第70話 アーリア人と「リグ・ヴェーダ」「アヴェスター」

<年表>

アーリア人のインドへの侵入(BC1500年ごろ)

 自らをアーリア(高貴な者)と自称するインド・ヨーロッパ語族の遊牧民がパンジャブ地方に侵入するのは、インダス文明が崩壊した300年~400年後、BC1500年ごろである。インドでは、侵入したアーリア人が定住し、四つの階級(ヴァルナ)が生まれ始めた。インドのアーリア人はギリシャ人同様、男尊主義で、戦いの神インドラや火の神アグニなどの男神を崇拝していた。神に捧げる賛歌、すなわち呪力のある言葉をブラフマンと呼び、その宗教をバラモン教(ブラーフマニズム)、祭祀階級をバラモン(ブラフマンの占有者)と呼んだ。アーリア人という名称は本来、インド・ヨーロッパ諸語の中のインド・イラン語派の話し手だけに限定すべきものだ。古インド語、つまり「リグ・ヴェーダ」の言語は、BC1500年以降の間もない時期に銘文となって記録されたが、それはインド北西部ではなく、シリア北部のミタンニに登場した。


「リグ・ヴェーダ」「アヴェスター」の成立(BC1200年ごろ)

 インド最古の文献で、祭儀で唱えられる神々への賛歌集である「リグ・ヴェーダ」はBC1200年ごろ成立している。このことから、「リグ・ヴェーダ」はBC1200年ごろの時点ですでに長くインド・アーリア人支配の下にあったパンジャブ地域での出来事を記録したものと考えられている。その後も数百年をかけて賛歌や散文が加えられていった。神官・司祭階級をバラモン、王侯・貴族や戦士階級をクシャトリア、農民や庶民階級をヴァイシャ、被征服民をシュードラと呼び、現在に至るカースト制度が誕生した。カーストという言葉はポルトガル語起源で、近世になってから呼ばれるようになった。「アヴェスター」の最古の部分であるすなわちガーサー(韻文いんぶん詩集)は古イラン語の最古のテキストで、ザラスシュトラによって創作されたと考えられている。韻文とは一定の韻律と形式を伴った文章のことである。ザラスシュトラの在世年代については諸説あるが、現在、言語学的な推測からBC1700年~BC1000年という700年もの幅がある説が有力とされる。明確にするだけの証拠が見つかっていないからである。


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 BC2100年ごろに初めて出現した二輪戦車(チャリオット)は高速で走ることだけを目的に設計された最初の車輪付き乗り物である。それはウラル山脈南麓のシンタシュタ文化の墓から発見された。二輪戦車の製作は難しく、大工仕事と曲げ木の指物技術の結晶であった。戦士たちが操縦するにも特別に訓練した駿馬のチームが必要となった。操縦しながら投げ槍を投じていたことは、墓からの出土品から推測できる。二輪戦車とウマは急速に普及し、中央アジア南部とイラン高原にBC2100年ごろには導入された。当時、ウマはその地方にはいなかった。二輪戦車を操る戦士たちの英雄的世界は、ホメロスによる「イーリアス」の詩と、インドの「リグ・ヴェーダ」のなかでおぼろげながら記憶されていた。BC2000年からBC1800年の間にウマと二輪戦車は西アジア一帯に出現した。その後、戦闘能力の高い二輪戦車はメソポタミアの都市国家の君主たちも取り入れることになった。


 中央ユーラシアの人びとは世界文明の成立に基本的かつ重要な貢献をした。中央ユーラシア人とその周辺の諸民族との関係を考慮することなしにユーラシアの歴史を理解することは不可能なほどである。中央ユーラシアの遊牧民に対する、好戦的で生まれながらの戦士で、貧しかったというような固定観念は誤解である。遊牧地域では一般的にほとんどの人びとが騎馬と狩猟に熟練しているが、好戦的で生まれながらの戦士ではない。また遊牧民は自給自足的生活ではあるが、食という点では貧しくはなかった。


<二輪戦車の戦士たち(リグ・ヴェーダより)>

 赤い牝馬を二輪戦車に繋げ

  二輪戦車に繋げ、血色のよいのを

 二頭の黄色の駿馬を二輪戦車のながえに繋げ、

  牽きが一番のを轅に付けてひかせるのだ

 そしてこの轟音を立てる赤い軍馬は

  ただ称賛のために付けられたのではあるまい

 汝らを遅れさせるなかれ、おお、マルト神群よ、

  二輪戦車に乗って速く走らせるのだ


 中央ユーラシア文化複合体は4000年近くにわたってユーラシアの広い地域で優勢を誇った。それは歴史言語学の研究を通してしか知ることができない原始インド・ヨーロッパ人という人びとの間で発展したものであった。彼らの故地は、考古学や歴史学の資料はもちろん植物や動物などを表す語にも基づくと、ユーラシア・ステップ西部である。具体的にはウラル山脈南部の、カフカス(コーカサス)と黒海とカスピ海の北の地域で、ポントス・カスピ海ステップと呼ばれる草原と森林の混在した地域であるとされている。彼らの移動には3つの段階があった。第1の波はBC2100年ごろで、最も重要な第2の波はBC17世紀ごろで、このときにインド・ヨーロッパ語の話し手たちがユーラシア・ステップ内においてだけでなく、ヨーロッパ、ギリシャ、西アジア、インド、そして中国に侵入し定住している。移住は組織的なものではなく、大量の人びとの移動というより、個々の部族集団か、おそらくは戦士団から成るものであったであろう。初めは隣国の傭兵として戦っていたにすぎなかったのが、後になってその集団を乗っ取ったのだと思われる。ギリシャの場合は明らかに征服によるものであった。原始インド・ヨーロッパ人たちはほぼ同じ言語を話していた。しかし、新しい土地に落ち着いて、原始インド・ヨーロッパ語とは異なる言語を話す現地の女性を妻として一世代か二世代のうちにそれぞれの土地のクレオール語(混淆語)を発達させた。それが原始インド・ヨーロッパ語の新たな子孫言語となったのである。そして第3の波はBC1000年前後である。BC1000年過ぎまでにユーラシアの多くの地域は原始インド・ヨーロッパの文化と言語の強い影響を受けた。



(アーリア人)


 言語学者は前インド・イラン語とインド・イラン祖語から初期フィン・ウゴル語派(北方のフィンランド語とエストニア語やハンガリー語など)に取り入れられた借用語を突き止めている。南ウラル山脈周辺でステップの住民とその北方の森林地帯の住民との接触があったことを示す考古学的物証は、こうした借用を生じさせた媒体だった。フィン・ウゴル語派が初期インド・イラン祖語から借用した言葉には、主神、蜂蜜、車輪、アーリア人、などが含まれる。インド・イラン祖語のアーリア人の自称は、フィン・ウゴル語派の前サーミ語で南西と南部人を意味する言葉の語源で、原始アーリア人の世界が初期のウラル地域の南にあったことを裏付けている。

 古インド語の最古のテキストは「リグ・ヴェーダ」の2巻から7巻までの「家集」だった。これらの賛歌と祈祷はBC1500年~BC1300年ごろに「巻」つまりマンダラに編纂されたが、その多くはもっと古い時代に創作されていた。「アヴェスター」の最古の部分、すなわちガーサー(韻文詩集)はイラン語の最古のテキストで、おそらくBC1700年~BC1000年ごろにザラスシュトラによって創作されたと思われる。これら二つの言語の親であり、文字に書き記されなかった言語、つまりインド・イラン共通語は、BC1500年よりもずっと以前に遡るものでなければならない。この時代にはすでに古インド語は、シリア北部のミタンニの文献に登場しているからだ。それはおそらくBC2100年~BC1800年のシンタシュタの時代に話されていたと考えられる。古体古インド語は、古体イラン語からBC1800年~BC1600年ごろに分離したと思われる。「リグ・ヴェーダ」と「アヴェスター」は、双方に共通するインド・イラン人としてのアイデンティティ(自己認識)の本質が、人種的なものではなく、言語学的および儀礼的なものである点で一致していた。伝統的な賛歌と詩の正確な形式を用いて、正しい方法で正しい神に犠牲を捧げれば、その人はアーリア人なのだった。正しい言葉で営まれる儀礼はアーリア人であることの核心だった。


 BMAC、つまりマルギアナ・バクトリア文化(BC2000年~BC1800年)との接触が始まった当初、シンタシュタまたはペトロフカの文化、もしくはその双方が、BMAC から一部の語彙と祭祀を取り入れて、それがインド・イラン共通語の55語の用語となった。パン、犂の刃、運河、レンガ、ラクダ、ロバ、祭司、ソーマ、およびインドラを表わす単語などである。薬草のソーマはハマオとしてイランの祭祀に使われ続けた。接触の次の段階では、古インド語の話し手がBMACの集落で暮らしていた時代に大量に非インド・ヨーロッパ語の言葉を借用した。それが追加されて、少なくとも383語になったのである。古インド語はインド・イラン共通語の南の前衛的言語として借用語の源泉に近かったと考えられる。BMACの城塞や都市は、灌漑農業、レンガ、ラクダ、ロバに関連した語彙を生み出すまたとない源泉となる。宗教用語の音韻体系も同じなので、やはり同じ言語を起源とするのだろう。借用されたこれらの南方の信仰は、ペトロフカの文化をシンタシュタと区別していた特徴の一つであった可能性がある。ペトロフカの人びとは、北部ステップからBMACの北端にあるトゥガイへ最初に移住した集団だった。考古学では、言語学的な証拠から示唆されるものとかなり一致するパターンが見られるのである。


 シンタシュタとその西にあるアルカイムで発掘されたさまざまな儀礼関連の遺物と、後に「リグ・ヴェーダ」に描写されたものとの類似は、インド・イラン人の起源を明らかにするものとなった。例えば、「リグ・ヴェーダ」にはクルガンのことが言及されており、柱で支えて屋根を取り付けた墓室、支柱で支えた壁などは、まさしくシンタシュタを含むポントス・カスピ海ステップの木槨墓の描写である。また、「リグ・ヴェーダ」に描写された王の葬儀におけるウマの生贄の際の方法もポントス・カスピ海ステップの木槨墓の内側と上に並べられていた状態と同じである。シンタシュタをそれ以前のステップ文化と分け隔てる家畜の種の選択がなされていたことも、「リグ・ヴェーダ」にやはり類似例が見られる。それはまさしく、シンタシュタの墓でウマやウシ、ヤギ、ヒツジの頭部とひづめの埋蔵物から示唆される会食のようなもので、そこでは何百キロどころか、何千キロ分もの肉が供されただろう。また、「リグ・ヴェーダ」では、ヴァルナ神が壺を逆さまにして雨を降らせたという描写に対して、シンタシュタの墓には生贄となって二列に並べられた動物の間に逆さまにした壺が置かれていた。さらに、「リグ・ヴェーダ」はそうしたすべての出来事において詩を作り、演説することの重要性を雄弁に記している。「犠牲を捧げる集まりで、我らに有力者として名言を語らせたまえ」というのが、いくつかの賛歌で繰り返し付け足される結びの決まり文句となっていた。人前で発表するこうした機会は、インド・イランの儀礼制度と言語に参加者を引き寄せ、宗旨替えさせるうえで重要な役割を果たした。

 シンタシュタで儀礼、政治、戦争行為のそれぞれに一大革新が起きたことは、ユーラシアのステップのその後の文化に長期にわたる影響を及ぼした。これはインド・イラン人のアイデンティティと言語を生み出した坩堝るつぼとして、シンタシュタ文化が最有力候補であることのもう一つの理由だ。ユーラシア・ステップの後期青銅器時代の主要な文化集団であるスルブナヤ(木槨墓)文化とアンドロノヴォ文化は、シンタシュタ文化から発達したものだった。


 北部ステップのアゾフ海に注ぐドン川上流と、ウラル山脈東側のトボル川の間のシンタシュタ文化は、さまざまな細部において「リグ・ヴェーダ」と「アヴェスター」のアーリア人と共通する関係を示していた。BC2100年からBC1800年の間に彼らは二輪戦車を発明し、環濠集落を本拠地とする首長制社会を築き上げ、新種の武器で武装し、目を見張らせるほどの富と気前の良さを披露することを含む、新しい葬送儀式の様式を生みだし、ステップではそれまで想像もしなかったほどの規模で採鉱を始め、金属を生産するようになった。彼らの活動はユーラシア大陸一帯に反響引き起こした。ウラル山脈の東でも、かつてウラル山脈の西で起きたように、北部の森林地帯との境界が消滅し始めた。冶金術とシンタシュタの集落構造の一部の側面が北方のシベリアの森林にも広がった。二輪戦車の技術はウクライナのステップを介して西のヨーロッパ南東部に広がった。こうしてウラルの境界地帯はついに崩れた。牧畜経済はステップを越えて東へと広まった。それとともにシンタシュタ文化の東方の娘文化たちも広がった。後に歴史上にイラン語とヴェーダ語を話すアーリア人として登場することになる子孫たちだ。これらの東方と南方のつながりが最終的に北部ステップのシンタシュタの文化を、西アジアの古くからの先進的な文明と直に接触させることになった。


 原始インド・ヨーロッパ語族はBC3000年ごろから中央アジアを起点として東西に民族移動を開始し、ヨーロッパへ向かう西方系とイラン高原・インド亜大陸に向かう東方系に分かれたとされる。このうち、明確にアーリア人と自称していたのは東方系だけなので、狭義のアーリア人とはこの頃にイラン高原とインド亜大陸に移住したインド・ヨーロッパ語族を指す。アーリア人の概念は、人類学的な形質に基づく種族ではなく、BC2000年紀に言語と原始的な宗教思想を共有した集団にすぎない。インド亜大陸に進出したアーリア人は、BC1500年ごろから先住のドラヴィダ人に代わってガンジス川流域に定住し、自らの住まうインド亜大陸北部を、サンスクリット語でアーリヤーヴァルタ(アーリア人の土地)と名づけた。彼らが上位カーストのヒンドゥー教徒の祖である。一方、イラン高原に進出したアーリア人は先住民族を駆逐して、まずイラン高原東部に進出し、ここをアヴェスター語でアルヤナ・ワエージャフ(アーリア人の土地)と名づけた。その後、イラン高原全域に浸透し、南部のペルシャ地方に定住した一派は、BC6世紀中ごろには西アジア全域を統一してアケメネス朝ペルシャを樹立した。


 イラン高原とは、西南をザグロス山脈に、北をコペトダグ山脈に、東をヒンドゥークシュ山脈とソレイマーン山脈に囲まれた海抜およそ1000メートルの高原地帯である。西隣には文明発祥の地メソポタミア平原があり、北方には中央アジアのオアシス地域とステップ草原が広がり、東隣にはインド亜大陸がある。しかし、イラン高原は大部分が砂漠で、生活環境としては隣接する3地域のいずれと比べても劣っていた。現在、このイラン高原の主要な住民となっているイラン人、すなわちアーリア人は、BC2100年~BC2000年ごろに北部ステップから中央アジア南部へ移動を開始した。それは西アジアにおける金属、とりわけ銅と錫の急激な需要の高まりに刺激されたからと考えられる。

 マルギアナとバクトリアまで南下した原始アーリア人はBC1500年ごろに再び民族移動を始め、東方のインド亜大陸を目指すグループと南西のイラン高原を目指すグループに分かれた。前者は、インダス文明崩壊後も在住していた先住のドラヴィタ人の居住地域に入り込み、インド亜大陸の支配者となった。地味豊かなインド亜大陸に定住したアーリア人は先住民族ドラヴィダ人の宗教を吸収してバラモン教を創案し、後世それをヒンドゥー教へと変化させながら、長くインド亜大陸の文化的規範を創りあげた。

 これに対して、イラン高原を目指したアーリア人は、南西のザグロス山脈地方に居住する文明化したエラム人などに阻まれ、容易に進出できなかった。アーリア系の人びとが歴史資料に初めて現れるのは、ペルシャ人がBC835年、メディア人がBC8世紀である。彼ら自身は文字を持たなかったものの、エラムやメソポタミアの高度な文明に触れる機会に恵まれ、先進文明の記録に残されたためである。メディア人はBC9世紀ごろにはイラン高原の西北地域に、ペルシャ人もイラン高原の西南地域に進出し、それぞれエラム人と接触したようだ。


 BC15世紀からBC9世紀に到る原始アーリア人がどのような宗教を信仰していたのか、確かなことはわからないが、イラン高原のアーリア人が残した聖典「アヴェスター」と、インド亜大陸のアーリア人が残した賛歌「リグ・ヴェーダ」を比較することで推測することはできる。原始アーリア人社会は神官・司祭階級、王侯・貴族や戦士階級、農民や庶民階級の3階級で構成され、厳格な階級区別があった。それぞれ次のように呼ばれた。


・イラン高原のアヴェスター語では、アースラワン、ラサエーシュタル、ワーストリヤ・フシュヤント

・インド亜大陸のサンスクリット語では、ブラフマン、クシャトリア、ヴァイシャ


 この中で最上位の神官・司祭階級は、特定の神格にマントラ(賛歌や呪文)を唱えて犠牲を捧げることによって、その神格から応分の果報を得る能力を持っていた。まず神官は依頼主から渡された犠牲獣、通常はウシをほふって神に捧げる。次にハマオ(薬草のソーマ)という一種の幻覚剤を調整して服用し神託を得る。最後に神託を依頼主に告げ、犠牲獣の大部分を司祭の取り分として祭式を終える。依頼主はこれによって神々への祈願が終わったものとして満足する。

 神官階級が祈りを捧げるべき神格は多岐にわたるが、大別すれば、倫理的機能を司るアフラ神群(ミスラ、ヴァルナ、アルヤマンなど)と、自然的機能を司るダエーヴァ神群(インドラ、ナーサティヤなど)に二分することができる。後に原始アーリア人がイラン高原とインド亜大陸に分かれると、どちらの神群を重視するかがはっきりと分かれた。イラン高原のアーリア人はアフラ神群を重視し、善と悪を峻別した。一方、ダエーヴァ神群は、本来はアフラ神群と対立するような存在ではない神々だったが、一転して悪魔の地位にまでおとしめられた。ゾロアスター教の善悪二元論の教えも起源を遡ればこの選択の結果である。これに対し、インド亜大陸のアーリア人はダエーヴァ神群を尊んだものの、アフラ神群を排斥したわけではなかった。その結果、ヴェーダの宗教から、バラモン教、ヒンドゥー教へと多神教的な発展を遂げていくことになる。

 また、原始アーリア人の火に対する思い入れには格別のものがあったようで、ステップの牧畜時代から火種を維持して活用することが生活の中心になっていたからだと考えられている。この火を宗教的にどう活用するかについては、イラン、インドのアーリア人のアーリア人の間で異なる習慣を持っていたようだ。インドの神官たちは、多くのヴェーダ祭式で火を拝むものの、火の神アグニは天上の神々に供物を運ぶ装置であって、礼拝の対象ではない。これに対して、イランの神官たちは、火を聖なるものとしてそれ自体に祈りを捧げた。この点では、イランのアーリア人たちは早くも後の拝火教への志向を示していたと思われる。この頃のイランのアーリア人の具体的な状況をうかがえる文献は、儀式用の朗唱歌である「アヴェスター」以外は少ない。



(インド・アーリア人とリグ・ヴェーダ)


「アーリア人」という言葉は「インド・ヨーロッパ語族」と同じ言語学上の用語だが、アーリア人という名称は本来、インド・ヨーロッパ諸語の中のインド・イラン語派の話し手だけに限定すべきものである。中央アジアのマルギアナ・バクトリア地方にいたそのアーリア人のある部族がイラン高原へ向けて移動を開始したBC18世紀中ごろ、別のアーリア人の部族もインダス川流域に移動を開始した。この時のアーリア人はまだ少数で、インダス文明時代からの土着の民族を絶滅させることはなかったようで、先住のインダス文明の人びとは自分たちの文化や宗教を守りながら、同じ土地で暮らし続けていたことは確かなようだ。それから数百年後のBC1500年ごろ、民族移動の波はインダス川流域からパンジャブ地方全域に拡がった。この頃には、特徴的な銅器を持った文化、埋蔵銅器文化がインダス川流域以東に広く展開する。


[埋蔵銅器文化]

 インダス文明衰退後、300年~400年ほどしてから北インド西半部に展開した文化。銅器が一括して埋納されていることからこの名称で呼ばれるが、この文化の生活様式は不明である。人形斧や平斧、柄の部分が二股に分かれた剣、返しの付いた銛など独特の形状を特徴とする。実用に適さない大きさや重さ、また使用された痕跡がないことから儀式用と考えられている。近年、土器や石器、腕輪、貴石のビーズなど生活用品を伴う集落が発見され、徐々にその実体が明らかになりつつある。


 さらに、民族移動の波はBC9世紀にはガンジス川の上流にまで到達した。考古学的には、インダス文明の様式と後から来たアーリアの新しい文化様式が融合した証拠は数多く見出されている。これはインドがかなり早い時期から別の文化を同化し、自らの社会に取り込んでいく力を持っていたことを示すよい例といえる。当初、半農半牧の生活を送っていたアーリア人は、その後ゆっくりと遊牧民の習慣を捨てて農耕生活へと移行していった。ガンジス川流域にまで拡がったアーリア人の移動がおさまったのは、鉄器がインドに普及し始めたBC800年ごろのことだった。おそらく鉄製の道具が農業の進歩をもたらし、定住生活を可能にしたと思われる。こうしてインド北部の平原にアーリア人社会が定着すると、彼らは文化面でインドの歴史に二つの決定的な貢献を果たすことになる。それは宗教と社会制度における貢献だった。


 アーリア人はその後のインド文明の中核となる宗教の基礎を築くことになる。彼らの宗教は生贄いけにえの儀式を中心としたもので、その儀式は神々が時の始めに成し遂げた創造のわざを永遠に繰り返していくという性格のものだった。なかでも火を司るアグニ神があがめられたのは、この火の神が生贄を燃やす火を用いて、人と神を仲介してくれると信じられていたからだった。このような儀式を司る司祭(バラモン)たちには、重要な地位が与えられた。神々の中で最も重んじられたのはヴァルナとインドラで、ヴァルナは自然界の秩序を守り、正義を体現する律法神、インドラは戦いの神であり、その一方で毎年水をせき止める龍を殺して、モンスーンの到来とともに天空の水を人間界に放出する役割を持っている。この二つの神については、バラモン教のヴェーダ(聖典)の中でも中心的な存在である「リグ・ヴェーダ」に詳しく書かれている。「リグ・ヴェーダ」をはじめとするヴェーダ(聖典)は、インド・アーリア人の足跡を知るうえで最大の史料となっている。「リグ・ヴェーダ」が垣間見せてくれる世界には、ギリシャのホメロスの世界に似た部分、青銅器時代の戦闘的な民族の世界がある。


「リグ・ヴェーダ」では、雲は乳がたっぷりと出るまだらの牝牛に例えられた。乳とバターは繁栄の象徴だった。乳、バター、ウシ、それにウマは、神々に捧げるのにふさわしい供物だった。インドラは力強い牡牛に例えられた。そして富は肥えたウシと駿馬の数で勘定された。農作物が神々に捧げられることはなかった。「リグ・ヴェーダ」の民は日乾レンガの家には住まず、都市も築かなかったが、彼らの敵である「ダーサ」の方は、城壁に囲まれた城塞に暮らしていた。二輪戦車は戦車レースと戦争に使われた。神々は二輪戦車で天空を駆け巡った。重要な神はほぼすべて男神だった。唯一の重要な女神はウシャス(暁)だったが、この女神はインドラ、ヴァルナ、ミトラ、アグニに比べて力が劣る。葬制は火葬と土葬の双方があった。こうした信仰や慣習は細部までいずれもステップ文化を起源とするものと考えられるが、一方、ひだ飾り付きのスカートをはいた女神や、レンガ造りの城塞、灌漑農業などを伴うBMAC文化は明らかにそうではない。


 バラモン教最古の聖典「リグ・ヴェーダ」では、戦いの神インドラが不純な敵ダーサのもとにウマの牽く戦車で乗り付け、彼らの砦プルを破壊して自らの民アリヤ、すなわちアーリア人のために土地と水を確保する。「リグ・ヴェーダ」はBC1200年ごろに古サンスクリット語で編纂されたが、その前の500年ほどは口承で伝えられた。BC8世紀に盲目のギリシャ人の詩人ホメロスによって語られた古代ギリシャの「イーリアス」と「オデュッセイア」も同じように口承だった。「リグ・ヴェーダ」は過去を覗く比類のない窓で、インド・ヨーロッパ語が共通の源から拡散したころのインド・ヨーロッパ文化がどのようなものだったかを垣間見せてくれる。しかし、そのようなことが本当に起こったのだろうか?「ダーサ」や「アリヤ(アーリア人)」とは何者で、砦はどこにあったのだろうか?

 1920年代~1930年代、考古学者によってそうした疑問に答えるため盛んに古代遺跡の発掘調査が行われた。ハラッパーやモヘンジョ・ダロをはじめ、パンジャブ州やシンド州の他の場所でも、壁を巡らしたBC2500年~BC1800年の都市の跡が発見された。インダス文明の都市は周囲を壁に囲まれ、碁盤の目のように街路が走っていた。周囲の沖積平野の農地からとれた穀物を蓄えるための広大な倉庫を備え、粘土・金・銅・貝殻・木材を加工する熟練した職人がいた。交易や商業活動も盛んで、石のおもりや物差しが残っており、アフガニスタンやアラビア半島、メソポタミア、アフリカといった遠方との交易も行われていたようだ。インダス川流域に点在するそうした都市や大小の町や村の中には何万人もの人びとが住んでいたところもあった。ひょっとすると、それらが「リグ・ヴェーダ」の砦、つまりプルだったのだろうか?

「リグ・ヴェーダ」には自然を支配し、社会を統制する神々が登場し、イラン・ギリシャ・スカンディナヴィアなどインド・ヨーロッパ語を話すユーラシアの他の地域の神話と明らかな類似が見られる。これらもユーラシアの広大な地域にまたがる文化的なつながりのさらなる証拠といえる。「リグ・ヴェーダ」では、侵略者は戦闘用のスポークのある二輪馬車に乗っていた、それは二輪戦車である。考古学的証拠によると、インダス文明はウマの使用が始まる前の社会だった。遺跡にはウマの存在を示すはっきりした証拠がなく、スポークのある車輪のついた乗り物の遺物もないが、家畜に引かれた車輪付きのカート(二輪荷車)を模した粘土象がある。戦闘用のスポークのある二輪戦車は青銅器時代のユーラシアの大量破壊兵器だった。インド・アーリア人が新しい軍事技術で古いインダス文明に終焉をもたらしたのだろうかという、アーリア人侵入破壊説は今では完全に否定されている。その主な理由は、インダス文明衰退の年代はBC1900年ごろであり、アーリア人の侵入はBC1500年ごろで、大きな年代の相違があるからである。

「リグ・ヴェーダ」はおそらくアーリア人固有の文化ではなく、インドに定住することで形成されていったインド・アーリア人の文化を反映したものなのであろう。それまで口承で伝えられてきた物語を文字によって記録したという意味では、古代ギリシャのホメロスの叙事詩と同じような性格を持っている。しかし「リグ・ヴェーダ」がホメロスの作品と違うのは、歴史的文献として扱う時に、厳格な考証の必要がないと言う点である。なぜなら「リグ・ヴェーダ」に収録された賛歌は、その聖なる性格上、一言一句、アクセントに到るまで間違えることのないよう正確に記憶され、伝えられたものだったからだ。紀元後14世紀になってから書きとめられたといわれるが、それまでほとんど原形のまま伝えられていたと思われる。ドイツ人フリードリッヒ・マックス・ミュラーは1849年から1874年にかけて写本を基に、14世紀のサーヤナ注を含めて出版した。


 後藤敏文(東北大学教授)によると、インドの地に入ったアーリア人が最初に編集した賛歌集「リグ・ヴェーダ」は、複数の祭官(神官・司祭)の家系が護持していた1017賛歌、1万以上の詩節が一定の編集方針の下に収録されて今日に伝わる。詩人たちが理法の認識に基づいて「見た」詩句には、真実・事実にかなった言葉が持つ実現力が籠っている。そのような言葉がブラフマン(呪力のある言葉)の原義である。宇宙秩序、真理、理法に当る概念は「はまっている、合っている」を意味する過去分詞「リタ」で表され、「天理」と訳される。過去・現在などの時を持たない動詞形が多用される「リグ・ヴェーダ」は、出来事を報告する物語ではなく、知っているはずの宇宙秩序、真理や共通体験に言及する歴史を超えた文学という性格を持つ。賛歌の原型はインド・イラン共通時代に遡る。山岳地帯やステップにおける遊牧・略奪中心の生活が反映される所以ゆえんである。現存する賛歌はインダス川上流域で最終的な形を得たもので、当時の詩人が往時の詩を擬したものを中心にして、独自に作った賛歌や詩行・詩句を交えている。賛歌の各詩節を「リチ」と呼び、神々への賛歌を集めた聖典の意味で、「リグ・ヴェーダ」と名付けられた。「リグ」は「リチ」の有声音が後続するときの形である。

「リグ・ヴェーダ」を伝承したのは祭官職、ホートリ(ホータル)の家系で、ホートリは祭火に(バターなどを)注ぎ献ずる人を意味し、イランのザオタル(祭官・司祭)に当る。ザラスシュトラ(ゾロアスター)はザオタルであった。祭式には、穀物や犠牲獣、ソーマが用いられる。ソーマは「絞り出す」を意味する動詞の派生語で、興奮作用を持つ植物、おそらく麻黄まおうの絞り汁を意味し、ゾロアスター教のハマオに対応する。詩人はカヴィ(見者)、リシ(興奮に荒ぶれる者)、ヴィップラ(うち震える者)などと呼ばれ、精神の昂揚を得るためにソーマが用いられたことを示唆する。ソーマが戦闘や略奪のときに興奮剤として使用されたことは、インドラ賛歌などから知られる。インド・イラン共通時代にソーマを知るようになる前は、蜜酒がその役目を果たしていた。ソーマ祭では賛歌に節をつけてサーマン(詠歌)が歌われる。祭官たちは、天理(リタ)を認識し、それに基づく言葉の力によって自然界・人間界を操作する役割を負っていた。神々に対しては配慮にすがる願望形ではなく、意志や命令を表わす動詞形を用いるのが原則である。頭にある「思考」によって組み立てられ、心臓にある「意志の力」によって、発語器官を通じて発せられる天理にかなった言葉は、実現力を持ち、天理の支配下にある神々もこれに従う。賛歌は儀礼祭式用の武器であった。


 部族は王と祭官とに導かれていた。王は元来選ばれるとされるが、血筋が尊ばれ世襲化していく。祭官たちも特別な家系に属していた。両指導者層はもともと必ずしも固定されていなかったと思われる。アーリア人の諸部族は、ウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジの群れを伴い、部族の火を携えて移動する父権的遊牧民であった。毎年、一定期間定住してオオムギを栽培したらしい。コムギ、綿、コメは「リグ・ヴェーダ」には知られていない。移動期をヨーガ、定住期をクシューマと呼ぶ。文明の利器は最小限のものであった。御者と戦士各1名が乗り、偶数のウマに牽かれる戦争用の二輪戦車は特に重んじられたが、二輪戦車職人はアーリアに属さない。騎馬は文献にはほとんど現れない。織物は女たちの領域に属する。精神の諸活動は好んで二輪戦車と織物の部材や技術にたとえられ、両者が技術の粋であったことを物語る。土器の技術はあったが、実生活には異民族の作った優れた製品が用いられたらしい。「リグ・ヴェーダ」には部族間や異民族との闘争が色濃く投影されている。子孫と家畜の増大が生命線であった。若い男子を遠征させたり、他の土地へ放って植民を進めた。「ウシ探し」と称する略奪行は、乾季の河川を利用する一種の経済活動であったと思われる。


「ヴェーダ」はバラモン教聖典の総称で、物を実現する知識に由来すると考えられる。マントラ(賛歌や呪文)とブラフマナ(祭儀書)から成り、その中の一つである「リグ・ヴェーダ」は、インド最古の文献であり、その一部にゾロアスター教の根本教典である「アヴェスター」と共通した内容を持つ。インドラ(軍神、帝釈天)・ヴァルナ(律法神)・アグニ(火神)・ヴァーユ(風神)・アーディティヤ(太陽神)・ルドラ(暴風神、後のシヴァ神)・ブラフマー(創造神、梵天)・ヴィシュヌ(太陽神)・ヤマ(死界の王、閻魔)・サラスヴァティー(河神、弁財天)など33の神々が崇拝されている。「リグ・ヴェーダ」はアグニ(火神)から生まれたとされる。この後、祭場で歌われる歌詠中心のアーディティヤ(太陽神)から生まれた「サーマ・ヴェーダ」、主に供物を奉げるときに唱えられる祭詞中心のヴァーユ(風神)から生まれた「ヤジュル・ヴェーダ」、呪文など集めた呪語中心の「アタルヴァ・ヴェーダ」がまとめられ、さらにそのそれぞれに、ブラフマナ(祭儀書)、ウパニシャッド(哲学書)、シュラウタ・スートラ(大規模祭式綱要書)、グリヒヤ・スートラ(家庭祭式綱要書)などの文献が付随する。BC600年ごろまでにはバラモン教の根本聖典とされる四大ヴェーダが成立した。


 神々の背景にはおおよそ2群が想定される。一つ目の「デーヴァ」は天、すなわち輝く天空の覆いを意味するディヤウから作られた形容詞「天に属する」に由来する。インド・ヨーロッパ祖語の時代に「天に住む」と考えられていた昔からの神々の系統を引き、自然界の諸現象(太陽の諸相、暴風、雨、大地など)や英雄神、機能神を包摂する。アグニ(火神)・ヴァーユ(風神)もこれに属する。宗教の根本は祭火と太陽光に基づく「拝火教」にある。水は女性複数形で表され、永遠に循環する生命を持つ女たちであった。

 もう一つの「インドラ」は最も好まれ、多くの英雄的行為が彼に帰せられる。「リグ・ヴェーダ」の約4分の1がインドラ賛歌である。インドラの武器はヴァジュラで、原始的なものから、インド・イランに共通する金属製の諸様式に到るまで、多様な種類の「こん棒」である。

 インドでは昔からの「デーヴァ」たちが好まれ、新しい制度神は畏れられた。例えば、アスラたちは散文文献の時代になると異民族を守護する「神ならざる神、悪魔、魔神」の類を意味し、仏教文献の阿修羅あしゅらへと連なる。アスラ、イラン語のアフラは「主、首長」を意味し、元は王権の神格化であるヴァルナの呼称であった。イラン側では逆に「デーヴァ(ダエーヴァ)」が退けられ、アフラはゾロアスター教の唯一神アフラ・マズダ(善なる神、叡智の主)の中に受け継がれた。



(原始アーリア人とゾロアスター教の教祖ザラスシュトラ、そして「アヴェスター」)


 ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラは歴史上実在し、神の教えを説いた人物と考えられている。しかし、その実像はかなり早い時期に闇の中に没し、超人的な思想家として理想化された姿だけが後世に語り継がれた。ルネッサンス以降の近世ヨーロッパの知識人たちは、キリスト教に代わる何者かを語るとき、イエス・キリストに対抗できる権威としてモーセやムハンマドを選ぶことはなかった。ヨーロッパの東方に途方もない賢者がいるとの幻想を満たしてくれる存在はザラスシュトラをおいて他になく、彼らは絶えずザラスシュトラを引き合いに出して自らの異端思想を権威づけた。19世紀末、フリードリッヒ・ニーチェは自著「ツァラトゥストラかく語りき」の中で、反キリスト教の代名詞として、神の死、超人、永劫回帰の神秘を説くツァラトゥストラ(ザラスシュトラのドイツ語発音)を登場させた。

「歴史家は偏見とナショナリズムに原材料を提供する運命にある」とエリック・ホブズボームは述べている。19世紀にアーリア人幻想が始まった時には、その幻想を抑制するための物証はどこにも残っておらず、考古学的発見もなかった。それを政治的に利用したのがナチスドイツだった。しかし、今日ではインド・ヨーロッパ語を話すアーリア人の物語は膨大な考古学的事実と言語学的な再構築を用いて語られなければならない。


 青木健(静岡文化芸術大学教授)によると、ゾロアスター教の教祖ザラスシュトラ・スピターマ(白色家の老いたラクダの持主の意)の在世年代については、諸説あるが、現在、アヴェスター語の発展という言語学的な推測からBC1700年~BC1000年という700年もの幅がある説が有力とされる。明確にするだけの証拠が見つかっていないからである。

 ザラスシュトラはハエーチャスパ族に属していたが、彼の故地には諸説ある。「アヴェスター」に出てくる16の地名のほとんどはイラン高原東部から中央アジアのものばかりである。例外は「ラガー」で、現在のイランの首都テヘランの南に位置する「ライイ」と言われてきたが、近年の研究で、それは現在のタジキスタン東部ゴルノ・バダフシャン自治州にある同名の町「ライイ」であリ、しかも16の地名は順次アーリア人が進出した地名を列挙したものであるということが有力となった。そうであれば、16の地名は中央アジアからイラン高原東部を経て、現在のアフガニスタンからパキスタン北部パンジャブ地方に及ぶ地域に特定される。そして、その中心はタジキスタン東部のパミール高原となる。そこが現在のところザラスシュトラの故地の最有力候補となっている。パミール高原が故地であれば、ザラスシュトラ自身はイラン高原に足を踏み入れたことはなく、彼は古代中央アジアの原始アーリア人の神官というべきだろう。彼の属した社会は、原始アーリア人の伝統そのままに畜牛を主な生業とする牧畜社会で、神官・司祭階級、王侯・貴族や戦士階級、農民や庶民階級の枠組みが守られ、原始アーリア人の宗教がそのまま信じられていた。神官は賛歌や呪文を憶え、神々に祈りを捧げ、ウシをほふって犠牲祭を執行することで部族社会に貢献した。ザラスシュトラのスピターマ家もこの神官階級の家柄である。


 ザラスシュトラの実像については、19世紀以来議論百出して未だに有力な結論が出ていない。ガーサー(韻文詩集)など余りにも少ない資料に依拠して、余りにも多くのことを語ろうとするためだ。紀元後9~10世紀に編集されたササン朝ペルシャ時代のパフラヴィー語文献、実際には伝説にすぎない可能性はあるが、それでも当時のゾロアスター教徒たちが想定していた教祖像を見ることができる。

それによると、ザラスシュトラは、父ポルシュ・アスパ(灰色のウマの持主)、母ドゥグダーウ(乳搾りの女)の息子として生まれ、15歳で成人式を挙げ、聖なるひもクスティーを身にまとって原始アーリア人の神官としての教育を受けた。クスティーは古代アーリア民族が腰に巻いた紐で、後にゾロアスター教徒の象徴となった。20歳のときに、彼は原始アーリア人の宗教に反旗を翻し、放浪の旅に出たようだ。30歳に達した年に放浪先のワンフウィー・ダーティヤー川(場所は不明)のほとりで、ついに大天使ウォフ・マナフに召されて、初めて「善なる神アフラ・マズダ」に出会った。これがザラスシュトラ開教の大いなるときと見なされている。これを契機に、彼は原始アーリア人の宗教を改革し、アフラ・マズダの善なる教えを述べ始めた。この教えを広げるために彼が詠んだ韻文詩を「ガーサー」といい、ササン朝ペルシャ時代(紀元後224年~651年)に編集された「アヴェスター」の中核部分となって伝わっている。彼の初期の宣教は苦難の連続だった。30代のころ、ザラスシュトラは二人の妻との間に3男3女をもうけたものの、原始アーリア人の宗教を信奉していた神官たちから執拗な妨害に遭い信者を獲得できなかった。10年間にわたる悪戦苦闘の末、40歳にして最初に弟子となったのは、従兄弟いとこのマドヨーイモーンハだった。続いて、近隣で教えを説いていた「スィースターンの賢者」ことサエーナーが、100人の弟子を率いてザラスシュトラの下に参じたとされる。これが弾みとなってザラスシュトラの原始教団が発展していった。そしてザラスシュトラが42歳のときに、ナオタラ族の君主カウィ・ウィーシュタースパとの運命的な邂逅かいこうがあった。この後、その宮廷の有力者兄弟と結束し、兄の娘を第3夫人に迎い入れ、その代わりに弟のジャーマースパにザラスシュトラの三女ポルチスターを嫁がせるという政略結婚を実行してナオタラ族内の支持基盤を万全のものとした。このころから教団の勢力は拡大の一途をたどった。ザラスシュトラの最後については、「アヴェスター」に伝承が欠けている。ザラスシュトラは死去の前に、教団組織の整備に尽力したとされる。教団の後継者には、三女ポルチスターの婿でナオタラ族のウィーシュタースパ王国の宰相となっていたジャーマースパを指名した。


 ザラスシュトラは伝統的な古代アーリア人の宗教の呪文の他に、自ら韻文の呪文「ガーサー」を詠んだ。教団儀礼「ヤスナ」の中では、このガーサーこそ最も霊力が高く、一連の儀式の中心で朗誦されるべき聖呪とされた。ザラスシュトラは新たに「善なる神(叡智の主)アフラ・マズダ」という神格を創案したが、必ずしもセム的一神教のように唯一神の存在を主張していたわけではなく、単数形の「アフラ・マズダ」の他に、複数形の「マズダと他のアフラたち」などという表現も見受けられる。本来、混沌とした世界に秩序をもたらすための呪文である「ガーサー」に、これ以上のまとまった思想体系を求めること自体に無理がある。

「ガーサー」は後のゾロアスター教思想の出発点になったとはいえ、ゾロアスター教思想の完成形ではない。「ガーサー」以降に蓄積された口承伝承は、ある段階で一定の意図をもって編集された。その時期はおそらくBC500年ごろと考えられている。この時期の無名神官たちの編集作業によって、ザラスシュトラの口承伝承は「世界の始原から終末へ向かう」一貫したストーリーとして成立した。


 以下のゾロアスター教思想の完成者としては、ザラスシュト自身よりも、この無名神官たちの方がふさわしい。


 ザラスシュトラは原始アーリア人の宗教の神格の中から、アフラ・マズダだけが崇拝に値すると主張した。「アフラ・マズダ」とは、アフラ神群の中から考案された神で、「アフラ=主」と、「マズダ=叡智」の2語によって指し示される。ザラスシュトラ以前に「アフラ・マズダ」という神格が存在した実例はない。またこの「アフラ・マズダ」はインド側に対応する神格を見出せない。最初期のゾロアスター教徒たちは自らの教えを「ザラスシュトラのマズダ崇拝教」と称している。ということは、その当時、ザラスシュトラ以外のマズダ崇拝教もあったということになり、マズダ崇拝はザラスシュトラ以前にも広範に普及していた可能性が高い。

 では、「アフラ・マズダ」とはいかなる神なのか? ザラスシュトラの思考世界の中では、宇宙は「生命」と「非生命」に分かたれ、そこに一定の秩序をもたらしたのが「アフラ・マズダ」である。しかし、「アフラ・マズダ」が統御したはずの宇宙であるが、「生命」と「非生命」の混沌は、「アフラ・マズダ」の支配下でも結局は、霊的な存在(マンユ)としての有益な霊的存在(スペンタ・マンユ)と悪なる霊的存在(アンラ・マンユ)の双子兄弟の闘争の形をとって継続した。この世界に天則(アシャ)を当てはめようとする「アフラ・マズダ」の努力はなかなか実を結ばない。ゾロアスター思想の最初期段階では、「アンラ・マンユ」と戦うのは、あくまで「スペンタ・マンユ」の役割であって、「アフラ・マズダ」本人は高次元で傍観しているだけである。これだと有難みが薄かったのか、紀元後9~10世紀に編纂されたササン朝ペルシャ時代(紀元後224年~651年)のパフラヴィー語文献の中では、「アフラ・マズダ」は「アンラ・マンユ」と直接対峙する設定に変更されている。この最後のゾロアスター教神学をもって、ゾロアスター教はしばしば二元論と通称されるものの、本来の「アフラ・マズダ」は混沌とした宇宙を秩序化しようと四苦八苦していた存在である。

 ザラスシュトラが倫理的徳目を前面に押し出して原始アーリア人の神々を再編した結果、アフラ神群は神や天使の座に留まって善なる神々のパンテオンを構成した。その代わり、ダエーヴァ神群は神々の座から滑り落ちて、宗教史的に新しい概念である「悪魔」と見なされるようになった。それまで普通にダエーヴァ神群とそれらの神格に仕えていた神官にとっては、自分たちの神は一転して「悪魔」の枠に押し込められてしまったことは、非常に不本意だったと思われる。しかし、彼らの犠牲の上に立って、善なる神々に対決する悪魔たちの二元論的概念を確立した点は、ザラスシュトラによる人類の宗教史上での大きな貢献であった。それは善悪の間での人間の自由意志を問う宗教に変貌していったことになる。また、ザラスシュトラによれば、世界は虚無ではなく、最終目的を持って終末に向かっているのである。この発想も、ザラスシュトラによる人類の宗教史に対する大きな貢献とされる。


 ザラスシュトラの説くところに従えば、世界の始原は善と悪の闘争であり、個人の始原は善と悪の選択である。そして個人の生命は、善である生命が悪である死に敗れる形でいったん終末を迎える。地上における肉体が滅んだ後、死者の霊魂は「チントワ(選別)の橋」を伝って冥界に赴く。この際、生前の善行が悪行を上回った場合、チントワの橋は広々として霊魂に天国、すなわちガロード・マーナ(歌謡の家)への道を保証する。しかし、生前の悪行が善行を上回った場合、チントワの橋は段々狭くなり、ついに霊魂は地獄、すなわち虚偽の家へと転落する。このように現世での個人の善悪選択の自己責任に対応して来世における因果応報を唱えた点もザラスシュトラの独創とされる。

 個人の運命に始原と終末があるならば、世界の運命にも始原と終末がなくてはならない。ザラスシュトラによれば、世界は一回性のものであり、果てしない時間の流れの果てに、いつか始原に始まった善と悪との闘争に決着がつくはずである。それはこの世に救世主が到来し、悪を完全に封印して善に完全無欠の勝利をもたらすことで果たされる。その救世主とは未来において生まれるであろう彼の分身である息子たちである。これが、個人の死に際していったん下された因果応報が宇宙的規模で達成されるフラショークルティ(復活と最後の審判)である。このときすべての悪が撲滅され、地上には善人たちが甦って至福の王国が成就する。このように善と悪の闘争をベースにして世界の始原と終末を見通して、一回性の時間と宇宙の終焉を予言し、幻視の中で来たるべき世界を見通した点も、ザラスシュトラの大きな功績である。BC17世紀~BC10世紀の時点で、ここまで革新的な思想を唱えたザラスシュトラは人類の宗教史上の偉業である。


 原始アーリアの世界では、神々に祈りを捧げる祭、犠牲獣が必要であった。しかし、ザラスシュトラはこれに異を唱え、「アフラ・マズダ」は血なまぐさい犠牲獣なしでも「善の側に立つものたち」の願いを聞き入れてくれるものとした。これに加えて、強烈な酩酊作用をもたらすハオマ草の絞り汁の服用も禁止し、神託には自分が詠んだ「ガーサー」を復唱するだけで十分とした。このようにザラスシュトラは原始アーリアの祭式を簡素化したはずである。しかし、彼の精神は本人の死後、後継者たちによって裏切られたようで、原始アーリア人の宗教の巻き返しがあった。原始教団を維持し宣教するためには、周囲の環境への妥協が欠かせなかったのかもしれない。妥協の結果完成した原始教団の中核となる祭式は「ヤスナ(犠牲)祭式」と名づけられた。この祭式は、一対の主神官と副神官が教祖の残した「ガーサー」や「7章ヤスナ」その他の韻文の呪文を唱えながら、聖火の前でハマオの溶液を調整して、アフラ・マズダに捧げるのが目的である。さらに教祖没後に公式に復権した神々は17神格にのぼる。このため復権した神々への賛歌として新たに21編の「ヤシュト聖呪文」が詠まれ、折に触れて朗唱された。当時アーリア人の間で人気の高かったミスラ神や風の神ヴァーユをこの方法で懐柔できたことは原始教団にとって大きな成果だった。但し、原始教団はこれら17神格をアフラ・マズダと6大天使(不死の聖霊)の下位グループの神格「ヤザタ」と位置付けることで、ザラスシュトラが残した教えの根幹を破壊しないようにした。

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