第71話 中国の歴史時代の始まり殷王朝
<年表>
殷早期(BC1600年~BC1520年):
殷前期(BC1580年~BC1390年):
二里崗下層文化1期・2期と二里崗上層文化1期(河南省鄭州市二里崗遺跡)。BC1650年ごろに築かれた
殷中期(BC1390年~BC1320年):
二里崗上層文化2期(BC1390年~BC1320年)の鄭州白家荘文化を標識として殷中期とする考え方もあったが、現在では、同時期の
殷後期(BC1320年~BC1023年):
***
中国の歴史時代の始まりは殷という王朝から始めるのが通説になっている。BC1600年ごろ内モンゴル地方にいた殷と呼ばれる二輪戦車を持った部族が軍事力で近隣の部族を圧倒し、黄河流域にまで勢力を伸ばした。やがて殷はその勢力を河南省北部一帯の約6万4000平方キロにおよぶ範囲を占拠することになった。殷の王たちはかなりの権力を持っており、死後には深く掘られた豪華な墓に
殷は軍事国家だった。例えば、
殷は実在が証明された中国最古の王朝である。「史記」殷本紀によれば、初代
殷の実在が証明されたのは、今から100年ほど前である。それまで殷は、前漢の
メソポタミア文明が発明した文字や金属の冶金技術、美術・工芸などの都市国家文化を、中央ユーラシア草原の遊牧民が東方の中国東北部へ伝えた。中国の歴史時代の始まりとなる殷王朝の支配者はインド・ヨーロッパ語族の遊牧民であった。だが、そのインド・ヨーロッパ語族の侵入の規模はまだ分かっていない。その集団はウラル山脈の東の中央アジアのステップで発展した後期青銅器時代のアンドロノヴォ文化(BC1800年~BC1200年)の人びとであったことは、内モンゴル東部の夏家店下層文化(BC2200年~BC1500年)がアンドロノヴォ文化の強い影響を受けていることから容易に推測できる。西アジアあるいは中央アジアから中国へ伝播したものとしては、キビ、アワ、コムギ、ヒツジ、甲骨を焼く占い、絵文字という発想、彩陶土器、青銅器製造技術、家畜化されたウマ、二輪戦車、冶金などの新技術、銅や錫、金・銀・鉛などの金属材料、鏡などがあり、これらは文明の誕生には欠かせないものである。中国の黄河文明は中央アジアの遊牧民の強い影響の下で生まれたと推定される。ユーラシア草原地帯の東端の内モンゴル東部や中国の東北地方には、夏家店下層文化と呼ばれる先商(殷)青銅器文化遺跡が多数発見されている。そこから華北の
西アジアの技術はいくつかの点で中国のそれより先行していた。後に続く鉄の使用がそうであるように、彩陶、青銅の使用、車輪は中国よりも西アジアで早く出現しているのであり、この時間的に先であるということは、もちろん西アジアの文化的要素が中国に伝えられたと推論できる。しかし、古代中国と西アジアとの正確なつながりは今なお不明瞭であり、論争中である。また、西アジアから伝えられなかったものもいくつかあった。例えば、メソポタミア、エジプト、インダスの先例にもかかわらず、華北平原に灌漑網をつくるのに黄河は役に立たなかった。夏と殷の農民は金属製の農具を使用せず、また動物で鋤を引かなかった。殷における二頭立て二輪戦車の使用は、西北部や北方ステップ地帯からの二輪戦車による侵入の証拠を伴っていない。これはまだモンゴル高原や中国のオルドス地方での発見がまだないからだけかもしれない。しかし、西アジアからの重要な影響は、大変動を起こすような劇的ではなく、あたかも浸透によるもののようであったいえる。中国文明は華北のたった一つの中核地域から拡大したのであり、特に、夏末期から殷にかけての発展は独自のものであった。古代中国における海運の欠如は商人の力を強くせず、一般的に商人を軽蔑さえしていた。それは、権力者が商人に対して統制力を行使し易くすることになった。このことは、西アジアや東地中海では古代都市は交易ルート上に発生し、王国や帝国は商業、特に海上交易の支配によって大きくなったという歴史に比べて全く異なる状況であった。
(殷早期(BC1600年~BC1520年):
河南省
(殷前期(BC1580年~BC1390年):
二里崗遺跡は河南省鄭州市にあり、殷墟期に先行する殷の遺跡である。殷前期に当る二里崗文化(BC1580年~BC1320年)は、太行山脈東麓、モンゴル高原の東南の内モンゴル中南部から山西省北部に位置する三足器の煮炊き土器である
二里崗文化期には、階層標識を示す青銅
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1952年に黄河中流域の河南省鄭州市
現在の河南省の省都である大都市鄭州の中心部に現在でも壮大な城壁が残っている。3600年前の都城が現在でも間近に見られることは驚くべきことである。宮殿区は城内の東北部にあり、これまでに20ヶ所以上の版築基壇が発見されている。最も大きな基壇は東西65メートル、南北13.6メートルで、長方形の柱礎が2列に並び、復元すれば二重屋根で9室を備え、回廊も廻らせた大型建築であったと思われる。宮殿と共に園池があり、宮殿と園池は東アジアにおける都城構造の原点であり、確立された王権を物語る。城外にある銅器製作工房からは
ところで、殷早期から殷前期にかけて、偃師商城、鄭州商城以外に、さらに偃師商城の北から北西に、府城、
(殷中期(BC1390年~BC1320年):
殷王朝は、殷中期には王権が不安定となり遷都を繰り返した。遺跡としては
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鄭州商城から西北約20キロに位置する。総面積150万平方メートルにもおよぶ大遺跡であり、大規模な版築基壇、青銅器鋳造遺構、人身犠牲坑や動物犠牲坑といった多くの祭祀遺構が発見されている。王権の力を誇示する犠牲祭祀は殷王朝の王権の要である。小双橋遺跡から出土する土器は鄭州商城が衰退した後のものである。近年、小双橋遺跡で、極めて特殊な造りで、精緻な加工が施された青銅製建築用材が出土した。銅と錫の合金で、重さは6キロ、正面は正方形、平面は凹字形をしていた。さらに1点の土器の
(殷後期(BC1320年~BC1023年):
中央ユーラシア文化複合体のうち、戦車として使用される二輪戦車などいくつかのものがBC12世紀より少し前に中国に出現した。それは殷後期第2期(BC1250年~BC1192年)の
殷末期の黄河北岸の首都安陽で発見された王家の墓の埋葬品には多くの二輪戦車とそれを牽くウマが含まれ、馬車戦士と彼らの武器が一緒に発見されることもよくある。それらの二輪戦車には車輪のスポークが多数あり、古代の西アジアにおいて典型的な4本や6本しかないものとは違っていた。それらは同時期のカフカス(コーカサス)のものに極めて類似している。そして、それらはステップ地帯によく見られる北方タイプのナイフとともに見つかることもよくある。その二輪戦車は、車輪付きの乗り物の先駆けとなるものが何もなかった中国の殷王朝に、北あるいは西北方面からもたらされた文化財であることは明らかである。二輪戦車とそれを牽くウマ、そしてその戦車に乗っていたと思われる若者を武器とともに埋葬することは、ウラル山脈南麓のシンタシュタから中央アジアのペトロフカへ、そしてアンドロノヴォ文化へと続く一連の中央ユーラシア文化複合体に独特の特徴で、当時はまだインド・ヨーロッパ語族にしかないものであった。そのような埋葬は殷の遺跡ではよく見られるもので、高貴な貴族の埋葬と関連している。また、最初に書かれた甲骨文字の刻文が同じころに書かれ始めたということにも意味がある。二輪戦車を中国にもたらしたインド・ヨーロッパ系の人びとが物を書くという発想ももたらした可能性は高い。安陽にある殷墟の二輪戦車を伴う埋葬は、BC12世紀ごろから北方の人びととの交流がかなりあったことを示している。当時の二輪戦車戦士で知られているのはすべてインド・ヨーロッパ系の人びとであり、BC3300年以前に分岐した中央アジア南東部のトカラ語派の後から分かれた語派で、アンドロノヴォ文化の人びとであると思われる。黄河の谷の文化に侵入者がかなりの衝撃を与えたことを考えると、彼らは言語の面でも強い影響を与えたはずである。これまでのところ、彼らの言語がどんなものであったかまだ特定されていないが、インド・ヨーロッパ語族の中にまだ知られていない別の語派である可能性は十分にある。
*殷後期の
(殷代における中国南部地域)
湖北省黄波県の
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1954年に発見された湖北省武漢市にある盤龍城遺跡の築造年代はBC15世紀で、殷前期にあたる。城址は南北290メートル、東西260メートルの城壁から成る方形の城郭で、殷前期の鄭州商城に似た構造と版築工法で作建てられている。城郭内部には大型の宮殿遺構が2ヶ所発見されている。城外となる遺跡の周辺では、一般居住民の住居や工房、さらには同じ年代の墓がいくつか発見されている。青銅
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江西省清江県呉城村の殷代遺跡は、1970年代初期に発掘された。出土物にはある程度の独自の特徴も見られたが、大部分の土器は殷文化との密接な関係をうかがわせ、殷文化南遷の1例ともいえる。1989年、清江県のやや南の新干県においても大量の青銅器を伴った殷代の大型墓が発見された。出土した土器は呉城文化2期の同種の土器と一致しており、この墓が呉城文化に属することがわかる。こうしたことは、当地における殷代の青銅文化の発展と殷文化との関係を改めて認識する上で重要である。出土品の中でとりわけ注目されるのが青銅器で、量の多さ、種類の豊かさ、造形の珍しさ、文様の美しさなどは、長江以南の同時代の墓はもとより、全国的に見ても従来では考えも及ばないほどだった。青銅器の中には殷代中期の特徴を持つものもあり、殷墟の同種の青銅器と酷似しているものもあった。この大型墓の年代は殷代後期にあたるBC1200年とされている。墓の規模や出土物の質・量、いずれの点においても殷墟の王墓と比肩できることから、被葬者は殷代の南方諸侯国の統治者、あるいは長江以南を守る殷王朝の軍事的指導者であったと思われる。
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1986年夏、四川省の省都、成都市の北約40キロにあるのどかな田園地帯で、地元のレンガ工場の採土工事の最中に、青銅器や黄金製品、玉器などがぎっしりと詰まった二つの祭祀坑が偶然発見され、世界的な注目を集めた。遺構は龍山文化期のBC2500年ごろから始まるが、遺跡が本格化するのは二里頭併行期(BC2070年~BC1600年)である。殷の時代(BC1600年~BC1023年)には東西1600メートル、南北2000メートルの城壁が構築されている。その城内で二つの祭祀坑が見つかり、総重量1トンを超える多量の青銅器、さらに大量の玉製品、象牙などが発見された。それらの青銅器は特殊で、目が異様に突出した仮面や人物像、あるいは神樹など、殷文化の青銅器とは異なった青銅器文化の存在に注目が集まった。古代四川地方の歴史を記録した東晋時代(紀元後265年~316年)の「華陽国志」には、一人の古代の王について「その目縦なり」と記されているが、まさにそんな伝説をイメージさせるものだった。これらは殷王朝の青銅
三星堆遺跡の総面積は12平方キロに達する。この一帯では1920年代末に大量の玉石器が出土して脚光を浴びたことがあった。その後、1986年になって2つの祭祀坑が発掘され、大量の貴重な文物が出土した。そのうち、青銅器の一番古いものは殷代の典型的な青銅器と、それよりやや新しいものは長江中・下流域と、陝西省南部の殷代晩期の青銅器と、形状や特徴が近似していた。しかし、文様はいずれもいささか特殊であり、蜀の地で独自に鋳造されたことは確実である。要するに、これらの青銅器は蜀の国早期の輝かしい文化を象徴しているのである。2つの祭祀坑は規模は大きくないが、出土品は800点以上と極めて豊富で、しかも大半が稀に見る貴重品ばかりだった。祭祀坑の年代は、1号抗が殷墟前期、2号抗はそれよりやや遅れると考えられる。概ねBC1000年である。両坑出土の逸品としては次のようなものがある。
① 黄金の杖:長さ1.42メートル、直径2.3センチ、重さ780グラム、木製の芯に厚手の金箔を巻きつけたもので、表面には王冠を戴いた人頭、鳥、魚などの精微な装飾図案が線刻されている。この金杖の頂部には青銅製の龍頭が取り付けられていたと考えられる。
② 金箔の仮面をつけた人物像:仮面は高さ9センチ、厚手の金箔を型抜きしたもの。
③ 青銅製大型立人像:高さ2.63メートル、重さ180キロ。頭に高い冠を着け、太い眉に大きな目で、鼻すじは突出している。口元は下向きに曲がり、顎は角張り、巨大な耳がついている。Vネック前あわせの長衣を身に着け、素足で四角い台座の上に立っている。
④ 青銅製神樹:高さ3.84メートル、重さ160キロ。台座、幹、三層の枝、1条の巨大な龍によって構成されている。
これらは地方色の強さと、豊かな想像力が特色である。四川地方は古くから「
中国の歴史はあくまで黄河流域の中原が中心で、他の地域は野蛮な未開地のようにいわれてきた。司馬遷の「史記」もそういう歴史観で書かれている。しかし
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古来、国の大事は祭祀と軍事であるといわれるように、殷王朝では祭儀と軍事によって王権が支えられていた。まさに古代王権の確立した初期国家というにふさわしい段階となっていた。そしてそこには王権が神との交信を記録する文字が生まれ、歴史時代が到来したのである。
北の黄河流域と南の長江流域を比べると、黄河の方は乾燥地帯でアワ・ムギ、長江の方は湿潤地帯でイネという違いがある。どちらも同じくらい古い時代から発展してきたが、最終的に中国を支配したのは北の黄河流域の殷王朝だった。南の長江文明で生まれた要素も、北の殷周が取り入れて、総体として中国文明になっていく。したがって、中国文明とは黄河文明と長江文明の合体だという捉え方ができる。
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