の人びとであり、BC3300年以前に分岐した中央アジア南東部のトカラ語派の後から分かれた語派で、アンドロノヴォ文化の人びとであると思われる。黄河の谷の文化に侵入者がかなりの衝撃を与えたことを考えると、彼らは言語の面でも強い影響を与えたはずである。これまでのところ、彼らの言語がどんなものであったかまだ特定されていないが、インド・ヨーロッパ語族の中にまだ知られていない別の語派である可能性は十分にある。


 *殷後期の殷墟いんきょ文化については次のエピソードでより詳しく述べる。



(殷代における中国南部地域) 


 湖北省黄波県の盤龍城ばんりゅうじょう遺跡、江西省新干県大洋州の新干商墓しんかんしょうぼ、四川省広漢市三星堆さんせいたいの祭祀坑の発掘は、殷代における中国南部地域の考古学研究に新たなページを開いた。


盤龍城ばんりゅうじょう遺跡:殷前期>

 1954年に発見された湖北省武漢市にある盤龍城遺跡の築造年代はBC15世紀で、殷前期にあたる。城址は南北290メートル、東西260メートルの城壁から成る方形の城郭で、殷前期の鄭州商城に似た構造と版築工法で作建てられている。城郭内部には大型の宮殿遺構が2ヶ所発見されている。城外となる遺跡の周辺では、一般居住民の住居や工房、さらには同じ年代の墓がいくつか発見されている。青銅彜器いきや玉器などの副葬品はいずれも二里崗にりこう上層文化の特徴を備えていた。盤龍城遺跡は、一定の地方的な特色はあるものの、城址の版築工法、土器や青銅製の道具の特徴、玉器の風格、埋葬習俗などいずれの面においても、鄭州で発見された殷前期の文化と明らかな共通性がある。この地は、南方の長江流域における殷王朝の拠点的な都城として存在し、南方からの物資の集散地として王都への資源供給の要であったと推定される。その地には殷人が派遣され、殷王朝勢力下にあった重要な諸侯国であったにちがいない。殷前期には、盤龍城以外にも、現在の山西省や河南省に城郭を築いている。それが当時の地方支配の方法であったと思われる。


新干商墓しんかんしょうぼ遺跡:殷中期~後期>

 江西省清江県呉城村の殷代遺跡は、1970年代初期に発掘された。出土物にはある程度の独自の特徴も見られたが、大部分の土器は殷文化との密接な関係をうかがわせ、殷文化南遷の1例ともいえる。1989年、清江県のやや南の新干県においても大量の青銅器を伴った殷代の大型墓が発見された。出土した土器は呉城文化2期の同種の土器と一致しており、この墓が呉城文化に属することがわかる。こうしたことは、当地における殷代の青銅文化の発展と殷文化との関係を改めて認識する上で重要である。出土品の中でとりわけ注目されるのが青銅器で、量の多さ、種類の豊かさ、造形の珍しさ、文様の美しさなどは、長江以南の同時代の墓はもとより、全国的に見ても従来では考えも及ばないほどだった。青銅器の中には殷代中期の特徴を持つものもあり、殷墟の同種の青銅器と酷似しているものもあった。この大型墓の年代は殷代後期にあたるBC1200年とされている。墓の規模や出土物の質・量、いずれの点においても殷墟の王墓と比肩できることから、被葬者は殷代の南方諸侯国の統治者、あるいは長江以南を守る殷王朝の軍事的指導者であったと思われる。


三星堆さんせいたい遺跡:二里頭併行期~殷末期>

 1986年夏、四川省の省都、成都市の北約40キロにあるのどかな田園地帯で、地元のレンガ工場の採土工事の最中に、青銅器や黄金製品、玉器などがぎっしりと詰まった二つの祭祀坑が偶然発見され、世界的な注目を集めた。遺構は龍山文化期のBC2500年ごろから始まるが、遺跡が本格化するのは二里頭併行期(BC2070年~BC1600年)である。殷の時代(BC1600年~BC1023年)には東西1600メートル、南北2000メートルの城壁が構築されている。その城内で二つの祭祀坑が見つかり、総重量1トンを超える多量の青銅器、さらに大量の玉製品、象牙などが発見された。それらの青銅器は特殊で、目が異様に突出した仮面や人物像、あるいは神樹など、殷文化の青銅器とは異なった青銅器文化の存在に注目が集まった。古代四川地方の歴史を記録した東晋時代(紀元後265年~316年)の「華陽国志」には、一人の古代の王について「その目縦なり」と記されているが、まさにそんな伝説をイメージさせるものだった。これらは殷王朝の青銅彜器いきによる礼制システムの影響を受けながら、殷王朝からは政治的に独立した周辺地域の政体の姿である。三星堆は殷王朝への物資の供給源であるが、その関係は朝貢関係ではなく、自立した地域との物流関係にあり、こうした地域は殷王朝と一定の関係性を持つネットワークとして位置付けられるものである。こうしたネットワークの拡がりが後の周・秦・漢王朝の領域化の前提となっている。青銅器の埋納時期には諸説あるが、殷末期から西周にかけてと考えるのが妥当と思われ、殷王朝の終焉と何らかの関係が想定されている。但し、埋納された青銅器や玉器の製作年代は、1号坑が殷墟文化1期(BC1320年~BC1250年)、2号坑が殷墟文化2期(BC1250年~BC1192年)と考えられている。

 三星堆遺跡の総面積は12平方キロに達する。この一帯では1920年代末に大量の玉石器が出土して脚光を浴びたことがあった。その後、1986年になって2つの祭祀坑が発掘され、大量の貴重な文物が出土した。そのうち、青銅器の一番古いものは殷代の典型的な青銅器と、それよりやや新しいものは長江中・下流域と、陝西省南部の殷代晩期の青銅器と、形状や特徴が近似していた。しかし、文様はいずれもいささか特殊であり、蜀の地で独自に鋳造されたことは確実である。要するに、これらの青銅器は蜀の国早期の輝かしい文化を象徴しているのである。2つの祭祀坑は規模は大きくないが、出土品は800点以上と極めて豊富で、しかも大半が稀に見る貴重品ばかりだった。祭祀坑の年代は、1号抗が殷墟前期、2号抗はそれよりやや遅れると考えられる。概ねBC1000年である。両坑出土の逸品としては次のようなものがある。


① 黄金の杖:長さ1.42メートル、直径2.3センチ、重さ780グラム、木製の芯に厚手の金箔を巻きつけたもので、表面には王冠を戴いた人頭、鳥、魚などの精微な装飾図案が線刻されている。この金杖の頂部には青銅製の龍頭が取り付けられていたと考えられる。

② 金箔の仮面をつけた人物像:仮面は高さ9センチ、厚手の金箔を型抜きしたもの。

③ 青銅製大型立人像:高さ2.63メートル、重さ180キロ。頭に高い冠を着け、太い眉に大きな目で、鼻すじは突出している。口元は下向きに曲がり、顎は角張り、巨大な耳がついている。Vネック前あわせの長衣を身に着け、素足で四角い台座の上に立っている。

④ 青銅製神樹:高さ3.84メートル、重さ160キロ。台座、幹、三層の枝、1条の巨大な龍によって構成されている。


 これらは地方色の強さと、豊かな想像力が特色である。四川地方は古くから「しょく」と呼ばれた地域だ。こうした貴重な文物の出土によって、古代「蜀」の国における青銅文化のレベルと芸術の特徴が明らかとなった。

 中国の歴史はあくまで黄河流域の中原が中心で、他の地域は野蛮な未開地のようにいわれてきた。司馬遷の「史記」もそういう歴史観で書かれている。しかし三星堆さんせいたいは、殷の時代と同時期で、規模からいっても殷の都と遜色ない。これだけ早い時期から長江流域に文明があったのは驚きである。黄河流域に勝るとも劣らない文明が、長江流域にも同時代に存在していたのである。但し、青銅器という視点で見ると、殷の青銅器の古いものが三星堆さんせいたいから出土しており、殷が源流であることが判明している。また、殷墟では文字が使用されていたが、三星堆さんせいたいからは記号のようなものはあるが、未だ文字が発見されていない。しかし、それは長江流域が文化的に劣っていたことを必ずしも意味するのではない。むしろ長江流域は非常に早くから豊かな土地だった。


 ***


 古来、国の大事は祭祀と軍事であるといわれるように、殷王朝では祭儀と軍事によって王権が支えられていた。まさに古代王権の確立した初期国家というにふさわしい段階となっていた。そしてそこには王権が神との交信を記録する文字が生まれ、歴史時代が到来したのである。

 北の黄河流域と南の長江流域を比べると、黄河の方は乾燥地帯でアワ・ムギ、長江の方は湿潤地帯でイネという違いがある。どちらも同じくらい古い時代から発展してきたが、最終的に中国を支配したのは北の黄河流域の殷王朝だった。南の長江文明で生まれた要素も、北の殷周が取り入れて、総体として中国文明になっていく。したがって、中国文明とは黄河文明と長江文明の合体だという捉え方ができる。

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